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2010年02月 アーカイブ

2010年02月01日

ミュージカル「エビータ」に映る日本の危うさ(1)

<「エビータ」の世界と鳩山政権>  産経新聞1月26日 

 1月26日(火)の産経新聞1面『明日へのフォーカス』(高畑昭男論説副委員長執筆)を興味深く読んだ。劇団四季のミュージカル公演『エビータ』を観劇した記者は書く。<公演の歌や踊りも素晴らしかった。だが、中でも印象に残る圧巻は、ペロン大統領とエビータ夫人が労働者階級を抱き込んでポピュリズム(大衆迎合)政治に突き進む場面だった。労組や大衆組織と組み、危機をあおって権力を固めていく。背景に「国有化断行」「賃金・公共支出拡大」「福祉増額」などのスローガンを大書したプラカードが舞台狭しと並ぶ。見ていると、なぜか今の民主党政権の姿と二重写しに見えてくるのだった。>
 また、<半世紀以上前のエビータの舞台と現代の鳩山政権の類似は、ほかにもある。「弱者を救う」との建前で始まったペロンとエビータの強引な政治は、やがて腐敗とスキャンダルにまみれていく。今の国会も、鳩山首相の母親の献金問題と小沢一郎・民主党幹事長の政治資金疑惑で大揺れだ。政権与党のツートップが連日追及される中で、いくら首相が「国民の命を守る」「国民生活第一」などと訴えても説得力がない。>と厳しく民主党政権を批判する。
<富裕層から容赦なく資産を取り上げ、大衆にばらまく迎合政治を展開>し、<成長戦略もないまま、産業国有化や管理貿易など無謀な国家社会主義的政策を強行>、<経済は崩壊し、瞬く間に国家と国民の心を荒廃させてしまった>ペロン、エビータとアルゼンチンに、小沢、鳩山の民主党政権、そして将来の日本の姿を重ねる。一般家庭は生活コストを切り詰め、中小企業主は僅かな損益を争って身を切る思いで働いているにもかかわらず、権力の頂点にいる二人が数億円のお金が目の前を行き来していても「知らぬ存ぜぬ」では政治家失格だと指摘する。

 <ミュージカルの世界なら、幕が下りれば観客は現実に返ることができる。だが、このひどい政治に幕が下りるのはいつのことなのだろうか>と記者は結ぶが、果して、このひどい政治に幕が下りる日が来るのだろうか。 

2010年02月02日

ミュージカル「エビータ」に映る日本の危うさ(2)

「エビータ」を観劇して、エビータと鳩山首相を、アルゼンチンと日本を重ねて感じた観客が多かったのではと思う。産経の論説委員氏は、「国有化断行」「賃金・公共支出拡大」「福祉増額」などのプラカードを持つ群衆の出る場面で、<『子ども手当』や『国債乱発』を加えたら、鳩山さんと同じだね>」との観客席でのささやきを耳にしたと書いているが、私も、休憩時のロビーで、「まったく民主党の政策は、アルゼンチンと一緒だ」とか、「鳩山民主党とペロン夫妻は同質だ」などと語り合っている観客の声を聞いた。母親から僅か7年で12億6千万円を超える脱税を企図した疑いの残る贈与を受けながら、その贈与自体も知らなかったと繰り返し、「月1500万円の子ども手当」「親不孝」「マザコン」「脱税」「無能」「政治家失格」のレッテルが定着した感のある鳩山首相、自ら国民から「冷笑を受けている」と語るほどの天晴れだが、自由劇場のロビーで耳にした声は、こんな人物が「政権交代」だけを叫んで勝利した夏の選挙から5か月の民主党政権の体たらくに、「冷笑」ではなく、もっと深い苛立ちや怒り、失望を含ませてのもののようだった。
 「友愛」をキャッチフレーズにしている鳩山首相だが、エビータも「友愛」好きである。1946年の大統領選挙で圧勝したペロンと共に大統領宮殿に立つエビータは歌う。
「…今の私の心が求めるのは あなた方の愛 ただそれだけ こんな所で着飾っているけれど 信じてください …」
「…今日 みんなが願うものはただひとつ 今まで変わらず 結びあってきた絆 それは愛だけ 共にいて仲間達…」
「…お話する事はこれだけなの たったひとつの そうたったひとつの 真心を あなたのもとに…」
 相続、贈与などで蓄えた個人資産が百億円に迫ると言われる金萬政治家と、田舎町に私生児として生まれ、野心と美貌を武器に、男と権力を踏み台にのし上がるエビータ。あまりに対照的な二人の育ちだが、「友愛」「命」を強調し、麻生前首相も顔負けの飲み屋料理屋などでの遊興三昧、「こんな所で着飾っているけれど信じてください。願っていることは愛だけ」と歌うエビータのように、「こんな良い暮らしをしているけれど、こんな所で遊興しているけれど、信じてください。願っているのは友愛だけ」と言われても、昨夏に民主党を勝たせ、数ヵ月後には失望してしまった多くの国民の心には届くまい。 
 「エビータ」の二幕後半で狂言回しチェの歌う詞は暗示的である。
「…金は出ていくどこまでも ばらまき福祉が首を絞める かまやしないさみんなが喜ぶ どこから集めようと金に変わりはないからね 慈善事業に帳簿はいらない 良いことするのに数字は邪魔 ばらまけ すべて 我らがエバ・ペロン…」。

2010年02月04日

赤穂浪士切腹の日に

小山田一閑、岡林杢之助の自刃
 
 義徒に関係があって、一挙の後、節に死んだ者が両人ある。ここにこれを言及するの必要を認める。
 その一人は小山田一閑と称する八十一歳の老人である。彼は初め十兵衛と称し、浅野家に仕えて百石を食し寔に律義な定府の士であった、が、老年に及んで、家督をその子庄左衛門に譲り、一閑と号して隠居し居た。既にして主家の凶変となったので、一旦町屋に退いたが、さすがは一閑平生の教訓があるので、庄左衛門は義盟中の一人となり、当初は熱心に復讐の議に参預し居た。一閑これを視て、心に喜び、その身を娘の方に寄せて、僅かにその日を送りながらも、何時かは本望の成就するようにと祈っていた。折から一党復讐の快挙は発し、その評判は八百八街に拡がった。誠忠なる一閑はホクホクと打ち笑み「さては亡君の御鬱憤を散じたか。ヤレヤレ嬉しい。伜も必らず一党の中にいるはずでおざる」と、疑いもせず、人にも語った。すると一党の人名録は読売りとなって、市中に散布する。一閑これを手に把って、打ち反し打ち反しその書を覧れども、生憎にして伜の名が見えぬので、いかなる訳ぞと疑い疑い、段々これを探ってみれば、あるべきことか、同僚片岡源五右衛門が金品までも拐帯し、一挙に先だって、早くその姿を匿したとのことに、彼は胸を拊って痛恨し「この歳までも生きながらえて、かかる恥辱に会うことか」と、一間にジッと閉じ籠り、壁にその身を寄せ掛けながら、脇差把って、胸許から後ろの壁まで突き貫き、そのままにして縡切れていた。ああ庄左が陋劣は悪みてもなお憎むべきであるが、一閑の義烈は永く四十六人とその芳を比すべきである。

 今一人は岡林杢之助である。彼は幕府の旗下に小十人頭にて、禄千石を食する松平孫左衛門の弟で、つとに岡林家の養子となり、赤穂において千石を食し、番頭を勤めていた。番頭といえば、一方の軍隊長、戦時には各々一方を承って討って出ずべき職務であるから、その地位は家老につぎ、岡林家の禄高のごときは、むしろ仕置家老の上にあった。そもそも浅野家の軍制として、番頭たる者は同列協議して、進退を倶にし、一個随意の行動を許さぬというにあった。これはいかにも美法であって、戦国の時代には英物が多い。ややもすれば抜駆けの功名に夜討ち朝駆けなどを試みたがる。ために全軍の策応を誤る虞れがあるからである。ただしこれは戦時の遺制で、太平の時代には時に変通を要するのである。いわんや主家興廃の際などにおいてをやだ。ところが杢之助は性質醇良な上に、坊ッチャン育ちで、これらの理義を明らめなかった。同列の腰抜け連はそこに付け込み、彼を制して籠城論に加担させなかったのである。それで彼は近藤源八らと行動を倶にし「自分においては籠城の御評定至極御尤と存ずれど、番頭としては一個随意の去就を許されぬ御家法でおざれば、心底にも任せませぬ」と会釈して、俗論党と倶に退去した。
 既にして一藩は開散したので、杢之助は江戸における実家に帰り来て、兄の許に寄食した。顧うに義徒にあっても、彼を憎むほどでもなかったろうが、肉食の輩倶に議に足らずとして、その後の密謀に加えようとも思わなかったであろう。結局はこれを度外に置いたのである。それで彼は晏然として無意識に暮らしていた。すると今回の一挙は発した。「君父の讐は倶に天を戴かず」と公表して、四十七人敵営を斫り、目ざす上野介が首級を挙げた。看れば大石内蔵助のほかは、皆自分より下格の士、中には五両三人扶持の徒横目列までも交っている。「これは相済まぬ。このままにてはいられぬ」と深くも自家の放漫を悔恨し、十二月二十八日見事自裁して死んだ。当時の噂では親族から逼って詰腹を切らせたとの説もあった。自分はこの死の自裁であると詰腹であるとを問わず、注目すべき一の出来事であると思う。というはかつて政事的責任のピラミード論において論じたごとく、かの快挙の時代までは、君国のためには一命を棄てて報効せねばならぬという責任を、比較的上流の士が負うた。すなわち武士道はなお当時の中流以上の士に存していた。岡林の自殺は最も善くこれを証明する。それで自分は彼の自殺をもって、決して徒死でないと称揚する。
(『元禄快挙録』福本日南著 岩波文庫 より) 

 

2010年02月05日

推奨の本
≪GOLDONI/2010年2月≫

『THE BOOK OF TEA』 岡倉天心著 桶谷秀昭訳
平凡社 1983年

 
 To the sympathetic a masterpiece becomes a living reality towards which we feel drawn in bonds of comradeship. The masters are immortal,for their loves and fears live in us over and over again. It is rather the soul than the hand, the man than the technique, which appeals to us,――the more human the call the deeper is our response. It is because of this secret understanding between the master and ourselves that in poetry or romance we suffer and rejoice with the hero and heroine. Chikamatsu, our Japanese Shakespeare, has laid down as one of the first principles of dramatic composition the importance of taking the audience into the confidence of the author. Several of his pupils submitted plays for his approval, but only one of the pieces appealed to him. It was a play somewhat resembling the Comedy of Errors, in which twin brethren suffer through mistaken identity.“This,”said Chikamatsu,“has the proper spirit of the drama, for it takes the audience into consideration. The public is permitted to know more than the actors. It knows where the mistake lies, and pities the poor figures on the board who innocently rush to their fate.”
 The great masters both of the East and the West never forgot the value of suggestion as a means for taking the spectator info their confidence. Who can contemplate a masterpiece without being awed by the immense vista of thought presented to our consideration? How familiar and sympathetic are they all; how cold in contrast the modern commonplaces! In the former we feel the warm outpouring of a man's heart; in the latter only a formal salute. Engrossed in his technique, the modern rarely rises above himself. Like the musicians who vainly invoked the Lungmen harp, he sings only of himself. His works may be nearer science, but are further from humanity. We have an old saying in Japan that a woman cannot love a man who is truly vain, for there is no crevice in his heart for love to enter and fill up. In art vanity is equally fatal to sympathetic feeling, whether on the part of the artist or the public.


 It is much to be regretted that so much of the apparent enthusiasm for art at the present day has no foundation in real feeling. In this democratic age of ours men clamour for what is popularly considered the best, regardless of their feelings. They want the costly, not the refined; the fashionable, not the beautiful. To the masses, contemplation of illustrated periodicals, the worthy product of their own industrialism, would give more digestible food for artistic enjoyment than the early Italians or the Ashikaga masters, whom they pretend to admire. The name of the artist is more important to them than the quality of the work. As a Chinese critic complained many centuries ago, “ People criticize a picture by their ear.”It is this lack of genuine appreciation that is responsible for the pseudo-classic horrors that to-day greet us wherever we turn. (V ART APPRECIATION )   
   


 共感の能力のある人にとって、傑作は生きた現実になり、友愛のきずなによってそこへ惹きつけられる心地がする。巨匠は死なない。その愛と不安は、幾度も繰り返して、われわれの中に生きるからである。われわれの心に訴えるのは、手練よりは魂であり、技術よりは人間であって、その呼びかけが人間的であるほど、われわれの反応はそれだけ深いものになる。巨匠とわれわれのあいだのこの暗黙の了解があればこそ、われわれは詩や物語の主人公とともに、苦しみ喜ぶことができる。わが日本のシェークスピアである近松は、劇作の第一原則の一つとして、作者の秘密を観客に打ち明けることが重要だと主張している。彼の弟子の幾人かが、先生に認めてもらおうと脚本を書いてもってきたが、その中の一篇だけが近松の心に訴えた。それは、シェークスピアの『間違いだらけ』にどこか似たところのある脚本で、双生児の兄弟が同一の人間にまちがわれて苦しむ話である。近松は言った。「この脚本には劇本来の精神がある。観客を考慮に入れているからだ。観衆は役者以上に事情を知らされている。間違いのもとがどこにあるかを知っていて、何も知らずに運命にむかって突き進んで行く舞台上のあわれな人物たちに同情する。」
 洋の東西を問わず偉大な巨匠たちは、観客に秘密を打ち明ける手段として、暗示の価値を忘れたことがない。傑作をつくづくと眺めて、果てしない思想の広がりに思いを凝らして、畏怖の念に襲われることのない者がだれかあろうか。それらの傑作は、なんと身近で共感を惹くことか。それにひきかえ、現代の凡作は何と冷やかであることか! 傑作にわれわれが感じるのは、人間心情のあたたかい流露であるが、凡作には儀礼的な挨拶しか感じられない。技術に夢中になって、現代の芸術家は自己を超えることはまれである。竜門の琴の霊を呼びさますことができなかった楽人のように、現代人は自分のことばかり歌っている。彼の作品は科学により近いかもしれぬが、人間性から一層遠ざかっている。日本の昔のことわざに、見栄はる男は女に好かれぬ、というのがあるが、そんな男の心には、愛情を注いで満たす隙き間がないからである。虚栄は、それが芸術家の側であれ観衆の側であれ、芸術への共感にとって同じように致命的である。

 たいへん残念なことだが、今日、芸術にたいするこれほど盛んな表面の熱狂は、真実の感情に根ざしていない。このわれわれの民主主義の時代には、人びとは自分の感情を顧みることなく、世間一般がもっともよいと見做すものに喝采を送っている。彼らが欲しがるのは、高価なものであって、風雅なものではない。当世風のものであって、美しいものではない。大衆にとって、彼ら自身の産業主義の価値ある産物である絵入り雑誌を眺める方が、彼らが賛美するふりをする初期のイタリア人や足利時代の巨匠よりも、芸術的享受にはより消化のいい食物になってくれるであろう。作品の質よりも芸術家のなまえの方が、彼らにとって大事なのだ。何百年も昔の中国の或る批評家がかこったように、「民衆は彼らの耳によって絵を批評する。」今日どこを向いても、目に触れる擬古典的なぞっとするしろものにたいしては、この正真の観賞力の欠如が責めを負うべきである。(「第五章 芸術鑑賞」)

2010年02月06日

劇場へ美術館へ≪GOLDONI/2010年2月の鑑賞予定≫

[演劇]
*6日(土)から3月20日(土)まで。      浜松町・四季劇場[秋]
劇団四季公演『クレイジー・フォー・ユー』
劇団四季HP http://www.shiki.gr.jp/

[演芸]
*11日(木)から20日(土)まで。        半蔵門・国立演芸場
『二月中席 鹿芝居』
出演:金原亭馬生 林家正雀 金原亭世之介 ほか 

[オペラ]
*11,14,17,20,23日      初台・新国立劇場オペラ劇場
<ニーベルングの指環>『ジークフリート』
指揮:ダン・エッティンガー 演出:キース・ウォーナー
出演:クリスティアン・フランツ イレーネ・テオリン
   ユッカ・ラジライネン  ヴォルフガング・シュミット
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団

[音楽]
*28日(日)             赤坂・サントリーホール
『樫本大進のバッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ
  &パルティーク全曲演奏会』
  
[展覧会]
*3月14日(日)まで。        六本木・サントリー美術館
『おもてなしの美 宴のしつらい』

*3月22日(月・祝)まで。         丸の内・出光美術館
『麗しのうつわ―日本やきもの名品選』

*6日(土)から3月28日(日)まで。       広尾・山種美術館
『大観と栖鳳―東西の日本画

*6日(土)から3月7日(日)まで。  赤坂・ニューオータニ美術館
『大谷コレクション展』 

2010年02月23日

二代目市川左團次七十回の正忌に

 およそ如何なる藝術家でも――例へば、畫家、彫刻家、音樂家等々、孰れも――自分の作品をば見ること、聞くことが出來るのであるが、ひとり舞薹俳優のみにあつては、此事は不可能である。此事は舞薹俳優にとつて不幸のやうに誤認をする者がゐるかも知れぬが、然し、實は、そこにこそ、舞薹俳優の存在の意義があるのである。
 現在に於ては、映畫があり、音畫があり、ラヂオがあり、蓄音器があつて、舞薹俳優と雖も、自分の科を見ること、自分の白を聞くことは出來るが、然し、それらに依つて演ずるのと、舞薹に於て演ずるのとは、其科白两者の條件が全く違ふべきであつて、それに依つて現されたものは、既に舞薹の上の藝ではないのである。
 自分は知恩院の野外劇の時に映畫に撮られたこともあるし、またレコードに吹込まれたこともあるが、それらを見ても、それらを聞いても、舞薹の藝との喰ひ違ひが明かに缺點となつて現れて、或ひは自分の藝の缺點が、誇張をされて現れてゐるやうにさえも思われて、まことに不快な念を抱かせられるものである。然し、それらに囚れて舞薹がいぢけては實につまらぬことなので、それらは、ただ参考以上に、こだはる必要は無いと思つている。
 舞薹の藝とは、即ち、直接に観客の前で作り上げながら見せて行く藝である。従つて、所演する劇場の建築條件や観客の立場などを考慮しないと自分一人だけでは良いと思つても、意外の失敗を招く場合が無いとも云へない。
 卽ち、舞薹の廣袤や其遠近や観客席の條件等を考へずに演じたならば、圓柱や薹座の高さ大きさを考へずに其上に立像を置くやうなものであつて、如何に實物大の立像であらうとも、圓柱の高低に依つて其肢體の大きさや平均が違つて見えるやうに、また劇場の繪看板でも、下から仰ぐものと、前に立てるものとでは、其肢體の平均が違つて描いてあるやうに、俳優の藝も、それらの諸條件に従つて批判の角度が違つて價値附けられるものであるから、そこが非常に六圖加敷いところなのである。(略)

 また役者の藝といふものは、脚本と、役者の頭と、役者の藝との三つが揃はなければ、傑作は出來るものではないと考へられる。脚本が良くても藝が下手ではいけず、役者の頭が先走つて脚本や藝がそれに伴はなくてもいけず、今の若い俳優達や、新劇運動に携つている俳優達の間には、頭が先走つて、藝のそれに伴はぬという失敗が屢々見受けられるが、此三拍子揃つた傑作と云ふものは、一代の間にも數あるものではなくて、一生に一度でも良いくらゐだと思つてゐる。
 また役者の頭や藝よりも、脚本の方が少し低いものでないと、藝を振ふことが十分に出來無いといふ場合さへもある。これは現在の我國の稽古の日取りや其他の點からきてゐるのであるが、小山内君との自由劇場の頃、世界の名脚本を演じてゐる場合に、稽古日數でも十分にあればともかくも、これが短時日であると、其脚本の力に抑へつけられ、頭の仕事の解釋にばかり囚はれて藝が追はれ勝になり、ただ演じてゐるに過ぎないといふやうな經驗をしたことさへもある。然し容易しい脚本を選んで、なるべく仕勝手の好いものを演ずるやうにといふ意味では斷じてないので、ただ頭や藝の届く範圍のものでないと、準備日數の十分にあるものでないと、其結果がどうかと氣遣れるのである。
 一代の名舞薹であるとか、其役者でなければ出來ないものであるとか、と、云ふやうな前述の三位一體の傑作は、一般の人々が見ても眞に推服をするものでなければならぬので、少數の識者は種々の事情を知つてゐて、そのハンデイキャツプもあつて褒めるのであるから、事情も何も知らぬ人々迄もが、眞に推服をするやうなものでなければ、やはり、本當ではないわけである。
 或る醫學博士に「醫者は何歳位が一番腕の冴えてゐるところか。」と、聞いたことがあるが、其名醫の答へるには、四十歳から五十歳まづ六十歳位迄が一番の盛りで、それからは、ただ今迄の名聲や堕力で持續をしてゐるやうなものだとのことであつた。自分は、これを聞いた時に成程と頷けたが、役者も亦確に同じことで、六十歳位迄で其以後は大概堕力で走つてゐるやうなものであつて、藝其物が圓熟をしたといふ場合は別であるが、やはり先づ四十歳位迄に名を爲さぬような人だと心細いわけで、それから六十歳位迄が、身心共に最も油の乗つてゐるところであらうと思ふ。
 従つて、これからの芝居を進めて行く上に於ては、若い人達が、徒らな賣名的行爲を避け、只管に精進努力をして、一路、演劇の爲に盡してくれるやうに望んで止まないのである。
 一言に天才と云ふが、努力の無いところには、決して天才は生れない。――と、信じてゐる。

 上記は、二代目市川左團次著『左團次藝談』(南光社 昭和11(1936)年刊)からの採録である。左團次は昭和15年2月23日に病没した。享年六十、俳優としては「最も盛りの歳」であった。

2010年02月25日

二代目市川左團次七十回の正忌に(続)

 ―俳優といふものは、大概、何某は誰に手引きされて、あれだけの役者になつたのであるとか、誰に引立てられて、あれだけの位置になつたのであるとか。と、いふことが普通のやうですが、一體、あなたは、誰の世話に一番なつてゐるのですか。
 「私にとつては、不幸か、或ひは幸か、さういふ人は、一人もゐません。自傳でも述べたとほりに、幼少の頃には九代目團十郎の舞薹も見てゐますし、その後、父が明治座を建てて九代目もそれに出演をしたので、少年時代にも親しく其技藝には接してゐますが、別に手を取つて教えを授けられたといふこともなく、父の手許以外には始めから出なかつたので、今かうやつてゐられるのも全く父のお蔭で、特に誰に取りたつてお蔭を蒙つたといふやうな人もゐないのです。さうして其父も非常な放任主義で、わざわざ教わつたといふことは僅か一度か二度しかありませんでした。」
 ―あなたには特に贔屓といふやうなものはありますか。
 「私には謂ふところの贔屓といふやうなものはありません。従つて、贔屓を訪問するといふこともなく、父も此點は同じで、團十郎には貴顕方の贔屓があるとか、五代目菊五郎には岩崎や何かといふ紳商方の贔屓があるとかいふやうでしたが、父には、さういふものはありませんでした。例へば平沼専藏氏が贔屓だと一時思はれてゐたこともあつたやうですが、これは父が平沼家の家政上で面倒をみたことがあつたので、さういふ關係から、明治座を建てる時に、幾分の出資をしてくれたので、然しこれも役者の所謂贔屓として出してもらつたといふのではなく、判證文でちやんと借りたので、父の没後、私が返濟をしました。父の贔屓に就ては、かういふことがありました。明治三十年の三月でした。明治座で「芽出柳翠綠松前」と「意中謎忠義繪合」を出してゐた時のことです。非常な不入で、大に困つてゐたところが、突然、時事新報に「是非、此芝居を見るべし。」と、云ふ意味の大きな廣告が數日間に渡つて掲載をされました。新聞に芝居の廣告などは、まだ珍しかつた時代なので、これが非常な効果を奏して、俄に景気を盛り返し大入滿員の盛況で千秋樂迄打ち續けましたが、誰が廣告を出したのか、いくら時事新報社に問合せてみても、ただ三田の一商人となつてゐると云ふだけで、まるでわからない爲に、どうすることも出來無いので其儘に打ち過ぎてゐたところ、後で、これが、福澤諭吉先生であつたと解つたことがありました。……かやうに、私の家の贔屓は、父の代から、眼立たぬ贔屓、隠れた贔屓、生真面目な贔屓で、私も訪問をしてまはるなどといふ贔屓はありませんし、また、さういふこともしませんが、十年以上も毎興行缺かさず観にきてくださるといふやうな只管に舞薹の上の贔屓はあつて、さうして、私は、これを全く有難いことに心得てゐます。」
 (二代目市川左團次著『左團次藝談』「問はるるままに」より)