劇団文学座の七十年(七)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『岸田國士』(四)≫
映画法が施行された直後の1939(昭和14)年12月、映画、演劇、音楽等に対する統制と奨励方策の諮問機関として、文部省内に「演劇、映畫、音樂等改善委員會」が設置された。
今回は、1942(昭和17)年11月に河出書房から刊行された『演劇論』(全5巻)のうちの第四巻『演劇と文化』、不破祐俊執筆の「演劇行政」の項から採録する。
演劇、映畫、音樂等改善委員會官制
(昭和十四年十二月二十一日 勅令第八百四十六號)
第一條 演劇、映畫、音樂等改善委員會ハ文部大臣ノ監督ニ属シ其ノ諮問ニ應ジテ演劇、映畫、音樂等ノ改善ニ關スル事項ヲ調査審議ス
第二條 委員會ハ會長一人委員二十五人以内ヲ以テ之ヲ組織ス
特別ノ事項ヲ調査スル為必要アルトキハ臨時委員ヲ置クコトヲ得
第三條 會長ハ文部次官ヲ以テ之ニ充ツ
委員及臨時委員ハ文部大臣ノ奏請ニ依リ關係各廳高等官及學識經驗アル者ノ中ヨリ内閣ニ於テ之ヲ任ズ
第四條 會長ハ會務ヲ總理ス
會長事故アルトキハ文部大臣ノ指名スル委員其ノ職務ヲ代理ス
第五條 委員會ニ幹事ヲ置ク文部大臣ノ奏請ニ依リ内閣ニ於テ之ヲ命ズ
幹事ハ會長ノ指揮ヲ承ケ庶務ヲ整理ス
第六條 委員會ニ書記ヲ置ク文部大臣之ヲ命ズ
書記ハ上司ノ指揮ヲ承ケ庶務ニ従事ス
附 則
本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス
演劇、映畫、音樂等改善委員會職員氏名(昭和十四年十二月二十二日現在)
會 長 文部次官 大村 清一
委 員
全 般 文部省社會教育局長 田中 重之
教學局長官 小林 光政
内務省警保局長 本間 精
東京帝國大學文學部教授 和辻 哲郎
日本放送協會文藝部長 小野 賢一郎
演劇部會 學習院教授 東京帝大文學部講師 (主任)新關 良三
岸田 國士
三宅 周太郎
長田 秀雄
早大教授 早大演劇博物館長 河竹 繁俊
<映画部会、音樂部会15名は記載省略>
<幹事は、文部省社會教育局映畫課長、文部省社會教育官、文部省督學官、内務省警保局警務課長、内務事務官、内閣情報部書記官の5名。氏名省略>
二 諮問第一號「演劇改善ニ關スル具體的方策如何」
第一回總會は昭和十四年十二月二十七日文部大臣官舎に開かれ、その際文部大臣より次の三つの諮問がなされた。
諮問第一號
一、演劇改善ニ關スル具體的方策如何
諮問第二號
一、映畫法第十條ニ依リ文部大臣ノ選奨スベキ映畫如何
諮問第三號
一、健全ナル音樂ノ普及ニ關スル具體的方策如何
これ、當局が演劇行政に積極的に乗り出すに至つた第一歩と言へよう。―
(「『演劇行政』文部省に於ける演劇行政」より)
前々回の≪『演劇統制』下の『文学座』と『岸田國士』(ニ)≫に記したように、演劇の国家による統制を主張した岸田國士は、その主張を著した半年後には、このように演劇統制のための法律制定に徴用されることになった。自身がそのポストへの就任を待望したか、度重なる固辞も叶わず引き受けざるを得なかったか、その時の心情は不明である。それは、翌40(昭和15)年10月に大政翼賛会の文化部長に就いた時と同様だ。この時以来接触することになる内務・文部官僚たちを岸田がどのように見ていたか。私の関心は、そこでもあるが、ひとまず措こう。
因みに、今回引用した『演劇行政』の筆者である不破祐俊は、前回も記したように、映画法の制定を担当した文部官僚である。同様に前回紹介した俳優座の故・松本克平の著書『八月に乾杯』(弘隆社刊)には、この不破と映画法を立案先導した内務省の革新官僚達についての記載があるので、少し引用する。
―映画法というのは第二十六条まであり、芸術的創造的な問題には一言も触れずに、業者と技術者に対する統制指示の面だけを強調した法令である。私たちに適用されたのはその第六条で左の如き条文である。
第六条 主務大臣ハ前条ノ登録ヲ受ケタル者其ノ品位ヲ失墜スベキ行為ヲ為シタルトキ其ノ他同条ノ規定ニ依ル当該種類ノ業務ニ従事スルヲ適当ナラズト認メタルトキハ其ノ業務ノ停止又ハ其ノ登録ノ取消ヲ為スコトヲ得
だが戦争政策に阿諛追従して、我々の弾圧に協力して日本の敗因をつくった彼らこそ、日本の「品位を失墜」させたものであることは今や明白である。内務大臣の湯沢三千男を始め、ナチスドイツに倣って日本に映画法を作った内務省の町村金吾、松本学、館林三喜男、不破祐俊らはその直接の責任者である。だが彼らは戦後も大手を振って各界を闊歩している。日本はまことに役人天国である。例えば湯沢三千男は各種政治経済研究機関、文化団体に関係し、また新市町村建設審議会会長、明治神宮復興奉賛会理事長の傍ら政治活動もしている。映画法の町村金吾は敗戦から戦後にかけて富山県知事、警視総監、東京都次長、国会議員、北海道知事、参議院議員として活躍している。松本学、館林三喜男も同様であった。
ところで映画法の不破祐俊と俳優座についてはこんな思い出話がある。京都四条河原町角の高島屋デパートに公楽会館が竣工した時、そのコケラ落しに俳優座の「フィガロの結婚」が上演されたことがあった。昭和二十四年十月のことである。初日の昼間舞台稽古をしていた時はまだ客席に椅子は入っておらず、床には水が溜っているという惨憺たる状況であったにも拘らず、開演までにそれが間に合わされたのには驚いたが、その公楽会館の初代支配人が何とこの映画法作成で活躍した不破祐俊であった。支配人なら当然コケラ落しに招いた俳優座に挨拶に来るだろうからどんな男か見てやろうと待っていたが、彼はついに姿を見せなかった。公楽会館は映画をかけたりしていたが閉鎖されて売場になってしまった。彼はその後高島屋系の不動産会社の重役になっている由である。―