2017年05月

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新刊書籍から アーカイブ

2017年05月03日

新刊書籍から《GOLDONI/劇場総合研究所 2017年5月》

『アーサー・ミラー Ⅳ 転落の後に/ヴィシーでの出来事』
倉橋健・訳 ハヤカワ演劇文庫 2017年4月刊

フォン・ベルク 思いませんか、ナチズムというものは……何はともあれ……卑俗さのかたまり、卑俗さの爆発だと?
バヤール それ以上のもののような気がしますがね。
フォン・ベルク (バヤールに、丁寧に)ええ、それはそうです。
バヤール あなたの話をきいていると、奴らはテーブル・マナーが悪いだけ、というような気がする。
フォン・ベルク ええ、まさにそうです。とにかく、洗練されたものを見ると、彼らは腹をたてるのです。頽廃的というわけです。
バヤール どういうことです、それは? 彼らのテーブル・マナーが悪いから、オーストリアを離れたというわけですか?
フォン・ベルク そう、テーブル・マナーと、愚劣な芸術への礼賛、八百屋の小僧あがりが制服を着こんでオーケストラに、どんな曲は演奏してはならんと文句つけるのですからね。国から出たくなるでしょうよ、ええ。
バヤール すると、彼らの芸術の趣味がよくて、テーブル・マナーが優雅で、オーケストラに何でも好きなものを演奏させてくれれば、それでいいというわけですね。
フォン・ベルク しかし、そんなことが可能でしょうか? 芸術を尊重する人間が、ユダヤ人狩りをするでしょうか? ヨーロッパじゅうを牢獄にし、みずからお巡りや犬畜生の役をかってでますか? 芸術的な人間にそんなことができますか?
モンソー ご意見には賛成したいですがね、フォン・ベルク公爵、でも、ドイツの観客はーーあそこで芝居をしたことがありますがーーあんなに芝居のこまかいニュアンスまで感じとってくれる観客は、ほかにはありません。尊敬の念をこめて劇場に座っているのです、まるで協会にいるみたいに。ドイツ人ほど音楽を真剣に聞く者はいません。そう思いませんか? 彼らには情熱がある。

フォン・ベルク (それが事実であることに言うべきことばを失い)そう、そのとおりでしょう。(間)なんと言ったらいいかーー(ひどく途方にくれ、沈みこむ)
ルデュック きっとこういうことをやっているのは、そういう連中ではないのだ。
フォン・ベルク じつは、多くの教養のある人たちが……ナチスになったのを知っている。そう、そうなんです。たぶん芸術では防ぎえないんでしょう。おかしなことだ、人間は或る思想をすぐ当然のことと受取ってしまう。今の今まで、考えていた、芸術こそが……(バヤールに)あなたの言うとおりかもしれないーーわたしにはよく判っていないのだ。実はわたしは、本来音楽家なんですーーもちろん、アマチュアとして。だから政治は絶対に……
(『ヴィシーでの出来事』より)

2017年04月10日

新刊書籍から《GOLDONI/劇場総合研究所 2017年4月》

『岩波講座 現代 2 ポスト冷戦時代の科学/技術』
〔編〕中島秀人 岩波書店 2017年2月刊

6 日本型リスク社会
神里 達博

はじめに
日本にとって「戦後」という時代が実質的に終わったのは、いつなのだろうか。諸説あろうが、阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が起きた一九九五年を、一つの大きな断章と捉えることは、不自然ではなかろう。世界に冠たるものと信じられてきた日本の土木技術の成果が無残にも破壊され、そしてほぼ同時に、未来の科学技術を担う専門家の卵たちがカルトに没入し、世界で初めての「自国の一般市民に対する無差別テロ」を行なったのだ。この二つの事件で破壊されたものはあまりにも多いが、なかでも「専門家への信頼」が大いに毀損したことは、現代社会のあり方を理解する上で非常に重要であろう。
その後、薬害エイズ事件裁判、高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故やJCO東海事業所のウラン加工施設における臨界事故、メガバンクの破綻と金融危機、自動車会社のリコール隠し、ダイオキシン問題、BSE・新型インフルエンザなどの新興感染症や食品スキャンダルなど、信頼崩壊の連鎖は広がっていった。そして気づいてみれば、野口悠紀雄氏が言うところの「一九四〇年体制」は終焉を迎え(野口 一九九五)、しかし次の「体制」ははっきりしないという、いわば「遷移状態」に入ったといえるのではないだろうか。それは、人々が専門知に高度に依存する生活を営みながらも、同時にそれを担う専門家のシステムを完全には信じきれないという、アンビバレントな状況もある。二〇一一年の巨大地震と原発事故の複合災害は、この一九九五年から始まった日本の遷移状態を、誰の目にも明らかな、決定的なものにしたようにも思われるのだ。
(略)こうして私たちの社会は、いつの間にか「リスク」にまとわりつかれるようになった。だが同様な現象は、実は先進諸国を中心に、広く顕在化してきているともいわれる。そのことに最初に注目し検討を行ったのは、ドイツの社会学者ウルリヒ・ベックである。後ほど改めて検討するが、彼が提示した「リスク社会」という概念は、その後、主として欧州で発達し、現在も議論が進んでいるところである。
では、この欧州で見いだされたリスク社会化という現象が、確かに日本でも起きていると考えてよいのだろうか。仮にそうだとして、社会的・文化的条件の異なる日本において、同列に議論することは適切なのだろうか。つまり、欧州と日本を比べた時、リスク社会の様相に相違点はないのだろうか。
このような問題意識を背景に、本章では、過去二〇年の間に日本で起こったさまざまな事件・事故のうち、特に「専門知とリスク」に関わる社会問題を二つ選び、その経緯を詳細に検討する。その上で、日本がリスク社会的状況になりながらも、欧州などのそれとはやや異なる状況にあるということについて議論してみたい。最後に、この状況を乗り越えるために、いかなる方策をとりうるのか、若干の検討を行うこととする。

2017年03月05日

新刊書籍から《GOLDONI/劇場総合研究所 2017年3月》

『わが記憶、わが記録 堤清二✖️辻井喬オーラルヒストリー』
御厨貴・橋本寿朗・鷲田清一=編 中央公論新社 2015年11月刊

鷲田 もう一つ気になるのが、このころの読書傾向です。『本のある自伝』を読んですごく意外だったのは、一九六八、九年は全共闘運動がピークに達したときですが、そのころの学生が読んでいたものと、堤さんが読んでいた本が、ほとんど重なっている。
たとえば思想に関しては、橋川文三からさかのぼる形で、保田與重郎を読んだり、吉本隆明や高橋和巳を読んだりしている。これはどうしてですか。私と堤さんは二十二歳違うのですが、このころ同じような本を読んでいます。つまり、当時は世代間を超えた共通の教養の磁場、あるいは批評文化があったのか、それとも堤さんの世代の読書傾向からすると、堤さんが少し変わっていたのか。

堤 私が学生時代の意識のまま止まっちゃっているのかもしれませんね。意識、関心の持ち方が。だからおそらく、今でもあまり変わっていない。いまの学生よりは少し読んでいるかもしれません。(笑)
たとえば東浩紀君の『郵便的不安たち』も面白かったですね。どうしても気になって読んでしまう。カルチュラル・スタディーズというと、えっなんだろうという感じで本を買ってくる。
だからだんだん同世代の人、あるいは経営者と話が合わなくなる。向こうはどんどん経営者になりきっていくわけですが、こちらはずっと三十代前半の関心でいるから、どんどん離れるのですね。たとえば、経営者にこれは向くだろうなと思って、樋口覚さんの『三絃の誘惑』を薦める。三絃(三弦)は三味線ですから、日本の伝統と革新思想みたいなことを書いています。これなら経営者でも関心を持つと思って薦めて、「どうだった」と聞くと、「難しくてわからなかった」「君、変なものを薦めるな」と言われる。どうしても駄目でした。年とともにそうなります。
経営者は、何と言ってもピーター・ドラッカー、最近はサミュエル・ハンチントン(政治学者)が好きですね。私が「ハンチントンなんて、二流のひどい学者だな」と言うと、変な顔をします。
(第五回 作家活動、三島由紀夫との交流)

御厨 最初の話に戻ります。バブル景気下の堤さんの引退は、同時に辻井喬としての領域の拡大です。なかでも詩がめざましい。一九九二年『群青、わが黙示』、一九九四年『過ぎてゆく光景』、一九九七年『南冥・旅の終り』と詩集が上梓される。詩の世界のなかで、昭和史と自分史を重ね合わせされたように見えたのですが。

堤 そのとおりです。

御厨 それは堤さんにとってどういう意味を持つのですか。私には、経営がうまくいかないなか、堤さんがそれをも含んだ形で詩を書いたという印象を受けたのですが。

堤 そうですね。実は『群青、わが黙示』『南冥・旅の終り』『わたつみ・しあわせな日日』で、三部作にしています。詩を書く者として、生涯の訣別の完了という意識でした。この次はまったく自由な詩を来年(二〇〇一年)になると思いますが、出そうと思っています。
私が行ってきた詩作は、日本の詩壇ではかなり孤立した作業だと思います。なぜなら、日本の詩壇にはそういった歴史意識がほとんどない。思想的なものを作品に反映させる時の流れは、不思議なことに、基本的には途絶えている。こういったものは、金子光晴、小野十三郎、最後はおそらく、田村隆一、鮎川信夫、敗戦直後の『荒地』(第二期、一九四七〜四八年)まででしょう。
その後に出てきた能天気に自分の感性を信用している世代、戦後第一世代は、今や老いさらばえている。感性なんて、歳をとったら鈍るのは当たり前ですから、思想的なものでそれを支えなかったら老いさらばえる。同世代では残念なことに、その姿を現しているものばかりです。
では若い世代はどうか。一つは肉体への信仰。自分の性感覚だとか、匂いがいやだとか、「私詩化」していますね。そこにはコスモスに対する認識がない。詩はその社会の一種のキャラクターを最も先端的に反映する様式だと思うので、ちょっとこれは危機ですね。詩が衰えるときは、その国の文化が衰えるときだと言いますが、そのとおりですね。
(第七回 スカウト失敗、事業の苦戦)

2017年02月14日

新刊書籍から《GOLDONI/劇場総合研究所 2017年2月》

加藤典洋著『増補 日本人の自画像』 岩波書店 2017年

こうして、小林の宣長理解での「漢意」と「大和心」の対位は、学問ー概念的思考ーと日常の生きた智慧ー常識ーの対照を基本構図とする。戦争期を、列島の「庶民」の日常の智慧に自分は立つ、といういい方でくぐり、戦後の民主主義謳歌の時代には、自分はバカだから反省しない、利口な奴はたんと反省すればいいじゃないか、といった彼の戦前と戦後を貫く線は、宣長の、「日常的思考」と解される限りでの「大和心」に、一つの理念的表現を、与えられるのである。
それは、たとえば、宣長に仮託された形で、この宣長論では、こう語られる。

ーー理といふものは、今日ではもう、空理の形で、人の心に深く染付き、学問の上でも、す べての物事が、これを通してしか見られない。これが妨げとなつて物事を直かに見ない。さういふ慣しが固まつて了つた。自分の願ふところは、ただ学問の、このやうな病んだ異常な状態を、健康で、尋常な状態に返すにある。学問の上で、面倒な説など成さうとする考へは、自分には少しもないのであり、心の汚れを、清く洗ひ去れ、別の言葉で言へば、学者は、物事に対する学問的態度と思ひ込んでゐるものを捨て、一般の人々の極く普通な生活態度に還れ、といふだけなのだ。ーー

小林は、いわば、戦後の日本に生きる自分のものを考える足場を、戦前に語られた「日本」ではない、「一般の人々の極く普通な生活態度」におく。それが、彼における、戦前に比べられた戦後の意味であり、それと同時に、彼の戦前から変わらない思考の足場だと、いわれるのである。
しかし、このことを、宣長のほうから見れば、小林は、あの宣長がぶつかった最後の問題に、彼としては、結局、出会っていない、ということになる。
(第四部 戦争体験と世界認識 第ニ章 小林秀雄と「国民」)

2017年01月17日

新刊書籍から《GOLDONI/劇場総合研究所 2017年1月》

東洋文庫『渡辺崋山書簡集』別所興一訳注
平凡社 2016年12月刊行

真木定前宛(八の訓戒)
一筆啓上御安吉被成御在坂奉賀候。
一、面晤の情ニ常を忘スル勿レ。
一、眼前の操迴シに百年の計を忘スル勿レ。
一、前面の功を期シテ後面の費を忘スル勿レ。
一、大功ハ緩にあり、機会は急にありといふ事を忘スル勿レ。
一、面ハ冷ナルを欲シ、背ハ暖を欲スルト云ヲ忘スル勿レ。
一、挙動を慎ミ、其恒ヲ見ラルル勿レ。
一、人を欺んとスル者ハ人ニ欺ムカル、不欺ハ即不欺己とい
ふ事を忘スル勿レ。
右八勿御考奉願候。足下在江戸、大阪の地を踏ミ、出入益審
ナルべし。然らば基本を成丈踏ミ候様祈候。必一時の功、一
時の便宜を御顧有之間敷候。御文通ニて内事御かけ合有之半。
又在留之同席各在寄アリテ、足下の意に不適事もあるべし。
必憤怒スル勿レ。又見留メアラバ、一了見に取計ひも面白シ。
唯後来ト基本とを不忘候ハバ、不中不遠候。頓首
十一月廿八日 渡辺 登
真木十(重)郎兵衛様
(「崋山書簡原文」より)

2011年03月07日

新刊書籍から
≪GOLDONI/2011年3月≫

『公共劇場の10年 ―舞台芸術・演劇の公共性の現在と未来』 
伊藤裕夫・松井憲太郎・小林真理 編
美学出版 2010年

 (略)しかし筆者も地域における芸術拠点(劇場)形成の必要性は、強く意識しているし、求めていることには変わりはない。ではそれは、法制化によらずしてどのように可能なのだろうか? これについては本稿では十分に論じるスペースはないので、以前書いたこと(「演劇人のための文化政策セミナー2 地域公共劇場の成立条件~米国の事例を参考に~」、舞台芸術財団演劇人会議発行『演劇人』17号所収)から要点のみを挙げることにする。
 そこで筆者が取りあげたのは、一九五〇年代後半から一九七〇年代にかけてアメリカにおいてフォード財団が主体となって取り組まれた地域劇場づくりである。それは、基本的な考え方としては地域における非営利かつプロフェッショナルな演劇の育成で、各地で細々と生き残って活動を続けている地域レベルの劇団を、その芸術的ならびに経済的基盤の強化とネットワーク化を通して、各地に「レジデント劇場」(劇場付き劇団ないし専属劇団をもった劇場)を形成していった経緯である。ここで最も参考になるのは、たとえ細々とであれ各地で実際に創造活動している地域レベルの劇団を核にしたことである。そして、そうした地域のコアに対して、経済的な面だけでなく芸術的な基盤の強化――具体的にはネットワークを通した芸術家の交流、新しい試みへの支援、その他プロフェッショナル化に向けての様々な研修などをはかったことも着目すべきところである。
 このフォード財団のやり方は、もちろんそのまま日本で通用するとは筆者も考えているわけではない。まず日本にそうしたプロを目指す劇団が各地に存在するかということもさることながら(実際には鳥取の鳥の劇場や青森の弘前劇場など、決して多くはないが存在する)、最大の問題はフォード財団に当たるような、そうした長期的視点にたった推進母体が見当たらないことである。確かに「劇場」を認定し、そこに国や自治体が重点的に支援するというのはひとつの解決手段であるとは思うが、それを地域の公共文化施設が応えられるとは(ごく一部の例外的施設を除いて)とても思えない。そこで第三の助成制度の見直しという問題も交え、日本における可能性を展望してみることにする。

 (略)このアーツプランは、前述したように、当初は年間の事業計画に三年連続で助成するというきわめて団体助成に近い形態を取っていたのだが、程なくして(たぶん大蔵省=現財務省からの圧力もあって)なし崩し的に特定の事業に対する「重点支援」に変わっていくのだが、その背景には文化・芸術への公的支援の根拠法がなかったこともさることながら、憲法89条問題があると思われる。憲法第89条は「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属さない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」という条項であるが、例えば私学助成についてはこれをめぐって様々な論議があった(一〇年ほど前にも東京都の石原知事が私学助成は憲法違反といった発言をして問題になったことがある)。私学助成については、六〇年代までは憲法の規定もあって一部例外的措置を除いては助成はなかった。七〇年代になって私学の急激な膨張と経営危機が生じ、経常費に対する国庫補助が始まり、法的にも「私学振興助成法」が制定されて合法化されたが、その一方で「公の支配」*4に属すべく、所轄庁による監督も強化された。
 そういうわけで、基本的に自由な活動を前提とする文化・芸術活動への団体助成(経常費への補助)は、少なくとも憲法89条を改正しない限り活動の自由を束縛しかねない問題がある。そこで「劇場法」論議の中では劇場資格を公立文化施設(公立文化施設は「公立」である以上「公の支配」に下にある)に限ったり、芸団協の提案にあるように、新公益法人制度により「公益」認定を受けた団体(民間団体であっても可能)を対象にするとするなどの対応をしているわけである。しかしながら私学助成のように、助成を受ければ何らかの「監督」が生じることには変わりはない*5。

 (略)筆者は、日本の場合、明治末から大正期にかけて全国に数千あったといわれる芝居小屋(これらは地域の人々が株主となって経営はもちろん、興行=企画運営にも参加したという)の盛衰の歴史や、戦後の全国各地で繰り広げられ、今日においても地域においては一定の役割を果たしてきた演劇鑑賞会運動(そこには政治的・イデオロギー的な問題をはじめ、経済的な問題もふくめ、それがストレートに参考にはならないことは承知の上で)の経験、また民間の劇場(特に演劇人が作った俳優座など)の試行錯誤も検討し、フォード財団がコアにした地域のシーズをもっと重視すべきだと考えているが、これについてはまた稿を改めて考察したく思っている。

 注
 *4 「公の支配」については研究者の間でも諸説あるが、最も厳格な説では所轄庁による事業内容や人事への介入までも求めるものもある。
 *5 公的な助成が所轄庁(人によっては「権力」ともいう)の監督(介入)の不即不離の関係にあることは、戦前の「映画法」を見るまでもなくよく指摘されることであるが、だからといってそれを恐れて公的助成を敵視する――本文でも触れたように六〇~七〇年代演劇界はそういう観点から芸術関連団体補助金を拒否してきた――ことはない。しかしそうした側面を忘れて「文化・芸術は人類の宝であるから国は支援すべき」といった脳天気なことを要求ばかりするのもいかがなものか。「スケベ根性が死を招く」こともあることを決して忘れてはならない。
 (「第4章 これからの公共劇場・劇場法についての課題」 ≪昨今の「劇場法」論議を廻って≫<執筆・伊藤裕夫>より)

2010年11月09日

新刊書籍から
≪GOLDONI/2010年11月②≫


 『公共文化施設の歴史と展望』 
 徳永 高志著  晃洋書房  2010年

 1 帝国劇場の成立
 1)帝国劇場と国立劇場
 戦前、日本の劇場のほとんどは、私設劇場であった。その背景には、近世の劇場が神社の付設舞台を除いて私設劇場であり、明治維新後は、神社の付設舞台も、大規模なものは民間に経営が移ったことがある。こうした状況のなかで、1880年代より国立劇場設立の模索が始まる。この時期の国立劇場構想は、全国各地に展開した2000におよぶ既存の私設劇場を前提とすることなく、もっぱら国家の近代化と歩調を一にすることに意が用いられていたと考えられる。それは貴族社会の宮廷劇場が市民社会の成立にともなって国立劇場となったヨーロッパの多くの例とは異なっていた。すなわち、伝統的な私設劇場を踏まえず、もっとも公的な劇場の建設が企てられたのである。結局、戦前に国立劇場が設立されることはなく、辛うじて構想の一部が「帝国劇場」という私設劇場として実現したに過ぎなかった。国立劇場は、戦後の1966年に、伝統芸能に限った劇場として設立された。(後略)

 2)国立劇場構想の前提
 近世においては、芸能者は身分的に低い位置に置かれていた。全体として、弾左衛門や車善七手下の支配であり、また興行権もにぎられていた。穢多身分や非人身分ではない芸能者もそれに準ずるあつかいを受ける者が多かった。江戸時代における芸能者の頂点にあって武士に近い身分であったといわれる幕府能役者ですら扶持米「猿楽扶持」として最下等の米が支給されたうえに観世太夫は浅草新堀川の「常浚」の役を負担しなくてはならなかった。
 それでも歌舞伎役者の一部は、竹光ではあったけれども帯刀し、一般民衆の及びもつかない高収入を手に入れた。「千両役者」との言葉があるが、実際に、寛政期には何人もの千両役者が誕生している。そして身分をこえた人々から熱狂的な支持を受けたのである。この状況は幕府の容認すべからざるものであった。幕府は江戸における芝居を「江戸三座」に限定し、猿若町にあつめて囲い込んだ。また、天保期以降、それ以外の地域における「遊芸」「歌舞伎」「浄瑠璃」「狂言」「操」「相撲」や神事・祭礼の際の「芝居」「見世物同様之事」で見物人を集めることを、浪費につながり風俗がみだれるとして、たびたび禁止している。幕末には、江戸以外の地域から猿若町に芝居見物に来るのすら禁止していた。民衆が封建的抑圧のなかで、芝居などの芸能に自己解放の期待を込めるのを恐れたのであった。
 この方針は、明治維新後も直ちに転換されることはなく、既存の劇場と芸能に対する忌避と抑圧を前提として、近代日本の劇場製作や国立劇場論もスタートすることになる。(後略)
 
 2 国立劇場の構想
 3)未完の国立劇場
 近代日本における国立劇場論は、おおむね次のような変遷を遂げた。すなわち、①明治初年の欧化主義のなかで、ごく一部の要人が国立劇場を体験した時期、②1880年代以降の演劇改良運動の隆盛下、演劇の近代化を構想する一環として国立劇場を考え始めた時期、③20世紀に入り、大都市部の劇場が帝国劇場という私設劇場として実現する時期、④地方にいたるまで劇場の建設がすすんだことを背景に、演劇を啓蒙の手段として積極的に捉え、その一助として国立劇場の推進が唱えられた1920年代(1930年代後半の構想も総動員体制下の思想善導という側面はあるものの広い意味で同じ文脈で捉えられよう)、⑤戦後、文化国家建設の礎として、幅広い芸能を対象とした国立劇場が考えられていた時期、⑥高度経済成長の開始により国民生活が変化し、急速に衰退した伝統芸能の維持発展の方途として国立劇場が実現した1960年代、という変遷であった。とくに②④⑥の時期に、国立劇場は国家の威信を体現するものとの議論が盛んとなり、そのために、しばしば国立劇場が誰にどのように運営され、いかなる芸能を上演するかという議論は後景に押しやられた。
また、国立劇場をめぐる議論には、1890年代には日本的伝統と欧化という2つの要素が混在し、1920年代になるとそれに3つ目の要素として国民の啓蒙が、戦後は4つ目の要素として文化国家の強調が加わった。これらのレベルの異なる要素は、1990年代まで十分に整理されることはなかった。
(「第5章 国立劇場の系譜」より)

2010年11月02日

新刊書籍から
≪GOLDONI/2010年11月①≫


 『モーツァルトの台本作者―ロレンツォ・ダ・ポンテの生涯』
 田之倉 稔著  平凡社新書  2010年

 そして、この時期に書かれたダ・ポンテのすべての台本を凌駕するオペラが誕生する。≪ドン・ジョヴァンニ≫である。正確にいえば≪罰せられた放蕩者、あるいはドン・ジョヴァンニ≫、ドランマ・ジョコーザ、二幕、作曲モーツァルトである。≪フィガロ≫と同じく、台本作家を選んだのはモーツァルトであろう。
 「モーツァルトはプラハに招かれ、指揮者兼ピアニストとして音楽狂揃いのプラハ聴衆の前に登場し、≪フィガロ≫の絶大の成功を肌身で感じる体験をするが、そのとき現地の座元で劇場賃貸人のパスクワーレ・ボンディーニから、一七八七年の秋シーズン期に新しいオペラを作曲してほしいと依頼されるのである」(リヒャルト・ブレッチャッハー『モーツァルトとダ・ポンテ』小岡礼子ほか訳、アルファベータ)。それが≪ドン・ジョヴァンニ≫だったのであるが、ダ・ポンテはモーツァルトのほかサリエリとマルティンという大物にも台本を依頼されていて、いまや売れっ子の台本作家となっていたのである。さすがにヨーゼフ二世も、三人に同時に台本を書くなどという芸当はできるかと心配したが、ダ・ポンテは「やってもます」と自信をもって答えた。こうして三人用台本の執筆が同時進行した。(略)≪ディアーナの樹≫の初演後、ダ・ポンテはプラハへと急いだ。「私はこの作品に出演する俳優たちを指導するべく同地に八日間滞在した」と書いている。ただ初日には立ち会わなかった。
 現代ではオペラや演劇のみならず、あらゆるパフォーマンスに演出の要素は不可欠であるが、これは明らかに近代的な概念であり、われわれはみなこの概念に縛られている。ところがモーツァルトの時代はどうか。誰が演出しているのかさだかではない。おそらく作曲家だったり、指揮者だったり、あるいは劇場支配人だったりしたのだろう。ところが右のような記述を読むと、台本作家も演出の一端を担っていたことがわかる。
 

 コンメディア・デッラルテとは、起源、実態、活動の時期、劇団構成、上演作品など不明な点は少なくないが、一応十六世紀中頃、北イタリアのある地域で形成されてきた演劇ジャンルということになっている。俳優たちはパンタローネ、アルレッキーノ、イル・ドットーレといった役名をもち、仮面をつけ、主として即興喜劇を演じた。戯曲の形をとった台本は少なく、多くは簡単な筋書きをもとに俳優たちが物語を作っていた。 
 そのほうが度重なる上演に好都合だった。また役柄は決まりきったものが多いが、それは役名に社会的地位が表象されていたからである。例えばパンタローネは貴族とか裕福な商人とか、支配する側に属するもの、アルレッキーノ・プルチネッラは下僕、家来といった、支配される側に属するもの、イル・ドットーレは学者、弁護士、医者といった知識を手段に生計を立てているもの、といった具合に。軍人をパロディにしたカピターノという役柄もある。下僕や家来にもさまざまな役名がある。要するにコンメディア・デッラルテのコンセプトは、何人かの社会の階層を表象する役によってある世界を実現できるというものだった。類型の集合体が世界だというわけである。類型化した世界を持ち歩いて、演劇的イメージを広めてまわったのが、移動巡業型の劇団だった。コンメディア・デッラルテはバロック時代の世界像にぴったりの演劇ジャンルだった。
 コンメディア・デッラルテの隆盛はイタリア北部で見られたが、南部の民衆劇にも大いなる影響を与えた。とくにナポリでは地場のプルチネッラ芝居と混交し、十七世紀から十八世紀にかけて次から次へと喜劇作品を産出した。筋書きが紋切り型で、同工異曲の作品というジャンルの性格が、膨大な数の生産をうながした。オペラ・ブッファが胚胎してきた文化的背景はこのようなものだった。この喜劇的オペラ、神話物語や史劇によらない世俗的なオペラがナポリで生まれたのは、プルチネッラ芝居の盛んだった土地柄と関係があったのである。ドン・ジョヴァンニものもこうした地芝居の定番の一つだった。
(「第二章 オペラ都市ウィーン」より)

ドン・ファンはカトリシズムという宗教的コンテクストがあってこそ精彩を放ったのだが、ピルグリム・ファザーズを先祖にもつピューリタンにとっては負の存在である。倫理にもとる、退廃的人物である。一夫多妻を信奉するかのような、女性蔑視を内包した思想の持ち主は、ピューリタンの敵である。こうした人物は新しい価値体系を構築しつつあったあたらしい世界には必要ではないばかりか、否定すべき対象であった。ダ・ポンテも、ニューヨークのピューリタン的な風土を肌に感じていたので、ヨーロッパ文化の内部でどんなに重要な要素を持っていたとしても、「ドンジュアニズム」は受容されないと判断していた。≪ドン・ジョヴァンニ≫再演の実現性はうすかった。
 どれほど豊饒な文化を生み出していようとも、十八世紀ヨーロッパは「アンシアン・レジーム」だった。ピューリタニズムはそれを乗り越えた文化だった。アメリカは「ドン・ファンもの」ばかりか、バレエも受け入れなかった。イタリアやフランスの宮廷バレエは、主流がバロックからロマン派になるにつれ、バレリーナの衣裳は身体の線や形を強調するようになった。こうした舞台美術はとてもピューリタンの精神には容認しがたかった。それにバレエもオペラも社会の階級性になんら疑義をしめさなかった。王族や貴族と富裕な市民がパトロンであり、その芸術は彼らによって形成されてきた。ヨーロッパでは文化のアンシアン・レジームは革命によっても覆らなかった。ところがアメリカはちがった。革命的精神は、政治であれ、文化であれ、アンシアン・レジームと関係があるものは忌避した。共和制への共感は広がり、女性の対等性への認識も芽生えてきた。女性に対するドン・ファン的な態度は認められるはずもなかった。
(「第四章 時代はアメリカへ」より)