2017年05月

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2017年04月15日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2017年4月》

小玉 祥子著『二代目 聞き書き 中村吉右衛門』
毎日新聞社 2009年

江戸時代の風情を残す芝居小屋「旧金毘羅大芝居」(香川県琴平町)では、例年四月に「四国こんぴら歌舞伎大芝居」の名を冠した歌舞伎公演が行われる。だが一九八五年六月に第一回公演が実施されるまで、劇場は長い眠りの中にあった。発足の端緒を作った一人が吉右衛門である。(略)天保六(一八三五)年創建の、花道、セリ、スッポンなどの舞台機構を備えた七百人規模の劇場に、吉右衛門はすっかり魅了された。(略)
江戸時代の芝居小屋と同規模の劇場に出ることには、単に芝居を演じるという以上の意味があった。歌舞伎には昔の俳優の口伝、秘伝が多く残されているが、その意味に気づかされたという。
「例えば足を愛らしく見せるために女方が小さめな草履を履く、という口伝があります。今の劇場なら大半の客席から役者の足元までは目に入らないからそんな必要はない。でも『こんぴら』では、踊りなら役者の足さばきまでが全部見えます。昔の芝居小屋では、全てが見えたからこそ、足元を注意する口伝もできたんでしょう」
舞台と客席の距離。それは演技にも影響する。
「お客様が芝居に即座に反応してくださる。『こびる芝居をするな』『手をたたかせる芝居をするな』と昔から戒められてきました。大劇場の三階席後方まで演技を理解していただくには、オーバーにした方がいいという意見もあるでしょうが、『こんぴら』のような空間でそうすると真実味が出ない。逆にわざとらしく映る。役で芝居に打ち込めば、十分にお客様は理解し、身を乗り出してくださる。そのことがよく分かりました」
化粧法についても発見があった。
「自然光を取り入れているので、薄塗りの方がきれいに見えるし、顔を赤く塗る敵役の赤っ面がきれいに見える。厚く塗ると表情の変化が分からないんですよ」(「こんぴら歌舞伎」より)

「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助、「元禄忠臣蔵」の大石内蔵助、「熊谷陣屋」の熊谷直実、「石切梶原」の梶原平三など、数多い当たり役を持つ吉右衛門だが、初代から引き継いだ役への思い入れはことに強い。その一つが「俊寛」の俊寛である。
正式な題は「平家女護島」。「平家物語」の世界を題材にした近松門左衛門の五段構成の時代物浄瑠璃で、「俊寛」と通称される二段目のみが頻繁に上演される。初代が度々手がけ、人気作品とした狂言でもある。
平家打倒の「鹿ヶ谷の陰謀」が露見し、俊寛、成経、康頼の三人は鬼界ヶ島へ流罪となる。俊寛が成経に海女、千鳥という恋人ができたと知らされ、仲間と二人の祝言をしている時に、都からの赦免船が着く。成経は千鳥も連れ帰ろうとするが、上使の瀬尾は乗船を許さず、俊寛に妻の東屋が平清盛を拒んで死んだことを告げる。俊寛は瀬尾を殺し、自分の代わりに千鳥を乗船させてほしいと頼む。残された俊寛は、独りで船を見送るのであった。(略)
俊寛は去っていく船を「おおい」と叫びながら波打ち際まで必死に追い、最後には崖に登ってじっと見つめる。心情を表す「思い切っても凡夫心」の詞章が利いている。
「おやじに教わったのはこうです。船に近づこうとすると波が寄せ、だんだん深みにはまる。都人で水が苦手なので気づいて怖くなって後ろへ下がっていく。とうとう船が見えなくなったので崖に登る。リアルなんです。若いころ、もっと派手なやり方をした初代も最後には、そこに行き着いたようです」(略)
「彼方に見える帆に向かって『おおい』と叫んでいたのが、すべて視界から消えてしまい、じっと水平線を見つめる。それまでは生臭く四苦八苦していたのが、欲も何もなくなり、悟りの人間となる。おやじは『石になってしまうんだ』と言っていました。 幕が閉まった後に、『かわいそうだな』とお客様に余韻を残すようなやり方です。初代の演出を他の追従を許さないようなものにまで持っていくのが僕のつとめだと思います」(略)
「僕もどうしても、泣かせようとしてしまいます。でもおやじの俊寛を最近ビデオで見返すとそうではない。俊寛に成り切っているというのでしょうか。『自分が身代わりに島に残って、成経と一緒にこの娘を都に行かせたい』という一念だけ。技術的には何もしていないのですが、それが胸に迫る。僕はそれこそ初代吉右衛門の神髄をまねできたということではないかと思う。ちょっと見にはおやじと初代は全然違う。台詞の言い方も違う。ですがそこに一本つながっているものがあるんです」(「俊寛」より)

2017年02月11日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2017年2月》

小島直記著 『人材水脈ー日本近代化の主役と裏方』 日本経済新聞社 1969年

…年のとり方、老年の迎え方に、もっとも見事な実例を残したのは幽翁伊庭貞剛だったように思われる。それはなによりも「出処進退」において意識的に実行された人生の一大事であった。
大阪上等裁判所判事をやめて郷里に帰ろうとしたのが、明治十一年三十二歳のときである。世渡り、立身出世主義だけを考えれば、弊履のように捨て去るにはおしいステイタスであったろうが、彼は暮夜ひそかに権門勢家に出入りしてその鼻息をうかがうような官界の腐敗堕落にたえられなかった。栄達よりも心の平静、満足を求めることが人生だと考えたのである。
その彼が、叔父広瀬宰平の説得で住友入りをしたいきさつは『日本さらりーまん外史』でのべた。本店支配人となり、大阪紡績、大阪商船の取締役、大阪市参事会員、大阪商工会議所議員、大阪株式および米穀取引所の役員などを兼ねたが、四十一歳のとき琵琶湖畔石山に隠棲の地を求めた。現世的にはもっとも欲や執着の出るその立場と年齢において、彼はすでに自分の晩年をみつめていた。それは無常観にとらわれた敗北主義のあらわれではなくて、いつでも辞表を書いて隠退できる場所を確保した上での、戦闘の構えに他ならなかった。仕事への没入と同時に名利からの離脱が期せられていた。
(中略)幽翁は荘重達意の文章家であったが、新聞雑誌には一度も寄稿したことはなかった。それが五十八歳のとき、はじめて『実業之日本』に「少壮と老成」という感想文を発表した。かれはこの中で、老人の経験の貴重さをいうとともに「老人はとかく経験という刃物をふりまわして、少壮者をおどしつける。なんでもかでも経験に盲従させようとする。そして少壮者の意見を少しも採り上げないで、少し過失があるとすぐこれを押さえつけて、老人自身が舞台に出る。少壮者の敢為果鋭はこれがために挫かれるし、また青年の進路はこれがために塞がってしまう。……事業の進歩発展に最も害をするものは、青年の過失ではなくて、老人の跋扈である」と書いた。そして彼自身は、これから五月後に住友総理事のポストを四十四歳の鈴木馬左也にゆずり、十七年前から用意していた石山の別荘「活機園」に隠棲したのである。
彼はこの山荘で静かに老いていった。はじめは、日常の動静を語るのに「悠々自適」のことばを用いていたが、七十八歳のときから「曠然自適」というようになった。「悠々」にはまだどこかにアカのぬけきらないところ、自力をたのんで得々然とした趣が残っている。「曠然」は、何ものにもとらわれぬ無礙自在の境である。大正十五年五月、八十歳のとき子女をあつめて遺言をし、財産を分けてやった。そして十月「こんな悦びはない。この徹底したよろこびを皆の悦びとして笑ってお別れしたい」といい、家族順々に末期の水をふくませてもらった。そのとき、幼い孫が二度ふくませようとすると、「お前はさっき、くれたではないか」といって微笑し、やがて大往生をとげた。筆者はこの間恩師から、「昨近は隠居入道ということがない。隠居即入墓と考えているようだ」という話をきき、伊庭幽翁のことを思いださずにはいられなかった。
(「伊庭貞剛 栄達よりも心の平静」)

2017年01月14日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2017年1月》

伊藤肇著 『左遷の哲学』 産業能率大学出版部 1978年

現職総理への直言

佐藤栄作が総理在任中に佐橋(滋・元通産事務次官ー引用者注)は「佐藤首相、あなたは今すぐ辞めるべきだ」という論文を発表した。
「……権力のポストには職務と責任が付随する。これを職責という。権力が増大するにつれて、その職責は大きくなる。 日本中で最も大きな職務と責任をもつものは総理大臣である。佐藤総理は本当に職責を痛感しておられるだろうか。六年、その職についても、いっこうに疲れをしらない。あとニ年、四年はその激務に耐えられそうである。まさにスーパーマンといえよう」
冒頭から佐橋一流の痛烈な皮肉だ。
たしかに総理は激務だ。総理をつとめて痩せなかったのは元老、西園寺公望くらいのものである。
総理とは、その激務においてはくらべものにならない社長のポストだって、三期六年、全力投球したら、ヘトヘトになるはずである。となると、「職務と責任とは二義的で、権力を十二分にエンジョイしておられるような印象をもつのは私だけだろうか」という佐橋の批判は、かなりドスがきいている。
「総理は利口ものである。利口と聡明とは違い。読んで字の如く、口さきがうまい、というのが利口の原義である。器用にふるまうのを利口ものといい、利口ものの本体は保身である。われわれが政治家に要求し、期待するものは偽りのない誠実さである。誠実を貫くためには勇気を必要とする。保身を心がけるものには勇気は生まれてこない。勇気は他人のために、真実のために、自らを投げ出すことである」
佐橋があるとき総理大臣に呼ばれて、経済問題を説明したあと、総理が「また遊びにきてくれよ」とお為ごかしをいったのがカチンときた。
「遊びにこい、といったって、私のような素浪人が、まともに筋を通しても総理には会えないような機構になっているじゃありませんか。そんなホンネとタテマエの違うことは最初からいわぬほうがいいのです。必要があるなら、堂々とよびつければよい。それが一国の宰相たるの見識ではありませんか」
佐藤栄作は苦虫を十もかみつぶしたような面をしたという。
最後に佐橋は「古今東西、どんな名君、名宰相といえども、長らく、その職にあれば、必らずマンネリ化し、飽きられるのは歴史の常則である。あまり、総理職を一人で楽しまないことをおすすめする」とバッサリきりすてている。
辞め方を会得すれば、政治家も経営者も一人前である。たとい、万斛の涙をのんでも、散るときには散らねばならぬ。それが出処進退の要諦というものだ。
興銀相談役の中山素平も「責任者は、その出処進退に特に厳しさを要するというより出処進退に厳しさを存するほどの人が責任者になるべきである」と喝破しているが、もし、その時点で、佐藤が辞める決意をしておれば、心ならずもロッキード事件の田中角栄に政権をわたして、あれほど無様な野垂れ死をすることはなかったであろう。

2017年01月07日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2017年1月》

戸板康二著 『家元の女弟子』 文藝春秋 1990年

「まだあんまり話したことはないが、歌舞伎の役者も、能役者と同じで、年をとってゆくにつれ、節目節目で、その年配相応の時分の花というものがあるんです。女形は娘形から人妻、つまり中年まで行き、時代物でいえば、片はずし(中年の女のかつら)のかつらの年ごろ、そのあとが当たり前ですが、ふけ女形と、大きくわけても、三段階」(中略)
「女形でない主役でも、『忠臣蔵』の役でいうと、力弥の年ごろ、千崎弥五郎の年ごろ、それから勘平だの定九郎の年ごろ、さらに由良助から白髪の本蔵と年をとってゆくわけです。人によっては、まだ千崎がしたいと頑張る役者もいるが、早くみきりをつけて、一段上ったほうが、いさぎよいと私は思う」
(「かなしい御曹司」)


五段目はとにかく、六段目で花道でおかると会ったあと、家の前に戻って来た勘平が、格子戸をはいりながら、客席のほうをチラッと見たのが、わかった。
そのあと、前夜の雨洩りのあとを見あげたりして、猟師の縞の衣装をぬぎ、おかるに紋服を持って来させて、すてゼリフをいいながら着かえ、かわらけ茶の色の帯をしめる。この芝居をしながらも録蔵はまた客席にチラリと目をやり、視線の定まらないような顔をしている。
「へんですねえ」
「へんですよ。録蔵、どうかしている。元来この男は舞台で客のほうをみない、行儀のいい役者として定評があったんだがね。」(「一日がわり」)


「大体、殺しというのは、ほとんど、定九郎でも道玄でも、村井長庵でも、宇都谷峠の十兵衞でも、刀で切ってしまうんだが、絞殺というのもたまにはある。ところで役者というのは妙なもので、切られ方というのは、馴れている。いわゆる手負いですね。一太刀で切って相手を花道の七三までバタバタで行って見得をする。そして舞台に帰って来て、お前の袖とわしの袖とか、露は尾花と寝たというとか、下座の唄で、いろいろな見得をしたあげく、最後にぐったりして死ぬという段取りだから、これは紋切り型で馴れてるんだ。ところが、締められて落ち入るという場面はめったにないから、どんなふうにしていいか、わからないんです。」
「そんなものですか」刑事は目を丸くしている。
「来月の求女はまだ若い丹五郎の役なのだが、何度も稽古にはいる前の申し合わせをして、どうもうまくゆかない。そこで波六は、ほんとうに人が首を締められた時、どんな格好をするのかをまず知りたかった。」
「だって黙阿弥の狂言だから、きまった型があるでしょう?」私が尋ねた。
「それをそのままやればいいのだが、このごろの若い役者は、実際には人間はどういう反応を見せるかを知った上で、その型をつけるようになった。これは私たちの時代にはなかったことです。」
もしそうだとしたら、やはり新劇のリアリズムの風潮が、歌舞伎の古典の芸にも影響を与えているのだろう。(「赤いネクタイ」)

2016年06月02日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2016年6月》

丸山眞男著 『忠誠と反逆ーー転形期日本の精神史的位相ーー』
筑摩書房 1992年

(略) けれども、政治団体が自主的集団を代表するところでは、国家と独立した社会の十全な発達は期待できない。むしろ本来的に闘争集団であり権威性と凝集性を欠くことのできない政治団体にたいして、開いた社会への垂範的な役割を託するということ自体に内在的な無理があるというべきであろう。政治と異なった次元(宗教・学問・芸術・教育等)に立って組織化される自主的結社の伝統が定着しないところでは、一切の社会的結社は構造の上でも機能の上でも、政治団体をモデルとしてそれに無限に近づこうとする傾向があるし、政党は政党で、もともと最大最強の政治団体としての政府の小型版にすぎない。それだけにここでは一切の社会集団がレヴァイアサンとしての国家に併呑され吸収されやすいような磁場が形成されることとなる。「交詢社」などの使命とした「社交」がその後たどった運命はどうであったか。維新以来のもっとも著名な知日家の一人であるB.チェンバレンは、この国の自然の風景の素晴らしさと対蹠的に「社交」がおそろしく退屈なことをのべ、「日本における善美なもののカタログをひろげれば随分沢山ある。けれども諸君の教養ある魂が客間やコンサートホールのよろこびを憧がれはじめたら、諸君はむしろ故国へ帰る切符を買った方がいい」と勧告しながら、そこに潜む根本問題についてつぎのような定式化をこころみている。
「日本では、社交界というのはほとんど全く政府筋のものである。イギリスで田舎の名門といえば、官職引き受けるものも引き受けないものもあるが、引き受けた場合にも、それですこしでも家門の名誉が増すわけではなく、それどころか逆に官位の方に箔が付くのであるが、そういった意味の名門に当るものが日本には皆無である。(中略)日本では皇室が事実上唯一つの栄誉の源泉であり、一旦敗れた大義名分にはこの国では誰も味方に付き手がない。(中略)皇室(というより皇室の名において行動する者なら誰でもいいのだが)は古い封建制の廃墟の上に新たな官僚制こそを築いたが‥‥この官僚制こそ国家そのものでありまた社交界でもあって、いかなるライヴァルの存在をも始めから排除してしまうような、本来の意味での貴族制なのである。‥‥実際日本の社会では官界が圧倒的なエレメントであり、政府の援助なしには何一つできない。アングロ=サクソンはこうした個人主義の欠如をもって、とかく弱さの源泉と断定しがちである。しかしこうした見方にたいして、日本の驚異的勃興ーー日本の政府の指導下の奮励によってたった一世代の間にかちえた地位ーーはまさに抗し難い反証となる。日本はプロシャのように中央集権化を通じて成功した。その四千三百万の国民はあたかも一人の人間のようにうごくのである」。
無数の閉じた社会の障壁をとりはらったところに生まれたダイナミックな諸要素をまさに天皇制国家という一つの閉じた社会の集合的なエネルギーに切りかえて行ったところに「万邦無比」の日本帝国が形成される歴史的秘密があった。チェンバレンのいう「反証」がはたして、またどこまで、反証でありえたかを、すでに私達はおびただしい犠牲と痛苦の体験を通じて知っている。しかし、その体験から何をひき出すかはどこまでも「第三の開国」に直面している私達の自由な選択と行動の問題なのである。
『開国』(『講座現代倫理』第十一巻「転換期の倫理思想(日本)」1959年)

2016年02月04日

推奨の本≪GOLDONI・劇場総合研究所 2016年2月≫

『人間の演劇』
 ジョルジョ・ストレーレル著  岩淵達治訳  1978年 テアトロ刊

わたしの師匠たち
 (略)今日の若者たちは、多分もう師匠などもたないだろう。そんなものは不必要だと思っている。誰にも「借りをつくりたく」ないのだ。だが師匠は必要なものだ。むかしとはちがった形、ちがった「方法」ではあっても、やはり必要なものだ。そしてわたしには三人の師匠がいた。
 
 ひとりはジャック・コポーである。コポーとは個人的に知己を得ることはできなかった。それでも彼は師匠のひとりだ。彼に負うところは非常に多い、演劇人としての自己形成の根本的なものを、わたしは彼から学んだ。そして今日それを定義するのはむずかしい。でもやってみよう。コポー、もしくは厳格、彼岸的で、道徳的な演劇のヴィジョン、といおうか、コポー、もしくは演劇という統一体に対する感受性、書かれたセリフと演技の間の統一。演劇は道徳的な「責任」をともない、執拗な、ひたむきの愛を捧げるところでなければならない。劇場での、ただの「遊び」だけではない同志的な感情、演劇の苦しいほど「宗教的な」意味、コポーはこうしたことを確信していた。ただ安直な教条に従ったり、儀礼的にそう信じたのではなく、いわばみずから及び他者との凄惨な闘いにもたとえられるような仕方で確信したのだ。彼が演劇でどれだけ沢山のことを放棄したか、その理由は何だったかについてはしばしば語り草になった。今日わたしは、彼の二、三の側近の弟子たちが語っていること以上に、コポーが演劇を放棄したのは、「彼が望んでいる演劇を人間にやれと要求できるのは神だけだ」と思うようになったという単純な理由からだと思っている。
 わたしは信仰をもつ人間ではない。でもわたしは、人生と人間に対するこの厳格な「責任感」、この演劇という統一体、自己破壊と絶対的な帰依というものは信じている。わたしは、他の人のために、他の人の助けをかりて舞台上につくり出す演劇というものを信じている。私の演劇観は「お遊び」的なものではなく、秩序、誠実さ、明晰さ、真実を求めることにおいてつねに醒め、厳しくそれに専念し、苦痛を覚えるほどである。たとえ笑っている時でも。
 
 次の師匠はルイ・ジュヴェだ。ジュヴェとは知り合いになれた。しかも人間的にも演劇人としてもかなり親しく。わたしはまだ若く、彼はもう「演劇界の大御所」で「大人<ル・パトロン>」(わが国にはない、すばらしく好きなフランス語だ)だった。彼の人間味、わたしに持ってくれた「本物の」関心、別の世代、別の世界、別の興味、こういうものが今日まで、わたしにとって「有効な」教訓になっている。特に、自分からみると多少異様で、多少敬意をもっている自分の後の世代の人のなかにも入りこんでいこうとするあの能力をわたしは彼から学んだ。さらに、演劇を、そのみじめな面、つまり「神々しい芸術」ではなく、「日々の労働」としても受けいれる勇気を学んだ。また「職人芸を職人芸として」愛すること、職人芸を使用し、しかも「うまく使う」というプライドなども彼からゆずりうけたものである。
 つまり演劇を人間の仕事と考えるのだ。演出しながらつねに批判をとぎすましていることも彼から学んだ。台本をただ言語学的に、文明批評的に「研究」するだけでなく、「感覚的、直観的に理解」し、しかも前の場合と同じように一種の批判的態度を失わないでいられる術だ。演劇のはかなさを勇気をもって認める感覚も彼に学んだ。このことでジュヴェのしてくれたある話を思い出す。ある老優が、彼の演じた当り役のすべての衣裳を保存しておいた。ハムレット、マクベス、リア、その他数えきれない世界の演劇の「怪物たち」の衣装だ。その俳優が死を直前にして衣装を眺めているとき、突然悟ったのは、生き残っていくのが自分ではなく「ほかの連中」だけだということだった。永遠不滅なのは衣装でも役でもなく、劇詩の本質だけなのだ。生涯の終りになって、ようやくこの俳優は、彼が単なる道具だったこと、たぶんかけがえのない道具ではあろうが、所詮は詩の道具にすぎなかった理解したのだ。(略)
 彼は演劇に身を委ね、演劇によって自分を創造させることしか望まなかった。

 そこに次の師匠が登場する。ブレヒトだ。ブレヒトはある意味では終着点だった。(略)ブレヒトはわたしに、(他にもいろいろ教わったが)「人間的な演劇」、ゆたかで包容的な演劇(ジュヴェともある面では関係がある)を教えてくれた。包容的とはいったが決して「自己目的の演劇、演劇バカの演劇」ではない、人間を楽しませるための人間のための演劇、だがそれだけでなく、自分を変革し、人間のために世界を変革するために、人間に手を貸してやる演劇だ。俳優、演劇人で、しかも同時に自覚して生き、責任をもつ人間であること、この二つの次元を徹底的にきわめていくこと。歴史と無縁な演劇など存在しない。時代と無縁の、「太古以来変らない演劇」など存在しない。歴史は「反演劇的」ではなく、歴史と演劇、人生と世界は、たえまない、困難な、しばしば苦痛であるほどの弁証法的な交流関係をもっている。交流しつつ常に活動的に、常に全体的な生成にむかっている。
 ブレヒトは舞台上の技術と方法論の偉大な師匠だった。彼はトータルな「演劇人」だった。彼は大演劇人の風格を備え、すべてを<演劇化>し、すべてを吸収して演劇に融けこませた人だった。(略)わたしをとりこにしているのは、あの比喩的な、あまりにも使い古されていながらそれでも驚くほど正しいブレヒトの言葉であろう。「すべての芸術は、結局すべての術のなかで最高の術に達する役に立つ。それは生きる術である」。はじめはそれを自覚していなかったが、今ではわたしにはその自覚があると思う。これ以上、自分について言うことはない。(「第二部 芸術作業としての演劇」より)

2016年01月01日

推奨の本≪GOLDONI・劇場総合研究所 2016年1月≫

『ストレーレルは語る』―ミラノ・ピッコロ・テアトロからヨーロッパ劇場へ―
 ウーゴ・ロンファーニ著  高田和文訳  1998年 早川書房刊

 演出家の仕事と演劇の倫理
 ロンファーニ 今、演劇の"倫理"ということを言ったが、君はずっと演劇を倫理的な制度と捉えてきた。それによって、歴史の発展に寄与し、社会を変革することができると。今はどう見ても、そういう考え方はかつてほど信頼されていない。もはや時代遅れの考え方だと言われている。これに君はどう答えるのか?
 ストレーレル 率直に言って、新しい概念を取り入れたり、用語を変えたりするのにやぶさかではないが、演劇について別の考え方をすることはできない。演劇とはやはり、倫理的な制度だと思う。
 ロンファーニ 確かに、君の演劇観のある部分が誤解されてきたことは間違いない。特に、公共の演劇という概念については、現在、かなりの混乱が生じている。
 ストレーレル 演劇を現実からの逃避、単なる娯楽、ないしは営利行為と見る危険な傾向がある。時代のせいだと思うが、演劇の使命などということについて語るのは気恥ずかしい、あるいはうんざりだという人がいる。私は違う。しかし、だからと言って、演劇への情熱や演劇の楽しさを否定しているわけではない。

 演出家の仕事と俳優
 ストレーレル 私の考えでは、演出家とは、俳優としてある程度の経験を積んだあとで、俳優とは別の道を歩もうとする者だ。そうした経験こそが、演出家としての自らの拠り所になる。また、自分で身に着けた文学や芸術についての知識や、ものごとを理解したり、説明したりする能力も必要だ。卒業証書によって演出家の資格を与えるなどということはありえないと思う。
 ロンファーニ つまり、演出家になるにはまず俳優になれということ。基本的に自分自身で学ぶべきで、学校ではただ規則や技術を教えるにすぎないというわけだ。
 ストレーレル 演劇を生み出すのに必要な想像力は、限りなく広い範囲にわたるから、学校だけで演出を教えるというのは無理だ。事実、少なくとも私にとっては、演出の決定的な部分、最も難しく危険の大きい部分は、どういう角度から批評を行なうか、その方向を選択することにある。というのは、一般的に言うと、演出とは批評する行為だからだ。最初の段階では、ほとんど科学的とも言える厳密さを具えた知的な作業だ。しかし、いったん最初の選択がなされたら、その中で自由に空想を働かせる。厳密な批評の行為と想像力という二つの要素を融合させねばならない。私の出す指示が厳格であったり、声の抑揚や仕草、位置に徹底的にこだわったりするのは、全体の構想と俳優の自由な表現とを調和させようとしているからなのだ。
 ロンファーニ なるほど。しかし、君について悪い噂を立てる者もいる。ストレーレルは独裁者だ、役者を徹底的にしごいて、自分に服従させようとする、と。
 ストレーレル 待ってくれ。ここで自己批判しろと言うのか? もちろん、感情のズレや多少の誤解、意見の対立がなかったとは言わない。しかし、舞台の独裁者だなんて、そんなことは断じてない。権威と権威主義の違いは微妙だが、私はそれをわきまえているつもりだ。権威とは信頼感により説得する力であり、権威主義とは誤っているにもかかわらず正しいと主張し続ける独断のことだ。実際、どれだけ多くの俳優たちがピッコロ・テアトロで仕事をしたことか……。
 ロンファーニ 何人くらい?
 ストレーレル 千人。いや、たぶん千二百人はいるだろう。そのうち何人かは、我々の家族の一員としてピッコロ・テアトロにとどまる決意をした。また、ここを去った者も、決して機械仕掛けのロボットのような役者にされたわけではない。ジャンニ・サントゥッチョのように、別の道を選んだ者もまた、ピッコロ・テアトロでの経験から多くのことを学んでいる。だれもがロヴェッロ街の劇場で、俳優としてのかけがえのない経験を積んだ。しかも、同時に社会的な意識を深めることもできた。優れた俳優たちは、このことをはっきりと認めている。(略)ピッコロ・テアトロはいつだって、人々が去り、また帰って来る我が家のようなものだったんだ。長い旅路のあとの休息の場であると同時に、次なる飛躍のための踏み台だった。それこそ、私がこの劇場に誇りを持っている理由の一つだ。

2015年05月15日

推奨の本≪GOLDONI 2015年5月≫ 

   
★ 『物語批判序説』/中央公論社刊
蓮實重彦 著/1985年
     

―たとえばシャルル・ボードレールは、その『現代生活の画家』をこんなふうに書き出している。

世間には、いや芸術家の世界にさえ、ルーブルの美術館へ行きながら、第二級のものではあるがたいそう興味のあるたくさんの絵の前は、ちらと眺めることすらせず、さっと通りすぎ、ティツィアーノやラファエロの、版画のおかげで最も人口に膾炙した絵の前に、夢見心地で立ちどまっている人々がある。それで満足して外へ出がけに一人ならずの者が、「私も美術通になった」と独語する。

この夢見心地の鑑賞者たちの快感が、複製手段によって既に知らされていたものと、いま目にしつつある美術作品との類似によって保証されるものであることはいうまでもない。ここでの美術評論家ボードレールの関心は、名高い大作家にしか興味を示そうとしない公衆と、無名の小詩人たちの擁護者との関係、つまり普遍的な美と特殊な美との対立といった視点から現代の風俗画家を論じることにあり、模写や複製といった現象がそのまま主題となっているわけではない。だが、われわれにとってのさしあたっての関心事は、ほどなく写真が演ずるであろう機能を、すでに版画が演じているという点にある。人は、明らかに類似の確認を求めて美術館に足を運び、物語の正しさに安心して「芸術」をおのれのものにする。「模写」の正確さが、いま、「芸術」の物語を模倣しつつある自分を正当化してくれるのだ。
 もちろん、こうした現象は、こんにち、より大がかりなものとしてわれわれのまわりに起りつつあり、何ら珍しいことがらではない。だが、そのことの是非を問うことが問題なのではない。「私も美術通になった」と独語しうる匿名の群の量的な増大が「芸術」を堕落させたといって顔をしかめてみても始まらないからである。ただ、こうした現象があくまで歴史的なものであり、その歴史性を無視した「芸術」信仰はもっぱら抽象的な言説しか生み落しえないだろう。そのときいらい、「芸術」は、「芸術家」という特権的な才能の排他的な身振りが煽りたてる流行語であることをやめ、誰もが語りうる共通な話題となったのである。あるいは、「芸術」は問題となったといいかえてもよい。
                     (「模写と複製」より)
     

    
★ 『表徴の帝国』/新潮社刊
ロラン・バルト 著 宗左近訳/1974年
     

―魂あるものと魂なきもの、という基本的な二律背反を扱って、≪文楽≫はその二律背反の成立を妨げ、そのいずれの側にも偏ることなく、背反を消滅させる。フランスの操り人形(たとえば道化人形)は、俳優と正反対のものを写しだす鏡を俳優に見せてくれるものである。この操り人形は生命なきものに生命をあらしめる。だがそれは、人形の劣等性、人形の無自動性の無価値ぶりをよりよく示すためなのである。
≪生命≫のカリカチュアにほかならない姿を見せることによって、この操り人形は≪魂≫というものの限界をはっきり示して、俳優の生きた肉体のなかにこそ美と真実と感情はあるのだと主張するものである。ところが現実には、俳優はその肉体を使って虚偽をつくるのである。
≪文楽≫はというと、これは俳優の存在を人形に刻みつけない。わたしたちから俳優を追いはらってしまう。何によって? 生命なき物質がこの舞台においては、生命さる(つまり≪魂)を与えられた)肉体
よりも無限に、より多くの厳粛と戦慄をもたらすものだという肉体観によって、である。西欧の≪自然主義的な≫俳優は決して美しくはない。俳優の肉体は肉体の原質となろうと願って、造型の原質となろう
と願わないからである。西欧の俳優は各器官の集合体、情念の筋肉の組織体であって、その器官と筋肉を活動させる個々のもの(声、表情、動作)は、体技に属している。俳優の肉体はもろもろの情念の原質の区分けに応じてつくりあげられているのだが、しかしここにはいかにもブルジョワジー的な裏返しがおこなわれていて、俳優の肉体は有機的な統一が不在の、つまり≪生命≫が不在の、不在証明を生理学からもらいうけるのである。ここでは、当の俳優それ自身が、紐のついた演戯の道具であり操り人形となる。そのお手本となるのは、愛撫ではなくて、ただただ内臓的な≪真実≫なのだから。
               (「魂あるものと魂なきもの」より)
     

    
★ 『アドルフ・アピア』/相模書房刊
遠山静雄 著/1977年
     

―ワグナーのいう芸術とは、一般に存在するあれやこれやの芸術ではなく、将来実現さるべき理想の形における芸術であり、最も深い人間の生の要求の一つである宗教的要求が満たされた世界観の表現であり、民衆の真実な宗教意識の産物でなければならないとする。単なる個人的趣味を中心として奢侈の欲望をみたすに過ぎない当代流行の芸術ではなく、真の生命共同体と内面的連絡をもつ芸術でなければならない。感情と悟性とをそなえた人間の表現であり、このような本来的人間の芸術が真の芸術である。彼の芸術論はこのような芸術のあるべき姿であって単に綜合された芸術の存在が許されるというのではなく、綜合芸術こそ最高の存在、真の芸術の到達すべき姿であるという。だから彼のいう全体芸術はもはや一般に意味される綜合芸術ではない。故に従来のオペラを否定する。

―価値ある芸術は現代のようには各芸術が分裂していなかったということ、いい換えれば現代のごとき各芸術の分裂割拠は芸術としては堕落だと考えている。西欧芸術の源たるギリシャにおいては芸術の全体性が完全に表現されていた。しかし悲劇が解消し、舞踊、音楽、詩文、造形等の芸術が分離するようになると真の詩作はとまってしまった。
                  (「ワグナーの楽劇論」より)
     

2013年01月18日

推奨の本
≪GOLDONI/2013年1月≫

 『論語と算盤』 渋沢栄一著
 1985年  国書刊行会

 明治十七、八年(略)以後今日まで僅か三、四十年の短い年月に、日本も外国には劣らないくらい物質的文明が進歩したが、その間にまた大なる弊害を生じたのである、徳川三百年間を太平ならしめた武断政治も、弊害を他に及ぼしたことは明らかであるが、またこの時代に教育された武士の中には、高尚遠大な性行の人も少なくはなかったのであるが、今日の人にはそれがない、冨は積み重なっても、哀しいかな武士道とか、あるいは仁義道徳というものが、地を払っておるといってよいと思う、すなわち精神教育が全く衰えて来ると思うのである。
 我々も明治六年ころから物質的文明に微弱ながらも全力を注ぎ、今日では幸にも有力な実業家を全国到るところに見るようになり、国の富も非常に増したけれども、いずくんぞ知らん、人格は維新前よりは退歩したと思う、否、退歩どころではない、消滅せぬかと心配しておるのである。ゆえに物質的文明が進んだ結果は、精神の進歩を害したと思うのである。(「立志と学問」より)

 自分は常に事業の経営に任じては、その仕事が国家に必要であって、また道理に合するようにして行きたいと心がけて来た、たとえその事業が微々たるものであろうとも、自分の利益は少額であるとしても、国家必要の事業を合理的に経営すれば、心は常に楽しんで事に任じられる、ゆえに余は論語をもって商売上の『バイブル』となし、孔子の道以外は一歩も出まいと務めて来た、それから余が事業上の見解としては、一個人に利益ある仕事よりも、多数社会を益して行くのでなければならぬと思い、多数社会に利益を与えるには、その事業が堅固に発達して繁昌して行かなくてはならぬということを常に心していた、福沢翁の言に「書物を著しても、それを多数のものが読むようなものでなくては効率が薄い、著者は常に自己のことよりも国家社会を利するという観念をもって筆を執らなければならぬ」という意味のことがあったと記憶している、事業界のことも理にほかならぬもので、多く社会を益することでなくては正径な事業とは言われない、かりに一個人のみ大富豪になっても、社会の多数がために貧困に陥るような事業であったならばどんなものであろうか、いかにその人が富を積んでも、その幸福は継続されないのではないか、ゆえに国家多数の富を致す方法でなければいかぬというのである。(「算盤と権利」より)

 現今でも高等教育を受けた青年の中には、昔の青年に比較して毫も遜色のない者が幾らもある、昔は少数でもよいから、偉い者を出すという天才教育であったが、今は多数の者を平均して啓発するという常識的教育になっているのである、昔の青年は良師を選ぶということに非常に苦心したもので、有名な熊沢蕃山のごときは中江藤樹の許へ行ってその門人たらんことを請い願ったが許されず、三日間その軒端を去らなかったので、藤樹もその熱誠に感じて、ついに門人にしたという程である、その他新井白石の木下順庵における、林道春の藤原惺窩におけるごときは、皆その良師を択んで学を修め、徳を磨いたのである。
 しかるに現代青年の師弟関係は、まったく乱れてしまった、うるわしい師弟の情誼に乏しいのは寒心の至りである、今の青年は自分の師匠を尊敬しておらぬ、学校の生徒のごときは、その教師を観ること、あたかも落語師か講談師かのごとき、講義が下手だとか、解釈が拙劣であるとか、生徒として有るまじきことをくちにしている、これは一面より観れば、学校の制度が昔と異なり、多くの教師に接する為であろうが、総て今の師弟の関係は乱れている、同時に教師もその子弟を愛しておらぬという嫌いもあるのである。 
 要するに、青年は良師に接して自己を陶冶しなければならない、昔の学問と今の学問とを比較してみると、昔は心の学問を専一にしたが、現今は智識を得ることにのみ力を注いでいる、昔は読む書籍そのものがことごとく精神修養を説いているから、自然とこれを実践するようになったのである、修身斉家と言い、治国平天下と言い、人道の大義を教えたものである。(「教育と情誼」より)
 ≪『論語と算盤』1916年 初版刊行≫

2012年12月14日

推奨の本
≪GOLDONI/2012年12月≫

 『指定管理者制度で何が変わるのか』 文化政策提言ネットワーク編
 2004年  水曜社

 (略)理念や基準ばかりを誇らしげに謳うばかりで、なんらの罰則規定もない「ザル法の典型」だと揶揄されてきた「博物館法」だが、博物館学芸員課程の講座ばかりが増えて、毎年、1万人近い学芸員有資格者が生まれても、実際にはその数%以下しか就職できない現状を追認するかたちで、「大学で養成できる学芸員資格とは、博物館のよき理解者を育成する程度にとどめる」とされた。これにより、博物館の社会教育機関としての意義、学芸員の専門性への評価などは、全く等閑視され、資料の「収集」「保存」「公開」「研究」「教育普及」スタッフの中に学芸員有資格者さえいれば、博物館としては十分に機能できるとする、ただのイヴェントスペースでもよいと国家が認知したのである。
 さらに、1998年6月の「中央省庁等改革基本法」の成立により、各省庁の89の業務が「国立」から「独立行政法人」への移行が決定し、2001年4月より国立の美術館・博物館が独立行政法人となり、「民営化」されることになった。公共的業務の中でも、政策立案機能部門と実施機能部門を区別して、美術館・博物館は民間的手法に委ねる、すなわち「利潤追求の経営」を目指せばよい、という指示である。
 もともと、国立の美術館・博物館は「博物館相当施設」であったし、その後の各館から提出された「中間計画」への業績評価も、公開されているいくつかの報告を見た限りでは、「親方日の丸」同士の、「予定調和」でとても幸せなごく内輪の論議に終始している。
 定量的、また定性的評価の両方にも配慮した公平性を帯びたものらしいが、現実には、美術館や博物館にほとんど足を運ぶことのない(興味もない)評価委員もいることを仄聞する中で、評価される側―美術館・博物館―が、これまでの市民への奉仕のあり方を反省した環境整備に取り掛かる前に、酷評を恐れるあまり過剰反応して、誰にもわかる定量的評価を志向する傾向が強まって、本来の社会教育機能としての役割を「忘れた」ような「公開活動」ばかりが目立つ。
 「独立行政法人国立美術館・博物館」は、どれとはいわないが、寺社の聖域から無理やりに「お宝」を引きずり出し、東海道をだらだらと下って、江戸時代から綿々と続く、宗門の隆盛を図った出開帳を再現した展覧会、百年前のどこかの科学博物館の館内風景を写した写真の中に入り込んだような「既視感」にとらわれる、薄汚れた衣装や模型が並べられているだけの展覧会、大言壮語ばかりをして、常に天下国家の庇護のもとにあった芸術家の回顧展など、これらは「収益性」は高いだろうが、「国民の文化的資質の向上」に対して、整合性のつく説明をどのようにつけようとするのだろう。
 「機構改革」といわれるものの本旨は、地方分権の確立によって、中央―地方の対立を解消し、公平な富の再分配と文化的平準化を目指すものらしいが、総務省の「地方独立行政法人の導入に関する研究会」が、地方公共団体立の諸施設への独立行政法人化が可能であるとした提言と合わせて考えてみると、「博物館法」の一層の骨抜き、国立美術館・博物館の独立行政法人化の流れが、このたびの、「指定管理者制度」の導入と深く関わっているにちがいない。(略)
 〈篠雅廣「公立美術館の事業評価と指定管理者制度―高知県立美術館の場合」より〉

2012年09月19日

推奨の本
≪GOLDONI/2012年9月≫

 『観客席から ―芸術エッセイ』  遠藤周作著
 1975年 番町書房

 芸術祭がまた迫ってきた。
 正直な話、そう言ったところで張り切っているのは関係者たちだけで、一般の人たちはほとんど無関心であろう。新聞で受賞作の発表があってもチラッと一べつするぐらいのもので、それ以上の印象はない。(略)
 いっそのこと、あんなものは廃止してしまえという声がある。しかしたとえば平生は会社の命令で押しつけられた脚本を、乏しい予算で演出せねばならぬテレビのディレクターたちにとっては、この時こそ腕のみせどころでもあろうから、彼等のためにもあながち廃止説に我々は両手をあげるわけにはいかぬのである。(略)
 まず第一に芸術祭の賞金はそれに参加する者にとって人を小馬鹿にしているような小額である。五、六年ほど前、私はNHKのテレビ局からこの祭に何か書けといわれ、ともかく書き、奨励賞というものを受けたことがあった。奨励賞を受けたという手紙を私は仏蘭西から伊太利にまわっている時、NHKの演出家、M氏から受け、私は路金も乏しくなって心細かった時だったから「しめた、賞金がもらえる」と考えたのは無理もない。なにしろ奨励賞だって賞にちがいないのだから。
 ところが帰国して大急ぎで自宅に戻ると、私を待っていたものは、たった一個の文鎮であった。つまりこれが奨励賞だったのである。私はあの時ほど、文部省の役人はインチキであると思ったことは余りない。
 賞金のことなど口に出すのは下品だということも承知している。そして芸術祭の作品はゴンクール賞のように賞金の額によって左右されるものではないという考えの成立することもわかっている。しかし、ゴンクール賞と文部省の芸術祭賞では一点において決定的な開きがある。ゴンクール賞の賞金は少ないが権威がある。芸術祭賞は賞金が少なくて、権威がない。この点である。(略)
 他の世界のことは知らぬが文壇の新人賞である芥川賞だって、今の芸術祭賞よりは賞金だって多い。受賞者にたいする待遇だっていい。文部省はそういう一事だって調べてみるがいい。
 文部省がこうした民間のことを「知らなさすぎる」一例として、私は二ヵ月ほど前だったが、このお役所が音頭を取って国民文学を募集し、あたらしい有為な作家をみつけ、育て、日本文化に貢献するための賞をつくるという話を新聞で読んだ。だが文部省は今、日本のほとんどの文芸雑誌が新人賞その他の方法で新人作家を発掘しようとしていることを知っているのだろうか。新しい立派な作家を見つけようとする努力は心あるジャーナリストなら毎日のように考えている事実である。それをもし知っているなら、こういうジャーナリストたちの意見や方法をきいた上でその国民文学賞(?)なるものを考えついたのだろうか。おそらく、そうではあるまい。一時の思いつきか、みせかけの文化隆盛のジェスチュアでこんな企てを考えたとまでは言わないが、なにかそこに日本文学の実状も知らなさすぎる感がある。つまり実状勉強や調査不足なのである。
 そしてこのことは芸術祭にたいしても同じような気が私にはする。
 次に私は審査員たちにおねがいしたいことがある。それは将来万一の情実を防ぐためにも、あるいはそういう誤解が起きないようにするためにも、審査の選衡の経過を発表するべきだと言うことだ。(略)
 いいものは誰がみてもいいのであり、悪いものはだれがみてもどこか悪いものだ。
 だから私はこれは茶の間でベターだと考えた作品が新聞で発表される奨励賞にさえなっていないのを知ると、やはり不満を感じる。一体、これはどこが良くないと批評されたのを知りたいと思う。その感情は茶の間でみている者にもまたそれを制作した者にも当然であろう。
 にもかかわらず、その選衡の経過は公に発表されたことがない。(略)小説の世界では芥川賞にしろ、野間賞にしろ、新潮賞にしろ、委員の感想が掲載されている。それは作家にたいする礼儀でもあり、選衡者の見かたや観点を示すためでもあり、また、奨励や忠告を与えるためでもあろうが、その態度が公平であることを読者全体に知ってもらうためだとも思う。
 にもかかわらず、文部省の年中行事である芸術祭が、その選衡経過を全く発表せずに結果だけを示すのは、何か独断だという気がしてならぬ。「文句をいわず、ありがたく我々の選衡結果に従え」とか、それとも「我々の選衡眼は絶対に間違いはない」と言うような気持がそのような結果だけの発表でないと思うが、それならばなおのこと経過を堂々と発表すべきではなかろうか。
 今年私は芸術祭に参加する。そして落ちる。もちろん落ちたって、これが小林秀雄氏や伊藤整氏や福田恆存氏などのようにこちらが作品鑑賞の点で信頼できるような人の手によって落とされるなら、無念であるが仕方がないと思う。(略)
 (「Ⅱ 演劇  芸術祭」 より)

2012年02月02日

推奨の本
≪GOLDONI/2012年2月≫

『観劇偶評』 三木竹二著 渡辺保編   
2004年 岩波文庫

明治二十五年二月 深野座(新富座)
 「櫓太鼓成田仇討」
 「伊勢三郎」
 「吉例曾我礎」(対面)
   寿美蔵、芝翫、小団次、新蔵、女寅、福助、団十郎、猿之助、家橘、染五郎

 音羽屋丈(五代目尾上菊五郎。一八四四-一九〇三。現七代目は血縁関係無し。―引用者注)の多助どん歌舞伎座にて古今の大当りをなしたる後、高島屋丈(初代市川左団次。一八四二-一九〇四。二代目左団次の父。三代目、現四代目は血縁関係無し。―引用者注)につづきて浪花に往き、成田屋丈(九代目市川団十郎。一八三八-一九〇三。十一代目、現十二代目、現市川海老蔵は血縁関係無し。―引用者注)のみ踏住まりて、同座の三月狂言に出勤の噂とりどりなるところ、俄に深野座開場と聞えしには驚かぬものなかりき。こはけだしこの座改称以来とかく景気引き立たず、茶屋出方一同困難を極めし折から、今春の興行を頼まんとせし高島屋丈坂地へ乗込と定りしかばますます驚き、遂にこの事情を述べて成田屋丈に出勤を乞ひたるなり。同丈もとより義侠の人なれば快く引受、無報酬にて出勤すべしといひしかば、芝翫丈、福助丈も義に勇み、同じく無報酬にて出勤することを諾し、この開場に運びしはかえすがえすも感賞すべき美挙にこそ。
 この「伊勢三郎」は黙阿弥が屈指の名作と噂の高きものにて、去明治十九年十二月やはりこの新富座にて興行せしが、書き卸しにて大当なりき。この時の大名題は「莩源氏陸奥日記(みばえげんじみちのくにっき)」といひ、伊勢三郎隠家の場として出したりき。その後井上馨伯の邸内にて演劇天覧のときも、第二日目に取仕組みて演じたり。されば評判といひ名誉といひ、なかなかのお箱物なれば、この度の興行にて新歌舞伎十八番の内と題し、名題に「伊勢三郎」と主人公の名を取りたるも宜なり。(略)
 団十郎丈の伊勢三郎義盛役
 (略)妻に帰る期を尋ねられ、今まで君の御供せんと思ふ方にのみ心を取られたるが始めて心付きし工合、自然にて妙なり。腹に一ぱいの涙を飲み込みて曇声に後の事を言ひ聞する呼吸、情をわきまえし武士の切なる心見えて、思はず涙はふれ落ぬ。とど伴ひ行かれたしといふを叱りて「夫の恥をば思はぬか」といひこらすところも勇士の真面目なり。下り立ちて縋る妻を叱り、右手を延ばしていざと騎馬の義経を先へ進ましむる幕切まで、豪傑のありさま躍然として目の前に現れ、とりわけ高尚にて優美なる科白を高く朗なる調子にて自在に活かしていひこなさるる手際は、前代にも比なく、後世にも見らるまじ。


 忠臣蔵一日替の評(明治四十年十一月、歌舞伎座)

 忠臣蔵一日替の著しいのは、明治になつては、十一年の十二月新富座で守田勘弥の興行した時で、その折は団十郎、菊五郎、宗十郎、仲蔵、半四郎、左団次などいふ顏揃で、役の替り方も随分端役まで立者が替ったのだから、今日六二連の評判記を開けてみても、ぞくぞくするほどの興味がある。しかし今回のは役者の程度も下り、役替りもさほど広くないから、到底比べものにはならぬが、それでも今での歌舞伎俳優を網羅してゐるこの座のことであるし、ある意味において一種の試験的興行とも見なされるから、次に所見の大概を列記してみよう。(略)

 大星由良之助  市川八百蔵 市川猿之助 市村羽左衛門 中村芝翫
(略)芝翫のはこれも今度は見ず、東京座の時に見たのでほぼ別るが、顔が立派なだけで、歩き付、調子とも女離れのせぬ欠点があるから、到底好い気遣は無い。要するにこの優はある一瞬間の柄だけで、科白とも合格は覚束なく、八百蔵は手慣れてをるといふ条件の外には、柄調子ともそのものになり切らず、猿之助は柄調子とも八百蔵よりは見処があるが、品位の点に欠ける処がある。羽左衛門は初役、しかもその第一日に見物したのだから、熟さぬ点は大分あつたが、大体において品位のあるのは第一で、とりわけ調子は呼止めの処で成功し、少し手慣れて来れば、他の欠点を補ふだけの余裕が見えてをるから、自分はこの優を以て由良之助の第一と押すことを躊躇せぬ。次が猿之助、八百蔵、芝翫といふ順になる。
 概括すれば、今度の一日変で成績の最も優れてをるのは羽左衛門(十五代目)で、その多方面なる手腕は、遠からぬ将来において、歌舞伎劇派の牛耳を取る人たることを証拠立てた。これに次ぐのは猿之助で、これも劇界の故老として、永く一方に雄視することができるだらう。
 梅幸は立役に望があり、訥升はやはり若女形の人だ。芝翫、八百蔵は活歴畠の人なのがいよいよ明かになり、菊五郎(六代目)吉右衛門(初代)の存外発展せぬのには失望した。
 道具では大序に油画式の背景を使つたのが不調和千万、三段目四段目へ大欄間を下したのも、容らぬ手数をしたもので、「忠臣蔵」のやうな標準劇は、出来得る限、古式を保存して欲しいと思ふ。


2012年01月03日

推奨の本
≪GOLDONI/2012年1月≫

 
『戦後史の空間』   磯田光一著  
   新潮社  1984年
 

 1
 中村光夫氏の戯曲『雲をたがやす男』のなかに、つぎのような一節がある。明治維新によって旧政府(幕府)が消滅してしまう場合、対外的な借款問題がどう処理されるかという栗本鋤雲の危惧感にたいして、子の篤太夫はつぎのように説明するのである。

  内乱は国内政治の延長、というよりそのひとつの形にすぎないというのが彼の考えで、だからどっちが勝とうと、あとからできた政府は、さきの政府が、外国に負った責任をひきつぐにきまっている。これは万国公法の定めるところでもある。したがって、内乱が長びいて、日本が破産状態に陥ることを我々は心配しているが、そうでない限り、政府の交替などは意に介さない。要は条件次第ということのようです。どこの国にもレヴォリュウシヨンはおこる。しかし国は国として持続して行く。この二つは別のことなのだ、とフロリは微笑しながら、申しました。

 前半部で「内乱は国内政治の延長」というとき、維新の運動も一つの「内乱」にすぎないという認識がはたらいている。しかし後半で「どこの国にもレヴォリュウシヨンはおこる」というとき、このレヴォリュウシヨンは政権の交替だけではなくて、国家理念の変更をも意味しているのである。幕府が政権を持っていた時点にあっては、維新をめざす争乱はたんに「内乱」以上のものではありえない。しかし客観的には内乱による政権奪取をめざした動向も、それを推進した志士たちの主観の問題としては「レヴォリュウシヨン」と意識されていたのである。それが成功して新政府が成立してしまえば、「内乱」史観は「レヴォリュウシヨン」史観に転換せざるをえないだろう。しかし国際政治の舞台のうえでは、政府が国家を代表していさえすれば、その理念がどうであろうと二次的な意味しか持たないのである。
 中村光夫氏が『雲をたがやす男』を書いたとき、明治維新と二重うつしに一九四五年の敗戦を念頭に置いていたかどうかは問わないとしても、すくなくともこの戯曲の右の場面は、同一の国家の内部に二つの史観の成立し得る可能性を示唆していると思われる。(後略)

 2
 遠山茂樹氏らの共著による『昭和史』(岩波新書)にたいして、亀井勝一郎が『現代歴史家への疑問』(文藝春秋)を書いたのは昭和三十一年三月であった。すでに「国民文学論争」を経過し、左翼ナショナリズムが「民族戦線」の主張を押し出していたころ、唯物史観の立場に立っている歴史学者の著作は、新時代の史観をリードしていくかにみえた。それへの異議申立として最初に問題化したのが右の亀井論文であり、これを起点として「昭和史論争」が展開したことはよく知られるとおりである。
 亀井勝一郎の主張は、いまから思うとほとんど常識といっていいことに帰着する。その一つは、「皇国史観」と「唯物史観」とは、かつての「忠臣」が「逆賊」に転化したように、たんに価値観を入れかえただけの公式主義ではないかということである。「その中間にあって動揺した国民層のすがた」が「見あたらない」と亀井はいう。「戦争を疑い呪って死んだ若い学徒兵」の声のほかに、「あの戦争を文字どおり『聖戦』と信じ」た「無数の兵士」の声も聞かなければおかしいではないか、と亀井はいうのである。
 こういう亀井の主張を、たんに復古的言論と呼ぶことはできない。いまでこそ常識的とみえるこういう意見が「昭和史論争」として展開していった過程は、昭和史の書きかえの動向を象徴するものであった。前月の中野好夫の『もはや「戦後」ではない』(文藝春秋)が出、亀井論文の翌月に村上兵衞の『戦中派はこう考える』(中央公論)と吉本隆明氏の『「民主主義文学」批判』(年刊「荒地詩集」)が出ていることを考えると、占領下の昭和史観にたいする異議申立が、徐々に表面化してきた様子がうかがわれるであろう。亀井は『昭和史』の著者に向ってさらにいう。

  日華事変から太平洋戦争にいたるまで、無暴の戦いであったにせよ、それを支持した「国民」がいた筈である。昭和の三十年間を通じて、その国民の表情や感情がどんな風に変化したか。この大切な主題を、どうして無視してしまったのか。
 (「史観と歴史小説」より)

2011年11月03日

推奨の本
≪GOLDONI/2011年11月≫

安藤鶴夫作品集 第6巻
朝日新聞社 1971年

 さて私は映画を除いて、開いている限りの小屋を、文字通り片端から行脚した。
 松竹新劇場(山茶花究一座旗揚公演)では、船場久太郎補綴脚色の「歌う白野弁十郎」を、大都劇場(吉本楽劇座)では、阿木翁助作の「華やかな燭」を、花月劇場(伴淳三郎一座)では、深井俊彦作の「江戸子夢物語」を、大勝館(劇団たんぽぽ)では、小沢不二夫作の「沐浴する仙女」を、常盤座(杉山昌三九、本郷秀雄一座)では、三林一夫作の「東海水滸伝」を、そして松竹演芸場では、中村目玉・玉千代の浪曲漫才を、私は出来る限りの忍耐をもって、そのそれぞれの舞台の或る一節と向い合った。
 そこには詩人剣客の心意気を低能扱いした白野弁十郎、白痴と勘違いをしている山の仙女、任侠を無智と履き違えた森の石松や、ピンク色のカーテンの前で、九段の見世物然と女が椅子に三味線を抱えると、男がぺたりと舞台に座って「泪一つがままならぬ」と絶叫している漫才がいた。
 自分の緊張感を取り戻すために、捨台詞同様のなに気ない台詞を、突如として力んでいったりする重演技、そして最も大切な件をあらぬ方に気を取られて、しかもそれをいっぱし舞台なれしているつもりかなんかでいる軽演技、しかもそのほとんど全部の発声法は全くでたらめであり、満足に台詞が通らず、たまたま聞える俳優の台詞は、全然訓練された舞台の声ではなく、普通人がただいたずらに大声で怒鳴っているのとおなじようである。
 事についでにもう一つ畳み込めば、或る劇場の廊下に貼り出された番組に、堂々、「殺陣」を「殺人」と書いてあった事を秘かに報告したい。知らせたくない誤りだが、その誤りをなに気なくしている心理的なものを―無智を私を恐れるのである。

 浅草演劇に働く人々は、「演劇」そのものよりもこのあやかしに憑かれて、「演劇」を愛していると錯覚した人々ではあるまいか。浅草の演劇は、作者も俳優もまずこの妖気から脱却しない限り、救いのない泥沼である。
 入場料を後日の参考に書くと、劇団たんぽぽの二階五円十銭(内税金三・四〇)を最高に、松竹演芸場の一円九十銭均一(内税金〇九・五)を最低として、ほかはだいたい三円台で、それは平日であったにもかかわらず旧産業戦士級の人々によって、どこもかしこも鈴生りの超満員であった。金竜劇場の楽屋番は、このごろの観客気質を語って、「昔は自分でひいきの役者をみつけたものだが、いまじゃア人が騒いでいれア、すぐそれがひいきになっちまうんでさ 」
 (『浅草六齣』「興行街」より(一九四五年))

2011年10月03日

推奨の本
≪GOLDONI/2011年10月≫

『社会百面相』(上・下) 内田魯庵著 
岩波文庫 1953年 
 

 ≪急速な変化を遂げる日清戦争後の日本社会。政治家、官僚、実業家から学生まで、社会の各階層を諷刺的にスケッチした異色の短編集。(文庫カバーに記載)≫


 「はァ、局長の咄では大臣の三番目の娘とかが丁度年配が宜かろうと申し升ので…」と若きフロットコートは一段と醉顏を熱らしつグツと盃を呑乾した。
 「貴公の方の大臣なら政黨と違つて新華族中の資産家だし、名望も力量もあるから之から猶だ中々働けるし、貴公が出世の踏薹には至極持つて來いぢや」
 (略)「殊に局長の内密の話では、愈々私が貰ふことになれば官等を一等進めた上に海外へ遣つて呉れる筈です。」
 「そりやァ巧いナ。貴公、餘程大臣に取入つたと見えるナ、」と主人公はシゲシゲと靑年の顔を瞻めつ莞爾々々と微笑を含みながら、「磊落を看板とした貴公が餘り早く官員臭くなつたと思つたら、爾う云ふ見掛けた山があつて謹愼しおるンだね。油斷ならない男だ。」
 「そういふわけぢァありませんがナ、代議士になるさへ一萬二萬の運動費が要るですから我々無資力者は民間政治家たるよりは矢張刀筆の吏となつて鰻登りに行く方が近道だと、着實な方便を取ることにしたです。」
 「さうさう、貴公のやうに高等官試験に及第して官吏となつて大臣、新華族、或は紳商の娘を貰ふのが最も當世流だよ。成程着實と云ふのかも知れんナ。今の社會を渡るには之が保險附の一番安全な方法だからナ。」
 (略)「併し先生は此次の内閣には大臣におなりのやうに専ら申しますが…」
 「大臣には誰だつて成れる。刀筆の吏には容易になれないが大臣なら木偶だつて出來る。併し大臣になつたッて仕様が無い。自分の抱負が實行出來るぢやなし、五百や千の月給を取つたッて我輩のやうな負債家は燒石に水だ。(略)政黨の出身者は秘書官だつて官房長だつて大臣だつて悉く同様に政黨の後援を恃むんだから役割の都合で各々任に當るんで個人の人物力量に甲乙があるわけぢやァない。例へば芝居で主人の塩谷判官に扮る俳優が家來の大星由良を勤むる俳優より良いといふわけではないのと同じ事だ。我輩なぞは高等官二等の微官に居るんだが心持は既に大臣になつておる。此上大臣になりたくもない。成つたッて仕様があるものか。」(後略)
(「新高等官」より)


 「それぢやテ、代議政治は全て破滅ぢや、勿論議會は政府を仇敵視するが能事ぢやないから、及ぶだけは和哀協同の實を挙げたいのぢやが、政府をして頼らしむる能はず、議會却て政府の鼻息を伺ふて合槌を打つやうでは代議政治はまるで滅却ぢや。奈何も日本人は國家あるを知つて國民あるを忘れおるやうぢやから、國民を代表するといふ眞正の意味が理解出來んと見える。それぢやもんで、日本全國を代表する議會が國民全躰の利害を度外に置いて名々の撰擧區の利益を重んずる傾向があるやうなわけで、段々と詮じ詰めた處が終局には第一に自己の算盤を彈き出すやうになる。畢竟國民全躰の利益は即ち國民の一人たる自分の利益ともなる道理が解らんと見えて、國民全躰の利益を計つて己れの撰擧區民及び自分も其同一利益の恩に沐せしめやうとは考へない。皆其順序を顛倒して國民の幸福よりは撰擧區の利益、撰擧區の利益よりは第一に己れの慾を渇く算段に掛る。尤も一般に公徳の缺けておる國ぢやから獨り代議士を罪するわけには行かぬが、せめて代議士の品位を保つて政府に盲從するは仕方が無いとしても素町人の株屋風情に叩頭して愍を乞ふやうな醜躰の無いやうにと。」
 「でがアすナ、」と地方有志家らしき四十恰好の羊羹色のフロツクコートは不意に頓興な調子を合はした。
 「まだしも政府と議會と肝膽相照すは寛大に見られるが、株屋と議會と常に肝膽相照す醜狀は鼻持がならぬ。といふのも畢竟は國民一般が立憲の知識に乏しくて撰擧する者も撰擧せらるる者も代議士の本分を理解せんのぢやナ。元來日本は一千年來武士が天下を私しして他の農工商は武士に蹂躙けられおつた餘風が殘つて、御一新後四民全權になつても政治に容啄しする者は矢張士族に限つてゐた。然るに政府が大いに人材網羅をしたので少と小手の利いた奴は大抵官員に有附いて了つたから、其跡の篩漉しに漉して殘つた渣滓は無資無碌無學無才無能無分別といふ無い者盡しで喰ふ事が出來ない苦し紛れに初めたのが卽ち政治運動ぢやな。渠等は人權の自由のと云ひおつたが畢竟は人民を犠牲にして士族の喰場を發見けやうとしたのぢやな。それぢやから人民の總代となつて請願筋で地方廰或は中央官衙へ出る場合も日當旅費辯當代を目的としたもんで中には馬鹿正直に佐倉宗五郎を氣取る者もあつたが大抵は先づ何にも知らない百性をおだてて請願で飯を喰はうといふ連中なのぢや。それぢやもの、英國の代議政躰の發達とは大いに成立の順序を異にしおる。人民が自家の權利を自覺して自ら國政に参與しやうといふので血を以て憲法を買つて議院政治を創めたのでなく、士族が喰稼ぎに政治運動を創めて跳ね返りの彌次馬が面白半分に飛出し、御祭禮をする了簡でワイワイ囃し立てて憲法を祈り出したのぢやから、肝腎の代議政治の思想は少も發達しおらんのぢや。尤も我輩も其連中の一人で君達に對すると汗顏に堪へんがの…」(後略)
(「代議士」より)

2011年09月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2011年9月≫

『なぜ日本は行き詰ったか』 森嶋 通夫著
  岩波書店 2004年


 戦後の日本政府は、もはや天皇のための政府でなくなったが、経済的な国家主義を支持し続けた。これは敗戦に伴う貧困からの反動であるが、その結果、日本では明らかに民主主義はまがい物以外の何ものでもない。民主主義とは選挙によって大半の国民の意志が何であるかを確かめ、その意思を実行するような政府を形成することであるが、これは同時に、大半以外の国民の意思は何であるかを明確にすることでもある。したがって英国では野党が非常に大切にされている。野党が多数党を制御(チェック)する働きをしているのである。この働きが民主主義政治の核心である。すなわち政府は大半の国民の意志をそのまま実行するのではなく、野党によって制御された大半の国民の意志を実行するのである。(しかし日本では野党は全然力を持たず、野党を育てるという気風は全くなかった。だから日本には真の意味の民主主義は育たなかったのである。)
 野党のチェックなしで強引に国民の大半の意志を実行した政権は、次期あるいは次々期の選挙でほとんど確実に政権の座から引き下ろされる。こうして上からの資本主義―政府が特定の産業や企業を支持し続けるような経済―は長期にわたっては実現できなくなり、政府は企業に中立的でなければならなくなる。その結果、その国は民主主義のために小さい経済成長率で我慢することになるが、その結果得られる収穫は、全ての産業や企業が政府によって公平に取り扱われているということになる。日本において上型から下型への資本主義の移行の扉が開かれるならば、日本の各企業は少なくとも機会において、またしばしば結果において平等になり、日本は経済の民主主義ないし産業の民主主義の成立を祝えるようになるだろう。
(「第1章 序論」より)


 しかしこのような学閥を打破する意図をもこめて、文部省は一九九〇年代の中ごろから大学院の大拡充を始めた。ある大学の学部を卒業した後に、別の大学の大学院で学べば、卒業生は特定の大学に固着することはないから、学閥は融合するかもしれないと考えたからであった。しかし大学院の拡充は、現在の高等教育機構が供給しうる限度をはるかに越えた量の教員を必要とする。したがって拡充の初期での大学院教育の質は決して高いものにはならないならないだろう。にもかかわらず、教育や研究にたずさわろうとする青年はますます大学院での教育を終了せねばならなくなった。こうして教育期間は長くなり、実社会で働く期間は短くなった。そのうえかれらの個々人が二〇歳代後半に至るまで、奨学金、アルバイトおよび親からの支援で生活するということは、これらの人を実生活で幼稚化させ、著しくひ弱にしている。
 大学院を修了したものを実業界がどのように処遇するかは、この時点ではっきりしないが、理科系統の専門教育を受けた専門家を別にすると、大学院大増設の実業界に与える影響は小さいとみられる。しかも効果が現れるのははるかに長い期間を経た後である。しかし学生の方は、学部コースよりさらに上のコースが存在するというだけの理由で、大学院に進学しようとするであろう。こうして学部卒業生のなかで優秀だったものは、二〇歳代に産業界や金融界で働かなくなる。なるほど将来の日本人はより豊富な知識を身につけるでだろうが、日本にとっていま必要なのは知識ではなく、社会で働き、社会に貢献するという意欲を持っている多くの青年層である。
(「第4章 日本の金融システム」より)


 新制教育はいかなる種類の特殊性や属性も称賛することを避けるように型どおり実施された。生徒の記憶力は促進されたが、彼らの価値判断の能力は低下した。彼らは事実を記憶するのは非常に上手になったにもかかわらず、論理的思考に弱くなったので意思決定には優れていない。非常に高い大学進学率の結果として、教室は極めて騒がしくなった。今日の日本では、高等教育はもはやエリート主義のための前提ではない。ノブレス・オブリージ(高い地位には重い義務が伴う)の精神は、もはや日本の社会のどこの片隅にも行きわたっていない。国家は知識人が指導的エリートの役割を演じるように形づくられるのが儒教国家であるという理由からいえば、これは日本にとって決定的な打撃である。日本は底辺から崩れるのでなく、むしろトップから崩壊する危険性が大きい。
 一九七〇年代半ばから、多くの日本人学生がより高い学位を取得するためにアメリカに留学するようになり、そして有能な学生は日本の大学院を無視するようになった。このようにして日本はエリートの教育をアメリカに委託している。これは社会の分裂を一層広く深くすることになるだろう。


 明治維新の時には日本人は成し遂げねばならないことの明確なリストを持っていたので、彼らは幸運であった。彼らはまず民族国家を設立せねばならなかった。先輩国から情報を収集し、得られた方式に従うことにより、新日本を建設する仕事を遂行することは容易であった。しかし現在の危機の場合には、類似した航海図は全く入手不可能である。進歩的な国の建設に必要なあらゆるものはすでに達成されている。そのうえ、日本は勇気、公明正大さや正直のような資質をそなえている有能なやる気のある人物に乏しい。彼らのすべてが傑出している必要はないが、大部分の者がこれらの条件を充たしていなければならない。どのようにしてこのような人々を多数見い出すことができるだろうか。もちろんこれは教育の問題である。しかし戦後の新制教育がわれわれがいま必要とするタイプの人たちを造りだすことに失敗したことは、すでに知られている。下からの資本主義を形成するために必要とする重荷を負うことができる多くの人を造りだすことは、民族国家を造るために活躍する少数の傑出した人物を得るよりもはるかに難しい。日本がこれから造りだす多数の人々の資質との関係において、日本の将来の地位が決まるであろう。もしそれが低ければ、日本は国の順位づけでの大きい下落を受け入れなければならない。


 日本の政治家と官僚のこのような誰かの指令に忠実に従うという態度は、戦前・戦中の軍部独裁時代に学び取ったものである。彼らはその同じ態度を、戦後及び朝鮮・ベトナム戦争の間もアメリカ政治に対して示し続けた。日本は卑屈なまでに忠実な敗戦国であり、このことが日本が成功した最大の理由の一つであると、私の『なぜ日本は「成功」したか?』(一九八四年)は論じている。しかし風もなく、推進力もない状態では、日本は忠実に振舞うための相手を持っていないことを知った。日本のリーダーたちがこんなにひ弱く、かつ自信をなくしている限り、日本は自分がはまり込んでいる罠から脱出する力を持つ見込みはなく、日本の苦悩は限りなく続きそうである。
 生活水準は相当に高いが、活動力がなく、国際的に重要でない国。これが私の二一世紀半ばにおける日本のイメージである。
(「第8章 21世紀の日本の前途」より)

2011年07月14日

推奨の本
≪GOLDONI/2011年7月≫

 
『よみがえれ、バサラの精神―今、何が、日本人には必要なのか?』
  会田 雄次著 PHP研究所 1987年

 

 敗戦の屈辱と責任を忘れるな

 日本は今次大戦で世界で類のないほど徹底的で、しかも屈辱的な負け方をした。末期の負けざまは帝国陸海軍の過去の栄光をすべて踏みにじられたような無様なものだった。そういう負け方をしたからには、それ以前の侵略行動への反省とともに、この屈辱はずっともちつづけねばならない。
 もっとも、私が敗戦をはっきり認識せよということは、一般に情緒的にいわれている戦争責任をもちつづけよというのとは少しちがう。外国に対する具体的なその償いは、東京裁判をはじめ戦犯裁判と賠償金の支払いでともかく一応終った。だが、日本人による敗戦追及はなされていない。A級戦犯の靖国神社合祀問題での論争にも、ついにこの敗戦責任は問題にされなかった。
 昔からどの国でも、降将、逃亡指揮官は断罪されるのが普通。旅順要塞の司令官ステッセルは降伏が早すぎるとして罪に問われ、日本海海戦で、戦えばこちらは全滅するだけと悟って降伏したネボガトフ中将は死刑を宣告された。旧日本軍で部下を戦場に残し、自分はいち早く逃亡、残された将兵は全滅といった場合でさえ、その指揮官は何ら責任を問われていない。いまさらそれを問えというのではない。だがこういう敗戦処理が、戦後日本の無責任体制をつくる一因となり、その無責任さが、外交折衝でも日本人は口先だけで何も実行しないという憤りを招く大きな原因にもなっている。それを自覚せよということである。
 さらに敗戦を明確に認めることは、敗戦によって当然生れる勝利者の無法にじっと耐える心を養うとともに、その無法にどの程度耐えるべきなのか、具体的な戦後処理ということでは、それをどの程度、どの期間になし終えるかを明らかにし、それを実行することでもある。合理的な近代世界の特質は有限責任、時効という概念を導入したことにある。国際関係でも当然、それが貫徹さるべきであろう。
 戦争責任ということで、ただいじいじした心をずっと心情的にもちつづけよということでは、敗戦国として永久に無償援助を続けよ、企業は損な契約を結べといった要求に、どの程度、いつまで応じつづけるかをはっきりさせることはできない。相手側はその弱みにつけこみつづけ、国内の便乗者がそれを煽るという状況を続けることは、日本人を自棄か、責任からの逃亡か、逆上へ追いこむだけとなる。現在その兆候は目にみえるものとなった。これでは豊かさを真に身につけることは不可能だろう。そのための敗戦を認識せよという提案でもある。
 ただ、こんな奇怪な敗戦処理の結果、困ったことに日本は独立国でなくなり、フランスやイギリスのようなプライドも自主性ももちえなくなった。現在でも、金はあるが、精神的な自主性は失ったままである。となると、日本人が生きていくうえでモデルとすべき階層が、社会から消えてしまったことを意味する。
 徳川時代でさえも、中級の旗本などはしっかりした規範をもって生活していたから、幕府を倒した薩長までが彼等を真似ようとした。明治以後は、たとえば海軍の軍人がそうで、日本自体は貧しかったが、海軍は超一流の軍艦をもち、イギリス海軍にならってマナーもよかった。戦前まで、日本は世界に誇るにたる一龍の集団をこうして何らかの形でもちつづけてきたし、そういう集団があれば、それをモデルとして精神的自立をめざすこともできたのである。
 ところが戦後は、政治家、官僚、実業人、どれをとっても、個々人は別として国民生活のモデルになりうるような集団や階層は見当らない。それに上と下は腐っていても、中堅層は金はないけれど悪いことはしないというのが近代民主国家の基盤なのだが、今日の日本にはそれもなくなっている。となると日本人は、自分たちの生活のモデルとなる層を新たにつくっていかなければならないことになる。


 「技術者」を優遇する社会を

 日本の高度成長とその繁栄は、高度工業製品を開発、製造、内外に販売、とりわけ輸出を増やした技術者、技能労働者、それに協力した経営・販売者にもっぱら依存している。その人数はといえば、多くみて日本の労働人口六千五百万人の十分の一、六~七百万人がそれにたずさわっているだけだ。
しかもその核心となる人々といえばずっと少なく、まあ百万人程度であろう。その百万人のほとんどは広い意味での第一線の技術者であり、この人たちがこれまでの技術を改良して革新して、現在の日本製品の声価をかち得たのだ。つまり、一億二千万人の生活を支え、さらに豊かにしてきたのは、この百万人を原動力としてきたおかげといって過言ではないのである。
 今後の日本は、さらに高度技術製品を開発生産、それを輸出した代金で、原材料や生活必要品を輸入、テレビ製造程度までの工業は中進国や開発途上国に譲って分業体制をとるという以外に道はない。それが不可能となれば、豊かな生活どころか、自給率七十パーセント、その生産に必要な資材の輸入まで考えれば自給率五十パーセントを切る、計算によっては三十五パーセントという食糧輸入国日本である。国内資源はゼロの国である。瞬時にその息の根を止められてしまうことになるはずだ。
 このためには何としても、この真の価値を生み出している六百万人、とりわけその核心となる百万人を中心とする社会体制を作り上げねばならぬ。その人々にエネルギーを持続し、誇りを保てる待遇を与え、その後継者を養成せねばならぬ。すぐれた能力者をそちらに向けるべく、社会の価値体系を変更しなければならぬ。そのため、教育制度をはじめ、大きな変革は緊急必要事なのである。

(略)このまま行けば、必ずこの百万人はそれと自覚しないまま、一種の反乱を起すだろう。負担だけが増加するそんな仕事を志す若者もなくなるだろう。現にスウェーデンやデンマークでは、社会保障の負担に耐えかねた技術者は、アメリカに逃げだしたり、阿呆らしくなって仕事をしなくなって、社会の危機を招いている。日本がこんな事態になれば、戦前の生活水準か、または現在の台湾・韓国など中進国なみに生活レベルを落し、以後もそういう逆行を続けていかなければならなくなるだろう。
 今日でも、怠け者はみな怠け放題に怠けている。公務員が働きすぎているなどと思う人はまあいまい。国民の怠情に音をあげている欧米先進国の策謀にのって、政府やマスコミが怠けの勧めという大号令をかけるという不思議を演じているのは日本だけである。それではせっかくのお勧めだからと、たとえば大学の教師がもっと授業を休み、研究を怠り、学生は講義をサボり、ただでさえ少ない読書を減らし、レジャーに精を出したら、主張した人々は、我が言容れられりと喜ぶのだろうか。
 技術者、研究者を中核とする社会作りに、最も根本的な、そして最大の障害となるのは、今日の平等主義である。
(略)研究者、技術者の真の養成はいまのままでは不可能だろう。やたらに詰め込むというアメリカの大学教育は、決して効果をあげていない。今日までの創造的発見発明は、いろいろな点で外来者のおかげに依存する側面が大きいのだ。といって、入試主義の東大式教育がよいとはいえない。少なくとも、高校からの別途教育がそのため不可欠なのだが、そんな学制改革案はエリート主義反対の大唱和によって一瞬に粉砕されよう。 
 現状では少し手直しするのが関の山。ひたすらこの真の働き手がこれまでどおりの献身を続けてくれますようにと、天佑に期待する以外ないのである。
 (第四章「本物の贅沢」より)

2011年06月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2011年6月≫

 『激流―若き日の渋沢栄一』 大佛 次郎著
  文藝春秋 1953年

 気がついてみると、篤太夫(渋沢栄一)は民部公子(徳川昭武)の供をして各国を巡遊し、いろいろと新しい文物を眺めながら、見ていたのは故国日本のことなのである。
 篤太夫の心は日本から離れなかった。眺めている対象を透して、灯火の暗い侘しい日本の姿が、影のように背後に見えてくるのである。異国に学ぶというのも、おのれを読むことであった。
 彼我の比較が、いつも頭から離れない。今更外国との競争は及びもつかないと判っているが、尊王攘夷の政治論だけで血を流し有為の若い人たちを無数に犠牲にしている故国が、いつの日にか、もっと実質的に、西洋諸国のように新しいものを生み出そうとする方角に、民族の目標を持つようになるか? 篤太夫は、それをつくづくと思うようになった。
 そのためには、武士に特権がなく町人が自由に存分に働き得る世の中にならねばならぬ。これは篤太夫が日本にいる内から漠然と胸に描いていたことだが、こちらへ来てからは念願となった。それと現在の日本の封建世界のように、地方も個人も孤立して分裂し、自己の利益と保身だけしか考えていないのを改めて、人と人との中に強い協力を見つけることである。狭い国に住んでいて、日本人でいながらお互いが異人を見るように警戒し合っている。水戸あたりでは一藩内の政治論が、もとの天狗党と書生党に分裂して、仇敵のように憎み合って、その争闘以外のことは頭にないのを見ると、心が寒くなることであった。それも、百姓町人には迷惑だけ掛けて、無関係に武士階級だけが必死になっている政争だから、前途を思うと恐ろしい。
 (「異国」より)

 (略)ヨーロッパで、彼が見てきたのは、主人持ちでなく、独立自由の人間が、どこへ行っても見つかることであった。否、主人を持っていても、人間が独立自由で、働くのに熱意を持っていることである。
 生きるとは働くことであった。日本のように、身分だけで人間の生活が保証されている特殊の世界は、まったく亡び去る運命にあったものだし、今日のように瓦解を見たのは当然のことだったと言えるのだ。
 仕事に自らの意欲を持つこと。それから、いのちが輝き出るのだ。魂はなく形骸だけが動いているような働きではない。おのれの仕事に情愛を注ぎ入れて初めて、仕事だし事業なのである。
 これは、衣食するというだけのものでない。働くとは、そういうことなのだ。生活の手段だけに留まっていないで、身を打ち込んだ目的なのだ。心に至誠のある者だけが、その門に入って、独立自由の人となるのだ、と強く思った。
「あんた方が、ない、ないと訴えているのは衣食の手段だけだ。それ限りのことなら、浅いものだし、やがて改まった世の中の方から、それを提供してくれるだろう。そうでなく、人間がもっと心を打ち込んで、離れられないほどの情愛を自分の仕事に感じるようなものを見つけなければ! 誠実に、それを求める人にだけ、これは恵まれる。運河を掘ろう。鉄道を敷こう。ガス灯をつけよう。暗い世の中が明るくなるのだ。人が今よりも文明の恩に浴して、現在に数多い不幸が、少しずつでも軽減されて行くのだ。これが人間の働くことなのだ」
 水戸に帰って民部公子に仕えるのをやめた篤太夫は、静岡に留まっていながら藩庁に勤めるのをやめた。
 主人は、もう要らなかった。実に、もう要らなかった。
 自分がひとりで歩く自由な人となって、広い世界に好む道を求め、なすあてもない日本人の間に、自分と同じように誠実に仕事に協力してくれる者をさがすことであった。日本人は、永く眠り過ぎて、外国に遅れていた。もう、目を醒ましてくれる者が幾らでもいる筈だと思って、篤太夫は自分が嬉しかった。。
 (「新しい道」より)

2011年05月15日

推奨の本
≪GOLDONI/2011年5月≫

『現代日本私注』 加藤 周一著
 平凡社 1987年
 

 不条理劇
 近松に後れること半世紀ばかり、十八世紀の後半に、今日まで上演回数の多いという意味で代表的な「三大歌舞伎劇」が作られた。『仮名手本忠臣蔵』、『義経千本桜』、『菅原伝授手習鑑』、そのどれもが緊密に構成された劇ではなく、全体のすじとの関係がきわめて薄い多くの場面を併列した見世物である。したがってその全体から、好みの一場面を描きだして演じることができる。たとえばお軽勘平、忠信の早替り、寺子屋など。
 全体のすじは、『忠臣蔵』の場合には、討ち入りへ向かう敵打ちの話として一応通るが、『千本桜』や『手習鑑』の場合には、複雑であると同時にあまりに不合理で、ほとんど意味をなさない。今日からこれをみれば、一種の不条理劇である。そもそも狐が忠信に化けたから役者が早替りの芸をみせるのではなく、早替りの見世物を作るために狐が忠信に化けたのである。話のすじとして、なぜそこに狐の出る必然性があるのか、と問うこと自身が、見当違いであろう。重点は、あきらかに、話の全体にも、場面相互の内容的な連関にもなくて、場面転換の効果と、それぞれの場面の情緒の密度にある。
そのために用いられた手段は、発達した舞台装置、三味線に乗せての歌と踊り、舞踊化された所作、様式化されてよく響く科白などであり、殊にまた極端な状況の設定――主人のためにわが子を犠牲にする、夫の忠義のために妻が身を売る、そのほかさまざまの義理を通すために人情に逆らって行なわれる犠牲の諸類型――などである。
 今日からみての「三大歌舞伎」は、第一に、様式化された見世物であり、第二に、その情緒の濃密さを、人物の個性によってではなく、類型的人物相互の関係によって作りだすものである。もし何らかの事情によって、主人の息子を救うために自分の息子を犠牲にせざるを得ない状況に臨めば、特定の親ではなくて、どういう親でも感情の激動を経験するだろう。しかもその状況は、特定の親の特定の個性とは無関係に成立したものである。その状況に対する、あるいはむしろ、その状況を成立させる社会とその「イデオロギー」に対する批判は、歌舞伎にはない。「すまじきものは宮仕え」――それは例外中の例外として、幾らかの批判らしきものであるかもしれない。しかしそれだけでは、不条理劇を不条理でなくすることはできない。
 (「歌舞伎雑談」より)

 現代芸術の諸問題
 技術文明に特徴的な価値の体系は、世俗的である。その内容を消費面からみれば、物質的な「快適さ」であろう。可能な最小限度の努力で得られる「快適さ」が理想とされる。たとえば、ボタンを押し、「つまみ」を廻しさえすれば、番組が出るテレビの機械は、その理想に近い。椅子から立って「つまみ」を廻す努力も省き、遠隔操作で番組を変えることができれば、なおさら理想的であろう。病人用でないテレビの機械がそういう方向に「進歩」することと、番組そのものが、知的または想像的にかける負担の最小限度で、楽しみをあたえるように(つまりどんなばかにもわかるように)工夫されることとの間には、あきらかに並行関係がある。このような価値が、芸術家にとって容易に受け入れがたいのは、当然だといわなければならない。芸術家がもとめるのは、「快適さ」ではなくて、表現だからであり――自己表現は快適であるとはかぎらない――また努力の最小化ではなくて、おそらくは大きな努力や注意を通じてのみ得られるだろうところの楽しみの最大化だからである。
 他方、生産の面で、技術的、工業的社会に特徴的な価値は、最小の手段で最大の目的を達成すること、つまり「効率」のよさである。目的と手段を鋭く区別し、「効率」を標準として、手段を合理化するとき、重要な役割を演じるのは、「方法」という概念である。ここで「方法」とは、あらかじめ明瞭に定められた手続きで、その手続きさえ習得すれば――習得は一般に容易である――だれでも確実に特定の目標に達することのできるようなものをいう。その意味での「方法」は、「熟練」と対照的である。図工がコンパスを用いて円を描くのは、方法的手続きであり、画家が絵筆で円を描くのは熟練の手続き(職人的手続きともいえよう)である。熟練による仕事は、その能力を獲得するために長い訓練を必要とすること、仕事に当事者の感じる喜びが大きく、しばしば制作の過程そのものが目的とみなされる(その意味で、手段と目的が鋭く区別されない)ことなどの点で、方法的な仕事と異なる。芸術家は、方法化された工業生産によって支えられる社会に生き延びたところの、数少ない職人の一種であり、この社会が生みだした「能率」や方法的合理主義に抗して、自己の人格をその仕事において実現しようとするものである。
 かくして社会の支配的な価値と、芸術家のよりどころとする価値とは、鋭く対立せざるを得ない。物質的な快適さに対しては、精神的な表現、方法に対しては熟練、効率に対しては自己目的としての生産過程。このような対立は、価値の水準での、芸術家の現代社会における疎外の内容である。
 (「芸術と現代文明」より)

2011年04月07日

推奨の本
≪GOLDONI/2011年4月≫

『建築家坂倉準三 モダニズムを生きる|人間、都市、空間』 
   アーキメディア 2009年

 1937年巴里萬國博日本館の建築は、作者の理解による斯くあるべき新しき日本建築の一作例である。
 作者は將來あるべき日本建築をかく理解する。
 西欧のあらゆる建築に於ける新しい運動は、いち早くこの日本に傳つた。殊にこの十數年以來、過去の死したる建築の破壊と新しき建築の樹立のためのいろいろの新運動は、次から次へと傳わり來つて、この國の若い建築家たちを喜ばし勵ました。
 フランク・ロイド・ライトの過去の様式破壊運動に始まり、ウオルター・グロピュースの合理主義國際建築運動を經て、ル・コルビュジヱの新建築様式樹立の途に至る、これらの必然の新建築運動の本質と眞の役割は、しかし、この國の建築家たちに、よく理解咀嚼せられたのであらうか。
 少數の眞面目なる建築家の努力にも拘らず、これらのあらゆる新運動は日本の建築界には新しさの故に一つの新しき流行として登場し、その本質を理解される事なしにこの國の建築の生展進歩する眞の榮養となる充分なる暇もなく消え去つた。
 近來我が國の建築界に所謂日本主義建築の新潮流擡頭し來りたるは、過去十數年來のいろいろの新建築樹立のための輝しき諸運動がこの國の建築界の大部分に少しも理解されることなく單なる流行として迎えられ送り去られた何よりも明らかな證據である。
 グロピュースを代表者とするバウハウス一派の運動として日本に傳へられた合理主義國際建築運動が新建築樹立の十字軍運動の前駆として爲した功績は大きい。しかしそれはあくまでも次に來るル・コルビュジヱの新時代の建築樹立の運動の前駆としての功績である。
 我が國に於いては不幸にしてグロピュースからコルビュジヱに至る新建築樹立運動の歴史性は何ら理解されるところとならなかつた。
 この無理解が近年に至つて、生長する世界日本の眞の新建築樹立の運動に凡そ逆行する所謂日本主義建築思潮の時代錯誤的登場を許すに至つた。
 
 時代の進歩に取り殘された過去の形骸に粉飾されたる建築を破壊し、新しい時代の建築を樹立せむとする諸運動の役割を一語の中に含む有名なるコルビュジヱの「家は住むための機械なり」はしかし、この國においては正しく理解されることなくして餘りにも有名なる一流行語となり終わつた。
 我が國の建築界に理解されたるが如く「家は住むための機械なり」ではなくコルビュジヱの云はんとしたのは「家は住むための機械なり」であった。
 機械といふ言葉のうちに盛られたる意味はあらゆる近代科學の成果を新しい建築のために總動員して、醜き一切の不必要なる粉飾を洗ひ落し、不健全なる粉飾點に換へるに粉飾なる科學點を建築にもたらさんとすることである。これはすでにグロピュースの名に代表せられる合理主義国際建築運動の標識であつた。この運動には大いなる功績と同時に少からぬ缺陥或は危険が同時に蔵されてゐた。その機械のうちに住むものが人間であると云ふことを忘れ勝ちであつたと云ふことである。
 
 (略)新しい時代の建築はあくまでも新時代の科學の成果を總動員したる合理的建築でなければならないと同時に、更にその上に生理し心理する動物としての人間が住むためのあらゆる條件を具へたものでなければならない。ここに始めて世界の各國の地方性を滿足せしむる新時代の建築が生まれ得る。
 更にもう一つ最も肝要なることは建築はそれ自身一つの有機體でなければならないといふことである。建築を構成する各要素は有機的に結合して一つの全體を形成してゐるものでなければならない。過去の眞にすぐれたる建築は、すべてかかる有機的構成であつた。「一寸の蟲にも五分の魂」といふ如く、小さくは一つの住居から大きくは大都市に至るまで有機體としての一つの魂の通つたものでなければならない。一つの「生き物」でなければならない。(略)
 (「巴里萬國博日本館について」坂倉準三執筆.[日本工作文化連盟『現代建築』1939年6月創刊号より再録]より)

2011年03月03日

推奨の本
≪GOLDONI/2011年3月≫

『芸術起業論』 村上 隆 著
  幻冬舎  2006年
 

 スポーツ選手が綿密な計画と鍛錬を基本におくように、芸術家は美術史の分析から精神力の訓練に至るまで独創的な作品のための研究修業を毎日続けるべきです。突飛な発想を社会に着地させるバランスをあやまれば自分の身を吹き飛ばしかねません。
 率直な話、アーティストには充分な時間も金銭も用意されていません。
 正当な時間や報酬を得て作品を作るには、周囲と自分の関係を醒めた目で把握してゆかねばならないのです。
 芸術を生業にすると苦しく悔しい局面に立たされます。
 私の美しいものを作りたいという願望にしても、様々な障害が立ちはだかって、十数年間もの間、実現しにくいものだったのです。
 日本の美術大学は生計を立てる方法は教えてくれません。美術雑誌にも生き残る方法は掲載されていません。なぜか?
 ここにも理由はちゃんとあるのです。
 美術雑誌の最近数十年の最大のクライアントは美術大学受験予備校、そして美術系の学校です。
 大学や専門学校や予備校という「学校」が、美術雑誌を支えているわけです。金銭を調達する作品を純粋に販売して生業とする芸術家は、ここでは尊敬されるはずがありません。これは日本の美術の主流の構造でもあるのです。
 「勤め人の美術大学教授」が「生活の心配のない学生」にものを教え続ける構造からは、モラトリアム期間を過ごし続けるタイプの自由しか生まれてこないのも当然でしょう。
 エセ左翼的で現実離れしたファンタジックな芸術論を語りあうだけで死んでいける腐った楽園が、そこにはあります。
 世界の評価を受けなくても全員がだらだらと生きのびてゆけるニセモノの理想空間では、実力がなくても死ぬまで安全に「自称芸術家」でいられるのです。(略)
 芸術家も作家も評論家も、どんどん、学校教師になっていきますよね。日本で芸術や知識をつかさどる人間が社会の歯車の機能を果たせる舞台は、皮肉にも「学校」しかないのです。(略)
 戦後何十年かの日本の芸術の世界の限界は、「大学教授の話は日本の中で閉じている酒場の芸術談議に過ぎなかった」と認められないところなのです。 
 ただ、芸術家が飼い慣らされた家畜のように生存できる日本美術の構造は、最高にすえたニオイのする「幸せ」を具現化した世界かもしれません。
(略)
  意外とそんなに勉強したくなくて、ゆるゆるアルバイトをしながら、たまに公募展に何か出して楽しくやっていたりするのが、日本の芸術志望者の実情でしょう。
 「君のブースはどこ? 近いですね。会場で会いましょう」
 「今日やっと会えたね。なかなか審査員が来なかったけど」
 掲示板やブログを読めば読むほど自分の作品に言及していない。
 お前ら、会えるとか会えないとか、審査員の文句だけかい!
まぁ、それで、充分に楽しんでいる人も、多いのでしょう……。
 (「第一章 芸術で起業するということ」より)

 「自分の興味を究明する」
 「好きなように生きている」
 この二つは、かなり違うことです。
 芸術をやりたい若い人特有のよくないところがあるのですが、それは、みんなが「修業なんて必要ない」と信じているところです。
 親から「好きなようにやりなさい」と言われ続けた人が芸術の世界に入ってきて、それで本当にものすごく好きなように生きています。
 ものを作ることが好きなのかさえわからないまま、
 「大人しい生活に戻るよりも興奮できるお祭り騒ぎの方がおもしろい」 
 という理由で芸術の世界に留まっていたりするのです。
 「そういう行動をすれば、当然こう思われるのに、なんでそんなことをするんだ」
 とか、両親の教育の下地もない人もいたりします。
 単純に言えば「我慢」を知らない人の多い業界なのですが、物事を伝えるための最低限の「てにをは」ぐらいは身につけるべきです。
 訓練がまるでないまま表現している人の量にゾッとするというか、ちょっとでもいいと、先生や仲間がほめちぎるからうまくいかなくなるんじゃないかな、と感じているんです。(略)
「修業しなくてもやっていける」という思いこみがあまりに蔓延しているので、ぼくは却って「この幻想は誰が発明したのだろう」と興味を持ってしまったりします。まぁ、永遠のモラトリアムの夢空間に居続けたい人が、やってきちゃう世界なのかもしれませんけど。
 『美術手帖』あたりに一度でも作品が掲載されてしまえば、それだけで最高にハッピー。
 それからはどこかの美術の先生になる権利を手にいれて、小さい安全な芸術の監獄の中でブイブイ言わせて一生安泰で終わりたがるような希望は、本当に芸術ヤル気あるの?と疑ってしまいます。 
 なんで、ぐうたらな人間がアートをめざしたがるのかなぁ。
 すごいアーティストは、ぐうたらに見えても、実際はものすごく勤勉なのですけどね……。
 (「第三章 芸術の価値を生みだす訓練」より) 

2011年02月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2011年2月≫

『踊りの心』 尾上 松緑 著
  毎日新聞社 1971年
  

 (略)役者なんてうまいからいいっていうもんじゃないので、やはり雰囲気っていうことが大事なんじゃないでしょうか。
 これがいえるのは、今いった市村のおじさん(十五代目市村羽左衛門=引用者注)は、むろんそうだけれども、先々代の高島屋、左団次さんという方がそうだったと思うんです。どっちかといえば無器用な方で……。ところが、これがライバルとして、六代目(尾上菊五郎)はつねに意識してたんですけれども、とうとう一緒にお芝居しませんでした。
 これは、菊五郎のけい眼だと、私は思うんです。もう、あすこまで無技巧だと、のれんに腕押しでしょせん、自分はかなわない、とあの六代目に思わせたほど、左団次さんは大きな役者さんでした。
 たとえば、先の歌右衛門さんなんていう方が出てきた場合に、そこへ菊五郎なり吉右衛門なり出ても、やはりたいへん小さくなっちゃうんです。年も違いますけれども……。
 ところが、この左団次さんという方はその中間的な年齢ですけれども、でーんとぶつかるんですね。ということは、あまりに無技巧だから威圧を受けちゃうんでしょう。まあ非常に新しいものもよかった方でありながら、「毛抜」だとか「鳴神」だとか、現在われわれがやっても、みんな高島屋さんの作品ですものね。つまり、高島屋に強烈なライバル意識を持ってた師匠のもとに預けられてた私ですが、この「毛抜」や「鳴神」は高島屋さんがお手本というわけです。
 今でも思い起こすんですけど、高島屋さんの芝居を見に行った時なんか、六代目が「どうだった」と真剣に聞きましたよ。忘れもしないあの「皿屋敷」で鎗を取っての幕切れね。さっと鎗をとってなんにもしないで、そのままたたたっ、とはいっちゃいますもんね。七三のところで、たいてい普通の人はちょっと形をつけるんです。またつけたくなるんですよ。そりゃそうですよ。花道長いんですから……。
 「さっと鎗をとって、パッパッと持ち変えて、トントントンとはいっちゃった」と話しましたら「うん、そうだろう。そうだろう。」と、うなずいていました。わかるんですよ、高島屋のが。
 だから、六代目が恐れたっていうことは無技巧で押してこられるということで、またそういう人を非常に恐れていました。
 (「役者の主張(二)」 <先々代市川左団次>より)

 まあ軍隊ですから、なぐられもしましたけど、これについて面白い話があるんです。
 だいたい、私は死んだ団十郎の兄(十一代目市川団十郎)に子供の時、よくなぐられたんです。中の兄(八代目松本幸四郎)には、いっぺんもなぐられたことはないんですけれどもね。
 これは東宝劇場での父の十七回忌追善興行の時に、口上の中でそういう話を私がすると、上の兄が、
「そんなこと、俺はおぼえがない」
 って、こういうんですよ。
 ところが、これは軍隊へ行かないと、わからないんです。私もなぐられたことはなぐられて、私をなぐった相手は全部覚えているんです。それで、なぐったこともあるんです。招集兵をね。全然覚えてませんもんね。だれをなぐったか。
 上の兄はなぐられたことがないんでしょ。だもんだから、なぐったことは忘れてるんですね。だけど、私はやはり骨身にこたえてますからね。
 ですから、軍隊生活というものをよくよくかみしめて考えてみると、なぐられたからこそいろんな兵隊っていうものの、いわば本当の下の生活とかその気持も、わかるんですよ。こっちは将校じゃありませんから、当番もしましたし、隊長のおふんどしも洗ったし、縫いものもしましたし、三助もしたしなんてことで、おそらく私の年代の連中はほとんどみんな、これをやってるでしょう。
 しかし、まあ命をなくした人が多いんですが、さいわい生き残っているだけに、そういったことの経験から、歌舞伎というものをやっていく場合、下の人の気持だとかなんとかいうものは、まあわかります。
 (「甲種合格三番」<なぐられた話>より)

 こんな思い出もあります。中の兄は子供の頃から正義派でしたから、上の兄にとっては、なんとなくけむったくて、苦手だったんじゃないでしょうか。何かというと、トバッチリはいつも私に飛んできました。源平碁なんかしてまして、上の兄が負けてしまいますと、急に怒り出して、火箸かなんか持って、追っかけてくるんです。とんだ「金閣寺」の松永大膳ていうわけです。また、蜂の子を見つけて――あれ、うまいんですよ――いざ食べようという時になりますと、「金平糖やるから、お前は親の方を食え」なんていいだすんです。いくら金平糖もらったからって、親蜂を食うわけにゃいきませんからね……。
 ある時、兄弟三人で渋谷の通りを歩いてますと、突然、上の兄が、
「おい、お前たち、おやじがもし、死んだらどうする。」
 と聞くんです。
 なにしろ時ならぬ突飛な質問ですから、中の兄も私も、
 「そりゃ……急にそんなこといわれても……」
 というばかりで、正直いって二人とも、何も頭に答えが浮かんできませんでしたから
 「兄さん、あんたはどうするんです?」
 と聞きかえしましたら、そりゃ物凄いあの大声で
 「俺がわからないから、お前たちに聞いてるんだ!」
 と、どなり返されたのには、まったく恐れ入りました。
 (「家庭のこと」<兄弟のこと>より)

2011年01月02日

推奨の本
≪GOLDONI/2011年1月≫

『芸と美の伝承 ―日本再発見』 安田 武 著
  毎日新聞社  1972年

 だいぶ以前だが、春日野(栃錦)親方が、週刊誌にこんなふうな話をしていて、ホウと思わず感嘆したことがある。話というのは、春日野部屋が先代の栃木山親方以来、小兵の名横綱、名力士を多く産んだのには、何か奥の手があるのか、という記者の質問に答えて、格別な秘訣があるわけではない。ただ新弟子の時分から、爪先で歩け、踵をつけるな、ということをやかましく躾ける。相撲の基本は「押し」、それにはそっくり返っていてはだめなので、常に前かがみの姿勢を身につけていなければならぬ、というのだ。
 何の道であれ、おおよそ基本というものは、日常の生活の仕方と切り離すことのできないものらしい。むつかしくいえば、職業の倫理ということになろうが、土俵に登った時だけ、舞台に立った時だけ、あるいは稽古場にいる時だけ、カッコよくしようとして、人間できるものではない。日々の生活の立居振舞、いわば常住坐臥において、その道その道による心得があり、それをきびしく実践するところに、まさしく職業の「倫理」と呼ばれるものがあるのではないか。近ごろの諸技芸における荒廃は、この心得の喪失にふかい関連がある、と私は思う。
 歌舞伎役者が舞台で和服を着て、サマにならないなどとは、まったくもって論外だが、実際、昨今の若手役者にはそういうのがいるのだ。というのも、日ごろ当節ばやりの風俗を真似て、おかしな格好をしているから、さて舞台へ立つ段になって和服が身につかない。街頭をうろついている若者たちが、どんな服装をしていようと、もともと職業人としての日常のきびしさをもたないのが彼等だから、どうとも勝手次第というほかないが、役者は日常生活においても役者である。平素から和服を着こなして、立居振舞の作法を、おのずと身につけておかねばなるまい。(略)

 だが、基本がおろそかにされ、基礎が忘れられ、総じて「基本」ということの意味自体が見失われてしまった人間生活では、「伝承」ということの重い意味も、同時に見失われる。伝うべき基本があるから、その伝承をめぐっての手続が問題になる。伝うべき事柄がなければ、そもそも伝承・継承ということなど問題になる筈もない道理だ。そして、伝承すべき事柄が、人間生活に存在しなくなったということは、いまや人間相互における真のコミュニケーションが存在しえなくなった、というに等しい。
(「伝承ということ」より)

 「明治の文明開化以後の歴史は、社会生活から文化にいたるまで、江戸時代が三百年かかって営々と築きあげて来た、型・形式がひたすら崩れてゆく一方的過程で、戦後はただその傾向が加速されただけ」と、丸山真男が鶴見俊輔との対談(『語りつぐ戦後史』1)で鋭く指摘している。私もまったく同感だ。「大衆社会というのは、一口でいえば、型なし社会ということ」といい、「型へのシツケという意味、これが人生にとって、どんな意味があるかを考え直す必要があるんじゃないか、芸術でも、学問でも」と、丸山はいっている。「芸術でも、学問でも」そうだ。まして特に伝統芸能の世界においては、「型へのシツケ」が、十中の八、九であって、才能は、最後の一ないし二でしかない。その一ないし二が、窮極的には、如何に重く且つ大きいとしても――。
 遊芸と、昔気質の職人たちの世界にだけ、辛うじて、まだ「型へのシツケ」という一種の厳格主義が生き残っている。この世界へ、私が心魅かれるのは、「大衆社会」という名で呼ばれる、現代の「型なし社会」に、やりきれない違和感を覚えるからだ。だが、その遊芸や職人の世界でさえ、厳格主義は、急速に見失われつつある。竹沢弥七や野沢松之輔と一緒に、「人間国宝」に指定された尾上松緑との一問一答を伝えた新聞のコラムには、「三十五を過ぎるまで『ほんとに役がつかなかった』。それが息子たちは『忠臣蔵をやれば、いきなり勘平。わたしたちは何十年もその他大勢で、おじぎをしながら他人の芸を見てのみ込んだのに』」という松緑自身の述懐が紹介されていた。「伝承の芸の授け手になって『若い人に、ときどきカミナリを落さんと』」(朝日新聞・三・二五)といっているのである。「梨園」の今日もまた例外ではないらしい。
 文楽は、この二、三年、若手の志望者が増えつつあるという。それはそれで慶賀すべきことにちがいない。だが、いまだ三十にもならぬ若輩の三味線弾きが、雑誌の座談会に出席して、「新作の作曲が忙しくて……」などと、臆面もなく発言しているのを私は読んだ。
 伝承の技芸が危殆に瀕しつつあるのは、丸山も指摘していたとおり、「社会生活から文化にいたるまで」、あらゆる領域において、「型」の伝承がおろそかにされ、無視され、総じて「型」ということ自体の意味が、明治以後の私たちの文化に、見失われてしまったことに根源がある。
 嘗て、喜多六平太が「ちかごろの世間は、なんでも理解のいふ言葉で、かたづけやうとする。けつこうなことではあるが、芸道の伝書なんかを、さう易々と簡単に、理解だけで片付けて、得意顔をされては甚だ困る」(『六平太藝談』同信社)と語っていた。この場合、六平太のいう「理解」とは、単なる知的理解を指しているのだ。そして、この知的優越主義とでもいうか、わが国近代に固有の「知的理解主義(インテレクチュアリズム)」信仰が、「型」の伝承を崩した。「型」は、あくまでそれのもつ具体性、全人間性において「型」となる。だからこそ、その恢復と擁護は、単に伝統技芸の問題にとどまらず、現代文化全体の問題にかかわる筈なのであった。
(「「型」への修練」より)

2010年12月17日

推奨の本
≪GOLDONI/2010年12月②≫

『大石良雄』 野上 弥生子著
 岩波文庫  1928年
  

 少くとも今の内蔵之助には、復讐は熱情ではなく、單に義務であり、責任であり、運命との約束であるに過ぎなかつた。さうだ、今日の會合も亦約束だ。で、それを破らないために忠實に出席したまでであつた。この冷淡は、以前から自分の位置を濫用しない、彼の愼ましい性情に裏づけられて不自然には見えなかつた。而して内蔵之助はどんな相談になつても決して反對しまい。皆んなの好きなやうにさせればよいのだ、と思つてゐた。事實この仕事は彼等の仕事であり、自分は統領の名前を貸してゐるに過ぎない。而かも不都合な統領で、今になつて彼等に指圖がましいことをする機能はないと信じてゐた。で、議事は重に總右衛門、安兵衛、源五等の發言と提案で滑らかに進行した。
 『結構です。結構です。』
 その間上座に、床柱を控へて鷹揚に坐つた内蔵之助は、柔和な微笑で、何を云はれてもこの一語を繰り返した。
 お晝前から始まつた會合は夜に入つてまで續いた。復讐の最後の決議と共にそれに關する細目の打ち合せが悉く無事に終了した時には、老人達はこれでやつと死なないうちに本望が達せられると云つて滿足し、若い者は若い者で、早くも敵の首を上げたかの如く勇み立つた。前祝の心と、今日の目出度い決定を報ずるために、夜の明けるのを待つて直ぐにも江戸表へ立たうとしてゐる安兵衛の行を壯んにする意味で、酒宴が開かれた。人々は深い悦びと一緒に深い感慨を以つて杯を取交した。皆んなで内蔵之助を取り圍んで斯んな気持で酒でも飲むと云ふのは、幾月ぶりのことか知れなかつた。(略)
『内蔵之助殿も久しぶりに一つ如何で。』
『いや、どういたして。』
 内蔵之助は周章して辭退した。併し血縁の親しみで無邪氣に持ち出された老人の所望は、忽ち一座の願望となつた。彼等は内蔵之助が謠でも仕舞でも前の二人に劣らず堪能であり、以前は斯んな場合には氣輕に謠つたり舞つたりしたのを知つてゐた。
 『またとないことですから是非どうか。』
 さう熱心に勸めた人々の中には、織田信長が今川氏を討つ時、幸若の「敦盛」を舞つた話まで持ち出して、この席上で内蔵之助に何か一さし舞つて
貰ふことは、今宵の酒宴を一層有意義にするものだと信じてゐるらしかつた。總右衛門達はまた總右衛門達で、二人で露拂ひをしたのだから、横綱が出てくれなければ納まりがつかないと云つた。併し内蔵之助はどちらにも頑固に手を振つた。(略)
 内蔵之助は自分の拒絶で一座の興を殺ぐのを怖れながら、なんにもする氣にはなれなかつた。口で云ふほど醉つてゐるのでもなかつた。いつまで杯を重ねても、今夜の酒の味は徒らに舌を刺すのみであつた。内蔵之助は朱塗の大燭薹をともし連ねた廣間で、人々の笑聲と歡語に取り捲かれながら、ただ一人空山の洞に坐してゐるより淋しかつた。その寂寥と孤獨が何處から生じたかは、彼自身にも分らなかつた。仲間の者たちが最初の決心を揺がさず、今漸く目的に近づかうとして率直な悦びで夢中になつてゐるのが、自分の迷執の多い心に比べて羨ましかつたのかも知れなかつた。さうでないとは云へなかつた。而かも決してそれのみではなかつた。内蔵之助は膳の周りに集まつた杯を返すのをも忘れ、茫然と悲しげな面持で、前の燭薹の黄色く伸び上る焔を凝と見詰めてゐた。

2010年12月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2010年12月①≫

雑誌『世界文化』創刊号  昭和10(1935)年

 歴史に於ける一つの歴史的な時代として此の時代を特徴づけるのは、確かに當つてゐる。これまでの時代の何とか解釋のつけ得られた、あり來りのテムポが、破られて、亂れて、所謂『非常時』―危険―なのである。ふとふりかへつて見て、自分の立つてゐる舞薹に氣がついた時、ひたすら今まで努めてゐた自分の努力が、これでいいのか、それともいけないのか、疑はれて來る。時代のテムポがすつかり變つてゐて、自分がそれについて行けるか、行けないか、に迷ふ。不安。今までのものが無意味に見える。ニヒリズム。正に此の様な不安とニヒリズムとの、此の時代のインテリゲンツィアの敏感な部分が今、立つてゐる。學問文化への不信頼と絶望。だが、まじめな頭と胸とは、到底此の様な不安と絶望には堪へられない。新しい、しつかりした、もう再びは背かれることを知らない文化の、大通りを探し求めざるを得ない。その様な世界文化の大通りこそは、ただまじめに努力する人々にのみ踏まれるであらう。努力すると云ふことは、動いてゐると云ふことだからである。だから、この雑誌も、出來上つた、一定の塲處に落ちついてゐる人々のものではなくて、たえず、本當のもの、正しいものを求めつつ、動いてゐる人々の友である。眞理の扉を、たたくことを忘れないでゐる眞摯な手によつてのみ、この雑誌は育てられるであらう。
(『創刊のことば』より) 

 
 明治演劇史研究の方法論 ―覺書   辻部 政太郎
 
  (A)目標=力點=及び問題の所在
 先づ、凡ゆる時期、凡ゆる分野に亘つた日本演劇史の系統的な研究が必要であるうちに、さしあたつて、特に明治演劇史が問題となる所以は、演劇に於ける現實の具體的狀勢からである。
 歌舞伎が客観的に見て既に夙くその進歩的使命を喪失してゐながら、又明治中期乃至末期以後先驅的新劇運動者等によつて口を極めてその早急な衰滅が云爲されつつ、それが現在の如き形でなほ大衆を強く摑んで居る事實、その一見鵺的な、いはば不死身な正體の最も根底的な秘密はどこにあるか。
 その反對に、所謂新劇は、明治を終へ大正を經て現在に到るまで、常に極端なる苦難の途を辿り、遂に今なほ歌舞伎の覇権を奪つて眞の大衆的演劇たり得るまでに到つてゐない事實。しかもそれが外見も華かで内容も充實した一時の狀勢から遥かに後退して、著しく追ひつめられ局面の打開に摑んでゐる實狀。この根底的原因も果してどこに求めるべきか。これらは直接的には勿論現段階の社會狀勢の複雑な反映であつて單に『歌舞伎』と『新劇』の對立の問題として簡單化し去つてしまふことは出來ない。しかし同時にそれは又十分の史的認識なくしては、到底正しく理解し得ないものである。従つて演劇史の正しい精密な分析が、この現在の狀勢に對して少くも間接的な示唆を與へるであらうことが見透される。就中、他の凡ゆる分野に於けると同様、短期間に急激に自己を變質し得た明治期における主流演劇―特に歌舞伎のより掘下げた史的把握が。(略)

 次に明治演劇史における最も根本的な問題の所在は、どこにあるか。これは、いろいろに考へられるであらうが、私は右の『明治演劇の外見的な、さうしてある意味では本質的な、全體としての不進展性の問題』を挙げたいと思ふ。
 この解決は、いはば明治期に(人々に多く氣づかずして)自らを巨大に變質した主流演劇―歌舞伎の性格性を指示し、又新派劇が折衷的に止つて遂に傍流を出でず、又新劇が種子は蒔かれたが十分に地に育ち得なかつた理由をも説明することになる。(略)

  (D)對象=及び文献
 (略)既に、今までに現はれた明治演劇史―特に歌舞伎史の部分―が俳優技藝史に偏してゐることは、これもまた歌舞伎の本質的一面から一應必然でもあるが、今後の研究においては、更に廣汎に全體として考察されねばならぬ。特に演劇經濟史としての劇場經營史の研究等は基礎的部分の一つとして重視さるべきものをもつであらう。従つて對象的範圍としては、劇場經營史、劇場構造史、劇場法令史、劇場風俗史、脚本史、舞薹批評史、舞薹美術史、舞薹音樂史、俳優生活史、俳優技藝史等の凡てが包含さるべきである。
 しかもこれらのおのおのは、羅列的にバラバラに取扱はれるべきではなく、全體として統一的に、しかも正當なそれぞれの交互的聯關において捉へられねばならぬこと、言を俟たぬ。
 これらのうち、劇場經營史は、直接一般社會狀勢に密接した一方の極であるといふ意味において最も重要なる部分であり、又俳優技藝史は間接に最も抽象され昇華された一方の極であるといふ意味において又最も興味ある部分である。しかもその両極ともいはるべき二部分に對して、同じやうに太い歴史的一線が貫かれてゐる筈であり、それが克明に辿られ分析され摘出されねばならぬ。
                       

2010年10月02日

推奨の本
≪GOLDONI/2010年10月≫

『観劇偶評』三木 竹二著  渡辺 保編 
 2004年 岩波書店

 原来能を演劇に摸するは好処三つありと我らは思ふ。第一能の形を模するなり。その故は能にはわき、つれ、して、狂言師など、それぞれの順序正しく、その役々の並び方まことに整へり。演劇は眼にて見るものなれば、浄瑠璃作者が早く人形の並べ方に苦心する如く、俳優が舞台に並ぶ風情、よく整わではかなわず。いはゆる引張の見えなどいふはここの事なり。されば「勧進帳」にて弁慶が往来の巻物を取りて読むを、富樫が伺う辺など言ふべからぬ味あり。第二は能の振を喪するなり。例之ば「橋弁慶」の立の如き、「土蜘」にて蜘の糸を出す如し。第三は舞台の道具立の淡泊なるところを学ぶことなり。我らももとよりわが邦演劇の舞台を能舞台と一様に味なきものにせよといふにはあらず。しかれども欧洲、殊に仏蘭西などの大演劇場にてあまり大道具に凝るため、観客はその景色よきに目移りしてじやじやとの喝采はあれど、その代わり芸の方は次第にニの町になるは識者の卑むところと聞く。わが邦にても近頃随分道具に凝る癖起りて、実地実地と摸するやう勧むる人もあれど、労して功なきこともまた少からず。例之ば菊五郎丈が「梵字の彫物」にて使ひし日光陽明門の道具に数千円を費ししが、それほどの評判もなかりき。中には左団次丈が「血達磨」の火事など大当りなりしが、これらは芸道の上にてはあまり誇るべきことにあらず。もとより両丈などは道具建の当りを頼みて芸道をゆるがせにするやうな人にはあれねど、後進の人々がかかる真似をすることなど流行りては斯道のために憂うべし。
 また能より演劇に摸して悪しきこと一つあり。そは正本の脚色を能より取ることなり。その故は能の筋立はもと淡泊なるものなれば、その好処は優美にして品格を備へ、おもに叙情的もしくは叙事的なるところにあるべし。正本の筋立はこれと異なり。ここにてはまことに戯曲的ならんこと必要なり、その筋の上の葛藤も分別ならざるべからず。「鉢の木」「勧進帳」はなほ可なり。しかれども「釣狐」「土蜘」の如きは純粋の能とほとほと差別をつけがたし。予らは成田屋丈、音羽屋丈などが斯様なる無味淡泊なるものを採りて、新歌舞伎十八番、演劇十種の中に数へ、幡随長兵衛、明石の島蔵などを後廻しにするを怪む。かの「橋弁慶」、「茨木」の所作事の範囲を脱せざるもまたこの類なり。
(明治二十五年二月 深野座<新富座>)

2010年09月03日

推奨の本
≪GOLDONI/2010年9月≫

『日本に就て』 吉田 健一著 
   筑摩書房 1974年

 日本の知識人或いは文化人と総称される人種が、鼻持ちがならないといふものを通り越して、全くどうにも愚劣で腰抜けの、何の為にそれが本を書いて、またその本を人が読んだりするのか解らない。(略)例へば、野蛮人は風と言へば、実際に風が吹き出すのを恐れるのに近い状態にあるらしくて、そこから特定の言葉を口にすることを禁じる習慣が生じたとも見られるが、日本でものを書きなどする或る種の人間も、言葉といふのはその言葉の意味なのだと勘違ひしてゐるのが多いやうである。
 文明と書けば、そこに文明があると決めてゐるのではないだらうか。(略)さういふ言葉の使ひ方、或は寧ろ言葉に対するさういふ考へ方は、単に書くものを論理が支離滅裂な、又それ故に味も素つ気もないものにするばかりではない。文明と書くだけでそこに文明があることになるならば、それは言葉に対して安心してゐられるといふことであつて、そこにも可哀さうになる程幼い野蛮人の心情に似たものが感じられるが、野蛮人はそれで今度は恐怖とか、信仰とかいふ真剣な気持を起すのと違つて、かういふ知識人はただ言葉に就て安心してゐるだけである。ものを書くのに苦労しないのもその為であり、又、言葉はビルや自動車も同様にそこにどつかりと置かれてゐるから、或は、当人はその積りでゐるから、それを使ふのに考へる必要もない。ただ並べれば、そこにビルも、その間を通る自動車もある一つの風景、ではなくて、それが実在する世界が出来るから、後は言葉の数の問題が残るだけであり、言葉をなるべく多く知つてゐるのが知識人、といふことにもなる。
(「日本語に就て」より)

 戦後に教育が進歩して新しい大学の数が殖え、全部で四百八十だか、六百八十だかになつてゐると聞いたやうに記憶してゐる。四百八十でも大したもので、ソ聯とアメリカの次は日本だといふことになりさうである。ソ聯やアメリカにも、それだけの数の大学はないかも知れない。面積割りにすれば、或は、人口割りにしても、優に世界一である。
 それも、戦後二、三年のうちにこの世界一の地位を獲得したのであつて、それまでは普通の文明国並の数しか大学がなかつたのであるから、かういふ世界一は一応疑つて掛らなければならない。(略)
 つまり、日本の大学の場合はその多くが所謂、昇格なのである。戦後にキリスト教大学とかいふのが出来た時、その基金を作るのに一万田さん以下の一流の財界人が名を連ねて漸く必要な金が集つたが、本当に大学をひとつ新たに設置するのにその位の金が掛るのは当り前である。そしてこれは何も戦後だからさうなのではないので、東京と京都に大学があるやうになつて大分たつてから仙台に東北帝大が設立されたのは、当時の政府が非常な苦心をした末だつた。
 ここの所の心理が、だから、よく解らない。大学を一つ作るには大変な金が掛ることで、高等商業や女子医専を大学に昇格させて間に合しても、昇格させるのにはやはりそれだけの金を使ふことになる。丁度、昭和二十五、六年頃に関係があつたさういふ、それまでは大学ではなかつた学校で、どうしても大学になりたいのが、それには図書が三万冊なければならないとかいふので大騒ぎをしたことがあつた。合格したら返すから、蔵書を貸してほしいといふ話まであつたが、結局は大部分を新たに買つたやうである。方々でさういふことが起つてゐて、神田の古本屋は大儲けをしたらしい。つまり、図書を揃へるだけでも大変だつたのであつて、それならば何故、焼け跡が特色で碌に着るものもなかつたあの時代に、さうしてまで間に合はせの大学を殖やさなければならなかつたのか、今から考へて見ると不思議である。
 それで、何百かの大学が日本に出来た。その当時も、新築されるのは官庁や料理屋ばかりで住宅問題などは後回しになつてゐるといふ非難があつて、それは今日よりももつと深刻なものだつた筈であるが、大学を新たに作る為の浪費に就ては誰も文句を言はなかつた。確かに浪費だつたのであり、それは出来上がつた大学の、現在の内容が我々に教へてくれることである。大学の数が殖るのが文化だと思つてゐたのだらうか。
 (略)大学教育を受けるといふことにもし何か意味があるならば、それは実際に大学と呼べるものがあつて、そこに入つて勉強をしての話である。ただ大学教育が受けたかつたり、それを施してゐると自称したかつたりする人間がゐて、これを手つ取り早く満足させる為にさういふ人間が集つてゐる場所に大学の名称を与へたものが、大学である筈はない。かういふ新しい大学のことを思ふと、よく日本の舗装道路のことが頭に浮ぶ。泥道だつた所が舗装されることになつたといふので喜んでゐると、先づその上に石を砕いたのを敷いて、その上をローラーが何度か行つたり来たりし、それから何か黒いものが塗られて、それで舗装道路が出来たのである。だから、少し放つて置けば、直ぐ又もとの泥道に戻る。舗装道路といふのは、そんなものではない。それでも、ないよりかいいと言ふものがあるかも知れないが、それは道路といふものが物質だからで、精神、或は知性の問題に就てもさういふごまかしが利くと思ふのが、新制大学の精神である。
(「女子大学の問題」より)

2010年08月04日

推奨の本
≪GOLDONI/2010年8月≫

 雑誌『知性』創刊号 
   河出書房 1938年

 ○官僚獨善の好見本
 近衛首相が行政改革の一案として、官吏任用令改正の意圖を漏したのは、大命降下後間もなかつたと記憶する。一つには官僚獨善の弊風をこれで掃滅し、革新政策の實現を期する意味で、一方に人材登用の指標を示さうといふ深謀からであつた。野の遺賢などといふ呼聲には大して期待も出来ないが、非常時局の進展とともに、益々官僚が獨善性を發揮してゐたし、この小面憎い連中に一擊加へてやることが出來るのだと思ふと、國民には異存のある筈がなかつた。ところが意外なところに反對的気構があつた。樞密院にである。それでも最近やうやく諒解が成つて發令を見る段取りになつたが、最初の腹案はすつかり骨抜きになつて、型ばかりのものになつてしまつたのである。
 例へば、内閣に人事局を設置して相當大規模の効果を擧げようとした計畫も、勅任官特別任用令の範圍を擴大することも、それから、これこそ國民一般が手具脛ひいて待つてゐた官吏の身分保證令の改正といふことも、何處かに影を潜めて、わづかに、經濟財政方面の人物に限り奏任官の特別任用が出來るとか、高等官待遇の本官任用が可能になるとか、極めて小範圍の改正にとどまつてしまつたのである。これでは誰だつて啞然たらざるを得ないだらう。尤も案そのものが官僚自身で立てたのだから、我から首を締めるやうな改正案に眞情籠めて打ち込めなかつたのも當然である。(略)これこそ官僚獨善が獨善の本領を最も露骨にさらけ出した行政非刷新の一例といふべきであらう。近衛首相が折々嫌氣がさすのも故ないことではない。 
 
 ○大學令第一條
 大學及び大學生の問題が引き續き喧しい論議の焦點となつてゐる。大學が最早最高學府として自治的な權威を失つたことに就ては、誰でも認めてゐる。問題は今後どんな進路を取るかにある。然しそれも大方は見透しがついてゐる。學問の獨立・自由などといふことは、近い將來に昔噺になつて、大學令第一條の「國家の須要なる」だとか、「國家思想の涵養」だとか、特にこの點に力瘤を入れた穩健な國士教育が追々行はれることになるだらう。(略)所詮は時代の波濤の中に、過去に保持した輝かしい誇りを沈めてしまふことであらう。斯くて大學も行くところまで行くのである。從つて、東京帝大に於ける經濟學部の紛糾の如き事件は政府の國家的方針が不動である限り、あれを以て最後とするのではなからうか?
 だが、現在の問題は外からの力に依つて動向を支配されてゐることにある。今後教授の任免が相當頻繁に行はれるだらうことは、豫想に難くない。その結果専門教育の良識が假令一時的にもせよ、低下するといふことである。これが學生に影響するところは馬鹿に出來ない。現在でさへも、大學の卒業生に對する社會一般の認識は、これを社會の水準よりも低下したものとして扱つてゐる。
 それがこれ以上低下すれば、大學は専門學校程度、若しくはそれ以下になる惧れがないとは言はれないだらう。さうなれば、大學令が規定する、國家社會に對して負擔してゐる筈の重大な任務などといふものは、空文化されることは瞭かである。これは確かに教授の使命責任の問題以上に、重大な事態であらう。自粛自戒の焦點もそこにあらう。

 ○天才の血は保存したい
 國家總動員法案が獨逸や伊太利の眞似だといふので、議會で非難攻擊の的になつたことは我々の印象に鮮かに殘つてゐるだらう。これも諸列強の眞似
である。厚生省では、精神病、低能者など遺傳性精神異狀者の根絶を期するために「斷種法」の研究に着手したさうである。眞似は眞似でも、これは優生學上から所謂國民の血の淨化を目的として立法するのだから、別に専門的科學知識を持たぬ我々には反對すべき理由もないやうだ。
 しかし、學者の間には相當の反對意見もあるらしく、中には「偉人・天才は精神病者系統に多い」などと言つてゐる。問題がここに觸れると、私なども簡單には賛成出來なくなる。嘗てロンブロオゾオの「天才論」を讀んだことがあるが、これに依ると天才と狂氣とは紙の表裏のやうなもので、何れを何れとも判斷のつかぬやうな狀態にある。藝術の天才などといふものは美術家、文學者、等例外なしに、狂氣と間違はれるやうな要素を、多分に性格や體質の上に持つてゐることが證明されるのだ。
 「斷種法」が實施されたために例へば、ミケルアンヂェロやドストイエフスキーやショパンのやうな偉大な藝術家の血統が斷絶することを想像すると、これは鳥渡願下げにしたい氣がする。藝術の社會がどん栗の脊競べになり、凡才のくだらぬ作品ばかりが跳梁することになつたら、由々しい問題なのである。
(上泉秀信「社会時評」)

2010年07月02日

推奨の本
≪GOLDONI/2010年7月≫

『逝きし世の面影』 渡辺 京二著 
 葦書房 1998年

 われわれはいまこそ、なぜチェンバレンが日本には「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と言ったのか、その理由を理解することができる。衆目が認めた日本人の表情に浮ぶ幸福感は、当時の日本が自然環境との交わり、人びと相互の交わりという点で自由と自立を保証する社会だったことに由来する。浜辺は彼ら自身の浜辺であり、海のもたらす恵みは寡婦も老人も含めて彼ら共同のものであった。イヴァン・イリイチのいう社会的な「共有地」、すなわち人びとが自立した生を共に生きるための交わりの空間は、貧しいものも含めて、地域のすべての人びとに開かれていたのである。
 一言にしていえば、当時の日本の貧しさは、工業化社会の到来以前の貧しさであり、初期工業化社会の特徴であった陰惨な社会問題としての貧困とはまったく異質だった。そして、そのことを誰よりも早く指摘していたのは、ほかならぬかのジーボルトである。彼は江戸参府の途中、中国地方の製塩業を見てこう述べている。「日本において国民的産業の何らかの部門が、大規模または大量生産的に行われている地方では一般的な繁栄がみられ、ヨーロッパの工業都市の、人間的な悲惨と不品行をはっきり示している身心ともに疲れ果てた、あのような貧困な国民階層は存在しないという見解を繰り返し述べてきたが、ここでもその正しいことがわかった。しかも日本には、測り知れない富をもち、半ば飢え衰えた階級の人々の上に金権をふるう工業の支配者は存在しない。労働者も工場主も日本ではヨーロッパよりもなお一層きびしい格式をもって隔てられてはいるが、彼らは同胞として相互の尊敬と好意によってさらに堅く結ばれている」
 いまやわれわれは、古き日本の生活のゆたかさと人びとの幸福感を口をそろえて賞賛する欧米人たちが、何を対照として日本を見ていたのかを理解する。彼らの眼には、初期工業化社会が生み出した都市のスラム街、そこでの悲惨な貧困と道徳的崩壊という対照が浮かんでいたのだ。
(「第三章 簡素とゆたかさ」より)

 モースは滞日中、たえず財布の入ったポケットを抑えていたり、ベンチに置き忘れた洋傘をあきらめたりしないでいい国に住むしあわせを味わい続けていた。「錠をかけぬ部屋の机の上に、私は小銭を置いたままにするのだが、日本人の子供や召使いは一日に数十回出入りしても、触ってならぬ物には決して手を触れぬ。私の大外套と春の外套をクリーニングするために持って行った召使いは、間もなくポケットの一つに小銭若干が入っていたのに気がついてそれを持って来たが、また今度は、サンフランシスコの乗合馬車の切符を三枚持って来た」。(略)広島の旅館に泊まったときのことだが、この先の旅程を終えたらまたこの宿に戻ろうと思って、モースは時計と金をあずけた。女中はそれを盆にのせただけだった。不安になった彼は宿の主人に、ちゃんとどこかに保管しないのかと尋ねると、主人はここに置いても絶対に安全であり、うちには金庫などないと答えた、一週間後この宿に帰ってみると、「時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至る迄、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋のない盆の上にのっていた」のである。
 (略)モースは、日本に数カ月以上いた外国人はおどろきと残念さをもって、「自分の国で人道の名において道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人が生まれながらに持っている」ことに気づくと述べ、それが「恵まれた階級の人々ばかりではなく、最も貧しい人々も持っている特質である」ことを強調する。
(第四章 親和と礼節」より)  

 幕末に異邦人たちが目撃した徳川後期文明は、ひとつの完成の域に達した文明だった。それはその成員の親和と幸福感、あたえられた生を無欲に楽しむ気楽さと諦念、自然環境と日月の運行を年中行事として生活化する仕組みにおいて、異邦人を讃嘆へとさそわずにはいない文明であった。しかしそれは滅びなければならぬ文明であった。徳川後期社会は、いわゆる幕藩制の制度的矛盾によって、いずれは政治・経済の領域から崩壊すべく運命づけられていたといわれる。そしてなによりも、世界資本主義システムが、最後に残った空白として日本をその一環に組みこもうとしている以上、古き文明がその命数を終えるのは必然だったのだと説かれる。リンダウが言っている。「文明とは、憐れみも情もなく行動する抗し得ない力なのである。それは暴力的に押しつけられる力であり、その歴史の中に、いかに多くのページが、血と火の文字で書かれてきたかを数え上げなければならぬかは、ひとの知るところである」。むろんリンダウのいう文明とは、近代産業文明を意味する。オールコックはさながらマルクスのごとく告げる。「西洋から東洋に向かう通商はたとえ商人がそれを望まぬにしても、また政府がそれを阻止したいと望むにしても、革命的な性格をもった力なのである」。だが私は、そのような力とそれがもたらす必然についていまは論じまい。政治や経済の動因とは別に、日本人自身が明治という時代を通じて、この完成されたよき美しき文明と徐々に別れを告げねばならなかったのはなぜであったのか。
(「第十四章 心の垣根」より)


2010年06月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2010年6月≫

『プリンシプルのない日本』 白洲 次郎著 
 メディア総合研究所 2001年

 総裁公選は書生論
 
 鳩山さんが引退したら、後継者は誰かということは、ほとんど毎日、新聞雑誌を賑わしている。鳩山さんは、適当な後継者がないから引退出来ないと居据る腹だとさえいう人がいるが、ほんとに引退するつもりなら、さっさとやめるがいい。政治評論家などの玄人がいう様に、総裁公選などとは一介の書生論だと素人の私は考える。大変な寄り合い世帯(ほんとは世帯などとは縁の遠いものなのだが)の自由民主党で、公選などは不可能なばかりか無意味である。決選投票などやって御覧なさい。勝った方の連中はおさまるが、負けた方はシコリが残る位の生易しいことであきらめる道理はない。やれ脱退だ、除名だとさわぎの始まるのは火を睹るより明かだ。
 やめるならさっさとやめてしまえというのは、こんな問題はどうせ土壇場にこなければ解決など出てくるものではないとあきらめているからだ。この土壇場は人工的にこようが自然にこようが結果は同じである。人工的にやるのならすぐでも来るが、自然にくるのを待つのには時間がかかる。政党がその総裁をながい間空席にして決め得ない様なら、その政党は潰滅するのは必至であること位は政治家は充分知っている筈だから、すぐに決めるだろうしグズグズしていられないだろう。一部の人がいっている様に、あまり無理をしないで、次期総裁を決めるなんて呑気なことを考えていたら、決まった時分には、政党はあっても国民との関連が無くなっているだろう。(略)
(「政界立腹帖―一寸一言・八つ当り集」<『文藝春秋』一九五六年十二月号>より)

 
 国家補助金を当てにするな
 
 事業が苦しくなって来るにつれ、国家補助金を当てにする気分が大分頭をもち上げて来たらしい。新しい日本としては、ドッジさんじゃないが、補助金の制度は止めた筈だ。私は原則的には補助金制度など大反対だ。今、補助金、補助金と叫び出している御連中にしても、何ヘン景気とか何とか言って金がもうかって仕様がなかった時には、税金以上のものを国家に自発的に納入する意志があったろうか。インチキの社会主義者みたいに「私が林檎を一つ持っている。この林檎はみな私のもの。貴方が林檎を一つ持っている。その林檎の半分は私のもの」なんていう様な差引両取り、丸もうけなんていう考え方は、この頃はやりもしないし、通じるわけもない。どうしても或る産業の補助金を交付する必要があるのならやるがよい。然し私はその補助金をやるのに条件をつけたい。
 一、政府は補助金を授ける会社の経理を厳重に監査監督すること。
 二、その会社の利益が或る程度以上になった時にはその超過分に対して累進的に重税を課すること。
 三、その会社の経営に当る人事に就き政府が或る種の発言権を持つこと。
 大体補助金をやってまで運営しなければならない会社が、日本にあり得るとは私は思わない。
 (略)補助金が無ければやって行けぬ様な産業はこの際思い切って止めるのがよい。国家の経済環境はそれ程貧困なのだから。 
 (略)私の言いたいことは、もうそろそろ好い加減の一時しのぎやごまかしは止めた方が好い。もっと根本的に我国の経済の現状を直視してその将来を考えるが好い。
(「頬冠りをやめろ―占領ボケから立直れ」<『文藝春秋』一九五三年六月号>より)

2010年05月06日

推奨の本
≪GOLDONI/2010年5月≫

『明日を支配するもの』P.F.ドラッカー著 上田 惇生訳
 ダイヤモンド社  1999年

 (略)日本の官僚は、絶頂期にあった一九七〇年当時さえ、経済的な影響力はヨーロッパの官僚に遠く及ばなかった。フランスやドイツでは、政府自らが経済活動の相当部分を所有する。ヨーロッパ最大の自動車メーカー、フォルクスワーゲンの株式の五分の一はザクセン州が保有し、完全な拒否権をもつ。ごく最近まで、フランス政府は主な銀行と保険会社のほとんどを所有していた。ヨーロッパ大陸第三の経済大国イタリアも同様である。
 ところが日本では、政府が所有する大きな経済活動は郵便貯金だけである。日本では行政指導や影響力の行使によって行なっていることを、ヨーロッパでは、経済の計画化と企業の所有、経営者としての意思決定権によって行なっている。
 
 はたして日本の官僚の力を弱めることはできるか。これまでの彼らの実績は、さほど優れたものではない。この二五年間、失敗ばかりしてきた。六〇年代から七〇年代にかけては、補助すべき対象を誤り、メインフレーム・コンピュータに力を入れた。その結果、今日日本は、情報産業だけでなく、ハイテク全般で大きく遅れをとっている。
 日本の官僚は、八〇年代にも失敗した。景気後退に脅えてバブルを招き、今日の金融危機をもたらした。銀行、保険、メーカーによる株と土地への過剰投資を招き、価格高騰を引き起こした。その結果、最悪ともいうべき不良債権を発生させた。
 九〇年代の初めにこのバブルがはじけたとき、官僚は経済を立ち直らせることができなかった。そこで株価と地価を引き上げ、消費と投資を刺激するために、ニューディール時代のアメリカさえ上回る資金を注ぎ込んだが、効果はなかった。しかも一九九七年には、アジアの金融危機に不意を打たれ、アジアへの投資を奨励することぐらいしかできなかった。
 そのうえ、権威ある大蔵省や日銀の不祥事が明るみに出た。彼らのリーダーシップに疑問が投げかけられ、官僚システムを支持しつづけてきた大企業さえ批判的となった。大企業を代表する経団連は、規制緩和と官僚の権限の縮減を求めている。 
 だがこれまでのところ、大きなことは起こっていない。ある有力な高級官僚を棚上げしようとした政治家のささやかな動きさえ、わずか数週間後にはうやむやにされている。たしかにアメリカの目には、日本では異常なこと、特殊日本的なことがまかり通っているように見える。
 しかし日本のような、家柄や富ではなく、能力に基礎をおく指導層というものには、恐るべきしぶとさがあるものである。信用をなくし、敬意を失った後も、長い間力をもち続ける。(略)

 自らの力を奪おうとするあらゆる試みを挫折させてしまうという、時の指導層の恐るべき力は、日本だけのものではない。そもそも、先進国とくに民主主義の先進国というものは、指導層を不可欠とする。何らかの指導層が存在しないことには、社会と政治が混乱に陥る。その結果、民主主義が危うくされる。
 そのような観念とらわれていない国は、アメリカと若干の英語圏の国だけである。アメリカは、一九世紀の初め以降、指導層なるものをもったことがない。まさにアメリカ社会の特質は、トクヴィルをはじめとするアメリカ研究者が指摘したように、あらゆる層が、正当に評価されず、十分な敬意を払われていないと感じているところに、その強みがあることにある。
 だが、そのようなアメリカは例外であって、日本が普通である。アメリカ以外の先進国では、指導層が存在しなければ、政治の安定も、社会の秩序もあり得ないことが常識となっている。(略)

 先進国社会に不可欠の指導層は、自らの地位に執着する。支配者というものはそういうものである。しかしそれが可能となるのは、彼らに代わるべきものが存在しない限りにおいてである。ドゴールやアデナウアーのような者が現れて、新たな指導層を構築しないかぎり、旧来の指導層は、たとえ信頼を失い、機能できなくなっても、そのまま残る。
 日本には、この変わるべきものがない。将軍政治の後継だった軍部が、日本の指導層として返り咲くことはありえない。たしかに経済界は、かつてない影響力をもつにいたった。だが、社会そのものの指導層となることはできそうにない。学者も自由業も無理である。今のところ、いかに信頼を失墜させようとも、指導層たりうるのは官僚だけである。
(「付章 日本の官僚制を理解するならば」より)

2010年04月03日

推奨の本
≪GOLDONI/2010年4月≫

『劇場往来』 高橋誠一郎著
 青蛙房  2008年

 (略)先生の演劇論は早くから演劇人の注意を引いておったらしく、明治九年十一月に類焼した新富座が十一年六月、日本最初の額縁式洋風劇場として復活し、同七、八両日を期して、古錦絵に残っているような落成式を挙げたとき、座元十二代目守田勘弥の式辞を五代目尾上菊五郎が代読し、これに次いで、九代目市川團十郎が俳優一同を代表して式辞を朗読したのち、河竹繁俊氏著『日本演劇全史』によると、「前海軍大尉正七位当時演舌者の松洲堀龍太が羽織袴にて舞台の中央に座し」て、一文を読み上げたが、これは同年五月二十三日の三田演説会で、福沢先生の演説された内容の大意を文章にしたもので、その要旨は、古来、芝居について、賛否両様の議論が行なわれているが、悪いのは芝居そのものではなく、その関係者が下劣だったためである。須らくその向上をはかるべきである、というにあった。
 (略)先生は日本の芝居を、家族打ち揃って見物しても、顔を赤らめるようなことがなく、また学者士君子が見ても顰蹙することのないものにしようと苦心しておられた。
 やはり朝の散歩のさいであったろうか、私は、何かの話のついでに「先生は左團次がいちばんご贔屓でしょう」と申し上げると、先生は、軽くうなずいて、「なァに、別段贔屓というわけではないが、あの男が、いちばんよくこちらのいうことを聴くか……」と答えられたことが記憶に残っている。
 明治三十二年三月、左團次が三世河竹新七脚色の「蔦模様血染御書」すなわち、いわゆる「細川血達磨」を再演した時、この劇は、大川友右衛門と小姓数馬の反自然な恋愛を中心とするもので、とうてい、文明世界の舞台に上すべきものでないことを先生の機関紙『時事新報』が指摘すると、左團次は、直ぐに、小姓数馬を腰元数江に改めた。福澤先生は、左團次が、殊によく先生の意見を容れる点で、彼を愛しておられたのである。
 先生は、いかがわしい浄瑠璃や唄の文句などを、みずから訂正されたりした。「十種香」の「こんな殿御と添い臥しの」云々という文句は「こんな殿御と妹と背の」と改めるべきだと説いておられた。
 先生はひとり左團次ばかりでなく、團十郎、菊五郎の出演にも肩を入れられた。明治二十三年に来朝して、上野公園その他で風船乗りを演じて評判になったスペンサーの妙技をそのまま舞踊に仕組んだ河竹黙阿弥の「風船乗評判高閣」を、翌二十四年一月、五代目尾上菊五郎が歌舞伎座で上演した時、先生は特に甥の今泉秀太郎氏を楽屋に入り込ませ、主役の菊五郎にほんとうの英語を教え込み、舞台でこれを喋べらせることに努力された。
 Ladies and gentlemen.
I have been up three thousand feet.
Looking down, I was pleased to see you in this Kabukiza.
Thanks you, ladies and gentlemen, with all my heart.
I thank you.
 明治二十五年三月、菊五郎と左團次が同時に大阪に乗り込み、角座と浪花座で競演することになった際、先生は、初め、左團次の依頼に応じ、大阪毎日新聞社の高木喜一郎氏(慶應義塾出身、同新聞社二代目社長)に宛てて添書を書いた。ところが、さらに菊五郎からも所望があって、断ることができず、同じく、よろしく御贔屓、御評判のほどを願う旨の一書を認めた。先生曰く、「人事多忙、役者の添書まで認めねばならぬとは、老翁、亦、困る哉」と。
 先生は、また、明治二十四年四月、團十郎が、福地桜痴の「春日局」を歌舞伎座で上演した時には、贔屓客への配り物に添える宣伝文までも書いて与えた。これには、先ず、團十郎の言葉として、「明日、私の芝居を御覧になりますなら、どうかこの包をお持ち下さいまし」と書いてある。客が「なぜ、こんなものを呉れるのか」と問うと、この包の中には「ハンカチが半ダースはいっている。今度の『春日局』には、愁嘆場があるから」と答えるのである。(略)
(『三田評論』昭和四十二年一月号)
(「福澤先生と演劇」より) 
 

2010年03月04日

推奨の本
≪GOLDONI/2010年3月≫

『下流志向―学ばない子どもたち 働かない若者たち』 内田樹著
講談社 2007年

 ついこのあいだ、『スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐』を試写会で見る機会があったのですが、この全六作を通じて、映画のメイン・テーマが師弟関係なのだということに気がつきました。アメリカ人は「師弟関係を通じての技芸の継承」ということについてはあまり関心がないんじゃないかと私は思ってきたので、『スター・ウォーズ』がそのテーマを正面に出してきたことに興味を覚えたのです。
 映画の中ではいろいろなことが起こるのですが、いちばん面白かったのは、「ジェダイの騎士」にはメンター(先達)がいて、メンターには必ず弟子が一人いるというその構造です。『エピソード2』と『エピソード3』では、弟子の方がメンターよりも腕前が上になってしまうという逆説が物語の縦糸になっています。アナキン・スカイウォーカーがオビ=ワン・ケノービよりも強くなってしまう。そして、「俺の方が才能がある。俺の方がもう師匠よりも強い」と言い出して、悪の道へ走ってしまう。 
 弟子が師匠の持っている技術は自分のそれと比較考量可能であると考えたときに、師弟関係は破綻します。アナキンは師のもとを去って、オビ=ワンよりも強いメンターを求めて、銀河皇帝の仲間になる。そうやって「フォースのダークサイド」に導かれて、ますます力を得たはずのアナキン・スカイウォーカーなのですが、これが最後に師匠のオビ=ワンと対決したときに、ぼろ負けしてしまう。
 僕は見ながら「おお、奥が深いな」と思って、けっこう感動してしまったのです。
 こういう話からあまり簡単なメッセージを取り出すのはよくないことなんですけれど、あえて申し上げると、「師であることの条件」は「師を持っている」ことです。
 人の師たることのできる唯一の条件はその人もまた誰かの弟子であったことがあるということです。それだけで十分なんです。弟子として師に仕え、自分の能力を無限に超える存在とつながっているという感覚を持ったことがある。ある無限に続く長い流れの中の、自分は一つの環である。長い鎖の中のただ一つの環にすぎないのだけれど、自分がいなければ、その鎖はとぎれてしまうという自覚と強烈な使命感を抱いたことがある。そういう感覚を持っていることが師の唯一の条件だ、と。
 弟子が師の技量を超えることなんかいくらでもあり得るわけです。そんなことあっても全然問題ではない。長い鎖の中には大きな環もあるし、小さな環もある。二つ並んでいる環の後の方の環が大きいからといって、鎖そのものの連続性には少しも支障がない。でも、弟子が「私は師匠を超えた」と言って、この鎖から脱落して、一つの環であることを止めたら、そこで何かが終わってしまう。
(略)師弟関係で重要なのは、どれほどの技量があるとか、何を知っているかという数量的な問題ではないんです。師から伝統を継承し、自分の弟子にそれを伝授する。師の仕事というのは極論すると、それだけなんです。「先人から受け取って、後代に手渡す」だけで、誰でも師として機能し得る。僕はそういうふうに考えていますし、およそこれまで師弟関係について書かれたすべての言葉はそう教えていると思います。
(「師弟関係の条件」より)

 今日論じる暇がなかったんですけれど、階層化が一番進んでいるのは、おっしゃる通り、実は文化資本においてなんです。
 「文化資本」というのはピエール・ブルデューの用語で、平たく言えば「教養」ということです。美術や音楽についての批評眼とか、適切なマナーとか、服装のセンスとか、ワインの選び方とか……そういう身体化された「お育ちの良さ」みたいなものです。フランスは階層社会ですから、所属階層が違うと生きる世界が違う。交遊範囲も、おしゃべりの話題も、着る服も、出入りするレストランも、みんな違う。文化資本は所属階層を表示する「名刺代わり」です。だから、その取り扱いにはみんな非常に慎重です。階層の下の人間がヴィトンとかエルメスを身につけたり、高級レストランで食事をすることは、「ルール違反」というか、ほとんど「履歴詐称」のようなものですから、階層社会では禁忌とされる。
 でも、日本は久しくそういうことはなかったわけです。「あいつは野暮だね」くらいのことは言いますけれど、それは所属階層とはあまり関係ない、金持ちでも、権力者でも、野暮は野暮だし、貧乏人でも、市井のあんちゃんでも、粋な人は粋、そういう点では文化資本的には民主的な社会だったと思います。
 それがここに来て急激に文化資本が社会階層の記号として機能し始めた。マジョリティーの教養がどんどん下がっていく一方で、社会的に高い階層にはまだ教養や趣味のよさをたいせつにする気風が残っている。
 佐藤学さんから伺ったんですけれど、東大のゼミでももう学生同士の話題が噛み合わなくなってきているそうです。音楽の話とか、美術の話とか、文学の話になると、そういう話題にまったくついていけない学生と、そういう話題がちゃんとできる学生の間にははっきりとした断層が生じている。子どものころから家に芸術家や政治家が出入りしているとか、留学していて外国語が堪能だとか、海外に友人がいて頻繁に行き来しているとか、小さいころから芸事をやっているとか、いわゆる昔ながらの上流社会の「リベラルアーツ」を身に付けて育ってきた子どもが一方にいて、子どものころから塾通いで勉強だけしてきて、本も読まないし、音楽も聴かないし、美術もわからない……というような学生が他方にいる。その落差がもう埋めがたくなっている。
 でも、この文化資本ギャップが際立ったのは、たぶん佐藤さんが観察されたのが東大という変な場所だったからだと思います。そこだと、他の条件が一緒なのに、文化資本についてだけ歴然とした差があるから、それが統計的な異常だということに気がつく。でも、一般社会に持っていくと、おそらく誰も気がつかないでしょう。だって、文化資本は統計的には正規分布してないんですから、下の方の階層の人は文化資本が豊かに備わっている日本人が存在するということ自体を知らない。日本人はみんな「自分程度」だと思っている。「教養のある人」がどこかにいるいうことがわかっていれば、自分には教養がないということもわかるし、教養を身につけないとまずいということもわかる。現に、大学に進んではじめて自分に文化資本がないということを知った東大生は必死になってその後れを取り戻そうとする。でも、自分には文化資本が欠けているということを知らない階層にはそもそも努力するモチベーションがない。だから、階層間の文化資本格差は拡大する一方なんです。
(「文化資本と階層化」より)

2010年02月05日

推奨の本
≪GOLDONI/2010年2月≫

『THE BOOK OF TEA』 岡倉天心著 桶谷秀昭訳
平凡社 1983年

 
 To the sympathetic a masterpiece becomes a living reality towards which we feel drawn in bonds of comradeship. The masters are immortal,for their loves and fears live in us over and over again. It is rather the soul than the hand, the man than the technique, which appeals to us,――the more human the call the deeper is our response. It is because of this secret understanding between the master and ourselves that in poetry or romance we suffer and rejoice with the hero and heroine. Chikamatsu, our Japanese Shakespeare, has laid down as one of the first principles of dramatic composition the importance of taking the audience into the confidence of the author. Several of his pupils submitted plays for his approval, but only one of the pieces appealed to him. It was a play somewhat resembling the Comedy of Errors, in which twin brethren suffer through mistaken identity.“This,”said Chikamatsu,“has the proper spirit of the drama, for it takes the audience into consideration. The public is permitted to know more than the actors. It knows where the mistake lies, and pities the poor figures on the board who innocently rush to their fate.”
 The great masters both of the East and the West never forgot the value of suggestion as a means for taking the spectator info their confidence. Who can contemplate a masterpiece without being awed by the immense vista of thought presented to our consideration? How familiar and sympathetic are they all; how cold in contrast the modern commonplaces! In the former we feel the warm outpouring of a man's heart; in the latter only a formal salute. Engrossed in his technique, the modern rarely rises above himself. Like the musicians who vainly invoked the Lungmen harp, he sings only of himself. His works may be nearer science, but are further from humanity. We have an old saying in Japan that a woman cannot love a man who is truly vain, for there is no crevice in his heart for love to enter and fill up. In art vanity is equally fatal to sympathetic feeling, whether on the part of the artist or the public.


 It is much to be regretted that so much of the apparent enthusiasm for art at the present day has no foundation in real feeling. In this democratic age of ours men clamour for what is popularly considered the best, regardless of their feelings. They want the costly, not the refined; the fashionable, not the beautiful. To the masses, contemplation of illustrated periodicals, the worthy product of their own industrialism, would give more digestible food for artistic enjoyment than the early Italians or the Ashikaga masters, whom they pretend to admire. The name of the artist is more important to them than the quality of the work. As a Chinese critic complained many centuries ago, “ People criticize a picture by their ear.”It is this lack of genuine appreciation that is responsible for the pseudo-classic horrors that to-day greet us wherever we turn. (V ART APPRECIATION )   
   


 共感の能力のある人にとって、傑作は生きた現実になり、友愛のきずなによってそこへ惹きつけられる心地がする。巨匠は死なない。その愛と不安は、幾度も繰り返して、われわれの中に生きるからである。われわれの心に訴えるのは、手練よりは魂であり、技術よりは人間であって、その呼びかけが人間的であるほど、われわれの反応はそれだけ深いものになる。巨匠とわれわれのあいだのこの暗黙の了解があればこそ、われわれは詩や物語の主人公とともに、苦しみ喜ぶことができる。わが日本のシェークスピアである近松は、劇作の第一原則の一つとして、作者の秘密を観客に打ち明けることが重要だと主張している。彼の弟子の幾人かが、先生に認めてもらおうと脚本を書いてもってきたが、その中の一篇だけが近松の心に訴えた。それは、シェークスピアの『間違いだらけ』にどこか似たところのある脚本で、双生児の兄弟が同一の人間にまちがわれて苦しむ話である。近松は言った。「この脚本には劇本来の精神がある。観客を考慮に入れているからだ。観衆は役者以上に事情を知らされている。間違いのもとがどこにあるかを知っていて、何も知らずに運命にむかって突き進んで行く舞台上のあわれな人物たちに同情する。」
 洋の東西を問わず偉大な巨匠たちは、観客に秘密を打ち明ける手段として、暗示の価値を忘れたことがない。傑作をつくづくと眺めて、果てしない思想の広がりに思いを凝らして、畏怖の念に襲われることのない者がだれかあろうか。それらの傑作は、なんと身近で共感を惹くことか。それにひきかえ、現代の凡作は何と冷やかであることか! 傑作にわれわれが感じるのは、人間心情のあたたかい流露であるが、凡作には儀礼的な挨拶しか感じられない。技術に夢中になって、現代の芸術家は自己を超えることはまれである。竜門の琴の霊を呼びさますことができなかった楽人のように、現代人は自分のことばかり歌っている。彼の作品は科学により近いかもしれぬが、人間性から一層遠ざかっている。日本の昔のことわざに、見栄はる男は女に好かれぬ、というのがあるが、そんな男の心には、愛情を注いで満たす隙き間がないからである。虚栄は、それが芸術家の側であれ観衆の側であれ、芸術への共感にとって同じように致命的である。

 たいへん残念なことだが、今日、芸術にたいするこれほど盛んな表面の熱狂は、真実の感情に根ざしていない。このわれわれの民主主義の時代には、人びとは自分の感情を顧みることなく、世間一般がもっともよいと見做すものに喝采を送っている。彼らが欲しがるのは、高価なものであって、風雅なものではない。当世風のものであって、美しいものではない。大衆にとって、彼ら自身の産業主義の価値ある産物である絵入り雑誌を眺める方が、彼らが賛美するふりをする初期のイタリア人や足利時代の巨匠よりも、芸術的享受にはより消化のいい食物になってくれるであろう。作品の質よりも芸術家のなまえの方が、彼らにとって大事なのだ。何百年も昔の中国の或る批評家がかこったように、「民衆は彼らの耳によって絵を批評する。」今日どこを向いても、目に触れる擬古典的なぞっとするしろものにたいしては、この正真の観賞力の欠如が責めを負うべきである。(「第五章 芸術鑑賞」)

2010年01月03日

推奨の本
≪GOLDONI/2010年1月≫

『戦後史の空間』 磯田光一著
新潮社 1983年

 
 中村光夫氏の戯曲『雲をたがやす男』のなかに、つぎのような一節がある。明治維新によって旧政府(幕府)が消滅してしまう場合、対外的な借款問題がどう処理されるかという栗本鋤雲の危惧感にたいして、子の篤太夫はつぎのように説明するのである。

 ―内乱は国内政治の延長、というよりそのひとつの形にすぎないというのが彼の考えで、だからどっちが勝とうと、あとからできた政府は、さきの政府が、外国に負った責任をひきつぐにきまっている。これは万国公法の定めるところでもある。したがって、内乱が長びいて、日本が破産状態に陥ることを我々は心配しているが、そうでない限り、政府の交替などは意に介さない。要は条件次第ということのようです。どこの国にもレヴォリウションはおこる。しかし国は国として持続して行く。この二つは別のことなのだ、とフロリは微笑しながら、申しました。―
 
 前半部で「内乱は国内政治の延長」というとき、維新の運動も一つの「内乱」にすぎないという認識がはたらいている。しかし後半で「どこの国にもレヴォリュウションはおこる」というとき、このレヴォリュウションは政権の交替だけではなくて、国家理念の変更をも意味しているのである。幕府が政権を持っていた時点にあっては、維新をめざす争乱はたんに「内乱」以上のものではありえない。しかし客観的には内乱による政権奪取をめざした動向も、それを推進した志士たちの主観の問題としては「レヴォリュウション」と意識されていたのである。それが成功して新政府が成立してしまえば、「内乱」史観は「レヴォリュウション」史観に転換せざるをえないであろう。しかし国際政治の舞台のうえでは、政府が国家を代表していさえすれば、その理念がどうあろうと二次的な意味しか持たないのである。
 中村光夫氏が『雲をたがやす男』を書いたとき、明治維新と二重うつしに一九四五年の敗戦を念頭に置いていたかどうかは問わないとしても、すくなくともこの戯曲の右の場面は、国家の内部に二つの史観の成立し得る可能性を示唆していると思われる。(略)

 上山春平氏が『大東亜戦争の遺産』(中央公論社刊)のなかで述べているように、「ポツダム宣言」と戦後憲法の原型を「大西洋憲章」に求めるという見解である。上山氏によると、「大西洋憲章」にみられる「好戦国」とは日独伊の三国を意味するが、戦後の「トルーマン宣言」(一九四七年)にみられる「全体主義」という用語は共産主義国を意味し、ここにおいて国際社会の”悪玉”が入れ替えられ、史観の書きかえがおこなわれているという。このような観点に立つとき、日米安保条約とは「トルーマン宣言」の具体化であり、比喩的にいえばかつて共産主義を敵視した「治安維持法」を、こんどはアメリカが国際社会に適用したものという一面を持つのである。そして二つの史観において、まったく無傷のまま美化されているのは、占領下の教科書の場合と同様にアメリカそのものなのである。
 「人民史観」が共産圏を不当に美化したことについては批判が出つくしているし、私自身も批判者のほうに近い立場にある。しかし占領軍の流布した「アメリカ=正義の国」という神話を相対化するために、かつて治安維持法に迫害され、その国際版ともいうべき安保条約に反発しつづけた左翼歴史学の果した役割も、けっして小さいものではなかったことを私はあえて指摘しておきたいと思う。そして「人民史観」とは異なる方向から、同じ役割を果したのが林房雄の『大東亜戦争肯定論』であったことも、戦後史観の推移の一事実として指摘しておかなければならない。だが両者の史観は、見かけほど対立しているのであろうか。試みに林房雄の肯定する「大東亜共栄圏」と、左翼歴史学者のいう「アジア解放論」とをくらべてみるがいい。両者を「アジア再編成論」という概念でくくってみるならば、その差異はアジアの盟主を日本とするか、共産中国とするかという、いわば同一の楕円の焦点の相違にすぎないことが明らかになろう。そしてわれわれは戦後の歳月を通じて、「大東亜共栄圏」はもとより、アジアのアメリカ化も、アジアの共産化も、けっして期待どおりの結果を生まないことを知ることによって、すでに史観の限界をみてしまっているのである。(略) 

 
 維新の推進者からみて、主観的に「革命」であることも、国際政治からみれば「内乱」にすぎない。このときわれわれは、『流離譚』が「革命」史観を持った多くの人物を登場させながら、最終的にはそれを包む「内乱」史観によって書かれていることに気づくであろう。一世紀にわたる歳月の推移の結果、体制・反体制の両者を含めて、外国からみれば一つの統一体としかみえないと同様の遠近法が、いまや明治維新については得られているのである。
 戦後を含む昭和史について、こういう遠近法がただちに獲得できるかどうか、私には断定できない、だが、近代日本の作家が社会のアウトサイダーの位置にその文学理念を確立し、そのうえ昭和前半の苛酷な政治によって文学が迫害されたことを思うとき、同時代史にたいする作家の遠近法のとり方が、まだ十分には開かれたものに達していない点を、一方的に責めるわけにはいかない。ただ確実にいいうることは、たとえば占領下に吉田茂が耐えていたものをえがくことができるかどうかは、政治上の立場の問題をこえて、日本の散文芸術の背丈にかかわる問題だということである。歴史の谷間にうずもれた無名の人びとの遺恨とともに、政治家の耐えざるをえなかったものをも文学の視野に入れたとき、日本の小説はいっそう成熟した史眼を獲得することになるであろう。そういう大河小説が出現すれば、さまざまな史観が交代し、史観の対立で争いをつづけてきた戦後という時代も、おのずから歴史の一齣として定着されるにいたるであろう。
(7「史観と歴史小説」より)
 

2009年12月02日

推奨の本
≪GOLDONI/2009年12月≫

『江戸芸術論』 永井荷風著
岩波書店 2000年
 

 余は旧劇と称する江戸演劇のために永く過去の伝統を負へる俳優に向つて宜しく観世金春諸流の能役者の如き厳然たる態度を取り、以て深く自守自重せん事を切望して止まざるものなり。元来江戸演劇は時代の流行に従ひ情死喧嘩等の社会一般の事件を仕組みて衆世の娯楽に供せし通俗なる興行物たりしといへどもこれは全く鎖国時代の事にして、今日の如く日々外国思潮の襲来激甚なる時代において此の如き自由解放の態度はむしろ全体の破壊を招かんのみ。江戸演劇は既に通俗なる平民芸術にはあらで貴重なる骨董となりし事あたかも丹絵売が一枚幾文にて街頭にひさぎたる浮世絵の今や数百金に値すると異なる事なし。
 明治の革命起りて世態人情忽ち一変するや江戸の美術工芸にしてよく今日までその命脈を保てるもの実に芝居と踊三味線とあるのみ。浮世絵は月岡芳年を最後にして全く絶滅し、蒔絵鋳金の技は是真夏雄を失ひて以後また見るべきものなきに至りぬ。飜つて今日の西洋諸国を見るに外来の影響は皆自国の旧文明に一新生命を与へ以てその発達進歩を促したるに独我国にありては外国の感化は自国の美点を破却しその根抵を失はしむるに終れり。見よ仏蘭西の美術は日本画の影響によりて聊かも本来の面目を傷けられたる事なきに反し、日本画は油画のために全くその精神を失ひしに非ずや。西洋の工業一度日本に入るや日本の諸器物は全く美術としての価値を失ひしといへども西洋の諸工芸品に至りては巧に日本の意匠を応用してかへつて一大進歩を示せり。日本人は西洋より石版銅板の技並に写真の術を習得せんがためには浮世絵木版の技術をして全く廃滅せしめずんばあらざりき。大正改元以後西洋演劇の輸入一代の流行を来すや、これがために江戸演劇も漸次に破壊滅亡の兆候を示さんとす。余は今日の状態にして放任せしめんか、十年を出ずして旧劇は全く滅亡すべしと信ず。ああわが邦人の美術文学に対する鑑識の極めて狭小薄弱なる一度新来の珍奇に逢着すれば世を挙げて靡然としてこれに赴き、また自己本来の特徴を顧みるの余裕なし。これいはゆる矮小なる島国人の性質また如何ともすべからざるもの歟。進んで他を取らんとすればために自己伝来の宝を失ふ。一を得て一を失へば要するに文明の内容常に貧弱なる事更に何らの変る処なし。明治維新以来東西両文明の接触は彼にのみ利多くして我に益なき事宛ら硝子玉を以て砂金に換へたる野蛮島の交易を見るに異ならず。真に笑ふべき也。
 この一章を草せし後図らず森先生の「旧劇の未来」と題する論文(雑誌『我等』四月号所載)を読みぬ。旧劇は最早やそのままにては看るに堪へざれば、全くこれを廃棄するか然からざれば改作するにありといふ。これ余の卑見とは正反対なるを以て余は大に恑懼の念を抱けり。余の論旨は旧劇は改作を施さざる限りなほ看るに足るべしといふにあり。何が故ぞ。余は常に歌舞伎座帝国劇場の俳優によりて演ぜらるる旧劇中殊に義太夫物の演技に至りては、写実の気多き新芸風しばしば義太夫の妙味を損せしむるに比較し、宮戸座あたりに余命を保つ老優の技を見れば一挙一動よく糸に乗りをりて、決して観客を飽かしめざる事を経験し、余は旧劇なるものは時代と隔離し出来得るかぎり昔のままに演ずれば、能狂言と並びて決して無価値のものに非らずと信ずるに至りしなり。旧劇は元より卑俗の見世物たりといへども、昔のまま保存せしむれば、江戸時代の飾り人形、羽子板、根付、浮世絵なぞと同じく、休みなき吾人日常の近世的煩悶に対し、一時の慰安となすに足るべし。専制時代に発生せし江戸平民の娯楽芸術は、現代日本の政治的圧迫に堪へざらんとする吾人に対し(少くとも余一個の感情に訴へて)或時は皮肉なる諷刺となり或時は身につまさるる同咸を誘起せしめ、また或時は春光洋々たる美麗の別天地に遊ぶの思あらしむ。沙翁劇を看んとせば英文学の予備知識なからざるべからず。ワグネルを解すべき最上の捷路は手づからピアノを弾じて音符を知る事なるべし。江戸演劇を愛せんと欲せばすべからく三味線を弄ぶの閑暇と折々は声色でも使ふ、馬鹿々々しき道楽気なくんばあらざるべし。余は江戸演劇を以ていはゆる新しき意味における「芸術」の圏外に置かん事を希望するものなり。
      大正三年稿
(「江戸演劇の特徴」より)

2009年10月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2009年10月≫

『輪のある世界』 西脇順三郎著
青蛙房 1958年
 

 文学は内在的存在である。言語で我々の思考を表現しているものにすぎない。文学作品は思考のカタマリにすぎない。その思考は人間の意識に関するものである。文学は全然思考である以上は文学は精神界に属するものである。
 文学作品は言語から来る音を除けば思考のカタマリにすぎないとみることは、丁度彫刻を単に石としてみることに等しくまた絵画をペイントと線でみることに等しいが、しかしその考えは最も根本的な見方である。物質的な見方である。文学作品をつくるということは思考をつくることである。しかし思考が表現している乃至関係している世界がその文学作品の表現している世界であって、換言すればそれが文学作品の内容である。ロダンの彫刻作品の内容乃至表現対象は石が表しているものであって石ではない。
 2
 ジャン・コクトオ氏のエピグラムとしての文学、美術、音楽等に関する批評の方法を<間接的批評>と自らいっているが利巧なことをいうものだ。文芸批評を種にして彼はいつも新しい思考をつくろうとすることにすぎない。二十世紀にある一つの文学のジャンルとして大切なものと思う。この点から彼の批評は創作的精神からである。
 3
 新しい思考をつくるということは創作の根本的なものである。創作ということは新しいものをつくるということである。新しい人間の関係をつくることである。新しい心理上の関係を発見することである。科学者も創作をすることになる。近来の文学は科学的になったということはこの意味の創作的精神があるからだ。単に人間生活をそのまま表そうとするものは創作ではない。人間生活に対して新しい心理上の関係をつくるときに、初めてそれが創作である。
 創作という言葉は極めていいきになったセンティメンタルなものではあるが、まあその言葉は別として、創作するということは新しいものをつくることであるということが、その根本の意味である。 
 4
 伝統を守る精神と創作の精神とは相反するものとしているが、必ずしもそうでない。単に伝統を破るということは直ぐに創作的精神でない。こわれた茶碗と完全な茶碗との区別が伝統と創作の区別でない。
 創作は伝統と離れているものであるにすぎなく伝統に反するものでない。換言すれば伝統と関係のないものをつくるということにすぎない。伝統ということは与えられた社会に最も広く、換言すれば最も通俗に流通している精神上または肉体上の形式形態である。創作は伝統に対して新しい関係をつくることである。
 5
 伝統が大切であるということは伝統は守るべきものであるというのでない。文学作品を正当に理解するために、即ち歴史的に厳格にその発生を知るために必要なものという意味である。人間の生活は伝統的なものである。我々の生活は(肉体的にも理性的にも)いつも伝統に結びつけられている。作品の創作精神を批評するためにはいつも伝統と比較研究すべきである。それで文学を研究する人には伝統の知識が大切であるということになる。
 文学作品を伝統の知識がなく批評することは社会的有機的批評にならない。また文明批評にならなくなる。
(「間接な批評」より)

2009年09月08日

推奨の本
≪GOLDONI/2009年9月≫

『三枝博音と鎌倉アカデミア  学問と教育の理想を求めて』
 前川清治著   中公新書  1996年 

  演劇科の科長は村山知義(演出論)、教授陣は戯曲作法の久板栄二郎、新劇運動史の長田秀雄、舞踊・芸能の邦正美、東洋演劇史の辛島驍、俳優術の千田是也らであった。遠藤慎吾は、「演技史」と「演技実習」の二つの講座を担当した。演技史は、ギリシャ時代から現代にかけての俳優技術の変遷をたどろうとする野心的な試みであった。

 「演劇」の基礎を教える 
 遠藤慎吾は、ウィーン国立演劇アカデミーとウィーン大学で、演劇や音楽など舞台表現芸術を学んでいた。帰国したあと「創作座」で演出家として出発し、『劇と評論』の第二次同人として演劇評論の筆もとった。戦前には日大芸術科の非常勤講師でもあったことから、学生たちには「基礎をみっちり教える」ことを方針としていた。しかし、早々に演劇科の学生たちの間では、自主グループによる芝居の稽古が熱を帯びていた。一学期末には菊池寛の『父帰る』の試演会が、開山堂を舞台に行われていた。そこで夏休みを前にして遠藤慎吾は、演劇科の学生たちに呼びかけた。
  <演劇科の学生は、夏休みを無駄にしないため公演準備の稽古をするという話で、遊ばない計画をたてているところはいいと思うが、本の方はどうも余り読まないらしい。日本では俳優にしても演出家にしても、忙しい仕事に追いまくられているせいもあろうが、読書や思索を怠りがちのことが多く、そのためにいつの間にか職人的な気風が強くなってしまう。歌舞伎や新派は無論のこと、新劇でさえもそうなのだから、演劇がいつの間にか芸術と離反していくことになる。どんな流派の芝居でも、一人前の職人の腕を持った人が育ってくる頃には、芸術とだんだん縁遠くなってくるのは情けない。今の新劇にもそういう危険が強い>
 「読書のすすめ」は、鎌倉大学校の教育方針の基本にあった。音楽科でも文学科でも、読書の指針として教授から参考となるべき図書のリストが示されていた。戦後間もない時期でもあり、東西の古典に接するには翻訳本も少なく、図書室といっても教授たちが提供した蔵書であり、図書館も十分に完備されていなかった。演劇科の学生たちへの呼びかけはつづく。
  <本を読むということ、思索をするということが、一つの芸術創造である演劇の仕事と不可分であることを、口がすっぱくなるほど学生たちに言ってきかすのだけど、どうもピンと来ないらしい。ただ、むやみやたらに芝居をしたがる。舞台に立つという単純な、それだけに一番強い魅力に引かれがちである。むろん舞台に立つことは重要だが、これに読書や思索の裏付けがなかったら、何もならない。だから、ぜひ考えてほしい。本を読んで欲しい。三枝さんが『科学するための序説』でいっている意味の「哲学する」ことを、ぜひ身につけて欲しい。それに自分たちが今立っている演劇史上の一点をはっきり知るために、西洋演劇史や日本演劇史をも頭にたたきこんで欲しい。この方面でよい本がないのは実に残念である。日本演劇についてはいろいろの秀れた研究があるが、よい日本演劇史がない。西洋近代演劇史にはJulius Babの「Das Theater der Gegenwart」という名著があるが翻訳がない。北村喜八氏が最近、『西洋演劇史』を出した。カール・マルチウスの『世界演劇史』の翻訳も出ている。いまのところ、こういうものでも読むほかあるまい。それに戯曲史のよいのがないのも実に残念だ。でも戯曲の方では、外国のものの翻訳が随分たくさん、ある程度、系統的に整理されているから、これは片っぱしから読んで欲しい。読むときに、広い意味の「哲学する」という態度を失わなければ、本は不十分でも得るところは大きいのである>
  (「第三章 多彩で個性的な教授たち ―作家・高見順も教壇に立つ」より) 

2009年07月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2009年7月≫

 『丸山眞男 音楽の対話』 中野 雄著
  文春新書  1999年 

 「(略)日本やアメリカでは、コンペティトアで下積みの修業をして、それから地方の歌劇場でじっくりレパートリーを仕込んで、というような地道な人材育成のプロセスを実行してゆく場がない。学校やコンクールで促成栽培された小器用な指揮者ばかりが幅を利かせる安易なシステムが、社会的制度として出来上がってしまっている。ぼくが恐れるのはその結果です。
 世の中の人がそういう音楽ばかり聴かされて、『それでいいのだ』ということになってしまうと、音楽界全般のレヴェルが低下します。何と言っても、音楽の品質を決めるのはその土地の聴衆のレヴェルですからね」
 最近、「フルトヴェングラー以来の大器」と鳴り物入りで登場して来たドイツの若手指揮者クリスティアン・ティーレマンはコレぺティトアあがりの、いわゆる「叩き上げ」である。一九九八年来日時のたび重なるインタヴューにおいても、常に修業過程の重要さを強調していた。ウィーン・フィルの第一コンサート・マスターであるライナー・キュッヘルに会ったときも、彼は「丁稚」という、いまではもう死語になった日本語を用いて同じ問題を語っていた。ちなみに、キュッヘル夫人は日本人で、彼もたいへんきれいな日本語を話す。
 「古い」と一蹴されかねない丸山の意見であるが、画一的な学校教育とコンクール偏重の世の中に対する危機感は、この国でも識者の間に少しずつではあるが広がりつつある。丸山がこんな話をしはじめたのは一九七〇年代の終わりの頃からであった。遺稿となった『自己内対話』にも、同じ時期に書かれたと覚しき次のような一文がある。
 
 [「スキル」の習得は、知識の暗記とちがって、熟練した経験者に親近して「見えざる」教育を受ける過程を必要とするという。 当然の事理がコンピューター時代にあまりにも忘れられていないだろうか。この徒弟制的な教育は、他のあらゆるプロフェッショナル・トレイニングに共通する。(弁護士・教師・研究者・特定の新聞記者)徒弟制の「永遠性」が! そうしてこのことは日本における保守主義の欠如と無関係ではない]
(「音楽と教育について―フルトヴェングラーへの思い入れ」より)

 (略)しかし、丸山眞男を喪ってみると、何か大切な「指針」をなくしてしまったような、人生の方向感覚に狂いを生じたような思いにとらわれることがよくある。遺稿に書かれた「北極星」がわれわれにとって丸山眞男であったということに、没後発見されたこの一文を読んで気付いた。 
 
「教訓めいた言葉をほとんど耳にしていない」と書いたが、振り返って二度だけ、「教えを受けた」と思ったことがある。 一度は銀行員から会社経営者に転じた時。当初の担当が財務であると話したら、いきなり、「研究所にあまり金を出してはいけないよ」と言われた。
 「研究者に金を与えると、材料と情報でものを作りたがる。自分の頭で考えなくなる。大企業の中央研究所がロクな成果を挙げえないのはそのためです。日本が最も独創的な文化を生み出したのは江戸時代――鎖国の二百数十年間でした。明治開国以来この国が世界に誇る文化を一つでも創造しましたか!」
 私の転職先はエレクトロニクス、今でいうハイ・テク企業であった。それだけに丸山の教えは身に堪えた。実行するには満身創痍の覚悟が必要であった。

 そのあと、例によって音楽談義になった。
 「音楽のなかでもっとも純粋で、内容が高度なのは弦楽四重奏でしょう。弦だけのアンサンブルというのは絵で言えば墨絵かデッサン、モノクロームの世界です。だから高度な精神的内容が要求される。ベートーヴェンのような人の最高傑作が弦楽四重奏になるのは必然と言っていい。管やピアノは色彩の要素でしょう。他の楽器が入ると作曲者はそれの効果に頼ろうとする。面白い曲は出来るけれど、中身がどうしても薄くなる傾向があります」

 もう一つ。私がコンサートやレコードの制作に関わるようになったある日、持参したCDを聴きながら丸山が私の方に顔を向けた。
 「日本の評論界にはけじめが欠けているね。評論家がプログラムやCDの解説書に筆を執っている。お礼をもらうんでしょう。原稿料の形で……。書けば対象に情が移る。冷静不偏な批評など、期待できないんじゃないかな。もっとも、頼む方はそれを計算に入れてのことでしょうが……。
 ぼくが好きなニューヨーク・タイムスのハロルド・ショーンバーク――。この人は絶対に解説文は書かなかった。評論一本です。イギリスのタイムスは、たしか社則で禁じているんじゃないでしょうか。もちろん、その代償は新聞社が評論家に払っていると思いますけれど。日本は、会社も個人も、そこまで行っていないんですね。まだ、何かが違います。
 君はプロデューサーで、よく解説文を書いていますね。だから、批評文は仮に頼まれても書いてはいけません。評論はしない方がいいです。」
 丸山の生き方で学ぶべき最大なるもののひとつは、このけじめ――精神の貴族性ではないか……。その瞬間、心が引き締まるのを覚えた。
(「あとがきに代えて―北極星のたとえ」より)

2009年06月10日

推奨の本
≪GOLDONI/2009年6月≫

『随筆集ピモダン館』 齋藤 磯雄著
  廣濟堂出版  1970年 

 
  レーナルド・アーンといへばヴェルレーヌの「秋の唄」や「まろしき月」や「大空は屋根の彼方に」などの作曲家としてわが國でもかなり有名である。マルセル・プルーストの愛讀者ならば、この偉大な小説家とこの作曲家とがどれほど親しい間柄であつたかも知つてゐよう。アーンは深く文藝の嗜みのある作曲家であり、指揮者であり、また聲樂家でもある。彼はさる大學で『歌について』といふ連續講演を試みたことがあるが、その何回目かに、「歌の衰頽の諸原因」に關する考察を述べるに際して、先づ次のやうな逸話を語つた。
 
 主人が味ききで有名なさる料亭で、金持の紳士たちが極上の古いブランディーを註文した。穴倉から貴重な酒が運ばれて來ると彼等は、自分たちの事業のことをがやがやおしやべりしながら、ぐいぐいと飮み始めた。
 ――皆さんはとんでもないことをなさる(と主人は言つた)このブランディーはそんなふうにしてお飮みになるものではございません。
 ――ぢや、どうして飮んだらいいんだい(と客たち)
 ――先づかういふふうにして(と主人はいとも樂しげに杯を手にとり)掌で杯をゆつくりと、ゆつくりと、温めます。この杯に自分の體温を、血のあたたかさを通はせるのでございますね。それから(と恭しく酒瓶を手にとり)かうして瓶をよく振ります。そして杯がさめないうちにかういふふうに(と耳をかしげながら)酒を注ぎます。それからくゆり香を吸ひ込み、ほんのすこし舌に流し、目をつぶって、ゆつくりとこれを味はひます。……さてそれから……
 ――それから?(と一同はごくりと咽喉を鳴らしながら訊ねた。)
 ――それから……(と主人は答へた)心にそれを思ひ浮べて、語り合ふのですよ。
 
 レーナンド・アーンは、「歌」もまた、このやうにして聽かなければならぬ、然るに人々はこの忙がしい實業家たちと同じやうに、「歌」の何たるかも知らず、上の空でガブ飮みしてゐるとが慨嘆するのである。繪を眺めるには光線が必要だ、それと同じやうに、歌を聽くには靜けさと、閑が必要だ。ところが今の世には靜けさがない、閑がない。「歌」はおしまひだ、藝術はおしまひだ、と嘆くのである。……彼は次々に歌手を責め、批評家を責め、聽衆を責める。
 第一に歌手。――「これこれの歌曲を歌ふにはしかじかのことを思ひ出す必要があります。ところで或ることを思ひ出すには、先づ第一にそのことを知つてゐなければなりません。然るに近頃の大多數の歌手たちは、てんで何一つしらないのであります。」
 まことに痛烈だ。いろいろと思ひあたる。しかしもう少し聽かう。――「高い變ロ音が歌へるとか、若干の低い音符をわけなく出せるとかいふことでもはや學ぶところがないと思つてゐる連中が實に多い。藝術から言はせれば片腹痛い次第であります。美しい肉體、いくつかの響高い音符、二十人ばかりの褒め仲間、これだけあれば今日、何一つ知らぬ歌手が、何一つ知らぬ公衆の前に出て喝采を博するに充分です。味ききが劇場の三分の二を占めてゐた昔は、斷じてこんなことがありませんした。」――(御尤も。しかしアーン氏よ、贅澤を言ひ給ふな。お國にはマリブランやガラやエルヴィウ亡きあともなほ、大歌手パンゼラをはじめ、パトリ、クロワザがゐるではないか。)
 第二に批評家。――「しかし罪はかうした歌手たちの獨りよがりよりも、むしろ或る種の批評家たちの恥知らずにあります。」
 さあ批評家よ、お偉方よ、諸君にお鉢が廻つて來た。ふん、と薄笑ひを浮べて顎を突出すがよい。――「彼等は多くの場合、聲樂といふ商品の宣傳係にすぎない。新聞や雑誌に現れる彼等の讃辭や罵倒は、あらかじめ決つてゐるのです。何故かと申せば彼等の利害、彼等の損得が、前以て決つてゐるからであります。彼等にあつて審美上の關心の如きは、かういふ商取引を効果あらしめるための、ほんのみせかけにすぎません。試みに彼等に、メロディーはハーモニーがそこから生れそこに合體したところの詩についてしてみるがよい。詩人とその作曲家の基本的な關心の對象であつたシラブ(音綴)やリーム(脚韻)やセジュール(句切)について訊ねてみるがよい、――彼等は殆ど常に何も御存じないのであります。」――(これも何やら思ひあたるふしがないでもない。しかしアーン氏よ、わが國では、知つたかぶりの演技にかけては、お國の批評家に優るとも劣らないからなあ。なにしろ商賣人は全能力をそこにかけてゐる。……)
 第三に聽衆。――さあいよいよわれわれの番だ。……――「歌は現れると同時に消えてしまふ一つの神秘であります。もし人々がその魔術に、細心な熱情的な注意を凝らさなければ、最大の美がそこから失はれてしまうでせう。…………然るにこの内面的な専心が今日の音樂會には見出されません。何故か。今日の青年はいかに優秀であらうとも、音樂、わけても歌とはまるで縁のないあまりにも多くの事がらに心を奪はれてゐるからであります。彼等はもはや音樂を愛さず、歌に注意しません。注意しないから何も知らず、知らないから無頓着な耳をちよいと歌に貸しあたへ、簡單に満足したり嫌つたりするのであります。それで歌は色褪せてゆき、滅んでゆくのです。彼等は歌以外のあまりに多くのものを愛してゐます。現代は機械とスポーツの時代です。彼等は自動車やカメラについては精細な鑑識家であり、拳闘やラグビーについて彼等の知識の浅薄さを咎めることは困難です。しかし彼等をオペラ座やコンセール・ラムールーに連れて行つてごらんなさい。昔の青年ならば肩をそびやかすに違ひないやうな聲樂のお粗末な商品を、巨匠か第一人者とか、でたらめに貼りつけられたレッテルを見て嘻々として買取るのです。買手がある以上、なんで商人が提供することをためらひませうや。不幸の大部分は實にここから來てゐるのであります。」――(恐れ入りました。恥ぢ入ります。……)
 われらの舌は、ガブ飮み用のビールや、ヤケ酒にピタリの焼酎や、アルコールをぶち込んだ超一流早づくりの特級酒などで荒れすさんでゐるやうだ。ほんもののフィーヌ・シャンパーニュ――最良の年、最良の丘に實つた、最良の葡萄から作られた美酒の、そのまた芳醇なエッセンスの如きは、悲しいかな、殆ど口にする機會がない。しかし、もしさういふ機會に惠まれたならば、われわれはあの忙がしい實業家たちのやうな情けない振舞はすまい。两手で丹念にあたためた杯の中に、靜かに注ぎ、匂をかぎ、敬虔な注意をこめて、そつとそれを舌に流し込むであらう。
 近く東京交響樂團は、よき歌手を得て、ボードレール作詩、デュパルク作曲の『旅へのいざなひ』をはじめ、幾つかのフランス歌曲を演奏するといふ。さあ、機會が訪れた。これこそ、フランスの最良の年の最良の丘に實つた最良の葡萄から作られた最良の美酒のエッセンスだ。
……レーナルド・アーンに叱られないやうに、私は私の杯を、諸君は諸君の杯を、おのがじし、前以て、充分にあたためなければなるまい。
(「美酒・フランス歌曲」  昭和三十年 東京交響樂團「シンフォニー」第三號)

2009年02月05日

推奨の本
≪GOLDONI/2009年2月≫

『荷風随筆集』(上) 永井荷風著  野口冨士男編 
 岩波文庫 1986年

これにつけてもわれわれはかのアングロサキソン人種が齎した散文的実利的な文明に基いて、没趣味なる薩長人の経営した明治の新時代に対して、幾度幾年間、時勢の変遷と称する余儀ない事情を繰返して嘆いていなければならぬのであろう。
 われわれは已に今日となっては、いかに美しいからとて、昔の夢をそのままわれらの目の前に呼返そうと思ってはおらぬ。しかしながら文学美術工芸よりして日常一般の風俗流行に至るまで、新しき時代が促しつくらしめる凡てのものが過去に比較して劣るとも優っておらぬかぎり、われわれは丁度かの沈滞せる英国の画界を覚醒したロセッチ一派の如く、理想の目標を遠い過去に求める必要がありはせまいか。
 自分は次第に激しく、自分の生きつつある時代に対して絶望と憤怒とを感ずるに従って、ますます深く松の木陰に声もなく居眠っている過去の殿堂を崇拝せねばならぬ。(略)
 已に半世紀近き以前一種の政治的革命が東叡山の大伽藍を灰燼となしてしまった。それ以来新しくこの都に建設せられた新しい文明は、汽車と電車と製造場を造った代り、建築と称する大なる国民的芸術を全く滅してしまった。そして一刻一刻、時間の進むごとに、われらの祖国をしてアングロサキソン人種の殖民地であるような外観を呈せしめる。古くして美しきものは見る見る滅びて行き新しくして好きものはいまだその芽を吹くに至らない。丁度焼跡の荒地に建つ仮小屋の間を彷徨うような、明治の都市の一隅において、われわれがただ僅か、壮麗なる過去の面影に接し得るのは、この霊廟、この廃址ばかりではないか。
 過去を重んぜよ。過去は常に未来を生む神秘の泉である。迷える現在の道を照す燈火である。われらをして、まずこの神聖なる過去の霊場より、不体裁なる種々の記念碑、醜悪なる銅像等凡て新しき時代が建設したる劣等にして不真面目なる美術を駆逐し、そしてわれらをして永久に祖先の残した偉大なる芸術にのみ恍惚たらしめよ。自分は断言する。われらの将来はわれらの過去を除いて何処に頼るべき途があろう。
                        明治四十三年六月
                                                   (「霊廟」より)

2009年01月05日

推奨の本
≪GOLDONI/2009年1月≫

『日本の私塾』 奈良本辰也編
 淡交社 1969年

    
 学問が専門化していって、その相互の関連がなく、ただいたずらに細分された労作が積み重ねられてゆくのみなのである。総合大学という呼び方は、いったい何のためにあるのであろうか。もちろん、総合研究というものも行われている。多くの人びとが集まって、意見を出し合いながらやってゆこうというのだが、あまりにも細分化され、専門化された研究には、単なる意見の交換はあっても、それを基礎にして、新しい体系をつくりあげようとする創造の芽が育たないのである。
 「専門バカ」という言葉が聞かれる。たしかに、戦後の大学は、この「専門バカ」をつくり過ぎたようだ。新制大学としての急激なふくらみは、戦前の中等学校以上の新しい大学をつくりだし、そこに採用される先生とか教授とかいわれる者の数を史上空前のものにした。そして、それらがすべて、論文の数によって認定されたのである。専門的な論文がいくつかあればそれで資格ができるのである。
 探究の末にたどりついたというような論文ではなく、ただ、その大学教授の資格をとるための研究に人びとの頭が向いてしまったのも当然であろう。もちろん、自分の魂を痛めつけて、その苦悶の末に考えだしたというような労作があらわれるはずもない。要するに、専門的な労作がいくつかあればそれでよいのである。 
 かくして、学問とか研究と称されるのものが、人間や思想というものから著しくかけ離れてしまったのである。そこに、大量の学生が投入されてきた。彼らは、激烈なる入学試験の結果、そこに迎え入れられたのであるが、その試験の結果に、いや大学をめざしての悪戦苦闘の結果に、満足すべきものをそこで見いだしたであろうか。
 (略)私は、今日の大学は改革されなければならないと思っている。それは情報産業の時代にふさわしい大学である。つまり、それは大学の巨大化をさらに進めることによって、それを電波によるか通信によるか、何らかの形で全社会のものにするのである。それが行なうカリキュラムの編成は、永井道雄などが言っているような大学公社というものがしたらよいであろう。もちろん、資格の認定も大学公社の責任である。
 そして、いま一つの方向は、私塾なのである。私塾とは、あの大学が原の位置に復帰して、今日の状態にふさわしい姿で再出発するということである。元来、ユニバーシティ(大学)なるものは、ヨーロッパで十二世紀ころに始まったもので、ボローニャやパリなどの有名無名の学者が、工匠のギルドに似せてつくったものといわれている。(略)そこには教える者と教えられる者と人間的な信頼があり、精神的な紐帯があった。私は、教育というものは、そうした関係のなかから生まれ出てくるものであると思っている。人間の才能を平均化し、ローラーで押しならしてゆくような教育環境に本当の教育があるはずがないのである。そこにつくりだされるのは単なる大学卒という人間の商品化でしかない。
 ところで、わが国における私塾であるが、これは一方において、幕府教学の総本山ともいうべき昌平黌と、それにつらなる各藩の藩校との対立物として生まれたものである。(略)ここでは、教える者と教わる者との呼吸が一つになっていたのである。それは人間的なつながりにおいて成り立っていた。だから、そこでは「三尺離れて師の影を踏まず」というような師弟の関係をはなれてかなり自由な討論もなされたようである。山崎闇斎はその塾生たちを前にして、「もしも孔子が大将となり、孟子が副将として、わが日本の国を攻めてきたときはどうするか」というような問いを発したと言われている。このような、大胆不敵の問いが投げかけられるというのも、その私塾の比較的自由な雰囲気がこれをなさしめたのであろう。
 そして、中江藤樹が熊沢蕃山に対してしたように、その入塾が簡単にいかなかったこともある。蕃山は、その軒下にすわり込んで動かず、ついに藤樹の許しを得た。そしてここに学ぶ数年間の苦労は、なみたいていのものではなかったという。もちろん、これは藤樹がそれを蕃山に命じたのではない。蕃山自身が選んだ道であった。
 このような形においてある以上、私塾は、その学者の数ほどあったといってもよかろう。しかし、その私塾がすぐれた人物を生みだすためには、そこにすぐれた学者がおり、またすぐれた指導理念のようなものがなければならなかったのである。
(はじめに〈奈良本辰也執筆〉より)

2008年12月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年12月≫

『元禄快挙録』(上・中・下) 福本日南著
 岩波文庫  1940年

 およそ酷烈俊厳なのは当時の制法である。その父罪を犯せば、その子もまた免かれるを得ない。したがって幕廷は一党に尋常ならぬ同情を寄せたにも関わらず、これに切腹を申し付けた以上は、その子を不問に付する訳には行かぬ。それでかねて徴しおいた親族書に拠り、一党の処分と同日に、その遺子十九人に欠席裁判を宣告された。その申渡しは実に左の通りである。
 父ども儀、主人の仇を報じ候と申し立て、四十六人徒党致し、吉良上野介宅へ押し込み、飛道具など持参、上野介を討ち候始末、公儀を恐れざる段不届に付き、切腹申し付け候。これによって伜ども遠島申し付くる者也。
                                    (「二九七 一党遺子の処分」より)
 
 ここに愍れむべきは、吉田伝内、間瀬定八、中村忠三郎、村松政右衛門の四人である。これらはいずれも母への奉養を命ぜられ、父兄に引き離れて、後に留まった者である。しかるにその年齢十五歳以上というので、四人倶に一旦江戸に呼び出され、ここに置かれること三か月にして、この歳四月二十七日伊豆の御代官小笠原彦太夫に引き渡され、伊豆の大島へと送られた。
 当時の法制として遠島に配流せられる者は金ならば二十両、米ならば二十俵以上を配処に持参することの出来ぬ掟であった。それで吉田伝内及び間瀬定八が寓した姫路の城主本多中務大輔、並びに中村忠三郎がいた白川の城主松平大和守は、いずれも深くその境遇を不愍がられ、銘々へ金十九両と白米十九表宛を支給された。独り村松政右衛門が仕えた旗下小笠原長門守は小身であったから、僅かに金四両を給与された。
 それで多いというではないが、前の三人はとにかく当分の支度はあれど、後の一人は最もそれが手薄いのである。さすがに義徒の子は子である。既に船に乗り込んでから、三人は辞を揃え、
 「我々は御領主からの御恵みで、当分事は欠きませぬが、政右衛門殿には御支度御不足の御容子、さぞお心細く思し召そう。なれどもお互の父兄既に一処に死に、今またお互一処に流人となれば、何時召し還さりょう当もなく、同じ辺土に朽ちる身にござれば、衣類金穀に自他の別を立つべきでもござりませぬ。一様に分けて、食いもし、使いもいたしましょう。決して御憂慮なされるな」
と慰めた。政右衛門はこれを深謝し、
 「御芳志のほど千万忝のうござりまするが、結句は用意の手薄いのが優しかも知れませぬ。今日の境遇では、ただ飢えるか凍えるかして、死を待つよりほかはござらぬ」
と冷やかに一笑した。
 日頃は貪欲な船頭・水手、流人の財貨と見る時は、多くはこれを奪い取り、配所に達する頃までには、幾何も残さぬが常であるが、天下何人か良心なからんだ、彼らはこれを聞いて、感涙を催し、人をも物をも大切に保護して、やがて大島まで送り著けた。
 一党忠節の噂は早く沖の孤島にまで伝わっていたので「それ義士のお子さんが送られて来るそうな。お互に目を掛けてやれ」と粗雑ではあれど、小屋ををしつらい、四人の来着を歓迎した。
 されど永の年月であれば、当初の蓄え何処までも続くべきに非ず、四人は蓆を打ち、篷を編んで、その生計を助けていたが、江戸を発してから全二か年、宝永二年の四月二十七日、間瀬定八は生年二十二歳を一期としてこの地に痩死し、永く不還の客となった。かかる不幸中にもまた世に往々有心の人を欠がず、江戸の商人戸屋三右衛門は、かつて政右衛門と旧誼があったので、配所の辛苦を想い遣り、遥かに金三両を贈って、その薪水の費を助けた。それで残る三人は宝永六年まで都合七年間、とかくして鹹風蜑雨と闘い来た。
                                      (「二九九 同 四人の配流」より)

2008年11月04日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年11月≫

『茶ノ道 廃ルベシ』  秦 恒平著
北洋社 1977年

 たとえば当代千宗室氏に「茶道」は「宗教」だという大きな提唱がある。が、茶聖といわれる利休の時代、利休の言動、利休の茶そのものから直ちに宗教を示唆するような「茶道」という字遣い、言葉遣いは確かめえないと思う。この二字はせいぜい茶頭、茶堂と同義の、茶の湯を以て君側に奉仕する者の意味を多くは出なかった。宗教的な「茶道」を直に証する文献も徴候も、紹鷗、利休と同時代にそうは見当たらない。市民社会の相応の成熟期にふさわしいすぐれた社交術、趣味性、が倫理的に洗練されて行く或る凛烈感はあるが、直ちに宗教とは言えない。名高い『南方録』一本を偽書と断じて除外してしまうと、事情はかなりすっきりする。
 珠光、紹鷗、利休から織部や宗旦に至る道統がたしかにある。この道統を育てた京、堺、大坂の時代背景に打ち重ねながら仔細に当時の茶の湯の楽しまれ方を眺めれば、茶室は或る意味で道場でもあったが、同時に一種の鹿鳴館でもあり大学でもあり会議室でもあった。「茶道即宗教」で茶の湯という展がりの大きな生活遊芸をすべて説明し去ることは無理が過ぎる。無理を承知で「茶の湯」を「茶道」にし、「宗教」にする意図の中に色眼鏡はないのか、というのが門外漢最大の懸念であるらしい。
(略)もしそれ「宗教」が「家元制度」を保守するに必要とあって借り物めいて掛けられる看板ででもあるなら、それこそ本物の宗教に対していかがなものか。それ自体、家元制度への危惧をより深める逆効果の短絡にはならないか、「家元」は「教祖」と同じではないのだから。
 世襲教祖の主宰する宗教を自分は信じない。絶対者の恩寵は人間の血脈の如き偶然を遥に超え、最も選ばれた者にのみ天来の声を囁きかける。かかる選ばれの前に人の世の親も子も孫もない。もし茶道は宗教であり、従って家元は教祖だというが如きなぞらえに自足するのが提唱の本義だとすると、いう所の「茶道」は二重三重の錯ちを犯しかねない。第一に、それは本物の宗教でなく、世襲教団の世俗権力機構をさらに真似たものということで、真実の宗教を二重に遠ざかり、それが却って茶の湯が本来もっている至純の倫理性をも窒息させることになる。第二に、いわば世襲教祖の地位に家元をなぞらえることで、家元制度が「芸」の世界に於てもつべき積極的な機能ただの建前として空洞化、形骸化させるおそれがあり、家元の存在を「芸」の頂点としてでなく、世俗集団の機能上の頂点に変質させてしまうことになる。それは最も悪しき天皇制の擬態でしかない。第三に、「茶の湯」が「茶道」に、「茶道」が「宗教」にという夜郎自大の変質変貌を、珠光から利休に至る茶の湯がすぐれて現代(彼らが生きた現代)に作用しえた社会的、審美的、精神的な働きと比較した場合、あまりにみすぼらしくやせて陰気な表情をもち、茶の湯という未来にも開かれた可能性に、反時代、背現代性を本意なく負担させて矮小化してしまうことになる。
 利休が、自分の死後僅かな歳月で茶の心は忘れられ、しかも茶の湯は心なき繁昌を謳歌するだろうと辛辣に予言したという伝説は、矮小化しがちな伝統の陥りやすいところを鮮やかに見当てている。
(略)京都にいた頃、母校の中学、高校の茶道部へ何十人かの後輩たちに手前作法を教えに通った。限られた条件で限られた範囲を、週に一度二度ずつどんなに楽しんで皆と稽古したかしれない。が、私は自分もそう思い仲間にもはっきり言った、もしお茶より大事な何事かが眼の前にあらわれたなら、その時は惜しげもなくなげうてるようなお茶でないといかんのや、と。吾が仏だけが尊しみたいな茶の湯にはすまい、交わりは、茶の湯とすら淡くてこそ茶の心やないか、と。
 茶にとらわれた、なんだか茶色い茶人があの頃も多かった。今も多い気がする。
(「淡き交わり」より)

2008年10月03日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年10月≫

『チャリング・クロス街84番地』 ヘレーン・ハンフ:編著
江藤 淳:訳・解説   1980年  講談社

ハンフ様
 贈り物のお礼状がおくれましたので、少々ご心配なさっておられるのではないかと拝察いたします。さぞ、恩知らずな連中とお考えのことでしょう。じつは私、当社の在庫があわれにも底をついてしまいましたので、それを充実さすべく書籍を少々購入するために、由緒ある家々を尋ね尋ねて、イギリス中をめぐり歩いてまいりました。妻は私のことを下宿人だと呼びはじめております。家には寝に帰って、朝飯を食べるだけだというのです。しかし、乾燥卵とハムは言わずもがな、おいしそうな、牛肉を持って帰ったときには、さすがの妻も、私のことを、すてきな方! などと申しまして、何ごとも許されてしまいました。肉のこんなに大きなかたまりを見るのは、じつに久しぶりのことです。
 私ども社員一同、なんらかのかたちで感謝の意を表わしたく、小冊をお送り申しあげます。お気に入りくださらば、幸いに存じます。いつでしたか、エリザベス朝時代の恋愛詩集を一冊お頼まれしましたね――手にはいりますものでは、これがいちばんご要望に近いものかと存じます。      
                                                       敬具
   一九五一年四月九日
                                      マークス社 内  フランク・ドエル

 
 チャリング・クロス街八四番地のみな様へ
 美しい本をご恵贈くださいまして、ありがとうございました。総金縁の書物を手もとにおくのは、私にとってこれがはじめてのことです。そして、とてもお信じになれないでしょうけれど、あの本、私の誕生日に着きましたの。
 (略)アメリカから、みな様にごあいさつをお送りします。アメリカって国、イギリスが飢えているのにそれを放っておいて、日本とドイツの再建に何百万ドルもつぎ込んだりして、ほんとうに不誠実な国ですね。神のおぼしめしがあって、いつかお国へ伺えましたら、私、アメリカの罪を個人的におわびしますわ(でも、私が帰国したら、今度はアメリカが、きっと私がイギリスで犯す罪のおわびを言わなくてはならなくなるでしょうね)。
 美しいご本のお礼、重ねて申しあげます。ジンやたばこの灰でよごさないよう、いっしょうけんめい大切にします。私ごときものには、ほんとうにりっぱすぎる本です。    
                                                       かしこ
   一九五一年四月一六日
                                                 へレーン・ハンフ
              
 
 (略)この心あたたまる往復書簡集は、おそらくアメリカ人とイギリス人のあいだにしか成立しなかったにちがいない。英国の有名な外交史家ハロルド・ニコルソンは、かつて英国は合衆国を仮想敵国としたことがない、したがって英国は合衆国とのあいだに攻守同盟を結ぶ必要がない、といっている。この言葉を裏書きするように、この本の著者へレーン・ハンフは、愛すべき英国崇拝家のアメリカ女性として登場する。自由販売が回復されてからもなお食料を送りつづける彼女の善意も、望みの英文学関係の古書を手に入れたときの彼女のよろこびも、いかにもイギリス的に控えめなフランク・ドエルの親切と好意も、すべてアメリカとイギリスとの文化的なきずなの強さを物語っているように思われる。
 へレーンが英国崇拝家であるおかげで、英文学のきわめつきの名作が、この本につぎつぎと紹介されているのもなかなか楽しい。しかも彼女の趣味は一流である。サミュエル・ピープスの『日記』にアイザック・ウォルトンの『釣魚大全』、それにジョン・ダンとならべば文句のつけようがない。それもそのはずで、自ら告白しているように、彼女はいわばQの、つまりクイラー・クーチの弟子なのである。
 だが、それだけではなく、ここにはまたへレーンの現代文学や新刊書への嫌悪が根強く暗示されていて、私は共感をそそられる。つまり、新しく、単に消費されるためにのみ存在してうたかたのように消えて行く書物や仕事に対する、絶望と嫌悪である。愛すべきアメリカ女性であるへレーンは、もちろんそれを大声で叫びたてたりはしていない。しかし彼女が生活を立てているのは、テレビの台本を書くことによってであり、彼女自身おそらくは本を書くことによってである。そのことに対する羞恥と反撥とが、彼女をいっそう深く"チャリング・クロス街84番地"に結びつけて行くという事情が、私にはうかがわれるように思われる。
 『チャリング・クロス街84番地』を読む人々は、書物というものの本来あるべき姿を思い、真に書物を愛する人々がどのような人々であるかを思い、そういう人々の心が奏でた善意の音楽を聴くであろう。世の中が荒れ果て、悪意と敵意に占領され、人と人とのあいだの信頼が軽んじられるような風潮がさかんな現代にあってこそ、このようなささやかな本の存在意義は大きいように思われる。(「解説」より)

2008年09月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年9月≫

『イタリー日記』 小宮豊隆著 
角川書店 1979年

二月三日 日曜日
(略)今日はマリア・メラートがダヌンチオの「鉄」という脚本をやるが見に行かないかという。実は腹の工合がわるいのだが、とためらったが結局行くことにして、山田にうちの飯を喰わせる。こっちはコンソメとオムレツだけを喰っておく。
 マリア・メラートというのは第二のドゥーゼといわれている女優だそうである。大変に台詞がいいので評判だという。そのメラートのかかっているテアトロ・ヴァレというのはなかなか由緒のある劇場だそうで、まあ日本でいうと新富座のようなところだと山田がいっていた。小さい小屋だけれども、由緒ある小屋なので、いつでもいい役者がかかるんだそうである。
(略)ダヌンチオがこの間フューメの併合問題かなにかについて演説をした時には、レディたちがおもちゃの国旗を幾旒もダヌンチオに送ったのだそうだ。するとダヌンチオはそれをしばらくふりかざしてから、聴衆に向ってなげたのだそうだ。すると女がわれもわれもと先を争って奪い合いをしたのだそうだ。ちょっと歌舞伎の役者が、手拭いだのかんざしだのを投げるような趣がありました、と山田がいった。これなぞもやっぱりダヌンチオ一流の責め道具なんだろう。もっとも我々の考え方と西洋人の考え方とが、いろんな点でかなり違うから、こういう責めの道具も或いは有効であり、もしくは自然なものとしてうけとられるのかもしれない。それでなければトルストイのようになってしまわなければならないのかもしれない。
 しかし社交と芸術とはどうも本当は両立しないように自分には思われる。ラファエロでも、社交がなかったらもっといいものができたのじゃないか。ミケランジェロだのダ・ヴィンチだのレムブラントだのにはその芸術に煩いとなる程の社交がなかった。あってもそれをふみにじることができたのではないか。ロココの芸術やルネサンスの芸術は社交の中から生まれてきた芸術なのだろうか。それとも社交を超越していた芸術だろうか。ルネサンスの芸術をそういう方向から研究してみたらかなり面白い研究ができるかもしれない。しかしルネサンスがどうであろうと、芸術は社交と遠ざかるにしたがってその純粋性を保つことができるような気がすることは確かである。
 ( 「ローマ(二) 一九二四年二月三日」 より)

2008年08月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年8月≫

『茶の本』  岡倉天心著 
桶谷秀昭訳 講談社学術文庫 1994年

THE BOOK OF TEA By Okakura-Kakuzo  Fox Duffield & Company,1906 
It is much to be regretted that so much of the apparent enthusiasm for art at the present day has no foundation in real feeling.In this democratic age of ours men clamour for what is popularly considered the best, regardless of their feelings. They want the costly, not the refined ; the fashionable, not the beautiful. To the masses, contemplation of illustrated periodicals, the worthy product of their own industrialism, would give more digestible food for artistic enjoyment than the early Italians or the Ashikaga masters, whom they pretend to admire. The name of the Artist is more important to them than the quality of the work. As a Chinese critic complained many centuries ago, "People criticise a picture by their ear." It is this lack of genuine appreciation that is responsible for the pseudo-classic horrors that to-day greet us wherever we turn.         
[ Ⅴ  ART APPRECIATION ] 

 たいへん残念なことだが、今日、芸術にたいするこれほど盛んな表面の熱狂は、真実の感情に根ざしていない。このわれわれの民主主義の時代には、人びとは自分の感情を顧みることなく、世間一般がもっともよいと見做すものに喝采を送っている。彼らが欲しがるのは、高価なものであって、風雅なものではない。当世風のものであって、美しいものではない。大衆にとって、彼ら自身の産業主義の価値ある産物である絵入り雑誌を眺める方が、彼らが賛美するふりをしている初期のイタリア人や足利時代の巨匠よりも、芸術的享受にはより消化のいい食物となってくれるのであろう。作品の質よりも芸術家のなまえの方が、彼らにとって大事なのだ。何百年も昔の中国の或る批評家がかこったように、「民衆は彼らの耳によって絵を批評する。」今日どこを向いても、目に触れる擬古典的なぞっとするしろものにたいしては、この正真の鑑賞力の欠如が責めを負うべきである。
(『茶の本』1906年刊  「第五章 芸術鑑賞」より) 

2008年07月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年7月≫

G.K.チェスタトン著作集1 『正統とは何か』 
福田恆存・安西徹雄訳 春秋社 1973年

 
 店の主人が小僧の理想主義に小言を言う場合、こんなふうに話すのがまず普通というものだろう。「ああ、なるほど、若い時分には、とかく絵にかいた餅みたいな理想を持つものだ。しかし、中年になるとな、そんなものはみな霧か霞のように消えてなくなる。その時になれば人間は、現実政治の駆け引きを信じるようになり、今使っているカラクリで間に合わせ、今あるとおりの世の中とつき合って行く術をおぼえるものさ。」 少なくとも私自身が聞かされた小言はこんなものだった。尊敬すべきご老体が、変に恩に着せるような物腰で(今は立派に墓に眠っていらっしゃるが)、子供の私にいつもこう言い聞かせたものである。けれども今こうしてじぶんも大人になってみると、あの愛すべきご老体は実は嘘をついていたことを私は発見したのである。実際に起こったことは、ご老体が起こるだろうと言ったこととは正反対であったのだ。私は理想を失って、現実政治の駆け引きを信ずるようになると言われたが、今の私はいささかも理想を失ってなどいはしない。それどころか、人生の根本問題にたいする私の信念は、かつて抱いていた信念と寸分も変わってはいないのである。私が何かを失ったとするならば、それはむしろ子供の時に持っていた現実政治にたいする無邪気な信頼のほうなのだ。私は今でもかつてと少しも変わらず、世界の終末に国々の間で起こるというハルマゲドンの戦争には深い関心を持っている。けれども、たかが英国の総選挙にはもうそれほどの深い関心は持てない。赤ん坊のころには、総選挙と聞いただけで母親の膝に跳び上がったのも嘘のようである。そうなのだ。いつでも堅固で頼りになるのは直観なのだ。直観こそは一個の事実である。嘘っぱちであることが多いのはかえって現実のほうである。かつてと同じく、いや、かつてないほど深く、私は自由主義を信じている。だが、自由主義者を信じていたのは、かつてバラ色の夢に包まれて生きていた無邪気な昔だけだったのだ。
 理想がけっして消えてはなくならぬ一つの実例として、自由主義にたいする私の信念を持ち出したのだが、これには実は一つの理由があったのだ。私の思索の根をたどるにあたって、この信念はどうしても無視するわけにはゆかぬ、というのも、おそらくこれが私の唯一の偏見とも言うべきものだからである。これ以外に、私が明確な信念として抱いてきた前提は一つもない。私は自由主義の教育を受け、いつでも民主主義の原則を信じてきた。つまり、人間が人間自身を治めるという自由主義の大原則である。こんな定義はあまりにも漠然としているとか、あまりに陳腐だと言う読者もあるかもしれない。そういう読者にたいしては、ごく簡単に、私の言う民主主義の原則とは何かを説明しておこう。それは二つの命題に要約できる。
 第一はこういうことだ。つまり、あらゆる人間に共通な物事は、ある特定の人間にしか関係のない物事よりも重要だということである。平凡なことは非凡なことよりも価値がある。いや、平凡なことのほうが非凡なことよりもよほど非凡なのである。人間そのもののほうが個々の人間よりもはるかにわれわれの畏怖を引き起こす。権力や知力や芸術や、あるいは文明というものの驚異よりも、人間性そのものの奇蹟のほうが常に力強くわれわれの心を打つはずである。あるがままの、二本脚のただの人間のほうが、どんな音楽よりも感動で心を揺すり、どんなカリカチュアよりも驚きで心を躍らせるはずなのだ。死そのもののほうが、餓死よりももっと悲劇的であり、ただ鼻を持っていることのほうが、巨大なカギ鼻を持っているよりもっと喜劇的なのだ。
 民主主義の第一原理とは要するにこういうことだ。つまり、人間にとって本質的に重要なことは、人間がみな共通に持っているものであって、人間が別々に持っていることではないという信念である。では第二の原理とはどういうことか。それはつまり、政治的本能ないし欲望というものが、この、人間が共通に持つものの一つだということにほかならぬ。恋に落ちるということは、詩作にふけることよりもっと詩的である。民主主義の主張するところでは、政治(あるいは統治)はむしろ恋に落ちるのに似ていて、詩作にふけることなどには似ていないというのである。似ていないと言えば、たとえば教会のオルガニストになるとか、羊皮紙に細密画を描くとか、北極の探検とか(飽きもせずに相変わらず跡を断たないが)、飛行機の曲乗り、あるいは、王立天文台長になることとか―こういうことはみな民主主義とは似ても似つかぬ。というそのわけは、こういうことは、うまくやってくれるのでなければ、そもそも誰かにやって貰いたいなどとは誰も思わぬからである。民主主義が似ているものはむしろ正反対で、自分で恋文を書くとか、自分で鼻をかむといったことなのだ。こういうことは、別にうまくやってくれるのでなくとも、誰でもみな自分でやって貰いたいからである。しかし、誤解しないでいただきたい。私が今言わんとしているのは、自分の恋文は自分で書くとか、自分の鼻は自分でかむとか、そういうことが正しいとか正しくないとかいうことではないのである。(略)つまり人間は、人間に普通の人間的な仕事があることを認めており、そして民主主義に従えば、政治もその普遍的活動の部類に入る、ということである。要するに民主主義の信条とは、もっとも重要な物事は是非とも平凡人自身に任せろというにつきる。たとえば結婚、子供の養育、そして国家の法律といったことがらだ。これが民主主義である。そして私はその信条をいつでも信じつづけてきたのである。
(「おとぎの国の倫理学」より)

2008年06月05日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年6月≫

八世坂東三津五郎 武智鉄二 『芸十夜』
 駸々堂出版 1972年

武智 昭和三十年頃、「観照」という雑誌で、当時の名人ベストテンを選んだことがあったでしょう。
三津五郎 ええ、ええ。
武智 あの時に谷崎潤一郎さんとか、吉井勇さんとか、そういう一流の芸の鑑賞家に審査員になっていただいて。あのベストテンというのは、今見てもなかなかいい人が入っていますよ。で、十一位から下というのはやっぱりダメなんですよ。だからやっぱりあの頃までは芸の基準とか、見極め方というのは、見る方にもピシッとしてましたね。
三津五郎 ピシッとしていたというよりも、上にたくさん偉い人がいたから、いいものをみな見てきてるから……。それにあの頃は、まだいいのがいるから選べたんですよ、たとえ十人でも。
武智 あの順位はどうでしたっけね。一位が山城、二位が菊五郎で、十位が三津五郎さんで、あとは本を見ればわかりますが、茂山、後に善竹弥五郎さんに金春光太郎さん、野口兼資さん。喜多六平太さんも入ってましたね。
三津五郎 それから川崎九淵が入って……。
武智 それに富崎春昇さんと稀音家浄観さんでしたね。覚えてるのは十一位が延若で、十二位が梅玉だったんですよ。で、僕はその時この人達が十一位、十二位になったことはよかったなと思いましたが、それくらい贅沢でしたね。
三津五郎 だって能を見ようと思えば万三郎も見られるし、光太郎も見られるんだから。
武智 能について考えたいと思えば、何を見に行けばいいという目安もついたですものね。
三津五郎 そうです。
武智 その点、現代の若い人は大変気の毒なんで、そこで反撥して芸なんてありゃしないんだという考え方になるので、俺達にはどうせわからないんだという劣等感みたいなものがあると思うんですね。これは一種の敗北意識だし、自暴自棄だと思うんですよ。それで、芸をほんとうに理解する一つの手がかりというか、求道の先輩としての三津五郎さんのアドバイスを伺いたいのですが。
三津五郎 あたしみたいに五里霧中でメチャクチャになんでもかじって、芸とは何んだ、芸とは何んだでもって、生涯やってるうちに、自分が歳とっちゃって、自分の芸もまだできないけども、……でも一ついえることは、何でもいいから一つのものをよく見極めたらいいと思うんですけどね。
 例えば、絵の展覧会に行っても、今の人は絵を見ないで直ぐ作者の名前を見るでしょ。で、この作者はいくらくらいするんだと聞くんですよ。
武智 すぐ値段をいいますね。
三津五郎 これは悲しいことだと思いますよ。どんな芸術を見ても、この人は偉い人かって聞くんですよ。
武智 僕もときどき絵のことを聞かれるけれど、何を聞いてるのかと思うと、結局値段を聞いているんですよね。
三津五郎 だから自分でものを見る基準がないんですよ、現代人には。あたしがこないだ武智さんに御舟との巡り合いを聞いたのもそれなんですよ。御舟一つを見極めて、御舟一つがわかったという時に、ほかの芸もわかるんですよ、御舟を通じた眼で。……それで御舟がいくらだからという目でみてたら、いつまで経ってもわからない。
 
武智 それから別の話だけども、(速水御舟は)野球のゲーリックという人をとても褒めていたというんですね。ゲーリックの球はほかの選手の球とぜんぜん違うと……。手を離れる時が違うというんですね。あれは力を入れないようでいて、なんかすッと離れていって、相手のミットにピシッと納まるといったそうです。
  それがどういう意味か、僕にはわからないのですが、無駄がないということかなと思ってたんです。ところが、こないだ来たオリオールズにロビンソンという名三塁手がいたでしょう。その人が投げてるのをテレビで見てて、速水さんがゲーリックを褒めてたのはこれかなと思ったんです。それはね、ボールを投げる時、手を離れる瞬間というのがないんですね。だからちょっと空間を五寸か三寸離れたところから、ボールがシュッと出て来てね。ピチッと向うに行くわけですね。ああ、おそらくこのことをいっていたのかなと思って……。
三津五郎 それは剣術のほうで離心ということだと思いますね。離れるということは大変大事なことですからね。
  離心、残心――離れるということと、残るということが剣術では大事で、これは禅語から出たんでしょうね。
武智 剣道のほうで?
三津五郎 やはりそれでしょうね、離れるということは大変なことなんですよ。
武智 九代目(市川団十郎)が踊った時、うしろから出す手が、どこから出たかわからなかったという話がありましたね。
三津五郎 同じことですね。何か技術にこだわってるうちは、それができないのですね。
 山岡鉄舟のいってる中でも面白いのは木猫の話がありますけどね。剣術のほうでは有名な話ですが、ある田舎の剣術使いが、鼠が出てしようがないので猫を借りて来たら、猫が鼠に食われちゃったんですね。それでいろんなところから強い猫を借りて来るんだけれど、みんな鼠にとられちゃう。そうしたら近所の村に大変強い猫がいるというんで、その猫を借りてきておいといたら、その猫は身動きもしないで寝てばかりいるというんですね。(笑)
 なんだ、あの猫、鼠をとらねェじゃないかって。まるで木でこしらえた猫みたいだったというんですね。ところがぜんぜん動かないんだけれども、その猫をおいとくと鼠が一匹もいなくなったんですね。
  そこで剣術使いが初めて悟ったという有名な話なんですが、鉄舟がその話を聞いて滴水禅師かなにかにその話をしたら、「剣術ではそうかも知れないけれども、坐禅をしてると鼠が俺の頭の上を走るよ」というんで、それでまた鉄舟がびっくりして、自分も一つ修業しようと座ってると、はな、鼠が寄りつかなかったけれども、暫くすると鼠が安心して出て来た。そこでまた悟ったんですね。
 そこで鉄舟という人は明治になってからでも浅利又七郎(義明)に月一回くらいお稽古願いますといって、どうかして先生に勝とうとして、そこで日夜苦心していると、夜眠ってる間も浅利さんの顔が出てきたり、しかも立会いする時になると浅利さんの顔がグーッときて、いつも負けちゃって勝負にならなかった。
  ところがその木猫の話で悟ってから、浅利先生のところへ行った時に、「お稽古願います」といって、向い合ったら、浅利先生が木刀を置いて「もうあんたは、あたしより上になった。今日よりあんたが師匠になれ」といわれて、無刀流というのを開いたっていうんですね。勝とうと思う気がある間は、絶対勝てなかったというんですね。
  ――それが離れる心なんでしょうね。
 僕なんぞでも親父に、団十郎の公案みたいなものばかり聞かされて、口惜しくてしょうがないから、芸って一体なにものなんだろうと思って、それで一生懸命になっていろんなものを読んだり、能も勉強したりして来て、現在生きてる人のを見てもわからないし、そうなるとやはり絵なんですね。  
  (「芸八夜」より)     

2008年05月02日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年5月≫

ジャン・ジロドゥ『パリ即興劇』(訳:寺川博)
 『ジロドゥ戯曲全集第4巻』 白水社 1958年

ジュヴェ 言わせてもらうが、国家が間違っているのはその点なのだ。フランスの運命は、この世界において、自制と冷静の器官となることだなどと言うのはちゃんちゃらおかしい。フランスの運命は世界のうるさ型になることだ。フランスは世界中の既成秩序の陰謀の裏を掻くために創られ成長して来たのだ。フランスは正義だ。しかし、正義が、あまり長い間正しいとされていた連中が正しいとされるのを防げる限りにおいて。フランスは良識だ。しかし、良識が告発者であり、矯正者であり、復讐者である時にはだ。フランスがその名に価するものである間は世界が賭けられることはあるまい。仕事や、力や、あるいは脅迫によって成上った国は落着いていられまい。秩序や、平和や、富の中には、フランスが暴きたて、罰しなければならない人類の自由に対する侮辱がある。広汎な正義の適用においては、フランスは神に次ぐものであり、時間的には神に先立つものだ。フランスの役目は用心深く善と悪、可能と不可能を選びわけることではない。そんなことをしていたら駄目になってしまう。フランスの独創的なところは正義であるバランスにあるのではなく、公平無私に達するために使っている、不正になるかもしれない重みにあるんだ……大ブルジョワや豊かな牧師や、権力を握っている暴君がみんな、夜、掛蒲団を引っぱりながら、「まあなんとかなるだろう、しかし、あのフランスの奴がいる」と思うようだったらフランスの任務は果たされている。追放された人や詩人や迫害されている人が寝床の中で言うこれに相当する独り言は想像がつくだろう。
ロビノー 認めよう。しかし、演劇はそういう努力をする国家を、どの点で助けてくれるのか?
ジュヴェ モリエールという男のことを聞いたことがあるか?
ロビノー 室内装飾業者の息子で椅子にもたれて死んだ男か?
ジュヴェ そうだ。デカルトの時代に明晰を、コルベールの時代に正義を、ボシュエの時代に真理をフランスに与えた男だ。みじめな河原乞食であった彼が、国家の後ろ楯がなかったら全能の三階級に対して、流行や反対派に対して何が出来たか考えたことがあるか?
ロビノー モリエールを連れて来い。ルイ十四世になってやろう。
ジュヴェ はじめたのはルイ十四世のほうからだ。そちらからはじめろ。それに選択の余地はない。ジャーナリストは多くとも報道は無く、自由はあっても自由人は少なく、正義は毎日次第に判事の手から弁護士の手に移っているこの国において、お前には我々以外の声が残っているのか? 議会か? 演劇の声をからしてしまった所には演説家はいない! しかし、毎晩成上り者や、汚職をした者や、下司な奴が、「なんとかなるだろう、しかし芝居という奴がある」と独り言を言う間は。若い者や、学者や、つつましい家族や、立派な家族や、人生に幻滅した者が、「何もかもうまくゆかない、しかし芝居がある」と独り言を言う間は、まだ大丈夫だ。
ロビノー しかし、そういうことは作者におそろしい義務を負わせることになる。
ジュヴェ 作者に? いいや。作者の義務は一つしかない。立派な作品を書くことだ。この言葉がすべてを含んでいる。しかし、お前には大きな義務がある。お前は芝居を自分の口のように気をつけ、どんな塵も、どんなしみも残さないようにしなければならない。その清潔に気をつけよ。クレジットの問題ではない。金歯の必要はない……健康の、呼吸の問題だ。芝居が蝕まれたら国民も蝕まれる。お前は一億持っているのだから、まず神殿から―我々の小屋をこう言っても怒らないだろうな―偽りの商人を追い出すために使え。場代を失ってもお前は得をするのだ。(略)

2008年04月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年4月≫

池波 正太郎 『又五郎の春秋』
 中央公論社 1977年

 去年(昭和五十一年)の、国立劇場・研修生一行のアメリカ公演は、十月四日の、カナダ(マウント・アリソン大学のコンボケーション・ホール)を皮切りに、ニューヨークのカーネギー・ホールからマサチューセッツ、コネチカット、ミシガン、ペンシルバニア、ウィスコンシンなどの諸州を経て、カンサス、カルフォルニア、ハワイを巡演した。
 東京・帝国劇場の出演を終えた中村又五郎が、団長として、一行に参加したのは十月二十九日のカンサス大学・ロビンソン体育館の公演からである。
 (略)「先ごろの、研修生のアメリカ公演ですがね。これからは歌舞伎そのものを教えることのほかに、研修所で、もっと人間として弁えていなくてはならないことを教えておかなくてはと、つくづく、そうおもいました。」
 と、又五郎が語りはじめた。
「何か、あったのですか?」
「いろいろあったんですけど……いちばん、今度の彼らがいけなかったことは、自分たちの立場を忘れちまったことなんです」
「ほう……?」
「ご承知のように、このアメリカ公演というものは、国際交流基金やアジア協会、それにアメリカの演劇教育協会から費用が出ているんですね。ですから、われわれは、日本の伝統演劇を紹介するものとして、相応の使命というと大げさですけれど、やはり、これは、研修生もそういう気もちでいてもらわないといけないんです。自分の金で遊びに行っているんじゃないということなんです。それでね、公演は夜ですから、昼間は、自由な時間ということで、そのときに、どうもだらけているんですね。」(略)
 ならばこそ、又五郎は、研修生たちの〔横着〕を肚にすえかねたのであろう。 
 あらゆる芸道にとって、横着ほど進歩をさまたげるものはないからだ。
「ですから昼間の自由な時間に、行く先々の、たとえばニューヨークならニューヨーク、カンサスならカンサスと、それぞれに博物館もあるし、美術館もある。歴史にむすびついた名所もあるのですから、そうしたものを目に入れておこうという若々しい好奇心をもってもらいたい。ただ、だらだらと時間をすごしてしまわないで、もっと若者らしく真摯な態度でいてもたいたかった。というのは、いま、おはなししたように、手前の金で遊びに行っているのではないからです。アメリカの人たちは、日本のカブキを紹介する国立劇場の研修生の行動を見まもっているわけです。そこのところに気がつかない。これはね、若い世代の、子供のときからの家庭なり学校なりの躾というものが、ここへ来て、さらに、おろそかになってきたのじゃないか……これは、ですから、研修所で、カブキを教えるのといっしょにやらなくてはいけないとおもいました。それでないと結局、彼らは、ひとかどの役者になり損ねてしまいますものね。研修生の中から、将来、ひとかどの役者が出ないのだったら、研修所やったって無意味ですもの。そういうことで、つくづくと今回は考えさせられました」
 こういって又五郎は、嘆息をした。

(略) 中村又五郎の声を聞こう。
「……今度ではなく、二年前に、アメリカへ行って公演をしたときに感じたことは、向うのスタッフのすべてが、その芝居の開演中は、もう絶対に、全員がちからを合わせて芝居をこしらえようという意気込みのことなんです。これこそ、ほんとうのスタッフというものなんだとおもいましたね。役者のみではない。大道具も小道具も、裏方のすべてが一丸となっている。
 日本の…まあ、歌舞伎の場合は、スタッフといっても、それぞれ、個別になっているわけですけれど、むかしは大道具なり小道具なり、裏方の人たちが、みんな、芝居を知っていたわけですわね。歌舞伎というものが、どんなものかを、よく心得ていたわけです。(略)それぞれの役者によって、大道具・小道具にちがいがありますから、この役者にはこういう道具、あの役者にはこういう道具と、同じ狂言でも、微妙なちがいを心得ていたわけです。
 そういうことを知っていた人たちが亡くなったり、戦後はバラバラになってしまったりして、ほんとうに少なくなってしまった。歌舞伎座なんかには、そういう年をとった人が、まだ少しは残っていて、若い人たちを指導していますけれど、第一線からは、ほとんど消えてしまったということです。
(略)むかしのことになってしまいますけれど、大道具さんにしても小道具さんにしても、舞台で使う物は、みんな大切にしたものなんです。たとえば上敷き、ゴザのような物の上には土足であがらない。だって、それは、その上で役者が芝居をするんですから、もしも土足で上敷きにあがったりしたら、役者の衣裳の裾が汚れますわね。
 いまは、そんなことはいってはいられないらしい。いまの芝居は、時間に追われながらやっているんですもの。幕間の時間を一分でも短くしなくちゃならないというんですから、ええ、ままよというので土足であがって汚してしまう。
 お客さまも最後の幕が閉まりきらないうちに外へ出ようとなさるし、裏のほうでも一分でも早くおしまいにして家に帰ろうというわけですから、ゆったりとした気分で芝居を観たり、観せたりしようという雰囲気が世の中から消えてしまったわけです。
 火鉢の中に巻煙草が入っているなんてことは、もってのほかの不注意ですね。たとえば、源氏店のお富が長火鉢へ煙管を出したとしてごらんなさい。そこに、たくさんのピースやセブンスターの吸ガラが突っ込まれてあったら、とたんにもう、江戸時代の女になれなくなってしまいます。
 むかしは役者が気がつかなくても、裏方の人たちは気づいていて、直してくれました。むかしのことばかりいうようだけど、だって、歌舞伎はむかしのものの上に成り立っているんですものね。
 いまはもう、何から何まで請負い仕事になってしまったわけですから、歌舞伎だけが、この世間の風潮に逆らえるわけもない。むずかしいことになりました。
 いまでも、歌舞伎の役者は、白柄の刀を持つときは、その役がすんだとき、布とか紙とかを柄へ巻いて、汚さないようにしておきます。刀ばかりじゃない、衣裳にしても何にしても、汚さないように、汚さないようにとこころがけているわけです。
 ともかくも、歌舞伎の役者たちは、いまのところ、まだまだ、うるさくしつけられていますけれど、ほかの若い俳優さんたちの全部ではないけれど、自分の持物を実に粗末にあつかいますねえ。
 刀なら刀を二十何日の間、舞台で使うのですから、これは自分で管理しなくてはならない。人まかせではいけないんだけども、悪い意味の分業になってしまって、あてがわれた衣裳を着て舞台へ出て、引っ込んで来て、それを脱いだら、そのまま、ほっぽり出しておくわけです。
 これまた、役者の横着ということなんでしょうね。
(「横着時代」より)

2008年03月02日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年3月≫

高村 光雲 『幕末維新懐古談』
 1995年  岩波文庫

 かくてちょうど私の年齢は二十三歳になり、その春の三月十日にお約束通り年季を勤め上げて年明けとなりました。すなわち明治七年の三月十日で文久三年の三月十日に師匠へ弟子入りをしてから正に丸十一年で(礼奉公が一年)年明けすなわち今日の卒業をしたのでありました。
 で、師匠も大きに喜んでくれられ、当日は赤飯を炊き、肴を買って私のために祝ってくれられ、私の親たちをも招かれました。その時父兼松は都合あって参りませんでしたが、母が参り、師匠の前で御馳走になりました。その時師匠は改めて私に向い、将来について一つの訓戒をお話しであった。
 「まず、とにかく、お前も十一年というものは、無事に勤めた。さて、これよりは一本立ちで独立することとなれば、また万事につけて趣が異って来る。それに附けていうことは、何よりも気を許してはならんということである。年季が明けたからといって、俺は一人前の彫刻師となったと思うてはいかぬ。今日まではまず彫刻一通りの順序を習い覚えたと思え。これからは古人の名作なり、また新しい今日の名人上手の人たちのものについて充分研究を致し、自分の思う所によっていろいろと工夫し、そうして自分の作をせねばならぬ。それにつけて、将来技術家として世に立つには少時も心を油断してはならぬ。油断は大敵で、油断をすれば退歩をする。また慢心してはならぬ。心が驕れば必ず技術は上達せぬ。反対に下がる。されば、心を締め気を許さず、謙って勉強をすれば、仕事は段々と上がって行く。また、自分が彫刻を覚え、一人前になったからといって、それで好いとはいわれぬ。自分が一家を為せば、また弟子をも丹精して、種を蒔いて、自分の道を伝える所の候補者をこしらえよ。そして、立派な人物を自分の後に残すことをも考えなくてはならぬ。お前の身の上についてはさらにいうこともないが、これだけは技術のために特に話し置く」
 こう東雲師は諄々と私に向って申されました。私は、いかにも御もっとものお話故、必ず師匠のお言葉を守って今後とも勉強致します旨答えました。
 すると、師匠は、至極満足の体でいられたが、さらに言葉を継ぎ、
 「お前の名前のことについてであるが、今後はお前も一人前となることゆえ、名前が幸吉ではいけない。彫刻師として彫刻の号を附けねばならぬ。ついては、お前の幼名が光蔵というから、この光に、私の東雲の雲の字を下に附けて光雲としたがよろしかろう。やっぱり幸吉のコウにも通っているから……」
と申されました。
 (「年季あけ前後の話」より)

 木彫りの世界はこういうあわれむべき有様でありましたので、私は、どうかしてこの衰頽の状態を輓回したいものだと思い立ちました。ついては、何事によらず、一つの衰えたものを旺んにするにはまず戦わねばならぬ。戦争をするとすると兵隊が入ります。で、その兵隊を作らねばならないとまず差し当ってこう考えました。すなわち木彫界の人を作らなければならない。人の数が多くなればしたがって勢力が着いて来る。そうすれば世に行われると、まあ、見当をつけたのであります。そこで、そういう手段でその人を殖やす方法を取るべきであるか……ということになるのですが、どうといって、弟子でも置いて段々と丹精して、まず自分から手塩に掛けて作るよりほかはない。……と気の長い話でありますが、こう考えるよりほかに道もありませんでした。
 ところが、木彫りは今も申す如く、衰えていて、私自身がその当時現に困窮の中に立ち、終日孜々汲々としていてようやく一家を支えて行く位の有様であるから、誰も進んで木彫りをやろうというものがありません。私自身が弟子を取りたいと考えても、弟子になりてがないという有様である。それは無理からぬ事で、木彫りをやってみた処で、世間に通用しない仕事と看做されていることだから、そういう迂遠な道へわざわざ師匠取りをして這入って来ようという人のないのは、その当時としてはまことに当然のことであったのでした。
 それはそうとして、とにかく私は弟子を取って一人でも木彫りの方の人を殖やす必要を感じている。でその弟子取りを実行しようと思うのですが、それがまた容易には実行出来ないのであります。……というのは、弟子を置けば雑用が掛かります。自分の生計向きは困難の最中……まず何より経済の方を考えなければならない。弟子を置いても弟子に食べさせるものもなく、また自分たちも食べて行けないとあっては、何んとも話が初まらぬわけでありますから―が、まあ、食べさせる位のことはどうやら出来る。自分たちが三杯のものを二杯にして、一杯ひかえたとしても、弟子一人位の食べることは出来る。しかし、暑さ寒さの衣物とか、小遣いとかというものを給するわけには行かない。たとえば私の師匠東雲師が旺んにやっておられた時代に、私たちのような弟子を置いたようなわけとは全く訳が違います。で、なるべくならば、衣食というようなことに余り窮していない方の子弟があって、そういう人が弟子になりたいというのならば、甚だ都合が好いのでありました。しかし、困ってはおっても身の皮を剥いでも、弟子を取り立てたいという希望は充分にあったことで、これが私の木彫り輓回策実行の第一歩というようなわけでありました。
 (「門人を置いたことについて」より)

2008年02月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年2月≫

三島 由紀夫 『若きサムライのために』
 1996年  文春文庫

三島 といふのはね、やっぱりキリスト教対ヘレニズムといふやうなもんなんだよ、いまわれわれが当面してゐる問題は。結局ね、世界をよくしようとか、未来を見ようとかいふ考へと、未来はないんだけれども、文化といふものがわれわれのからだにあるんだといふ考へと、その二つの対立だよ。
福田 ぼくはベトナム戦争はイ・ロジカルなものにたいするロジカルなものの敗北だといふ考へ方には同意できないけれど、今の文化論は全面的に賛成だな。伝統だとか、文化とかいふと、なんだか唯美主義に聞えるけれども、実は決してさうではなくて、たとへばうまいソバが食ひたい、それを作つてもらひたいといふささいな日常的な生き方に至るまで、われわれの生き方を守るといふことでしかないんだよ。ところが、さういふものを、明治以来がむしゃらのやうになつてぶつつぶしてきたわけだ。それで先進国とかいふものになつて、やつと夢はかなつたんでせう。敗戦はしたけれども、そのおかげで先進国にのしあがつた。さういふことに日本人としての誇りの拠りどころを求めるといふのが関の山で、日本の文化を守らうなんて言つてもぜんぜん通用しない。
 もちろん、役人も一応それは考へるわけだ。でも、あの人たちが日本文化を守らうといふのは、せいぜい国立劇場をつくるといふことくらゐなんだ。それで、歌舞伎とか、伝統芸術を保存しようとする。
 ところが一方、学校教育では、歌舞伎を理解できず、感心も持てないやうな教育をしてゐる。つまり古典殺しをやつてゐて、その殺したやつを昆虫標本のやうに国立劇場で保管しようといふわけだ。歌舞伎を国民生活の中に生きたまま動かしつづけようとするのではなくて、博物館の中にミイラとして保存すること、それが文化に関心を有する政治家、役人の文化政策といふものです。

 日本の官僚は左傾する?
三島 だから、「文化を守る」といふことは、「おれを守る」といふことだよ。福田さんもさう思つてゐるだらう。
福田 さう、おれが文化だもの。
三島 やつぱりそれしかないんだ。
福田 だけどそれがね、いまの教育ぢや、文化を守るといふことはおれを守るといふことにつながつてゐないでせう。
三島 つながつてない。日本の官僚の文化政策といふのは、みんなそんなところなんだ。啓蒙主義と、明治の文明開化主義を一歩も出ない。文明開化主義と啓蒙主義では、日本の文化は絶対守れない。
 左翼は一方、そういふことをやつてゐるか。民衆芸術は食ひ込む。そして民衆芸能や、民衆のための芸術を発掘してだね、そのものを生々と民衆の手に戻さう、彼らは彼らでさういふことを一所懸命やつてゐる。
福田 だけど本質的にはおんなじなんだよ。
三島 つまり官僚の啓蒙主義とね、左翼の民衆芸術といふ観念は、おんなじものだよ。だからぼくは、一番日本の官僚が、いまに左傾すると思ふ。
福田 さう、さう、さう。
三島 ある雑誌で読んだんだが、『週刊文春』だつたかな、日本の高級官僚の半分以上が、三分の二だつたかね、社会党政権のある時点における成立の可能性を信じてゐるといふやうなね、官僚そのものが。大東亜戦争もだね、満洲事変もさうなんで、満洲事変における官僚のあれ、それから昭和十年代における新官僚のやつたこと、これがまたね、繰り返されてるから教育問題といふのはこはい。
福田 本質的に同じならね、左翼の方が勝つにきまつてゐるんだよ。
三島 さうなんだ。
福田 それはもう徹底してゐるからね、勝つにきまつてゐるんだ。さういふことを有能なる官僚は感じてゐるでせう。
三島 だから、いまのうちから仲良くしておかうといふんだよ。
福田 さうだ、さういふことなんだよ。悲観的になつてきたぢやないか(笑)。だけど、これは本当だよ。笑ひごとぢやない。
三島 危険だよ。さういふことはほんとに危険だ。ぼくは実際にあそこに近づいてね、さういふことが非常によくわかつた。
 あなたは前から国語問題で文部省関係のこと、ぼくは国立劇場関係で少し実態をつかんでゐて、なるほどと、文化の本質的な重さといふのがわからないんだよ。

 「文化を守る」ことは自分を守ることだ
福田 さうだね、いま言つたとほり、文化を守るといふのは自分を守ることだといふのはね、多少とも文化が自分の中に浸み込んでゐるからなんで、さうでなければ、自分を守るといふのはただ自分の生命を守るといふことだけになつちやふんだ。
(「文武両道と死の哲学」<対談>福田恆存 より)

2008年01月02日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年1月≫

世阿弥 『花鏡』 応永三十一年

 一、是非初心を忘るべからずとは、若年の初心を忘れずして、身に持ちて在れば、老後にさまざまの徳あり。「前々の非を知るを、後々の是とす」と云へり。「先車のくつがへす所、後車の戒め」と云々。初心を忘るるは、後心をも忘るるにてあらずや。功成り名遂ぐる所は、能の上る果也。上る所を忘るるは、初心へかへる心をも知らず。初心へかへるは、能の下る所なるべし。然れば、今の位を忘れじがために、初心を忘れじと工夫する也。返返、初心を忘るれば初心へかへる理を、能々工夫すべし。初心を忘れずば、後心は正しかるべし。後心正しくは、上る所のわざは、下る事あるべからず。是すなはち、是非を分つ道理也。
 又、若人は、當時の藝曲の位をよくよく覺えて、是は初心の分也、なをなを上る重曲を知らんがために、今の初心を忘れじと拈弄すべし。今の初心を忘るれば、上る際をも知らぬによりて、能は上らぬ也。さるほどに、若人は、今の初心を忘るべからず。
 
 一、時々の初心を忘るべからずとは、是は、初心より、年盛りの比、老後に至るまで、其時分時分の藝曲の、似合たる風體をたしなみしは、時々の初心也。されば、その時々の風義をし捨てし捨て忘るれば、今の當體の風義をならでは身に持たず。過し方の一體一體を、今當體に、みな一能曲に持てば、十體にわたりて、能數盡きず。其時々にありし風體は、時々の初心なり。それを當藝に一度に持つは、時々の初心を忘ぬにてはなしや。さてこそ、わたりたる為手にてはあるべけれ。然れば、時々の初心を忘るべからず。

 一、老後の初心を忘るべからずとは、命には終りあり、能には果てあるべからず。その時分時分の一體一體を習ひわたりて、又老後の風體に似合事を習は、老後の初心也。老後初心なれば、前能を後心とす。五十有餘よりは、せぬならでは手立なしと云り。せずならでは手立なきほどの大事を、老後にせん事、初心にてはなしや。
 さるほどに、一期初心を忘ずして過ぐれば、上る位を入舞にして、つゐに能下らず。然れば、能の奥を見せずして生涯を暮らすを、當流の奥儀、子孫庭訓の秘傳とす。此心底を傳ふるを、初心重代相傳の藝案とす。初心を忘れば、初心子孫に傳るべからず。初心を忘れずして、初心を重代すべし。
 此外、覺者智によりて、又別見所可有。

2007年12月02日

推奨の本
≪GOLDONI/2007年12月≫

森 銑三 『傳記文學 初雁』
 1989年  講談社学術文庫

    一
 文政十年の初冬のことであつた。中国地方へ到つた浪華の名優三代目中村歌右衛門、俳号梅玉を、備中国賀陽郡宮内の吉備津宮の社家頭藤井長門守高尚が、秘かにその別荘鶏頭樹園に招いて、芸道に関することどもを何くれとなく問うた。
 歌右衛門は安政七年の生れでこの年五十歳、その芸はますます円熟の域に入らうとしてゐた。体は小がらで、風采は甚だ揚らないが、さすがに大役者らしい貫禄がある。高尚は鈴屋門の国学者として広く知られてゐる。明和元年に生れて、この年六十四歳、歌右衛門よりは十四歳の年上であつた。柔和な面ざしの裡に犯し難い何者かがあつて、いづこへ出しても恥づかしくない人品である。
 高尚は趣味が豊かで、物の趣をよく解してゐた。これまでしばしば上方にも江戸にも遊んで、当時の一流の役者の舞台をも知つていた。それでこの度歌右衛門の来たのを幸に、わざと自宅ではなく、吉野町の東の普賢院という寺の北隣に建てた別墅の方に呼んで、一夕を清談したのである。それで二人の話を傍聴した人はごく僅かであつたが、その内に橋本信古といふ人がゐて、対話を書留めておいてくれたものが伝へられてゐる、それには「落葉の下草」という」名が附けてある。内容は僅々七条に過ぎないが、さすがにとりどりに面白く、多少は演劇史の資料ともなるものがある。以下それを順次紹介して行つて見ようと思ふ。
 
     二 
 高尚は問うた。
「後に小六といつた雛助は、芸を少くして心持を出さうとしましたが、なくなつた団蔵の方は芸をば大変細かにしました。この優劣を、あなたはどうお考へですか」
 雛助は嵐雛助、俳号は眠獅である。この年文政十年を遡ること三十一年の寛政八年に、五十六歳で死んでゐる。その小六の名を襲いだのは、なくなる二年前のことだつた。雛助は、芸の余韻余情を尊んだ。晩年倅の二代目雛助の評判がよくて、しきりに見物の声のかかるのを却つて苦々しいこととして、「その場で褒めるのは浜芝居の見物達だ。小屋を出ればすぐに忘れてしまふ。ただ声さへ掛かれば嬉しがつて、余計なところで見得をしたり、場当りの台辞をいつたりしてわざと褒めるやうに仕向けるのは、大歌舞伎の者のすることではない。昔の名人達は、誰も皆あだ褒めせられぬやうにと、舞台を大事に勤めたものだ。以後慎しむがよい」といつた。さういふ逸事などもある名優である。
 団蔵は四代目市川団蔵である。雛助よりも十二年遅れて、文化五年に六十四歳でなくなった。この人は幼時から小芝居で鍛え上げて、小がらではあるが小手ききといはれてゐた。器用な芸風で、宙返りや早変りを得意とした。さういへば、雛助の芸とは大いに相違するもののあつたことが知られて来よう。
 雛助と団蔵との優劣は如何といふ問に、歌右衛門は答へていつた。
「小六が芸を少くして、心持を出さうとしましたのは上手の業で、余人の及びもつかぬことでございます。何の役をしても情を尽して、見る人々の心をそれぞれに動かすといふのが小六の独特の芸で、さやうな役者は昔も稀でございました。只今は絶えてございません。先の団蔵は芸を細かにして、見る人達の心に少しもさからわなくて、何をしても褒めそやされましたのは、これもたぐひの稀な上手でございます。けれども今時の役者の上手といはれます者は、誰も団蔵のまねはしますけれども、小六を学ぶことは出来ません。ただ嵐吉三郎一人が、小六を学ばうとする志がございました」
 この後に「評云」として、「此答にて小六より団蔵の劣りけること知られつ」としてある。歌右衛門の返事に、高尚もうなづいたのであらう。ただ一人雛助を学ばうとした嵐吉三郎は、数年前の文政四年に五十三歳で逝いた。この人はその芸風を花三分実七分と評せられて、少しも芸をゆるがせにしない役者だつた。歌右衛門には第一の競争者であつたが、さすがに歌右衛門は、その長所をよく見抜いてゐたのである。
 (「歌右衛門と高尚」より)

2007年10月31日

推奨の本
≪GOLDONI/2007年11月≫

安田 武 『形の日本文化』
 1984年  朝日新聞

 
 ―つまり理屈っぽくいえば、東京のあやしげな「近代」ふう、そのお手軽な「合理主義」が、何かにつけて気に入らぬ、味気ないということだ。当然のこと、芝居小屋では、何処よりも京都の南座がこころ楽しい。この数年、十二月の顔見世は、祇園の惣見の日に、欠かすことなく東京から駆けつける。
 ここの食堂は、幕間だけしか営業しないという横着はしてないから、見たくない幕は、おでん屋で一杯やりながら時を過ごす。とこうするうちに、幕が降りたのだろう、にわかにざわざわと賑やかになって、桟敷の戸が開き、芸妓・舞妓たちの華やかな群が、どっと廊下に溢れ出す。のれんから顔をのぞかせて、妓たちを呼び入れ、あらためておでんをつついたり、冗談をいったり、―ハネて出てきた黄昏の街に、朝からの雨もよいが、いつか淡雪に変って、京阪四条駅から加茂川の畔、いや振りかえれば、櫓にその淡雪の散りかかる、といった偶然に恵まれれば、顔見世の情緒はまず言うとことなし、ということになる。
 芝居小屋は芝居小屋であって、「劇場」とはちがう、というのが私の頑固な主張なのだ。というのは、舞台と観客席があれば、それは劇場にちがいなかろうが、芝居小屋は、舞台と客席だけでは成立しない、ということだ。芝居小屋は、小屋の全体が社交場、サロンであり、心おきない呑み食い場所でなければならない。小屋の周辺もまた、芝居小屋のある街らしい風情が必要だ。南座こそ、この条件に適う。
 国立劇場は論外、歌舞伎座の昨今も落第だ。むろん、東京の街の荒廃ぶりに、責任の多くがあろうが、それだからこそ一層、歌舞伎座の内だけでも、せめてここにいる間だけ、不愉快な東京を忘れさせてくれればよいのに、事実はアベコベ、現代東京の不愉快さ、そのままの有様だから失望する。食堂が、そば屋から鮨屋まで、幕間だけしか営業しないのは御承知のとおり、八時を過ぎると売店まで、いっせいに閉じてしまう。ただ一個所、三階の酒場だけが終始営業していて、店内の造作も 満点、バーテンも物静かで、ここを唯一の憩いの場所としていたら、それもこの春から店じまいしてしまった。万やむなく、最近は、交叉点を渡って、采女町の「長寿庵」か、築地寄りの「喜多八」まで出向いて一杯やるしかない。
 私の言い方を古臭いという方には、ドアボーイから、クローク係にいたるまで、劇場のなかに働く者すべてが、「劇」の創造に参加していると説いたのが、かのスタニスラフスキーであったことを、是非思い出していただきたい。昨今の劇場は芝居小屋の小屋としての荒廃であり、演者の「芸」の荒廃ともこれは無縁のことではない、と私は思う――。
 たとえば、デューマ・フィスの『椿姫』が、オペラ・コミック座の場景を、いかに美しく描き出しているか、いや、夏目漱石もかつての芝居小屋の華やかな雰囲気を、『明暗』のなかに、いきいきと活写している。今日の歌舞伎座が、果して、小説の背景として登場しうるものかどうか、考えてみてほしいものである。「芝居見物」の情調が失われれば、観劇のたのしみは半減、どころか、ゼロに等しくなりかねないからだ。
(「歌舞伎東西」より)
 

2007年09月29日

推奨の本
≪GOLDONI/2007年10月≫

小宮 豊隆 『中村吉右衛門』
 1962年  岩波書店

 吉右衛門のお母さんが団十郎贔屓で、お父さんの歌六が吉右衛門に、自分流の芝居を教へてゐると、そばについてゐて片端からそれをぶちこわして行き、仕舞には夫婦喧嘩が始まつて、「お前、そんなに堀越(九代目団十郎の名字-引用者注)が好きなのなら、なんでおれのところへ嫁にきた、いつそ堀越の嫁になれ」とお父さんがどなりつけることもあつたといふ話は、有名である。このお母さんは昔の市村座の座附の茶屋の、万屋の娘だつたといふが、いろいろ話を聞いて見ると、随分えらいところのあるお母さんだつたらしい。私は昔一度会つたことがあるが、別に立ち入つた話をしたわけでもなかつたので、えらかつたかどうかの印象は、私には残つてゐない。
 吉右衛門によると、吉右衛門のお母さんは「黒勝」と言はれた名人の花柳勝次郎の弟子で、五つ六つの時分から踊を仕込まれたのだといふが、芸ごとに明るい人で、吉右衛門は絶えずその監督を受け、芝居があくと必ず初日に見に来て「ピンからキリまでダメの出し通し」で、吉右衛門は一度だつてほめられたことはなかつたさうである。これはお母さんは純粋な江戸つ子で団十郎贔屓で、お父さんは上方生れで重い伝統を背負つた上方役者だつたので、芸といふものに対する考へ方の相違が、とかく吉右衛門の芸に対するお母さんの小言になつたものに相違ないが、然しそれだけではなく、お母さんには江戸の芸だの上方の芸だのといふものを超えて、もつと広い意味での芸に対して、相当しつかりした見識があつたせゐではないかと思ふ。
 吉右衛門が子供芝居に出て人気を一身に集めてゐた際に、お父さんに話して、子供芝居に出し続けることを思ひとまらせ、吉右衛門が十六歳の時、歌舞伎座の慈善興行に出て『寺子屋』の松王を勤め大変好評を博したのを機会に、吉右衛門を歌舞伎座の座附にしてもらひ、団十郎の手許で端役や傍役を丁寧に勤めさせるやうにしたのも、お母さんの力だつたらしい。
 子供芝居の子供には、ほんとの腹は分からない。分からないままで大人の芝居をするのだから、芸が小さく固まつてしまふおそれがある。従つてこれには百害があつても一利はないと言はれてゐる。それと同じ立場に立つて、お母さんは、若い者は若い者に似合ひの役を勤めながら、自然の順序を踏んで、大きく勤め上げて行くべきだと考へたものだろうと思ふ。もつとも吉右衛門は晩年になつて、一概にさうも言ひ切れない。早くからむづかしい役で鍛へて置けば、大人になつてから役の性根の呑み込みも早く、動きや調子、間やイキをしつかり身につけることができる。芸が固まるとか小さくなるとかいふのも、所詮本人の心がけと勉強とにある。従つてこれは切替へる時のやり方一つにかかつてゐるといふべきだと言つた。これはまつたくその通りである。然しこれは自分の経験を決して無駄にせず、何もかも自分の芸術を大きく育て上げる為の栄養にすることのできた、吉右衛門のやうな役者であつて初めて言ひうることで、その吉右衛門を教育する上でお母さんの採つたこの際の態度は、やはり当を得た態度だつたと言ふべきである。 
 (「吉右衛門のお母さん」より)

 吉右衛門は役の性根をしつかり押へた上で芝居をした。然しそれだけではなく、吉右衛門はその押へた性根を舞台の上で表現するに就いて、顔のつくり、衣装のつけ方は勿論のこと、顔の表情、からだの表情、歩き方、坐り方、動き方を始め、声の出し方、台詞の抑揚、台詞の間のとり方、テムポやリズムなどに、一一精確にあらゆる工夫を凝らした。盛綱でも熊谷でも、大蔵卿でも貞任でも、長兵衛でも松蔵でも、さういふ点で、みんな実に細かに仕分けられてゐるのである。こんな芝居は今日では、もう到底見ることができない。のみならず例へば長兵衛が水野のうちへ呼ばれて行き、水野に挨拶をする場面など、相手は旗本、自分は町人だといふので、身分の上では十分敬意を表しはするが、然し男づくの勝負なら負けてゐるものかといふ気概が腹の底にあることが、見物にはつきり通じて、吉右衛門の長兵衛には、長兵衛の「位」が実に見事に表現されるのである。これも今日の芝居には見られない。
 ――吉右衛門の一周忌は、もう目の前に迫つて来てゐる。然し私にはまだ吉右衛門が、はつきり死んでしまつたのだといふ気がしない。どつかからひょつくり出て来そうな気が屡する。ただ芝居を見に行くと、吉右衛門はもうゐないのだといふことを、いやでも認めなければならないのである。 (昭和三〇・八・一九)
 (「吉右衛門の芸」より) 

2007年09月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2007年9月≫

加賀山 直三『團十郎三代』
 1943年  三杏書院

 「實はね、今日は……。」
 と、アッサリ白状に及ぼうと切り出した途端に、
 「實子、何をゴタゴタして居るんだねえ。この暑い最中、いつ迄も端近にお立たせ申して……」
 と年寄らしい氣近かな聲をさせて、奥から團十郎の未亡人おますが出て來た。
 まア、山路さん、いらつしゃいまし。お暑いぢやアございませんか。さアお上んなすつて、さアさア何卒……」
 と性急に先に立つて、案内し乍ら、
 「今年の暑さぢやア、何處に居たつて同じこツてすが、奥の客間なら、切めて庭に打水がしてありますから、いいえ、婿が若いに似合はず庭いじりが好きでしてね、始終手入れをしますし、この頃の暑さでは、打水を絶やしませんから、お陰で見た目だけでも涼しくつて、何とか息がつけさうです。旦那も庭は好きでしたが、御存じの物臭でしたから、時々思ひ出した様にさせるだけで、夏暑いなア當りまへのこ
ツた、と例の調子でしてね……」
 と、有名な、流暢な辦舌の中に、庭に面した奥座敷に通つて、座を勧め、位置がきまると、扨、改まつて挨拶の口上が取り交わされる、おますの挨拶の丁寧にして流暢、言辭の豊富、委曲を盡くした辭令の巧みさは、この家に馴染の深い松楓も萬々承知の上で、若旦那育ち乍ら、今では多少世馴れたつもりでも、到底太刀打の叶はぬ物だつた。
 先づ、時候の見舞ひから始まつて、御無沙汰のお詫び、この前來た時お構ひをしなかつた事、その理由、その事情、それらが泉の水の滾々として溢れるが如く流れ出る。そして、その間、決して相手方の容喙を許さない。何とも早、鮮かなもので、松楓はいつもの事乍ら壓倒されて了つて、その應待はすつかり諦め、用件の始まる迄を無爲に過すのである。
 で、この安宅の關を辦慶程の苦心もしずに通り抜けて、松楓は用件を切り出した。

 松楓のこの希望は、快くおます未亡人の聞き納れる處となつた。
 「ええ、それはわたくし共では願つてもない事です。何しろ成田屋では七代目以來の家の者ですし、中途で當家を離れては居りましても、始めわたしは成田屋へでなく、河原崎の家へ嫁に來た者なのですから、年の上だけでなく、いろいろ成田屋の事を心得て置きたいと思つて、時々何か聞き出したりもしますのですが、御承知の學門も何もないわたくしの事ゆゑ、あつちこつち飛び飛びに、出たとこ勝負の取りとめもなく聞く様な始末で、トンと埒があきませんのですから、あなたの様な學のある、何でもよく
物を心得たお方に、順序を立てて聞き出して戴ければ、わたくしどもの方でもどんなに幸せる事か知れやアしません……」
 と例の巧妙な辭令の洪水が始まり出したので、松楓はただもう苦笑を洩らすばかり……、流石におますも氣が付いて、
 「オヤオヤ、これやアいけない。今日は大きいばァやが立女形の筈でしたツけ。では早速…」
 (「序詞」より)

 九代目未亡人おます、その出生、經歴、團十郎との結婚のいきさつは、伊原靑々園氏編の『市川團十郎の代々』中の本人の直談に委しいので、これを轉載して置く。
 「わたくしの名はまさと云うのが本當ですが、戸籍で書き間違つてますとなつたのを、今では本當の名前にして居ります。弘化四年一月生れで、父は南槇町、俗に西會所と申しました、彼處の瓢箪屋の隣りで、小倉庄助と申しました。母は千代と云ひまして、これが家附きの娘で、先夫との仲に男の子が二人、女の子が二人ありまして、その先夫が離縁になつて、庄助がその跡へ聟に参つたのです。これにも男の子が一人、女の子が三人ありまして、わたくしは三人の女の仲ですから、先夫の子供から數へると四人目の娘に當ります。
 家業は銀主―御用達―でしたが、零落しまして、わたくしは胤違ひの兄で、龜岡石見―御一新後は甚蔵と云ひました―それへ引き取られました。わたくしと妹が片付かないで、わたくしは兄の處へ行つて居たのですが、山谷の八百善夫婦が里になつて嫁に参りました。八百善を里にとは、主人(九代目、當時權之助)が頼んでくれましたが、小倉も龜岡も八百善を知つて居たから里になつてくれました。役者の處へ行くのですから親類とは緣切りで参りましたが、姉娘(實子)が初舞薹の時から再びつきあふ事になりました。」云々。

 九代目市川團十郎の事は今更ここに掲ぐべきではないだらう。本文の終り明治十四年以後だけでも詳述すれば、以上の全文よりずつと多くの紙面を必要とするし、又本稿の構成上にも喰ひ違ひが生じて來るので、それらは又次の機會に譲る事として、周知の事だが、明治三十六年九月十三日午後三時四十五分、茅ケ崎の別荘で息を引取つた事を記して置くのみにとどめる。享年六十六。同月二十日に本葬施行。謚號、玉垣道守彦。青山墓地に葬る。
 (「補遺」より)

 


2007年08月03日

推奨の本
≪GOLDONI/2007年8月≫

内村 直也『女優田村秋子』
 1984年  文藝春秋

 
 「さよなら」が最後の言葉であったということは、考えようによっては、いかにも田村秋子らしい。
 暗い感じの「さよなら」ではなくて、「軽い、はずんだ調子の、寧ろいたずらっぽく云ったという感じ」だったという。この表現で、私には充分分るような気がした。
 最後の瞬間に、至極平凡な言葉で、明るく永遠の別れを告げる。深刻なところがみじんもない。これは、もしかすると…、とっさに出た言葉ではなくて、彼女のなかで充分考えられ、練られた言葉だったのではないか。 
 最後の三日は食事もとらなかったというから、死ぬ準備をしていたのだろう。その準備の中に、この最後の言葉が入っていたとしても、ちっとも不思議ではない。これは田村秋子の、最後の名演技、名セリフであったと考えたい。
(略)
 私は残念ながら、彼女の生存中に、君津の老人ホーム訪問の約束をはたすことが出来なかった。私が、君津を訪ねたのは、彼女が他界して、暫く経ってからであった。前もって知らせておいたので、会長の四ケ所も、田村の従妹も、友達も待っていてくれた。
 「老人ホーム」の彼女の部屋も、病院で息を引きとった部屋も見せてもらったが、もう片付けが済んでいて、田村秋子の面影のようなものは、なにもなかった。寧ろ私には、そのほうがさっぱりしていてよかった。
 彼女が食べた食堂で、彼女が食べたと同じ定食を御馳走になった。
 会長をはじめ、みんなが彼女の想い出話をしてくれた。一番興味深かったのは、みんなが、新聞記事その他によって、彼女というものが…田村秋子というものが、漠然とではあるが、分ったことである。
 「そんな有名な、偉い人とあたし達はここで一緒に暮らしていたんですね」
 という言葉に対して、私は、
 「有名でもなかったし、偉い人でもありませんよ。ただ素晴らしい人でしたね」
 というより他に説明のしようがなかった。
(略)
 彼女は「女の菊五郎」とまでいわれながら、自分が納得できなくなると、舞台から退場して、頑として自分の方針をまげようとしなかった。
 芝居以外に、趣味も道楽もなにもない彼女である。舞台を離れてからの三十年間は、全く勿体ないの一語につきる。私たちは、田村秋子の舞台を見たかった。彼女が演りたいという、最後の炎の残っているような、中年過ぎの女を、是非見せて貰いたかった。
 自分がきめた道だとはいえ、この三十年は長い、寂しい、孤独な歳月であった。彼女にも弱い面がある。それを人に見せないようにして、我慢し、辛抱している姿は、私には可哀そうという表現しかない。
 いかにも子供扱いにしているようだが、自分のきめたことは歯を喰いしばってでも守り通そうとする強情さは大人のものではなくて、けなげな子供のもののように思える。
 最後の老人ホーム行も、私には可哀そうという言葉が一番適切である。
 
 こんな三人の田村秋子が、一つになって、私に話しかけてくる。その日本語がまた、とてもいい。
 下町の言葉が共通語でまぶされたような、自然で、親しみのある言葉である。声もいい。
 いぶし銀のような彼女の名舞台は、この日本語の美しさであった。
 (「第三章 舞台からの退場」より) 


2007年06月30日

推奨の本
≪GOLDONI/2007年7月≫

毛利 三彌 『演劇の詩学―劇上演の構造分析』
 2007年3月  相田書房

 
 新しい演劇の台頭する時期や場所には、その社会的環境にある種の共通性がみられる。人々が明白に意識せざるを得ない人間関係のずれの発生である。紀元前六世紀から五世紀にかけてのアテナイは、ペルシア戦争をはさんでの激動期であった。十六世紀のヨーロッパ精神は、中世世界を支配してきたキリスト教の内部に最大の亀裂を生じさせた宗教改革によって混乱していた。南北朝期は、日本の歴史上、前後に例のない二つの朝廷の並立した時期だが、それを可能にする精神土壌は下克上による武家支配体制の中で培われていったといえる。一六〇〇年の関が原の戦いは、まさしく天下分け目、中世的なものから近世的なものへと日本人の思考様式が変化することの象徴であったが、そのことが明白な意識となって社会変貌をもたらしはじめたのは、十七世紀後半であった。この過去と現代の激しく相克する転換期には、そのずれに対して否応なく何らかの判定が求められる。それは、新しい社会体制のための法づくりと重なる。古代アテナイの法は、紀元前六世紀を通じて激しく変容したといわれる。王制が貴族制となり、そこから民主制に移行するまでの中間段階として、紀元前六世紀後半に成立した僭主制は、一種のクーデターによる政権獲得でありながら、民心を掌握しなければ維持できない新しい政治体制であった。最初の僭主、ペイシストラトスが大ディオニュシア祭での悲劇上演を定めたと一般にいわれてきたが、実際には、現存最古の悲劇の作者であるアイスキュロスが、その後のヨーロッパ演劇の礎となる劇の原型を作り出したといってよい。すなわち二人俳優の制度である。それによって人物間の対話が可能になった。対話は、アイスキュロスの時代に成立したアテナイ民主制の基礎となる。その法は、裁判官は人民からえらばれ、被告には、告発するものと弁護するものがいるという、今日までつづく民主的な裁判制度によって裏打ちされるものである。アイスキュロスの最後作『オレステイア』三部作は、この新しい法の根拠を問うものにほかならない。それは、目には目を、歯には歯を、という復讐法から脱するために、過去の事件に対する異なる見解をたたかわせることによって、将来に意味をもつ対処方法をみつける過程である。その再現が劇の基本形式となる。したがって、『オレステイア』のように劇中裁判を行なう形でなくとも、すぐれた悲劇は、それ自体が自ずと裁判形式を模する。『オイディプス王』は、先王殺害者探しの劇ではなく、殺害容疑者を裁く劇である。証拠調べ、証人喚問といった裁判形式の対話が繰り広げられる。たまたま裁くものが裁かれるものだった、という特異な結末となるが、それもいわば裁判形式にのっとって明らかにされる。かくして、対話による対立がヨーロッパのドラマの基本形式になった。
 これに対して、日本人の法意識がヨーロッパ人のそれとは異なる様相をもつことを指摘したのは、法社会学者の川島武宜である。彼は、日本人の法意識を示す典型例の一つとして、黙阿弥の『三人吉三廓初買』のよく知られた「大川端庚申塚」の場をあげる。お坊吉三とお嬢吉三の争いの中に、和尚吉三が割って入って喧嘩をあずかるという場面だが、あずかるとは、白黒をつけることではなく、調停すること、解決ではなく和解することである。だがこのとき、川島武宜もいうように、双方納得しての和解というよりは、一段上の立場に立つものが争いをあずかって言い分をおさめさせる。今日の日本でも、裁判で争うよりも示談で決める方が好まれるが、この日本人の法意識は、江戸時代を通じて形成されていったものだろう。江戸幕府は長年つづいた日本国内の対立葛藤の調停(あづかり)の上に成立した。したがって、多くの歌舞伎劇にこの調停的判断姿勢は明らかであり、これが近代になってもなお、われわれ日本人を支配している。日本演劇に対話性が希薄であることは、ここに由来するのであろう。
(「日本演劇の特性」より)

2007年06月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2007年6月≫

ソーントン・ワイルダー『わが町』(訳・鳴海四郎)
 2007年5月  ハヤカワ演劇文庫

 『わが町』は二十世紀初頭のアメリカの片田舎に暮らすジョージとエミリーの日常生活、結婚、死を描いたものだが、すべては何もない舞台で演じられ、さらに舞台監督が物語全体を断片化していく。ここには通常の時間の流れに沿って、劇的な物語が舞台に再現される写実的な「お芝居」はない。さらに数億年という時間の流れ、宇宙的な広がりの中で彼らの姿を眺めることにより、登場人物の個別性は後方へ押しやられる。ローマで遺跡を発掘した時の感覚だ。想像力を使い、それぞれの『わが町』を再構成する観客の心の中には連綿と続く人間の日常的な「生」の姿が浮かび上がってくる。ワイルダーはジョージとエミリーの話をしながらも、ある特定の場所、時代の個人の物語を巧妙に普遍化していく。これは舞台を観ている現在の「わたし」の話でもあるのだ。(略)
 目に見えるものだけに価値があり、数字に置き換えられることのみが問題にされ、説明できることだけが真実だと考え、比較の中だけでしか自分を語れないような時代に、ワイルダーの作品はあまりに漠としているように見えるかもしれない。が、劇場で、あるいはこの作品を読んで、何か心動かされたとするなら、心の奥底で起こったその変化に目を留め、忘却の彼方から浮かび上がってくるわたしの姿をしばし眺めてみるべきだろう。そしてわたしがここに「いる」ことの奇跡に思いをはせるべきだろう。舞台監督の言う「何か永遠なるもの」をうっすらと感じ取れるに違いない。二十一世紀はその後でしか来ないような気がする。
 だからこの戯曲が初めて舞台にかかったのが、今から約七十年も前のことである意味もちょっと考えてみたくなる。
(「解題」より  執筆・早稲田大学教授 水谷八也)  

2007年05月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2007年5月≫

江藤 淳著  『西洋の影』
 1962年  新潮社刊

 だいたい、ユシェット座に行く氣になったのが全くの偶然だった。ホテルで劇場案内をもらってひろげてみると、イオネスコの芝居をやっているところがあるのが眼についたのである。前の晩は「オペラ・コミック」に行って下手なのに呆れて歸って來た。サルトルの一幕物ばかり並べている劇場もあったが、東京の新劇で觀たことのあるものばかりで、氣が進まない。どうせここまで來たのだから、イオネスコを見物してやろうという氣持になった。切符はホテルの番頭にいうとすぐとってくれる。しかし、べら棒に高くて、テアトル・フランセの一等以上である。どんなに立派な劇場でやっているのかと思ったら、あまり小さくて汚らしいので拍子抜けがして、そのとたんに急に興味が湧いて來た。
 前衛劇が、これほど生活臭の濃厚な小劇場で演じられるということは、健康な徴候である。演出家も俳優も、イオネスコでもうけようとは思っていないであろう。しかし、それで商賣をしようとは思っている。だから切符も高いのであり、高い金を出して來る客を納得させ、樂しませて歸すだけの藝の自信もあるに違いない。少くとも、この裏街の、猫の額ほどの小屋でやっていることが、日本の新劇の多くの場合にそうであるような藝術ゴッコであるわけがない。前衛であろうが後衛であろうが、役者が芝居をするときには、喰うか喰われるかの商賣でやるのである。それが觀客に理解されがたい前衛劇であればなおさらのこと、自分のやっていることは坊ちゃん嬢ちゃんのお遊びではなくて、ちゃんと賣りものになるれっきとした商賣だという心意氣が一本通っていなければなるまい。それだけの腹がなければ、この世智辛いヨーロッパで、新しい芝居などをやっていられるはずはない。逆にいえば、そういう抵抗感に支えられているからこそ、前衛作家の芝居も破壊力を發揮できるし、同時に藝術になるのである。
 (中略)出し物は二つで、最初に「禿げた女歌手」というのを演った。ニ、三年前から「三田文學」や新劇雑誌に反戯曲(アンチ・テアトル)というものの紹介や翻譯が載りはじめているのは知っていたが、難解な解説を讀みかけても何のことかさっぱりイメージが湧いて來ないので途中でやめてしまった。だいたい、テアトルもまともに出來ていない日本の新劇で、アンチ・テアトルもへったくれもあるものかと向っ腹を立ててしまったから、イオネスコの戯曲の一つも讀んだことがなく、したがって豫備知識は皆無である。だが、豫備知識のいるような前衛劇が此の世にあるだろうか? 日本の新劇人は、前衛劇を觀て何かを感じる前に前衛劇についての豫備知識をいっぱい頭につめこんでしまう。新劇人だけではない。日本の新進小説家も同じことで、外國の新小説を讀んで何かを感じる前に外國の新小説についての新知識で頭を埋めてしまうのだとすれば、こういうふうなかたちで何でもわかってしまうことが果して幸福なことなのかどうかはわからない。
(「パリで觀たイオネスコ」より)
 

2007年03月31日

推奨の本
≪GOLDONI/2007年4月≫

 『日本の芸術』  東洋経済新報社刊
 南 博編 1958年

 すぐれた創造的個性によって確立された高度の技術を、無能な子が世襲するとき、家芸は危機にさらされる。この危機を超越するためにコンクリートにされた制度、これが家元制度であるという歴史的な過去を持っているので、襲名によって家元の座につくということは、江戸時代いらい、当然のこととして踏襲されたきたのであるが、その当否や、新しい問題などが、公開の場で論じられたことがないので、世襲的に血縁者が中絶すると、技術的には優れた人がいても、その人が家元になることは、原則としてはなくて、家元預といった妙なことが行われている。日本舞踊の若柳流のように、どうして公選という近代的な形式による運営がなされないものなのであろうか。
 歌舞伎俳優の家々は、直ちに家元ではないが、家元的性格を多分に温存しているので、最近著しく豪華をきわめているこの世界の、襲名について問題を提起しておこう。
 近ごろの襲名に著しい現象は、権十郎は別として、勘三郎・羽左衛門・半四郎・左団次など、血縁よりは、むしろ技術によって、古い名優の家名が受けつがれることになり、その点では無能な血縁者がつぐより、はるかに進歩である。ただしかし、こうした襲名が、歌舞伎劇の演劇としての伝統的な強い要請によってなされたものかどうか。むしろ演劇以前の興行政策によって支配せれていることの方が大きいのではないかと疑いたくなるような印象が、どの襲名口上からも強くひびいてくる。もしそうだとしたら演劇の純一な伝統的要請に発していないことになり、残念なことであると思う。(執筆:西山松之助)
(「伝統芸術今日の問題 制度と機構 家元制度」より)


 本当にいい後継者を作るには、角力の親方が新弟子さがしに血眼になるように、金のわらじで素質のある子供をみつけて歩かねばならぬはずだ。代々伝わる名家の子でも、テストに外れた子はほかの職を選ばせるのが本当の親ごころというものだろう。そうやって厳重に選ばれた少年でさえ、何パーセントかは落伍せねばならないのが芸の道なのではないだろうか。それはともかく、素質の点では難のない子が稽古をはじめたとする。その子は怠け者ではなかったとする。それで、その子は立派な能楽師になれるかというと、またそれがそうはいかないのだ。(略)
 現在一流の能楽師を見渡しても、あれは師匠がよかったからあんなに立派になれたという人は、ほんの数人しかいない。あとはみな、こっそり師匠以外の人に教わったり、自分で努力をして芸境を高めていった人たちばかりだ。そういう努力がよく美談のようにうたわれるが、伝統芸術といわれる能や狂言が、いたずらに美談ばかり生んで、権威のある伝承の方法を確立しえないというのは、思えば情ない話である。本当は、能楽を含めた日本芸能専門の高校や大学ができ、そこで教育法の研究と実際の教育とをかねて行うというのが理想だが、これはいまのところ夢だ。(略)
 能は一生が修業だとはいうが、四十過ぎればもう自己完成の段階である。いや本当は二十代で基礎訓練は終り、あとは多くの先輩・友人・観客・批評家等の批判をよく噛み分けて、自己の研究で道を開いて行くべきもののようだ。三十過ぎて肉体の訓練に明け暮れるのではあまりに遅すぎる。
 こうして五十代になれば、一流の名手になるものはなり、虚名を売り出したものは充分売り込み終り、あきらめるものはあきらめて、落ち着いてそれぞれの道を歩む立場になる。だがごく稀に、六十過ぎて急に芸が伸びるというような例もあるから、あっさりきわめをつけるわけにも行かない。しかしまず五十代から六十代へかけてが能楽師の盛りである。七十の声を聞くと、どんな名人でも肉体的に故障が起りはじめる。常に好意的な能の観客は、障りには目をつぶって、名人芸のいい所だけ鑑賞してくれるからすむのだが、三度に一度は完全でないものをみせねばならなくなる。病気で体力が弱ったばあいはもちろん、いくら元気でも八十になって常時舞台を勤めるというのは、本当に芸に忠実な態度かどうか疑わしい。まあ立方なら六十代いっぱい、囃子方でも七十代の半ばまでだろう。それを過ぎたら、折をみて引退し、年に一、二回特別の機会に出演する程度にとどめるのが、立派な態度なのだと思う。(執筆:横道万里雄)
(「伝統芸術今日の問題 技術の伝承 能と狂言―能楽師―」より)

2007年03月16日

推奨の本
≪GOLDONI/2007年3月≫

 『金と芸術』  グラムブックス刊
ハンス・アビング著 山本和弘訳 2007年

 芸術の仕事を始めようとする若者の多くは、懸賞金や競争者、自分の能力について曖昧な考えしか持っていない。それらについて知っていたとしても、勝ち目を正確に査定しようとはしない。もし勝ち目を正確に査定できれば、芸術を目指そうとする若者など、ほとんどいなくなってしまうだろう。自信過剰が彼らを正確な判断から遠ざけている。(略)
 芸術について与えられている情報は極端に不十分なものであることが多く、このような事態がひたすら自信過剰につながる。これとは対照的に、サッカー選手を目指す十八歳の若者は、自分の能力についてかなり明快なイメージを持っている。このことは現代音楽の作曲家を目指す十八歳や現代美術のアーティストを目指す十八歳には当てはまらない。彼らは芸術と自分の能力についての明解な情報をほとんど持っていないために、自信過剰になる様子が容易に見てとれるのである。さらに、サッカー選手は四年のトレーニングを積んだ後、自分の可能性についてより豊富な知識を得るのに対して、若い作曲家や若い美術家が同じ年月を経た後に持つ情報は、そのキャリアをスタートさせた頃とあまり変わらない。こうして、過大な自信を持ったまま、多くの時間を費やしていくことになる。
 こうしてみると、スポーツ界との違いが明らかになってくる。ここでは、プロになるべきかならざるべきか、そして、いつプロを辞めるべきかの明確な理性的判断を下すことは、そう難しいことではない。他の人と比較して自分の能力と自分の進展を測ることが可能なのである。スポーツ・マーケットは芸術マーケットに似ている。ほんのわずかの勝者と多くの敗者がいる、勝者がすべてを得る極端なマーケットだからである。しかし、スポーツはより情報が豊富なため、行き過ぎということは少なく、平均すれば最終的に敗者が支払うコストは、芸術を目指す場合よりも少なくて済んでいる。
 また、与えられる情報が誤って解釈されたり、無視されたりすることがある。後者の場合は、自己欺瞞という形をとる。自信過剰と同じく、自己欺瞞はアーティストの過剰と低い収入に結びつく。例えば、若者が自分の能力をチェックするための情報に当たろうとしても、おそらく最終的には自分を騙すことになってしまう。オーディションに行ったり、画廊と接触したりしなければ、彼らはマーケットに留まるべきか、去るべきかを決めるために、自分の能力を査定することができない。しかし、その結果が自分の能力についての自己評価に見合うものでないことを恐れるために、しばしばオーディションや面接に行くことを拒否する。このように、彼らは知らざることを選好するのである。若いアーティストは自分のキャリアに多くの投資をしてしまっているので、すでにゲームが終っている、という事実を受け入れることが難しい。このように、回避の姿勢が芸術においては比較的強いのである。
 芸術における懸賞金が高い一方で、アーティストは他の人々よりもリスクをとり、自信過剰で、自己欺瞞の傾向が強いために、より多くの人々が芸術に参入し、結果として、平均収入は他の職業の場合よりも低くなる(テーゼ38)
(「第5章 アーティストにとってのマネー」より)

2007年02月08日

推奨の本
≪GOLDONI/2007年2月≫

 『小説神髄』  岩波書店刊
坪内 逍遥 著  1936年

 小説は勧善懲悪、世を諷し俗を嘲るを目的となすを云ふ議論は果して當つて居るか居らぬか。勧善懲悪は道徳家の目的である、教育家の目的である。小説は勧善懲悪を以て目的とすると云へば、教育家の目的は道徳家の目的と同一と為らねばならぬ。小説は道徳家や教育家のお道具に為らねばならぬ。また道徳家、教育家の奴隷とならねばならぬ。大層小説の位が下がる。外の人に使役されるものになる。果して勧善懲悪の目的だと云ふならば、勧善懲悪の主意が十分届いて居れば、其小説は完全無缺の者と云はねばならぬ。我國の馬琴の如き、英吉利のリチヤードソンの如き人の小説は、完全無缺の小説であらう。是より上の小説はなからう。然るに世間の人は曰く、馬琴の小説は荒唐でいけない、リチヤードソンの小説は道徳に偏してゐる、と云ふ。さうして見れば、勧善懲悪ばかりぢや足らないに違ひない。語を換へて之を云へば、勧懲は第二の目的で、別に第一の目的があるに相違ない。菊五郎が加賀鳶に扮したときに階子乗りをする。團十郎が崋山の役をしたときに繪を書く。或学者は之を罵り、餘計な事をする。俳優の本色ではないと言つた。然し私は之を罵らぬ。罵らぬ計りではない、之を褒めるのである。何が故に爾云ふかと云ふに、團十郎の繪を書き、菊五郎の
階子乗りをいたすは、固より其本分の藝が十分に出来た上に、崋山、加賀鳶に扮し得た後に繪を書き階子乗りを致すのであるから、それ故悪いと言はぬのである。第一の本分を為し遂げて後に、餘力を以て繪を書き階子乗りをするから許すのである。眼目の仕事をやつた後に繪を書き階子乗りもする位ゆゑに、却て賞すべき者であります。然るに若し、緞帳芝居の俳優が生意氣に階子乗りをやつた事なら、諸君はいざ知らず、私は頭から叱りつける積りである。蓋し末を眼目として本を忘れ、幹を捨てて枝葉の事柄をするからである。 
論者が所謂勧懲を以て目的とするは、亦之に類した理屈ではあるまいか。勧懲といへば表向きが好い。聞いたところで體裁がよい。譬えば楊弓のドン的のたぐひで、聞いた所が好い。併し眞正の目的ではない。
                  (『美術論』より)

2007年01月03日

推奨の本
≪GOLDONI 2007年1月≫

『近代演劇の来歴』 森話社刊
神山 彰 著  2006年

 六 「団菊爺」の老人力――回想と記憶 
 かつての役者は、若年の夢の模倣から出発するのが常だった。それが正夢であれ悪夢であれ、敬愛する役者への崇拝、盲信は度し難いものすらあった。だからこそ、彼らにはどこか充たされない欠落感があり、それが反転して魅力を放っていたのだ。一方、現今の多くの役者にはその過去への信仰は欠落している。過去は都合のいい時だけ切り売りされ、父祖代々の「何代目」という権威づけにだけ利用される。代々名は単なる固有名ではない。そこから導かれる記憶、重層する記憶の連なりが重要なのだ。役者自身がそれを捨て去り、観客から失われたことを実感させる如実な例が、元来、公の場で観客と役者が過去との繋がりを確認し共有する唯一の機会であるべき「口上」の一幕である。「成田屋を追慕の言葉身に染みておろそかならず口上の幕」は団菊五十年際興行に際しての吉井勇の歌だが、評判記や演劇史に残る名口上は滅多にないのは承知しても、過去との繋がりの欠落した昨今の口上は誠に虚しい。
 だが、その責は演者だけが負うべきでない。観客もまた「舞台の面影」を追う思いに乏しい。赤瀬川原平の造語「老人力」は、もとより歌舞伎にこそ相応しい用語である。加齢と年輪による魅力、それと逆の、勢時を思うといや増す美貌の無惨な衰えや落魄や老残―数十年にわたる、演者と観客の共有する記憶の重層こそが、歌舞伎の舞台と客席という社会を繋ぐ掛け橋だったのだ。ギリシアのアフォリズムに「青年に知恵があれば、老人に力があれば」というのがあるが、青年の能わぬ老人の特権こそが回想であり、わけても歌舞伎の「老人力」の最大の発現が「回想力」だったはずである。だが、それもまた、急速に衰え、観客はもはや思い出す力を失ったように見える。もちろん、小林秀雄ではないが「上手に思い出す事は難しい」。観客はひたすら回想し、ただ記憶を集積する力や、記憶を引用し、導き出す力と方法を喪失してしまった。演劇的経験は希薄化し、数十年前と同じ趣向でも、たまたま出会った舞台を新しいとする無邪気な錯覚が一般化している。
 一九七〇年代までは、「団菊回想御三家」とも称すべき遠藤為春、高橋誠一郎、藤浦富太郎をはじめ、各界古老、市井の老人が、七、八十年前の追憶を生動感溢れる口調で語り続けた。彼らに共通するもの、それは一切の解釈を排してひたすら回想するだけの凄みだった。彼らは「評論家」でも「研究家」でもなく、「演劇回想家」とも称すべき連中だった。一九六〇年まで歌舞伎の座付歌人ともいうべき存在でもあった吉井勇も、ひたすら回顧する紋切型の、しかし往時の客席の空気や匂いの伝わる歌を作り続けた。「亡き友の書きし身替座禅見てわが回顧癖いまだ止まざる」。短歌という形式が詠嘆を伴う性質上、回想に向くのかもしれないが、そこには過去との繋がりを保持した、ただひたすら追懐し反芻するだけの断念と、同時にどれでも決して充たされることのない老人の官能の凄みが感じられる。解釈すれば、それは怖くない。彼らは目と耳の記憶を語り続けただけだ。もし「人間性」「現代性」だのといった紋切型の語彙で、したりげな解釈をすれば、「団菊爺」の思わずたじろぐようなグロテスクで不気味な「老人力」は消えて、ただの凡庸な評家にすぎなかっただろう。
  団菊爺のいた時代は、新派、新劇の「築地爺」はおろか、「アングラ」でさえ昭和初期のダダイズム隆盛期を知る「ダダ爺」ともいうべき風貌の古老がいて、二十歳前後の私どもが安酒場で昂揚した気分で喋ると、「そういうエンシツはムカシからアンだよ、ムカシッから」と一喝されてしょげさせられたものである。一九八〇年代以降、歌舞伎から「小劇場」に至る迄、そういう記憶の蓄積による凄みは消え、客席にはどこかで聞いた解釈と、仲間意識による充足と、他愛無い喝采とだけが横行しがちである。
(「Ⅱ さまざまな明治―「江戸育」の残像 第五章「江戸育」と「個性」の間」 より)

2006年11月30日

推奨の本
≪GOLDONI 2006年12月≫

『日本新劇小史』 未来社刊
茨木 憲 著  1966年

 抱月の二元論
芸術座の踏んだ二元の道は、演劇における「近代」の確立のために背負わねばならなかった十字架である。早くから、抱月にあっては、「近代」は矛盾をもった二元に引き裂かれるものとして立ちあらわれていたのである。
 (中略)一九一五年(大正四)十月の「この現実を如何にするか」という論文に抱月は次のように書いた。――≪吾々の虫のいい空想性は、事業と職業とを一にして自己満足と報酬とを併せ獲ようとするし、短気の現実性は此の矛盾に見切りをつけ職業に徹底して自己を麻痺させるか、事業に徹底して自己を餓死させるか、何れかの極端に走ろうとする。そこへ吾々の苦しい経験が教えたり、利発な妥協性が出て来て、二元の道を指さす。今日職業を営んで、明日事業を営み、左の手に報酬を得て、右の手に自己を展開し創新する。凡そ現代に真に生きる道は、この二元主義より他にない。見渡したところ、自ら生きて自ら事業を為さんとしているもの、誰か一人この道によらないものがあろうぞ。……総てを支配する現実の道は、依然として二元である。誰れか二元の道を否定し得るものぞ。芸術座の立場はここにある。吾々は右手に職業と調和する劇を演じ、左手に職業を超越する劇を演じて、自己の往くべき道を自己の力で築いて進むほかない。而も吾々は此の悲しい事実の中に、尚幸福の存することを認めざるを得ない。
 抱月の二元論は、当然、多くの人々の論難の的となった。中でも外遊から帰った小山内薫は、芸術座の行き方をはげしく批難した。「復活」は、「復活」ではなくて「死滅」だといった。小山内の「理想主義」は、抱月の「現実主義」のポーズにするどく反撥したのである。
 小山内は「新劇復興の為に」という論文で、≪日本の「新しい芝居よ」哀れな日本の「新しい芝居」よ。≫と呼びかけて、次のように言っている。――≪勿論、芝居というものは金がなければ出来ない。金は芝居の第一条件だ。それは俺でも知っている。併し、正直な生活に入るだけの金は正直な為事で得られる。それは夢だと笑う人もあるかも知れないが、俺はどうもそういうより外信じられぬ。勿論、その境地へ行けるまでには、塩を嘗めなければなるまい。水も飲まなければなるまい。併し、最後にはきっと人間並のパンが食って行ける。きっと食って行ける。その信仰がない位なら、初めから芸術などは止めてしまった方が好いのだ。芸術などは止めにして、金儲け一方に走った方が好いのだ。その方が余っ程正直だ。余っ程真剣だ。「盗みをしながら施しをする」ような二元の道が、いつまで経っても一元になりっこはない。≫
                   (「Ⅱ 新劇の黎明 3 大正演劇」より)


『演劇論』   人文書院刊
ルイ・ジュヴェ著 鈴木力衛訳 1952年

 演劇なる商売は、その功利的な性格にもかかわらず、遠い昔にさかのぼれば、人間感情のもつとも高貴な・もつとも利害に恬然たる動機に源を発する司祭職なのだ。しかし、あらゆる司祭職は、それがいかに光輝あるものであろうと、その脇腹に憎むべき傷口を持つており、かくして司祭は、軍人が剣によつて・弁護士や医者が彼等の顧客によつて・生計を樹てねばならぬごとく、祭壇によつて生活するを余儀なくされているのだ。
 (中略)しかし、演劇とはその日暮しの商売、或いは一週間ごとに切り盛りして行く小さな商売だということだけは申しあげられると思う。儲からない芝居をいつまでも看板にしておくわけには行かぬ。此処では天才も信用がない。天才はその他の芸術に於けるがごとき信用を持つていないのだ。他の芸術にあつては、画家も・彫刻家も・音楽家も・小説家も、忍耐を重ね貧窮に耐えて行くうちには、とにもかくにもかれらの仕事や才能に対する収穫をとり入れる権利を持つているではないか。
 作家も・俳優も・支配人も・当りなくしては、換言すればかの物質的かつ精神的な同意・窓口の収入と拍手喝采なくしては生きて行けないのだ。それに、観客がこの二つのうちのいずれかを他と切り離して与えることはきわめて稀なのである。
 従つて、演劇の問題及び法則とは次のごときものである。他のあらゆる考察に先立つて、演劇は先ず一つの事業、繁盛する一つの商業的な企業であらねばならぬ。しかるのちに始めて演劇は芸術の療育に自己の地位を確保することを許容される。当りのない劇芸術はない。観客が耳を傾け、生命を与えないかぎり、価値ある脚本は存在しえないのだ。二つの目標を同時に結びつけねばならぬ怖るべき二者択一、それは演劇の地位をあらゆる追従とあらゆる妥協・ときとしては流行との妥協の面の上に置くのである。この法則を沈思黙考し、実地に応用すれば、あらゆる演劇活動の正体が明らかにされ、演劇のありとあらゆる傾向および手法が説明されるであろう。現実的なものと精神的なものとが結びつき、相対立する必然とはまさにかくのごときものであつて、これを以てすればわれわれの職業の苦い快楽も・その憐れむべき偉大さも・その神秘も・或いはまたその完成の美徳をも、一挙にして説明することができるはずである。
                          (「演劇の諸問題」より)

2006年11月05日

推奨の本
≪GOLDONI 2006年11月≫

『わたしの20世紀』 朝日新聞社刊 
安岡 章太郎 著 /1999年

 丸山真男の『自己内対話』は、ノートの走り書きをまとめたようなものらしく、私などには良く解らないところがある。しかし、その断簡零墨というか、二、三行の断章に、頭の閃きを直接写し取ったような面白いところが沢山ある。たとえば、
「アンチ・ロマン」などと言うのは、私にいわせれば、現代におけるイマジネーションの枯渇を体よく隠蔽するための標語にすぎない。現代のロマンは結局スリラー(むかしのいわゆる探偵小説)ものである。十九世紀の古典的な小説などと比べるにも及ばない。三〇年代の映画と比べてみれば、「お話」における構想力の貧困はあまりにもあきらかだ。
 これとほぼ同じことを、ジャン・ギャバンは次のように言っている。
 よい映画を作るために、私がこれまで言い続けてきた三つのこと。それは第一によいストーリイであり、第二によいストーリイであり、第三によいストーリイだということだ。映画作りに必要なことは、ただそれだけ。あとはただの愚にもつかぬ屁理屈にすぎない。
 インテリ嫌いのギャバンは、またこんなことも言っている。
 いまやスタジオは寺院のようなものになってしまった。寺院といっても祈りの場所というより、むしろいろいろ考える場になってしまった。この芸人の世界に「考える人」たちが入ってきたことで、映画館から客が逃げてしまったのだ。 
 「アンチ・ロマン」などと言い出したのは、無論日本人ではない、フランス人にきまっている。それを直ちに拡めたのが日本のジャーナリズムだ。だから丸山氏とギャバンが同じようなこと言っても、それは単なる偶然ではない。丸山さんの言われるとおり、まず「イマジネーションの枯渇」があった。事情は、日本でもフランスでも、アメリカその他の国ぐにでも同じことだ。
                  (「丸山真男とジャン・ギャバンの説」より)


『芝居入門』 岩波書店刊 
小山内 薫 著 /1939年

 小説家としても有名なストリンドベリーは、演劇に関する自分の意見を集めた「ドラマトゥルギー(演劇論)」といふ書物の中で、かういふ意味のことを言つてゐる。―紋切型の道化とか、客受けを狙つた個所とか、主役が大見得を切る見せ場とか、さういつたものは極力避けなければならぬ。俳優の声が叫ぶことなしに隅々まで聞える小さな劇場が必要である。大きい劇場だと俳優が不自然に大きな声で話さねばならぬ。さういふ劇場では、声の抑揚が嘘になり、恋の告白が叫び声になり、内緒話が命令するやうな調子になり、心の秘密が咽喉一ぱいの声で怒鳴られる。かういふ演技は空々しい感じをあたへるだけで、真の藝術ではありえない。
 この意見はそつくりそのまま現在の日本の商業劇場に當て嵌りさうである。ストリンドベリーは自分の演劇論を実践に移すために、観客百七十五人しかはひらない小さな「親和劇場」を建てたり、室内の出来事をそのまま見せるやうな脚本を書いたりした。彼の考の中には、演劇における自然主義精神が最も典型的に現はれてゐる。
 自然主義近代劇の出現によつて、演技の様式が一変して、旧時代の演技は完全に影を潜めてしまつた。現在ヨーロッパ及びアメリカの演技は、細かい差異はいろいろあるが、自然主義的リアリズムを基調とし、そこから発展したものと見ていい。 ところで、ストリンドベリーの意見は旧時代の演技にたいして革命的であつたが、現在それを無條件で受けいれるのは危険である。それは舞臺におけるリアリズムの基本的な問題に触れてゐるが、前時代の誇張された演技にたいするアンチテーゼ(反対論)として、日常自然の演技を強調するのに傾きすぎてゐる。従つて、一歩誤まると素人主義におちいる恐れがある。舞臺に日常茶飯の調子の低い平板さがはびこることになるし、俳優も素人らしいのがいいといふことになる。しかし、訓練を経ない素人主義はいかなる場合でも優れた演技にはなりえない。
 俳優藝術は前にも言つたやうに、だれでもはひり易い藝術であるが、しかし高い達成にいたることのなかなか困難な藝術である。

(「一 俳優の演技」より)