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推奨の本
≪GOLDONI/2010年8月≫

 雑誌『知性』創刊号 
   河出書房 1938年

 ○官僚獨善の好見本
 近衛首相が行政改革の一案として、官吏任用令改正の意圖を漏したのは、大命降下後間もなかつたと記憶する。一つには官僚獨善の弊風をこれで掃滅し、革新政策の實現を期する意味で、一方に人材登用の指標を示さうといふ深謀からであつた。野の遺賢などといふ呼聲には大して期待も出来ないが、非常時局の進展とともに、益々官僚が獨善性を發揮してゐたし、この小面憎い連中に一擊加へてやることが出來るのだと思ふと、國民には異存のある筈がなかつた。ところが意外なところに反對的気構があつた。樞密院にである。それでも最近やうやく諒解が成つて發令を見る段取りになつたが、最初の腹案はすつかり骨抜きになつて、型ばかりのものになつてしまつたのである。
 例へば、内閣に人事局を設置して相當大規模の効果を擧げようとした計畫も、勅任官特別任用令の範圍を擴大することも、それから、これこそ國民一般が手具脛ひいて待つてゐた官吏の身分保證令の改正といふことも、何處かに影を潜めて、わづかに、經濟財政方面の人物に限り奏任官の特別任用が出來るとか、高等官待遇の本官任用が可能になるとか、極めて小範圍の改正にとどまつてしまつたのである。これでは誰だつて啞然たらざるを得ないだらう。尤も案そのものが官僚自身で立てたのだから、我から首を締めるやうな改正案に眞情籠めて打ち込めなかつたのも當然である。(略)これこそ官僚獨善が獨善の本領を最も露骨にさらけ出した行政非刷新の一例といふべきであらう。近衛首相が折々嫌氣がさすのも故ないことではない。 
 
 ○大學令第一條
 大學及び大學生の問題が引き續き喧しい論議の焦點となつてゐる。大學が最早最高學府として自治的な權威を失つたことに就ては、誰でも認めてゐる。問題は今後どんな進路を取るかにある。然しそれも大方は見透しがついてゐる。學問の獨立・自由などといふことは、近い將來に昔噺になつて、大學令第一條の「國家の須要なる」だとか、「國家思想の涵養」だとか、特にこの點に力瘤を入れた穩健な國士教育が追々行はれることになるだらう。(略)所詮は時代の波濤の中に、過去に保持した輝かしい誇りを沈めてしまふことであらう。斯くて大學も行くところまで行くのである。從つて、東京帝大に於ける經濟學部の紛糾の如き事件は政府の國家的方針が不動である限り、あれを以て最後とするのではなからうか?
 だが、現在の問題は外からの力に依つて動向を支配されてゐることにある。今後教授の任免が相當頻繁に行はれるだらうことは、豫想に難くない。その結果専門教育の良識が假令一時的にもせよ、低下するといふことである。これが學生に影響するところは馬鹿に出來ない。現在でさへも、大學の卒業生に對する社會一般の認識は、これを社會の水準よりも低下したものとして扱つてゐる。
 それがこれ以上低下すれば、大學は専門學校程度、若しくはそれ以下になる惧れがないとは言はれないだらう。さうなれば、大學令が規定する、國家社會に對して負擔してゐる筈の重大な任務などといふものは、空文化されることは瞭かである。これは確かに教授の使命責任の問題以上に、重大な事態であらう。自粛自戒の焦點もそこにあらう。

 ○天才の血は保存したい
 國家總動員法案が獨逸や伊太利の眞似だといふので、議會で非難攻擊の的になつたことは我々の印象に鮮かに殘つてゐるだらう。これも諸列強の眞似
である。厚生省では、精神病、低能者など遺傳性精神異狀者の根絶を期するために「斷種法」の研究に着手したさうである。眞似は眞似でも、これは優生學上から所謂國民の血の淨化を目的として立法するのだから、別に専門的科學知識を持たぬ我々には反對すべき理由もないやうだ。
 しかし、學者の間には相當の反對意見もあるらしく、中には「偉人・天才は精神病者系統に多い」などと言つてゐる。問題がここに觸れると、私なども簡單には賛成出來なくなる。嘗てロンブロオゾオの「天才論」を讀んだことがあるが、これに依ると天才と狂氣とは紙の表裏のやうなもので、何れを何れとも判斷のつかぬやうな狀態にある。藝術の天才などといふものは美術家、文學者、等例外なしに、狂氣と間違はれるやうな要素を、多分に性格や體質の上に持つてゐることが證明されるのだ。
 「斷種法」が實施されたために例へば、ミケルアンヂェロやドストイエフスキーやショパンのやうな偉大な藝術家の血統が斷絶することを想像すると、これは鳥渡願下げにしたい氣がする。藝術の社會がどん栗の脊競べになり、凡才のくだらぬ作品ばかりが跳梁することになつたら、由々しい問題なのである。
(上泉秀信「社会時評」)