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2020年12月 アーカイブ

2020年12月23日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2020年12月》

『人間 昭和天皇』上  髙橋 紘著
    講談社  2011年刊

 馬券とテーブルマナー
 四月三十日、ジブラルタル到着。駐英大使館書記官の吉田茂、“軍人外交官”といわれた竹下勇が出迎えた。
 米国の欧州艦隊司令長官アルバート・ニブラック提督も、フランスから表敬に訪れ、米大統領ウォレン・ハーディングのメッセージを伝えた。
 「(将軍には)いろいろ教えてもらい、非常に親しくしました。当時からアメリカを訪問したいと思っていましたが、そのときはいろいろな事情で訪問できなかった」(昭和五十年会見)
 「いろいろな事情」とは、日本人移民の多いカリフォルニアで排日問題があったこと、「親しくした」のは、ニブラックが競馬場見物にいっしょに来て、皇太子にコインを渡して賭けを教えたことだ。
 皇太子が馬券を買うと、なんと十倍になって戻ってきた。ビギナーズ・ラックである。『報知新聞』記者の御手洗辰雄は、「殿下が馬券を買っておおいに儲けられた」と打電すると、新聞では「競馬場にて馬券の御なぐさみあり」と品よく朱が入っていた。のちの銭形平次の作者で社会部長だった野村胡堂がそうしたのだ。さすがである。
 (「第二章 帝王教育 3 イギリスへ向かう」より)

 朝鮮と台湾のちがい
 一九八一(昭和五十六)年七月、天皇は「須之部大使に朝鮮と台湾のちがいについて聞けたら」と入江相政に言い、須之部量三(韓国大使を務めたあと御用掛)に尋ねた。
 この間からの仰せの朝鮮と台湾と日本に対する感情が全く違うのは、陸軍の施政よろしきを得なかったのではないか」の件。それほどにはっきりはしていなかったが、南(次郎) 総督 の姓名を日本風に変えたのなどは大きな失敗と。([入江]一九八一年七月七日)

 しかし、改名は台湾でも同じである。入江の回答に天皇は納得したのだろうか。
 天皇は朝鮮、中国にたいして戦後もずっと気にしていた。
 翌年七月二十七日の『入江日記』には、文部省の教科書検定で戦前の中国への「侵略」を「進出」と変更させたことに中国政府が抗議したことに触れ、「朝鮮にたいしても本当にわるいことをしたのだから」と洩らした、とある。
 皇民化政策は南洋群島など植民地ではどこも同じだった。韓国からの批判が強いのは、「南総督」の責任ではなく、五百年続いた李王朝をつぶし、「大韓帝国」(朝鮮の一八九七年からの国号)という国家を併呑したからではないのか。天皇の罪悪感は入江の記述などからみると、朝鮮にたいしてのほうが強いようだ。台湾とは違い独立運動への弾圧があったからか。
 一方、清国は台湾を「化外の民」、つまり教化の及ばないところに住んでいる民、と思っていた。「実家」に見限られていたのである。
 それを日本はダムを造り、風土病を撲滅させ、教育を普及させた。列強に比べて植民地領有後進国の日本は、統治が円滑にいっていることを世界に示そうと台湾を“ショーウィンドウ”に仕立てた面はあろうが、台湾人の生活をレベルアップさせたのは事実だ。
 (「第三章 新しき時代へ 4 「外地」を視る」より)
 
 記念式典前後
 思えば“狂気の日々”であった。英語が禁止され、フライは「洋天」、ゴルフは「芝球」、球団「GIANTS」は「巨」の一字に。聖路加病院はキリスト教は怪しからんと、大東亜中央病院。芸能人の英語名も変更させた。音楽のドレミファソラシドがハニホヘトイロハになった。黒澤明作品の名脇役に、藤原釜足という俳優がいたが、釜足は功臣の藤原鎌足を想起させるので、改名を迫られた。
 のちに天皇は東條に、英米の名曲もやめさせるのか、と聞くと、「いやそのような小乗な措置はございません」と答えている。天皇はゴルフを芝球とまでしたことに腹が立ってきたのだろう(『東條内閣総理大臣機密記録』昭和十七年一月九日)。
 一方、米英両国は日本語を学ばせた。日米開戦直前の一九四一年十一月一日、米国はサンフランシスコで四人の教官に日系二世の青年を中心として六十人の学生を集め、日本語学校を開設する。終戦まで陸軍は七千人、海軍は千二百五十人、ほかに下級兵士など一万七千人に日本語教育をした。
 彼らが日本兵捕虜を尋問し、戦死した兵士の日記やメモ、敗走した日本軍の資料を分析し、戦後は日本に駐留して占領行政に役立ったのはいうまでもない。
 英国も一九四二年、ロンドン大学東洋学部に政府給費生のための「日本語コース」を設け、日本語の特訓を始めた(大庭定男『戦中ロンドン日本語学校』)。
 日本はハード面ばかりでなく、開戦前からソフト面でも負けていたのである。
 (「第六章 大勝は困難なるべし 1 紀元は二千六百年」より)

2020年12月24日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2020年12月》

『人間 昭和天皇』下  髙橋 紘著
    講談社  2011年刊
H
 奥村罷免の真相
 ところで『入江日記』(一九四七年五月九日)に「奥村勝蔵氏はこの間のマッカーサーとの会見(第四回、五月六日)の事につき懲戒免職になった由」とある。
 奥村は、天皇、マッカーサーの第四回会見で天皇が日本の防衛についてマッカーサーに質したところ、「(米国は)カリフォルニアを守るのと同じように(日本を)守る」といった内容をオフレコで記者に話し、それを米国人記者が報道したとの理由で免職になった。しかし、犯人は上司の終戦連絡中央事務局次長の白洲次郎だった。
 白洲は吉田の子分で昨今では「GHQと堂々と渡り合った、あの時代にありながら米国を軽蔑した英国紳士、ダンディズムの代表」などと格好よく言われている。しかし、気に入らない人間をパージしたり、貿易庁長官時代には”ファイブ・パーセンター”(口利き料として五パーセントを取る)と言われたりなど、とかくの噂があった。「巨大な利権と重大な政策決定が絡む現場にあり、男ぶりのみで括れるものではない」(川島高峰『朝日クロニクル 週刊20世紀 1945年』)との評価もある。
 のちに奥村は復権して外務次官になったが、三十年後、リークしたのは自分ではない。それを天皇にまで誤解されていては死にきれない、と病床で宮内庁外事担当の式部官に依頼し、天皇に訴えた。 
 天皇は「奥村に全然罪はない、白洲がすべてわるい。だから吉田が白洲をアメリカ大使にすすめたが、アメリカがアグレマンをくれなかったのだ」と断言している([入江]一九七五年九月十日)。白洲は自分の発言の責任を奥村にとらせて、頬かぶりしていた。
 (「第八章 現御神からの解放 1 マッカーサーとの対決」より)

 訪米への流れ
 沖縄返還に目途がつくにつれ、佐藤首相のなかに沖縄復帰を戦後のひと区切りとし、天皇訪米を総仕上げにしたいとの、さらなる”野望”が生じたように思われる。
 天皇のヨーロッパ訪問が答礼訪問と位置づけられていたのにたいし、米国は対戦の主要相手国であり、日本政府は天皇から訪問すべきだ、と言っていた。 
 一方、当時のアーミン・マイヤー駐日大使は、天皇皇后の訪欧を受けて「日本の政治システムにおいては、天皇は実態的な意味をもっていない」が、国民の多くは「国家のシンボル」と認識しており、天皇外遊が日本の国際社会復帰を「象徴する」との評価を下している。 
 アメリカ政府部内では、「日米関係に与えている重要性を示す上で有用だ」と考えられており、「昭和天皇の政治的価値を認めていたといってよい」との判断があった(吉次公介『戦後日米関係と『天皇外交』」『象徴天皇の現在』)。
 
 佐藤栄作の思惑
 一九七一(昭和四十六)年十二月三十一日、佐藤は内奏、円切り上げ、沖縄復帰問題など、この一年の内外情勢を総括的に話した。 
 話題は天皇自身の訪米に移った。
「ところで佐藤は、ニクソン大統領来日について、また私の米国訪問についてどうおもうか」
 佐藤はこの夏の米中復交、円切り上げのダブルショックを考えると、「自分には迎えの情態には自信がないので言葉をにごす」と、日記に書いている。 
 その後を箇条書きで示す。
 一九七二年五月十五日‥‥沖縄が本土に復帰
    六月九日‥‥‥キッシンジャー補佐官が来日。天皇訪米について語る
   七月六日‥‥‥佐藤内閣総辞職。後継は田中角栄
 キッシンジャー来日の際、宇佐美はこう釘を刺すのを忘れなかった。
「宮内庁は正式には聞いていない。日米間は戦後、政治的、経済的に深い関係にあるが、陛下のご訪米が政治的に利用されるようでは困る」
 佐藤の思惑は実現しなかったが、政権交代の内奏のとき、こんなことがあったようだ。 
「あとから聞くところによると、贅沢な盆栽を持ってくるな、とか、アメリカに行くことになっても前総理は随行するななど、相当なことを仰有ったらしい」([入江]一九七二年七月七日)
 天皇自身、訪米には前向きだった。しかし、佐藤があの手この手を用いながら要請を繰り返すことに対して激怒したのである。
 天皇は私心のある者を嫌った。だから米国に行くことになっても佐藤の首席随員など絶対ダメ、と言ったのだろう。
 (「第十一章 皇室外交 2 昭和天皇の一九七五年」より)