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2010年01月 アーカイブ

2010年01月01日

劇場へ美術館へ≪GOLDONI/2010年1月の鑑賞予定≫

演劇]
*11日(月)まで。           浜松町・四季劇場[秋]
劇団四季ミュージカル公演『ウェストサイド物語』
劇団四季HPhttp://www.shiki.gr.jp/

[音楽]
*6日(水)              赤坂・サントリーホール 
『ウィーン・リング・アンサンブル』

*19日(火)               千駄ヶ谷・津田ホール  
『コンチェルト・コペンハーゲン』
指揮・チェンバロ:ラース・ウルリク・モンテルセン 


[展覧会]
*17日(日)まで。           京橋・ブリヂストン美術館
『安井曾太郎の肖像画』

*18日(月)まで。                  銀座・松屋
『川喜田半泥子のすべて』

*27日(水)まで。        半蔵門・国立劇場伝統芸能情報館
『企画展示 新歌舞伎の世界』

*2月7日(日)まで。         日本橋・三井記念美術館
『江戸の粋・明治の技 柴田是真の漆×絵』

*2月7日(日)まで。         恵比寿・東京都写真美術館
『木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソン』

*2月14日(日)まで。         竹橋・国立東京近代美術館
『ウィリアム・ケントリッジ』   

2010年01月03日

推奨の本
≪GOLDONI/2010年1月≫

『戦後史の空間』 磯田光一著
新潮社 1983年

 
 中村光夫氏の戯曲『雲をたがやす男』のなかに、つぎのような一節がある。明治維新によって旧政府(幕府)が消滅してしまう場合、対外的な借款問題がどう処理されるかという栗本鋤雲の危惧感にたいして、子の篤太夫はつぎのように説明するのである。

 ―内乱は国内政治の延長、というよりそのひとつの形にすぎないというのが彼の考えで、だからどっちが勝とうと、あとからできた政府は、さきの政府が、外国に負った責任をひきつぐにきまっている。これは万国公法の定めるところでもある。したがって、内乱が長びいて、日本が破産状態に陥ることを我々は心配しているが、そうでない限り、政府の交替などは意に介さない。要は条件次第ということのようです。どこの国にもレヴォリウションはおこる。しかし国は国として持続して行く。この二つは別のことなのだ、とフロリは微笑しながら、申しました。―
 
 前半部で「内乱は国内政治の延長」というとき、維新の運動も一つの「内乱」にすぎないという認識がはたらいている。しかし後半で「どこの国にもレヴォリュウションはおこる」というとき、このレヴォリュウションは政権の交替だけではなくて、国家理念の変更をも意味しているのである。幕府が政権を持っていた時点にあっては、維新をめざす争乱はたんに「内乱」以上のものではありえない。しかし客観的には内乱による政権奪取をめざした動向も、それを推進した志士たちの主観の問題としては「レヴォリュウション」と意識されていたのである。それが成功して新政府が成立してしまえば、「内乱」史観は「レヴォリュウション」史観に転換せざるをえないであろう。しかし国際政治の舞台のうえでは、政府が国家を代表していさえすれば、その理念がどうあろうと二次的な意味しか持たないのである。
 中村光夫氏が『雲をたがやす男』を書いたとき、明治維新と二重うつしに一九四五年の敗戦を念頭に置いていたかどうかは問わないとしても、すくなくともこの戯曲の右の場面は、国家の内部に二つの史観の成立し得る可能性を示唆していると思われる。(略)

 上山春平氏が『大東亜戦争の遺産』(中央公論社刊)のなかで述べているように、「ポツダム宣言」と戦後憲法の原型を「大西洋憲章」に求めるという見解である。上山氏によると、「大西洋憲章」にみられる「好戦国」とは日独伊の三国を意味するが、戦後の「トルーマン宣言」(一九四七年)にみられる「全体主義」という用語は共産主義国を意味し、ここにおいて国際社会の”悪玉”が入れ替えられ、史観の書きかえがおこなわれているという。このような観点に立つとき、日米安保条約とは「トルーマン宣言」の具体化であり、比喩的にいえばかつて共産主義を敵視した「治安維持法」を、こんどはアメリカが国際社会に適用したものという一面を持つのである。そして二つの史観において、まったく無傷のまま美化されているのは、占領下の教科書の場合と同様にアメリカそのものなのである。
 「人民史観」が共産圏を不当に美化したことについては批判が出つくしているし、私自身も批判者のほうに近い立場にある。しかし占領軍の流布した「アメリカ=正義の国」という神話を相対化するために、かつて治安維持法に迫害され、その国際版ともいうべき安保条約に反発しつづけた左翼歴史学の果した役割も、けっして小さいものではなかったことを私はあえて指摘しておきたいと思う。そして「人民史観」とは異なる方向から、同じ役割を果したのが林房雄の『大東亜戦争肯定論』であったことも、戦後史観の推移の一事実として指摘しておかなければならない。だが両者の史観は、見かけほど対立しているのであろうか。試みに林房雄の肯定する「大東亜共栄圏」と、左翼歴史学者のいう「アジア解放論」とをくらべてみるがいい。両者を「アジア再編成論」という概念でくくってみるならば、その差異はアジアの盟主を日本とするか、共産中国とするかという、いわば同一の楕円の焦点の相違にすぎないことが明らかになろう。そしてわれわれは戦後の歳月を通じて、「大東亜共栄圏」はもとより、アジアのアメリカ化も、アジアの共産化も、けっして期待どおりの結果を生まないことを知ることによって、すでに史観の限界をみてしまっているのである。(略) 

 
 維新の推進者からみて、主観的に「革命」であることも、国際政治からみれば「内乱」にすぎない。このときわれわれは、『流離譚』が「革命」史観を持った多くの人物を登場させながら、最終的にはそれを包む「内乱」史観によって書かれていることに気づくであろう。一世紀にわたる歳月の推移の結果、体制・反体制の両者を含めて、外国からみれば一つの統一体としかみえないと同様の遠近法が、いまや明治維新については得られているのである。
 戦後を含む昭和史について、こういう遠近法がただちに獲得できるかどうか、私には断定できない、だが、近代日本の作家が社会のアウトサイダーの位置にその文学理念を確立し、そのうえ昭和前半の苛酷な政治によって文学が迫害されたことを思うとき、同時代史にたいする作家の遠近法のとり方が、まだ十分には開かれたものに達していない点を、一方的に責めるわけにはいかない。ただ確実にいいうることは、たとえば占領下に吉田茂が耐えていたものをえがくことができるかどうかは、政治上の立場の問題をこえて、日本の散文芸術の背丈にかかわる問題だということである。歴史の谷間にうずもれた無名の人びとの遺恨とともに、政治家の耐えざるをえなかったものをも文学の視野に入れたとき、日本の小説はいっそう成熟した史眼を獲得することになるであろう。そういう大河小説が出現すれば、さまざまな史観が交代し、史観の対立で争いをつづけてきた戦後という時代も、おのずから歴史の一齣として定着されるにいたるであろう。
(7「史観と歴史小説」より)
 

2010年01月15日

保阪正康著『後藤田正晴』に学ぶ

 年末から年始にかけての数日、磯田光一著『戦後史の空間』(1983年、新潮社刊)、保阪正康著『後藤田正晴―異色官僚政治家の軌跡』(1993年、文藝春秋社刊)を再読した。『戦後史の空間』は、3日の『推奨の本』で取り上げたので、今回は『後藤田正晴』について少し触れる。
 
 ―いずれにしてもいまの四十代、五十代の政治家が次代を担っていくわけですが、この世代についてお考えになっていることはありますか。つまり政治家として成熟していく可能性についてですが…。
後藤田 そう、全体的にドライなのかもしれないけれど、もうすこし礼儀というものをわきまえないといけない。たとえば言葉づかいとかね。また、大きな意味で欠けているものがあるように思う。それは何かということになるが、なかなか日本語になりにくいけれども、たとえば、この前もある若手の代議士にいったんだけど、「君はガアガアいっておるけれども進むということだけしか知らない。君は一歩退くということがなさすぎるよ」ということなんだ。自己主張はきちんとするけれど、それがいい面かもしれないが、だけどそれだけではいかんわな。世の中には長幼の序とか、けじめといったものがなければいかん、と思っている。
 ―政治を託すというのには不安な面があるという意味ですか。
後藤田 いやあそういう意味じゃない。私は何も道徳家であれ、といっているのではなく、政治状況の腐敗を正そうとするなら、相応の姿勢が必要だといっているわけでね。実際、有能でバランスのとれた者もいるからね。そういう代議士には期待しているということだ。私の世代だって、上の世代の疲弊を正すために懸命に生きてきたし、日本を復興させることに努力をつづけてきた。それがここにきて、新たな疲弊が生まれている。これを正すために、新しい時代にむけて情熱をもって歴史の中で生きてほしいという願いを私は強くもっているということだね。
 
 後藤田はときに自民党のニューリーダーと称される人物の名をあげ、その長所と短所を指摘した。あるいは他の政党指導者についても好悪の感情を洩らした。そういう指摘をしながら後藤田は、<歴史を託すに値する指導者>をしきりに求めていることが窺えた。(「終章 幻の「後藤田内閣」」より)

 <歴史を託すに値する指導者>としての政治家を見出せない現在の日本の不幸は、何も政治の世界だけの話ではない。芸術であれ、演劇であれだが、その世界への造詣も嗜好もなく、自弁では鑑賞すらしない文教族議員や文部科学省官僚達と懇ろになり、税金ばら撒きの助成金にありつき、文化庁の予算や施策にまで口を出す演劇人の跳梁跋扈は、「成熟しないお子ちゃま」や「長幼の序を弁えない」政治家の出現に比べて些細なことのように映るだろうが、これも「日本の不幸」のひとつである。
 「この国のあり方」に思いを致し行動することが政治家の務めだったはずだが、これは残念ながら四半世紀前の1980年代中頃には終わったようだ。
 来週の初めには、首相の施政方針演説がある。昨秋の臨時国会で行われた「所信表明演説」では、演説終了後に民主党議員が総立ちして拍手するという、ヒトラーユーゲント顔負けの愚劣な演出まで用意した側近たちは、この週末はどんな演出を考え、振付をしているのだろうか。そのことが国民を愚弄することだと気付くことなく。
 演出も振付も無用である。それよりは、保阪氏の言う<歴史を託すに値する指導者>として、「この国のあり方」に思いを致し行動する政治家の軌跡に学ぶことが大切であると思うのだが、「政治状況の腐敗」の当事者たちには馬の耳に念仏だろう。 


 ―中曽根は、日本に戻るやすぐに施政方針演説の草案づくりに没頭した。この草案づくりは組閣時から進めていたが、中曽根と後藤田の間にはその内容をめぐってぎくしゃくした面があった。当時の官邸詰め記者の話では、中曽根は一期二年という期間を想定していたために、三十年余の政治生活の思いをぶちまけるように、戦後政治の見直しを大胆に主張したかったというのだ。根っからの改憲論者である中曽根は、そのことも濃淡の差はあれ、この機会に訴えておきたいと思った節もある。
 後藤田が、そのような中曽根のブレーキになった。
 後藤田は積極的な改憲論者ではなかった。むしろあの占領期を肌身で知っているがゆえに、そして戦後はこの憲法をもとに日本の再興があったと考えているがゆえに、「僕は憲法を評価しているよ。日本の社会は全体としてはよくなっている。(占領軍の押しつけという論もあるが)その点は議論が分かれるところだ。見直せという論もわかるが、それに伴うリアクションの大きさも考えなければならない」というのが持論だった。『後藤田正晴・全人像』によると、後藤田は、「(憲法)九条はこのままでいいと思うのですね」という問いに次のように答えている。「うーん。難しいね。今のような国会答弁だと、自衛隊が認知されたような、されんような、そんな可哀想な状態で、命を捨てる仕事がどこにありますか。将来、国民が変えたらいいといえば、変えればいい」
 後藤田は、憲法改正を政治日程にあげ、国論を二分する争いをひきおこすような事態は好ましくない、と断言している。しかも、少なくとも太平洋戦争にかかわった世代の者が徒らに憲法改正を口にすべきではないというのがその持論である。平成三年のPKO議論の際の後藤田の発言は、一貫して「憲法を守れ、安易に自衛隊を海外に出すな」というものであった。中曽根内閣の初期にはタカ派といわれ、平成三年からはハト派といわれる、その世評の変わりように後藤田は、「君、僕自身は何も変わっとらんのだよ」と苦笑するのである。
 後藤田は、中曽根の説く「戦後政治の見直し」に、改憲を除いては賛成であった。実際、占領政策、五五年体制以来のさまざまな政治的局面を見直すべきときにきていると考えていた。
 中曽根は、後藤田も推敲に加わった施政方針演説で、経済大国になった日本は、いま戦後史の転回点に立っているといった。そして、これまでの制度、仕組、考え方などについてタブーを設けることなく、新しい目で率直な気持で見直していくべきだ、と力説した。その中には、アメリカでのレーガン大統領との友好的な会話をもとにして、日本もアメリカと対等な関係を持つべきだ、という主張も含まれていた。確かに大局的な状況と方針を語る語は幾つもあったが、改憲といったような具体的な政治方針は含まれていなかった。
 後藤田が中曽根にブレーキをかけて、そうした具体的な施政方針を盛りこませなかったのだと、当時首相官邸周辺では語られた。もっとも後藤田自身はこうした推測については一切語ることがなかった。(「第六章 官房長官の闘い」より)