2021年07月

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

アーカイブ

« 2013年03月 | メイン | 2014年06月 »

2013年06月 アーカイブ

2013年06月04日

『草桔梗 蔵俳の碑へ 通う径』(小汐正実作)2005年6月4日掲載

 昭和47年6月4日の午後、四国一周の気ままなひとり旅を満喫していた大学三年生は、それまでの僅か二十年の人生でもたぶんもっとも緊張と敬虔さが混じりあった複雑な心境で、船のデッキに立っていた。

× × × × × × × ×

 昭和41年6月5日の朝だったか、その翌年春に亡くなった母が、読んでいた新聞の社会面を広げたまま黙ってその場を離れた。私は訝しげに母を目で追い、そして新聞を手にした。そこには、歌舞伎の老優の入水を伝える記事が大きく載っていた。私の高祖父が九代目市川団十郎の岳父ということもあり、母も戦前から親しく行き来していた海老蔵後の十一代目団十郎(堀越の治雄叔父)が半年前に亡くなったばかりで、老優の訃報に接して、悲しみが募ったのだろうか。十一代目を思い出したのか、自身の間近に迫った死を思い、記事の続きを読めなくなったのだろうか。
 その年の4月、歌舞伎座での彼の「引退披露興行」と銘打った公演で、『助六』の髭の意休を観たばかりで、(この老優を偲んで作家・網野菊が書いた『一期一会』という短編の中に書かれていたかも知れないが、自身の引退興行で殺される役を演じるということは如何なものだろう)芝居で殺されたその彼が自殺をしたということに、大きな驚きを感じた。
 老優はこの引退興行を勤め上げた翌5月、念願の四国霊場八十八ヶ所の巡拝の旅に出て、それを無事に済ませて小豆島に渡り、この島の霊場四十八ヶ所をも巡拝し終えて、この地の宿に草鞋を脱いだ。そして一泊したあと、翌日深夜発の船から暗い海へ身を投げた。デッキに靴が揃えて置かれており、覚悟の自殺とも報じられた。享年八十四であった。
 老優の七回忌にあたる47年6月4日を、彼が乗ったと同じ時刻の船の上で迎えようと、一週間前から四国に入った。徳島では大学の教室や図書館、学生食堂に闖入、高知・桂浜では憧れてもいない坂本竜馬に、松山・道後では浴場で機嫌の良い漱石になりきるという、いかにも凡庸な大学生の気楽気ままなひとり旅だった。弘法大師との同行二人のお遍路さんと数ヶ所の札所で出会い、食堂で昼食をともにしたりした。それぞれが思いを胸に秘めながら、決して安楽とは言えない巡拝の旅の途中のことで、遍路ではない暢気な大学生の旅の目的が、6年前と同じ季節、同じ遍路道を歩み播磨灘に消えた老優を偲ぶものとは、お遍路のどなたも思い及ばなかっただろう。
 老優のこの世の最期の泊は、質素で落ち着いた宿だった。島の案内所ででも教わったのか、偶然に見付けた宿かは判らない。人柄も芸も地味と言われた老優にとって、自分の質に似たこの宿で過ごした人生最後の一日はどんなものだったのだろう。
× × × × × × × ×

 昭和47年6月4日の午後、神戸に向う船は混雑していて、デッキにも大勢の乗客が出ていた。私は老優が身を投げた海に、乗船前に用意していた草桔梗の一枝を投げ入れ、手を合わせた。宿の脇にひっそりと生えていた、背の低い、花房が1センチにも満たない青紫の、目立ちはしないがきれいな草桔梗は、死への旅に赴く老優の目に映っただろうか。
 (私はこの年の夏、日比谷の図書館に通い、団蔵関連の資料を渉猟し、エッセイを書きました。二十歳の若書きにして拙い文章です。ただ、この旅とひと夏掛けた原稿書きを終え、浄瑠璃の研究者になる夢を諦め、見識のある製作者に、そして良識のある劇場主になろうと思いました。爾来三十有余年、その願いは力足らず、いまだ成就していません。ただ、私にとっては自分の道を決めた小論だと思っています。このGOLDONIブログに載せました。ご笑読をお願いします。) 
 
 今日6月4日は、老優・八代目市川団蔵の正忌(祥月命日)である。

2013年06月13日

九代目団十郎の妻  宮内寿松

九代目団十郎の妻  宮内寿松 

(略)時間が早いので幹部俳優は誰も居まいと思って、いつもは雁治郎が使う楽屋口のとっつきの二階の部屋に顔を出すと、橋尾老人(中車)が火鉢に火もついてない部屋でツマラナそうな顔をしている、「いい所へ宮さん、一寸話がある。座って下さい」まさか話があるというのに帰るわけにもいかず――
 「去年の夏でしたね、長十郎を連れて築地の宗家に行った時…」「そうそう座布団の一件、弟子には座布団を敷かせない、の話ですね」「あの時隠居さんが旦那(九代目)がいるわけではあるまいし、と言って私に味方してくれたら、若御新造(実子、三升夫人)が変なことを言いましたね、三升(若旦那)がいます、て――市川を名乗っていれば誰でも成田家の弟子ですよ、ですが今の私や藤間(先代の幸四郎)、小山(新十郎)などは違いますよ、そこをよく考えないといけませんよ」
 と役者の女房の心得を話してくれた。そのなかで師匠(九代目)のことはよく劇聖だの、芝居の神様だのと言いますがね、亭主を神様にまで仕上げた女房つまり成田家ではます未亡人のことを何とも言わないのは女房大明神どころではなく、女房様々のことを忘れている、ます未亡人みたいに九代目のお三輪(妹背山)があれだけの評判になった内助の功はますさんの若かりし時の亭主への忠誠だったと話してくれた。役者の女房は亭主の浮気退治だけが仕事ではなく、舞台で亭主が売り出せるように仕向けなければ駄目だとも話していた。
 明治三六年五月の歌舞伎座で一番目に「春日局」を九代目が出したが、ますさんは「旦那にはこの役はもう無理だ」と言って身体のことを常より気を使っていた、とのこと。このことは三升さんも言っていたが、成田家の隠居さんは表面に出てカレ、コレ言わないが、裏では重きをなしていたことは確かだ。「とにかくエライものです」と未亡人をホメテいた。ます隠居のことは小山さん(市川新十郎)もホメテいた。市川三升の「九代目団十郎を語る」でも三升さんは「昔から俳優の家内というものは……夫のよいこと、悪いことをすべて知っていて芝居に関する一切の掛合いごとなどもみな女房の役目、母(ます)はそれを実によく守ったものである」と書いている。
 ます隠居は京橋南槇町に会所を開いていた幕府御用達小倉家の娘で九代目が三四才、ます(小倉家にいた時はまさ、後成田家の三升に因んでますと改名)さんは二五才、当時としては晩婚であったわけ。(略)団十郎をあれだけにした蔭の力のます夫人のことを何とも言わないし、書きもしない。(略)劇界としてはもっともっと大事にしなければならない人だと思う。
(『百味』 昭和48(1968)年6月号より)

2013年06月16日

八世市川団蔵について(其の一) <昭和四十七年八月執筆>

八世市川団蔵について <昭和四十七(1972)年執筆>

昭和四十一年六月四日未明、四国の霊場八十八ヶ所の巡拝を無事済ませた歌舞伎界の最長老、八世市川団蔵は、播磨灘で入水した。団蔵はその年の四月、「八代目団蔵舞台生活八十二年引退披露」と銘打った歌舞伎座での引退興行を無事勤め上げ、五月一日、二十年来の念願であった四国巡拝の一人旅に出たのである。そしてそのひと月後、小豆島坂手港から神戸へ向う汽船から、自らの命を絶ったのである。

 団蔵は引退興行を勤めた四月、『朝日ジャーナル』(1966年4月10日号)「一問一答」のインタビューに答えて、次のように語っている。

  歌舞伎は低下していると思います。なんですか、器用になっていますが、これで名人は出るのかな、と思います。芝居は勢力争いではないのでして、ほんとうの競争は舞台でだけやったものです。礼儀もしぜん保たれます。なにかいっても、あんな年寄りがと思われて、反感をいだかれるくらいなら、黙っていたほうがいい。そんな気持ちが私にもございます。芝居は本来娯楽でして、人さまに見ていただくものです。いまの歌舞伎はどうも料金が高すぎましょう。もっと大衆的になって、ほんとうの芝居好きによろこんでいただきたいものです。

団蔵は、歌舞伎の衰退・役者の低劣さ、歌舞伎興行上の問題を、極めて平明で、(役者としての分を弁えているかのように)遠慮深い言葉を用いて、鋭く指摘している。そして、このインタビューの二ヶ月後、団蔵はこの指摘を根拠にして、まさしく、自身の死をもって、歌舞伎に対する最初にして最後の批判を顕在化させたのである。

   我死なば 香典受けな 通夜もせず
      迷惑かけず さらば地獄へ

団蔵はあたかも、「私なんぞがこのような批判をすることは、許されることではない」とでも言うように、右の辞世を遺して、どこまでも暗い奈落へ身を投げたのである。(続く)

2013年06月17日

八世市川団蔵について(其の二) <昭和四十七年八月執筆>

 作家三島由紀夫は、団蔵入水の二ヶ月後に、「団蔵」を次のように述べている。

  団蔵の死は、強烈・壮烈、そしてその死自体が、雷の如き批評である。批評といふ行為は、安全で高飛車なもののやうに世界から思われてゐるが、本当に人の心を搏つのは、ごく稀ながら、このやうな命を賭した批判である。(中略)歌舞伎の衰退の真因が、歌舞伎俳優の下らない己惚れと、その芸術精神の衰退とマンネリズムとにあることを、団蔵は、誰よりもよく透視してゐた。
  (『団蔵・芸道・再軍備』「20世紀」1966年9月号)

私の識る限りにおいて、三島由紀夫は、団蔵の死を「雷の如き」・「命を賭した」歌舞伎に対する強烈な批評と受けとめた最初の人である。彼の「団蔵感」は、これから取り上げることになるが、「歌舞伎の世界」と関わりの深い演劇評論家の「団蔵評」に比べれば、遥かにすぐれたものである。「歌舞伎の世界」と距離を置いていた三島が、このような演劇評論家よりも「団蔵の死」に関してすぐれた見解を提出したという事実は、「今日の歌舞伎の衰退」の真因と大きく関わってくる問題でもある。そしてこのことは、「団蔵」に即して言うならば、彼に死を選ばせたもの、彼を死に至らせた、死に追いやったものと繋がりを持ってくるだろう。(続く)

2013年06月18日

八世市川団蔵について(其の三) <昭和四十七年八月執筆>

 団蔵は、前述の『朝日ジャーナル』のインタビューに答えて、自分は父(七世市川団蔵)が明治劇壇で団菊(九世市川団十郎・五世尾上菊五郎)と並べられたほど偉大であったから、団蔵の名を襲うのが嫌であったし、自分は「目も小さい、声もよくない、体も小さい、セリフが流れるように言えない」ので、役者として不適格である、と語っている。
この団蔵の自覚は、三島が、「役者の自意識というものは、芸だけに働いてゐればよいもので、自分の本質に関する自意識は芸の邪魔になることが多い」(前掲書)と述べているように、本質的かつフェータルな自覚である。
団蔵は四十歳の時に、自分を省みて引退を申し出たが、興行主の松竹から留意させられた。それどころか、昭和十八年には、前名の九蔵から、強引に「八世団蔵」を襲名させられたのである。そしてその二年後、「本当に引退を決意した」のだが、また留意させられたのである。ア・プリオリに役者としての資性が劣っていることを、若年の頃から熟知していた団蔵の不幸は、終生彼に付き纏うそれであった。

  若年の団蔵には、それだけの(六世尾上菊五郎や初世中村吉右衛門などのような・引用者注)芸に対する欲や執着がなかったのだ。当然かれ(父・七世団蔵)は、八世に芸を教えようとはしなかった。「出来るまで自分で工夫してやれ」とつきはなした。そして叱るときには、「おれの腕を洋小刀で削ると金貨が出る。手前の腕は世間並の血だけしか出めェ」といったという。
今尾哲也は、「団蔵親子」(『変身の思想』所収)で右のように述べたあと、七世団蔵の言葉、「世間並の血」に着目して、次のように続けている。

 「世間並の血」とはいいえて妙である。まさに八世は「世間並の血」しかもちあわさなった。(中略)その「世間並の血」しかもっていなかった手低のかれは、ついに生きて眼高をあらわすことができなかった。そのかわり、「世間並の血」をもつ一人の平凡な人間として、死をもって、「雷の如き批評」を下したのである。 (続く)

2013年06月19日

八世市川団蔵について(其の四) <昭和四十七年八月執筆>

  演劇評論家であり、また今日の歌舞伎演出の第一人者である利倉幸一は、団蔵の自殺について次のように述べている。

  封建制の典型のように見られている歌舞伎に対して、この団蔵の死を、それへの一つの抵抗としてジャーナリズムの一部がとりあげたのは、例によって例の如しであった。団蔵にそういう抵抗が全然なかったとは言わないが、それは直ちにかぶきの世界の悪弊に結びつけるのは少し性急な意見のようにぼくは思う。(中略)役者の家に役者の子として、それも抜き差しならぬ名家に生を享けたのが、団蔵の不幸だったのだ。実はその不幸さえも、団蔵はぼくたちが考えているよりも、深い受けとめようをしていなかったのではないかと、ぼくは不遜にも考える。
(『ある歌舞伎俳優の自殺』『文藝春秋』1966年8月号)

 名家の子として生を享けたという宿命を誰よりも強く自覚していたのは、言うまでもなく団蔵である。この事実を、利倉は全く識らなかったのだろうか。いや、たぶん、「くすんだ舞台」の「役者らしくない役者」(利倉幸一)である年寄りのことなど、識ろうとしなかったのであろう。
私は、「団蔵の不幸」に、このような演出家のもとで舞台を勤めなければならなかった、ということをも含めなければならないと思う。(続く)

2013年06月20日

八世市川団蔵について(其の五) <昭和四十七年八月執筆>

  折口信夫門下の演劇評論家・戸板康二は、団蔵の死より五年ほど経った昭和四十六年九月、「小説団蔵入水」を発表した。(「小説現代」1971年10月号)
「人間残酷物語・歌舞伎界の内幕」という副題のついたこの作品は、作家・網野菊の団蔵の死を扱った秀作「一期一会」(「群像」1966年11月号)を意識して書かれたものではあろうが、「一期一会」と比べものにならないほどの凡作である。この作品は、ドキュメント風な小説であるが、その中には、人間残酷物語と銘打つだけの人間や残酷さは描かれていない。まして、歌舞伎の内幕など、全く明らかにされていないのである。この「小説団蔵入水」を、多才である戸板康二の、大衆小説作家としての作品としてみるならば、彼は次の点から批判されるべきである。それは、同様に演劇評論家の尾崎宏次が、団蔵の死後いちはやく、「かぶきの最長老をそこまで追いつめた、かぶきの今の制度そのものに問題がある」と受けとめた「団蔵の死」を、自身の大衆小説のネタにしたことである。(続く)

2013年06月21日

八世市川団蔵について(其の六) <昭和四十七年八月執筆>

 一六〇三年、出雲の阿国による京・四条河原での歌舞伎躍りの興行に始まる歌舞伎の歴史は、多く、国家権力との対立の歴史であった。たとえば、徳川幕府による女歌舞伎・若衆歌舞伎の禁止、心中物の執筆・上演の禁止などは、歌舞伎が下層の民衆の、権力に対する批判精神を培うことを阻むためのものであった。そして、そのような徳川幕府の演劇統制の強化に抗して、歌舞伎は幕末まで、本来の「傾(かぶ)きものの精神」を貫いたのである。しかし、明治になって、歌舞伎は「様式」の中に篭り、「傾きものの精神」を喪失させて行った。そして、今日残っているものは、「傾く」ことを忘れた役者と、それを取り巻く人間と、その低劣さ、これらを増長させることにもなっている興行上の欠陥、という「歌舞伎の衰退」現象である。

  退屈な「菅原」(菅原伝授手習鑑=引用者注)の大序のうち、私は型に順応した神話の世界をながめていた。この時間は、人間が神の世界からとりもどした芸能を、ふたたび神の世界へ返上するための儀式の時であった。民族学者がいけないのである。民族学者が展開した学問の世界は、決して科学の名で呼ぶに値するようなきびしいものではなかった。国立劇場に巣食う末派民族学派は趣味的な芸能行事の復活を、古典の復活と勘違いしているのだ。貧乏人が急にお金を持たされて、うれしがって、いろいろな思いつきを田舎大尽のように俳優におしつけ、俳優は俳優で、お旦那をとりまく野だいこの了簡で、ところどころ国立劇場の顔を立て、芸の分野では、在来どおり、型通りのお芝居やってのけて、糊口にありつく。型通りやられたらお芝居はまるで型なしである。がそんなことは知ったことじゃない。このような精神の成り上がり者と取り巻きとが、演劇造りする場―それが国立劇場の実態ではないのか。
(「伝統演劇の発想」)
(続く)

2013年06月22日

八世市川団蔵について(其の七) <昭和四十七年八月執筆>

  いくぶん長い引用だが、これは武智鉄二の、国立劇場初の公演「菅原伝授手習鑑」の感想である。この文章は、国立劇場の姿勢・俳優の低劣さを、武智らしい表現で端的に言い表している。
明治に入って、それまでの歌舞伎を大きく変えたのは、九世市川団十郎の、所謂「活歴」であり、またそれを基礎とした「団菊系の芸風」であろう。しかし、このことが、今日の「歌舞伎の衰退」の要因であると結論する訳にはいかない。今日まで、この「団菊系」や、「団蔵系」の芸風を含む多くの芸風が残されて来ているが、しかし、それらの芸風を、「芸」それ自体から比較検討する姿勢が、近代以後の「歌舞伎の世界」に希薄であったことが、この衰退の要因ともなるであろう。

 団蔵は昭和十七年に、父七世団蔵の生涯と芸談を記した『七世市川団蔵』を上梓している。この書は、「はしがき」に河竹繁俊博士が「我が文化財に対する貴重な文献で」あり、「戦後において必然的に急速に推移すべき劇芸に対して資益する所多き明治の役者論語で」、また「歌舞伎劇術の教科書である」と記しているように、極めて重要な意義を持っている。この書には、「本格について」という項があり、そこで団蔵は、「団菊の芸を本格とする役者や批評家の意見に真向からいどみかかっ」ている。(今尾哲也・前掲書)
 団菊系の芸の隆盛に比して、影の薄れた団蔵系の芸を明らかにし、再評価させようとする意図を持っていたのである。そして、終生それを舞台に出しきるほどの才を持っていなかった団蔵は、その瞬間まで、その意図を大事に持ち続けなかればならなかったのである。(続く)

2013年06月23日

八世市川団蔵について(其の八) <昭和四十七年八月執筆>

 団蔵の七回忌の朝を播磨灘で迎えようと思っていた私は、団蔵がこの世での「最期の泊」に選んだ小豆島の旅館「たちばな荘」に、今年の六月二日夕刻に着いた。もとより私の旅は、取材旅行のようなものではなかったのだが、宿のご主人、支配人はじめここで働く人々から、六年前に団蔵が泊まった時の様子を詳しく聞くことが出来た。私ははじめ、「たちばな荘」で一泊して、三日の夜、団蔵が乗ったのと同じ時刻の船で神戸に渡る予定を立てていたのだが、ご主人から、「四日に団蔵丈を偲ぶ会があるから出席して欲しい」と誘われたので、予定を変えて四日まで残ることにした。その会は団蔵の死後、その忌日である六月四日に、毎年この宿のご主人が、新聞記者や団蔵の生前の舞台を識る地元の人々を招いて行う団蔵供養の会であった。私は、この宿の玄関前に建てられた団蔵の碑の前での読経をきき、そこで知り合った老紳士と二三時間歌舞伎の話をしたのだが、その老紳士・小汐正実さんは、毎年この日に団蔵を忌う句を詠んでこられたそうで、短冊に書く前に私にその句を教えてくれた。

  草桔梗  蔵俳の碑に  通う径

 宿を発つ時に、小汐さんから「これが草桔梗だよ」と言って渡された、背の低い、花房が直径一糎にもみたない青紫の、目立ちはしないがきれいな草桔梗を、団蔵の「死」を活かすことの重要さと、その困難さを感じながら、神戸へ向う船のデッキから彼の眠る海へ投げ入れた時の思いを、私は終生忘れないだろう。
(一九七二年八月執筆)