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2021年01月 アーカイブ

2021年01月18日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2021年1月》

『知る事と行ふ事と』福田 恆存著
    新潮社 1976年刊
 
 醒めて踊れーー「近代化とは何か」
 友人の或る外國文學者が言つてゐた事だが、原文で讀むとをかしみの笑ひを誘はれるのに、飜譯となるとそれがどうしても表せないといふ。確かにさういふ場合もあるだらうが、大抵は解決の著く事なのである。リズムや作者の息遣ひはその意味内容、或は意味集團と無關係ではない。私達の劇團はせりふといふものを最も大事にしてをり、意味集團としてのフレイジング(句節法・文節の折目)に重点を置く。フレイジングが正しく出來る爲には話手が自分と言葉との距離や場と自分との關係を意識してゐる精神の働きが無ければならない。それが無いと話手の心が觀客にリズミカルに傳はらなくなる。演劇では讀み返しの效く小説や評論と異り、言葉が役者の口を出る瞬間、瞬間に觀客の頭の中に叩き込まれなければならないからだ。しかし、小説や評論においても、程度の差こそあれ、同樣の事が言へる。たとへ引掛つて讀み返すにしても、讀書の精神的運動の力學と、そのリズムを崩す樣な文章は言葉そのものを經驗させてくれないであらう。惡い飜譯とはさういふ飜譯の事であり、原作者がをかしみを感じながら言葉を遣ひ、言葉で生きてゐるのを無視した場合、例の外國文學者が指摘した樣な結果が生じるのである。をかしみとは違ふが、飜譯の場合、日本語と英語とのフレイジングの違ひからどんな結果が生じるか、手近の『海は深く青く』から次の會話を例に引いて置かう。

 へスター あの人の良心ですつて? それをあなたは發見なさつたといふわけですのね。私にはどうしても見つからなかつたのに。
 ミラー  だつて戀は盲目と言ふぢやありませんか。  (臼井善隆氏譯)

 英語では「私にはどうしても見つからなかつたのに」といふのが that I missed となつて
最後に來てをり、その前に Have you found something in him があつて、that 以下は
foundの目的語になつてゐる。これを英文和譯式に「あなたは私が見損つてゐたものを彼の中に發見したのですか?」としたら、その後を受けたミラーのせりふ、Because the eyes of love are blind が生きない。原文では「發見したのか」に對しての「なぜなら」「だつて」ではなく、へスターが「見損つてゐた」事に對してのものだからである。これはほんの一例に過ぎず、飜譯が面白くないのは、意味だけを正確に傳へようとするこの種のフレイジングの無視が、作者、讀者の精神の運動のリズムを破壊するからである。その意味においても、演劇は最も近代化のごまかしが效かぬ世界であると言へよう。
(「『新潮』昭和五十一年八月號)」より)

 幕間
 この際、はつきり言つて置きますが、私は平(幹二朗ー引用者注)のハムレットを初演の時から認めてをりません。私が四季に私の『ハムレット』使用を許したのは日下武史のハムレットといふ條件附だつたのですが日下に限らず、水島(弘ー引用者注)にしても田中(明夫ー引用者注)にしても私のシェイクスピアの飜譯文體を喋れると思つたからです。ところが、淺利(慶太ー引用者注)君は私との約束を破つて新聞に平のハムレットを発表してしまひました。
私は平を全面的に認めない譯ではありませんが、私の演出でない以上、平に私の『ハムレット』の文體はこなせないと思ひ、直ちに淺利君に抗議し、私の臺本撤囘を申出ました。何度か協議した揚句、淺利君は平にハムレットをやらせる代り、翌年に私の演出で日下のハムレットをやらせてくれるといふ條件で手を打ちました。が、その約束を彼は實行せぬばかりか、平のハムレット再演、地方公演と一方的な要求をして來たのです。本來なら拒絶して然るべきですが、シェイクスピア福田譯を認めてくれる演出家は淺利君一人であり、劇團としては四季だけであるといふ事、また雲、欅との友好關係も無視し得ないので、私はその都度、淺利君の破約を黙認して來ました。
 平のハムレットは私の豫想通りでした。あれは「オーソドックス」どころか、私が昭和三十年に芥川比呂志主役によりオーソドックスな『ハムレット』を打出したといふと自慢話めきますが、當時の新聞その他の騒ぎ方を國會圖書館あたりへ行つて調べて下さればお解りでせう、その折角の『ハムレット』を築地小劇場式の薄田研二のハムレットに戻してしまつたものとしか、私には思へませんでした。なぜなら、私は『ハムレット』を西部劇に似たものと考へ、シェイクスピアもその積りで書いたと信じ、その線で演出したのであつて、深刻、憂鬱なるハムレットといふ通念を否定した「現代化」を試みたのに、それを淺利君は再び戦前版に戻してしまつたからです。
(「現代演劇協會機關誌『劇』昭和四十七年十二月號」より)

2021年01月31日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2021年1月》

『劇場への招待』 福田 恆存著
    新潮社  1957年刊

 藝術作品の條件
 近代劇は、新劇は、今こそ劇場を自分の手にとりもどさなければならない。そして劇場の主權を觀客に手わたさなければならない。日常生活の現實を寫すといふリアリズムの惡習をすつぱりすててしまふがよろしい。觀客は劇場まで足をはこんで、現實を認識することなど欲してはゐません。かれらが望んゐることは、現實をそとから認識することではなくて、劇場のなかに作られる新しい現實のうちに没入することです。舞臺と平土間とのあひだの鐵のカーテンをとりはらふことーこのことはいままで何度もいはれてゐながら、いまだに實現されない。それはあたりまへです。何度もゐはれてゐながら、ほんたうに理解したうへではけつしていはれてゐないからです。
 劇作家も演出家も俳優も、自分たちは觀客が藝術創造に参與するための道具にすぎぬと自覚してゐない以上、それは當然です。それどころか、かれらは觀客を、自分たちが藝術創造をおこなふための道具とこころえてゐる。稽古場だけでははりあひがないから、お客を呼んできて鏡にしようといふのです。今日の俳優はどうやらことごとくこの種の自我狂におちいつてゐるらしい。俳優ばかりではない、小説家も政治家も革命家もみんなさうだ。また芝居の觀客も、小説讀者もさうであります。みんな孤獨になつてゐる。そしてなにより重要なことは、かれらが自分たちの孤獨に氣づかずにゐるといふことです。氣づかずにゐながら、舞臺の上と下ではおたがひに心をとざしあひ、自分だけの自己陶醉にふけらうとしてーすなはち俳優もめいめいで自分が主役にならうとしてーいたづらに焦つてをります。
 俳優はその性格からいつて、もつとも自己陶醉にふけりがちな人間であります。同時に自分を殺し他人の顏をたててやることの名人でなければならない。演劇は演劇みづからのために、近代のリアリズムから自己を解放する必要があると同時に、他のあらゆる藝術の、そして政治の、生活の、社會の、いはば現代文明の孤獨な自己閉鎖症状からわれわれを救つてくれねばならず、またそれをなしうる可能性を一番もつてゐる藝術形式であります。演劇はタブローになつてはなりません。活人畫になつてはいけません。もしタブローであるならば、活人畫であるならば、觀客席をも含めて、そのそとにはひとりの觀客もはみでないタブローをこしらへあげるべきだ。孤獨を求めるものは劇場に來ぬがいい。孤獨であつて孤獨から脱出したいと欲するもののみ劇場にくるがよい。劇場はひとりの孤獨者もつくつてはならない。そして現代人はいまもつとも孤獨から解放される必要があり、それをしてくれるものを求めてゐるのです。演劇こそはまさにそのものであります。
 (「藝術新潮」昭和二十五年四月號)より。