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2020年07月 アーカイブ

2020年07月19日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2020年7月》

『人間の経済』 宇沢弘文著 
  新潮社 2017年刊

  水俣病の記憶
 経済学が始まって以来、自然環境を扱うことはタブーとされてきました。もともと自然環境は天から与えられたもので、人間がつくったものではありません。人間は森から木を伐り出し、海や川から魚介を獲り、それによって経済的な生活を営むことができますが、森、川、海など自然の価値は、そこからどれだけ経済的メリットを受けることができるか、という一つの要素に過ぎなかったのです。
(略)かつて水俣の海は、魚が湧き出す、といわれるほどすぐれた漁場でした。風光明媚な自然につつまれ、訪れる人々の心をなぐさめる景勝地でもあった。その素晴らしい自然のなかで人々は漁業という生業に従事し、経済的にもたいへん豊かな、人間的にも文化的にもすぐれた平和な生活を営んでいました。それがチッソという一企業の行為によって、美しい水俣湾は完全に破壊され、わかっているだけで数万人が水俣病に苦しみ、その地で漁業をつづけることさえ困難になった。チッソは長いあいだ、営業の名のもとに水俣湾を自由気ままに汚染する犯罪行為をおこなったのです。
 水俣の公害問題は、自然環境というのは所有権がはっきりしていないのだから、企業がどれだけ利用してもかまわない、という考え方が引きおこしたものです。しかし、水俣湾という自然は、決して自由財あるいは公共財ではありません。有史以来、地元の人々にとって共通の財産として大切にあつかわれ、海を汚すことはきびしく禁止されていた。そこで魚を獲って生計を立てる人たちは、海を神聖なものとして尊崇してきたのです。つまり、社会的共通資本としての水俣湾をチッソは勝手に使い、徹底的に汚染し、破壊しつくした。それによって数多くの人々が脳神経の中枢を冒され、言語に絶する苦しみを味わってきました。
(略)水俣病をはじめとして全国の公害問題にかかわるなかで、私はそれまで専門としてきた近代経済学の理論的枠組みの矛盾、倫理的欠陥をつよく感じざるを得ませんでした。そして数多くの公害の人間的被害の実態を分析していく過程で、その原因を解明し、根源的解決の道をさぐることができるような理論的枠組みとして到達したのが、社会的共通資本という考え方だったのです。
 所有関係には私有のものもあれば、公有もあり、国有もあります。それはマルクス経済学にも近代経済学にも共通していますし、私自身、かつては経済学者の通例として、すべて所有関係でものを考えてきました。しかし、それだけでは森林や海のような自然環境をうまく、持続的に管理していくのは不可能です。日本でも、明治の近代化の過程で急速に壊されてしまった入会制度のように、皆で相談して大切に使い、次の世代に伝えていく、つまりコモンズの精神を取りもどす必要があると思うのです。(「六 天与の自然、人為の経済」より)

  私と農村の思い出
 私は、成田の空港反対同盟の三人から届けられた一通の長い手紙を手にしました。そこには、反対同盟の若い人たちが直面しているさまざまな問題と困難がつづられており、成田問題に対して社会正義にかなった解決策を見いだすために、私に協力してほしいというのでした。
 そして数日後、後藤田正晴さんからもほとんど同じような要請を受けたのです。そのときの後藤田さんの言葉は、強烈なものでした。
「自民党の幹部の中に『成田の問題は国家の威信にかかわる重要な問題だ。軍隊を投入して一気に解決すべきだ』という声が高まっていて、もう防ぎきれない。危機的状況だ」「今までは運輸省から言われるので、立場上、警察を成田に投入してきたが、その結果として数多くの農民を傷つけ、地域の崩壊をもたらしてしまった。警察の威信はまさに地に堕ちた。今後、成田空港の問題を社会正義にかなうかたちで解決すべく真剣な努力をしないままでは、とても立ちいかない」
 私は後藤田さんの有無を言わさぬ迫力に圧倒され、成田に入って成田空港問題の「社会正義にかなった解決の途を探る」という困難な営為に全力を尽くさざるをえなくなってしまったのです。
 それから十年近くのあいだ、研究的営為はもちろん、家庭の生活まで滅茶苦茶になってしまいましたが、反対同盟の若い人たちの高い志を知り、その魅力的な生きざまに触れることができたのは、私の人生にとっては最高の収穫となりました。

  空海の満濃池
 もともと工学は英語でいうとcivil engineering 、日本では土木工学と理解されがちですが、じつはそれより広い意味を含んでいて、社会が一つの社会として機能し、そこに住むすべての人たちが人間らしい生活ができるための工学的なストラクチャーを指しています。耳慣れない言葉だと思いますが、一例として、農業にかかわる潅漑について考えてみます。
 かつての日本農業は生産性の高さでは世界的にすぐれ、少なくとも一九五〇年代から一九六〇年代はそれがあてはまっていました。それを支えてきたのは、長い年月をかけて全国でつくられてきた潅漑システムと、共同体によるすぐれた管理方法でした。
 日本の灌漑システムに大きな影響を与えた空海は、日本の歴史上、最も偉大なcivil engineer(工学者)の一人でした。九世紀はじめ、空海は遣唐使とともに留学僧として中国長安に渡りました。当時の留学僧は単に仏典と仏教を勉強するばかりでなく、二十年間は唐で社会制度や工学的な知識を学んで日本に帰り、国の発展に尽くすことが求められていましたが、空海はわずか二年で日本に戻り、「自分は二年間で学ぶべきものをすべて学びました」といういかにも若い時分の空海らしい詫び状を朝廷に出しています。
 それからしばらくして空海は、朝廷から別当職をもらって故郷の讃岐に帰り、有名な満濃池の大修復の総監督をすることになります。八世紀に造られた満濃池は、日本最大の灌漑用ため池でしたが、あまりに巨大だったので造ってすぐに壊れてしまい、使いものにならなかった。それが大修復工事をはじめた空海のもとには、彼を慕うたくさんの人たちが集まり、わずか三ヶ月で大修復工事を仕上げてしまった。これは日本古代の水利工学的な事業のなかで、一番に特筆される事業として今も語り継がれています。
 空海は、満濃池を造るにあたって唐で学んだ工学的な知識をもとに、当時最新の技術を用いました。それと同時に、池の灌漑用水を利用するに際してすばらしいルールを作った。よく知られているのが線香水で、およそ三千戸もの農家が公平に水利の機会を得られるよう、線香一本が燃え尽きるまでのあいだは一つの田んぼに水を流すことにした。それだけでなく、満濃池を維持していくための修復や整備など、人びとの労力の提供についてもじつに公平なルールを残しています。(「七 人類と農の営み」より)

2020年07月20日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2020年7月》

『後藤田正晴ー異色官僚政治家の軌跡』 
保坂正康著 文藝春秋社 1993年刊

平成四年十二月十二日、第二次宮沢内閣に後藤田は法相として入閣した。宮沢は後藤田を入閣させることで、内閣に重みを与えようとしたのだといわれた。後藤田もまたそれを理解していた。と同時に、この内閣の手で、自らが描いてきた政治改革を実行させたかったのだ。後藤田自身、「お国への最後の御奉公」と周囲に漏らした。
 後藤田は法務大臣の執務室で法務省の幹部に、検察行政をもっと国民に知ってもらうためにPRせよ、法務と検察行政の信頼を回復せよと命じ、さらに検察の人事の刷新をもにおわせた。(中略)
 法務省での訓示では、国民の検察批判には耳を傾けて、改めるべきところは改めて法秩序の信頼を維持すべきである、と説いた。平成五年にはいると、後藤田は、「実務肌の者が遠ざけられているので正したほうがいい」という方針で、検察人事に手をつけた。ロッキード事件で田中逮捕を進めた吉永祐介大阪高等検察検事長を東京高等検察検事長に呼び戻したりもした。(中略)竹下内閣時代には、法務省の幹部は経世会の有力議員に近づいて、懸案事項の政治的解決をはかってきた。そのため法務、検察の人事はこの十年ほど捜査重視より政治重視になっていた。それは法務行政と政治家人脈にくわしい法務検察官僚が幅をきかすという意味でもあった。(中略) これまでの検察人事は、ほとんど法務省の大臣官房や人事課が行なっていて、法務大臣が口を挟むことはなかった。経世会系の大臣はそのことで法務省内の閉鎖的な空気をつくっていたのである。
 後藤田が初の訓示で世論に耳を傾けよ、といったのは、それを打破するという意味であった。後藤田は捜査畑で地方に出ている検事正を次々に東京に戻した。中央で彼らに存分に力を発揮させようとしたのだ。吉永を補佐する東京地検検事正には北島敬介、東京地検特捜部長には宗像紀夫という布陣を敷いた。佐川事件を充分に摘発できなかった弱体さを克服して、新たな汚職摘発を行なうとの意思があるように思えた。
 平成五年三月六日、東京地検は金丸信を脱税の容疑で逮捕した。後藤田の人事で動いた検事たちの働きであった。これは法務大臣の諒解もあってのことだったが、後藤田はこの間にどのような決断をしたかは、口にすることはない。たとえかつての僚友であろうと、法にふれ、政治の道義を崩す者は容赦しないとの後藤田の強い意気込みが窺えた。この逮捕の報告を事前に受けたときに、国会内の一室で誰も寄せつけず、一人で考え込むような姿勢で椅子に座っていたという。政治改革という大義名分、この時代を何としても変革するのだという強い意志と自らの心情との葛藤を、胸の内におさえこんでいたのかもしれない。その後はゼネコン汚職の摘発が続き、仙台市長、茨城県知事が逮捕された。(「第七章 政治改革とその時代」より)
 

2020年07月21日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2020年7月》

『観劇偶評』 三木竹二著 渡辺保編
     岩波文庫 2004年刊

 明治二十五年二月 深野座(新富座)
  「櫓太鼓成田仇討」「伊勢三郎」「吉例曾我礎」(対面)
 寿美蔵、芝翫、小団次、新蔵、女寅、福助、団十郎、猿之助、家橘、染五郎

  音羽屋丈の多助どん歌舞伎座にて古今の大当りをなしたる後、高島屋丈につづきて浪花に往き、成田屋丈のみ踏住まりて、同座の三月狂言に出勤の噂とりどりなるところ、俄に深野座開場と聞えしには驚かぬものなかりき。こはけだしこの座改称以来とかく景気引き立たず、茶屋出方一同困難を極めし折から、今春の興行を頼まんとせし高島屋丈坂地へ乗込と定りしかばますます驚き、遂にこの事情を述べて成田屋丈に出勤を乞ひたるなり。同丈もとより義侠の人なれば快く引受、無報酬にて出勤すべしといひしかば、芝翫丈、福助丈も義に勇み、同じく無報酬にて出勤することを諾し、この開場に運びしはかへすがへすも感賞すべき美挙にこそ。 (略)この「伊勢三郎」は黙阿弥が屈指の名作と噂の高きものにて、去明治十九年十二月やはりこの新富座にて興行せしが、書き卸しにて大当なりき。(略)
 すべて能曲を歌舞伎に写したる演じ方にて、幕明を掃舞台にし、板付の仕出もなく、義太夫を地謡と見せ、のっけに出る義経をわき師、義経の妻浜荻をつれと見せ、ここに出る老党左六太は狂言師の格、これより坐定まりて花道より出る伊勢三郎をしてと見する順序なり。その外白万端高尚にて、すべて華やかに演じ終りたるは目新しかりきといへり。いかにもこの作の品格高きは能を模せしためなるべけれど、見終りて淡泊過ぎ、少しく喰い足ぬ心地するも、また能を模せしために外ならず。
 原来能を演劇に模するは好処三つありと我らは思ふ。第一能の形を模するなり。その故は能にはわき、つれ、して、狂言師など、それぞれの順序正しく、その役々の並び方まことに整へり。演劇は眼にて見るものなれば、浄瑠璃作者が早く人形の並べ方に苦心する如く、俳優が舞台に並ぶ風情、よく整はではかなわず。いはゆる引張の見えなどいふはここの事なり。されば「勧進帳」にて弁慶が往来の巻物を取りて読むを、富樫が伺ふ辺など言ふべからぬ味あり。第二は能の振を模するなり。例之ば、「橋弁慶」の立の如き、「土蜘」にて蜘の糸を出す如し。第三は舞台の道具立の淡泊なるところを学ぶことなり。我らももとよりわが邦演劇の舞台を能舞台と一様に味なきものにせよといふにはあらず。しかれども欧洲、殊に仏蘭西などの大演劇場にてあまり大道具にこるため、観客はその景色よきに目移りしてじやじやとの喝采はあれど、その代り芸の方は次第に二の町になるは識者の卑むところと聞く。わが邦にても近頃随分道具に凝る癖起りて、実地実地と模するやう勧むる人もあれど、労して功なきこともまた少からず。例之ば、菊五郎丈が「梵字の彫物」にて使ひし日光陽明門の道具に数千円を費ししが、それほどの評判もなかりき。中には左団次丈が「血達磨」の火事など大当りなりしが、これらは芸道の上にてはあまり誇るべきことにあらず。もとより両丈などは道具建の当りを頼みて芸道を揺るがせにするやうなる人にはあらねど、後進の人々がかかるまねをすることなど流行りては斯道のために憂ふべし。
 また能より演劇に模して悪しきこと一つあり。そは正本の脚色を能より取ることなり。その故は能の筋立はもと淡泊なるものなれば、その好処は優美にして品格を備へ、おもに叙情的もしくは叙事的なるところにあるべし。正本の筋立はこれと異なり、ここにてはまことに戯曲的ならんこと必要なり、その筋の上の葛藤も分明ならざるベからず。「鉢の木」、「勧進帳」はなほ可なり。しかれども「釣狐」、「土蜘」の如きは純粋の能とほとほと差別をつけがたし。予らは成田屋丈、音羽屋丈などが斯様なる無味淡泊なるものを採りて、新歌舞伎十八番、演劇十種の中に数へ、幡隋長兵衛、明石の島蔵などを後回しにするを怪む。かの「橋弁慶」、「茨木」の所作事の範囲を脱せざるもまたこの類なり。

2020年07月22日

新聞記事から   朝日新聞 2019年11月28日 夕刊

京都賞 仏の「太陽劇団」創立者ムヌーシュキン
多様な仲間がいる劇団は「師」
助成受ける責任と譲らぬ自由

 (略)ヒエラルキー(階層)を排した組織や、俳優の即興性を生かした集団創作に向かった理由を「私は、自分が綿密に練ったプラン以上のものを求めた。劇団員全員が自分の才能を活用でき、互いに学び合えるようにしたかった」と話す。
 東西の伝統芸能を参照し、革新的な表現にも挑戦してきた。ただ、目指したのは「民衆の演劇」だ。
 「エリートの観客のためだけに、作品をつくることはできません。劇場には、まだ無知な若い高校生もいれば、年老いた哲学の先生もいます。イノセンスと知識が交ざり合うことで、『観客』が成立します」
 演劇を含む芸術・文化が公共の財産と認識され、劇団や劇場への公的支援が厚い仏の中でも、多額の助成を得ているという太陽劇団。そこには責任も伴う。「税金を使う以上、財政面でなくだけ、我々が何に役立っているか、説明責任があると考えます。我々は教育や文化、精神形成に役立つ『公共サービス』なのです」。その上で、「当然、クリエーションの面においては、完全な自由を要求します」と明言した。
 船出から半世紀を超えた劇団を、自身の「師」に例える。「彼らは、私が演劇に正面から取り組む勇気を忘れることを許さないでしょう。太陽劇団は最も険しい壁から、演劇という峰に取りついています。必要なのは勇気と肺活量、たくさんの謙虚さと忍耐です」(増田愛子)

2020年07月26日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2020年7月》

『あの過ぎ去った日々』 木下順二著
     講談社 1992年刊

 結局私個人の問題意識に引きつけた一文になってしまいそうな気がしつつ書き始めるのだが、前回、“そのころ演劇人の中にも、‘専門を超える連帯’が、つまり日本演劇史で初めての古典劇役者と新劇人の交流の萌芽的形態が生まれかけた”といったそのことを、演劇における“戦後”の中の一つのエピソードとして書きとめておきたいと思うのである。戦後の演劇界または新劇界全般を論じる興味は今の私に全くない。ただそのことで一つだけいっておけば、戦後、新劇界は急速に劇団制度を解体して行くものと私は予測していたが、そうならなかった。なぜそんな予測をしたかというと、『子午線の祀り』の後記の一つに、私はこういうことを書いている。「日本では、どうして俳優に合わせて戯曲を選ぶのですか。どうして戯曲に合わせて俳優を選ばないのですか。という質問を、戦前の学生時代に一人の外国人から受けて、意味がはっきり分らなかったことを、非常にはっきり覚えている。一九三〇年代の後半あたりから劇団制度が解体しつつあったヨーロッパ(かアメリカ)の人間が、劇団制度だけで固まっていた日本の人間へ発した素朴な質問でそれはあったのだということが、戦後になって理解された。そして考えてみると、それと同じ意味の質問を、戦前戦後何度か私は外国人から受けている。」
 “戦後になって”分ったと自分で書いているように、あの予測も戦時中からの先見の明などというものではなかったわけだが、とにかく劇団制度はもっとゆるむと思っていたのが、戦争ちゅう情報局によって強制的に“移動劇団”という小集団に解体されていた新劇界は、戦後たちまち戦前の劇団地図を復元するように、劇団システムで固まってしまった。(略)
 さて、日本の演劇が(中国や東南アジアのそれにも似たところがあるが)、ヨーロッパ演劇と最も異なる一つの点は、向うは紀元前五、四世紀のギリシアの昔から今日までを一貫する一つのドラマしかないのに対して、こっちでは諸演劇が併存しているということだ。十四、五世紀に始まった能、狂言という演劇、十七世紀に始まった歌舞伎という演劇、十九世紀に歌舞伎から派生した新派という演劇、同じ十九世紀にヨーロッパ近代劇の移入という形で始まった新劇という演劇などなど、これら別々の演劇が併存している。しかも戦前までは、これら諸演劇の間に交流というものは殆んど全くなかった。(略)
 意味は少々違うが、雑談のつもりで話を江戸時代に持って行くと、歌舞伎の『勧進帳』というのは七代目団十郎(一七九一-一八五九)が能の『安宅』の様式を取り入れてまとめ上げたものとされているが、当時武家の式楽であった能を河原乞食が教わるなどということは許されなかった。そこで七代目は庭師に化けて観世の家にはいりこみ、能舞台の床下にもぐって、演じられている『安宅』を耳から覚えた。または七代目に同情した観世の家元が、要点を書いた紙を、うっかり落した体にして七代目に教えた。などという伝説が生れている。
 近代になってそういうタブーはなくなったけれど、とにかく戦前までは、新劇俳優と能、狂言、歌舞伎の人たちとの交渉交流は、特殊な例外を除けば全くなかったのだが、その交流が、あの敗戦時のあるとき、一瞬間だけ実現され、そのことから、その時にではなくずっと後年、私は大変恩恵を蒙ったと思っている。
 その瞬間が実現されたのは、ひとえに大倉喜七郎氏のお蔭であった。演劇における“戦後”の中の一つのエピソード、と最初にいったのはそのことであって、それをしも大倉さんの思いつきとただいってしまえばそれまでだが、そういう思いつきを大倉さんにさせたのは、やはりあの“戦後”、前にいった文化における“専門を超える連帯”という発想を生んだあの“戦後”という時代であったと私は思う。(略)
 『子午線の祀り』は来年一九九二年一ー二月に銀座セゾン劇場で第五次公演を持つが、一九七九年の第一次以来、参加俳優は新劇のほかに、能、狂言、歌舞伎その他の人々である。七八年「文芸」に発表した時の後記に私は、この劇の「荷を〈山本安英の会〉におろすこととする」と書いてその通りにやって来たが、それはこういう“一つのドラマ”は、例えば会員は山本安英一人だけというこういう会に、多くのジャンルの人々に集ってもらってやらなければやれないからである。劇団制による一新劇団ではーーというところで話は辛うじてこの稿の初めのところとつながるがーー上演は困難だからである。  (Ⅲ ある“戦後”(2) より)

2020年07月27日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2020年7月》

『照明家(あかりや)人生』ー劇団四季から世界へ  吉井澄雄著 
    早川書房 2018年刊

 通し稽古を見てからデザイン会議

 一般に演劇公演では、稽古が始まる前か、その初期の段階で最初のスタッフ会議が開かれる。しかし「タンタロス」の場合は、初日十ヵ月前から稽古がスタートしていたので、芸術監督ドノヴァンから、通し稽古を見てからデザイン会議をしようという提案があり、四月の一週間、全スタッフに招集がかかった。舞台装置を中心に、照明、衣裳、音楽、音響等すべてのスタッフワークについて演出家と綿密な打ち合わせの後、それぞれの国へ戻って仕事をしてもよいし、デンバーに残って仕事をしても、どちらでもよいとのことだった。結局、台本の大幅な変更があったために、デザイン会議は五月に延期され、通し稽古も第一部だけになり、残りの二部、三部の通し稽古を見ることができる六月に、あらためて美術と照明中心のデザイン会議を開くことにしたのだが、美術はアテネ、音楽はロンドン、振付はニューヨーク、照明は東京だからDCPA(デンバー・センター・フォー・ザ・パフォーミングアーツ=引用者注)の支出は旅費だけでも大変なものとなる。
 美術家ディオニシス・フォトポウロスが作った模型舞台をかこんでのデザイン会議は、昼飯も簡単な弁当というかなりハードなものだったが、DCTC(デンバー・センター・シアター・カンパニー=引用者注)は事務室の一隅に私の仕事部屋を用意してくれた。デスク、製図台、インターネット可能なデスクトップコンピューター、削ってある鉛筆や消しゴムまで。照明デザイナーが劇場の中に自分の部屋を持てたのは、おそらく空前絶後のことだろう。

 プロダクションノート

 DCTCのプロダクションノートは、プロダクション・ディレクター、バーバラ・セラーズが、稽古に出席している時は自分自身で、出席していない時は終了後に彼女が、舞台監督、演出助手、小道具係、衣裳係等から取材をして作り、全スタッフに配るペーパーである。ここには稽古中に起こったあらゆる問題、例えば階段の段数とその高さはどのくらいにするかという舞台装置の細部から、衣裳の色や寸法、小道具の作りや大きさ、音楽の音色からテンポ、照明の効果やキッカケ、音響効果の音量や雰囲気等々、演出家の口から出た言葉や発想したアイディア、解決すべき技術的な問題が簡潔に、かつ余さず書かれている。
 このプロダクションノートは、稽古初日からテクニカルリハーサルに入る前日まで、私のデスク上の巨大なファイルに毎日綴じ込まれた。私が東京に居るときはメールで送られてくる。これは単なる稽古場で起こった出来事の記録ではなく、芝居作りの過程において、スタッフ・技術者全員が共有すべき、演劇創造のための欠くべからざる情報なのだ。プロダクションノートは誰もが見るべき義務を負っているので、とかくありがちな、連絡がなかったとか、聞いていないというような意思の不疏通が避けられる。ここではすべての問題を記録すればよいのではなく、情報の取捨選択が何より重要なものとなる。制作部長バーバラ・セラーズの演劇についての見識と才能、他人任せにしないで自分自身で仕事をする誠実さが、プロダクションノートの有効性を保証していた。
 こうしたシステムを整備したからといって、すばらしい演劇ができあがる保証はどこにもないが、大人数のスタッフ・キャストが関係する演劇やオペラ作りの場合は、我が国でも創作システムの整備が考えられてもよいのではないだろうか。 
 舞台装置の木工、金工、樹脂彫塑の各製作部門、小道具、衣裳、かつら、メークアップなどの各セクション、照明や音響等の技術部門、さらに制作、広報、切符セールス、総務等の事務部門が、劇場と共に存在していることの重要性とすばらしさは、残念ながら我が国においては実現していない。さらに大学における多面的な演劇教育の重要性を痛感した。DCTCの幹部、すなわち芸術監督、制作部長、美術部長らはいずれもUCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)演劇科の出身であり、共通の言語をもつことによるアンサンブルの良さと強さを感じさせられたのである。 ([第一部*照明家人生 第十四章 一年がかりの仕事ーー「タンタロス」]より)

2020年07月28日

新聞記事から   朝日新聞 2020年3月31日 朝刊

「異論のススメ スペシャル」ー現代文明、かくも脆弱ー
   佐伯啓思
  
 (略)今回のような新型の病原体の出現は、リスクではなく不確実性である。その時かろうじて頼りになるのは、政府や報道ではなく、われわれのもつ一種の「常識」や「良識」であろう。政府に依存し、報道に振り回されるよりも前に、自らこの事態をどう捉え、どう行動するかを判断するための「常識」であり「良識」である。
 (略)皮肉なことに、今回の「異常事態」が、逆に、この間のグローバル競争の異常性をあぶりだした。今後、企業の業績悪化などによる経済の悪化はかなり深刻であろう。(略)今日のグローバル資本主義のなかで、われわれはすっかり余裕もゆとりも失っていたということになる。市場主義や効率主義や過剰な情報文化は、われわれから思考能力も「常識」も奪い取っていった。人々と顔を突き合わせて話をし、家族や知人とゆっくりと時間をすごす日常的余裕がなければ「常識」など消えてしまう。それだけではなく、この間の市場主義は、医療や病院という公共機関を効率性にさらすことで、医療体制にも大きなダメージを与えてきたのである。
 
 (略)もしも今回のコロナのパンデミックが、多大な経済的打撃を与えるとすれば、それほど、われわれは脆い、ギリギリの経済競争のなかで生きてきた、ということである。生産拠点を中国に移し、中国からのインバウンドで経済成長を達成するというやり方の危うさが明らかになった。われわれは、自らの生存の根底を、海外の状況、とりわけ中国に委ねているということの危うさである。そこまでしてわれわれはもっと豊かになり富を手にしたい、という。だが、この数年のインバウンド政策にもかかわらず、経済成長率はせいぜい1%程度なのだ。一体、われわれは何をしているのだろうか。
 人類は長い間、生存のために四つの課題と闘ってきた。飢餓、戦争、自然災害、病原体である。飢餓との闘いが経済成長を生み、戦争との闘いが自由民主主義の政治を生み、自然との闘いが科学技術を生み、病原体との闘いが医学や病理学を生んだ。すべて、人間の生を盤石なものとするためである。そしてそれが文明を生み出した。
 だが、その極北にある現代文明は、決してそれらを克服できない。とりわけ、巨大地震や地球環境の異変は自然の脅威を改めて知らしめ、今回のパンデミックは病原体の脅威を明るみにだした。文明の皮膜がいかに薄弱なものかをあらためて示したのである。一見、自由や豊かさを見事なまでに実現したかに見える現代文明のなかで、われわれの生がいかに死と隣り合わせであり、いかに脆いものかをわれわれはあらためて知った。カミュの「ペスト」がよく読まれているというが、そこでカミュが描いたのは、とても人間が管理しえない不条理と隣り合わせになった人間の生の現実である。文明のすぐ裏には、確かに常に「死』が待ち構えているのである。

2020年07月29日

新聞記事から   朝日新聞 2013年1月10日 夕刊

舞台 情深き女形の理想像   演劇評論家・天野道映

新橋演舞場
 名女形雀右衛門の一周忌追善狂言が昼夜にある。遺児の友右衛門と芝雀が出演し、甥の吉右衛門が主演する。どちらもすばらしい。
 昼は「傾城反魂香」。吉右衛門の絵師又平は吃音に悩みつつ、内に豊かな人間性を秘めている。芝雀の女房おとくはそれを知る故に夫の苦しみを共に泣く。
 友右衛門の雅楽之助もよく、歌昇の修理之助が又平に寄せる同情も温かい。又平が手水鉢に描いた絵が石を抜けて起こす奇跡は、人々の心の絆の証しである。
 (略)夜の追善狂言は「仮名手本忠臣蔵七段目」。幸四郎演じる大星らお歴々の陰で、吉右衛門の平右衛門は下級武士の悲哀を託っている。それでいて芝雀演じる妹お軽に見せる無骨な優しさは、この人の独壇場である。
 妹の兄の心を察し、その志をとげさせようとする。昼は夫婦、夜は兄妹。芝雀が立役に寄り添う情の深さこそ、雀右衛門が残した女形の理想の姿である。友右衛門は赤垣源蔵。(略)

浅草公会堂
 座頭の海老蔵の不敵な面魂は、しばしば自己中心的な雰囲気を醸し出す。
 第1部「幡隋長兵衛」の長兵衛は、序幕村山座では目をぎらぎらさせて、喧嘩を止めに来たはずが、売りに来たよう。長兵衛内では水野の屋敷へ行って死ぬことだけを考え、女房子供のことは深く考えない。(略)
 第2部「勧進帳」では、海老蔵の弁慶は自分の苦衷だけを見つめ、孝太郎の義経と心が通わない。こうした自己中心主義はかつては華だったが、次のステップへ進む必要がある。(略)