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『提言と諌言』 アーカイブ

2010年03月08日

劇団が国の補助金を受けるとこうなる 日刊ゲンダイ2月25日

「ふるさときゃらばん」破産の報道に触れて
 2月23日付けの読売新聞、朝日新聞など一般紙の報じるところによれば、株式会社「ふるさときゃらばん」とその関連会社が、東京地裁に自己破産を申請して、破産手続き開始の決定を受けていたことが22日にわかった。その負債総額は2社合わせて6億47百万円、劇団員約40人は解雇された、という。この「ふるさときゃらばん」は1983年に統一劇場から独立、各地の青年団や婦人グループなどに働きかけて実行委員会方式で全国公演を展開、ピーク時には年間二百ステージ近い活動だったが、不況のあおりを受け、企業などのスポンサー確保が難航、国土交通省などの官庁の委託による橋や道路整備啓発のイベントや公演製作で劇団維持を図っていた。一昨年、国土交通省の道路特定財源から『みちぶしん』(道普請)という作品の製作費が使われていたことが国会で追及され、03年から07年まで(95件、約五億八千万円)続いていた公演が中止され、経営が成り立たなくなったようだ。
 大衆紙の日刊ゲンダイでは、2月25日付けでこの問題を取り上げている。
題して、<「ふるさときゃらばん」を破綻に追い込んだガソリン税キャンペーン/劇団が国の補助金を受けるとこうなる>。
 記事には、「絶頂だった劇団が<転落>のきっかけになったのはガソリン税(道路特会)に手をつけたこと」とあり、国交省関係者や他の劇団主宰者の話などから、社会の矛盾やサラリーマンの悲哀という社会のひずみをテーマに扱っていた劇団がその特色を棄て、行政の補助金にすがって行政施策の宣伝隊、旗振り役を務めてしまったこと、そして委託費支出が問題視されて公演が中止になり、大きな収入の柱を失ったとあった。
 また、記事によれば、ツルハシを持った作業着姿の男たちが、「道路を造れ道路を造れ」「道路走って世界を開く。道路は新しい時代をつくる」などと歌うというから、なかなかあっぱれな道路整備啓発・宣伝ミュージカルである。
 「ふるさときゃらばん」破産の新聞報道に触れ、かつて真山美保が作った「新制作座」、そこから独立した「統一劇場」などの学校公演を活動の柱とする日本共産党など旧左翼勢力に近い学校巡回劇団の名を思い出した。新制作座は1950年の設立から現在も活動中だが、1965年に創立した統一劇場は1983年に「ふるさときゃらばん」「現代座」など3組織に分裂している。
 私自身も、中学と高校時代に区立ホールや一橋の共立講堂だったかで、「新制作座」と「統一劇場」の公演を学校の視聴覚教育の一環で見せられている。子どもの頃の思い出を殆ど忘却している今も、あの経験を思い出すと寒気だつほどだ。宿題やレポートが出来なくて単位を落とす夢でうなされる、ということは無くなったが、あの演劇体験が夢に出てきたらと想像するだけで恐ろしい。
 二十年近く前のことだが、社団法人日本芸能実演家団体協議会の懇談の席に呼ばれたことがある。その終盤までは出席していた新劇団、児童劇団、舞踊団などがそれぞれに構成する団体の代表者の意見をひたすら拝聴していたが、最後に舞台芸術による社会貢献について発言するように求められ、「いろいろご意見を伺ったが、国は文化にもっと助成しろ、文化省を作って予算を大きくしろ、との皆さんのご要求は如何なものか。些か説得力がなく、自助努力を忘れた話である。それよりももっと本質的で有効な社会貢献策がある。それは、即刻皆さんが劇団や職能団体を止めることである。演劇で言えば、全国の児童・生徒が演劇嫌いになる理由は、レヴェルの低いあなた方の劇団の巡回公演を見せられるからだ」。要旨はこんなことだった。当然だが団体の長たちの反応は凄まじいものだったが、隣席の東京バレエ団代表の佐々木忠次氏だけは笑っておられた。
 後の日本近現代演劇史に名が残るであろう先達たちへの早い時期からの私の諫言は生かされることはなかった。取って付けたような借りものの「文化政策」やら「公共性」やら「公共劇場論」に縋り、自助努力を忘れ、税金のばら撒きによる助成金に群がる舞台芸術の集団や舞台人の行状を二十年近く見せられてきたが、この「ふるさときゃらばん」の破産は、舞台芸術団体の先行きを暗示している。「文化予算を拡充しろ」「文化庁を文化省にせよ」などと主張した哀れな先達の残党が、こうやって消えて行くことについては彼らの批判者ではある私も複雑な思いでいる。そして、また近いうちに、かつての大手新劇団、舞踊団などが、この「ふるさときゃらばん」と同じように悲惨な終わり方をするであろうことにも、だ。
 「劇団が国の補助金を受けるとこうなる」。厳しいが時宜を得た見事な小見出しである。

2010年02月04日

赤穂浪士切腹の日に

小山田一閑、岡林杢之助の自刃
 
 義徒に関係があって、一挙の後、節に死んだ者が両人ある。ここにこれを言及するの必要を認める。
 その一人は小山田一閑と称する八十一歳の老人である。彼は初め十兵衛と称し、浅野家に仕えて百石を食し寔に律義な定府の士であった、が、老年に及んで、家督をその子庄左衛門に譲り、一閑と号して隠居し居た。既にして主家の凶変となったので、一旦町屋に退いたが、さすがは一閑平生の教訓があるので、庄左衛門は義盟中の一人となり、当初は熱心に復讐の議に参預し居た。一閑これを視て、心に喜び、その身を娘の方に寄せて、僅かにその日を送りながらも、何時かは本望の成就するようにと祈っていた。折から一党復讐の快挙は発し、その評判は八百八街に拡がった。誠忠なる一閑はホクホクと打ち笑み「さては亡君の御鬱憤を散じたか。ヤレヤレ嬉しい。伜も必らず一党の中にいるはずでおざる」と、疑いもせず、人にも語った。すると一党の人名録は読売りとなって、市中に散布する。一閑これを手に把って、打ち反し打ち反しその書を覧れども、生憎にして伜の名が見えぬので、いかなる訳ぞと疑い疑い、段々これを探ってみれば、あるべきことか、同僚片岡源五右衛門が金品までも拐帯し、一挙に先だって、早くその姿を匿したとのことに、彼は胸を拊って痛恨し「この歳までも生きながらえて、かかる恥辱に会うことか」と、一間にジッと閉じ籠り、壁にその身を寄せ掛けながら、脇差把って、胸許から後ろの壁まで突き貫き、そのままにして縡切れていた。ああ庄左が陋劣は悪みてもなお憎むべきであるが、一閑の義烈は永く四十六人とその芳を比すべきである。

 今一人は岡林杢之助である。彼は幕府の旗下に小十人頭にて、禄千石を食する松平孫左衛門の弟で、つとに岡林家の養子となり、赤穂において千石を食し、番頭を勤めていた。番頭といえば、一方の軍隊長、戦時には各々一方を承って討って出ずべき職務であるから、その地位は家老につぎ、岡林家の禄高のごときは、むしろ仕置家老の上にあった。そもそも浅野家の軍制として、番頭たる者は同列協議して、進退を倶にし、一個随意の行動を許さぬというにあった。これはいかにも美法であって、戦国の時代には英物が多い。ややもすれば抜駆けの功名に夜討ち朝駆けなどを試みたがる。ために全軍の策応を誤る虞れがあるからである。ただしこれは戦時の遺制で、太平の時代には時に変通を要するのである。いわんや主家興廃の際などにおいてをやだ。ところが杢之助は性質醇良な上に、坊ッチャン育ちで、これらの理義を明らめなかった。同列の腰抜け連はそこに付け込み、彼を制して籠城論に加担させなかったのである。それで彼は近藤源八らと行動を倶にし「自分においては籠城の御評定至極御尤と存ずれど、番頭としては一個随意の去就を許されぬ御家法でおざれば、心底にも任せませぬ」と会釈して、俗論党と倶に退去した。
 既にして一藩は開散したので、杢之助は江戸における実家に帰り来て、兄の許に寄食した。顧うに義徒にあっても、彼を憎むほどでもなかったろうが、肉食の輩倶に議に足らずとして、その後の密謀に加えようとも思わなかったであろう。結局はこれを度外に置いたのである。それで彼は晏然として無意識に暮らしていた。すると今回の一挙は発した。「君父の讐は倶に天を戴かず」と公表して、四十七人敵営を斫り、目ざす上野介が首級を挙げた。看れば大石内蔵助のほかは、皆自分より下格の士、中には五両三人扶持の徒横目列までも交っている。「これは相済まぬ。このままにてはいられぬ」と深くも自家の放漫を悔恨し、十二月二十八日見事自裁して死んだ。当時の噂では親族から逼って詰腹を切らせたとの説もあった。自分はこの死の自裁であると詰腹であるとを問わず、注目すべき一の出来事であると思う。というはかつて政事的責任のピラミード論において論じたごとく、かの快挙の時代までは、君国のためには一命を棄てて報効せねばならぬという責任を、比較的上流の士が負うた。すなわち武士道はなお当時の中流以上の士に存していた。岡林の自殺は最も善くこれを証明する。それで自分は彼の自殺をもって、決して徒死でないと称揚する。
(『元禄快挙録』福本日南著 岩波文庫 より) 

 

2010年02月02日

ミュージカル「エビータ」に映る日本の危うさ(2)

「エビータ」を観劇して、エビータと鳩山首相を、アルゼンチンと日本を重ねて感じた観客が多かったのではと思う。産経の論説委員氏は、「国有化断行」「賃金・公共支出拡大」「福祉増額」などのプラカードを持つ群衆の出る場面で、<『子ども手当』や『国債乱発』を加えたら、鳩山さんと同じだね>」との観客席でのささやきを耳にしたと書いているが、私も、休憩時のロビーで、「まったく民主党の政策は、アルゼンチンと一緒だ」とか、「鳩山民主党とペロン夫妻は同質だ」などと語り合っている観客の声を聞いた。母親から僅か7年で12億6千万円を超える脱税を企図した疑いの残る贈与を受けながら、その贈与自体も知らなかったと繰り返し、「月1500万円の子ども手当」「親不孝」「マザコン」「脱税」「無能」「政治家失格」のレッテルが定着した感のある鳩山首相、自ら国民から「冷笑を受けている」と語るほどの天晴れだが、自由劇場のロビーで耳にした声は、こんな人物が「政権交代」だけを叫んで勝利した夏の選挙から5か月の民主党政権の体たらくに、「冷笑」ではなく、もっと深い苛立ちや怒り、失望を含ませてのもののようだった。
 「友愛」をキャッチフレーズにしている鳩山首相だが、エビータも「友愛」好きである。1946年の大統領選挙で圧勝したペロンと共に大統領宮殿に立つエビータは歌う。
「…今の私の心が求めるのは あなた方の愛 ただそれだけ こんな所で着飾っているけれど 信じてください …」
「…今日 みんなが願うものはただひとつ 今まで変わらず 結びあってきた絆 それは愛だけ 共にいて仲間達…」
「…お話する事はこれだけなの たったひとつの そうたったひとつの 真心を あなたのもとに…」
 相続、贈与などで蓄えた個人資産が百億円に迫ると言われる金萬政治家と、田舎町に私生児として生まれ、野心と美貌を武器に、男と権力を踏み台にのし上がるエビータ。あまりに対照的な二人の育ちだが、「友愛」「命」を強調し、麻生前首相も顔負けの飲み屋料理屋などでの遊興三昧、「こんな所で着飾っているけれど信じてください。願っていることは愛だけ」と歌うエビータのように、「こんな良い暮らしをしているけれど、こんな所で遊興しているけれど、信じてください。願っているのは友愛だけ」と言われても、昨夏に民主党を勝たせ、数ヵ月後には失望してしまった多くの国民の心には届くまい。 
 「エビータ」の二幕後半で狂言回しチェの歌う詞は暗示的である。
「…金は出ていくどこまでも ばらまき福祉が首を絞める かまやしないさみんなが喜ぶ どこから集めようと金に変わりはないからね 慈善事業に帳簿はいらない 良いことするのに数字は邪魔 ばらまけ すべて 我らがエバ・ペロン…」。

2010年02月01日

ミュージカル「エビータ」に映る日本の危うさ(1)

<「エビータ」の世界と鳩山政権>  産経新聞1月26日 

 1月26日(火)の産経新聞1面『明日へのフォーカス』(高畑昭男論説副委員長執筆)を興味深く読んだ。劇団四季のミュージカル公演『エビータ』を観劇した記者は書く。<公演の歌や踊りも素晴らしかった。だが、中でも印象に残る圧巻は、ペロン大統領とエビータ夫人が労働者階級を抱き込んでポピュリズム(大衆迎合)政治に突き進む場面だった。労組や大衆組織と組み、危機をあおって権力を固めていく。背景に「国有化断行」「賃金・公共支出拡大」「福祉増額」などのスローガンを大書したプラカードが舞台狭しと並ぶ。見ていると、なぜか今の民主党政権の姿と二重写しに見えてくるのだった。>
 また、<半世紀以上前のエビータの舞台と現代の鳩山政権の類似は、ほかにもある。「弱者を救う」との建前で始まったペロンとエビータの強引な政治は、やがて腐敗とスキャンダルにまみれていく。今の国会も、鳩山首相の母親の献金問題と小沢一郎・民主党幹事長の政治資金疑惑で大揺れだ。政権与党のツートップが連日追及される中で、いくら首相が「国民の命を守る」「国民生活第一」などと訴えても説得力がない。>と厳しく民主党政権を批判する。
<富裕層から容赦なく資産を取り上げ、大衆にばらまく迎合政治を展開>し、<成長戦略もないまま、産業国有化や管理貿易など無謀な国家社会主義的政策を強行>、<経済は崩壊し、瞬く間に国家と国民の心を荒廃させてしまった>ペロン、エビータとアルゼンチンに、小沢、鳩山の民主党政権、そして将来の日本の姿を重ねる。一般家庭は生活コストを切り詰め、中小企業主は僅かな損益を争って身を切る思いで働いているにもかかわらず、権力の頂点にいる二人が数億円のお金が目の前を行き来していても「知らぬ存ぜぬ」では政治家失格だと指摘する。

 <ミュージカルの世界なら、幕が下りれば観客は現実に返ることができる。だが、このひどい政治に幕が下りるのはいつのことなのだろうか>と記者は結ぶが、果して、このひどい政治に幕が下りる日が来るのだろうか。 

2010年01月15日

保阪正康著『後藤田正晴』に学ぶ

 年末から年始にかけての数日、磯田光一著『戦後史の空間』(1983年、新潮社刊)、保阪正康著『後藤田正晴―異色官僚政治家の軌跡』(1993年、文藝春秋社刊)を再読した。『戦後史の空間』は、3日の『推奨の本』で取り上げたので、今回は『後藤田正晴』について少し触れる。
 
 ―いずれにしてもいまの四十代、五十代の政治家が次代を担っていくわけですが、この世代についてお考えになっていることはありますか。つまり政治家として成熟していく可能性についてですが…。
後藤田 そう、全体的にドライなのかもしれないけれど、もうすこし礼儀というものをわきまえないといけない。たとえば言葉づかいとかね。また、大きな意味で欠けているものがあるように思う。それは何かということになるが、なかなか日本語になりにくいけれども、たとえば、この前もある若手の代議士にいったんだけど、「君はガアガアいっておるけれども進むということだけしか知らない。君は一歩退くということがなさすぎるよ」ということなんだ。自己主張はきちんとするけれど、それがいい面かもしれないが、だけどそれだけではいかんわな。世の中には長幼の序とか、けじめといったものがなければいかん、と思っている。
 ―政治を託すというのには不安な面があるという意味ですか。
後藤田 いやあそういう意味じゃない。私は何も道徳家であれ、といっているのではなく、政治状況の腐敗を正そうとするなら、相応の姿勢が必要だといっているわけでね。実際、有能でバランスのとれた者もいるからね。そういう代議士には期待しているということだ。私の世代だって、上の世代の疲弊を正すために懸命に生きてきたし、日本を復興させることに努力をつづけてきた。それがここにきて、新たな疲弊が生まれている。これを正すために、新しい時代にむけて情熱をもって歴史の中で生きてほしいという願いを私は強くもっているということだね。
 
 後藤田はときに自民党のニューリーダーと称される人物の名をあげ、その長所と短所を指摘した。あるいは他の政党指導者についても好悪の感情を洩らした。そういう指摘をしながら後藤田は、<歴史を託すに値する指導者>をしきりに求めていることが窺えた。(「終章 幻の「後藤田内閣」」より)

 <歴史を託すに値する指導者>としての政治家を見出せない現在の日本の不幸は、何も政治の世界だけの話ではない。芸術であれ、演劇であれだが、その世界への造詣も嗜好もなく、自弁では鑑賞すらしない文教族議員や文部科学省官僚達と懇ろになり、税金ばら撒きの助成金にありつき、文化庁の予算や施策にまで口を出す演劇人の跳梁跋扈は、「成熟しないお子ちゃま」や「長幼の序を弁えない」政治家の出現に比べて些細なことのように映るだろうが、これも「日本の不幸」のひとつである。
 「この国のあり方」に思いを致し行動することが政治家の務めだったはずだが、これは残念ながら四半世紀前の1980年代中頃には終わったようだ。
 来週の初めには、首相の施政方針演説がある。昨秋の臨時国会で行われた「所信表明演説」では、演説終了後に民主党議員が総立ちして拍手するという、ヒトラーユーゲント顔負けの愚劣な演出まで用意した側近たちは、この週末はどんな演出を考え、振付をしているのだろうか。そのことが国民を愚弄することだと気付くことなく。
 演出も振付も無用である。それよりは、保阪氏の言う<歴史を託すに値する指導者>として、「この国のあり方」に思いを致し行動する政治家の軌跡に学ぶことが大切であると思うのだが、「政治状況の腐敗」の当事者たちには馬の耳に念仏だろう。 


 ―中曽根は、日本に戻るやすぐに施政方針演説の草案づくりに没頭した。この草案づくりは組閣時から進めていたが、中曽根と後藤田の間にはその内容をめぐってぎくしゃくした面があった。当時の官邸詰め記者の話では、中曽根は一期二年という期間を想定していたために、三十年余の政治生活の思いをぶちまけるように、戦後政治の見直しを大胆に主張したかったというのだ。根っからの改憲論者である中曽根は、そのことも濃淡の差はあれ、この機会に訴えておきたいと思った節もある。
 後藤田が、そのような中曽根のブレーキになった。
 後藤田は積極的な改憲論者ではなかった。むしろあの占領期を肌身で知っているがゆえに、そして戦後はこの憲法をもとに日本の再興があったと考えているがゆえに、「僕は憲法を評価しているよ。日本の社会は全体としてはよくなっている。(占領軍の押しつけという論もあるが)その点は議論が分かれるところだ。見直せという論もわかるが、それに伴うリアクションの大きさも考えなければならない」というのが持論だった。『後藤田正晴・全人像』によると、後藤田は、「(憲法)九条はこのままでいいと思うのですね」という問いに次のように答えている。「うーん。難しいね。今のような国会答弁だと、自衛隊が認知されたような、されんような、そんな可哀想な状態で、命を捨てる仕事がどこにありますか。将来、国民が変えたらいいといえば、変えればいい」
 後藤田は、憲法改正を政治日程にあげ、国論を二分する争いをひきおこすような事態は好ましくない、と断言している。しかも、少なくとも太平洋戦争にかかわった世代の者が徒らに憲法改正を口にすべきではないというのがその持論である。平成三年のPKO議論の際の後藤田の発言は、一貫して「憲法を守れ、安易に自衛隊を海外に出すな」というものであった。中曽根内閣の初期にはタカ派といわれ、平成三年からはハト派といわれる、その世評の変わりように後藤田は、「君、僕自身は何も変わっとらんのだよ」と苦笑するのである。
 後藤田は、中曽根の説く「戦後政治の見直し」に、改憲を除いては賛成であった。実際、占領政策、五五年体制以来のさまざまな政治的局面を見直すべきときにきていると考えていた。
 中曽根は、後藤田も推敲に加わった施政方針演説で、経済大国になった日本は、いま戦後史の転回点に立っているといった。そして、これまでの制度、仕組、考え方などについてタブーを設けることなく、新しい目で率直な気持で見直していくべきだ、と力説した。その中には、アメリカでのレーガン大統領との友好的な会話をもとにして、日本もアメリカと対等な関係を持つべきだ、という主張も含まれていた。確かに大局的な状況と方針を語る語は幾つもあったが、改憲といったような具体的な政治方針は含まれていなかった。
 後藤田が中曽根にブレーキをかけて、そうした具体的な施政方針を盛りこませなかったのだと、当時首相官邸周辺では語られた。もっとも後藤田自身はこうした推測については一切語ることがなかった。(「第六章 官房長官の闘い」より)

2009年12月14日

「討ち入り」の日に


 『元禄快挙録』上・中・下三篇(福本日南著、岩波文庫)を一年ぶりに読んだ。今回はその下篇から採録する。

 同じ義徒の中にて、磯貝十郎左衛門正久が老母の重病に陥り、今にもむつかしいというのを後に残し、憤然として意を決し、一党と倶に讐家に討ち入ったことは、前に早く講じた通りである。その母は芝将監橋の近傍にある籏下松平氏の長屋に住む兄内藤万右衛門の許に養われていた。あたかも好し一党は泉岳寺へ引き揚げの途上、金杉橋からこの将監橋へは一走りである。有情の統領大石内蔵助は今しも殿して来る十郎左衛門を呼び、
 「貴殿御令兄の住宅はつい近傍ではないか。一走り行きて母上の御容態を見舞うてまいられい」
と注意した。十郎左衛門これを辞謝し、
 「御親切の段千万忝のうはおざりますれど、一旦志を決して参った上は、最早私親など省みるところではおざりませぬ」
と言い切った。堀部弥兵衛老人なども、また傍から口を添えたが、固く執ってこれを聴かず。そのまま衆と泉岳寺へと赴いた。
 後に細川邸に御預けの日、弥兵衛老人このことを挙げて、同邸の藩士堀内伝右衛門に語れば、伝右衛門は感嘆し、更に十郎左衛門に向かって、ひたすらその心掛けを称揚した。すると十郎左衛門はこれに答え、
 「いかにも同志の人々から、一目母に逢うて参れと勧められてはおざりますれど、第一異様な扮装にて、たとい御小身とは申せ、舎兄御奉公いたし、したがって老母もおりまする邸内に立ち入ることは、その御家に対し無躾の義と存じ、第二には好し暫時なりとても、いかようの変事出で来たらぬとも測られず、その際に居合わせずば一期の不覚とも存じ、ついに見合せた次第でおざる」
と語りながら、
 「さりながらただいまとなりて考えますれば、あのように無事に引揚げが出来たくらいなら、人々の勧めに任せ、一目母に逢うて参れば好かったになど、ちと慾が出て、少々後悔の気味もおざりまする」
と言いさして、後は笑いに紛らした。
 ああ彼や年歯僅かに二十四歳、公には蛮勇義に徇え、武士の面目を汚損せざらんと競い、私には念々母を憂い、人子の本懐のついに遂げざるを悲しんだ。その心を用いる良苦なりといわねばならぬ。
 (「二三九 磯貝十郎左衛門の言動」より)

 そもそもこの快挙たる、事成らざれば、火を吉良の一邸に放ち、猛火のうちに腹掻き切って、そのまま先君の後を追うべく、事成るの日は、公儀に訴え出で、謹んで御公裁を仰ごうとは、日頃から一党の約束であった。それで泉岳寺へ引揚げの途中から、内蔵助は吉田忠左衛門兼亮と富森助右衛門正因の二人を大目付仙石伯耆守久尚の邸に遣わした。それもそのはず、赤穂の一藩中で、その言語明晰にして、四方に使いして君命を辱かめぬ者は、先輩で吉田、後輩で富森と称せられた。特に吉田は一党の副統領であるから、内蔵助は自家の名代に立て、富森をこれに差し添えたのである。これによって忠左衛門が討入りの際から「浅野内匠頭家来口上書」の一通を懐中し得たのが知れる。
 両人は即刻一党に引き分れ、各々手槍を杖づきながら、愛宕下仙石邸へと赴き、槍を門前に立て掛けおき、つと入って案内を請うた。
 「われわれは赤穂の浪人吉田忠左衛門、富森助右衛門と申す者、同僚四十余名と倶に昨夜吉良家に討ち入り、亡主の讐上野介殿の首級を申し受けて、ただいま高輪泉岳寺迄引き揚げ、御公裁を仰ぎ奉らんがために、われら両人参上いたしておざりまする。委細のことは伯耆守殿に拝謁を願い、お直に申し上げとう存じまする。この旨何とぞ御執達下されたい」
と申し入れた。
 と睹れば両人ともに武装のままである。これは容易ならぬ事件が起ったと、同家の士は急ぎ伯耆守に取りつぎ、
 「如何いたしましょうか」
と伺うた。さてはと伯耆守は打ち首肯き、
 「直々会うから、広間へ通せ」
と指図された。この旨両人に通達する。両人は、
 「あり難う存じまする」
と一礼し、いずれも両刀を脱して前の士に交付し、案内に連れて、広間に打ち通る。貴人に対する両人の動作に、侍者は先ず感動した。間もなく伯耆守は出で来たられた。忠左衛門は謹んで亡主の鬱憤を散ぜんがためにこの挙に出でたる顛末を陳べ、さて
 「最早本懐を達しましたる上は、一同切腹仕り、相果て申すべき義におざりますれど、御膝下の土地と申し、かつは高家御歴々の方を、私に討ち取りましたる段、公儀に対し奉り、恐れ入ったる次第におざりますれば、一同亡君の墓前に聚まり、御公裁を仰ぎ奉らんがために、自訴し出でましておざりまする。委細はこの口上書にて御賢察を願い上げまする」
と、かの連名の上書を差し出した。趣意はいかにも明白である。陳述もまた瞭然である。伯耆守は心中に感嘆しながら、
 「一党の人数はこれ限りに止まるか」 
 「御意の通り、それ限りにおざりまする」
 「これらの衆は皆泉岳寺に聚っているか」
 「御意におざりまする。一人も離散仕らず、相控えておりまする」
 「それは神妙。これより登城して逐一言上する。その間寛々休息して、御沙汰を待たれい」
と申し聞け、既にその座を立とうとされる。忠左衛門は重ねて、
 「お手厚き御意、あり難う存じ奉りまする。ただ、一同の者御沙汰如何と待ちわびていようと存じますれば、われら両名の中、一名だけ泉岳寺まで御返し下されとう願い上げまする」
 「いやまだ訊ねたいこともある。が、ただいまは登城を急ぐから、両人とも、自分退出まで控えられい」
と言いながら、家人を呼び、
 「両人ともさぞ空腹であろう。湯漬を参れ」
と命じて、奥へと入られた。ああ士はもって誠ならざるべからずだ。義徒ら亡君の讐を復したとはいえ、国法の上から視れば、立派な罪人である。大目付たる者これに対すれば「それ縄うて」とも言われるべきところ。しかるにその優待やかくの通りである。「誠は、天の道なり。誠を思うは、人の道なり。至誠にして動かざるものは、いまだにこれあらず」という。古聖は人を欺かず。
 仙石家の家人は交る交る出でて両士を歓待した。両士は会釈して膳に向いながら「率爾ではおざりますれど、先刻御邸に伺候いたしまする際、手槍を御門前に残しておざりまする。何とぞ御取り入れ下さるよう」と申し出た。既に礼儀を疎にせず。それかといってまた武道を忘れず。両士は使者となって先ず一党の名誉を発揮した。
(「二四六 仙石邸への自首 吉田忠左衛門、富森助右衛門の使事」より)

2009年09月14日

五代目市川團十郎の『書付け』<開設記念日に寄せて>

一、よい人のまねする、わる人のまねせず
一、人のまねわるし、心でまねるはよし
一、下手と組まず、上手と組む、下手とつきあはず、下手と外あるかず、巻添にならぬように引ずり込まれぬように
一、書抜きの通りよく読み覺える、稽古よくよく幾遍もとつくりとする
一、總ざらひ、初日の心、精を出す、初日よりよくするともわるくせず、初日の通り、總ざらひ餘りによいと初日わるし、そが心得べし
一、若きうちしすぎると、老いてする事にこまる
一、ふだんもよい程の事はなし、舞薹大切にする、ふだんどうでもよし
一、見る人こしらへて置き、よいか悪いか、ほんの所を聞き、わるい事はようみんなにわるいかと聞き、わるい事はよす
一、出世をするに従ひ、わるい事をいうてくれる人なし、そこでわるい事を見て聞いて言つてくれる人をこしらへ置くなり
一、いつまでもおれは下手だと思ふてゐるがよし、一生いつまでも下手だと思ふがよし、おれは上手だと思ふともうそれきりなり
一、よい役も惡い役も同じようにする、惡い役捨てず、捨てれば猶わるく見える、惡い役でもやつぱりこつて身にしみてするなり
一、我が思ふほどは人はこまかに見ず
一、壽命なければやれず、長生きせねばならず、孝行身上、身持ち謹み、氣ゆるめず、浮かめず、圖に乗らず、……

2009年09月13日

『市川家の敎草』に教えられるGOLDONIの道<開設記念日に寄せて>

 夫れ市川家といへるは外を求むるべからず仁義禮智信なり。
 仁に曰く譬へ門弟召使たりとも常に情をかけ、大雪大雨の節などには藥用は格別、我さへ堪忍さへすれば難儀なし。常に美食せず、萬事身分相應に暮すときは、おのづから金銀も廻るものなり、夫れを貧窮なる人に施すは是れ則仁なり、天道の惠によりて立身出世出來るなり。
 義に曰く無據き人に頼まるる事あらば何事にも身に引受けて世話すべし。先方に不實有りとも一度約せし時あらば、侮む事なく潔くする事是れ則義の道なり。
 禮に曰く上を敬ひ、下を憐み天地神佛を尊み先祖を敬し人の詞を用ひ女色を謹み人と交り深く惡しき友も好き程に附合ひ、人の惡を語らず日々の勤怠らず心を練る是れ則禮の道なり。
 智に曰く役者道に於て恭なくも天子將軍より公家武家町人百姓乞食非人迄の眞似をする見方智也。然し乞食非人は其儘に似する時は見苦しく、見物が事によりては嫌はるる物也。只好き程に勤むる是れ大事なり。又見物の氣を得る事是れ則智のなす處なり。
 信に曰く朋友他人にも誠の届く様に附合ふ時は先方にも僞りなく交る物也、是れ人道の第一なり。嘘僞りは人道の總魔なりと知るべし。誠あれば神佛とても形に影のそふ如く守り給ふ物なり、是れ則信の道なり。
 市川流の極意は人道の極祕也。毎日御見物を大事に千人も一人も同じことに勤め怠る事勿れ、是れ市川家の法式也。

 これは、十代目團十郎(九代目女婿・市川三升。没後に十代目を追贈)まで伝えられ守られてきた市川家の家訓である。今日13日は、九代目團十郎の百六回目の正忌であり、GOLDONI九回目の開設記念日である。

2008年09月16日

『劇聖・九代目市川團十郎』と『GOLDONI』開設8年   

GOLDONIは2000年9月13日に、新刊書も古書も洋書も扱う演劇専門書店として開業したが、二年ほど前からは平常の営業を止め、今は演劇関連の稀覯本探究のお手伝いだけをして、「舞台芸術図書館」作りの準備に入っている。
 今日は開設8周年のご挨拶に代え、岡本綺堂が著した『明治劇談 ランプの下にて』から、「団十郎の死」の一部を転載する。GOLDONIの開設日が、1903(明治36)年に亡くなったこの劇聖・九代目市川團十郎の正忌であることは、このブログでもホームページでも度々書いた。お手隙の折に、九代目團十郎に触れた拙文のご笑読をお願いする。

 わたしはかなり感傷的な心持で菊五郎の死を語った。さらに団十郎の死について語らなければならない。今日、歌舞伎劇の滅亡云々を説く人があるが、正しく言えば、真の歌舞伎劇なるものはこの両名優の死と共にほろびたと言ってよい。その後のものはやや一種の変体に属するかとも思われる。(略)
 いまの市村羽左衛門はそのころ市村家橘といっていたのであるが、その年の秋興行から十五代目羽左衛門を相続することになっていたので、その披露のために各新聞社の劇評記者を大森の松浅に招いた。わたしも『東京日日新聞』の劇評記者として出席することになった。
 九月十三日、その日は日曜日で、朝から秋らしい雨がしとしとと降っていた。定刻の午後五時ごろに松浅にゆき着くと、接待として市村門下の坂東あやめが待ちうけていた。あやめのことは前に書いた。わたしと前後して、各社の諸君も大抵来会したのであるが、主人側の家橘が顔をみせない。茅ヶ崎(団十郎)の容態が悪いので、朝からあっちへ見舞に行っているのですと、あやめは頻りに言い訳をしていた。
 団十郎の模様がよくないということは、これまで新聞紙上にも伝えられて、世間でもみな知っていた。わたしたちはむろん承知していた。今度こそ再び起つことは覚束ないという情報をも握っていた。それだけに今日のあやめの話がいよいよ胸にこたえて、堀越もいよいよいけないのかという嘆息まじりの会話が諸人のあいだに交換された。我々の予感が現実となって、「春日局」が遂に最後の舞台となったことなども語られた。なかには自分の社へ電話をかけて、団十郎いよいよ危篤を通知する人もあった。
 涼しいのを通り越して、薄ら寒いような雨に日は早く暮れて、午後六時ごろには大森もまったく暗くなった。フロックコートを着た家橘があわただしく二階へかけあがって来て、挨拶もそこそこに、どうも困りましたという。かれは茅ヶ崎から駈けつけて来たのであって、団十郎はきょうの午後にとうとう死んでしまったということを口早に話した。臨終の模様などを詳しく語った。我々ももう覚悟していることではあったが、今や確実の報告を聞かされて、俄かに暗い心持になった。
 家橘は改名の口上を団十郎にたのむはずであった。その矢さきに彼をうしなったので、家橘は取りわけて落胆しているらしかった。こうなった以上、なまじいの人を頼むよりも、いっそ自分ひとりで口上を言った方がよかろうと我々が教えると、どうもそうするよりほかはありますまいと本人も言っていた。なにしろ右の次第であるから、わざわざお呼び立て申して置きながら失礼御免くださいと挨拶して、家橘は降りしきる雨のなかを再び茅ヶ崎へ引返して行った。
 そのあとの座敷はいよいよ沈んで来た。団十郎が死んだと決まったので、無休刊の新聞社の人はその記事をかくために早々立去るのもあったが、わたしたちのような月曜休刊の社のものは直ぐに帰っても仕様がないのと、あやめが気の毒そうに引き止めるのとで、あとに居残って夜のふけるまで故人の噂をくりかえしていると、秋の雨はまだ降りやまないで、暗い海の音がさびしく聞こえた。その夜はまったく寂しい夜であった。団十郎は天保九年の生まれで、享年六十六歳であると聞いた。その葬式は一週間の後、青山墓地に営まれたが、この日にも雨が降った。  さきに菊五郎をうしなったことも、東京劇界の大打撃には相違なかったが、つづいて団十郎をうしなったことは、更に大いなる打撃であった。暗夜にともしびを失ったようだというのは、実にこの時の心であろうかとも思われた。今後の歌舞伎劇はどうなる――それが痛切に感じられた。(略)
 「団十郎菊五郎がいなくては、木挽町も観る気になりませんね。」
 こういう声をわたしは度々聞かされた。団菊の歿後に洪水あるべきことは何びとも予想していたのであるが、その時がいよいよ来た。興行者も俳優もギロチンにのぼせらるべき運命に囚われたかのように見えた。

2006年02月12日

『朝日』は「制定賞廃止」で見識を示せ(続)

朝日新聞の2月1日朝刊の第2社会面には、前日に催された朝日舞台芸術賞の贈呈式についての、写真付きではあるが、4百字足らずの比較的小さな扱いの記事が出ていた。グランプリ作品『歌わせたい男たち』と、特別大賞の蜷川幸雄氏には賞牌と200万円が、他の受賞者には賞牌と100万円が贈られた、とある。記事の締めは、秋山耿太郎社長の挨拶で、舞台芸術の発展に寄与できますよう微力を尽したい、とある。
この朝日舞台芸術賞は、読売新聞が1993(平成5年)に制定した『読売演劇大賞』の後塵を拝して、2001(平成13)年に制定。同工異曲な褒賞制度を始めたということからも、宿敵の読売に先行された朝日としてはさぞ悔しかっただろうと同情するが、読売の選考委員を辞した演劇評論家をすぐに選考委員に据えるなど、見識も節操も持ち合せていないのか、かなぐり捨てたのか定かではないが、二番煎じにもかかわらずか、だからこそか独自色を出すこともなく、肝心の賞を授かる方は、賞をくれる新聞社が、読売か朝日か毎日か、覚えていないものまで出る始末。跡追いの朝日新聞としては、それが狙いだった、のかもしれないが。
朝日舞台芸術賞の選考委員は、演劇評論家3名、舞踊評論家2名、映画監督1名、関西在住の芸能評論家1名と、朝日側から常務取締役編集担当、文化部長の9名。この3名の演劇評論家とは、東京大学名誉教授の小田島雄志氏、大阪芸術大学教授の大笹吉雄氏、元朝日新聞(旧)学芸部記者の天野道映氏。
彼等は演劇専門で、舞踊についての選考には加わらないのだろう。1名の映画監督とは山田洋次氏のことだが、偶に劇場・ホールで氏を見掛けることがあるが、舞踊などもご覧になるのだろうか。
朝日側の吉田慎一常務、鈴木繁文化部長の二人は、経営幹部として、あるいは文化面作りの責任者として多忙なのだろうと思うが、寸暇を盗んで足繁く劇場通いをされているのだろう。
昨05年3月6日の『提言と諌言』<http://goldoni.org/2005/03/post_81.html>見識・良識なき<学識経験者」が巣食う「芸術祭」>として、文化庁芸術祭の問題点を指摘した。
そこでは、「文化庁や助成団体、新聞などの賞の選考委員であることをちらつかせ、劇場や劇団からチケットを強要、パンフレットやホームページ等での執筆機会をものにし、なかには演劇の製作団体や劇場への助成金の獲得、不適正な経理処理にまで加担していると言われるほどの「学識経験者」を文化行政の周辺から、そして舞台芸術から追放すべき。文化庁に芸術祭の取り止めを勧める。」と書いた。
その後に、読売新聞の賞の運営に関わっていた複数の文化部長経験者にも、「選考委員の観劇のチケットくらいは新聞社で負担したらどうか」と提言したことがある。読売の賞の選考委員の中には、『提言と諌言』に書いたように、「読売演劇大賞の選考委員なのよ!」と自分のところに招待状が来ないことがケシカランと思ったか、恫喝紛いの物言いでチケットをせしめたと言われる者までがかつていた。観劇に大学の女子学生か若い女性を伴い、その同伴者のチケット代も払わずに受付で揉めたり、講師を務めていた新国立劇場の演劇研修所の生徒ともトラブルを起こすなど、見識や良識以前の常識を微塵も持ち合わせていない者までいる始末。
無理強いは論外だが、自腹を切って観劇しないことは無論のこと、祝儀・心付け、陣中見舞・さし入れなどの用意もせず、パンフレットなどの執筆機会や飲食接待などの持て成しを受ける腹づもりの観劇が、現代日本の演劇評論家の常識であり日常である。
この不見識非常識な者たちを支え、助長しているのが、芸術祭であり、助成制度であり、そして新聞社の制定賞であると、ことあるごとに主張しているが、常態化しているだけに、ことの異常さには誰も気がつかない。批判する私のほうが卑しいのではと、苛まれることすらある。
演劇評論家とか、文化政策研究者とかの学識経験者と呼ばれる、舞台芸術の愛好者でもなく、かつての好事家とは似ても似つかぬ者たちが、舞台芸術とりわけ演劇の基盤・環境、行政の文化政策が大きく変化するこの十数年のあいだ、いたるところで蠢動し跳梁している。
こういう者達を、「演劇業界ボス」化させる装置・機能の一つが、新聞社の褒賞制度である。この選考委員を引き受ける新手の業界人、そしてそのボス化が、演劇を舞台芸術を歪めているのである。
「舞台芸術の発展に寄与できるよう微力を尽したい」との朝日新聞社長の言、結構である。読売新聞はいずれ選考委員の鑑賞チケット代を負担することになるだろう。跡追いの朝日はどうするか。この際に褒賞制度を見直し、あるいは廃止して、『社会の木鐸』たる新聞の見識を示し、先行する読売の鼻を明かしてやったらいいと思うが、どうだろう。
朝日新聞に、『朝日舞台芸術賞』の廃止を強く勧めたい。

2006年02月09日

『朝日』は 「制定賞廃止」で見識を示せ 

朝日新聞の2月3日夕刊2面の『窓 論説委員室から』は、「野茂投手の注文」と題して、同紙制定の朝日スポーツ賞での野茂英雄の受章の挨拶に触れて西山良太郎論説委員が書いている。今までの賞がその場だけのことに終っている。あげる方(新聞)は、今後のスポーツ、その競技を考えて欲しい、というスピーチだそうで、それは「受賞者から表彰側へ、活を入れるような注文」であるとし、またアメリカでの活躍や、球団経営、若手育成に努める野茂選手を称える。「日の当たらない陰の努力を追って選手に寄り添い、彼らを支える競技の環境に目をこらしながら一緒に走っていきたい。野茂さんの直球スピーチを、自戒を込めて受け止めた。」とコラムを纏めていた。野茂選手の朝日新聞(賞制定者)に対する厳しい批判を、自戒を込めて受けとめるべきは、この論説委員氏一人ではないはず。また、このコラム自体が、朝日新聞の自己批判とも思えるが、穿ち過ぎだろうか。

同じ朝日新聞の2月6日夕刊5面の文化欄には、作家で劇作・演出家でもあるロジャー・パルバース氏が『文学の国?文学賞の国?』というタイトルの随筆を書いている。
イギリスの『サンデー・タイムズ』が、三十年ほど前のブッカー賞受賞の原稿を二十の出版社や代理人に送りつけ、戻ってきた返事はすべて、出版をお断りする、というものだった、との書き出しが面白い。
パルバース氏によれば、日本には文学賞が五百近くあるそうで、「日本では、文学作品そのものより、文学賞のほうが重要である、というかのよう」。「作家に会ったときは、『どんな作品を書かれてきたのですか?』と尋ねるより、『どんな賞を受賞されたのですか?』と尋ねるほうがそのうち普通になるかもしれない」。「もはや文学は賞をもらうことによって評価されるのであって、文学が評価されて賞をもらうのではなくなりつつある」とも。
パルバース氏は朝日新聞に配慮してか、学芸の担当記者に泣いて縋られたからか、同紙制定の朝日賞や大佛次郎賞こそ挙げなかったが、他の十近い賞の名を挙げ、「これだけ多くの賞があるのだから、宝くじで一等賞を当てるよりは、文学賞を一つもらうほうが、ずっと確率は高い」と皮肉にいう。
「日本はまさに文学賞の国だ。しかし、それはすなはち文学の国ということになるのだろうか?」。
滞日三十年のパルバース氏は、現代日本の痩せた芸術・文化事情やメディア事情を指摘しているのだと思うが、これは私の偏見だろうか。

3日の論説委員氏のコラム、そして6日のパルバース氏の随筆は、1月の朝日賞・大佛次郎賞や舞台芸術賞の発表と贈呈式の直後だけに、とくに面白く読んだ。

2006年02月01日

五代目市川三升(十代目市川團十郎)を語る

「元来、祖父は、俳優の質的な向上とか、人格の修養とか申すことにたいそう心を使った人の由で、現に、長女実子(じつこ)の婿には、慶應義塾出身で日本通商銀行に勤務していたインテリの、伯父三升を迎えていることでもうなずけます。
 祖父は、自分の芸の跡目を継がせようと、若い時に、兄の子を養子にして育てたのですが、この人がわずか十三才で亡くなり、落胆している折も折、翌年長男の(私にとっては、実の伯父に当たる人ですが)誕生で大喜びとなりました。ところが、この長男も生まれた年に病没し、その後は、男の子は授からず、続いて誕生した二人の子
は、揃って女の子でした。この姉妹が、私の伯母と母です。
 祖父は芸統の相続ということに相当深刻に悩まれたようでしたが、きっと、芸を相続させる人を、物色しながら、世を去ったのではないか、とも思われます。ですが、一方には伯父三升を長女の婿として迎える決心を固められたのは、人物本位が芸に優先したとも考えられます。
 私は、この伯父によって、どれほど、人間としても舞台人としても教養を深めることの大切さを、教えられたことでしょう。伯父は、好むと好まざるによらず市川宗家という大きな看板のお守りをしなければならぬ羽目になり、祖父の死後、自ら三升を名乗って死ぬまで、舞台に立ち歌舞伎十八番の復元や保存に努力致しました。」
「子供の頃は、私は画家になろうと、真剣に、と申しましても十才前後のことですから、幼い夢に過ぎませんが、心にきめていました。
これには伯父三升の影響が多分にあります。伯父は、前にもちょっと記しましたように、祖父の舞台上の名跡を継ぐために迎えられた養子でなく、堀越の家に新しい知識の風を導き入れるために迎えられた人ですから、人間も静かで趣味も高尚優雅なものを持っていました。
 特に、書と画をよく致しましたが、私の、まだ小さい時分から、庭の花壇へ連れ出したりして、スケッチをすすめました。まだ幼い私に、「写生をすることは、物をよく見ることの基礎である」ことを、噛んでふくめるように、やさしく説明してくれました。」
「この伯父には、もう一つ、俳句の手ほどきを受けました。後年、新派に入りまして、久保田(万太郎)傘雨宗匠のご批評や御叱正をいただくようになりましたのは、偏えに伯父の薫陶よろしきを得た賜物と思っています。」

劇聖・九代目市川團十郎の唯一の孫であり、最後の血統となった、劇団新派の大幹部であった三代目市川翠扇が、昭和41(1966)年に上梓した『九代目團十郎と私』(六芸書房刊)から、伯父・五代目市川三升について触れた箇所を二三摘んでみた。
GOLDONIの開店5周年にあたる昨年9月、この『提言と諌言』で、<「閲覧用書棚の本」其の十。『九代目市川團十郎』>という、この市川三升の著書を3回に分けて取り上げた。
先ほど久しぶりに、この『九代目市川團十郎』を手にしたが、今まで長いこと読み飛ばしてしまっていた、その「自序」の中にあった三升の言葉に教えられたので、それを書き記す。
「誰かの言葉に人を語るには語る人が語られる人と同格の人か、若しくは以上の人でなければならない。偉大な人は偉大な釣鐘のようなもので、その偉大な音響を出さんとするならば、偉大な力と偉大な撞木がなければならぬと云つた。結局私の持つた撞木は餘りに小さく且つあまり力弱かつた事を嘆かずにはゐられない。」

九代目やこの三升という縁戚の歌舞伎役者の存在を知ったのは6、7歳の頃。彼等を演劇人の規範として意識し始めたのは二十代半ば。それからもう四半世紀になるが、以来、彼等の偉大さを識れば識るほど、己の力の無さを痛感する毎日である。一昨年からは、折に触れて、彼等のことをこの『提言と諌言』で語るようになった。三升の言ではないが、非力な私が語ることで、(九代目は別としても)三升の人物像が歪んでしまってはいけないと思いながらも、久しぶりに三升に触れた。

歌舞伎の大きな財産である「歌舞伎十八番」を復活させ守ってきた三升だが、残念ながら、そして悔しいことだが、その恩恵を受ける松竹も、批評家も、そして三升の養子となり大名跡を継いだ十一代目の実子である当代の團十郎も、その人物、業績を語らない。
せめて私は、自戒しながら、これからも三升を語っていこうと思っている。

今日2月1日は、市川三升の五十年の正忌である。

2006年01月25日

『新国立劇場』関係者に見る『国家と演劇の品格』

昨2005(平成17)年10月23日の、毎日新聞の読書欄の二段囲み記事の切り抜きが、今も未整理のままに、三ヶ月もほかに紛れることなく、デスクの上に残っている。せっかくなので、今日はこの切り抜きについて書いてみよう。
この切り抜きは、學燈社が刊行する雑誌『國文学』の11月号についての書評で、650字ほどの短かいもの。この号が創刊五十周年記念として、『演劇』を特集していること、演劇についての海外の動向や大学教育、舞台の現場、についても取り上げ、人気劇作家の対談もあり、「充実した誌面だ」と、書評氏は褒めている。また、特集の副題が『国家と演劇』となっていることに、「目を引く」とある。それに続いては、「演劇は体制や権力を批判する立場」で、「国家の御用を果たすものであってはならず」、「逆に国家の支援を必要と」し、「健全な国家であれば、大いに演劇を助成する制度が整っているべきであることは、西洋の例を見れば明らか」とある。
対談を含めて25人の演劇・劇場・大学関係者がこの特集に寄稿しているが、この書評で取り上げているのは、大笹吉雄『国家と演劇』、栗山民也『新国立劇場はどこへ行くか』、西川信廣『俳優養成の現在』の3本。『国家と演劇』は、「日本の文化政策の変遷と実情が詳述」されているそうだ。また、『新国立劇場はどこへ行くか』は同劇場芸術監督である栗山民也が談話を寄せているもので、視察したスウェーデンの王立劇場の俳優が「とてもいいのに」驚き、5つの王立演劇学校があり俳優教育が充実していることを聞き、「日本にはそうした体制がない」ことを伝えたら、先方は「ほんとに少し青ざめた顔で、『では舞台では、一体誰が立ってらっしゃるんですか』と真面目な声で聞いた」とある。書評氏は、この「逸話が心に残」り、「笑えない笑い話だ」と書く。
最後は、『俳優養成の現在』で、新国立劇場演劇研修所が開校したことにも触れ、「その現在を語る西川信廣が、俳優の養成を演劇界全体で真剣に考える時期が来ていると語る言葉の意味はきわめて重い。」と書評を締めくくった。

この『國文学』は、大学の国文(日本文学)科の教員か学生・院生くらいにしか読者のいなそうな、マイナーな雑誌である。基礎学力も、無論のこと教養も、そして演劇的素養も能力も無い者ばかりが遣りたがる「演劇」の内側にも、またそんな者たちが作る演劇を見たがる同質の観客の側にも、この書評を読んで、この雑誌を手に取ろうとしたものがどれほどいただろうか。
それでもあまたある雑誌から、これを取り上げるとは、さすがは丸谷才一氏などの最後の教養ある文学者が参画してきたと言われる毎日新聞の読書欄だけのことはある。欄担当者の目配りが秀でているのか、あるいは書評委員の慧眼か、いずれにしてもたいしたものである。30年も前の読者としては、演劇同様、文学が教養と乖離したこの国で、この雑誌が廃刊されずに命脈を保っていることに驚いた。
しかしである。
演劇は体制批判であり、国家の御用を果たしてはならないが、国家の支援は必要、西洋の健全な国家は演劇を助成する制度が整備されている、という書評氏の「国家と演劇」についての考えが、この小さな書評の前半に現れたが、その唐突さに、こちらは「目を引く」前に体が引いてしまったが、それはまた別の話。「演劇は体制や権力を批判する立場」だそうだが、ほんとうか。「国家の御用を果たすものであってはなら」ぬそうだが、「国家の御用」とはなんだろうか。「国家の支援を必要とするものでもある」とも言い、「健全な国家であれば、大いに演劇を助成する制度が整っているべき」とも言う。前述したが、たかだか650字程度の小さな書評では、「演劇」や「国家」や「支援」「助成」など、それぞれに大きなテーマを語ることは無理である。どう書いても舌足らずな表現になり、説明不足に陥り、誤解を与えがちなものになると思うが、毎日新聞が執筆者に選んだほどの見識のある書評氏のこと、私が心配するまでも無く、そのあたりの誤解を与えることを承知した上での執筆なのだろう。書評にか、あるいは演劇に余程の覚悟、使命感をお持ちなのかもしれない。
書評氏が取り上げた、栗山民也『新国立劇場はどこへ行くか』は、先述したが談話である。「解釈と教材の研究」との副題がついたこの雑誌『國文学』、立派な研究誌だと思うが、このような雑誌は、一般的には対談、座談を除けば書き原稿が原則だろう。書評家であれば「談話とは、安手の感は否めないが…」ほどの常套句を用いるところだろう。
栗山氏の「逸話が心に残」り、「笑えない笑い話だ」と書くのだから、よほど感銘したのだろう。
日本の実情はどうか。「では舞台では、一体誰が立っていらっしゃる」かと問われる俳優の問題以前に、舞台演出の専門教育も受けず、芸能タレントを重宝がってか舞台に立たせているこの国の演出家という存在こそが問題なのである。スウェーデンばかりか書評氏の言う「健全な国家」である「西洋」には、日本とは違い、ぽっと出の演出家などほとんどいないのではないだろうか。
西川信廣『俳優養成の現在』を読んで合点がいかないことがあった。それは、彼の肩書が、「文学座・演出家」とだけ書かれていて、新国立劇場演劇研修所副所長という公的職名が抜けていることである。同研修所の所長でもある芸術監督と二人で、俳優の養成システムの重要性を唱和しているが、文中には文学座の養成システムへの否定的な見解が述べられている。劇団の幹事で、会社組織の役員でもある者の発言としては如何なものだろうか。フリーランサーではない組織構成員が、同業の他の組織で働くことの弊害など、いずれ改めて書こうと思っている。
この書評に名前の挙がった、大笹吉雄、栗山民也、西川信廣の3氏は、新国立劇場の評議員や芸術監督、サポート委員のようである。そして、書評氏は、東京大学助教授・イギリス演劇専攻だそうだが、偶然か新国立劇場演劇研修所の講師でもあるようだ。この4名は新国立劇場に蝟集する「お仲間」であったのだ。今や新聞が「公器」であるかどうかは意見の分かれるところだ。しかし、今でも、「仲間褒め」をする場ではないことくらいの了解や見識は、毎日新聞にもあるだろう。
であれば、毎日新聞の読書欄担当者は、この書評氏が、≪いま演劇はどうなっているか―演劇の最前線≫『シェイクスピア劇の最前線』というタイトルの文章を、この雑誌に書いていることは知らなかったのだろうか。
自分が執筆者の一人である雑誌を、新聞の読書欄で持ち上げる。演劇公演では、パンフレットやチラシ、あるいは新聞・テレビなどの媒体で紹介・宣伝したり、公演の協力をした批評家が、新聞の劇評でその作品を批評することがあり、発注者も含めて、そのモラルの無さに愕然とすること度々だが、ついに新国立劇場関係者は、劇評ばかりか書評でもこんなことをするようになってしまった。
『国家の品格』(新潮新書)で、藤原正彦氏言うところの「卑怯な振る舞い」を日常とする大多数の演劇関係者を前に、「惻隠の情」をもって批判心を抑えてきたつもりだが、孤立しても品格は守らなければならない。演劇人としての矜持は保たねばならない。
三ヶ月も前の小さな新聞の切り抜きが、『演劇の品格』の大切さを教えてくれた。

2006年01月17日

クラシック音楽尽しとなった新春第二週

連休明けの10日(火)から一昨15日(日)までの6日間は、久しぶりに音楽、そして友人との食事を楽しんだ。
10日は、初台の東京オペラシティコンサートホール。「日本におけるロシア文化フェスティバル2006 in Japanオープニング・ガラ・コンサート」と銘打ったマリンスキー歌劇場管弦楽団の演奏会。カラヤン以来の魔術師ともいわれるワレリー・ゲルギエフの指揮。定刻の開演時間には、このフェスティバル実行委員会の委員長・森喜朗氏とロシア連邦の大統領府官房長官氏の挨拶があり、ゲルギエフの登場を心待ちにし高揚する会場に水を指す、観客には礼を失したセレモニーになった。
第1部は、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番第1楽章を上原彩子、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番を諏訪内晶子が協演。第2部、この日のメインはラフマニロフの交響曲第2番。第1部ではぎこちなさを感じるほどのオケだったが、これがゲルギエフの手兵といわれるマリンスキーかと納得させる演奏だった。客席は普段見受けられるクラシック音楽愛好者よりは、俳優座の栗原小巻さんなど、ロシア(旧ソビエト連邦)びいきか、ロシアに縁のありそうな人々が多く、客席もざわつき気味。休憩時のロビーも落ち着かないものだった。
12日は、赤坂・サントリーホール。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の主要メンバー9名によるウィーン・リング・アンサンブル演奏会。ライナー・キュッヒル率いるウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団のメンバーに、コントラバス、フルート、ホルン、クラリネット(2名)の9人編成。モーツァルト・後宮からの逃走序曲、ヨハン・シュトラウスのポルカなど十数曲。先日のウィーン楽友協会でのニューイヤー・コンサートは、マリス・ヤンソンスの指揮だったそうだが、テレビを観ないので、キュッヒル氏を見るのは今年は初めて。相変わらずの見事な演奏だった。
休憩時、いつものように紅茶をロビーで喫したが、そこで四十歳前後のカップルと長椅子の狭いスペースを譲り合って座った。終演後、混雑するクロークで偶然に彼等と前後して並び、ご挨拶。「お気を付けてお帰りになってください」「きっと、またお目に掛かりますね」と言葉を交わし、別れた。一期一会、品も雰囲気もある夫妻とのつかの間の袖擦り合い、最も好きなサントリーホールでの一夜を、より心地よいものにした。
14日は、府中の森芸術劇場・ウィーンホールでのライナー・キュッヒル・リサイタル。ピアノは加藤洋之。モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第40番やベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲6番など。私は府中は初めてだが、ここでのキュッヒル氏のリサイタルは12回目という。五百の客席は売り切れ、最後部には補助椅子も用意されるほどの盛況ぶり。
休憩時のロビーは、キュッヒル氏のサイン付きのCDが売り切れ、特設のウィーン物産品コーナーや飲み物の売店も大賑い。
アンコールにはクライスラーの小品を7曲。結果としては三部構成のようなリサイタルで、終演は9時35分過ぎ。冷たい雨の降る中の遠出だったが、品格と奥行きのあるヴァイオリンを堪能した。
15日は、千駄ヶ谷の津田ホールでの、公開講座=オペラ劇場運営の現在・ベルギー=。「オペラ・ハウスの芸術運営と創作過程-オペラ歌手によるワークショップとともに」と題した、昭和音楽大学オペラ研究所が主催する講座。この講座については、この『提言と諌言』の2005年8月15日<バイエルンの招待者は大統領ただ一人>で触れたが、今回はその13回目の公開講座。講師は、ベルギー王立モネ劇場の音楽監督を2002年から務める指揮者の大野和士氏。日本人のオペラ指揮者としては、かの小澤征爾氏を凌ぐ人気と実力といわれる大野氏だけあって、五百席の会場は満員で、舞台上にも補助椅子を並べるほど。キャパシティの二倍の聴講希望があったというから、この講座の浸透度も大したものである。
前半の1時間半は、大野氏の講演、後半の1時間はテノールの小山陽二郎(藤原歌劇団)、ソプラノの木下美穂子(二期会)両氏と大野氏によるワークショップ。ワークショップでは、「音と歌詞の分析の重要性」を大事にする大野氏のレッスン、歌手とのディスカッション風景を短時間だが覗くことが出来た。
前半の講演は、興味深いものであった。これについては、近いうちに書くつもりだ。
以上のそれぞれの費用は、10日のマリンスキーが1万5千円、12日のウィーン・リング8千円、14日のキュッヒルリサイタル4千円、15日の公開講座は無償。
私にとって満足度の高いものは、15日、14日、12日、10日と、費用負担の少ないものの順になった。

2006年01月13日

老練と若手のアンバランスな『演劇交流』

日本経済新聞の最終ページにある「文化往来」は、さすがに日本のホワイトカラー必読の経済総合新聞だけあって、他紙によく見かける催し物情報とは違い、短信に社会的な解説なり視点が盛られた、興味を惹かれることの多い囲み記事である。
1月10日の「文化往来」は、『文学座と青年団、人材育成の交流公演』とのタイトルで、≪「文学座+青年団自主企画・交流シリーズ」と銘打った連続上演をこの5月にスタートする≫ことについて書いている。
≪新劇界と小劇場界の有力劇団が手を結び、公演を重ねることで、主に若手の育成を目指す≫と記事にはある。
岸田國士、久保田万太郎、岩田豊雄の三人の作家が、築地小劇場出身の俳優である友田恭助と田村秋子の為に昭和12(1937)年に設立した、最古にして最大の新劇団である文学座と、国際基督教大学の学内学生劇団出身の、劇作・演出の平田オリザ氏が主宰する青年団との接点は、新宿区信濃町にある文学座の「アトリエ公演」で、1997年11月、『月がとっても蒼いから』という平田氏の書き下ろし戯曲を、同座の俳優・坂口芳貞氏が演出して上演したことからか。
≪互いにアトリエが近いことなどから企画が持ち上がった≫と記事にあるが、文学座は、信濃町のアトリエや隣接の小稽古場だけでは手狭になり、劇団所属の俳優や演出部スタッフの自主稽古や自主公演の場にと、数年前から板橋区小茂根に民間のスタジオを年間契約で借用しているが、目黒区駒場を拠点とする青年団も、同様に同所近くに小稽古場があること、あるいは坂口氏と平田氏が桜美林大学での同僚ということもあってか、この企画が進んだのかもしれない。
この交流シリーズに参加する演出家だが、文学座からは、劇団代表で、現代演劇界の最長老である戌井市郎氏、文学座アトリエ公演で別役実作品を多く手掛けた藤原新平氏など。青年団からは無名の演出部員とフランスの若手演出家など。90歳から25歳までの十数人の演出家を抱え、新国立劇場には芸術参与や演劇研修所の副所長を送り出し、東宝や松竹、芸能プロ製作の商業演劇まで進出する中堅の演出家が揃う老舗の文学座と、大学教授やテレビコメンテーター、公共団体等の審議会委員など八面六臂の活躍の43歳の主宰も含め全員が若手の範疇に入る新興の青年団。参加演出家の構成については、均衡の悪さが気になるが、当事者には然したる問題ではないのだろう。
「地域」や「公共性」など、猫も杓子も口にするこの時代であれば、この企画には地元の板橋区などから、「地域振興」「芸術支援」「芸術を活用しての街作り」などの名目で補助金が支出されたりするのだろうか。この「文化往来」には、そのあたりの言及はなかった。
また、平田氏の談話はコンパクトに取り上げられていたが、一方の文学座の側の談話がないことが気になった。
続報に期待する。

2006年01月08日

『殻を破る異才』と『殻に篭もる演劇オタク』

元旦の日本経済新聞は『待ったなし改革』という大特集を編んでいて、読み応えがあったが、それ以上に面白かったのは、1面、9面の『ニッポンの力』、とくに9面での、「小さくまとまった『ニッポン』という殻を自らの意思で、自らの知恵と技を頼りにぶち破ろうとする」異才として、ロック歌手の矢沢永吉、スーパーコン開発の後藤和茂、オランダで活動する建築家の吉良森子と、ニューヨーク・シティ・オペラの指揮者の山田敦の4氏を取り上げた記事である。私は、とくに建築と指揮の二人に関心をもった。
年末に、柳家花緑・立川志らく・柳家喬太郎の三人会を聴いた折、前座が、「私の父は一級建築士でして」と言うだけで満員の客席が沸くほどに40万建築士の旗色は悪いが、これはまた別の話。
吉良氏は早稲田大の院生の時にオランダ政府奨学生としてデルフト工科大学に留学。97年にはオランダで独立。99年にはハーグのオランダ首相官邸の改装の設計を手掛けた。昨年は古都ライデンにある、幕末の日本で活躍した医師シーボルトがオランダ帰国後に暮らした邸宅を、シーボルト記念館として改修する計画の設計者として活動した。
記者は書く。
≪大学院時代のオランダ留学。与えられた課題に沿って設計図を書けば合格だった日本と違い、留学先では作品の意味や文化的な背景までを厳しく問われた。「この設計で環境と調和できるのか」「なぜこの場所に窓を置くのか」。図面を提出するたびに教授や学生から容赦ない質問が飛ぶ。苦しかったが、その経験を通じてオランダ建築を学び、表現力や交渉力を身に付けた。≫

指揮の山田敦氏は早稲田大教育学部卒、日本IBM、ソニー生命の営業部門出身。十年間の勤め人暮らしをやめ、97年に渡米してNY・シティ・オペラの研究生に。
昨年11月、今までの「音楽監督助手兼指揮者」から「正指揮者」として契約、07年から同オペラを率いることになった。
ニューヨーク駐在の記者は書く。
≪米国では指揮者がコスト計算からスポンサー集めまでこなすため、ビジネス手腕が欠かせない。職人肌のマナハン(同音楽監督)は「営業は助手に任せたい」と思っていた。だが山田以外の志願者は現役音大生ばかり。日本では軽視された経験が生きた。〇五年五月に愛知万博で開いた凱旋公演でも、「営業大好き」の山田は総予算六億円のうち二億円強を集めてみせた。≫
≪「脱サラ根性物語はおしまい。これから待ち受けているのは実力だけが評価される世界だから」と気を引き締める。≫

ヴァイオリニストの諏訪内晶子さんが、文化庁在外研修制度を利用してニューヨークのジュリアード音楽院に入学した折、同級生達から歴史、とりわけ作曲家の生きた時代を理解できてヴァイオリンを弾いているのかを問われ、己の不勉強を知って、音楽院との単位交換制度を実施しているコロンビア大学で西洋史を学んだ、という話を思い出した。

文化庁が今年度も8億円以上の予算を組んで実施している芸術家在外留学研修制度についてである。
演劇研修に限っていえば、ニューヨークやロンドンなど物価の高い都市に滞在しても、国費から支給される1日一万円程度の日当で生活して、1年後の帰国時には百万円も貯めて帰って来る者や、大学(院)への正規留学はほぼ皆無で、十八歳の高校新卒生でも入る演劇学校の短期コースや、前衛というよりはハミダシ組の演劇人などが行うワークショップに気まぐれに参加する程度の者が続出する。ニューヨークでもロンドンでも、他の者よりは名を知られている研修生は、牢名主さながらに、日本人グループの中心に収まり、アパートなどに寄り集まって無為な時を過ごす。
外国政府奨学制度利用や、外国芸術施設への私費留学・研修をしてきた吉良氏や山田氏のような真剣さは微塵もない。

昨年の7月1日の『提言と諌言』<文化庁在外研修制度利用者を自衛隊予備役に編入せよ>、10月17日の『提言と諌言』<『在外研修』を実施する文化庁の『常識』と『言語感覚』>にも書いたので、ここでは繰り返さない。お読み戴きたい。
春には来年度予算が成立し、該当予算がどうなったかを確認出来るだろう。そうなれば、また国会議員や会計検査院などに提言や申し入れをするつもりである。

2006年01月06日

『規制改革・民間開放』と『芸術文化振興』(参)

「大学生が考えた自主企画をメディアを使って社会に発信する大学生と本社の共同企画」と、リードに書かれていた朝日新聞の12月30日の18、19面の特集は企画広告の様だったが、お読みになった方は少ないかもしれない。
朝日新聞総合研究本部の協力で、7人の女子学生が1年かけて企画し編集したページだそうだが、その中心は、12月1日に行われたトークセッション「少子化日本を救う、多様な生き方、働き方」(朝日新聞社主催、青山学院大学後援)で行われた、経済同友会代表幹事・日本IBM会長の北城恪太郎氏の基調講演と、企画側の女子学生と北城氏との対話、会場での質疑応答である。
その中で北城氏は、美術を専攻しているという女子学生の、美術館の運営を民間に開放する動きは、芸術や文化も郵政と同じ民営化の土俵か、との問いに、次のように答えている。
≪心の豊かさは大切だが、そのために税金を使うことと美術館の運営を効率的に行うことは別問題≫
≪メトロポリタン美術館は殆ど、入場料や支援者らの寄付、お土産や美術品の販売で運営≫
≪スミソニアン博物館は、施設を企業の晩餐会などのイベントに提供≫
≪民営化すれば営利主義に陥って、コストの高い作品が提供できない、文化を守るためにお金を削るのはけしからんというが、それは努力しないで今の仕事を続けたい人たちの主張のように聞こえる≫
≪国から運営交付金がないぐらいの気概を持って運営すれば、色んなことができる≫
≪民間企業から見ると、効率化できる余地がある≫
≪芸術だからといって、無駄は許されない≫。

質疑応答では、企業のCSR(社会的責任)についてはどう考えているか、との会場の女子学生からの問いに、社会的責任を重視した経営は、消費者の支持するところであり、CSRには寄付や芸術だけでなく、環境や育児支援もある。本来は企業の支援ではなく、サービスの強化こそ必要、と述べ、「規制と補助金がこの分野の活力をなくしてい」ることを指摘している。
芸術・文化の分野、とりわけ演劇界では、北城氏が指摘する育児・保育や介護の世界での問題同様、いやそれ以上に「規制と補助金」が事業の民営化、透明化、健全化の大きな障害になっていると思うのだが、これは私の大きな勘違いなのだろうか。

2006年01月05日

『規制改革・民間開放』と『芸術文化振興』(弐)

「効率性追求による文化芸術の衰退を危惧する」メッセージが発表された後の11月15日、規制改革・民間開放推進会議は事業民営化等ワーキンググループ主査、市場化テストワーキンググループ主査の連名で、「効率性追求による文化芸術の衰退を危惧する」に対する同会議としての意見表明を発表した。
『規制改革・民間開放・市場化テストは
 文化芸術の振興のためにこそ行われます。』
―11月3日付け「効率性追求による文化芸術の衰退を危惧する」について―
と題した二千四百字ほどの文章を要約する。

≪「文化芸術」の重要性については当会議としても、まったく異論がない≫
≪日本の優れた文化の継承・発展のためにこそ、規制改革・民間開放・市場化テスト等の推進に努力している≫
≪「真に国民のためになる文化芸術の振興・研究・管理保存・展示はどのようなものであるべきか」という問題意識を持って、国・地方において真摯な運営形態の見直し作業が進められている≫
≪しかしこのメッセージは、これらの見直し作業を支持する意見を「財政難や行政改革を背景に、文化芸術の分野においても、市場原理の導入や、効率性・採算性を重視して施設運営などを求める声」として一蹴し、論拠も示さずに否定している≫
≪「市場化テスト」は、国民に対し公的財源により提供される公共サービスについて、サービスの受益者・納税者としてそのコストを負担している国民の視点に立って、当該公共サービスの質とコストの両面から、最も優れた者がそれを提供していくこととする制度であり、コスト削減効果のみを判断基準としておらず、従来提供されてきた公共サービスの質の維持・向上を図ることを前提に、官民を問わず、最もコスト効率性の高い事業者を選定する仕組みである≫
≪公的財源であるならば、一層質の高い国民本意のサービスの提供を目指すべきだ≫
≪メッセージの呼びかけ人・賛同者は、現在の国立美術館、国立博物館、文化財研究所が、真に国民のためのものとするならば、現在の運営主体である独立行政法人等に対して、胸を張って「市場化テスト」に参加し民間事業者より優れていることを立証せよと慫慂すべし≫
≪「長期的ビジョン」や「独立性」の保持が、「公的組織」にのみ可能とは考えず、公務員や独立行政法人の職員が担えばこれらの目標が問題なく達成でき、民間人では達成できないという命題について理論的または実証的に明らかにした分析を当会議は知らない≫
≪「公的組織」が一律にこれらの点で優れているという主張は、「官尊民卑」にほかならない≫
≪当会議は、官民を問わず、より優れたサービスを提供できる主体がサービスを担うべきだと考えているのであり、「民間主体が常に優れている」という決め付けや、「初めに民営化ありき」という結論を前提にはしていない≫

旧臘28日の『提言と諌言』にも引用したが、『規制改革・民間開放推進会議』の最終答申の前文には、
「小さくて効率的な政府」の実現に向けて―官民を通じた競争と消費者・利用者による選択―」とあり、
≪「官による配給サービス」から「民による自由な競争・選択」へと制度の転換を目指す≫
≪しかし現状は、官自身あるいは官が定めた特定の者だけが、官によって予め決められた財・サービスを提供するという社会主義的システムにおける市場の機能を無視する配給制度≫
≪我が国の公共サービスの大部分は、この「配給制度」により支配されている「官製市場」の下にある≫
≪「配給制度」は既得権益と非効率≫
≪生産者や官の関係者の特殊な利益を擁護≫
≪官だけがいわゆる公共公益性を体現できる唯一の主体であるという旧来の発想は終焉を迎えたと言わなければならない≫
と述べている。

「効率性追求による文化芸術の衰退を危惧する」メッセージの呼びかけ人・賛同者そしてその仕掛人たちの危惧の本質は、
<「大きくて非効率な政府」であるべきで、官民を通じた競争だの、納税者・受益者による選択など許さない。
文化芸術振興は行財政改革に優先されるべきもの>
との主張が否定されること、だったのかもしれない。

2006年01月04日

『規制改革・民間開放』と『文化芸術振興』(壱)

今回は三回に分けて、<『規制改革・民間開放』と、『文化芸術振興』>について書いてみる。
旧臘28日に、<『規制改革・民間開放』と『新国立劇場』>と題して、規制改革・民間開放推進会議が決定した最終答申について触れた。
この答申案が報道される一月半ほど前の11月3日、『効率化追求による文化芸術の衰退を危惧する』とのメッセージが出された。
千三百字ほどのそのメッセージを要約する。
≪文化芸術の分野においても、市場原理の導入や、効率性・採算性を重視した施設運営を求める声がある≫
≪その振興には、市場原理や効率性・採算性とは相容れない面があり、一律に効率性を追求することは、極めて危険≫
≪目先の利益にとらわれることなく、息の長い取組みにより、優れた文化を創造し、かつ継承していくことが、世界に誇れる品格ある国作りにつながるのである≫
≪伝統を異にする国立美術館、国立博物館、文化財研究所を統合すべしという提案や、いわゆる「市場化テスト」を適用しようとする動きには、わが国の文化芸術の衰退につながるものと危惧の念を覚えざるを得ない≫
≪日本のみが安易に、採算性や経済効率追求を至上命題とする改革を行えば、国際的にもわが国の文化芸術に対する姿勢に疑問を持たれる≫
≪5年前に独立行政法人になった際に、各館の目的や運営方針を踏まえ、四つの国立美術館が一つの法人に、三つの国立博物館が一つの法人に統合した≫
≪様々な文化的催しの開催による施設の有効利用や開館時間の延長などサービス向上や経営改善の努力が見られる≫
≪さらなる統合を行うことは、これまでの努力を無にし、文化施設の多様性の喪失に繋がる≫
≪文化はその国のあり方を示すものである。「文化立国・日本」の実現に向け、長期的かつ国際的な視野に立ち、文化芸術振興のための議論が展開されることを切に望み、私たちのメッセージとする≫

声明の文言や、発表を敢えて文化の日にセットしたことからも、文化庁主導であることを隠していないメッセージだが、その呼びかけ人は、日本画家の平山郁夫氏と美術評論家の高階秀爾氏である。賛同者には建築家の安藤忠雄氏、照明デザイナーの石井幹子氏や、有馬朗人氏はじめ国立・私立大学の総・学長やその経験者が並ぶ。人寄せパンダを自任しておられるのか、この手の声明には常連の作家・井上ひさし氏の名があることには驚かなかったが、意外だったのは、業務改革の先頭に立ち、その批判の矢面にも立たされていて、経営に専念専心しているはずの新国立劇場運営財団の遠山敦子理事長や、NHKの永井多恵子副会長も(とくに永井氏の場合は、文教ジャーナリストという耳新しい肩書になっている。公私の峻別に厳しい方なのかもしれないが、寡聞にして氏の演劇批評にも美術批評にも触れたことがなく、文教ジャーナリストというほどの職業や立場があったことにも驚ろかされた。)、日本の芸術文化の先行きに不安に駆られてか危惧の念を持たれてか、矢も楯もたまらずにか、名を連ねている。
言論・表現の自由が憲法で保障されている日本ではあるが、行財政改革が最大の国内政治テーマになっている昨今、その改革を推進する内閣機関に対して、天下りの渡り鳥やお飾りトップのはずの「公的組織」の長が、こんな反攻の挙に出るとは思わなかった。
文化庁が主導したと思われる、「賛同者の名前を貸しただけ」との言い訳では済まない批判行動、「公的組織」の存亡消長に予算編成で影響力を持つ財務省や、NHKの監督官庁でもある総務省の高官たちには、どう映ったのであろうか。

2006年01月02日

『梶井基次郎』と『ブログの書き初め』

一、及第するべからず
二、常に哲学的考察をおこたるべからず
三、冗費をなすべからず
四、健康を増進せざるべからず
五、風采に拘泥すべからず
六、軽薄なる言辞を喋々すべからず
七、常に正義なるべし、誠実なるべし
八、我が癖をなほすべし 曰く、自堕落 曰く、他人の意志に迎合すること

梶井基次郎が日記を書き始めたのは、旧制第三高等学校(現・京都大学)に入学、肺結核を患い療養を強いられた大正9(1920)年の11月のことだそうだ。
上に引用した、日記の書出しにある言葉は、日記を書くにあたっての心得なのであろうが、近い将来の死を意識した基次郎の、残り僅かな人生の戒めでもあったのではないだろうか。
ブログは日記形式にはなっているが、本来的には、極小メディア、個人の言論の場だろう。ただ、そのように認識しているものは限りなく少数のようだ。無名な私でも、仲間内での無駄話のような書き込みで、からかいやあざけりの対象にする、ミュージカルや演劇ファン、演劇専攻の学生などが開設する匿名や変名のブログの被害にたびたび遭っている。そういうものに対しては、出所を調べて彼等の実名を明かし、抗議し謝罪を求めようと思っている私は良いが、名の高い人を含めて多くの人は泣き寝入りせざるを得ないのだろう。
ブログが大流行する昨今、基次郎の記した八ケ条の心得に心惹かれる。
新年のブログ書き初めである。

2005年12月31日

百五十本、二十万字の『提言と諌言』

先ほど、この『提言と諌言』で今までにどれほどの量を書いたかを調べていたら、一昨日の、<『旧国鉄官僚』の責任の取り方について>で丁度150本になっていたことが判った。最初のものは、新聞などの演劇賞や文化庁芸術祭賞などの選考委員や、国や行政などの舞台芸術助成制度の審査委員の、「あっぱれ」な弁え・振る舞いについて書いた、昨2004年の4月19日<『公演の招待扱い』>である。
友人の作っていたブログを拝借して、読んだ人のコメント書き込みを求めない、ブログの機能を敢えて除いた形で始めた、この『提言と諌言』だが、この<『公演の招待扱い』>や、04年8月23日<遅い盂蘭盆会>などの様に、四百字程度の日記のようなものから、05年7月1日<在外研修制度利用者を自衛隊予備役に編入せよ>や、 05年10月22日<『文化庁助成金の不正受給』について>など、二千字を遥かに超える発言など、字数にも取り上げる内容にも統一がないままに、徒然に、とは言い難い心境で凡そ二十万字ほどの文章を綴ってきた。ブログが単行本になる最近の流行を意識してか、私に著作などの作品が無いことで、演劇についての発言や行動が広く社会に知られていないことを残念がったり、この先の私の演劇人としての行く末を案じたり憂いたりしてか、自費出版ででも本にすることを勧めて下さる方も幾たりか居られる。そんな言葉を掛けて戴く度に、丁寧に読んで下さっているのだと、有り難く思うのだが、実際に自分で厳選すれば、ホンの数本をそれも書き直して何とか原稿といえるものになる程度の出来でもあり、当分はこのブログ『提言と諌言』で書き溜め、せめても繰り返し読んで戴けるように、総目次にも掲載していく今の方法を続けようと思っている。
来年も引き続きご笑読戴き、ご批判を賜りたい。

2005年12月29日

『旧国鉄官僚』の責任の取り方について

12月25日(日曜日)の午後7時15分、JR東日本の羽越線の特急「いなほ14号」が山形県庄内町で脱線・転覆した事故では、乗客のうちの五名が亡くなり、三十名以上が負傷した。事故を伝える新聞のカラー写真は、白い雪と大破した車両が、寒さと悲惨さを感じさせる。寒さと恐怖の中で、亡くなっていった人たちの痛ましい死に、こちらの心まで文字通り凍る思いである。
8ヵ月前の4月25日(月曜日)、JR西日本の宝塚(福知山)線の事故を思い出していた最中、同社の会長、社長が来年2月1日付で退任することになった、とのニュースが入って来た。
百七名の死者を出したこの事故については、5月1日の『提言と諌言』<国鉄鶴見事故で亡くなった三枝博音>に書いたので、今一度お読み戴きたいが、補償交渉が捗っていないといわれる中、垣内社長が退任後も取締役に残り補償交渉を担当し、南谷会長は相談役のポストに収まる。また、この二人への退職慰労金の支給は当面見合わせる、というから、いずれは規定通り支給されるのだろう。
事故後の6月23日には、井出相談役、坂田・徳岡の両専務が引責辞任していたそうだが、私の関心は、事故現場となってしまったマンションがどうなったかにある。
インターネット上には、南谷会長、垣内社長や井出前会長を非難・攻撃するものが多いが、彼等の胸中は不明である。事故直後に職を辞することで責任を取る、という一般的な責任の取り方を選ばなかった会長、社長だけに、補償交渉が終局したのち、自らの死で責任を取る覚悟をしているのではないだろうか。国鉄のエリート官僚出身ながら、民営化・効率化の旗を振り、三万人の社員のトップに立った最高責任者としては、それも起こし得る行動かとも思えるが、もしそのつもりだとしてもその決行の前に、彼等や現役取締役・取締役経験者が報酬や退職慰労金などを捻出して、被害を受けたマンションを買い上げ、幹部社員用の社宅にし、一階玄関などに慰霊碑を建て、事故を教訓化する策を講じるなど、最後のリーダーシップを取ってからだと思うのだが、どんなものだろう。

2005年12月28日

『規制改革・民間開放』と『新国立劇場』

内閣府に設置されている規制改革・民間開放推進会議が12月21日に決定した最終答申では、公共サービスを官民の競争入札にかける『市場化テスト』法案の次期通常国会への上程と実施を促している。
答申には、来年度に実施すべき市場化テストの対象事業として、社会保険庁、ハローワーク、統計調査、刑務所施設、地方公共団体の窓口業務のほか、科学技術振興機構、日本学生支援機構など6独立行政法人を対象とするよう求め、『官業の民間開放』として、国立博物館、国立美術館、文化財研究所は民間委託を拡大、政府の民間開放・市場化テストに関する議論などを注視し、質の向上の検討や工夫を速やかに行う、などと提言している。
「小さくて効率的な政府」の実現に向けて―官民を通じた競争と消費者・利用者による選択―と題したこの答申の前には、以下に引用する文章が載っている。

≪「規制改革・民間開放」の諸改革の背景に共通する課題は、「官による配給サービス」から「民による自由な競争・選択」へと制度の転換を図ることにある。
 官自身あるいは官が定めた特定の者だけが、官によって予め決められた財・サービスを提供する世界は、どの時代のどの国においても歴史上成功を収めることができなかった社会主義的システムにおける市場の機能を無視する配給制度と同様である。我が国の公共サービスの大部分は、この「配給制度」により支配されている「官製市場」の下にあるといっても過言ではない。「配給制度」は既得権益と非効率を擁護する考え方であり、これを民による自由な競争と消費者・利用者による選択を基本とした公平な市場を、官が責任をもって形成することへの転換を図ることにより、経済社会の発展と、生産者や官の関係者の特殊な利益を擁護することのない消費者を見据えた国民の利益の増大を公正に実現する必要がある。官だけがいわゆる公共公益性を体現できる唯一の主体であるという旧来の発想は終焉を迎えたと言わなければならない。≫

新国立劇場・情報誌『ジ・アトレ(The Atre)』の2006年1月号の巻頭ページは、この新国立劇場運営財団の遠山敦子理事長の「新しい年に向けて」と題する挨拶が載っている。このページの紙面構成・デザインは、政府広報の典型のようで、さすがに官の劇場だけのことはある、と感心させられたが、文章は新年の挨拶という定型・無意味なものではなく、初めて聞かされるような話もあり、興味深いものであった。
そこでは、97年の開場以来僅か8年で国際的にも大変評価される劇場になったこと、優れた歌劇場が参加する「オペラ・ユーロップ」にヨーロッパ以外で初加盟したこと、新国立劇場を訪れた芸術家たちからは、世界で三本の指に入る優れた劇場と評価されていることなどが記されている。また、劇場は国立の名を冠しているが、運営をしているのは民間の財団であり、サービス精神に富んだ劇場にすべく、職員の意識改革にも積極的に取り組んでいる、とある。
「自己宣伝で卑しいことですが」、などと一応断わりながら、新聞や雑誌に掲載されたGOLDONIの紹介ページなどのコピーをお配りすることがあるので、ましてや自分のところの広報・情報誌が手前味噌を並べたてることに、私は寛容なつもりである。
ただし、この時代に「国際的にも高い評価」とは如何なる基準でのことか、「オペラ・ユーロップ」が如何なるものか、そして新国立劇場が世界の歌劇場の三本の指の一つとすれば、他の二本はどこなのか、あるいは新国立劇場の後塵を拝する歌劇場はどこなのかなど、こういう機会にはもう少し具体的に知らしめようとするのが、民間の事業者がする宣伝であり、告知であり、ご挨拶ではないだろうか。
サービス精神や職員の意識改革は、民であれば当然で、こと改めて劇場の利用者・観客に強調するところを見ると、その決意は余程のこと、なのかもしれない。

平成18年度の政府予算案はこの24日に決まった。恒常的な不正受給が明るみに出たこともあり、文化庁の舞台芸術支援制度・新世紀アーツプランと称される補助金制度の予算が大幅に削減されたり、チケットのばら撒きやタレント依存の演劇製作で批判の多い新国立劇場運営財団への委託費用(税金)が減額されることになったりしていないか、文化庁や新国立劇場を微力ながら人知れず応援してきた私には、事の成り行きが心配で、この十日ほどは、『提言と諌言』を書けなかった。

2005年11月07日

『総目次』と『閲覧用書棚の本』

ご案内が遅くなったが、10月23日から、ブログ『提言と諌言』の総目次のページを新たに作成した。昨2004年4月19日の<公演の招待扱い>から、2005年11月4日の<『文化庁助成金の不正受給』について>までの131本の文章を載せた。ご笑読をお願いする。
また、その中で、「閲覧用書棚の本」は、6月20日から9月末まで、13冊の本を23回にわたって書いた。書き始めた当初は、演劇書専門GOLDONIを、9月末で閉店する予定にしていて、閲覧用として所蔵している本の何冊かを紹介出来ればと思っていた。
ご存知のように、このブログは、最初からコメントを付けて戴かないようにしてあって、その分、反応も頂戴しにくいものだが、この「閲覧用書棚の本」については、電話やmail、あるいはご来店、外出先などで、読後の感想を賜ることが多く、中には、「続けて書きなさい。ライフワークになるものですよ」などと、激励下さる方もいくたりかあって、今月から再開することにした。
今回は念の為に、今までの13冊の本を紹介する。是非お読み戴きたい。

6月20日 
『左團次藝談』 二世市川左團次著 南光社 1936年 
6月23日27日 
『寿の字海老』 三世市川寿海著  展望社 1960年 
7月7日9日  
『鏡獅子』 二世市川翠扇著・市川三升編纂 芸艸堂1947年
7月13日 
『歌舞伎劇の経済史的考察』 山本勝太郎・藤田儀三郎著 寶文館 1927年
7月26日 
『獨英觀劇日記』 穂積重遠著 東寶書店 1942年
8月3日11日 
『岡本綺堂日記』 青蛙房 1987年
8月20日23日 
『藝のこと・藝術のこと』 小宮豊隆著 角川書店 1964年
8月26日 
『ひとつの劇界放浪記』 岸井良衛著 青蛙房 1981年
9月7日 
『明治の演劇』 岡本綺堂著  同光社 1949年 
9月10日11日13日 
『九代目市川團十郎』 市川三升著 推古書院 1950年 
9月15日18日21日 
『岸田國士全集』 岩波書店 1991年
9月23日 
『「かもめ」評釈』 池田健太郎著 中央公論社 1978年 
9月25日27日30日 
『加藤道夫全集』 浅利慶太・諏訪正編集 青土社 1983年

2005年11月04日

『文化庁助成金の不正受給』について(続)

関西歌劇団を傘下に持つ財団法人関西芸術文化協会による文化庁助成金(税金)の不正受給問題は、大阪の事件だからだろうが、讀賣新聞大阪本社版の記事と、インターネットでの讀賣ニュースでの報道だけのようだ。
東京の新聞各紙、とりわけ学芸・文化部門の沈黙は不自然で不気味でもある。
10月22日に、この『提言と諌言』で、この不正問題の報道を纏めて紹介したので、今回は一昨日の、同じ讀賣ニュースをダイジェストにして紹介する。

<関西芸術文化協会の不正受給、文化庁がずさん助成>
    ―6公演の収支決算 条件不足を”黙認”―

 文化庁は、同協会主催の計9公演のうち6公演について、助成金支給条件を満たしていない欠格決算を黙認していた。支給条件は、公演経費が助成金の3倍以上で赤字であること。文化庁に提出した収支決算書によると、5公演の経費が助成金の3倍未満で、1公演は「黒字」と報告されていたが、文化庁は助成金返還などの措置は取っていなかった。同庁は「公演前に算出された見積もりに対する助成制度で、実際の支払額は助成金額に影響しない」とするが、ずさんな助成制度自体の見直しが迫られそうだ。
なかでも、黒字は、02年度の「源氏物語」。支出約2600万円に対し、助成金800万円を加えた約2900万円が収入で、約300万円の収益が出たという。ほかにも、04年度の「コジ・ファン・トゥッテ」では、支出約3900万円に、「道具代」「衣装費」の架空請求分が約600万円含まれており、これを差し引くと支出は3300万円。公演には1200万円の助成金が支給されており、結局、この場合の支給条件である3600万円を満たしていないという。
 文化庁芸術文化課によると、助成金は、公演前の見積もりに基づいて各団体などと請負契約したうえで支給。「実際の支払いが少なかったり、収入が多かったりして、契約時の計算書と収支決算書の内容が異なり、支給条件を満たさなくなっても返還を求めない」としているが、同協会の不正受給問題の発覚を受け、「防止策を検討中」
という。
 収支決算にかかわった同協会関係者は「経費が助成金支給条件に足らなくても問題はない、と当時の上司から言われていた。文化庁の問い合わせはあったが、訂正を求められたことは一度もない」と話しているという。

2005年10月22日

『文化庁助成金の不正受給』について

衆議院選挙も終り、行財政改革、行政組織、予算歳出のスリム化についての議論が、自民党からも民主党からも論じられ始めた折、文部科学省の科学研究費などの度重なる不正受給や、文化庁の舞台芸術振興策の柱ともいえる、芸術創造活動支援事業『新世紀アーツプラン』の採択団体が、文化庁(税金)からの支援金を不正を働いて受給していたことが初めて明らかになった。今回は、このことを報じた一連の讀賣新聞の記事から、事実関係を整理してみる。

10月14日の讀賣新聞大阪本社版朝刊1面と社会面には、
<関西芸術文化協会『オぺラ振興で不正受給』>、
14日の同紙夕刊には、
<『寄付金に偽装』大阪市分も不正受給>
との記事が載った。15日付けの産経新聞の記事も参考にして、事態の概略を纏める。

財団法人「関西芸術文化協会」が、2004年度までの3年度にわたって受け取った文化庁の助成金約1億1400万円のうち、計約2700万円を不正受給していた。他にも、大阪府、大阪市の補助金も不正受給していた。
文化庁の04年度までの助成金制度「新世紀アーツプラン」は、舞台芸術でトップレベルの団体に、3年間を区切って、公演経費の3分の1を限度に赤字の範囲内で支援するもの。
文化庁や大阪府によると、同協会は、傘下の関西歌劇団が年3回行うオペラ公演が助成対象で、02、03年度がそれぞれ4000万円、04年度は3400万円を受け取っており、府からも各年度に220万から90万円の補助金を受給している。
元協会幹部らの証言や内部資料によると、03年3月に大阪市内で上演された『源氏物語』では、総経費2千数百万円のうち800万円を文化庁が助成、府は90万円の補助金を支出したという。その手口は、「衣装費」「小道具費」などの名目で、京都の二つの業者に、架空の領収書を作らせ、520万円を支払ったように偽装するという悪質なもの。他の公演でも、約2200万円分の偽領収書で不正を繰り返すなどし、不正受給が常態化していたという。
文化庁と大阪府も不正受給の概要を確認しており、総額が確定次第、協会側に返還を求めるという。

また、16日の同じ讀賣新聞では、
<同一公演なのに異なる決算書、文化庁と大阪府に提出>、
として、この「関西芸術文化協会」が文化庁と大阪府に提出した収支決算書の内容が、支出総額を含めて大きく異なっていたことを報じている。支出総額で約400万円の開きがあり、多くの費目でも支出が相違しているという。その中身は、例えば、「各種アルバイト賃金」は、文化庁の50万円に対し府は約7万円、「チラシ・ポスター印刷費」は、文化庁が60万円なのに府は約20万円。
「プログラム印刷費」は、文化庁が40万円で府は約28万円など、計上された金額がそれぞれ異なり、全体的に文化庁分がかさ上げされている。
さらに、文化庁分に記載された支出総額約2600万円自体、すべての費目を合計しても合致しない、でたらめな数字で、協会が支出総額欄だけ、適当に助成規定をクリアさせる金額を記載した可能性も高い。
文化庁の助成限度の規定に従えば、助成金を減額される支出総額だったため、不正を承知で操作したという。

18日の讀賣新聞は、
<不正受給問題 芸術団体助成巡り文化庁が緊急調査>、
として、文化庁が17日に、音楽や演劇などの芸術団体を支援する制度「アーツプラン」で助成を受ける団体に対し、助成金を不正に請求・受給していないか確認する緊急経理調査を今月中にも始める、と報じた。
 同紙によれば、「アーツプラン」は1996年度に始まり、オペラやオーケストラ、演劇、舞踊など、トップレベルの芸術団体が対象。昨年度の対象は計101団体、約66億円の予算、とある。

この1週間、新聞社を含めて各所から取材を戴く。中にはうちにも調査が入るのだろうかとの心配から問い合わせてくる団体もあり、「架空経費などの操作をしていなければ、問題はないだろう」と言えば、皆一様に沈黙する。「不正はいけません」。私の最後の言葉はいつもこうだ。
10年前の95年、社団法人になり立ての日本劇団協議会の主催する、この助成制度の説明会を聞きに行った。
俳優座の千田是也氏が主催者代表として壇上におられた。私が氏の最後の姿を見た時だった。
文化庁の担当の課長、専門官の説明が終り、質疑が行われた。その中で、劇団協議会のある役員が立った。むこう(文化庁、あるいは国か。)が出すって言っているんだから、貰おうじゃないか。そんな発言だった。反論、その発言をたしなめる声はなかった。私は失望した。公金を投入して何の意味があるだろう、彼等は不正を働くだろう。そう思った。そして、この報道に接した今、そう思っている。96年の実施当初から、不正をしていない、と断言できる団体はあるだろうか。関西文化芸術協会の不祥事が、氷山の一角であることを否定するものはいないだろう。
税金を不正に使う、それ以上に、国民としての務めを果たすことを忘れ、ましてや演劇(音楽)、物作りに対しての不誠実な姿勢は、日本の舞台芸術の世界に瀰漫している。
卑しいものを卑しいと批判する私自身が、知らず知らず望まないことだが卑しい人間になっているのでは、との恐れを抱き、逡巡しながら煩悶しながら、『提言と諌言』を書く今日この頃である。

2005年10月19日

新国立劇場も顔負け チケットをばら撒く『文化庁主催』演劇公演

明日10月20日から23日までの4日間行われる文化庁主催の在外研修の成果公演については、一昨日の、この『提言と諌言』でも情報宣伝に努めた。敵に塩を送るほどの心境ではないが、文化庁からは今のところ挨拶は、ない。
噴出する諸問題の処理で大童の文化庁だろうから、その非をなじるより同情すらするが、こちらからはもうひとつ、新しい情報を提供しようと思う。
この文化庁公演、制作を社団法人日本劇団協議会という文化庁認可の団体が請け負っており、従って文化庁公演と銘打っているが、国の予算(税金)を使って、この団体に丸投げした公演、ということである。
その日本劇団協議会は、2週間も前から、90ほどの加盟の劇団・芸能プロダクション宛に、動員(無償観劇)要請の文書を、ファックスで流しているという。
6月のベルリナー・アンサンブル招聘公演では、芸術監督の思い入れによる高い買物に、嫌気でもさしたのか営業努力を惜しんだ末の辻褄合わせ、なんとか客席を埋めたいと思惑からか、新国立劇場の職員や公演スタッフなどが動員活動を大々的に展開、数千枚のチケットを無償でばら撒いた。(このことについては、7月24日の『提言と諌言』<チケットをばら撒く『新国立劇場』>に書いたので、そちらをお読み戴きたい。)
新国立劇場の動員対策は、電話や口コミでの証拠を残さない方法で行われた。それに引き換え、文化庁・日本劇団協議会の方は、加盟団体向けへの通常の連絡(を装うほどの作為もなさそう。)のようだ。いずれ取り上げるが、文化庁の助成制度が、当然のことながら予算消化を第一義とし、支援先の自助努力、将来の自立、国の支援無しでも存続させるというところにはなく、助成金の対象になる経費を架空に水増しして、赤字額を大きく見せなければ、助成額が下がる、という制度の欠陥があるので、そのことに慣れ切った被交付団体は、チケットを販売することには情熱と関心は既になく、不正受給に精力を注ぎ、体面、形を整えなければならないときには、この動員というチケットのばら撒きで凌ぐのだ。この発想、先の新国立劇場の仕出かしたものと同じだ。今回の文化庁主催公演は、助成公演ではないので、収入は当然のことだが、国庫に入るべきものだろう。今回の舞台と客席がどんな構造かはまだ判らず、4ステージの総座席数(キャパスティー)が何席かも判らないが、例えば1,200席と仮定したら、3,500円のチケット価格で販売すれば、420万円の総売上になる。
出演する俳優からは、チケット販売のダイレクトメールが届いている。何枚出たか判らないが、チケットぴあでも扱っていたから、最初から販売する予定ではあったのだろう。3,500円の正規料金で販売、予約されたチケットを持った有料観客と、そして大量のばら撒き無償チケットに手にした演劇関係者というものが鉢合わせする、明日からの新国立劇場小劇場。「割引はありません。当日預けにします」。出演俳優からの誘いに応えて、チケットを予約した者が、明日、あさって、劇場の受付で目にするものは、日本劇団協議会加盟の劇団などの、ただ見の俳優やスタッフ、養成所の生徒が、ばら撒きチケットを手にするところだ。
チラシ等で公演を知って、チケットを用意したり、予約をした観客が、この光景を目の当たりにしたら、どう思うだろうか。チケットは殆ど売れていないとも聞くから、そんな心配は杞憂だということか。
チケットをばら撒くことを文化庁が認めたのか。文化庁の指示だったのか。それとも、文化庁は与り知らぬことで、「日本劇団協議会が決めたこと。制作担当責任者を呼んで調査する」、とでも仰るのだろうか。
関西文化芸術協会の補助金不正受給、科学研究費の不正.・流用が発覚、厳しさが予想される来年度予算折衝など、難問山積の文部科学省・文化庁。明日からの『文化庁主催公演』のチケットばら撒きなど、取るに足らぬこと、見てみぬ振りを決め込むつもりなのだろうか。

2005年10月18日

おかきや店主の『憂国の情』

何年か前のこと、歳暮の礼に、ある店のおかきの詰め合わせを戴いた。包を開けて、その店の商品カタログの後に書かれていた、その店主の挨拶に些か驚ろいた。
「地球環境問題を解決できるのは、天皇陛下お一人。天皇陛下に奏上申し上げたいが、どなたか陛下にお伝え戴けないか。」
そこに書かれた言葉は、店主の憂国の情が溢れ、感動した、ということはなかったが、大丈夫かなとの心配をしたほどだ。国を憂えるおかき店店主が、天皇にその救済を求めている時、いつもの台詞で恐縮、税金による補助金に骨の髄まで浸かってしまい、既にそれ無しでは生きていけない演劇人たちを批判し、なお一層孤立を深める私は、どなたに助けを求められるか。
最近は、「演劇人ばかりか文化庁や新国立劇場批判が烈しく、ついにキレてしまったのでは」と心配を戴くことたびたびだが、まだキレてはいない、つもりだ。演劇のジャーナリズムや批評の御連中も、それらの演劇人と殆ど変わらず、文化庁や新国立劇場の委員や役職、新聞社制定の演劇賞の選考委員を務めることが余程嬉しいのか、権威権力に靡くこと夥しい。もともと作品のことにしか興味と関心がなく、私が提示するような問題には、演劇人同様に、意識も理解する能力も持ち合せていないようで、新聞や雑誌で、補助金行政や補助金の不正受給の問題について書くべき今も、沈黙したまま。この人たちに助けを求めることは全くの無駄だ。
財務省の高官にはこの『提言と諌言』を読んで呉れている人々もいると聞くが、税金の無駄使いにメスを入れ、検査・捜査もすべき会計検査院や最高検察庁、警察庁の幹部職員とお付き合いがあり、彼等にこの『提言と諌言』を読むように勧めて下さる方は、いらっしゃらないものだろうか。
おかき店のあるじのように、天皇に助けを求めるほどの勇気は今もないが、こうお願いしても、かえって気は確かかと訝る人、怖がってより遠ざかる人ばかりだろうか。

2005年10月17日

『在外研修』を実施する文化庁の『常識』と『言語感覚』

東京・初台の新国立劇場小劇場では、10月20日(木)から23日(日)の4日間、「文化庁芸術家在外研修の成果」と題する文化庁主催の演劇公演が行われる。この公演のチラシには、御丁寧なことに、「※文化庁芸術家在外研修(平成14年度から新進芸術家海外留学制度)」との記載がある。そこには、<文化庁では将来の我が国芸術界を担う芸術家を養成するため、昭和42年度から若手芸術家を海外に派遣し研修の機会を提供する「芸術家在外研修(新進芸術家海外留学制度)]を実施しています。これまでに派遣された芸術家は2,000人を超え、現在の我が国芸術界の中核的な存在として国内外で活躍しています。>と書かれている。
7月1日の『提言と諌言』の<在外研修制度利用者を自衛隊予備役に編入せよ>にも書いたが、この制度は、人事院が実施している「行政官長期在外研究員制度」の文化庁版とも言うべきものかもしれない。そこにも書いたが、最近はこの人事院の制度利用者のうちから、研修先の海外の大学院から戻ると、すぐに民間企業に再就職したり、独立起業するものが続出、官費(税金)による官離れ、独立支援のための留学になっている、との讀賣新聞の批判に、不承不承、人事院は、帰国後5年以内に官庁を辞めた者から留学時の授業料を返還させる(のではなく、その旨の念書を制度利用者に書かせる)ことにしたという。
文化庁のこの在外研修制度、どういう利用からか14年度からは留学制度と名称が変わったが、偶然だが、先の所謂、若手キャリア官僚を対象にした人事院のものとほぼ同数の2,000人超の派遣規模になっているという。
ただ、人事院の方の制度利用の経験者は現在、主要官庁の現役官僚、トップの事務次官から課長補佐、総括係長ポストの若手までのキャリア官僚である。どうあれ、日本の行政の中枢、あるいはその周辺の者ばかりだ。そして彼等の派遣は2年間。留学先は欧米の大学院あるいは研究機関である。これに対して、文化庁の制度利用者の場合はどうか。音楽、美術での派遣研修先は、概ね芸術大学(院)のようだが、演劇は違う。大学院などの教育研究機関に学ぶ者はほとんどいない。劇場で多少の研修をさせて貰うという程度の者から、偶にワークショップに参加し、専ら在留の日本人と交遊していた者、高校新卒でも入る「演劇学校」に通った者など、その実態は「留学」というものには程遠い。2年間、1年間、3カ月などの研修期間に、官費(税金)を使い、文化庁のお墨付き、大手を振って遊んできた、というものが大半である。帰国後の文化庁に提出する、形ばかりの研修レポートも自分で書けず、研修先で世話をした現地斡旋人に書いてもらう者が続出。1年の派遣でロンドンに遊んだ劇作家たちは、研修よりも戯曲やエッセイの仕事に精を出していた。研修先は任地扱いになっていて、途中帰国や研修地を離れてはいけないことになっているはずだが、中にはロンドンを離れ、香港で人妻のタレントとのアバンチュールを楽しんだ者まで出る始末。
さて、「芸術家」の「留学」というこの制度利用者で、「国内外で活躍してい」る芸術家とは、どんな人なのか。先に書いた7月からずっと思い出そうとしているが、その一人も思いつかない。
「音楽界」で言えば、小澤征爾、大植英次、大野和士、佐渡裕あたりが海外で(も)活躍する日本人指揮者だが、彼等はこの制度利用者ではない。ロンドン在住のピアニスト・内田光子やニューヨーク在住のヴァイオリニストの五嶋みどりは、「国内外で活躍」、というよりも海外で活躍する数少ない日本人演奏家だと思うが、彼等も違う。作曲の細川俊夫は、10年ベルリンで学んだが、彼は当然自費留学組だろう。坂本龍一が在研組とは聞いた事がない。
「演劇界」では、国の外で活躍している人を全く知らない。ニューヨークとかロンドンで、文化庁や国際交流基金などの支援を受け、数ステージの公演をしてくるくらいのことを、文化庁や演劇担当の新聞記者か演劇評論家、ライターのほとんどの世間知らずは別だが、真っ当なバランスのある常識人は、「国外で活躍」とは言わない。
したがって、「国外で活躍する」在外研修制度利用者の演劇人は、ひとりも存在しないのだ。
引用した文化庁の文章にある、「芸術界」「若手芸術家」との言葉に、違和感を感じる。この「芸術界」という言葉を、口にしたり目にしたことが今までなかった。「若手芸術家」もそうだ。「芸術界」同様に文化庁の造語だろうか。「若手漫才師」「若手噺家」「若手舞踊家」とはよく言うが、彼等もこれからは「若手芸術家」なのだろうか。
では、文化庁が40年で数百億円を使ってまで実施しているこの制度、果たしてその成果は?
行財政改革が叫ばれている折も折、文化庁としても施策の必要性正当性をアピールする機会でもあろう。
貴重な税金を使っての本腰の入ったものだろうから、なんとか時間とお金をやりくりして、国民のひとりとして、在外研修の「成果」を、文化庁の施策の「成果」を、しっかり確認してこようと思っている。

2005年10月16日

『演劇製作』を学んでいた頃

7月22日の『提言と諌言』には、<昨今の『演劇製作』について考える>と題して、舞台費について書いた。今回は全国公演における移動費について書いてみたい。
今から三十年近く前の1970年代後半の話だが、業界トップの生命保険会社が主催するミュージカルの全国巡回公演の制作を担当していた時のことである。この公演は、東京での公演ののち、札幌、名古屋、大阪、神戸、福岡などの大都市で、各地教育委員会等との協力により小学校招待で催されるもので、キャスト・スタッフは四五十人規模にもなる大型・長期の公演。一行の移動は、当然だが長い距離となり、その運賃も旅公演予算の中で大きな比重を占めていた。
移動に掛る経費の算出は、その行程に沿って一人あたりの費用をもとに参加者の総数を積算して求める。例えば、ひとり20万円であれば、50人のキャスト・スタッフであれば、1,000万円である。
この保険会社はこれら経費の全額を請求させてくれるが、東京ー札幌、札幌ー福岡、福岡ー東京などの移動は無論、東京ー大阪、神戸ー東京などの新幹線での移動を認めず、すべて飛行機の利用を求めてくる。なぜか。先方は日本の航空会社の数パーセントの株式を所有する企業であり、大量の株主優待券を保有しており、それを一挙に数百枚単位で処理できる絶好の機会として、例えば航空運賃の半額相当の支払いをその優待券で済ませ、差額だけを支払ってくる。金券ショップなどで換金すれば額面や割引額の90%台になってしまうが、こちらに現金代わりに使わせれば、1円の損もない。
普段は、公演地の何ヶ所かを跨ぐ格安の長距離鉄道切符の購入や、航空会社との団体枠での割引や早期購入割引、タイアップ交渉などを積極的に行い、経費の削減に努めたが、さすがにこの保険会社が相手では、その手段が使えず、却って先方の強引なまでの経費削減策に感心してしまった。民間の、それもリーディングカンパニーの原価意識の徹底振りを学ぶ貴重な体験でもあった。 
これが文化庁の当時の移動芸術祭やこども芸術劇場などの全国巡回公演の場合は、先述の手だてを駆使した削減努力が功を奏して、常に数パーセント、時には2割近い経費減に繋げることが出来た。こちらのキャスト・スタッフが減員になり、その分の諸経費の減額を事前に申告しても、その当時の文化庁の担当官は、請求額の減少をとくに嫌った。何故ならば、予算は決めた時点の額をきれいに使い切ってこそのものだからである。残ってしまえば、次年度の予算折衝がマイナスベースの前提にならざるを得ない。だから、決めた額を全額使ってくれなければ困るのである。
三十年も前の話であるから、行財政改革が進んでいる今日、文化庁の役人たちも、変更が出て経費が減るならばその分を返せ、もっと削減努力をしてくれと、所管の関係団体や補助金・助成金の被交付団体には、口が酸っぱくなるほど言って回っているかもしれない。
時代は変わったか。

2005年10月09日

『限定営業』幕開きの第1週

9月13日のGOLDONIの開業記念日にお送りした挨拶mailと、先日お送りした週末二日の限定営業のご挨拶mailに対して、今もご返事をお送り戴いている。先ほども、「店を閉じてしまうのかと心配していたが、金曜・土曜に開けてくれるのは有り難い。負担も大変だろうが頑張って欲しい」、「前のようには簡単に会えない分、HP、『提言と諌言』で、発言を知りたい」という激励のmailが続いた。
先週の月火水の三日は、ガラス扉の錠を閉め資料調べなどをしていたが、その三日とも、四季の元同僚や、他劇団出身の俳優など旧知の人たちが前触れもなく訪れ、彼等とゆっくり話が出来た。
木曜日は遠出をしてファミリーミュージカルのプレヴューを見、同席した旧知の新劇団演劇製作部門の青年と久しぶりに長時間話し合った。
金曜・土曜は古書即売会が開かれているからか、本好きのサラリーマンなど、初めてのお客様が続いた。メイルアドレスを知らず、週末限定営業をお知らせしていないご常連が数名来店された。
さて、明日からの2週目、とりわけ金曜・土曜の限定営業はどんなものだろうか。

2005年10月03日

週末二日の営業を始める『GOLDONI』

先週末をもって、5年続けてきた『演劇書専門GOLDONI』の通常の営業を終えた。開業日にあたる9月13日から数日にわたって、mailでその旨のご挨拶を三百通ほど送信させて戴いた。以来、週末を中心に、そのmailと、当方のHPで通常営業の終了を知った方々の(中には初めてのご来店も。)最後のおつもりかもしれないご来店が相次ぎ、先月末の29日30日は、そんな事態を知らないフリの本探しの客もおちおち本を選んでいられないほど、時間によっては店内も店の外も、私を訪ねての訪問客で溢れ、碌にお相手も出来ず、お心遣いを賜っても数分でお帰り戴くようなことも多く、路地の周りの住人たちも、何の騒ぎかと覗きに現われるほどであった。

9月13日がGOLDONIの5周年であること、9月末での通常営業の終了と、次の構想の準備に入ることの案内と、HPのご笑読をお願いするmailであったが、来訪者の中には、この『提言と諌言』をお読みで(深読みされてか)、現在の演劇状況に絶望して、私がGOLDONIを畳み、どこぞへ消えてしまうのではとの懸念を抱いておられる方も多かった。中には休暇を取ったり早引けをしてお越し戴いたり、遠方から訪ねて見えた方も多かった。過分なお心遣いを賜ったりもしたが、そこには明確に餞別の意が含まれているものもあるかもしれず、また期せずして、来訪者それぞれの交情の念を改めて感じさせて戴く機会にもなった。

事前の来店予約制の営業形態を10月から始めようと計画していたが、30日の深夜になって、週末の金曜土曜の二日に限って店を開け、レファレンスなどに務めることを急遽決めた。週の他の五日間は、構想している『演劇空間GOLDONI』(仮称)のための調査研究と、事業の支援協力を依頼するために充てようと思っている。
事業の中身は、まだ固まってはいない。まだ固めようとはしていないというべきかもしれない。私ひとりでその青写真を描こうとは思っていない。当方のHPをお読み戴き、私の『提言と諌言』にお付き合い戴いている方が、協力してやろう、手伝いたいと、お声を掛けてくださることを、鶴首してお待ちしている。

2005年08月15日

バイエルンの招待者は首相ただ一人

この秋には、ドイツ・ミュンヘンからバイエルン州立歌劇場が来日、ワーグナーの『タンホイザー』、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、ヘンデルの『アリオダンテ』の3作品を計9公演、同劇場音楽監督のズービン・メータ指揮のコンサートが2回予定されている。10月には、オーストリアからウィーン・フィル、ドイツからベルリン・フィルが続々と来日する。政府・自治体の助成金(税金)が引き出し易いからか、「日本におけるドイツ年」に便乗、海外演劇事情に疎い芸術監督や制作担当者が作品の水準も推し量れずに、仲介者などの言うままにか買わされた作品を上演、顰蹙を買うこと度々の新国立劇場を始めとする日本の行政立ホールの主催した演劇公演とは違い、クラシックの音楽会は、民間音楽ホールや招聘団体の企画だけに、チケットも高いが吟味された定評のあるものを聴くことが出来る。
今回は、このバイエルン州立歌劇場の話である。
今年の4月9日に東京・赤坂のドイツ文化会館で催された昭和音楽大学オペラ研究所主催のシンポジウム『オペラ劇場運営の現在』には、残念ながら出席できなかった。先月だったか、GOLDONIのご常連の内山崇氏から、このシンポジウムを聴講したと伺い、気になって早速に主催者である昭和音楽大学に問い合わせて資料を頂戴し
た。当日の講義録は制作中とのことで、後日に送って戴くことにした。
内山氏の関心も、また私の関心も、この日の基調講演者だったこの歌劇場の総監督(Staatsintendant)であるピーター・ジョナス(Sir Peter Jonas)にある。ジョナスについては、オペラ通でもない私でも長く知っているほどの人物なので、多くの方がご存知だろうから詳しくは書かないが、イギリスとアメリカの大学、大学院で文学とオペラ、音楽史を学んだのち、ショルティ率いるシカゴ交響楽団の芸術監督(8年)、イングリッシュ・ナショナル・オペラの総監督(8年)を経て、1993年からバイエルンの総監督を務める辣腕のディレクター。来年7月までの05/06シーズンを最後に引退、その後は音楽の世界と別れ、第二の人生を建造物や絵画の鑑賞、長距離歩行などで楽しもうとしているそうだが、最近は07年からのザルツブルグ音楽祭総監督の最有力候補とも言われている。
講義録が入手出来たら、改めてその詳細を書くつもりだが、今日は内山氏から伺ったお話で、最も興味深かった、ジョナスの経営改革についてのエピソードを書く。が、その前に日本の歌劇場である新国立劇場について書く。
新国立劇場の「平成16年度の事業報告」によれば、オペラ公演の有料入場率の最高は、野田秀樹演出による新制作『マクベス』の91.8%(しかし残念なことに、この『マクベス』の再演は、60.1%と記録的な不入りに終った。)。この『マクベス』は、客席数1,814のオペラ劇場での6回の公演なので、単純に計算すれば、総キャパシティは10,884席。これの91.8%は9,991席。差し引きすると893席が売れ残りか招待・非売の席だったことになる。初日からチケットは売り切れていたと聞いたが、それが事実だとしたら、仮に893席を一般料金21,000円で売ったとしても売り切れたことだろう。その合計額は18,753,000円である。2千万円近い大金を無駄にしていると思うが、毎年50億円を超える税金が投入される天下の新国立劇場にとっては、この2千万円は端金なのだろう。
オペラについての知識・造詣は無論のこと、またその企画力は当然として、歌劇場の統率、運営にも定見を持ち、采配を振るって来たジョナスが書いた、彼の最後になる05/06シーズンブックのはしがきの一部を英文そのままに引き写す。
At the time of writing,in early 2005,we are riding on the crest of a wave of public success supported by public loyalty.2004 again broke all attendance records and,yet again, showed increased financial receipts beyond our expectation.The extraordinary level of tikket sales and sponsorship income recently has shielded us from the slings and arrows of political fortune and misfortune.
いかに観客を増やすか、支援を受けるかは、公共劇場の命題である。国家・行政の政治的あるいは人事的介入をどう避けるかは、芸術性を高め独立性を保障・担保するためにも重要なテーマである。ピーター・ジョナスの歌劇場運営改革の一つに、公演の観劇招待という慣行をやめたことが挙げられる。招待状が届かなくなった人々からの招待の強要・無心には、『チケットはご用意します。(引き落としの)クレジットカードの番号をお知らせ下さい』とだけ答えたという。
そして現在、バイエルン州立歌劇場の招待者はバイエルン州首相ただ一人だそうである。   
新国立劇場の演劇公演では、6月のベルリナー・アンサンブル公演だけでなく、不入りな公演ではチケットを大量にばら撒いていると聞く。オペラやバレエの主催公演では、1階2階正面の最高価格席に、この劇場の理事や評議員あるいは職員が座り、その何人もが寝入っている姿を度々見掛けるが、彼らがチケットを購って観ているとは思えない。劇場関係者に、舞台稽古でなく、本公演を最高価格席で観せる神経も、また観る度胸も私には無いが、こんなところからも改革の手をつけなければいけないだろう。
新国立劇場の改革を推進するといわれる遠山敦子理事長だが、その見識と辣腕を多いに期待する。

2005年08月02日

蜷川『リア王』の二分された劇評

先月末に販売用の本棚を整えていて、蜷川幸雄著『NOTE増補1969-2001』が棚から大きくはみ出ているのが目に止まった。それを手にしてパラパラとめくっていて、巻末にある扇田昭彦氏の「蜷川幸雄の闘いと変化」という文章を読んだ。その中には、埼玉とイギリスで公演した『リア王』についての言及があり、蜷川がロイヤル・シェイクスピア・シアター初のアジア人招聘演出家であり、その「日本的色調を強く打ち出した蜷川演出に対して、ロンドンの新聞劇評は批判と肯定へと、評価が大きく分れた」とあった。「ガーディアンの劇評家マイケル・ビリントンは『蜷川新演出を酷評した批評家はなぜ半分しか正しくないのか』という異例の論評を書き、蜷川演出に批判的だった他紙の劇評家の不公平さをたしなめた」ともあり、このあたりの事情を書いたと思われる、私にとっては未読の参照資料をあげていた。
「不公平な」新聞劇評がどんなものであったのかが気になる。お越し戴いたり劇場ででもお見掛けしたら扇田氏に伺ってみようと思った。
今日、久しぶりに資料の整理をしていて、ある学会の研究集会での研究発表の資料に、この『リア王』についてのものがあり、巧い具合に、「二分した劇評」との括りで、彩の国さいたま芸術劇場、バービカンシアターでの公演での新聞劇評を載せていた。バービカンの劇評が、扇田氏が言われるところの不公平な劇評なのかも知れない。
その資料から、「二つの劇評」を採録させて戴く。
「細部に多くの新しい解釈を加えつつ全体を正統的にまとめる。より成熟した演出がなされている。(中略)主演のナイジェル・ホーソンはさすがに風格のある演技。前半はもう少し愚かしい激情がほしいが、狂気に陥ると、演技におかしみが生まれ、舞台が弾む。」『朝日新聞』1999年9月27日
「ああ、このプロダクションは、この万人の共感を呼ぶ才能あふれる喜劇俳優が、賞賛の歓呼の中で、引退の花道を歩む道を閉ざしてしまったのだ。(中略)英国の俳優と仕事をするとき、蜷川は弱点を露呈する。つまり人物解釈や、テクストの掘り下げよりも、明らかに演劇的効果を大切にするという点である。傑出した俳優たちは、何のよりどころも与えられず、自分の技術を頼りにするのみなので、時には別の作品を演じているように見えてしまう。(中略)しかし、この作品を本当にもて余していたのは蜷川なのである。」『インディペンデント紙』1999年10月30日

2005年07月27日

先達の予想的中の『新国立劇場』

新国立劇場が設立されるまでの経緯について、久しぶりに復習していて、これに参画した何人かの演劇人の当時の発言にとくに興味を覚えた。今回はその決定版とも言える資料から抜粋して書いてみる。
多くの演劇製作団体が加盟する社団法人日本劇団協議会の前身である任意団体・新劇団協議会の機関誌『会報』73号(1984年7月発行)に、第二国立劇場(現在の新国立劇場)問題をテーマにした、劇団俳優座代表の千田是也氏と劇団四季代表の浅利慶太氏による対談が載っている。

千田是也氏「あんなところに自分で首を突っこんでみたって、どうせ大したことはないんだ。みんないままでよりももっと積極的な関心を持って、おれたちの税金、下手に使うなということだけ見張っていればいいと思うんだな。(中略)
世界の国立劇場の歴史が示しているように、だれがやったって官僚化するものですよ。まして文部省からの天下りがたくさん乗り込んで来るおそれがあるだろうし。それから、これは第一国立劇場の管理の仕事をやっていた人に聞いたんだけど、芝居をやってた人間の方がずぶのお役人よりももっと官僚的になるそうだね。(中略)」

浅利慶太氏「第二国立劇場で一番心配なのは、二流の芸術家が官僚化して、あの中に閉じこもったら、サザエの一番奥のところにダニが入ったかっこうになっちゃってね。ほじくり出すのに困っちゃって、日本芸術の最大のガンになる。それを何としても防ぐということじゃないですかね。(中略)
芸術団体のわれわれがいまから農協の後を追っかけてもしようがないんであって、別の形で政府からもっと金を出させた方がいいと思うんですね。新劇団に対するいまの形の補助なんて要らない。もっと基本的に芸術創造というものに対する認識を改めて、それに対する国家の思い切った文化政策をたてさせ改めて必要な基盤に投資させる必要があるということです。(中略)
僕はわりと文部省に限らず行政官庁にはっきり物をいってますが、補助金をもらっていないからです。官のひもがついては何もいえません。」

新国立劇場については、官僚以上に官僚化してか怠け切る劇団・商業劇場出身の職員、ダニのようにか劇場の企画・運営・養成に入り込んでしまった実際家や評論家の怪しい行状を見聞きするたび、演劇に対する文化庁の助成・補助については、不適正な受給などの噂を耳にするたび、この対談にある21年前の二人の先達の予想が現実となり、戒めが活かされていないことを痛感する。不作為、怠業は日常的であるが、法律違反として追及できず批判をすることしか出来ないが、助成金(税金)の不正受給は犯罪である。
文化オンブズマンや司直の手を煩わす前に、何とか自浄することが出来ないだろうか。演劇の外の人たちの『提言と諌言』を期待する。

2005年07月24日

チケットをばら撒く『新国立劇場』

6月17日に三軒茶屋の世田谷パブリックシアターで、シャウビューネ劇場の『ノラ』を観た折、ロビーで出会った制作責任者から、新国立劇場の『アルトゥロ・ウイの興隆』は集客が苦しそうと聞いたので、さぞ閑古鳥の鳴く客席になるのだろうと思っていた。しかし、22日の初日や翌日の公演を観た何人かの来店者に訊くと、満席ではないが八割程度は客席が埋まっていたという話で、最後になって営業努力や宣伝が効いたのかと思い、前もってチケットを購入していた28日の夜の公演を観に行った。中劇場の入口付近には、劇団四季出身の複数の職員始め、普段はロビーで見掛ける事のない多くの事務職員や技術スタッフなどが客待ちげに立っていたり、あるいは来場者と挨拶を交わしていた。彼らの何人かの手やポケットには、束になったチケットがあった。案の定、チケットが売れていたのではなかった。チケットをばら撒いたのだった。職員が待っていたのは、挨拶を交わしていたのは、只見の誘いに応じた演劇関係者や学生・養成所の生徒だった。
初日直前になって販売を諦めたのだろうか、職員、公演の舞台スタッフ、公演関係者から大学の教員、新劇団関係者や養成所などに、証拠を残さないためもあってかFAXではなく口伝てや電話で只見の誘いをしたようで、恒常的なことかどうかは知らないが、「動員」態勢を取ったのだろう。5月には、朝日始め何紙かの新聞劇評でも、井上氏の台本の遅れを指摘されたほどの演劇製作部門のていたらく、その直後の海外招聘公演の、目を被うほどの不入りが露見すれば、さすがに社会的な関心、批判を受けることにもなる。そんなことを恐れたのだろうか。ガラガラの客席では、ドイツからの遠来の客に失礼との配慮もあるだろうが、だとしたら、早くから劇場あげての本腰の入った販売努力があって然るべき。職員が一人あたり二三十枚のチケットを売っていれば、総キャパシティ七千席程度の興行としては成功裏に終っただろう。
今回の公演は、ベルリナー・アンサンブルへの出演料を含む総経費が何億円なのかは詳らかではないが、今回のチケットの売り上げでは、彼らの東京での滞在費用すら賄えていないだろう。
「新国立は只見が度々出来るので、チケットを買う必要がない」と、何人かの製作団体・劇場関係者や演劇批評・ライターが悪びれもせずに言った。只券を撒けば席は埋まるが、その連中は次もチケットを買わずに只見を決め込むだろう。
年間に50億円を超える税金が投入される新国立劇場だが、自腹を切ってでも観劇して、研究に励もうという心掛けとは無縁な、不心得な演劇人や関係者の、唯でさへ高いとは言えないモラルのますますの低下を助長している。看過出来ない事態である。
衆参両院の文部科学委員会なり財務省の主計局なり文部科学省なりが聴聞や監査・調査を、あるいは社会の木鐸たる新聞社の社会部あたりが調査取材をすれば、迷走する新国立劇場の運営の実態、チケットをばら撒いて席を埋めるなどという、怠慢で不謹慎なことが常態化しているのかどうかも明らかになるだろう。

2005年07月22日

昨今の『演劇製作』について考える

昔語りで恐縮だが、劇団に所属して製作管理を担当していた二十代半ばの頃の話。ある科目の予算の執行管理をしていて、トップからコスト節減の厳命が下ったことがある。他の新劇団ばかりか興行資本よりもコスト意識が高いことでも知られていた劇団だが、年度の途中でも原価の見直しなどが要求された。期末にその年度の支出を締めてみると、当初の年度予算案の10%強、二千数百万円の削減になっていた。トップに報告すると、「自分で予算案を作り、それを自分で執行して1割カットしたから何なんだ。最初から甘めに高く見積もれば、いくらでも削減できる」と叱責を受けた。私には意図的に高い見積もりで予算を組んだ覚えもなく、何人かの上司の修正が入ったものでもあったが、このことで、予算案の作成者が執行責任者にもなる演劇製作、とりわけ製作管理業務の難しさを教えられた。
その数年後、独立して演劇製作会社を始めた当初のこと、製作の方針や舞台美術予算を提示する必要もあり、演出者と舞台美術家の最初の打ち合わせに立ち会ったことがある。その折、両者から縦長の客席を少しでも変えるべく、客席を潰して舞台を張り出したいとの提案があった。私もその案に同意したが、「ただ、収支予測も立てて臨んでいる事業。舞台美術費も提示した通り。客席潰しによる減収分(料金×席数×公演回数×有料入場率)は、美術費とする」と話した。両者はともに初めて聞くような製作者の論理に、それぞれが不満を口にしたが、譲らない私に押し切られて不承不承受け入れた。
残念ながら力足らず、二十年ほどは舞台の現場から離れているが、演劇製作における予算、その予算執行管理とはそういうものだと今も強く思っている。
最近の演劇製作はどうだろうか。
かつての新劇団や、アンダーグラウンド系、大学演劇出身などの小劇場系の劇団などは、多かれ少なかれ所謂どんぶり勘定で演劇製作をしてきた。コスト意識など芽生えるはずもない。1990年以降の舞台芸術を取り巻く環境は変わり、なかんずく行政による支援・助成が恒常的なものになった。劇場・ホール、劇団などの製作団体、挙げ句の果ては芸能プロダクションにまで、国、地方自治体から、多いところは億を超える金額が毎年投入されるようになった。コスト意識がなくとも、集客努力はしなくても、多額の助成金に有り付ける。1公演あたりせいぜい2千、3千人しか集客できない製作団体にも数千万円の助成金が委託事業費などの名目を使って交付されており、中でも賢しい連中は海外の演劇フェスティバルなどに参加し、国際交流だの文化発信だのとの、取って付けたようなこの国の痩せた文化政策に便乗して、文化庁や国際交流基金などからの助成金を手に入れている。
そんな遅れて来た行政主導の文化バブルの昨今、年間50億円を超える税金が投入されている新国立劇場だが、この劇場のコスト、集客、作品創造などに現われる役職員・事業協力者の倫理や意識は、はたしてどんなものなのだろうか。

2005年07月21日

新国立劇場の『海外招聘公演』

今年はドイツ年(『日本におけるドイツ2005/2006』)ということで、3月にはフォルクスビューネ劇場、6月にはシャウビューネ劇場が来日した。同時期の6月下旬、劇団ベルリナー・アンサンブルが、ベルトルト・ブレヒト作、ハイナー・ミュラー演出の『アルトゥロ・ウイの興隆』を新国立劇場で公演した。新国立劇場の海外招聘公演は、2001年9月のアリアーヌ・ムヌーシュキン率いる太陽劇団以来、このベルリナー・アンサンブルで4回目。02年9月に行われたペーター・シュタイン演出の『ハムレット』(モスクワ国際演劇協会製作作品)については、同劇場の演劇部門芸術監督の栗山民也氏が、この作品を招聘する事を条件に芸術監督を引き受けたと、どこかで発言していたことがあり、遠来の客への社交辞令を弁えた物言いを知っていることに感心した事がある。ただ、この発言が(無論、この姿勢が、である。)が災いしたか、足元を見られたのか、法外とも思える上演料を先方に払ったと、演劇業界の噂に疎い私も、新聞記者やフランス演劇通から度々聞かされた。前後するが、太陽劇団の公演では、パリ・ヴァンセンヌにある彼らの拠点である旧弾薬庫=カルトゥシュリーを模しての事か、奥舞台をステージに、主舞台を客席に変えるなど、中劇場を長期間にわたって閉鎖しての大掛かりな改装を施し、その無駄な金と労力と時間の浪費が公演以上に評判を取った。この4月に、東京都現代美術館の隣りにある木場公園で仮設の劇場を作って公演した『ジンガロ』を観て思ったが、新国立劇場の栗山氏や制作担当者は、都内の空き倉庫を探してでも、あるいは『ジンガロ』のように仮設の劇場を建てるなどの方策をなぜ採らなかったのだろうか。
 採算は無論考慮せず、穴は税金で埋めれば良いとの無責任な役人根性すら透けて見える製作姿勢だと思ったが、これは私の偏見だろうか。

2005年07月06日

『新国立劇場』への諌言の波紋

5月25日の『提言と諌言』で、新国立劇場の井上ひさし氏の新作『箱根強羅ホテル』の製作姿勢について、劇場の管理運営の杜撰さを含めて指摘した。普段は日に百件のアクセスも望めないブログだが、せっかく指摘させて戴くのだからと、メールアドレスを交換している方のうちの二百名ほどに、その旨のご案内をメールでお送りした。その直後から、ご自身の加入しているメーリングリストで、このブログを紹介して下さるとか、メールを転送したり、FAXやプリントアウトなどして、他の方へ一読を勧めて下さるなど、私の予想を超え、多くの方に読んで戴いたようで、ブログのアクセスは掲載からの一週間で二千を超えた。官の劇場としては想像通りの無責任な製作態勢、井上氏の台本が公演初日の三日前に仕上がる、という異常事態を指摘する内容を含んだものだったが、読後の感想を寄せて下さった方々の多くは、もっぱら演劇関係以外の方々。その中でも、文部科学省、文化庁との関わりのある教育や美術などを専門とする方々は、異口同音、「新国立劇場でも、本省や他の官立の施設と同様、無責任な、如何にもの予算消化、その場凌ぎの仕事をしているのか」と、怒りや失望をメールや電話で語っていた。
今回の私の指摘について、演劇関係なかんずく、井上氏と親しいらしい新聞記者や批評の人たち、劇場関係者から、「井上さんが遅筆なのは有名」「チケットは公演の初日が延期されることを見越して、後半を用意するのが通というもの」などの感想があり、概ね、「そんなことも知らなかったのか」「騒ぎ立てるほどのことでもない」とでも言いたげなものばかりであった。古い話で恐縮だが、雑誌『文芸春秋』による田中角栄金脈追及の折、立花隆氏らの追及した内容に、全国紙の政治部社会部の記者などマスメディアの者達が、「そんなことは前から知っている」と冷笑した、と聞いたことがある。だったら何故書かない、と当時憤ったものだが、久しぶりにそんなことを思い出した。立花氏らの追及と私の批判とは次元も違うし、時の権力者であった田中角栄氏と二大政党化の中で埋没する日本共産党の支援者の井上ひさし氏を同列に置く気もないが、権力者の取り巻きのような連中も掃いて棄てるほどいる新聞記者や批評家、いとも簡単に業界人に成り果て、観察者・批判者であることを忘れてしまうことは、政治でも演劇でも同じなのだろう、か。
「あんなことを書いてしまって、後々に困ることになったり、嫌がらせを受けるのでは」と親切心で忠告してくれる人たちからの連絡も数件あった。美術界に詳しい友人に、「今度の件で、文化庁のブラック・リストに載ったはず」と冗談口をたたかれたが、もともと当方の言動にさほどの評価がある訳でもなく、GOLDONIに文教族の国会議員は来ても文化庁の役人が来る訳でもなし、新国立劇場周辺の者たちの多少の無視、嫌がらせや中傷は続くにしても、当方に大きな被害やリスクはないだろう。
このホームページに、6月28日から、光産業創成大学院大学教授の北川米喜氏の『現代演劇と国家保護は矛盾する』を掲載している。ご一読をお勧めする。
最近の寄稿エッセイのコーナーには、武田明日香さんの『演劇の時間と空間』、菅孝行さんの『鎌倉大学の教育』、志村光一さんの『改革のスピードと大人の居場所』、の三本を掲載、明日からは平井愛子さんの『アメリカの演劇養成』の連載が始まる。
私は、二十歳の若書き、拙い小論である『八世市川団蔵について』を発表した。このブログでは、『閲覧用書棚の本』という本に纏わる小文を書き始めた。「長すぎる」と叱られること度々のブログだが、辛抱・覚悟してご笑読戴きたい。

2005年07月05日

『銀ぶら』と『心の師』

五十年に及ぶ銀座通い、などと気取っているが、幼少の折は家族に連れられての散策などが主だから、一人ででも出掛けるようになったのは、この四十年ほどのこと。6月30日の『提言と諌言』にも書いたが、銀座通いと言っても、百貨店の地下で、贈答品を選ぶことがもっぱら。「銀ぶら」らしいことはあまりしていない。偶に、午前中に出掛けた折に時間があれば、昭和通り沿いの二軒の古書店を覗き、スワン・ベーカリーで、幾つかのパンを購う。
このスワンのことは、ブログでも何度か書いたことがあるし、個人的にも勧めることもあり、また開店以来の報道などで既にご存知の方も多いと思うが、障害者の雇用の場を作る目的で作られたパンのチェーン店。授産施設・障害者共同作業所で働く障害者の平均給与が一万円を切ることを知った福祉財団の理事長が、「保護ではなく、自立を支援するのがノーマライゼーション」と考え、実践したパン・チェーン。この店で働く障害者の月給は十万円を超えると言う。現役の企業経営者時代にこの経営者は、「業界保護」や「規制」にしがみつき、権力を笠に着る官僚組織と度々衝突、「官から民へ」という規制改革の流れに大きく貢献した。
偶に私が購う三つ四つのパン代では、店にとっては何のたしにもならないが、私がこの店を度々訪れる目的は、こんな経営者の精神に触れ、己が志と品格と良心を持って行動しているかを確認する為である。
「真心と思いやり」に努める敬虔なクリスチャンでもあり、義太夫や小唄を好む粋な大人でもあった彼は、この6月30日に亡くなった。
元ヤマト運輸会長の小倉昌男氏、享年八十。お目に掛かることは無かったが、我が心の師であった。

2005年07月01日

在外研修制度利用者を自衛隊予備役に編入せよ

中央官庁の若手官僚を2年間、海外の大学院などに留学させる、人事院の「行政官長期在外研究員制度」。40年ほど前から実施され、既に制度利用者は二千人を超えるという。最近はこの制度を利用した官僚が、帰国後に直ぐ退職し、民間企業に再就職したり、起業、あるいは政治の世界に入るなど、留学の本意から逸脱、制度の食い逃げが常態化しているそうで、以前からこの問題を読売新聞が追及していたからか、ついに人事院も不承不承、統一ルールを作ったという。その中身は、「帰国後5年以内に退職した場合、授業料分を返納する」という確認書を留学者に提出させるというもの。
拝金主義こそが美徳のこの日本で、国家に国民に仕えようと志し、勉学に励んで官吏になり、あまつさえ、海外で2年も学んで来ようという青年たちに対し、食い逃げを防止する策を弄するなど、何とも姑息で卑しい。5年以内に辞めてはならない、との姿勢で臨むならば、授業料だけでなく、渡航費用や給料・手当などの返還を求めることが筋だろう。制度として必要なことは、こんなことではない。国家・国民に奉仕するという官吏の本義、国家・国土・国民を守るということでもある。であるならば、この「行政官長期在外研修員制度」利用者全員を、自衛隊予備役に編入し、研修期間と同じ年限を、海外派遣地や国内・国外災害地の復興支援に従事させるべき。霞ヶ関や、地方出先機関、地方自治体での、謂う所の「馬鹿殿教育」先での役人勤めで、国民に仕えることなど露思わなくなる官僚を養うほど、この国は豊かであり続けない。業務執行能力、語学能力も高い二千人の制度利用官僚を、2年間も自衛隊員として働かせるのだから、自衛隊にとっても、送り出す中央官庁にとっても、サマワ始め国内外の派遣先にとっても効果のあることだろう。在学中に給料が支給される防衛大学でも、卒業時に任官拒否する者がいるという。彼等に対する措置はどうなっているのか知らないが、これも同様に4年の活動を義務付けるべきだろう。

本題である。
文化庁が施策としている、「芸術家在外研修制度」現在の「新進芸術家海外留学制度」は、昭和42年からほぼ40年に亘り、美術、音楽、舞踊、演劇、舞台美術、そして最近は映像メディア芸術、アートマネジメント等の「新進芸術家等」を海外に派遣、実際的な芸術研修機会を提供しようというもの。研修期間は、1年(100名)、2年(15名)、3年(3名)、特別研修(60名)の3ヶ月と、国内研修(60名)の10ヶ月。費用は、渡航費としてエコノミー航空券分、渡航支度金5万円、日当1万円見当。国内研修は、月額15万1千円の支給。1年の派遣で言えば、400万弱、2年で750万弱か。国内研修は151万円。今年度の予算を確認していないので、正確なことは判らないが、5億円ははるかに超えるものだろう。
今は、その必要性についての疑義や、補助金同様の謂われている「ばら撒き」施策だとの批判はしない。ただ、国民の税金で賄われている制度であれば、制度の利用者(直接的受益者)には、学を修め、腕を磨くことに励むことは当然だが、官費を遣っていることに対する自覚は持たせるべき。とすれば、この制度利用者にも、官吏同様の務めを求めても良いだろう。NOVAの「駅前留学」の影響か、若手官僚のように大学院への留学ではなく、劇場・ホールを見物し、現地のワークショップに参加した程度のことでも、「留学して来ました」、というこの制度だが、次はこの制度利用者の帰国後の活動を支援しようとの助成制度を作るのだろう。若い頃から、助成金で海外に出掛け、助成金で己の活動をしようという、補助・助成金漬けの人生を歩むことが日本では「芸術家」の姿なのか。「芸術家」が支援されてばかりの存在では、文化庁はどうあれ、一般社会の同意は得られない。この制度利用者は、既に二千人は超えている。舞台芸術に限っても、高名な舞台美術家や照明家、人気演出家や、若手狂言師など多彩。彼等に災害地で道路整備や住宅建設の手伝いは体力も能力もなく、芸術の専門家としての務めにもならない。自衛隊派遣地や国内の災害地で、長期に滞在して舞台上演などすれば良い。昔はこういうことを「慰問公演」と言ったのだろう。「芸術」の修業中の若者でも「芸術家」、物見遊山の洋行も「留学」のこの時代、「慰問公演」では古すぎるので、「comfort performance」とでも言うのか知らないが、横文字にしたら良い。
「研修制度利用者は、帰国後、自衛隊予備役に編入。研修期間と同期間のcomfort performanceを課す」くらいの一文が、この制度の募集要項に書かれる日が待ち遠しい。

2005年06月30日

クラシック音楽鑑賞と贈答習慣

週に一度か二度の、そのたびに期待を裏切られ、俳優や演出の稚拙さばかりか、品格や矜持の無さまで透けてしまう、水準にない演劇の鑑賞で、身に付いてしまった穢れを振り払うための、月に一度有るか無きかのクラシック音楽鑑賞は欠かせない。その音楽会選び、チケットの購入には手間を掛けている。先日も、或るピアニストの、サントリーホールでの10月のリサイタルの優先予約が迫り、聴いたことのない彼の評価を知ろうと、GOLDONIのご常連で、年に数度はヨーロッパにオペラやオーケストラを聴くためにお出掛けの内山崇氏にメイルをした。その日の夜にはメイルで彼のエピソードなどをお教え戴き、翌日には速達郵便で、スクラップされている関連の音楽雑誌の記事などを送って戴いた。
毎月6桁に届く、私にとっては大きな額の赤字を積みながらの書店運営で、それも乏しい生活費から捻出する一万円前後のチケット購入だが、年長者をお煩わせしたりの検討作業、年に一度か二度の観劇や小旅行の計画にも胸弾ませる、真っ当な生活者のそれのようで、気に入っている。
九十年代の数年、大手の新劇団や劇場の同世代や若手の演劇製作者と、私や家の者が作る手料理を頬張りながら、事務所や拙宅で勉強会を開いていた。そんなことを覚えていてか、公演に招待して戴くこともある。何が災いしてか若い時分から、友人は少ないが知り合いは多いと言われること度々で、交流下手の接待好き、ホストひとりで4、50人規模のパーティもしてしまうほどの人好き。ビジネス・損得抜きで、生来のお節介がさせるのか、知恵を授けたりの機会も多く、そんなことの礼にか、公演に誘って戴くことも多い。年に多くても7、80回程の観劇のうちで、チケットを購うことは月に二度有るかどうかで、大半は招待状、無償で観劇させてもらっている。
そんな折は、心ばかりの(心配りをしているつもりでもあるが)季節の果物や菓子などを手土産にしたり、観劇の後日に送っている。そんな贈答品選びに、出費の嵩むGOLDONIの運営を案じる親族や親友から恵んでもらったり、安く頒けてもらったりのプリペイドカードや商品券を持って、週に一度は、日本橋や銀座の百貨店に出掛けている。長らく、中元、歳暮など欠礼している私でも、贈答文化の中で暮らしているなとつくづく思うが、これはまた別の話だ。
手土産を持っての観劇、ただ、借りを作ることが嫌いなだけでなく、生来の潔癖さが、ということでもないが、只見をしている自分が、チケットを購入して観劇する一般の観客に後ろめたく、ましてや、税金が投入されている公共劇場・ホールや、国の助成金を得ている劇団などの公演を、無償で見せてもらっていることに、内心忸怩たるものがあるから、せめてその気分から逃れたい、誤魔化したい、というまったく自分本意の行為、とも言える。
いつものフレーズでお生憎様、新聞の演劇賞の審査委員だからと、上演劇場・団体に招待を強要して恥じない「文化人」、劇団四季は招待状を寄越さないと何のつもりか自著に書く天晴れな「評論家」、大学の教え子なのか若い娘を伴い、この者のチケットまで招待扱いを強いる、同じ新聞賞の審査委員などを兼ねる「大学教師」などは論外だが、自腹を切らずに鑑賞し、あまつさえ批評もしようと言う厚かましい批評家気取りのように、無論手ぶらで来場、招待観劇の返事もせずに現われたり、遅刻しても平然、席が悪いと文句を言い、終演後には、飲食の接待は当たり前の、彼らの日常と意識。決してマネの出来ない薄汚さは、今の演劇やその製作手法に相応しいもの。
やはり、心ばかりの手土産持参、クラシック音楽鑑賞同様に私の矜持の為にも必要な、贈答習慣なのかも知れない。

2005年06月19日

閉店まで三ヶ月を切った『GOLDONI』

演劇書専門GOLDONIは2000年9月13日に神田神保町に開業した。初めの3年ほどは、神保町と半蔵門の事務所を日に一度二度と往復したりの日常だったが、一昨年に事務所を畳んでからは、(GOLDONIは午後から開けるが)、早い時は朝の8時頃から遅い時は深夜までの15、6時間を店で過ごしたりしている。本探しの来店者や、私を訪ねての来客が続いたりすると、昼や夕の食事も満足に摂れないこともある。神保町での開店準備を含むと5年ほど神保町に毎日のように通っているが、体が疲れていても、GOLDONIにやって来る事は愉しい。今年に入ってGOLDONIに来なかった日はたったの三日だった。
GOLDONIの、私のこの先の展開はいま現在も決まっていない。ただ、演劇の基盤整備の一助にと、それも片手間のつもりで始めた務めだったが、想像以上に時間も手間も知恵も必要だった5年という時間と、貧しい私には厳しい経済的負担を重ねての書店経営を、どう総括するか。具体的にはどう活かすか、あるいはどう結着(落し前)を付けるか。夏までのこのひと月で考えを整理しようと思っている。
昨年の開業四周年の折や、新年のご挨拶でお送りしたmailや、取材を受けたムックや雑誌の記事を読んでか、閉店をご存知の方は、『店はいつで閉めるのか』と尋ねる。これまでは、『まだ、決めていない』と明言を避けてきたが、いま現在は、開業5年になる9月13日(九代目市川団十郎の命日である)までは続けようと思っている。石の上にも三年、というが、意地でも五年続ければ、あの世で遅参の挨拶をする折には、九代目は誉めては呉れまいが、労をねぎらっては呉れるかもしれない。
いまはそれだけを励みに、残りの三ヶ月を全うしようと思っている。

2005年06月04日

『草桔梗 蔵俳の碑へ 通う径』(小汐正実作)

昭和47年6月4日の午後、四国一周の気ままなひとり旅を満喫していた大学三年生は、それまでの僅か二十年の人生でもたぶんもっとも緊張と敬虔さが混じりあった複雑な心境で、船のデッキに立っていた。

× × × × × × × ×

昭和41年6月5日の朝だったか、その翌年春に亡くなった母が、読んでいた新聞の社会面を広げたまま黙ってその場を離れた。私は訝しげに母を目で追い、そして新聞を手にした。そこには、歌舞伎の老優の入水を伝える記事が大きく載っていた。私の曽祖父が九代目市川団十郎の義兄ということもあり、母も戦前から親しく行き来していた海老蔵後の十一代目団十郎(堀越の治雄叔父)が半年前に亡くなったばかりで、老優の訃報に接して、悲しみが募ったのだろうか。十一代目を思い出したのか、自身の間近に迫った死を思い、記事の続きを読めなくなったのだろうか。
その年の4月、歌舞伎座での彼の「引退披露興行」と銘打った公演で、『助六』の髭の意休を観たばかりで、(この老優を偲んで作家・網野菊が書いた『一期一会』という短編の中に書かれていたかも知れないが、自身の引退興行で殺される役を演じるということは如何なものだろう)芝居で殺されたその彼が自殺をしたということに、大きな驚きを感じた。
老優はこの引退興行を勤め上げた翌5月、念願の四国霊場八十八ヶ所の巡拝の旅に出て、それを無事に済ませて小豆島に渡り、この島の霊場四十八ヶ所をも巡拝し終えて、この地の宿に草鞋を脱いだ。そして一泊したあと、翌日深夜発の船から暗い海へ身を投げた。デッキに靴が揃えて置かれており、覚悟の自殺とも報じられた。享年八十四であった。
老優の七回忌にあたる47年6月4日を、彼が乗ったと同じ時刻の船の上で迎えようと、一週間前から四国に入った。徳島では大学の教室や図書館、学生食堂に闖入、高知・桂浜では憧れてもいない坂本竜馬に、松山・道後では浴場で機嫌の良い漱石になりきるという、いかにも凡庸な大学生の気楽気ままなひとり旅だった。弘法大師との同行二人のお遍路さんと数ヶ所の札所で出会い、食堂で昼食をともにしたりした。それぞれが思いを胸に秘めながら、決して安楽とは言えない巡拝の旅の途中のことで、遍路ではない暢気な大学生の旅の目的が、6年前と同じ季節、同じ遍路道を歩み播磨灘に消えた老優を偲ぶものとは、お遍路のどなたも思い及ばなかっただろう。
老優のこの世の最期の泊は、質素で落ち着いた宿だった。島の案内所ででも教わったのか、偶然に見付けた宿かは判らない。人柄も芸も地味と言われた老優にとって、自分の質に似たこの宿で過ごした人生最後の一日はどんなものだったのだろう。

× × × × × × × ×

昭和47年6月4日の午後、神戸に向う船は混雑していて、デッキにも大勢の乗客が出ていた。私は老優が身を投げた海に、乗船前に用意していた草桔梗の一枝を投げ入れ、手を合わせた。宿の脇にひっそりと生えていた、背の低い、花房が1センチにも満たない青紫の、目立ちはしないがきれいな草桔梗は、死への旅に赴く老優の目に映っただろうか。
今日6月4日は、老優・八代目市川団蔵の39回目の命日である。


(私はこの年の夏、日比谷の図書館に通い、団蔵関連の資料を渉猟し、エッセイを書きました。その原稿は近々にこのホームページに載せる予定です。二十歳の若書きにして拙い文章です。ただ、この旅とひと夏掛けた原稿書きを終え、浄瑠璃の研究者になる夢を諦め、見識のある製作者に、そして良識のある劇場主になろうと思いました。爾来三十有余年、その願いは力足らず、いまだ成就していません。ただ、私にとっては自分の道を決めた小論だと思っています。是非ご笑読をお願いします。)

2005年05月25日

『危険な綱渡り』を上演中の新国立劇場

新国立劇場2004/2005シーズンの中劇場での最後の新作公演、井上ひさし作、栗山民也演出の『箱根強羅ホテル』が、19日から始まった。この10日過ぎから、新国立劇場の内部からも外部からも、井上ひさし氏の本が仕上がらないとの情報がもたらされ、井上氏とその周辺の新国立劇場関係者の、相変わらずの懲りないダラケた不見識極まりない製作姿勢に呆れていた。台本の出来上がりは16日、3日後の開演にはなんとか間に合い、上演延期や中止の事態は辛うじて免れた。舞台の出来は当然のことだが良くないそうで、23日の休演日あたりも、稽古をし直したのではないだろうか。この作品の演出担当で芸術監督の栗山民也や、劇場には井上氏との絡みで縁故就職、氏の作品を専ら担当する制作部員達は、少なくともこの企画が決定されて以来、井上氏とどんな接触をしていたのか。新作執筆についての契約はどうなっているのだろうか。上演の1年前とか半年前には完成稿の提供、というような約束はしていないのだろうか。出演契約はどうなっているのだろうか。本が無いままに上演スケジュールを決め、キャストもスタッフも本も読まずに企画に参加する、これが新作、というもののあり方なのだろうか。本の出来上がりが遅く、上演中止や延期がたびたびのお騒がせ井上企画だが、こんな危険な綱渡り状態を続け、またそれを許している新国立劇場という組織、箍が緩みすぎているのだろう。独立行政法人の実質的な下部組織として、十桁の税金が投入され、業務の効率化や透明性が求められる新国立劇場、この井上問題だけでなく、演劇研修所の設置についても、演劇製作団体や演劇人への説明、説得、議論を回避し、以前から「国立の演劇センター構想」などを主導する井上氏本人をはじめ、氏に近い芸術監督や数人の協力者だけでことを進めるなど、独断専行が目立つ。設置に先立つ一年前には、事前調査にも数百万円の調査費が予算化され、ほぼ同じメンバーだけで海外に調査旅行に出掛けている。この演劇研修所は新国立劇場の建物の中に用意されず、新宿の外れの廃校で実習が行われている。殆ど演劇の素養の無い研修生15人の養成に、この一年だけでも7千万円近い税金が遣われるそうだが、その金の使い道は当然のように公開されない。NHKの番組制作費の着服や不正流用が問題になったばかりだが、法外に高いといわれる台本料や演出料、スタッフ費、舞台費、出演料を払い、海外招聘作品にも相場を遥かに超える上演料を払い続け、旧知の海外エージェントも「いまどき奇特」と揶揄する新国立劇場、その製作態勢や経費支出などは、いつ情報公開されるのだろう。
政界との癒着体質の一掃も期待されて、NHK副会長に就任したはずの永井多恵子氏の初仕事は、お決まりの永田町の議員センセイへの挨拶回りだったそうだ。前会長の傀儡、軽量級と見られていた永井氏であればそれもまた仕方の無いこと。文部大臣経験者で、霞ヶ関・永田町でも実務型官僚としての評価が高く、新国立劇場と距離を置く劇団四季の浅利慶太氏や静岡県舞台芸術センターの鈴木忠志氏らとも親しいといわれる遠山敦子新理事長、その最初のそして最大の仕事は、箍が緩んだ製作態勢に大鉈を振るうことではないだろうか。

2005年05月21日

『三社祭』の浅草に遊ぶ

5月の東京は祭りの季節である。第1週の下谷祭、第2週の神田祭、そして第3週の昨日今日明日の三社祭である。母方の先祖代々、殆どの親族の墓が浅草吉野町の浄土宗の寺にあり、幼い時分から地下鉄や当時走っていたトロリーバスでやってきて、墓参りをし、浅草の繁華街で食事をした。親族の営む店が多く、東京劇場や歌舞伎座そして新橋演舞場のある築地・銀座は、幼い時分から慣れ親しんだ街だが、こちらはいかにもヨソイキの世界。それにひきかえ、菩提寺の直ぐ先には山谷のどや街が広がり、昔と変わらない薄汚さが漂う浅草六区周辺に特段の魅力がある訳ではない。銀座から二十分足らずのところにある、棄てられた東京の東側の繁華街に、興味と言うよりも懐かしさを感じている。ハレの銀座・ケの浅草とでも言うのだろうか、ともに生まれ育ったところのような郷愁を感じる。
銀座には、月に何度も、特段の用事が無くとも、平日の午前中あるいは夜に散歩に出掛ける。つい先日の夜も、デパート廻りのあとに、MIKIMOTOのショーウインドーを見、昭和通りの銀座2丁目にあるパンの店スワンを覗いて歩いた。
昨夜は、今日明日と予想される大変な混雑を避け、浅草にひと足早く出掛け、運良く仲見世で十基ほどの神輿を見、喫茶アンジェラスが珍しくすいていたので、昔風のケーキとお茶を楽しんできた。もう四十年も前のことだが、祖父か祖母の法事の帰り、母と伯父が子供達を撒くようにして消えて入ったのは、このアンジェラスだった。
京橋に生まれ、銀座や日本橋に親しんだ母だったが、墓参りや法事の後にでも、兄である伯父と子供の時分から、私と同じように浅草で遊んだのだろう。
三社祭の今日は、母の38回目の命日である。

2005年05月12日

大型連休前後に観た五つの舞台

先月25日の尼崎での大惨事の後に、5月1日の『提言と諌言』に『国鉄鶴見事故で亡くなった三枝博音』を書いたが、その後に劇場やGOLDONIで知人に会うたび、あるいは電話、mailで、事故のことは無論だが、三枝博音や鎌倉アカデミアついて訊かれたりすることが多い。ブログを書き始めて1年になるが、読まれる方の反応を珍しく、そして強く感じる。
この1週間に、4本の演劇公演を観て、多くの人と休憩時に、あるいは終演後に、立ち話をしたり茶を喫したり、(私はアルコールを口にしないが)酒席をともにした。5日は浜松町の自由劇場での、劇団四季の『解ってたまるか!』(福田恆存作、浅利慶太演出)。3月に公演したジャン・アヌイの『アンチゴーヌ』(諏訪正訳、浅利慶太演出)を観て以来の自由劇場。狭いロビーは多くの招待客を含め初日の観客で賑わっていた。6日は六本木の俳優座劇場で、俳優座公演『春、忍び難きを』(斎藤憐作、佐藤信演出)。前日の自由劇場と打って変わって、三百席の客席に二百人弱の観客、終演時のロビーも開演前同様に寂しいものだった。10日は信濃町の文学座アトリエで、『ぬけがら』(佃典彦作、松本祐子演出)。暑かったからか、蚊と闘いながらの観劇。昨11日は新大橋のベニサンピットで、tpt公演『ア・ナンバー』(キャリル・チャーチル作、サーシャ・ウェアーズ演出)。神保町からは地下鉄で5、6駅の森下駅、ベニサンとセゾンスタジオに行く折にしか利用しないが、いつも「棄てられた東京の東側」を実感させる寂しさだが、ベニサンピットの客席もそれに負けてはいなかった。
2日に初台の新国立劇場で、バレエ『眠れる森の美女』を観た。カーテンコールでは、この日で引退するオーロラ姫の志賀三佐枝への千数百人の観客のあたたかい拍手や歓声が暫く続き、師である牧阿佐美と抱き合った時には、カーテンコールが嫌いで、彼女と縁も所縁も無い私も、「鬼の目」の目頭を熱くした。

2005年05月01日

国鉄鶴見事故で亡くなった三枝博音

25日に起きたJR西日本福知山線の事故は、死者百七名、重傷者は百名を超え、危険な状態な方も十数名にのぼる大惨事になった。百名を超える人々が、平日の朝、ふだん通りの通勤や通学、あるいは買い物などの外出で留守にした家に、病院や遺体安置所から無言の帰宅をされたことを思うと、胸が痛む。いちいちは書かないが、テレビ・ラジオや新聞で知るJR西日本の経営陣や運行部門などの幹部の経営姿勢には憤りを覚える。そして彼等の事故対応などには、腸が煮え返る思いだ。井出正敬相談役は国鉄改革三人組の一人と聞く。南谷昌二郎会長は三人組の親衛隊十八人衆の一人。そんな合理化推進者の二人の後継者である垣内剛社長、民営化18年になる民間企業経営者というより、典型的なキャリア官僚の顔だ。記者の前で、事前に用意されたペーパーを読む姿には、呆れたと言うよりも、恐ろしさを感じてしまった。厚生労働省の組織的・恒常的な疑いもある裏金作りの事件で兵庫労働局長が自殺したが、こんな経営陣であれば同様な事故も、そして現場担当者たちの自殺などの事件も、悲しいことだが起こるだろう。
事故現場となったマンションの住人たちも大変な被害にあった。マンション管理組合として、JR西日本への買取りを求めるのでは、との報道もある。マンションの一階に慰霊碑を、との声もあがっていると言う。もっともな話だと思う。このトップ三人は、買取り、慰霊碑の建立に同意するだろう。ただ、経営合理化を推進して黒字化を実現してきただけに、これらの費用を企業経費として負担することに抵抗を覚えるのではないか。だとすれば、自分たちの退職慰労金や今までの役員報酬、役員賞与などから捻出するなどの策を講じてほしい。そして買い取ったマンションは、将来が約束されている彼らのようなエリート社員の社宅や研修施設とし、事故を教訓化してほしい。
昭和38(1963)年の11月、横浜市鶴見区生麦で起きた貨物列車と上り下りの横須賀線電車との二重衝突事故いわゆる鶴見事故は、小学生の時分であったが記憶にある。翌日が休日で学校や稽古が休みだったのか、夜更かしをしていて、テレビでこの事故を知った。深い闇の中で、事故のあった構内だけが救助・復旧作業のためのライトに照らされ、線路や鉄骨や横転した列車が不気味に映っていたことを憶えている。この鶴見事故では百六十一人が亡くなった。
いまや教育までが商売になったこの国でも、戦後の一時期だが、第一級の研究者や実践家が手弁当で教えに集まった理想の学園、野散の大学があった。その大学、『鎌倉アカデミア』の学校長として理想の教育を求め尽力した哲学者 ・科学史家の三枝博音も、この事故での犠牲者のひとりである。設立当初からの財政難と新制大学として認可を渋った文部省の前に、廃校を決断せざるを得なかった三枝博音は、その後に横浜市立大学の文理学部長、そして学長としてアカデミアで頓挫した『生きた学問』や『学問の自由』などの教育実践を推し進めていた。
遺体安置所であった鶴見の総持寺から自宅のある北鎌倉までの途中、三枝博士の遺体を載せた車は大船のかつてのアカデミア校舎跡を静かに通り過ぎた、という。

2005年04月29日

『中村雀右衛門』を育んだ戦争体験

3月10日のこのブログで、荷風の『断腸亭日乗』を引用し、六代目尾上菊五郎が倅(養子)の菊之助(故・七代目尾上梅幸)の徴兵検査の折、「内々贔屓をたより不合格になるやう力を尽せしかひありて一時は入営せしがその翌日除隊となりたり。…」と書き写した。真相は知らず、いずれ調べてみて書くつもりでいた。一昨日、拙宅にあった当の梅幸が書いた『梅と菊』(日本経済新聞社、1979年刊)を調べたら、該当する記述があった。「何はともあれ私は頭をまるめ、身辺を整理して指定の十五日、珠子に見送られて横須賀の重砲連隊の営門をくぐった。ところが私はその前年に痔の手術をしたことがあり、厳重な身体検査の結果、即日帰郷となった。その時はお国のためにお役に立たなくて残念だと思う一方、内心ホッとしたようでもあり、複雑な心境だった。芝居は中日を過ぎてまだ十日ほどあるので翌十六日、いったん家に帰り、楽屋にいって父に報告して舞台に出ようと思ったところ、父は楽屋の人たちにはばかってか、「もう出るな、休んでろ」といい、その月は休んでしまった。休んだといっても大手を振って表へ出るわけにはいかず、坊主頭を抱えて家で謹慎していた」。
先ほど読み終わった、四代目中村雀右衛門著『私事(わたくしごと)』(岩波書店、2005年1月刊)によれば、彼(当時は大谷廣太郎)は昭和15年の12月から21年の11月までの6年間、中国・広東省からベトナム、タイ、インドネシアと転戦、生死をさまよった。ほかに戦争に駆り出された歌舞伎役者は、二代目尾上松緑、十七代目市村羽左衛門、当代中村又五郎などだそうだ。「歌舞伎界のなかには、戦争に行かなかった人もいました。どこかに話をつけることもできたようで、召集されたものの、一日で軍隊から帰ってきた方もいるそうです。何か方法はあったようですが、父はそういうことはしませんでした」。
荷風が「耳にしたる風聞」、菊之助が翌日に除隊されたことは事実だった。荷風のこの「風聞」の中に、歌舞伎興行の松竹絡みのこともあるので、ついでに紹介しておく。「大谷竹次郎の倅龍造とやらいふ者、これは父竹次郎その身分を利用し余り諸方へ倅不合格になるやうに頼み廻りしため検査の時かえつて甲種合格となりたりといふ」とある。この龍造とは、昭和59年2月に、長男で現在は松竹の副会長をしている信義氏と口論し、自宅に放火、お手伝いさんを焼死させ逮捕された当時の松竹社長・大谷隆三だろう。
松と竹、梅と菊。天晴れ過ぎて言葉も無い。

2005年04月23日

名人・豊竹山城少掾を聴く日々

今週の19日に、このGOLDONIのHPに新たに4名の知人に書いて戴いたエッセイを掲載した。その執筆者のお一人である光産業創成大学院大学教授の北川米喜さんからつい先日頂戴したカセットテープが面白く、GOLDONIで日に何度もかけて聴いている。どんなものかといえば、義太夫の昭和の名人・豊竹山城少掾が登場するNHK放送番組を収録したもの。晩年の山城少掾には少しだけだが記憶がある。昭和34年に80歳で引退しているので、生では聴いたことも無く、舞台の記憶は無いが、家が近かったからか、小学生時分にはたまに見掛けた。芸界でも特段に偉い人とでも親に言われでもしたのか、暫くは何も知らぬ小学生にとっての生身の少掾は、拙宅の写真でしか知らない九代目市川團十郎に並ぶほどの尊敬の対象だった。
テープのA面には、明治41年の録音の、三十歳前の津葉芽太夫時代の『三十三間堂棟由来』平太郎住家の段、その五十年後、引退直前の昭和33年の録音の、『菅原伝授手習鑑』寺子屋の段もあり、芸歴(修業歴)七十年の大名人・豊竹山城少掾の語りに堪能している。聴いている時に、現代演劇の専門書店であるゴルドーニを初めて訪れる人は、古典芸能の専門書店かと訝ったりしている。モーツァルトの交響曲第四十番の収録されたSP盤を、それこそ擦りきれてしまうほどに聴いた小林秀雄は、『モオツァルト』を遺した。豊竹山城少掾の語りを、テープが伸びきってしまうほど聴いても何も生み出せそうに無い鈍才の私だが、聴きなれぬ義太夫を耳にしてか不審そうな新規の御客との交流を楽しんでいる。

2005年04月13日

経路依存性と行政組織

先日久しぶりに読んだ『複雑系のマネジメント』(ダイヤモンド社刊)に、現代日本経済史の岡崎哲二氏のインタビュー、「経路依存性から見た日本企業社会」が載っている。氏の説明によれば、経路依存性とは、歴史的な経路によって現在は制約を受け、将来もその影響を受ける、ということ。ホンダやソニーがイノべーティブな価値を追求する、あるいはトヨタがコスト効率を重視する、という組織のクセも経路依存性かとの問いに、氏は肯定し、企業文化はそう簡単には変わらず、企業組織の中に、長い歳月をかけて行動様式や思考を規定する有形無形の装置が仕掛けられていて、相互補完的に機能している。多くの企業が手掛ける新規事業や新規ビジョン・制度の制定などの新しい試みにも、この経路依存性の影響を受ける、と答えている。GHQが日本経済のシステムをリセットしたと言われる事についても言及している。GHQが行ったことは戦時経済に移行する前のシステムの破壊、財閥の解体や持株会社の禁止、地主制度の解体だった。法的なシステムを変えても、広い意味での制度には経路依存性が働いた。財閥をはじめとする戦前のシステムは、国家総動員法をバネに提出された勅令・関連法によってつくられたシステムに取ってかわられた。したがって、GHQは戦時中に機能を停止させられていた戦前のシステムを壊し、その結果、戦時中に出来たシステムの役割が相対的に高まった、と。氏のインタビューを読んでの私の独断的理解は、敗戦時に生き残った中央官僚組織が、GHQを騙し利用しながら、「国家総動員法」のエッセンスを延命させ、中央集権と翼賛型の行政を、「大日本帝国陸軍」という最大の官僚組織の崩壊したこの国に根付かせることだったのか、というものだ。
ヤミ残業、カラ出張、背広支給、職務特殊手当の乱発など、不正の限りを尽くす大阪市政がマスコミで取り上げられるが、これなどは氷山の一角で、中央官庁も、全国二千数百の地方行政も似たり寄ったりの様であろう。行政が作った公団や財団など外郭団体などの税金や地方債、郵貯などの投融資についての不正経理処理や、退職金稼ぎの渡り鳥の天下り人事ばかりか、役所をあげての怠業・腐敗・不正は、当の官吏に犯意の自覚が無いほどに組織化・日常化している。テレビの街頭インタビューで、ある大阪市民は、「市役所は大阪から出て行け」と、なかなか巧いことを言ったそうだが、感心ばかりしてはいられない。

2005年04月07日

ウィーン・フィルのライナー・キュッヒルを聴く

先月の23日に東京オペラシティコンサートホールで聴いた、ウィーン・フィルのコンサートマスター、ライナー・キュッヒル率いる弦楽四重奏団の余韻が二週間近く経った今も残っている。先日の朝日新聞夕刊に載った、音楽評論家・伊東信宏氏の音楽評には、「弓のスピードの緩急だけでアンサンブルを見事に統率してしまうさまはちょっと見物」だとあり、また、「もともとキュッヒルの演奏は、思わせぶりなタメや見栄を排した清潔なものだ…」との評に、得心した。私は、元来が演劇書の収集が趣味という訳でもなく、物欲というものが全くと言って良いほどに無く、人や物に対する執着、粘着性すらも低い方だと思っている。一視同仁、直情径行を旨としているつもりで、それこそが思わせぶりや、見栄や、人様の顔色を窺うことは得手ではない。幼い時分から、思わせぶりな態度や見栄を張ることに抵抗を覚えていた。しぜんそんな性分が芸術的な嗜好にも影響しているのだろう。
松竹経営幹部たちの努力が奏効してか、なんとか4月からは、警察官への公務執行妨害容疑で逮捕された(ちょっとしたいたずら、だとか、オイタが過ぎただけだとかと、芸能マスコミ周辺は言っているのだろうが、そんな甘いものではない。松竹が払うであろう代償がどれほどのものか考えたか。それどころか下がる一方の芸能というものの社会的地位が、この悪たれの為にどれほど下がったことか。)親不孝も出演している。この父方の祖父である17代勘三郎は、若い時分から達者な役者との評価はあったのだろうが、私は子供の時分から感心したことが無い。というよりも、彼の芸の品格の無さもだが、あざとい芝居にうんざりさせられていた。襲名したばかりの当代勘三郎については、敢えて論ずるまでもないだろう。私が生まれる前の先代が、新聞劇評がまだ批評として成り立っていた頃に、どう評されていたか、 『現代日本演劇史』昭和戦後篇(大笹吉雄著・白水社刊)で調べてみた。
東京新聞昭和21年12月17日の秋山安三郎は、「島衛の島蔵のもしほ(17代勘三郎)、千太の染五郎など、四日目にまだ台詞が入っていないという醜態の上に、もしほに至っては狭い舞台で例の浮かめ方をしているのでみるに堪えない不快を憶える、これでは東京の真ン中で旅芝居をしているのも同然で、何より貴重な舞台の出演に感動のない精神は責められねばなるまい」。東京新聞昭和25年9月8日の戸板康二は、「勘三郎、しのぶのあどけなさを出そうとする技巧が目立つ。同じ事が『戻駕』における福助の禿にもいえる。ああいうビタイは、もうやり切れない」と書いている。かつて先代が座頭での歌舞伎座や国立劇場の公演で、たびたび団体観劇の回に不幸にも出くわしたことがあるが、そんな時の勘三郎は、身上ともいえる媚態はどこへやら、団体客相手に芝居をしても仕方が無いとでも思ってか、地なのだろう不遜でやる気の無いゾンザイな演技をしていた。歌舞伎の勉強のつもりが、人間は時と場合によって態度が変わるものなのだと、芝居以上に教えられたものだ。
GOLDONIのHPの巻頭随想『劇場の記憶』に、明治大学の神山彰先生がお書きのように、「演者も観客も中腰でいる騒々しく落ち着き皆無」の歌舞伎座に、本格派の吉右衛門が戻る6月が待ち遠しい。

2005年04月04日

『権威の失墜』について考える

拙宅の本の整理をしていて、7、8年前にブームになった「複雑系の経済学」関連の本に目が止まった。その中の一冊、『複雑系のマネジメント』(ダイヤモンド社)を久しぶりに読んだ。先ごろ、十年に及ぶ経営トップの座を降りたソニーの出井伸之氏と、京都大学経済研究所所長の佐和隆光氏との対談が、その冒頭にある。対談は1997年8月、出井氏が日本を代表する経営者として高い評価を受け、飛ぶ鳥も落す勢いであった頃のもの。出井氏は「複雑系」「収穫逓減と収穫逓増」「リ・ジェネレーション」などについて、大いに語っている。企業は変らなかったらマーケットからは懲罰を受ける、政治家も選挙で懲罰を受けるが、行政はそういうことはない、との佐和氏の発言を受けて、出井氏は言う。「企業は国家の制度改革を待っていられません。自分で変えるしかないんです。日本という国は、五〇年前の敗戦によって一回リセットがかかりました。そこからスタートして、これまでの繁栄をつくってきたわけです。しかし、いま一度あえてリセットをかけなければいけない。ところが、「まだ大丈夫」と思っている人が多数派で、「変らなければ」と考えている人は少数派です。しかし、変化のスピードはものすごい。好むと好まざるとにかかわらず、変わらざるをえません」。人間は厄介なものである。自分のことが最も判らないものである。聡明なはずの氏も、自分に向って吹く変化の風を読むことに疎かった。このところの経済紙誌はじめジャーナリズムは、出井氏の退陣は遅すぎたとの大合唱で、十年前の社長就任からの数年は異常なほどに持ち上げておいて、今度は無能呼ばわり、大悪人のように叩いている。いつものことだが、マスコミの不見識には呆れる。
昨秋にNHKでは常態化していた制作費横領が発覚、その隠蔽やら、海老沢会長の組織壟断、政界との癒着など、殆ど毎日のように報道が続き、挙げ句の果ては、朝日新聞とNHKとの泥試合にまで発展した。そこに元・東大生の堀江某とニッポン放送はじめフジ・サンケイグループとのバトルが勃発。ニューズバリューが無いと思ったか、ともにやましいことがあって取り上げることに逡巡してか、あれほどに互いを批判しあった朝日もNHKも停戦状態に入り、今はこの騒ぎを報じることに必死である。見識の無いこと夥しい。
かつて日本の権威と言われた「東大、朝日、NHK」、ソニーの出井氏同様に見事なほどの失墜ぶりである。

2005年03月30日

文芸評論家の『演劇評論』を読む

最近ぴあから刊行されたムック『シアターワンダーランド』を見た。内容については触れない。GOLDONIでは常備しない水準のものなので、今後も棚には置かない。注文も承らない。この手の本が演劇書だと思っている新刊書店での立ち読みをお勧めする。「学力低下・学問習熟度の低い者、素養の無い基礎教育をまともに受けなかった者でも遣りたがるものが現代演劇」との私の認識について、理解を戴けるものだとは思う。83ページにあるリードの文章は凄い。「今年デビューしたての若手の子が言った」という言葉には愕然とした。松たか子をミューズと、鈴木杏を女優と称える編集担当者たちにとっては、文学座のスタッフは、「子」の扱いなのだろうか。手にとってみて、早判りで判るものなど所詮はたいしたものではない、との確信が得られたことは収穫だった。立ち読みをお勧めする所以である。
三一書房刊行の『現代日本戯曲大系』第一巻にある、文芸評論家・奥野健男氏執筆の解説は、刊行された1970年代後半にどんな受けとめられ方をしたのだろうか。「新劇は戦争によってながい間、世界から閉ざされていた日本人、なかんずく青年たちにとって、より広い世界を眼前に直接おしひらき、展開し、その世界に導いてくれる、なによりも有効な窓であった。青年たちは争って新劇を観、新劇を論じ、そして自ら新劇を上演しようとした。と同時に新劇を観なければ戦後の文化人、知識人として失格だ、新劇を観、論じることが、戦後文化人のパスポート的意味を持ち、新時代のバスに乗遅れないため、新劇を観る傾向さえ生まれた。新劇を観、それについてしゃべることが戦後のインテリの見栄にもなって行った。」「敗戦直後の新劇の人々の中に、ついに自分たちの天下がやって来た、これからは新劇が演劇の主流であるという甘い幻想の上にたった勝者のおごりやたかぶりの意識があったのではないか」「だがその勝利は自分でたたかいとったものではなく、敗戦と連合軍によってもたらされたものに過ぎなかった。そこに日本共産党が占領軍を解放軍と規定し、平和革命を夢見たと同じ思い上りとあやまりがあった。外から見ていると、当時の共産党も新劇も連合軍の権力をバックにして、時の主流になったように思われた。親方GHQの時代の寵児であった。東宝や松竹が頭を下げてくれば、大威張りで乗ってしまう、これでは時勢の逆転により、歌舞伎などの旧劇と単に入れ替ったというのに過ぎなくなる。新劇は敗戦直後、ブームに乗って余り有頂天になり過ぎた。過去の新劇への自己批判や反省がなさ過ぎた。少しでも洞察力があれば、敗戦によっても、資本主義の社会構造は根本的には変っていないことに気付いたであろうし、そのようなかたちでの大資本との提携はうまく行かず、早晩破綻することは自明の理であったのに。」「しかし、戦後の新劇は、西洋の名作に頼り過ぎたようだ。翻訳劇一辺倒であり過ぎたようだ。だからその面からの反動もはやかった。時代が少し落着くと、新劇は岩波文庫の赤帯と同じ教養、啓蒙のための芝居となってしまった。つまり西洋の古典や近代の名作の紹介劇として、自己形成期の学生やBGしか観なくなってしまった。人生のうち一度は新劇に夢中になるが、大人になれば青くさくて、観念的で観る気もしないと卒業してしまう゛はしか"みたいな芝居になってしまったのだ。そして新劇ブームの反動として新劇をバカにして観ないことが、インテリの見栄になるような新劇侮蔑の時代がはじまり、それがながく定着するようになり」「文学的には傍流的存在として無視され、戦前より更に低い位置に甘んじる結果になった。」
雑誌『文学』の1985年8月号には、同じ奥野健男の演劇評論、『小説と劇作の逆転-戦後演劇史-』」が載っている。「昭和二十年代の後半から三十年代の前半にかけて、ぼくたちは新劇をやけみたいに見歩いたものだが、それは新劇の時代遅れと、シラジラしさを確認するだけの虚しい行為だった。そしてぼくたち当時の若い文学者、演劇人は集まれば、なぜ新劇にだけ戦後文学、戦後芸術に相当するものが生まれないのだろうか、だいいち日本人の創作劇がこの十年間殆ど演じられなかった。創作劇運動を起こさなければどうにもならない。まずあのくそリアリズムを打破し、真に劇的な舞台をつくらねばと、思想的立場は違ってもみな熱い議論を交わしたものだった。今やだれの目にも明らかだった。新劇の世界にだけは、戦後劇作はない、戦後派劇作家は生まれて来なかった。日本の創作劇など要らないとばかり戦前戦中一緒にやって来た仲間である劇作家まで見捨てた新劇界が、劇作の新人を気長に養成したりするはずはなかった。その結果新劇だけは戦後日本の切実な状況を表現しようにも、それに適う劇作を持たないことになった。新劇の急速な没落は理の当然であった」。
戦後新劇の愚かさ・異常さは奥野健男の評論から窺うことが出来る。戦後六十年の今日、テレビ芸能人、芸能プロダクション頼りのボーダレスとやらの「現代の演劇」に、戦後新劇の罪とその害がどれほど宿っているかは、ぴあの『シアターワンダーランド』から学ぶことが出来る。

2005年03月20日

春の彼岸のGOLDONI

卑しいものを卑しいと言えば己も卑しくなる、という戒めを幼い頃から親に教わり、金持ち喧嘩せず、君子は危うきに近寄らずの譬えを、「ニヒリズム」が横溢していた学生時分には弁えていたつもりだったが、卑しきものばかりが蠢き、金持ちも君子も既に見限りいなくなった演劇の世界で、原則を保持し少しは教養を身につけ、尋常な節度を持った人間たちが真摯に活動する場を創りたいと、ニンではないことを承知でいまどき陳腐と思われる啓蒙運動を続けてきた。このブログを読んで、演劇とは無縁の世界の友人・知人たちは、「演劇業界」や行政に対する私の批判が厳しく、リスクが多すぎることなどを心配して、メールや電話、時にはGOLDONIや誘われて出掛ける外食の折などに忠告をして呉れる。GOLDONI開業以来の常連客の中には、演劇の拠点作りに背水の陣を敷いて臨む姿を知り、それに賭ける情熱が、命まで賭けたものになるのではと懸念する人もいるようだ。有り難く、勿体無いことだ。彼等の心配が杞憂に終るかどうかは、この私にも判然としない。幼少からの修業や修養、親や師匠たちから教えられた戒め弁えを措いても、卑しく腐った現代演劇の世界を、いま少しは批判し、その浄化を進めていくつもりだ。先祖や先人の墓前に額ずかず、誘いや相談の電話もメールも届かず作業の捗る休日のGOLDONIで、その不孝不忠を詫びる、春の彼岸の中日である。

2005年03月10日

東京大空襲の記念日に『断腸亭日乗』を読む

東京大空襲から六十年、永井荷風の『断腸亭日乗』昭和二十(1945)年三月十日の項にはこう書いてある。「昨夜猛火は殆東京全市を灰になしたり。北は千住より南は芝、田町に及べり。浅草観音堂、五重塔、公園六区見世物町、吉原遊郭焼亡、芝増上寺及び霊廟も烏有に帰す。明治座に避難せしもの悉く焼死す。本所深川の町々、亀戸天神、向嶋一帯、玉の井の色里凡て烏有となれりといふ。午前二時に至り寝に就く。灯を消し眼を閉るに火星紛々として暗中に飛び、風声啾々として鳴りひびくを聞きしが、やがてこの幻影も次第に消え失せいつか眠におちぬ」。ふと、昭和十六年十二月の日米開戦当時をどんな風に記していたかが気になった。「十二月十一日。晴。後に陰。日米開戦以来世の中火の消えたるやうに物静なり。浅草辺の様子いかがならむと午後に徃きて見る。六区の人出平日と変りなくオペラ館芸人踊子の雑談また平日の如く、不平もなく感激もなく平安なり。予が如き不平家の眼より見れば浅草の人たちは尭舜の民の如し。仲店にて食料品をあがなひ昏暮に帰る」。
1990年以降のこの十数年、税金による助成金や支援制度などに頼りきり、行政に擦り寄る無節操・不見識な者ばかりが跳梁跋扈する「演劇界隈」に背を向け、一般社会、とりわけ演劇に関心のない、あるいは演劇に絶望した方々にも向け、徒労に終るかもしれないささやかな啓蒙と提言をしている、決して不平家ではないつもりの私にも、荷風があの戦時態勢の時局をどんな眼で見ていたのかは興味深い。ドイツ・ナチスを模倣したという国民統制組織である『大政翼賛会』が立ち上がった昭和十五(1940)年十月十一月、その刷新改組があった翌十六(1941)年四月五月辺りを追ってみた。「この頃は夕餉にも夕刊新聞を手にする心なくなりたり。時局迎合の記事論説読むに堪えず。文壇劇界の傾向に至つてはむしろ憐憫に堪ざるものあればなり」(昭和十五年十月十五日)。また、十一月二十三日には「このたびの改革にて最も悲運に陥りしものは米屋と炭屋なるべく、昔より一番手堅い商売と言はれしものが一番早く潰され、料理屋芝居の如き水商売が一番まうかる有様何とも不可思議の至りなりと。右米屋の述懐なり」とある。劇場の盛況についても言及している。「帰途電車にて歌舞伎座前を通るにあたかも開場間際と見え観客入口の階段に押合ひ雑沓するさま物凄きばかりなり。劇場の混雑は数寄屋橋日本劇場のみにてあらずと見ゆ。近年歌舞伎座の大入つづきかくの如き有様にては役人が嫉視の眼もおのづから鋭くなるわけなり。近き中に必制裁の令下るなるべし。観客の風采容貌の醜陋なること浅草六区と大差なきが如し」(昭和十六年四月十九日)。
この年の五月十一日の項には、「頃日耳にしたる市中の風聞左の如し」として、五つばかりの話を記している。その中の一つを紹介する。「俳優尾上菊五郎その伜菊之助徴兵検査の際内々贔屓筋をたより不合格になるやう力を尽くせしかひありて一時は入営せしがその翌日除隊となりたり。菊五郎はもう大丈夫と見て取るや否や、伜の除隊を痛歎し世間へ顔向けが出来ぬと言ひて誠しやかに声を出して泣きしのみならず聯隊長の家に至り不忠の詫言をなしたり。聯隊長は何事も知らざれば菊五郎は役者に似ず誠忠なる男なりと、これまた嘘か誠か知らねど男泣きに泣きしといふ」。今は事実関係が判らないので、いずれ調べてみたい。孫の勘九郎、曾孫の七之助の似たもの親子について、仄聞するその行状、物言いなどに見られる不実さは、いったいどこから宿ったものか謎であったが、これは遺伝子のなせる業だったのか。
昭和十八(1943)年の正月一日に記した「町の噂」の中には、「浅草公園の道化役者清水金一公園内の飲食店にて殴打せられ一時舞台を休みし由。なほまたエノケン緑波などいふ道化役者の見物を笑せる芝居は不面目なれば芸風を改むべき由その筋より命令ありしといふ。」とあり、思わず笑ってしまった。

2005年03月06日

見識・良識なき「学識経験者」が巣食う『芸術祭』

アメリカ最大の演劇賞であるトニー賞は、毎年6月にニューヨークのラジオシティ・ミュージックホールに六千人の出席者を集めて開かれる。選考には凡そ七百人の演劇製作者、舞台関係者、演劇ジャーナリストがあたる。全米各地でどれほどの演劇賞があるのかは詳らかではないが、このトニー賞は、選考に加わる人の数といい、オン・ブロードウェイの数千人の関係者が会場に集うことといい、何ともスケールの大きなものである。ちなみに1976年のトニー賞は、主演男優賞を『マイ・フェア・レディ』のジョージ・ローズに譲ったほかは、作品賞はじめ主演女優、作詞・作曲、演出、振付の賞を、先日このブログで取り上げたマイケル・ベネットたちが作った『コーラスライン』が独占した。
はたして日本の賞事情はどんなものか。歴史のあるものでは、1946(昭和21)年に制定された文化庁芸術祭賞がある。これは毎年秋の約一ヶ月の開催期間中、この芸術祭に参加した個人・団体を対象に、文化庁が依頼した「学識経験者等」専門家数人が審査選考し褒賞するもの。文化庁の開催要項には、入場券を審査委員全員と文化庁の事務方に届けることが記されている。まず、文化庁がどういう選考基準で審査委員を選んだのか、行政の追認機関ではありがちな審議会などの構成メンバーの選定同様、まったく不明だ。選考そのものも委員の投票で決まるのか、話し合いで決まるのか、文化庁事務方からの指示で決まるのかは不明。選考過程も公表されておらず、すべて密室での審査であることから、「談合」によって受賞者を決めているだろうと疑う人もあり、公正、平等、情報公開など、この時代に求められている行政の業務執行のあり方からも大きく逸脱している。こういうものに審査委員として参加する「学識経験者」や、参加する団体・個人の時代感覚の無さや民度の低さが、政治同様に行政の怠慢を許しているとも言える。
それはともかく、芸術祭に参加する個人・団体に対して、個別に審査委員と事務方にチケットを届ける、というやり方も前時代的・不合理。これは、芸術祭開催前に、チケットを文化庁に届け、事務方はそれをまとめて審査委員に渡せば済むこと。個別にチケットを審査委員に送れということは、それこそ事前の賞取り工作を是認し、あるいは奨励していると疑われてもしようのないもの。演劇部門のことは知らないが、舞踊部門では、公演の当日の招待受付で、お車代・お食事代を封筒に入れ、チケットとともに公然と審査委員に渡しているそうだ。文化庁長官が委嘱した選考委員諸氏、「こんな買収や不正はいかん」と受け取りを拒否する人物はいないようで、少額とは言え文化庁からのお手当と、参加者からの「お心付け」と、無料での鑑賞という、哀れなほどに貧乏臭く舞台を汚すほどの卑しい好事家ぶりである。芸術祭だけではないが、文化庁の芸術文化支援事業のうちの大半に、このような「学識経験者等の専門家」が選考・審査委員として助成対象の決定に参与している。そうであるからには、この選考・審査委員は準公務員、みなし公務員のようなものではないか。演劇などでは常態化しているが、この手の「学識経験者等」に括られる批評家やジーナリストなどは、普段からチケットを買い求める習慣が無く、観たいと思う公演でも招待状が届なければ自ら電話でチケットを強要する者(このブログの2月6日<『4月の崩壊する』か、NHK新体制>をお読み下さい。)、学生のような若い娘を連れ、その分のチケット代すら支払おうともせずに受付で主催者側と揉めるといわれる大学の教員など、愚劣なさまは枚挙に暇が無いほど。チケット代、お車代、お食事代の支出・受領は、官吏が禁じられている贈収賄そのものである。以前、音楽や演劇の個人・団体から、商品券などを受け取ったとして文化庁の文化普及課の事務官が逮捕されたことがあり、その数年前には、当時の文化庁の文化部長が同様に新型自動車を提供された疑いを芸術雑誌に指摘されたことがある。以来、綱紀粛正が進んでいるのか文化庁職員が自ら不正に手を貸すなどの噂は聞かない。
舞台芸術をめぐる周辺環境は、先の助成制度や官・民の支援機関の新設や新国立劇場の開場、あるいは阪神・淡路大震災などの災害から学んだボランティア活動の積極化などで1990年代に大きく変わった。特に目立つ変化は、それまでとは比較にならないほどの大きな額(税金)が舞台芸術に投入されるようになったことだ。であればなおのこと、事業の適正な執行、不正の排除、情報公開は当然であり必至である。不心得な、見識の無い「学識経験者」たちのご機嫌を取り、懇ろにならなければ、芸術祭賞や新聞社の舞台芸術(演劇)賞、そして助成金が獲得出来ない現状である。文化庁や助成団体の審査委員であること、新聞社の賞の選考委員であることをちらつかせ、劇団や劇場からチケットを強要、パンフレットやホームページ等での執筆機会をものにし、なかには演劇の製作団体や劇場への助成金の獲得、不適正な経理処理にまで加担しているといわれるほどの「学識経験者」を、文化行政の周辺から、そして舞台芸術そのものから一掃すべきである。
文化庁に芸術祭の取りやめを勧める所以である。

2005年03月02日

マイケル・ベネットの言葉

劇団四季が27年前の初演以来たびたび上演している、ミュージカル『コーラスライン』のオリジナルの原案・演出・振付をしたマイケル・ベネットの言葉がその公演パンフレットにある。「オーディションのときには演出家はビジネスライクであることが一番大切」と言い、「そうでないと、ダンサーたちに持たせるべきではない希望を持たせることになる」。「オーディションに落ちた人が、威厳と誇りをもって」、ほかの道、他の人生を歩むことが出来るようにしなければならない、ということだろう。彼自身が現役のダンサー兼振付師であったことから、もし踊れなくなったらどうするかを問われて、「そう、そのときは振付もやめます。それでいいのです。なぜなら、私に代わって私の役割を果そうとする、素晴らしくそして新しい素質が次々と現われるでしょうから」と答えている。この発言の十年後、ベネットはエイズで亡くなるが、このような舞台人としての矜持と覚悟、潔さは、たぶん今でも多くのブロードウェイの舞台人にとって共通のもの、水準のものだろう。日本ではまったく聞かない科白、持ち合わせないプライド、ではある。

2005年02月26日

「バカが創り、バカが観る」のが現代の演劇か

「2.26事件」の日だからというわけでもないが、35年前に市ヶ谷の自衛隊基地で自決した三島由紀夫の『私の遍歴時代』(三島由紀夫評論全集、1989年、新潮社刊)を久しぶりに読んだ。「芝居には知的な興味から入って行く人と、体ごと入ってゆく人と、二種類あると思うが、私はどちらかといえば後者に属する。」「はじめて歌舞伎を見たのが、中学一年生のとき、歌舞伎座の比較的無人の「忠臣蔵」で、羽左衛門、菊五郎、宗十郎、三津五郎、仁左衛門、友右衛門の一座であったが、大序の幕が開いたときから、私は完全に歌舞伎のとりこになった。それから今まで、ほとんど毎月欠かさず歌舞伎芝居を見ているわけであるが、何と云っても旺盛な研究心と熱情を以て見たのは、中学から高校の時分であり、当時メモした竹本劇のいろんな型や要所要所やききゼリフは、今でもよく憶えているほどだ。」「さて、私には新劇的教養は全く欠如しており、外国の台本は手あたり次第に読んだが、翻訳劇を見る気は起らず、季節はずれの郡虎彦の戯曲などに夢中になっていた。」 「戯曲を書こうとしてはじめて私には小説の有難味がわかったのであるが、描写や叙述がいかに小説を書き易くしているか、会話だけですべてを浮き上らせ表現することがいかに難事であるか、私は四百字一枚をセリフで埋めるのすら、おそろしくて出来なかった。第一、小説の会話はどちらかといえば不要な部分であり、(もちろんドストエフスキーのような例外もあるが)、不要でなくても、写実的技巧を見せるためだけのものであることが多いのに、戯曲ではセリフがすべてであり、すでに私が能や歌舞伎から学んだように、そのセリフは様式を持っていなければならぬ」。
三島由紀夫は大正末期に生まれ、昭和45(1970)年に昭和と同じ歳で自決した。その17年前の昭和28(1953)年には三島とも親交のあった劇作家の加藤道夫が35歳で自殺しているが、昭和33(1958)年には、20世紀の最初の年に生まれた劇作家の久保栄が自殺している。それぞれ45歳、35歳、57歳と、なんとも勿体無いほどの早死にである。
久保栄の『火山灰地』は、先月の第一部に続いて、来月20日から第二部が上演される。今月の初め、明治大学の神山彰先生が見えた折、先生から、久保栄の劇作に歌舞伎の影響が大きいと教わった。共同通信電の演劇批評で矢野誠一氏はこの『火山灰地』を取り上げ、「登場人物の出入りのたくみさなど、久保栄の演劇的教養の基本が歌舞伎にあったことを教えてくれ…」と書いている。
三島の演劇的教養が、幼少からの歌舞伎や能であり、久保の演劇的教養は、学生時分からの新劇と歌舞伎から。加藤のそれは、旧制中学生時分からのフランスはじめ欧米の戯曲研究だろう。
下北沢で若手の劇作・演出による新作公演を観て、過去の戯曲や映画から着想をパクッただけの作劇にあきれ果てた長年の友人から届いたmailには、「バカが創り、バカが観るものが現代の日本演劇」とあった。教養の凋落がいわれるこの時代、その先頭を走るのが演劇だろう。書くべきなにものも持たず、「描写や叙述が書き易い」小説すら書かず、三島に「会話だけですべてを浮き上らせ表現することがいかに難事であるか」と歎かせた劇作の難しさも知らない、演劇的教養の乏しい、遊び気分の悪ふざけやお遊戯の延長が演劇とでも思っているような、愚劣愚鈍な現代の演劇人やその周辺の業界関係者とやらに出遭わずに済んだだけ、久保、加藤、そして三島は幸いだった。
「藝術生活は断じて囲碁謡曲と同列の娯楽でもなければ俗に云ふ所謂「趣味」と称すべきものでもない。」「俗物から見れば滑稽とも馬鹿正直とも見える程に生真面目なそして熱烈な生活である。ふざけた洒落気分の弛緩した生活ではない。藝術が趣味とすることが出来るから藝術のすべてが趣味的のものであるとは言へない。かかる程度では文化活動の第一線に立って何が出来るか」(『象牙の塔を出て』)。厨川白村の言葉である。

2005年02月21日

大学に蝟集する演劇の『レッスン・プロ』

 梅棹忠夫の『比較芸能論』(「日本の古典芸能」第10巻。1971年、平凡社刊)を読んでいたら、こんなことが書いたあった。「職業としての芸能とはなにか。プロフェッショナルな芸能人というのは、どのようなひとをいうのであろうか」。「観客あるいは聴衆のまえで、修練によってえられたところの歌舞音曲の技能を披露する」。「それをもっておもな業務とし、それで生計をささえる人たちが、プロフェッショナルの芸能人とよばれるのだろう」。「芸能学校の数のおびただしさは、それにみあうだけの芸能教師の存在を意味する。それらの人びとは、芸能を教授することによってその生活をなりたたせている。芸能を職とするという意味において、彼らはまぎれもないプロフェッショナルな芸能人ではあるが、先にいったような第一次な意味での芸能人-今日のことばでいえば、芸能タレント-とは、かならずしもいいがたい。」
 早稲田大学、明治大学などの演劇専修・演劇学専攻や、東京学芸大学の教育学部教養系にある芸術文化課程表現コミュニケーション専攻など演劇実習をしない大学を別にすれば、日本大学芸術学部や桐朋学園短大、大阪芸術大学や近畿大学文芸学部などの舞台芸術専攻、数年前に新設された桜美林大学などの実習中心の学科には、現役の俳優や演出家、劇作家、舞台美術や照明、音響、衣装などのデザイナーなどが専任教員あるいは非常勤の講師として勤めている。産児減少化のこの時代、粗製濫造気味だった大学の生き残り戦略上、とくに学力底辺高校の進学希望の生徒の収容先として、講義(座学)ではなく実習中心の専攻科の新設こそが重要。その意味では、演劇実習専攻は恰好のコース。以前は専門学校の演劇実習専攻科が、基礎学力が不足し修学にも就職にも意欲のない高校生の行くところであったようだが、今はそれをこれらの大学が真似したか奪ったようなもの。修学意欲の無い者が、実習ならと望んで励むのだろうか。基礎学力不足と親の経済力は比例している、との説があるが、高校生の時までに、どれだけの舞台芸術に触れたのかは、親の経済力ばかりか、家庭の文化生活力とでも呼ぶべきものと連動している。
 昨年の12月12日のブログ(『水自竹辺流出冷、風自花裏過来香』)に書いたように、劇場の座席の背に足を載せて観劇するような卑しく傲慢な愚か者(そのひとりは自分が勤めている公共ホールで、だ。)たちは、三人とも東京大学、多摩美術大学、早稲田大学で教えている批評、アートマネジメント、演出の専門家。教わる方も凄いが、教える方も負けてはいない。教室での教員と学生の態度は想像がつきそうだ。日本大学芸術学部のある実習では、客員教授の演出家の休講が恒常化し、また他の演出家の講座では「学級崩壊」が起きていると言う。このような大学や、専門学校、劇団やプロダクションなどの養成機関が、演劇だけでは食っていけない「演劇人」の稼ぎの場なのだろう。それぞれに稼ぎは必要だろう。だが、稼ぎと務めが見合ってこそ、人を教えるに相応しいものではないか。
 彼らの半端な教員稼業、真っ当な「務め」と言えるのだろうか。

2005年02月18日

白洲次郎の『プリンシプルのない日本』

先月GOLDONIに見えたメディア総合研究所の吉野眞弘氏が作られた、白洲次郎氏の文章を纏めた『プリンシプルのない日本』(2001年、ワイアンドエフ刊)を久しぶりに読んだ。白洲さんが如何なる人物かは今更説明することもないとは思うが、綿貿易で成功した実業家(白洲文平。19世紀末、明治時代中葉にハーバード大に学び、三井銀行、鐘紡に勤めたのちに独立。財を成したが昭和初期の金融恐慌に遭い倒産。)を父に持ち、芦屋生まれ、ケンブリッジ大に学び帰国。ロンドン時代から当時の駐英大使だった吉田茂と親しく、戦後はGHQとの連絡調整の任にあたる。実業家としても、東北電力会長などを歴任。晩年は軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長としても活躍。若くして英国で教養と紳士道を身に付けたが、ゴルフ場でマナーの悪い田中角栄(だったか)を叱りつけたこともあるほどの硬骨、原則の人。五十年ほど前の雑誌『文藝春秋』に載せた文章全体の題は、「おおそれながら」だったり「腹たつままに」、「頬冠をやめろ-占領ボケから立直れ」、「嫌なことはこれからだ-勇気と信念をもって現実を直視しよう」など。またそれぞれの小題も、"智恵なき国民" "軟弱なら軟弱外交らしくせよ" "小役人根性はやめろ" "経営者の小児病を笑う" "政治家の「ハラ」程愚劣なものはない" "血税濫費の「御接待」" "もう一度戦争責任を考えよ"など、あげたら切りがないが、厳しくまた痛快。
さて本題である。この本の中にある、五十二年前に白洲が書いたものをここで取り上げたい。
「事業が苦しくなって来るにつれ、国家補助金を当てにする気分が大分頭をもち上げて来たらしい。新しい日本としては、ドッジさんじゃないが、補助金の制度は止めた筈だ。私は原則的には補助金制度など大反対だ。今、補助金、補助金と叫び出している御連中にしても、何ヘン景気とか何とか言って金がもうかって仕様がなかった時には、税金以上のものを国家に自発的に納入する意志があったろうか。インチキの社会主義者みたいに「私が林檎を一つ持っている。この林檎はみな私のもの。貴方が林檎を一つ持っている。その林檎の半分は私のもの」なんていう様な差引両取り、丸もうけなんていう考え方は、この頃はやりもしないし、通じるわけもない。どうしても或る産業の補助金を交付する必要があるのならやるがよい。然し私はその補助金をやるのに条件をつけたい。
一、政府は補助金を授ける会社の経理を厳重に監査監督すること。
二、その会社の利益が或る程度以上になった時にはその超過分に対して累進的に重税を課すること。
三、その会社の経営に当る人事に就き政府が或る種の発言権を持つこと。 
(中略)私の言いたいことは、もうそろそろ好い加減の一時しのぎやごまかしは止めた方が好い。もっと根本的に我国の経済の現状を直視して、その将来を考えるが好い。(「国家補助金を当てにするな」『文藝春秋 一九五三年六月号』より)」
私の言いたいことはもうお判りだろう。事業を演劇に、国家補助金を文化庁などの文化芸術支援(委託)事業に、インチキの社会主義者を補助金漬けの演劇関係者に、林檎を金に、それぞれ置き換えて読んで欲しい。
国などの補助(税金)を受け、そのことで自立する基盤が整い、その補助金を国に返そうとの心掛けの上演団体があったか。個人では、国内外での研修制度の利用者で、その支給された費用(全て税金)を後に返そうと思った者はいたのか。在外研修制度利用者や、国際交流・海外フェスティバル参加での支援を受けた団体や個人が、文化庁などとのパイプが出来たことをよいことに、補助金取りの亡者に成り果てているのではないか。支援制度の対象になりそうな企画ばかりを考えていないか。今年の1月6日のブログ『新年、そして最後の年に思うこと』に書いたので繰り返しは避けるが、こんなことにならない為にも、またさせない為にも、国は舞台芸術についての補助金・支援制度のあり方を根本的に改めるべきだろう。その為には、業界関係者や演劇評論家など利害関係者を集めた審議会や調査会、審査会などの行政の追認・翼賛的機関を設けず、白洲が付けた条件などをヒントにしつつ、「パブリック・コメント」など、広く一般国民に施策について意見を求めるべきだろう。
白洲次郎は言う。「大体補助金をやってまで運営しなければならない会社が、日本にあり得るとは私は思わない」。「補助金が無ければやって行けぬ様な産業はこの際思い切って止めるがよい。国家の経済環境はそれ程貧困なのだから」。
これは五十年前の国家や経済に限った話、ではない。

2005年02月12日

『新劇』と『リアルタイム』

 先日来、昨年の11月から最近までの新聞の切抜きを整理していて、掲載日は離れているが関連のある二つの記事に目が止まった。一つは、朝日新聞12月9日の夕刊、演劇評論家・大笹吉雄氏の寄稿の記事だ。劇団青年座が11月末からの十日ほど劇団創立50周年記念の事業として下北沢の5会場で同時上演したが、その全てを観た大笹氏の、寸評を含めたレポートだ。観るようにと青年座の製作部から誘われていたが、先約やら急な来客などで一本も観なかった。西田敏行が退団し、津嘉山正種が新国立劇場製作の『喪服の似合うエレクトラ』に出演中。演目、演出、出演者など、これを見逃しては、というせきたてられるような気分にも正直ならなかった。演劇評論家という人たちの批評の対象への迫り方の尋常でない姿勢に驚嘆。「リアリズム演劇もアンチ・リアリズム演劇も、そういう考え方とは無縁な歌舞伎の脚本も、新作も再演もと多様だった。とりあえずはこれが青年座が示した新劇の幅である。同時に注目したいのは、5劇場すべてが定員500以下の小劇場だったことだ。つまり、築地小劇場以来の本来の意味で、新劇は小劇場演劇にほかならない。」と氏は書いている。『新劇の幅』とは思わなかった。『新劇は小劇場演劇』とは知らなかった。青年座が示したのはお祭り気分のごった煮の「企画の幅」だとうかつにも思い込み、彼らの演劇公演の柱は、収益源でもある全国の演劇鑑賞会主催の千人規模のホールでの巡回公演で、下北沢や新宿など4百席程度のホールでの公演は、その為の仕込であり営業の為の発表会、形だけやるのだから小さいところで費用を掛けずに済まそうくらいの魂胆だろうと見くびっていたが、青年座の質の低そうな企画すらが、『築地小劇場以来の』『新劇は小劇場演劇』との凛々しい運動のようなものとは思いもよらないことであった。
 うっかり前半を飛ばしてしまった。大笹氏が冒頭に書いているのは、ある書評に対するコメントだ。その書評には、『今や崩壊したにも等しい新劇』という表現があって、「根拠のない言葉の繰り返しにうんざり」されたそうだ。氏は『喪服の似合うエレクトラ』や『ピローマン』の例をあげ、「新劇は今も元気印」と論じる。六十年代のアングラ台頭期以降、大手新劇団の文学座も民藝も俳優座も、既に昔日の勢いも面影もないほどに弱体化しているものと、私は長く思っていたが、テレビタレントに頼る商業劇場や新大衆演劇専門の劇場の作るものが「新劇」なのだとは知らなかった。
 もう一つの記事が、問題のこの書評だ。これは11月28日付の朝日新聞の読書欄にあるもの。この欄は、同じ朝日の夕刊に載る演劇関連の記事とは段違いに、最も権威ある報道機関と自負する「朝日」の、その見識を存分に示すものとして知られる。書評者にも第一線の研究者や評論家、名高い読書家を揃えている。大笹氏が「うんざり」させられた書評は、関容子著の『女優であること』(文藝春秋社刊)を評した音楽評論家・安倍寧氏の手に成るもの。同書で取り上げられた女優のうち、「奈良岡朋子、岸田今日子ら新劇系が多数を占める。著者の歌舞伎通はつとに知られているところだが、今や崩壊したにも等しい新劇への思い入れも、並々ならぬものと見た」とある。この数日、GOLDONIに見える七十代のご常連に、『今や崩壊したにも等しい新劇』という表現についてご意見を伺っているが、皆さんのご返事は、『その通りでしょう』。ある方は、『そんな状況だからこそ、あなたが蛮勇を振るって書店を開き、図書館を作ってでも新劇の復権を図ろうとしているんでしょ』と、かえって私の認識と決意を訝られる始末。1940年代、50年代の東京の高校生、大学生だったご常連の方々は、その当時からの新劇の観客であり、また実践者でもある。戦後の新劇ブームといわれた時代をリアルタイムで体験されている。文学座の出来たてのアトリエでの公演を高校生の会員として観始め、一昨年までは最大の新劇団でもある四季の役員としても活躍した安倍寧氏の、五十数年にわたる「新劇」の同時代を生きた観客・批評者の実感のこもった感慨に触れて、それに「根拠のない」とか、「うんざり」とかの強い言葉で批判する大笹氏の「新劇」体験とは、いったい如何なるものなのだろうか。
 演劇公演の招待状が届かなければ、文化庁だの読売だの朝日だのNHKだのと、文化助成審査や新聞劇評やテレビ番組で取り上げることをちらつかせ、チケットを強要する手合い、ゴロツキが増殖する昨今だが、その中で劇団四季の招待状が届かないと自著で明かす大笹氏、他人が使う『新劇』や『小劇場』などの言葉に、敏感に反応することも隠さない正直な方、なのかも知れない。

2005年02月06日

『4月に崩壊する』か、NHK新体制

普段に週刊誌を買って読む習慣はないが、新聞の広告で、『NHK永井多恵子副会長も「やってられないわ!」橋本新体制早くも4月崩壊へ』との目次を読み、早速に購入して読んだ。『怒れるワイド どいつもこいつも』という巻頭の特集ページを開くと、見開きのタイトルをバックに、左端には波野隆行容疑者の父・中村勘九郎、右端にトップ記事の永井副会長の顔写真が並び、その間には金正日、堤義明、海老沢勝二、などの『どいつもこいつも』の天晴れな御仁たち。これでは永井副会長までが文春編集部の怒りの対象かと思えてしまうが、読んでみればさに非ず。「橋本新体制を遠隔操作し、支配しようとする海老沢派の高級幹部たち」の「分厚い壁にぶち当たった永井副会長は、『副会長をやっていく自信がない』と語ったとある。永井氏のNHKでの最終職員歴は解説主幹。管理職としての最後は浦和放送局長だそうで、一般企業は参考にならないだろうが、中央官庁で言えば本庁課長級程度のポスト経験者。一般には、課長級での退職者が、5年も6年も後輩がトップになり、課長で退職した先輩がその下のポストに収まるということはないだろう。氏はアナウンサーを振り出しに解説委員に転じたスタッフ系職員で、局員も数十人ほどの基幹ではない地方局の管理職を3年ほど務めただけの退職職員を、局員数11800人の大組織のナンバー2に誰がどんな判断で起用したのか全く判らない。文春の記事を読んでも、こんな異例な人事に一言も触れてはいない。
この永井氏、世田谷区の文化生活情報センターの館長を8年ほど務めているそうで、他にも中央官庁や東京都など行政の審議会等の委員を相当数引き受けている。02年だったか内閣府が提言した、男女共同参画推進の一環での政府審議会委員の女性登用が促進されたこともあって、委員の就任依頼が多数あり、多くの審議会委員を務められていたのではないか。しかし03年には総務省の打ち出した行政改革のひとつとして、この政府や自治体の審議会委員の重複就任が問題とされたが、永井氏もその重複委員のひとりになってしまっていた。昨年までは読売新聞制定の演劇賞の選考委員を務めていた。文化・生活関連施設の長としての職務もこなし、委員としての多数の審議会に参画、演劇公演の招待状が届かなくとも主催者などに自ら連絡を取り、観劇の手筈を整えるとの評判は、その積極的な姿勢を証明するもの。永井氏の手腕も見識も政治力も人間的魅力も存じ上げないが、就任したばかりで、『副会長をやっていく自信がない』との弱気な発言は、評判を裏切るもので、せっかく起用してくれた人物の期待をも無にするもの。この事態での副会長就任は、あまたある公職を引いてのものだろうから、ぜひ専心しての全力投球をお願いしたい。週刊文春の言う『4月の崩壊』が現実のものだとしても、「やってられないわ!」と投げ出したい気持ちを抑えてでも、それまでの2ヶ月は大いに奮闘して戴きたい。

2005年02月04日

『クライバーの死』と『目利きの不在』

午前中、5月の演奏会のチケットを電話予約したので、そのチケットを引き取りに上野の東京文化会館に行く。そこで貰った会館の広報誌『音脈』冬号の中にあった写真家・木之下晃氏の文章が面白かった。昨夏亡くなった名指揮者カルロス・クライバーについて書かれたものである。「巨匠が指揮台に登るとなると、世界中からファンが殺到し、チケットはプラチナとなることが分っているのに、姿を現わさなかった。その大きな要因は、現在の音楽界そのものが商業主義にどんどんと傾斜してしまったことにあると、私は思っている。巨匠は芸術として音楽を演奏したかったにもかかわらず、オーケストラは時間で練習を区切り、彼が望む音楽作りを共にすることをせず、演奏をお仕事にしてしまったことを怒っていたのだと思う。世間は巨匠をキャンセル魔といって、キャンセルをしたことを彼の所為にしているが、本当の理由はオーケストラ側の怠慢にあったことは衆知の事実である。巨匠が演奏しなくなったのは、現在の音楽界の在り方に絶望したからだといえる」。今、日本に芸術を作るために、守るために約束を取り消すアーティストはいるか。約束の期限にも書けず、稽古期間にも上演台本として全編が調うことが稀な劇作家が、以前、上演をキャンセルする時に遣った見苦しい言い訳は、芸術家として中途半端なものを舞台に上げる訳にはいかないという、「作家の良心」だった。一昨日、GOLDONI JUGENDのひとりである佐々木治己さんが持ってきてくれた『選択』の2月号の、『日本は「本物」の伝統芸能を守れるか』という文章にはこうある。「本物とそうでない者を見極める目利きが必要であり、目利きが本物と判断した舞踊家を支援し、さらに次の時代を担う本物を育てていくしか道はない。ヨーロッパは、確かにそのようにして芸術を大切に育てている。何にも迎合しない目利きが多数存在し、その多くはパトロンとして、芸術家を育てている。芸術性の低いアーティストを支援すれば、そのパトロンは物笑いの種になる。しかし、今、日本の本物の芸術を見分ける目利きがいるだろうか? 文部科学省と文化庁は、物笑いになるパトロンではないだろうか? 目利きがいなければ、何がすばらしいかはわからない。ヨーロッパの人々は、目利きがすばらしいと言うものを見て、目を肥やし、目の肥えた大衆が本物のアーティストを支えている。本物のアーティストと目利き、そして目の肥えた大衆。三つがそろわなければ、良貨は悪貨に駆逐される運命なのだ」。 今の日本の演劇について言えば、贋物の演劇遣りたがりと、目利きとは縁のない取り巻きのようなマスコミ・批評の御連中、彼らが作り評価する作品を疑い無しに見てしまう目の肥えようのない演劇ファン、という三つが揃っている、ということか。本物の芸術家、目利き、目の肥えた大衆は、行政が作るものではないし、作るべきでもない。あるいは、それを頼るべきでもない。それぞれがその持ち場・領分で水準・見識を持ち、その機能・役割を果たすことから始めるしか解決はないだろう。

2005年02月02日

松竹に『俳優の刑務所訪問』を勧める

母の義兄(私の伯母の夫)が法務省のキャリア官僚を務め、退職後その外郭団体の常務理事をしていた時のことだから、昭和の三十年代のこと。二十数年前まで沼袋にあった中野刑務所の隣りに伯父の勤める協会があったのか、6歳か7歳くらいのことで詳しくは覚えていないが、駅から暫く歩くと高い塀があった。確かその隣りに伯父と伯母が住む所長宿舎があった。そのとき以来行ったことは無いが、あの塀の高さとその不気味さは、幼い頃の怖い思い出だ。その何年か後、府中の刑務所(の隣りにあった宿舎)にも行ったことがある。その時は、もう中学生だったか、ここに収監されている服役囚が多数いることが判っていて、それはそれで怖いところだと思ったものだ。私には記憶が無いが、兄は伯父が静岡刑務所の所長時代の幼い頃に泊りがけで静岡に遊びに行き、偶然か看守に監視されながら所長官舎の庭を掃除する囚人を目の当たりにし、「悪いことをすると捕まり、刑務所に入れられる」とでも言われたのだろう、家に戻って開口一番「もう、いけないことはしません」と親に誓ったそうだ。
何年か前に、アメリカの刑務所の民営化についてのテレビ番組を観たことがある。カリフォルニア州のある町の中学校の課外授業の話だったと思うが、犯罪防止の教育の一環で刑務所を訪問し、複数の服役囚から罪を犯すことがいかにリスキーかを、身を持って体験した彼らから生徒が教えて貰っていた。
道路交通法違反で捕まり、舞台に穴をあけた中村福助といい、今回の無銭タクシー乗車、警官に対する暴行の公務執行妨害で逮捕された中村七之助といい、天晴れなものである。叔父と甥のこの二人、ともに華奢な体の女形である。七之助はスキャンダルに事欠かない親の躾に問題が無かったとはいえまい。では、体も大きく立役で、親の躾のよくない出来そこないが、街で暴れたらどうなるか。松竹の歌舞伎担当の経営幹部たちの不安が想像できる。必ずまたこんな事件が起きる。不安は杞憂に終らない。この際、松竹所属の歌舞伎俳優全員を連れて府中刑務所ヘ行き、講堂でも大勢の服役囚に囲まれて彼らの話を拝聴する機会を作ったらいい。

2005年02月01日

『マルタ・アルゲリッチ 室内楽の夕べ』

30日の日曜日の夜は、サントリーホールで催された『マルタ・アルゲリッチ 室内楽の夕べ』。GOLDONIのご常連の内山崇氏と出会う。この半年ほどで、クラシック音楽の演奏会で氏をお見掛けするのは3度目。この広い東京でも、世界水準にある演奏を聴きに出掛ける習慣を持つ人の数は数千か。白洲次郎が所有していたルイ・ヴィトンの鞄が展示されている六本木ヒルズ52階での展覧会の情報をmailで戴いていたので、そのお礼のmailを午後に送らせて戴いたばかり。お出掛けの折、お読み下さったそうで、いつも頂戴する洋書などの資料とともに、厚かましくも「既にお読みであればお譲り下さいませんか」とお願いしていた、以前お買い戴いた諏訪正氏の『ジュヴェの肖像』(芸立出版刊)をお持ち下さった。この日の演目はハイドンの「ピアノ三重奏曲第25番ト長調」、シューマンの「ピアノ四重奏曲変ホ長調作品47」、メンデルスゾーンの「ピアノ三重奏曲第1番ニ短調作品49」。ヴァイオリンは堀米ゆず子、チェロに山崎伸子。この演奏会は、1月17日に予定されていたものだが、アルゲリッチが風邪引きで来日が遅れ、キャンセルになった為に急遽代替で開かれたもの。当初は、ルノー、ゴーティエ(チェロ弾きに相応しい名だ)のカプソン兄弟との共演だったが、堀米、山崎がピンチヒッターで出演。その任を充分に果していた。こちらも急遽聴くことにした演奏会は、豊かなものになった。代替公演の予告から十日足らずの公演、1階は満席、2階も9割方、バルコニーが7割強の入り。奔放でキャンセル魔のアルゲリッチだが、その人気とそれに見合う実力を久しぶりに実感した。

2005年01月31日

『舞台芸術図書館』は『落穂ひろい』

25日のブログを書く時に参考にした倉林誠一郎の『新劇年代記≪戦中編≫』(白水社刊)に、昭和15年の2月20日の項で、千田是也が新築地劇団を退団した折の文章が載っている。
「今度新築地をやめました。別に新築地と私の間に根本的な思想的または芸術的対立があったからではありません。どうにもならぬ感情的対立がある訳でもありません。私と新築地の間にある種の仕事の分化が行われたのだと思って戴ければ私は一番気軽です。単に新築地とばかりでなく、職業的な新劇団の組織から一応自分を引離してみたく思っているのです。といって私は現在の新劇の職業化に反対な訳でなく、また、それに絶望している処ではなく、この職業化の線にそってしか現在の新劇の発展はないと信じ、またその前途に対してもかなり楽観しています。職業化のある程度の実現によって、新劇人特に俳優の専門的技術の定着がなされつつあることは、これまでの日本の新劇運動の歴史になかった意義ある事実として非常に大切にしなければならないことだと思っています。新築地もその意味で大いに栄えて貰いたいものです。職業化につれて若干の面白くない現象がともなうにせよ-職業化の軌道からは今は一歩もしりぞくことはあやまりです。やれ卑俗化だ、やれ低調だと騒ぎたてるあわてん坊の評論家たちのあやしげな処方箋をあまり気にせず自信をもっております。もっともこの軌道を長年あるいていさえすれば誰れもかれもが天才になれる訳でもなくまたそれだけでよい芸術が出来る訳でもないでしょうがそういうものの土台が生まれて来ることは確かです。(中略)新劇職業俳優が当面の仕事に追われて出来ないようなそれでいて彼等に大変必要なある啓蒙的な仕事があり、それをやることを光栄に感じて一人の男が、新築地から分化してそっちの方に自分を派遣したという風に今度の退団をとって戴ければ私は一番気が楽です。これは新築地にもいつかは役に立つ仕事だと思います」。倉林氏の引用はここまでだが、『会館芸術』4月号に載せたこの千田氏の文はその後も続く。『もうひとつの新劇史-千田是也自伝』(筑摩書房刊)から抜かせてもらう。「平生の仕事として、私が買って出たいのは、生まれつつある近代的な職業俳優術の〈落穂ひろい〉みたいな役です。」「この国の新劇俳優はみんな、いはば一種の独学者です。しかも貧乏な苦学生です。経験ある演技指導者ももたないうえに、この職業の奥底にふれたことのない多くのディレッタント的演劇改良家にこづきまわされすぎているのです。その結果、基礎訓練がないのです。……その唯一の表現手段である自分の身体や心理については、恐ろしいほど僅かのことしか知っていないのです。」「私がいま買って出ることを大変に光栄に感じている新劇職人道の落穂ひろいの仕事というのは、現在の日本の新劇職業俳優たちの経験を集めたり整理したりして、系統だったものにしていくこと、また演劇とくに俳優についてのいろいろの学問の結論をいまの新劇俳優がその仕事のあい間に楽に咀嚼できるようなものにして、そのそばまで持っていくこと、そうした啓蒙的な仕事です」。千田是也の『演出演技ノート』(八雲書店刊)の「あとがき」には、この後の文章が載っている。「日本では演劇学といふ奴がどうもあまり、演劇の実践から遠いところにゐるやうです。また学問として若いせゐもあるのでせうが、芝居道からあんまり遠い人たちの手ににぎられてゐるので困ります。ドイツのアドルフ・ウィンヅやフェルディナンド・グレゴリー教授のやうな舞台に立った経験のある人々の息がかからぬと、この学問はやはり本物にならぬのではないでせうか。まあさう云ふ人があらはれるまで、日本の演劇アカデミーと新劇の実際とを結ぶ橋のやうな仕事をやらせてもらへたら、私は大変光栄です」。 
千田是也のその後の活動やその成果は、私が説明するまでもないことだ。ただ、昭和劇界の巨人が成し得なかった事業の一つに、演劇図書館作りがあると思う。私のような浅学非才、無名な演劇人には、この巨人の仕事の〈落穂ひろい〉すら大変なこと。今日のこの長いブログをお読み下さった方々のご助力を切に願う次第。 

2005年01月25日

『火山灰地』(第一部)を観る

17日の『新春の初尽くし』で書き忘れていたが、今年最初の現代演劇観劇は、東大駒場での小鳥クロックワークの最期公演『わが町』の最終日だった。新年早々に、何があってか創立8年で解散する劇団の千秋楽公演を観るとは変なものだ。24日の夜、こちらは創立五十五周年の劇団民藝公演、池袋の東京芸術劇場中ホールでの、久保栄・作の『火山灰地』を観る。1938年6、7月の新協劇団での初演(築地小劇場)、同年7月の再演(東京劇場)、戦後の48年の俳優座公演(有楽座)、61年の民藝公演以来の上演。今は亡き倉林誠一郎氏の名著『新劇年代記<戦中編>』で調べると、新協での初演時は前編が23回、後編が16回、合計39回の公演で、入場者数は17,093名。倉林氏が抜いた当時の東京朝日新聞の記事によれば、「(略)昭和十年頃、新劇の観客数は三千人を動かすのがやっとだった」が、「かくて事変後の新劇界に目立つことは、新劇も長期公演が可能になったことと、観客を一万人は確実に動かせるようになったことがあげられ、歌舞伎、新派の不振を他目に着々確固たる地歩を占めつつあるのが現状だろう。そして此劇界に於ける新劇の人気は興行資本家の目をつける所となり東劇を始め丸之内松竹劇場や有楽座に出演させる話迄新協、新築地両劇団に持ち込まれる迄に至っている。」とある。事実、初演終了の二十日足らずの同じ7月27日から31日まで、松竹所有の東京劇場での5日間7回の公演では、6,523名の観客だった。
私は俳優座公演の48年には生まれてもいず、民藝初演時の61年頃は、小学校を休んででも稽古に精進する毎日で、楽屋口から入る歌舞伎座と新橋演舞場だけが劇場だと思っていた旧劇少年で、親や姉が観ていたホールなるもので演る新劇には縁も興味もなく、したがってこの『火山灰地』は初めての観劇だった。感想は、この3月にも第二部上演があり、それを拝見してからにする。偶にGOLDONIや新劇団の公演時にホールでお目に掛かる作家の高井有一さんが、公演パンフレットに書かれている。その「『火山灰地』に思ふ事」の文中、民藝の初演時に、ニ幕の雨宮家の室内の場で、宇野重吉扮する農民・逸見庄作のへりくだった物言いと、それを軽くあしらう細川ちか子扮する雨宮の妻照子の態度との対照が、「二人の棲む世界の距たりを鮮明にさせた」とあるが、昨日観たばかりの今回の舞台に、その情景が全く思い出せない。

2005年01月21日

『白洲次郎』と『帝国ホテル』

昨日の続き。17時過ぎ 、友人の紹介で、メディア総合研究所の吉野眞弘社長がお見えになる。氏はITコンサルティング、翻訳、語学教育、映像製作、出版などメディア全般の事業展開をされているが、尊敬する白洲次郎の本、『プリンシプルのない日本』の発行者でいらっしゃるので、お目に掛かることを楽しみにしていた。吉野氏は私より5歳年上の57歳。氏との1時間ほどの対話は、1960年代後半から今日までの四十年ほどの日本の変わり方についてだった。営利企業の利益追求という『欲望』とはなど、興味深いテーマのお話を伺ったが、途中で私の外出の時間が来てしまい、「今度はじっくりと話せるように時間を作りましょう」と仰って戴きお帰りになった。
18時半、有楽町へ。東京国際フォーラムCホールで上演中のMOMIXの『PASSION』。会場で『三田文学』の元編集長の作家・高橋昌男氏にご挨拶。終演後、DNA Mediaのプロデューサー後藤光弥氏と日比谷の『慶楽』で食事、帝国ホテルの『EUREKA』でお茶。この2店は、三十年来の日比谷での定番コース。『舞台芸術図書館』の設立に向けて、そのグランドデザイン作りなどを相談。海外・国内の出張も多く、マルチメディアコンテンツ制作で多忙な氏、「時間のあるときに、インタビューして差し上げる。話すことで構想がより明確になるはずだから」と仰ってくださる。話の途中、向かい側の席の団体が帰るところで、そこに旧知の桜ゴルフの佐川八重子社長がいらしたのでご挨拶。「ご兄弟、ご活躍ですこと」と過分なお言葉を戴いた。「活躍」とは全く縁の無い無名な演劇製作者としての最期の挑戦が、『舞台芸術図書館』。応援してくださる人々と、活躍は出来なくとも、自助努力による演劇の拠点作りに邁進したい。
  

2005年01月20日

『ヤング・トスカニーニ』と『三田文学』

昼過ぎ、「店の雰囲気に引かれて入ってしまいました」と仰って、地元の小学館のK氏が初めてご来店。お帰りの時は、「急ぎで新刊が必要な時は、いつでも連絡なさい」、とも。忝し。明治大学政治経済学部の3年生Y君、「日本劇団協議会の機関誌(ジョイン)は売っていますか」。残念だけれど、皆さんにお薦めするほどの質もなく、私自身も蔵書として保存していない。「何でそんなものを読みたいの?」と訊くと、最新号でメディアの側の人たちの座談会があってその部分を読みたい、と言う。その号はたまたま、末席を汚しているある研究会のメンバーに頂戴して読み、その座談会に新聞メディアを代表して出席していた記者氏にも、先日の俳優座創立六十周年記念の催しで会い、その折のことなど20分ほど伺っていた。Y君には「貸して差し上げる」と言い、あとは就職活動の話など訊く。
15時過ぎ、音楽評論家で、エイベックスの顧問をされている安倍寧氏と電話で話しているところに、毎日新聞特別顧問の諏訪正人氏が見える。ゼッフィレッリの『ムッソリーニとお茶を』のヴィデオテープをお返しし、当方のホームページの新コンテンツに寄稿エッセイを作る予定で、日本を代表するコラムニストの氏に厚かましくも玉稿を賜るべくのお願いもあって、ご多忙な安倍大先輩から頂戴した電話だったが、「諏訪さんがお見えになりました」と状況をご説明、後ほどお掛けします、と受話器を措かせて戴く。「11月に久しぶりに安倍氏と会いました」と仰っていた諏訪氏にも「安倍さんとお話していました」とお伝えすると、「電話の途中で、安倍さんにも済まなかった」。「『ヤング・トスカニーニ』が面白い。今度貸してあげる」。「原稿は書きます。テーマや締切りなどはメールで送って下さい」といつもながらのお心遣い。「安倍さんに詫びていたとお伝え下さい」と仰り、社にお戻りになった。その後直ぐにお待たせしている安倍氏に電話。「(クラシック音楽情報サイト)モーストリークラシック・エキサイトでお書きの『気分のよい瞬間』、面白いです」などと、文筆業50年の権威をつかまえて厚顔にも感想を述べる。「昨夜、安倍さんと親しい方のお嬢さんと会いました」と報告すると、彼女の父親が著名な作家であることを教えられる。『三田文学』の冬季号が、フランス文学の白井浩司先生の追悼特集を編んでいるそうで、慶應仏文出身者の「彼も、僕も、あなたのお兄様も書いていますよ」。編集修業をした『三田文学』の最新号すら読んでいない私に呆れながら(?)も、「近いうちに持って行ってあげる」と仰ってくださる。
  

2005年01月17日

新春の初尽くし

正月の三が日は、元旦の昼からGOLDONIに出て、新年の挨拶に見える来客と話をしたり食事をしたりし、そのまま4日から8日の土曜日まで休まなかった。幼少の頃からの新年の浅草寺の初詣でが出来たのは9日の日曜日。初の劇場見学は10日の成人の日、佐藤信氏のご案内で神楽坂に3月完成予定の岩戸スタジオ。こんな小屋を併設した図書館が欲しくなった。初パーティーは12日の椿山荘(幼い時分は見事なボンヤリで、蛍がこの椿山荘にだけいるもの、と思っていた)での俳優座創立六十周年の宴。俳優座の若手俳優たちが、ショータイムの舞台に乗って歌ったり踊ったりしていたが、その舞台姿は演出なのか全くの素人になりきっていた。初寄席は、15日の国立劇場演芸場での『花形演芸会』。(開演時間には間に合わず、仲入り前の柳家喬太郎の『三味線栗毛』から聴いた。この人は新作の人気若手落語家だが、この日は、最初からトチリが多く、古典をまともに浚って舞台に臨んでいるとは思えない悪い出来。トリの三遊亭竜楽『紺屋高尾』、予感がありロビーのモニターで聴いていたが感心せず、途中で演芸場を出た。ゲスト出演の国本武春だけがやけに目立った、今日の芸能を映す暗示的な演芸会。)初芝居は、今日の歌舞伎座の昼の部。目当ては無論の事だが、中村吉右衛門の『梶原平三誉石切』。柄といいニンといい、説得力といい、見事な平三景時。六郎太夫の市川段四郎がよく勤めていたが、台詞のトチリが重なり残念。市川左団次や中村福助の拙さなど書くだけ野暮というもの。『松廼寿操三番箒叟』の市川染五郎、十四五の少年ならば誉めるところ。海老蔵同様、独身のうちに外に子供を作るほど立派な大人の俳優としては何とも不足な出来。『盲長屋梅加賀鳶』の松本幸四郎、この人を歌舞伎でも、東宝ミュージカルでも、松竹大衆劇でも、ましてや三谷幸喜作品でもなく、彼の得意そうな心理描写が生きる海外戯曲で観たいもの。中村屋の郎党のような松竹の幹部も、物入りだった昨夏のニューヨーク公演の後始末や何とも分不相応な勘三郎襲名3が月興行の仕込に大童だろうが、高麗屋のことも少しは考えるべき。坂東三津五郎に精彩なし。勘九郎もそうだが、マスコミが実力以上に評価、持ち上げることも彼らの所謂『運も才能』だとすれば、彼らの身体の小ささは不幸なほどに運がなく、大きなハンディキャップ。ただ、幼少の時に観始めた市川寿海、桜間金太郎、藤間藤子、井上八千代などの昔の名人は、体こそ小さいが舞台では大きく立派に見えた。今の彼らには身体的なハンデではなく、本質的な何かが欠けているのだろう。『女伊達』の中村芝翫、姿形で興味をそがれた。将来の歌右衛門になる福助を観続けるほどの覚悟も義理もないが、成駒屋も団十郎もだが、裏に回ってでも少しは本腰を入れて子弟の演技指導・生活指導に専念したらどうだろう。
今年は今まで以上に優しく穏やかで、無理にでも誉めるところを見付ける好事家を目指そうと年の初めに誓ったが、それにしても少し甘すぎるコメントになってしまった。 

2005年01月10日

『最善を尽くし、一流たれ』

正月の新聞から。日本経済新聞の元旦から始まった『私の履歴書-中村鴈治郎』が面白い。今年の12月に京都・南座での顔見世興行で、230年途絶えていた上方歌舞伎の最高名跡・坂田藤十郎を襲名する現三代目の鴈治郎。経済活動では地盤沈下の激しい関西で、(我が国民のモラル低下の推進役でもある吉本興業は、本の街、知の集積基地である神保町に痴性で対抗か、GOLDONIの隣りのブロックに進出。そのお披露目は、所属タレントが社員マネジャーを殴ったとかの傷害事件でタレント本人が開いた涙の記者会見だったそうだ。)歌舞伎は戦後の数年で斜陽化し、東京からの俳優が応援、あるいは主役の座を奪っての興行が五十年以上続いている。そんな時代、「私はかねて江戸歌舞伎と上方歌舞伎の両方が隆盛になることが、歌舞伎の本当の意味での隆盛」と語る。「襲名が近づいてきて、藤十郎の影のようなものを感じ続ける毎日」だそうだ。また、祖父・初代鴈治郎が一代で築いた名を返上しての73歳の挑戦。初代鴈治郎同様に名門出身でなく、大正・昭和前期に活躍した祖父・初代中村吉右衛門の名を益々高め、東京一の大俳優になった二代目中村吉右衛門は60歳。この東西のふたりに現役として長く活躍してもらいたい。「家の名前を継ぐ通常の襲名」が目白押し、芸道よりは女性タレントに関心の向く、歌舞伎俳優というよりはテレビ芸能人紛いの世襲役者の演る舞台が量産され、舞台よりもテレビや新聞・雑誌などマスコミ露出度が実力の証のように、本人だけでなく、当のマスコミの人間まで勘違いさせる現状が続けば、長期的には歌舞伎の命脈は尽きるだろう。
鴈治郎の履歴書の昨日の回からは、武智鉄二が行なった、所謂『武智歌舞伎』の話が出てくる。「武智先生は資産家で、戦時中、古典芸能を守るため『断絃会』という鑑賞会を主宰しお師匠たちを支援し」ていた。そうした古典芸能の演者のうちでも特に名人と言われた、浄瑠璃の豊竹山城少掾や能の桜間道雄に稽古をつけて貰っていた。 「そうでなかったら私みたいな者に稽古をつけてくれるはずがない。いくらお金を出しても教えないような名人」には、武智が稽古の月謝を支払っていたという。 『一番いいものを見て、一番いいものの中に育っていないと芸が貧しくなる』と武智鉄二に言われていたそうだが、これは芸だけでなく、あらゆることに置き換えて言える教えだ。
若い時分に武智鉄二や扇雀を知り、今は吉右衛門だけを本格の江戸歌舞伎俳優だと思っている私は、親や師匠たちに教わったと同じ武智の教えに触れ、「清里開拓の父」として著名なアメリカ人宣教師のポール・ラッシュ博士が、八ヶ岳南麓の地元の子供たちに教え諭した言葉を思い出した。
『Do your best and it must be first class』。

2005年01月06日

新年、そして最後の年に思うこと

元旦の新聞から。毎日新聞3面の新シリーズ『語る-戦後60年の節目に』の一回目は、ハーバード大学名誉教授の経済学者、ジョン・K・ガルブレイス氏。『ゆたかな社会』(岩波書店)、『経済学と公共目的』(講談社文庫)などを学生時代に読み、「社会的公正への視点」などを学んだ、つもりでいる。記事を要約、あるいは引用させてもらう。戦後の日本の復興と国際舞台への再登場は、聡明さや規律正しさの天性の才能を持った日本国民の貢献によるもの。しかし中国、インドなどの今日の経済の台頭は目覚しく、この先の10年で日本は中国の陰に入り、もはや日本の成功はあり得ない。「戦後の努力は報われたのだから、これからは世界から敬服されることに力を注ぐべき」。「今、私たちは新たな段階を迎えている。どれだけ生産を上げられるかではなく、私たちが何をするかが重要になる世界の到来だ。教育、芸術、生き方…。そんな人間存在の基本となることの遂行だ」。「とりわけ、教育はその重要性において経済に匹敵するものだ。政府にとって最も洗練された仕事は、教育システムの質の向上に金と努力を傾注することだ」。「教育者や芸術家ら家庭や地域社会の幸福に資する人たちが前面に出てこなければならない。そんな時代になったのだ」。
経済バブルが終息した90年代、演劇や舞踊などの「舞台芸術」に、国や地方公共団体、それらの外郭団体から、かつてない助成金・補助金(税金)のばら撒きが目立つようになった。明確な評価基準も無く、透明性の担保されない経費支出が常態化され、海外研修も、団体や劇場の運営、作品の制作にも、芸能プロダクションの海外公演にも税金が投入される。助成・補助が無ければ個人も、団体も、劇場も成り立たなくなってしまった。この助成金・補助金漬けで、殆どの演劇人が麻薬中毒患者の様になってしまった。麻薬やアルコールの中毒は、苦しいがそれを絶つことで更生することが可能だが、今の演劇人に助成金絶ちは出来そうにない。規律を持っての日々の精進、時間と労力と叡智とを掛けての演劇活動、自助努力を尽くしての団体・劇場経営こそが、演劇人が一般社会から敬意を持たれる姿勢だろう。口惜しいことだが、この十数年で演劇人の気風は変わってしまった。そして、そんな姿を冷静に観察・批評すべきジャーナリスト・批評者はほぼ絶滅した。今日も多くの劇場の客席には、批評眼など最初から持ち合わせていないミーハーファンが幅を利かせている。
「世界から敬服されることに力を注げ」とのガルブレイスの遺言になるかもしれない言葉に、「演劇人は社会から敬意を持たれる経済的には貧しい人々」を取り敢えずは目指すべきと主張・実践し、多くの無視と、あるいは反感にあってきた私は、救われた思いだ。
力足らずに無名、経済的には貧しいが、僅かに残った矜持と、徒労に終るかもしれない行動にかける情熱が失せぬ今、舞台芸術図書館の設立準備を急ぐことにした。図書館の開設あるいは断念の如何にかかわらず、『演劇書専門GOLDONI』を今夏に閉じることも決めた。残り時間は少なくなったが、私なりの演劇への、そして社会への最後の務めを果たしていきたい。

2005年01月04日

『舞台芸術図書館』準備始動の新年

昨3日の12時、年末からの約束で劇団四季OBの俳優・浜畑賢吉氏が見える。03年夏に刊行された自著『戦場の天使』(角川春樹事務所刊)、東アフリカの自然保護などを会員の無料奉仕と寄付によって支援する『サバンナクラブ』(氏は副会長を務めている。)のカレンダー、缶ビール半ダースを手土産にしてくださる。本とカレンダーは、有り難く頂戴するが、四季を辞めた時に酒断ちをして以来飲まなくなったので、せっかくのビールは氏おひとりで飲むことになる。氏はGOLDONIでアルコールを口にした最初で最後の客か。昨年4月から専任の教授としてお勤めの大阪芸術大学での授業のこと、東京で計画されている演劇スタジオのことなど伺い、私が構想している、『舞台芸術図書館』や現役の演劇人の為のスタジオのことなどを聞いて戴く。個人の力で、俳優の教育なり、演劇製作者やドラマトゥルクの再教育の為の施設を作ることは難しいことだが、本気になって難事業に取り組む劇団の先輩を見送りながら、この1年を『舞台芸術図書館』作りに専心する決意を新たにした。何もかも官に頼るのではなく、個人で出来ること民間ですべきことは自己責任で成し遂げようとの今の社会では主流になった真っ当で当たり前の考え方は、こと演劇の世界では、四季育ちくらいしか持ち合わせない珍しいものかもしれない。
この4月には、新国立劇場の演劇研修所が立ち上がり、初年度は15人ほどの初心者を教えることになる。ここに初年度で6千万円ほどの税金が投入される。研修施設は劇場内のものを活用するのだろうから、設備には殆ど費用が掛からず、その大半は、そこで教える演劇関係者の講師謝礼になる。演劇部門の芸術監督はじめ、早々と委嘱が決まっているのか、『俺が所長になるんだ』と、はしゃいでいると評判の演出家も含めて、またぞろ金の匂いに敏感、いや、公共の務めに熱心な人びとで、劇場と言うよりは病院の関係者通用口を思わせる地下や、役所のような陰気さが漂う劇場内施設が、ますます非演劇的な空間になることだろう。
18時、劇団四季の広報部門で働くK君が新年の挨拶に寄って呉れる。話し込んでいたら、K君の携帯電話に同僚のT君から誘いの電話。汐留で待ち合わせをすることになったので、カレッタ汐留で開催中の『劇団四季展』を観ることにし、K君の案内で出掛ける。特設テントで設営された会場でK君同様に親しくしているT君と会い、三人で近くの『スターバックス』で30分ほどお茶を喫する。
今日4日からGOLDONIは営業を始める。最初の来客は、毎日新聞特別顧問の諏訪正人氏。氏は劇団四季の創設期に文芸ブレーンでいらしたので、劇団の大先輩のようにお慕いし、いつも興味深いお話を伺い勉強させて戴いている。今日は氏が旧制の中学生であった昭和23(1948)年、毎日ホールでご覧になった劇団俳優座公演『天使捕獲』(作・正宗白鳥、演出・千田是也、出演・千田是也、松本克平)の舞台の思い出を伺う。先ほど、所蔵の昭和30(1955)年、白水社刊の『現代日本戯曲選集』で、この『天使捕獲』を初めて読んだ。これほどの作品を試演会という形態で上演していた劇団と俳優、観ていた観客、そして戯曲のレヴェルをなくした今、それでも劇作に手を染めようという人々は、執筆を何年か止めてでも、この白鳥始め、書くべきものを持った作家の戯曲を、またその書かれた時代を勉強するところからやり直すべきだろう。
夕方、劇団四季の演出部OBの好川阿津志氏が見える。先日も年末のご挨拶にお越し戴いたばかりで、劇団の後輩ということあってか、弁えの足りない私などには、真似すら出来ない氏のお心遣い。反省し感謝する。『舞台芸術図書館』の設立についても、「あなたがやらなければ、個人民間の自助努力でそういう施設を作ろうという人は出てこないのだから」と叱咤激励される。
偶々だが、『GOLDONI舞台芸術図書館』の設立準備が始動する、そして『演劇書専門GOLDONI』が閉じる年の初め、若い時分に自助の精神を教えてくれた劇団四季の現役やOB、縁のある人たちと、『演劇』を語らった。

2005年01月01日

『GOLDONI JUGEND』との大つごもり

 30日9時半、赤坂見附駅に着く。弁慶橋付近を散策。そして10時ちょうどにサントリー美術館に。閉館記念の『ありがとう赤坂見附 サントリー美術館名品展 生活の中の美1975-2004』展の最終日。野々村仁清作の『色絵鶴香合』をはじめて見る。丈(鶴の首)のある香合も面白い。桃山時代のものといわれる、『桐竹鳳凰蒔絵文箱・硯箱』の細工の見事さに感心。銅製鍍銀の水滴は、鳳凰の羽根が付いた卵を象っている。製作者のアイデアか、発注者のセンスか。たいした遊び心である。鍋島の『染付松樹文三脚皿』は、薄手の成形で、皿の中心部分に余白を残し、屈曲する松樹を周辺に描く巧みな描写。高台の三方に菊葉形の脚をつけたもの。バランスのよさは出色。江戸中期から昭和の四十年代まで営んでいた、銀座の陶器屋『陶雅堂』の末裔ながら、まったく焼き物に関心も造詣も無く、今頃になって己の無知を恥じ入り、少ない残り時間に慌てて機会を作り勉強する始末。江戸中期以降、江戸・日本橋商人の娘の行儀見習先の多くは諸藩の屋敷であったが、曽祖父の妹も、取引のあった鍋島藩上屋敷から下がり、当時の俳優の多くが花柳界から妻を迎えたのに反して、堅気な家の娘を妻に望んだ九代目市川團十郎と見合いもせずに縁談が纏まり夫婦となった。
 やきもの、鍋島、の連想から、また江戸を引き摺る明治の時代に思いを馳せていると、その隣りで中年婦人の二人連れが、辺りを憚かることなく大声で話している。どこへいっても、公共空間認知能力の欠如した、最低限の社会性すら持ち合わせない愚かな人たちを、亡くなったオーナー佐治敬三氏に代わって小声(?)で叱る。効果はてきめんで、混み出した館内、ざわつき始めていたところだったので、暫くは静かなフロアに戻った。このサントリービルには二十数年前から数年、宣伝費や協賛金の無心によく通った。そんな若き日の想い出の場所との別れを惜しむ朝だった。GOLDONIに戻った昼過ぎから23時までは、年末の挨拶にお越しのご常連や、最近始めた研究会のメンバーたち、若い友人である翻訳家などと、それぞれに長い時間をかけて話し込んだ。
 31日の15時過ぎ、GOLDONI の前で道路の雪かきを始めているところに、神保町に僅かに残る路地に相応しからぬ美しいアメリカ人母娘が、頭に雪を頂きながら「ハーイ」「コンニチハ」。懇意にして下さるV氏の夫人と愛嬢のおふたり。夫人は私が大晦日の遅くまでGOLDONIに篭るだろうことは先刻ご承知か、銀座・久兵衛の寿司を差し入れて下さる。アメリカの大学院で演劇を学ぶお嬢さんに、大学での上演活動、授業のことなど伺う。お二人が帰られた後、JUGENDのSさんが年末の挨拶に寄ってくださる。手には焼き菓子の詰め合わせ。「僕も年末の挨拶にこれくらいのことをさせて戴きたくて…」。忝し。昨年から手伝っている日本演出者協会のことなど教えてもらう。
 大雪になりそうなほどの悪天候、底冷えのする寒さもものかは、遠くはアメリカ(麻布の自宅から、パパ運転のベンツで、だけれども)から、近くは飯田橋から自転車で、能力も見識も志も高い『GOLDONI JUGEND』の訪れに心温まる大晦日だった。

2004年12月25日

サンタの代わりは、『JUGEND』

昨24日の15時前、演出家の木村光一さんが久しぶりにご来店。『Faber and Faber』刊の古書をお探しだったが、在庫がなくお役に立てず。氏からお若い時分の話が出て、「丸善などで取り寄せてもらった数冊の洋書代金は、当時の演出料より高かった。それでも必要に迫られて、買って読んだものです」。氏は、アーノルド・ウェスカーの『調理場』『大麦入りのチキンスープ』『僕はエルサルムのことを話しているのだ』や、J・オズボーンの『怒りをこめてふり返れ』、ロバート・ポルトの『花咲くチェリー』、R・アンダーソンの『お茶と同情』ほか相当な数のご自身の翻訳による演出作品がある。最近の演出家、たとえば新国立劇場の芸術監督や、彼の周辺のごく内輪で独断先行、懇ろな演劇ワークショッパー、新聞記者や批評に手を染める人たちと計らっての同劇場演劇研修所設置に、自身が所属し、また出身の劇団の俳優養成機関の不備不足を忌憚なく批判してまで協力する天晴れな演出家たちに、自身の翻訳作品がどれくらいあるのか、寡聞にして知らない。こういう御仁の多くが、木村氏の演出助手の経験者。芸術座などの商業劇場、地方自治体やテレビ芸能界など、「興行主の為の演劇」「俗衆の為の演劇」「人気俳優の為の演劇」(岸田國士『演劇漫話』)の舞台演出に余念のない彼らが、氏のどんな後姿を見て育ったのか。辛辣で強心臓の私でも、多少の憐憫の情も働き、伺えなかった。氏と入れ替わるようにして母娘の二人連れの来店。長い時間を掛け、何冊かの本を読んでいる。途中、外に出ていた母親が戻ると、「この2冊を買って貰っていい?」と了解を求め、お買い上げ。ラシーヌの研究書2点。「三一致の法則についての研究報告に必要」と、嬉しそうに本を抱えてお帰りになった。高校の一年生だそう。「団塊の世代から三十代までの現役演劇人が来ませんね」と木村氏に話したが、15、6歳の少女が1時間も掛けてラシーヌの研究書を探している様子を、彼ら遣ってるつもりの演劇人に見せてやりたかった。
17時過ぎ、教育NPOの実践家・志村光一氏が最近の活動を知らせに寄って呉れる。途中、GOLDONI JUGENDの一人が柏水堂のクッキーを手に前触れ無しに現れる。気を利かせて、『お邪魔だから、一回りしてきます』と言って出て行く。18時過ぎ、志村氏の帰りしなに間が良く戻って来た。今度は彼女と1時間半ほど話し込む。
今日の14時頃、明治大学文学部の神山彰教授が見える。先生がお持ちの資料で、北村喜八宛の書簡の、築地小劇場の棟上式の誘いの浅利鶴雄氏(浅利慶太氏の父)からの手紙や、二代目市川左團次からの挨拶状など、以前に拝見した折、コピーを無心していたものをお届け下さる。当方のHPの新コンテンツに、エッセーの寄稿ページを作ろうと思っていたところで、玉稿を賜るべく厚顔にして汗顔のお願いにご快諾戴く。先生のお帰りの直後、GOLDONI JUGENDが姉妹と二人で自転車でやって来る。手には、貸していた本と、フルーツケーキの詰め合わせ。心遣いして呉れるJUGENDたちの為にと思って菓子を用意していたが、昨日も今日も忘れて手ぶらで帰してしまう。
16時過ぎ、カーテンコールの小林秀夫さんが見える。「図書館のその後の動きは如何」と訊ねられるが、つい弱気になり、叱咤される。「GOLDONIの棚は本当に良く揃っている。こんな演劇書に囲まれていたら、素敵ですね」と、遠回しな表現で、舞台芸術図書館の設立を促してくださる。ひょうご舞台芸術の演劇制作担当の三崎力さんとこれから会うと仰るので、彼宛てに「紙礫」を託す。
17時半過ぎ、友人の西村幸久氏が、近くの岩波ブックセンターで『未来』2冊を確保して届けて呉れる。忝し。来週にでも食事をと思っていたが、スピーチライターでもある彼は、「会長、社長の急な御用があるやも知れず、スタンバイです」とのことで、その詫びでのご来店。真っ当な社会人というものは、かように義理堅いもの。本をあげても貸しても無しのつぶての、天晴れな遣ってるつもりの演劇人に、彼らの爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいもの。
19時前に北千住へ。THEATRE1010主催の『区民ミュージカル・しあわせなモミの木』。終演後、ゲスト出演している浜畑賢吉氏を訪ね、珍しく楽屋に。通路で美術家でこのホールの芸術監督の朝倉摂さんと出会い、立ち話。「(出演している)子供は無邪気でいいでしょう」とのお言葉に、「何十年も無邪気なままの人もいますね」と憎まれ口をたたきそうになる。

2004年12月18日

『Gentleman』に優しさを教わる日日

16日の早い午後、毎日新聞特別編集顧問の諏訪正人氏が久しぶりに見える。「『未来』のエッセー、読みました」。光栄なこと。氏は毎日新聞朝刊の第一面の『余録』を23年間書き続けた名コラムニスト。また、アヌイ、ジロドウ、コクトーなどフランス戯曲の翻訳家・紹介者としても著名。厚顔な私でも畏れ多くて、お読み戴いた感想は伺うことが出来なかった。「翻訳」のあり方など、ご親交の深かった故・中村真一郎氏など翻訳の名手の姿勢などの例を引きながらお話下さった。近々HPのコンテンツを増やすつもりでいるので、このあたりのことに触れてのエッセーをお願いする腹づもり。厚かましすぎるか。注文の本を受け取りに来店した佐々木治己君を「うちのGOLDONI JUGENDです」とご紹介、佐々木君の「にしては、ひねてますが…」のご挨拶に、三人で大笑い。フランス留学を計画している佐々木君に、フランス演劇の大家はにこやかに話しかけて下さった。
昨17日の15時40分頃、トヨタ自動車・コンポン研究所顧問の井上悳太氏が見える。この14日の午後に初めてお越しになったばかりで、「このあいだは長い時間話が出来て、すごく愉しかったから、東大に出掛けた帰りで、時間は余りなかったのですが、また寄りました」。光栄なこと。奥でお休み下さい、とお茶の用意を始めると、お渡しした『未来』を早速読んでくださったようで、「(私の蔵書で埋まった)店の奥には簡単には入ってはいけないんでしょう」。高い教養・見識は無論のことだが、まったく豪ぶることの無い、お人柄の良さや、話題の豊富さや深さなど、先日の1時間半ほどの会話で感じ入り、己の至らなさを思い知らされた。「今日は20分だけ」と仰って本をお買い下さり、近くの古書店で求めた村松剛著『評伝ポール・ヴァレリー』のこと、近所の蕎麦屋や料理屋のことなど伺った。
今日の夕方、ご常連の好川阿津志氏が、先週に続けてお越し下さる。氏は劇団創設間もない頃の四季演出部OB、後にアメリカのテレビ番組や洋画の日本語版制作の演出を手掛けられ、今も俳優、声優の育成に努められている。今までに幾人もの若い友人・知人や教え子に、『宮島さんに叱られてきなさい』とGOLDONIをご紹介下さる。(そんな訳で好川さんの紹介での来店者は、いつ殴りかかられても良い様に半身に構えている。)演劇を活用したコミュニティでのボランティア活動に情熱をお持ちで、今日も練馬区の民間立美術館の小ホールの有効活用に智慧を貸されていることなど伺う。二十歳と最も若いGOLDONI JUGENDが来店し、静かにじっくり本撰びをしていたら、氏はお帰りの時、『この本を読みなさい』と仰り、棚から三木のり平著『のり平のパーッといきましょう』を取り出し、「私に譲ってください。彼にプレゼントしますから」。好川さんの若い人達を育てようとの熱意、ほんものの優しさに頭が下がった。
命永らえ、十年後二十年後、お三方のような紳士になっているだろうか。 

2004年12月16日

大賀典雄指揮の東フィル『レクイエム』

15日の続き。テレビモニターの千田是也氏に一礼、演劇博物館を後にする。早稲田駅の手前にできた古書店に入りると、探していた本が2冊あり、少し高かったが購入。一冊は故・森秀男さんの『現代演劇まるかじり』。二十数年前から存じ上げていたが、数年前から加わった研究会の発起人の一人で、一昨年秋に亡くなった時には、ひと月ほど森秀男著作コーナーを作り、追悼したことがある。その時に、どうしても欲しいという方々にすべてを譲ってしまっていた。もう一冊は『ノエル・カワード戯曲集II』。『I』は以前から持っていたが、なかなかこの本がバラでは見付からず、何年も探していたもの。懇意にして戴いているアメリカ人夫妻の愛嬢が、シアトルのワシントン大大学院ドラマスクールに留学中で、大学での公演でノエル・カワード作品をしているそう。年末にGOLDONIに見える予定のご夫妻に、貸して差し上げられる。
急いでGOLDONIに戻ると、「お店に伺う途中で迷子になりました」との電話。プリンストン大大学院博士課程の韓国人留学生の朴祥美さん。急いで外へ出て、水道橋に向かう白山通りの途中で発見、恐縮されるが、まま有ること。店までお連れすると、『前を通りました』。これはまま無いこと。研究テーマについて伺い、資料などを紹介する。『日本でもアメリカでも、研究者の専門専攻の幅が非常に狭くなっているようです』との指摘には、全く同意であった。プロフェッショナルとは如何なることだろうかなどと話していて、クラシック音楽の鄭兄弟(チョン・ミョンファ、キョンファ、ミョンフン-この『GOLDONI Blog』の8月26日『チョン・トリオ演奏会』をお読み戴きたい。)のことに話が及び、ミョンフンだったかが、プロ活動していない兄弟たちが、趣味として演奏を楽しんでいることが羨ましいと言っていた、と仰る。プロフェッショナルの演奏家、指揮者の日常は修練の連続。在英のピアニスト・内田光子の教養と日々の精進は有名だ。カレーのテレビCMに出てくるピアニスト、タバコやコーヒーなどのCMのヴァイオリニストなど日本の演奏家の日常は、どんなものだか寡聞にして知らないが。
18時20分に赤坂・サントリーホール。ソニー名誉会長の大賀典雄指揮の東京フィルハーモニー交響楽団の演奏会。モーツァルト『ピアノ協奏曲ニ短調K.466』(ピアノ・清水和音)とモーツァルト『レクイエム』。久しぶりの清水和音。テノール・佐野成宏、ソプラノ・高橋薫子を初めて聴く。ソニーの役員退職慰労金16億円を軽井沢町に寄付、それを元手に来年の4月末にオープンする音楽ホールでも、指揮することが出来るほどの大賀氏の回復は見事。今後は東フィルのレヴェルアップに努めて欲しいもの。主催者・江副浩正氏のおともだちか、ソニーの絡みでか、合併前の大手銀行の頭取経験者や、外務省前駐米大使などが夫人を同伴して来場、「(日銀総裁の)福井さんが…」「つい先日、ヨーロッパから戻りましたの」「軽井沢以来ですわね」など、下々には縁の無い会話を楽しんでおられた。最近言われるところの新上層階級に属する彼ら、司法・警察当局にお世話になったり、出身官庁での処分を受けた方々ばかり、私なら嫌疑を受けただけでも閉門蟄居の日々を送るが、彼らには想像もつかないことだろう。社会的地位や組織での肩書の高さ、経済生活の豊かさを感じさせないお粗末な風貌・身のこなし。飾ってはいるが、品格の無いこと著しい。「顔立ち・風情・立居振舞は、教養や品格が自然と現れるものだから励みなさい」、と幼少のころより母親や師匠達に耳に胼胝が出来るほどに聞かされたものだが、はたして彼らの親はなんと言って我が子を育てたのだろう。

2004年12月12日

『水自竹辺流出冷、風自花裏過来香』

昼前にGOLDONIに。一ヶ月振りくらいに数十冊の表装をし、書棚のふき掃除をする。店休日なので、本探しの人や、知人などの来客、電話などでの問合せもなく、久しぶりに本の整理が捗った。
今晩はサントリーホールでの小澤征爾指揮の新日本フィルを聴くつもりにしていたが、数日前に予定を変え、旧知の斎藤偕子、佐伯隆幸の両氏が受賞されるAICT(国際演劇評論家協会)賞授賞式と記念シンポジウムのため、三軒茶屋の世田谷パブリックシアター・シアタートラムに行く。賑わいのないロビーで入場料を払い客席内に入ると、そこは舞台面いっぱいに公演中の『化粧』の楽屋。一瞬、こんなところでセレモニーをする訳がないと、呆然とする。四十人足らずの聴衆の前で始まったシンポジウムのテーマは、『60年代と演劇革命』。パネラーは受賞者のお二人に、黒テントの佐藤信氏が加わるという、何とも贅沢なシンポジウム。80分ほどの短かい時間で、議論が発展せずに終わってしまったが、私にとっては幾つか考えるヒントを貰えた貴重な時間になった。この国際演劇評論家協会日本センター、入会にはたとえば年間百本程度は演劇公演を観ていること、などとの参加要件があるのかどうか。日本劇作家協会のように「劇作をしようとしている」人も入ることが出来るほどにブラック・ユーモアたっぷりに、たとえば「演劇批評をしたいと思っている」人にも門戸を広げているのかどうかも知らないが、何を根拠にか自らを演劇評論家だと名乗る全会員八十数名のうち、今日参集していた人は二十人足らずか。賞を授ける団体の大多数の会員が欠席しているというのは、何とも無礼なことだ。新聞社の賞や文化庁の選考委員であることをちらつかし、招待状が届かなければ強要すら憚らず、劇場や製作団体のパンフやチラシに寄稿しては高額な謝礼をせしめ、特定の劇場や製作団体・演出家と懇ろになるなど、批評精神、批評する人間としての謙虚さ、矜持、節操を身に付けない卑しい人々の群れを見なかっただけでも幸いか。二列先に前の座席の背に足を載せて聴いているのだか寝ているのだか判らぬが、無作法な東大教員がいたので、そこまで行って叱責しようと腰をあげ掛けたが、ここで騒ぎが起きれば、斎藤さん、佐伯さん、佐藤さんにも迷惑が掛かると、思いとどまった。途中から客席に入って来た劇場幹部がいたから、彼に注意させようと思って探したら、この男も同様に足を載せていた。表象文化論やアート・マネジメントを専門とするとなるとこういう態度になるのか。アメリカに行くとこんな態度が身に付くのか。そう言えば、数年前、ヤング・ヴィックの旧グローブ座での『テンペスト』を観ていた時、同じ列の四席ほど右の席にいた男が、本番中に同様な仕儀に及んだ。その右隣りにいたイギリス夫妻は、大きな体を窮屈に折りながら姿勢を崩さずに舞台を見つめていた。彼らにこの男はどう映ったか。休憩の時に心を鬼にして制裁を加えようと思ったが、四季の先輩が支配人をしており、彼に迷惑をかけてはと止めたこともある。イギリス人夫妻は、この無作法な男が、日本の文化庁の芸術家在外研修制度でロンドンの演劇学校に10ヶ月通った演劇生徒だと聴いたら、どう思うだろう。礼節を知らない「評論家」たちや、無作法な「足載せ男」たちに対する憤りがさめないままで客席を後にしたが、そんな様をお感じになってか、ロビーで出会った扇田昭彦会長から「なんて奇特な人なのだろう」とのご挨拶を頂戴した。
21時半過ぎにGOLDONIに戻ると、福岡の友人から昨夜に続けてファイル添付のmailが来ている。読売新聞の記事を見ての感想とともに、鈴木大拙について触れた西田幾多郎の文章を送ってくれていた。彼を含む友人たちと一昨年の夏、軽井沢に遊んだ折、いつもお薄目当てに散歩で立ち寄る出光美術館分館に展示されていた鈴木大拙や仙涯の書などを観たことを思い出してか、まさか私からの連想で大拙さんが出てくるとは、いくら自惚れたとしてもない話。
「屡々堪え難き人事に遭遇して、困る困るといっているが、何所か淡々としていつも行雲流水の趣を存している。私は多くの友を持ち、多くの人に交わったが、君の如きは稀である。君は最も豪(えら)そうでなくて、最も豪い人かも知れない。」「君のいう所、行う所、これを肯(うべな)うと否とに関せず、いずれも一種の風格を帯びざるものはない。水自竹辺流出冷、風自花裏過来香とでもいうべきか」。

2004年12月09日

『Sincere』と『Pride』の一夜

19時前、お茶の水女子大のOGを中心メンバーにした音楽企画集団『Sincere』の3人が、先月の公演の報告と今後の活動についての相談にやってくる。彼らと話し込んでいた21時前、店のガラス戸越しに中を覗くキャップを被った大柄の男性。なんだなんだと、彼らを押しのけて前進、ガラス戸を開ける。途端に男性3名、女性1名の4人組に囲まれる。キャップの男性は、「(フランス文学者の)鹿島茂さんにおたくを教えてもらった」と仰る。殴り込まれるのかと身構えていたが、とんだ勘違いで、恐縮しながら狭い店内へご案内。ニューラテンクォーター、用心棒、ピストル、懲役など、GOLDONIではついぞ耳にしない言葉が先様から発せられ、会話の中途で、作家の百瀬博教さんであることが判る。GOLDONIの店の構え・規模からしても利益が出るような商売ではないことはお判りなのだろうか、何冊か買って助けてやろうとの御慈悲でか、何冊もお買い下さるような勢いで本を選んでおられた(それも私の評価している亡くなった演劇人の本ばかり。物凄いインテリとの世評通りの選択。)ので、「手前どもはお一人様4冊までにして戴いております」と恐る恐る申し上げると、「そうか。ま、店の仕来たりだからな」と、見事なほどあっさりと納得して戴く。その後だったか、最初に私が店から出てきた時には、「俺に喧嘩を売りにきたのかと思ったよ」とも。「また来るからな」と不敵、いや素敵な笑顔で仰って、お供を引き連れお帰りになった。氏とのやり取りを見ていた彼らは、「懲役という言葉を生で聞くのは初めて」と感心、「いつもの凄みに、お墨付が与えられた」と、日夜自らの粗暴さを戒め、精進に努める私をからかった。

2004年12月07日

『早稲田』と『一橋』の特別講座

昨夜は、早稲田大学文学部でのエマニュエル・ワロン氏の講演会を聴きにいく。文学部フランス文学専修と演劇映像専修合同の特別講義。『政治と演劇の舞台-上演表象の二つの顔』とのテーマ。
フランス語のrepresentation が『上演』や、表象、再現前、代行といった意味のほかに、『政治の代表』の意味をも持つ言葉であるそう。「日常では離れている『演劇』と『政治』を、この言葉から考える意義があるのではないか。政治権力にとって演劇がどのようなものとして理解・解釈されてきたか」という問題意識から始まり、ギリシャ・ローマから現代フランスまでの西洋演劇史を、劇場・演劇と権力とを関連つけながら解説。通訳者の言葉でしか氏の話を理解出来ないので、不明なところも多く、半端なメモしか取れなかったことは残念。
今日は、六本木・森ヒルズの49階で開かれた、一橋大学イノベーション研究センターと東洋経済新報社の主催するセミナー『ケース・ディスカッション 劇団四季』を受講。講師は一橋大学大学院国際企業戦略研究科の石倉洋子教授。参加者の殆どはビジネスマンか経営学の研究者か。総合商社、広告代理店、ベンチャー系企業などさまざまだが、東京ディズニーランドを経営するオリエンタルランドや劇団文学座などの同業あるいは類似業種から複数名が参加していたのが興味深かった。セミナーは最初から、石倉教授が、「なぜ四季を観ないか」「なぜ観るか」を参加者に問い、また、「あなたは四季の経営トップになりたいか、なりたくないか。その理由は?」と刺激的なディスカッションを導く。「四季の一貫して優れた収益性は何処から来ているのか」について議論もあったが、大方の意見は、このセミナー討論上の視点と資料を提供するために作成された教授の論文を読んでのものや、マスコミに四季側から出されたリリース等にありそうな意見ばかり。最後まで発言しないつもりでいたが、堪らずに挙手。「任意団体としての劇団でもあり、長く企業でもある点、浅利慶太氏が演出家でもあり、企業経営者でもあるという一般企業には無い二面性・二重性こそが、企業としての最大の成長要因」と述べた。教授は、「その視点は私になかった」と評価してくださる。一橋の教授陣は講義が巧みなことで有名だが、石倉教授の見事にエキサイティングな議論の運びや纏め方は優れていた。このところの演劇公演よりはるかに面白かった。

2004年12月04日

ケネディ大統領の就任演説

ここのところ、夜の劇場通いが続く。国立劇場での舞の会、怖いもの見たさの「スタジオライフ」公演、今年最後の文学座のアトリエでの『THE CRISIS』、そして今夜は、劇団四季の新作ミュージカル『南十字星』。この三本の演劇に共通点を強いて見付けるとすれば、史実に基づく劇だったことか。文学座の『THE CRISIS』は、1962年10月の、キューバ・ミサイル危機を題材にした戯曲。劇の筋、登場人物、その発言内容も、秘書と大学生の二人のそれを除けば事実のようだ。劇の後半、国防長官の台詞の中で出てくる、大統領の就任受諾演説は、私も高校生の時に学校や予備校の教材として遣った、有名なケネディ大統領のものだった。And so, my fellow Americans. . .ask not what your country can do for you. . .ask what you can do for your country.
四季から招待状が来なくなった、と自著に正直に書くほど天晴れな劇評の人は勿論だが、プレビューや招待日を外せば四季公演で演劇関係者に出くわす事はないが、ふだん劇場で出会う旧知の演劇関係者に声を掛けられる時の言葉は、「(舞台芸術)図書館の計画、どう?」。「私はその計画の為に、何をしたらいいのか」「考えていることがあるから、協力させろ」と仰る方は全くいない。ケネディの演説のcountryを、drama や library (for the performing arts )と置き換えて、考えてほしいものだ。
With a good conscience our only sure reward, with history the final judge of our deeds; let us go forth to lead the land we love, asking His blessing and His help, but knowing that here on earth God's work must truly be our own.
16、7歳の時に憶えた言葉を、ふと三十数年後に暗誦は出来ないが思い出させてくれる。これもまた演劇の力、か。
最近のこのブログでの発言について、手厳しい、きつい、切なさが滲む、などの感想を度々mailなどで戴く。とりわけ、「手厳しすぎて、せっかくの高い志しが理解されない。勿体無い」との忠告には、友の有り難さと己の至らなさで、思わず落涙。数は少ないが、こういう人たちと、ささやかな事業をひたむきに進めていきたい。 But let us begin.

2004年12月02日

『演劇センター』構想は、何処へ行ったか

先月に書いた原稿の載った未來社の『未来』12月号が届いた。大型新刊書店のインフォメーション、レジで求めて、是非お読み戴きたい。書店にない場合は、GOLDONIに電話で請求してください。書かせて戴いたことは、虚仮の一念を信じての『舞台芸術図書館』構想についてだった。ここのところ毎日のようにGOLDONIや劇場・ホールで、劇団四季のかつての先輩たちに出会うが、先日も親しくお付き合い戴いている先輩から、「日本芸能実演家団体協議会(芸団協)が来年春に新宿区立の小学校の廃校を活用する研修施設『芸能花伝舎』ならば、舞台芸術図書館が活きるのでは」、とのアドヴァイスを貰う。たまたま芸団協からも、同施設の改修前の見学と説明の会の案内があったので、29日の夕方に出掛けてきた。新宿区と芸団協の提携事業とのことだが、10年の賃貸借契約で、毎年三千九百万円の賃借料だというから、オフィス利用の教室一室分を借りたとしても、相当の費用負担になるはず。新宿駅からは徒歩20分、最寄駅の地下鉄丸の内線・西新宿駅からは徒歩8分。新都心高層ビル群のはずれ、中高層のオフィスビルやマンションに囲まれた、昼でも薄暗そうな校舎だった。この廃校利用の話は、昨年末の日本劇団協議会の機関誌『JOIN』43号に掲載されていた座談会「演劇センター構想を大いに語る」で語られていたものではないか。「水害や地震で苦労されている方がいると思うと率直に喜べない」、と配慮をきかせた受章の談話をお出しになった文化功労劇作家を始め、日本共産党指導の劇団責任者や全共闘出身だかの演出家など、国や自治体からのさらなる演劇助成の拡大を主張し、自助努力などはお構いなしの天晴れな方々ばかりが、ここでも当然のことのように、国や行政の金(税金の投入)をあてにしての、なんとも立派な『演劇センター』構想を語っていた。いったいあの話は、その後どうなったんだろう。配慮はいらないので率直なコメントを伺いたいものだ。

2004年12月01日

『終わりの始まり』其の二

ここのところの日曜日は、舞台を観ると身も心も休まらないことが多く安息日にはならないので、観劇を避けて努めて展覧会を覗くようにしている。28日の日曜日は、朝からGOLDONIでホームページの原稿書き。午後には、表参道の青山劇場で「ダンスビエンナーレ2004」の、スペインとドイツから出品のダンスを観て(禁は破るものではなかった)、GOLDONIに戻ったので、展覧会には行けなかった。そんなこともあって、今朝は幸いに午前の約束がなく、10時に上野の東京都美術館の『フィレンツェ-芸術都市の誕生展』に行く。三井物産の本社ホールで十月末に催された高階秀爾氏の講演を拝聴していたので、無理をしてでも覗きたかった展覧会。平日の朝なので、並ぶこともなく入り、大した混雑もなく、ゆっくり見て回ることが出来た。展示そのものはごった煮、寄せ集めの印象が強く、真贋、とまでは言わないが玉石混交か。鑑賞者の大半は連れ立ちの婦人たち。最近のことは知らないが、以前住んでいた鎌倉に日帰りで訪れる奥さんグループと酷似したもの。増殖する公共空間認知能力のない人たちは、電車内であろうが美術館であろうがお構いなし。騒がしいこと極まりなし。ほんの1時間2時間の鑑賞時間も、お喋り無しでは耐えられないほどの、他者への配慮は無論、美術への関心も集中力もない。演劇への関心ではなく、ただ芸能人を生で見る機会としている、そんな人たちやその予備軍に占められている新国立劇場など、テレビタレント演劇ショーの劇場・ホールも、早晩、劇中に客席から私語が平気で交わされる場になるのだろうか。   

2004年11月29日

演劇関係者の立ち寄らない『お茶の水』

昨28日の読売新聞日曜版の1面、「駅」という企画記事の中で、GOLDONIを取り上げて戴いた(ぜひ読売新聞オンラインでお読みください)。片手間ながら、四年前にGOLDONIを始めて以来、経済紙、一般紙の都内版、女性誌、建築雑誌、本のムックなどではたびたび取材して戴く。ある一般紙の社会部の記者の話では、「GOLDONIは、本の街の神保町でも、これほどの小規模店で、新店にしては尋常ではないほど認知度が高い。ただ、古書組合には入っていないので、記事にすると他店からクレームが来る」そうだ。ところが、演劇雑誌の編集者や、ライター、劇評に手を染める人たちや、全国紙の文化部の記者にはとんと無名のようで、全くといってよいほどご来店もなく無論記事にもならない。日曜版の記事を読んで、場所や営業時間の問合せが十件ほどあるが、その大半は地方の方からのもので、東京の「演劇業界関係者」らしい人は今のところいない。読売、で思い出したが、読売演劇大賞の審査委員くらいは熱心な読売読者だろう。そうでなくとも、義理でも購読はしているはず。せめてはこの方たちからの問合せを待つことにしよう。

2004年11月26日

『ぶち壊し拍手』は『終わりの始まり』

先月、浜松町の自由劇場で、劇団四季の『ヴェニスの商人』を観ていた時のこと。前半の幕切れ、二百人ほどの客席の殆どが、ここでいいのだろうかと戸惑いながらの拍手をしていた。劇の流れからすれば、というより、ストレートプレイの場合、ただでさえ休憩で中断することで、観客の劇への没入感高揚感が減退することは否めないが、そこに持ってきての拍手は困りもの。11日に観た、北千住のTHEATRE1010での『エリザベス・レックス』では、凄まじい光景に出くわした。観客の半数はエリザベス役の麻美れいのファンのようで、宝塚歌劇団時代からの贔屓なのだろう。一幕が終り、溶暗する舞台から静かに下がっていく麻美れいへの、短い時間だが、強い調子の、慣れた人々のあげるぶち壊しの拍手だった。一瞬、東京宝塚劇場に来てしまったのかと呆けてしまった。先日の新国立劇場での『喪服の似合うエレクトラ』では、第1部の終幕に拍手があがった。戯曲の指定(二十三歳、長身、角張った体つき、かさかさして単調な声、母クリスティンと同じ平静状態における異様な生きた仮面のような表情、などなど)とは全く違うラヴィニア役の大竹しのぶへの拍手だ。途中に出演者へのぶち壊しの拍手が起きるような、テレビ芸能タレントが生で見られる大衆演劇ショーに変質しているとは。泉下のユージン・オニールに対する憐憫の情深く、涙する。現代のこの国のストレート・プレイは、ミュージカルや、タカラヅカや、テレビ芸能界からの素材とそれらのファンからでしか成り立たない。悲しいものだ。

2004年11月21日

『明治維新と平田国学』

京成上野駅を10時前に発ち、11時前に佐倉駅に着く。タクシーで向かったのは、『国立歴史民俗博物館』。再来週には終ってしまう『明治維新と平田国学展』。着いた時には、既に宮地正人館長によるギャラリートークが始まっていたが、一行の最後尾に着き、拝聴しながら観てまわる。寝不足と朝食抜きの体調不良で、途中で館長を囲む一団から離れ、ベンチで一休み。30分ほどの休息で快復したので、今度はひとりで観てまわる。この展覧会は、東京・代々木の平田神社伝来の平田家資料の調査・整理を進めている同館研究チームの成果発表でもある。江戸後期、幕末、明治維新までの激動期、国学者・平田篤胤、銕胤、延胤の三代に亘る活動と、最大時には全国で四千人まで広がった平田門人たちの、とくに明治維新前後の動向を紹介。「皇国神道の大立者」「大東亜戦争の超A級戦犯」のような扱いを受ける篤胤だが、それがいかに不当なものかが理解できた。戦後の日本の再生は、政治制度、経済・税制、教育制度ばかりか演劇も、そして思想の領域でも、ひどく歪んだところから始まったかを痛感した。

2004年11月16日

『終わりの始まり』其の一

最近、毎日のように遭遇する光景。電車の中で化粧をしたり、パンやおにぎりを食べたりの若いものたち。彼らを擁護する気は毛ほどもないが、日本全体に見られる公共空間の認知能力の欠如、マナーの無さは、このサルたちの親や祖父母の世代が作ったものだ。電車の中での最初の雑音、マナー違反は、ソニーの『ウォークマン』に代表されるヘッドフォン型のテープレコーダーから漏れる音だった。バンダイ製の『たまごっち』からも、音が漏れていなかったか。そしてここ数年は、携帯電話の着信メロディ、ゲームやメールを作る時の音だ。騒音・雑音を作り出す製品のメーカーは、『ウォークマン』『ゲーム機』『携帯電話』と大活躍のソニーを始めとして、現代の日本の代表的企業ばかり。店の前や横で、座りこんでパンやおにぎりに食らいつくサルたちも客にしなければならないコンビニを経営するのは、大手流通業者や大手の商社だ。騒音・雑音の問題ひとつ取っても、この国の経済成長・豊かさが、どんな企業が、どんな人間たちが、何を失って、いや、何を失わせて作ってきたか判ろうと言うものだ。GOLDONIでは、携帯電話を鳴らしたり、話したりしたら外に出るように注意している。先日は、ついにカメラ付携帯電話で書棚を撮ろうとしたものが現れた。叱りつけたが、誰何したら、旧知の人物に教わる演劇系大学生だった。こんなものたちを稼ぎのためだけに教えているのが、私が批判する「ヤッテルつもりのエンゲキ人」だ。そう言えば、先日、歌舞伎座で吉右衛門の『関扉』を観た帰りに寄った常連の学生の話を思い出した。ある中堅の劇団の演出家が受け持っている大学の舞台総合実習の授業は、実習に集中できず、教室に寝そべって携帯メール、ゲームに熱中する学生が出始め、「学級崩壊」しているそうだ。なけなしの技術や知識で演劇を教える前に、演劇で稼ぐ前に、遣るべきこと務めるべきことがあるだろう。即席の演劇教師のつもりの、ヤッテルつもりのエンゲキ人たちよ。

2004年11月12日

ヤンソンスの『コンセルトヘボウ』

18時50分、渋谷・NHKホールに滑り込む。『NHK音楽祭2004』のロイヤル・コンセントへボウ管弦楽団の第二夜。演奏曲目は、ストラヴィンスキーのバレエ音楽「ぺトルーシカ」、チャイコフスキーの交響曲第6番ロ短調「悲愴」。創立116年のヨーロッパ有数のオーケストラ。若い時に聴いた憶えがあるが(ハイティンクの指揮だったか、それも虚ろだ)、マリス・ヤンソンスが首席指揮者に就任してからは初の来日。幾度か聴いている「悲愴」だが、これほどに深く重く響く演奏に出会えた憶えがない。ここ数日、友人や知人が今週来週のベルリン・フィルや、ウィーン・フィルを聴きに行く予定だと知らせて呉れる。羨ましいがこちらにはそこまでの余裕もなく、この日のコンセルトへボウで辛抱するしかないと思っていた。それが聴いた今は、マリス・ヤンソンスを知ったことで充分に満足している。17日のサントリーホールでのワレリー・ゲルギエフ指揮のウィーン・フィルで演奏される「悲愴」を聴き比べたくはなったが。
今日のNHKホールでのこと。「悲愴」の第三楽章の終りで、数十人規模だと思うが、ぶち壊しの拍手があがった。そして第四楽章では、最後の最後に、プラスチックの筆箱でも床に落としたのか凄い音がした。フライングの拍手も不快なものだが、物を落としたり、飴の袋を開ける音や、パンフを開く音など、マナー違反が気になる。そうでなくとも「体育館のよう」と、クラシック音楽ホールとしては評判の芳しくないNHKホール、聴衆のマナーまではホールの非では無いが、「やはりここでは聴きたくないな」、と思った聴衆は私一人ではないだろう。

2004年11月10日

アドレス削除は寂しい作業

昨日今日と、GOLDONIのホームページのコンテンツのひとつである『劇場へ美術館へ』では取り上げなかった企画のお知らせや、余分に持っている美術展のチケットや、私か同伴予定者が行けなくなった演劇公演や音楽会のチケットを差し上げようと、『11月のご案内 演劇書専門GOLDONI』と題したmailを二百名ほどに送信した。電子メールをしない方への連絡は無論郵便を使うが、暑中や寒中の御見舞、新年の御挨拶も、日常の連絡も、経費の節減と速報性の有利さもあり、電子メールにしている。今回のご案内も、内容を記した基本の文面とは別に、一通ごとに一言書かせて戴いているので、二日で延べ二十時間ほどは費やしている。受信される方の中には、同報一斉メールで送っているmailだと思っている方も多いようだ。また、商売屋からの宣伝のmailだろうと、まともに読んではくださらない方も多いのだろう。不要な、あるいは迷惑メールのようなものだとしても、その旨を書いて返信することもしないだろうから、せめてこちらでは数回送信して、電話でなりmailでなり返信がなければ、その方のアドレスを削除するようにしている。これはなんとも寂しい作業だ。以前、返信を寄越さないある演劇人とホールで出会った折、「毎日百通くらいmailが来ちゃうので、なかなか返信が出来なく…」と、言い訳にもならないことを言われた事がある。まさか、ロビーで制裁を加える訳にもいかず、夜公演の終演後に、この御仁のアドレスを削除するためだけにGOLDONIに戻ったこともあった。

2004年11月07日

旧西原町を歩く

朝10時、文京区千石の図書館に用があり、そのついでに近くの旧西原町を歩く。幼少時分の数ヶ月通った保育園(かすかな記憶がある。拙宅の近所のひとつ年上の綺麗なお姉さんといつも一緒に行っていて、同じ組の男の子と諍いを起こし、それこそボコボコにしてしまい、放園処分を受けたような気がする。小学生の時だったか、母と当時の話をしていて、『おばあさんのお迎えがあった』と言ったら、『亡くなったから、行かせた、の!』。それくらいだから、まったくあてにはならない記憶だが。)は、この辺りかと、近くを探し歩いたが見つからない。商店街の案内図を直している六十過ぎの小父さんに伺う。「憶えがないなあ。ここで35年靴屋をしてるけれど。店に戻って調べましょうか」と言ってくださったが、作業の途中でもあり断っていたら、巧い具合に通りかかった老婦人に声を掛け訊いてくださる。「そう言えば、大鳥神社の先の、今は新興宗教の施設が、先は保育園だったんじゃないかしら」。さすがに、新興宗教の道場を訪なう立派な心掛けも、周囲をうろつく勇気も無いので、諦めて小父さんと立ち話。閉店廃業した飲食店の名の書かれたプレートを、大きな案内図のボードから剥がす手を休めて、「こうしてどんどん店屋が無くなっていくんですよ。見てください、歯の欠けたような地図でしょう。スーパーやコンビニ、外食産業におされて、商いが成り立たなくなるんです」。(思わず、スーパーのハウスカードや外食産業の株主優待券の入ったバッグを隠すように持ち替えた。)何軒かあった靴屋も次々になくなり、今は自分のところだけが細々店を開けている、とも。山手線の内側で、都心回帰の昨今はマンションが建ち、全国で問題になっている『シャッター商店街』とは違う現象だが、これも淘汰という厳しい現実。礼を言って別れたが、百メートルほど先の角を曲がる時に振りかえると、とんだ闖入者に邪魔されて中断していた心弾まない作業を再開した、靴屋の小父さんの淋しげな姿が小さく見えた。

2004年11月05日

『劇場の記憶』と『演劇体験』

朝からのGOLDONIでの原稿書きに飽きて、11時過ぎに散歩と昼食のために駿河台方面に出掛ける。明治大の研究棟の手前で、神山彰教授と遭遇する。「先週の午後に伺ったけれど、閉まっていました」と仰る。先生の行き付けか、近くのレストランで1時間ほどランチをご一緒する。席に着くや、最近観劇したものについての合評会を始めたが、まもなくテンポも落ち、互いに溜め息まじりの会話に。「良い悪いは別にして、黒テントの公演に行くと、醸し出す雰囲気、若い俳優ばかりか製作者の顔までが昔のままのように感じられる」。何もかもが急激に変わってしまう昨今、演劇のことだけを指してではない先生のお言葉に、『劇場の記憶』を何より大切にしたい私は得心した。昼食を取りながらでも資料に目を通されるおつもりだったのか、先生の右手にはだいぶんのコピーがあった。うっかり勉強のお邪魔をしてしまった。午後に未來社の小柳暁子さんからmailを戴く。月刊誌『未来』の12月号が、千田是也や飯沢匡関連の演劇小特集のようになるので、是非書くようにと勧められた(『GOLDONI Blog』10月8日)が、要望された演劇出版事情などは書けないので、GOLDONIの4年を振りかえってのエッセーを書いて送った。てっきり書き直しを求めるmailかと思ったが、案に相違して採用の報告だった。小柳さんからのmailの一部を引用させて戴くと、『演劇は第一の文化的教養であったのだというのは、例えば法学や経済学系の著者の先生といった方から「実は若い頃演劇青年で、未來社の演劇書をよく読みました」などと嬉しそうにお声をかけていただくことがままあるということからも感じることがあります。学者になったけれども、その当時の夢は覚えている、というような。とても幸せな演劇体験があったのだなと思います。演劇というものを知らない人はいない、だけれどもとても遠いものになってしまったのはなぜなのでしょうか。』。GOLDONIのある路地に迷い込むように入ってきて、看板にある<演劇>の字に惹かれてか店を覗く団塊より上の世代の人々と、毎日のように出会う。今は演劇とは縁のない生活をする彼らが、懐かしそうに若い時分の演劇体験を聴かせて下さる。昨今の演劇が、今の観客を終生の『演劇の観客』とすることは出来るのだろうか。今の観客が、三十年後四十年後に、その『演劇体験』を語るのだろうか。

2004年11月04日

常に驕らない謙虚さ

15時過ぎ、常連の茂木誠治さんが来店。この夏に立ち上げたばかりのアマチュア演劇グループの、先月の初めての公演でこれも初めて演出を手掛けた。そのことの結果報告を伺った。彼は仕事をしながら、慶應義塾中等部のラグビーのコーチを務めており、文学座の支持会会員でもある。最初に会った折、慶應大でラグビーをしていたと言うので、早稲田大の教授で監督を幾度かした人物が母のいとこにいると話した。普段テレビを見ない私に、「日比野弘さんは、先日のテレビ中継で解説をされていました」と教えてくれた。今期の慶應中等部は東京都で第二位、一位は國學院久我山中。久我山は強いかと訊いたら、「早稲田出身の監督が常に驕らない謙虚な方なので、強いのです」。電話や手紙、mailででもそうだが、帰りがけにはいつものように、「手伝いが必要なときは、仰ってください」。以前からこのブログに登場する「GOLDONI JUGEND」の面々も、たびたび「何かご用はありますか」と言ってくれる。彼らのその言葉に、目頭を熱くすることがある。

2004年10月29日

ニューヨーク舞台芸術図書館

16時、早稲田大学に。演劇博物館21世紀COEプログラム「演劇の総合的研究と演劇学の確立」芸術文化環境研究コース・公開研究会、という長いタイトルの会合。この日の研究会テーマも、「芸術振興の基盤を担う文化機関のあり方-ニューヨーク舞台芸術図書館の使命と運営」と非常に長いもの。一見智慧の無さそうにも見えるこのタイトルのつけ方あたりも、COEプログラムには重要、か。ニューヨーク公共図書館(NYPL)の舞台芸術図書館館長ジャクリーン・デイビス女史のレクチャーと質疑応答の2時間。聴衆は演劇博物館館長始め早稲田大関係者を除けば十人ほど。このような企画をGOLDONIが主催すれば、今でも五十、百人は集めるだろう。女史は公共性、舞台芸術そのものへの貢献、そして使命などを語る、真っ当な発言で好感したが、質疑では、岩波新書の菅谷明子さんの著書『未来をつくる図書館』を、あるいはその中のこの図書館を書いた30頁ほどの章だけでも読んでいれば判るような質問が続出、閉口した。研究会の担当者からの案内でも、この本を参考文献にあげているので、読んで参加するのがマナーだろう。質問者の大半は、図書館情報学の専門家や図書館司書、美術館学芸員、アーツマネジメントを学んでいる人たちだそうだから、当然読んでいなければならないものだ。昨秋に経済産業省の外郭団体である経済産業研究所が催した菅谷さんのランチ・セミナーには、経済産業省ばかりか他官庁や大学や図書館、企業の情報関係の人たちなど、新刊で出たての同書を読んだばかりの百人ほどが駆け付け、刺激的なセミナーになった。

2004年10月28日

高階秀爾氏の講演会

18時半過ぎにGOLDONIを閉め、隣町の大手町の三井物産本店に急ぐ。今晩は、東京都美術館で開催中の『フィレンツェ-芸術都市の誕生展』の協賛事業である、高階秀爾氏の講演会。最初の案内では、会議室での開催だったが、聴講希望者が予想以上に多かったのか、急遽地下の多目的ホールに変わった。高階氏の講演は、前半がイタリア、わけても都市国家フィレンツェの特性、織物などの加工産業の出現や金融の発達などを詳述。成功した織物組合やメディチ家などが建築・美術の有力スポンサーになった背景について判りやすく説明。後半は、大量のスライドをつかって、フィレンツェの政庁舎や教会、そして今回の展覧会に出品している作品の解説。齢七十を越す高階氏、ほぼ2時間を立ち詰めで通される熱演ぶり。新国立劇場小劇場新企画の3、4ステージ分に匹敵する2百人近い聴衆の大半は、三十代から五十代までの女性。とくに目に付いたのが、物産の女性社員らしい人たちと社員の夫人らしき人々。高いイタリア観光人気も手伝ってだろうが、さすがは日本を代表する商社が主催する企画だけに、巷のカルチャーセンタや大学の公開講座とはひと味違う高級な文化講演会だった。広報部社会貢献室の担当者は慣れなさそうな司会進行に終始したが、ホール入り口で彼女を見つめる、彼女の上司と思われる女性は、私が知っている大学、財団、劇団、劇場、NPOなどこちらも日本の教育・文化を代表しているらしい団体の人々に、ついぞ観たことの無い、感じたことの無い厳しい表情をしていた。

2004年10月23日

マゼールの『ニューヨーク・フィル』

昨夜は半年振りくらいにNHKホールへ。NHK音楽祭2004のロリン・マゼール指揮の『ニューヨーク・フィルハーモニック』。演奏曲目は、ベートーべン「エグモント」序曲、リスト「ピアノ協奏曲第1番変ホ長調」、ドボルザーク「交響曲第9番ホ短調『新世界より』」。マゼールはクラシック通でもない私でも幼い時分から知っているほどの巨匠で、レコード、CDではよく聴いていたが、生で彼の指揮を見るのは初めて。一昨年の9月に、このニューヨーク・フィルの音楽監督に就いたが、年に2百近いステージのニューヨーク公演がある地元のオケなので、ニューヨーカーには大層な人気だそう。『新世界より』では、トライアングル、ティンパニーが見事だった。金管も非常に繊細で、感心した。アンコール曲の『アルルの女』は、新鮮、絶品だった。隣の席の老夫婦が盛んにシカゴ・フィルとの比較をしていたが、どうやらシカゴに次ぐ全米第2位の交響楽団になったようだ。
一昨日までの一週間で5本の演劇を観たが、残念ながら1本も感心しなかった。このGOLDONIBlogでは作品の批評らしいことはしないことにしているが…。酷いにもほどと言うものがあろうが、東京の演劇はどうしてしまったのだろう。この5本のうちのひとつは、俳優や製作者の知り合い3人から、あまりの酷さに堪えられなくて幕間で劇場を出てきたとmail、電話で知らされたもので、いつもの好奇心、怖いもの観たさも手伝って観てきたもの。確かに凄まじいもので、客席の4割、2百人に満たない観客のうち、三組、6人は幕間に帰っていった。終演後、大げさな言い方だが、どうやってGOLDONIまで戻ってきたか判らないほど。この作品に限らないが、呆然、憮然、悄然となって劇場・ホールを後にした一週間だったが、昨夜のNHKホールで救われた。お騒がせの海老沢会長の天晴れな姿を観ることもなく、心地よく愉しい秋の夜長だった。

2004年10月14日

『舞台芸術図書館』について

朝10時過ぎ、京王井の頭線駒場東大前駅に着く。東大教養学部やアゴラ劇場に行く時には東口で降りるが、西口から出るのは二十年ぶりか。俳優の谷昌樹氏が初めてGOLDONIに見えた時の話。私を昔から知っている、と仰る。二十年ほど前に駒場小劇場で公演を観た帰り、駅のそばの喫茶店にいたら、(今は世田谷パブリックシアターにいる高萩宏氏か新潮社の岡田雅之氏か、と一緒に)私が入ってきたそうだ。関心を持って私たちの話に聞き耳を立てていて、話の次元、打合せの仕方、指示の出し方、風貌などで、『ほかが敵う訳がない、レヴェルが違う』とその時に思ったそうだ。兵たちの夢の跡、感慨がないわけではない。駒場きっての高級住宅街を抜け、日本近代文学館へ。16日まで催されている『チェーホフ展』がこの朝の目的。この展覧会に協力されている内山崇氏に解説して戴きながら一時間ほどゆっくり観ることが出来た。今年はチェーホフ歿後百年、これに因んだ企画が続いたようだが、どこまでチェーホフに、百年前のロシアに迫れたものか、内山氏がメリホポ・チェーホフ博物館から選んで借りてきたチェーホフの書斎の机や椅子、外套や帽子などを観ながら思った。東洋一の劇場・日生劇場を作った日本生命の弘世現、銀座一のクラシックの王子ホールを作った王子製紙の河毛二郎など舞台芸術に貢献した偉大な先人について、短い時間だったがお茶を戴きながら内山氏と話した。私が夢見る『舞台芸術図書館』には、一般の方をも対象にした公開講座の開けるセミナー室、舞台関連の展覧会が開ける小さなギャラリー、来館者が憩えるカフェがある。そんな舞台芸術の研究・実践・鑑賞理解のための施設を作りたい。今は亡き弘世現氏、河毛二郎氏に代わって、同じ夢を、同じ思いを持つ方はお声を掛けて戴けないだろうか。

2004年10月12日

宣長さんの『借書簿』

10月9日は台風のため、GOLDONIは久しぶりの臨時休業。当初は夕方早めに店を閉め、天王洲・アートスフィアに、マールイ劇場『三人姉妹』を観に行こうと思っていたが、これもご破算。『かもめ』を誘ってくださったMarlie Vさんから、「Typhoon night」で始まる『三人姉妹』観劇記mailが届く。10日の朝、大手新劇団のT氏からも、観てきました、との電話。今日は、若い友人の、Bastaの長谷川仰子さんからも、「久しぶりにお芝居を拝見したという気持ち」とのmail。「終幕で降らした雨だけがよくわからなかった」とも。その直後、大阪外国語大学教授の堀江新二氏が久しぶりに立ち寄られる。マールイの芸術監督ユーリー・ソローミンに会っている氏に、「雨はなんですか」と伺うと、「ソローミンは姉妹に泣かせる訳にはいかないので、空に泣かせたと言っていました」。堀江氏の後は、一見のお客が続き、15時ちょうど、約束の三浦明子さんが来店。大学を出て数年働き、今はアルバイトをしながら、デザインの学校に通っている。昨日の16時過ぎから、私が行けなくなった14日のバレエ公演のチケットをどなたかに使ってもらおうと、平日の午後でも時間的な余裕がありそうで、mail‐addressを伺っている12人ほどを選び、次々にmailでご案内した。休日の午後ということもあり、20時までの間で最初に連絡を戴いた方に差し上げることにした。送信した直後から、札幌公演中です、当日は大阪出張です、先約があります、などのNG連絡があり、18時過ぎに三浦さんからの「行きたいのですが」の電話で決まり。その直後に続いてお二人から、行きたい、一番乗りでしょうか、とのmail。
4年前の開業前には、GOLDONIの運営がランニングで多少でも黒字が出たり、資金面での協力者があれば、年に幾人かを航空券代を援助して海外観劇の旅に行かせたり、月に一、二本の公演を選んでチケットを求め、総見でも出来たらと思っていた。残念ながら、初期投資費用を含め8桁の累損を出している現状では、まったくの夢物語。昨日のように、自分の行けなくなった公演や展覧会のチケットを差し上げることぐらいが、今は精一杯のこと。あとは本を買いたいが、持ち合わせが無いという一見の人にも掛売りをしたり、非売品にしている私の蔵書でも、売り物の本でも新刊でなければ貸して差し上げることくらい。本居宣長が積極的に本を貸していたことを、一昨日初めて宣長の貸し本の手控である『借書簿』を観て知ったが、『こんなところも宣長さんに宮島さんは似ている』と独り言ちた同行の友人N氏の言葉が、GOLDONIの運営やこれからの図書館作りも含めて、この数年が徒労に終るのかと沈み勝ちにもなるこの頃、労いと慰めと励ましだったのかと、いまになって気付いた。 

2004年10月10日

本居宣長に会いに行く

13時、東急東横線の武蔵小杉駅に着く。長年の友人で、当方のボランティアweb班のひとり、N氏と落ち合い、川崎市市民ミュージアムでの『21世紀の本居宣長展』へ。初めて降りる武蔵小杉の街を知ろうと、駅の周辺を三十分ほど見て回る。予定外の行動にのっけから付き合わされるN氏の「相変わらずの旺盛な好奇心ですね」との冷やかしにも、「賢くないし、教養も、経済的、時間的余裕もないから、ついでの時に足と五感を活用して出来るだけの事をして、短時間に脳に焼き付けようとしているだけ」と真面目に応える。天才の「宣長さん」との出会いを意識したわけではないが、私の好奇心は、凡庸過ぎる人間が例えば宣長のような人物に少しでも近づくために必要なもの。学生時分から月に十回十五回の観劇や音楽鑑賞、美術鑑賞、街歩きをしてきたが、滅多に演劇の鑑賞機会すら持たずに、観たがりでない、ただの遣りたがりの、素養も蓄積も乏しいままの現役のつもりの演劇人が跋扈しているこの時代でも、そこまで賎しく、さもしくもなれない理由は、育ちや品格や矜持の故ではなく、この好奇心のせい、か。14時からの担当学芸員による展示解説に間に合い、15時40分までは学芸員の話を伺いながら、十数人の鑑賞者と一緒になって展示室を一周。
日本近世の思想に詳しく、宣長の暮らした伊勢松坂の隣町出身のN氏の解説を聴きながら再度観てまわる。このミュージアムは、バブル経済時代の典型的な箱もののひとつで、なんとも交通の便の悪い、江戸東京博物館に負けないほどの寒々しい、金は掛けたが貧しい施設だが、この展覧会は興味深かった。ネットワークや出版などの専門家にも、人を教えている大学の教員たちにも、刺激的で示唆を与えられるもの。鑑賞をお勧めする。

2004年10月09日

『近松と文楽』から考えたこと

昨夕は18時にGOLDONIを閉め、台風前夜の風雨の中、池袋・東京芸術劇場五階会議室での、日本舞台技術総合センター主催のセミナーに急ぐ。文楽の演出・監修の第一人者である山田庄一氏による『近松と文楽』講義。前半は近松、義太夫、藤十郎の時代、歌舞伎と文楽との盛衰を、簡潔に説明。後半は近松作の『心中天網島』『傾城反魂香』と、後の時代の作者による改作との違いの分析。氏のお蔭で久しぶりに近松さんに出会えた。あっという間の二時間だった。山田氏は79歳、谷崎潤一郎の『細雪』に描かれる、典型的な大阪・船場の商家のお生まれか。幼少より文楽に親しんだ、ほんまものの素養のある、選ばれた人。学生時分に近松・出雲を教えて下さった乙葉弘先生は、大正初年の東京の下町(日本橋だったか) のご出身。家の周りの長唄や清元、三味線の音で育った本物の研究者だ。戦中・戦後、そして現代までの六七十年は、大阪、京都、そして東京(江戸)も、山田氏や乙葉先生が育ったような環境はなくなった。育ちの中で、バックグラウンドを持たない、この時代の古典芸能実演家、研究者、愛好家というのは、不思議な存在、かもしれない。このセミナーの主催である、日本舞台技術総合研究センターは、舞台美術製作関連の七事業者が作った、伝統芸能に従事する舞台技術者の育成、知識向上を図る団体だそうだ。会場には、裏方らしき高齢者も十人前後見られたが、大半は教養講座などと同様に女性が目立った。若い世代の、とくに男性の舞台技術者らしき人はほとんどいなかった。舞台技術者の減少がいわれているそうだが、歌舞伎座や国立劇場あるいは文楽劇場や古典芸能を手掛ける商業劇場は、若い舞台技術者を集められなくなっているのだろうか。だとすれば、これは大変な事態だ。民間の事業者だけでこの打開が図れるはずはない。独立行政法人日本芸術文化振興会はどんな対応をしているのだろうか。新国立劇場の演劇研修目的で予算要求をしているようだが、そんなことは今の演劇状況の中で急務ではないはず。至急対策を打つべきだ。現代演劇の方には、演出も含めて俳優やアートマネジメントの希望者が掃いて捨てるほどいる。大学生き残りの新手で、姑息な演劇系の学科作りが展開されているが、そこで生まれるのは、演劇の素養も、教養も、本格的な技術も、演劇人としての自覚も身に付かない、最初からの負け組だ。無駄に多い演劇希望者を、これ以上量産してどうするのだろう。どこぞに目賢い大学関係者はいないか。『総合舞台技術学科』の新設は時宜に適っている。カルキュラム・プログラムなら作ってあげるから。

2004年10月08日

『最後の開業記念日、か』(続)

先月の13日、GOLDONIは開業四年を迎え、その日のBlogでも『最後の開業記念日、か』で、「来秋には舞台芸術図書館か廃業かで、どちらにしても5周年はないのでは」と書いた。先月末に、岡山で演劇やダンスの公演やワークショップ・講座などを運営する、おかやまアートファームの大森誠一氏が見え、GOLDONIで4時間ほど話し込んだ。この図書館と、関連する事業について説明させてもらったが、構想を断念した場合の、蔵書の整理やその後の身の振り方についても、逡巡・困惑も隠さずお話した。今はここでは詳しく記さないが、氏から励ましと発想の転換に繋がるような示唆を戴いた。魅力的で、検討する価値のあるテーマだった。
ここのところ、本についての雑誌やカタログ、単行本を発行する出版社から、店のデータの確認の連絡が続く。HPのURLやアドレスを変えたり、閉店時間を18時に変えたりしたので、そのことは知らせたが、来春からは隔日営業にするとか、来秋には閉店の可能性が大きいということまでは伝えていない。今日は未来社の小柳暁子さんから、同社のPR誌『未来』に書店人として演劇と出版について書きませんか、とのお誘い。千田是也や飯沢匡についてのページも予定している号になるので、とも。なんとも優しいお心遣いで忝い。数年前にも、演劇製作論の序章のようなものを書くように誘われ、今は実践だけでコメントしないことにしている、とお断りしたこともある。このblogタッチで、との教示も有難いが、演劇書の出版についても、今はコメントしづらく、また真っ当な書店人でもないのでお受けするのはつらいところ。

2004年10月05日

天王洲と西麻布で欧米を学ぶ

GOLDONIのご常連で、ワシントン大大学院で演劇を学ぶお嬢さんのご両親、V氏ご夫妻のお誘いで、ロシア国立アカデミー・マールイ劇場のアントン・チェーホフ作『かもめ』を観劇するため、天王洲のアートスフィアへ急ぐ。開場の18時半前に着いたが、劇場玄関のある2階フロアには、開場前の観客の賑わいが無く、一瞬、腕時計が狂ったか、あるいは約束の日を間違えたかと思うほど。定時に公演は始まったが、客席は、特設の回り舞台のための席潰しで客席数を大幅に減らしていたが、それでも1階は半分程度の入りか。アルカージナのイリーナ・ムラヴィヨーヴァ、トリゴーリンのユーリー・ソローミンなど老練・達者な演技。ドールン役のアレクサンドル・ミハイロフが出色。最終四幕の、ニーナとトレープレフとの再会と離別の場面の間中、下手奥の食堂で皆が夜食を摂っているシーンは、多くの観客には見えにくかったかもしれないが、下男、料理番に至るまでが緻密な演技をしていて、圧巻だった。休憩を挟んだ二時間四十分、退屈を覚えなかった。最近の私の観劇では珍しいこと。終演後は、西麻布に移動、ご夫妻も初めて訪れる西洋料理店へ。グルマンのご夫妻と健啖なだけの私の3人は、よく食べ、よく話した。ご夫君の「そうめんの薬味には大蒜が最高。今度試してごらんなさい」から始まり、欧米と日本の風土、近代史、演劇、政治、高等教育などの違いなどに及び、非常に楽しくまた教わることの多い3時間だった。拙宅まで送って戴いた車の中でも、寄付税制や支援のあり方など話し合った。秋の夜長、楽しく、充実した一夜を賜った。

2004年10月03日

東京国立近代美術館『RIMPA展』

最近はほぼ毎日GOLDONIに出ている。日曜と月曜は休業にしているが、神保町に来ないことはない。昼間までの打合せや食事の約束などで外出の時でも、取り敢えずは神保町に寄り、夕方に店を閉め外出した後も深夜11時頃までならば店に戻ったりしている。「いつ休んでいるの」「健康なんですね」と言われることがままあるが、普段から、「GOLDONIはビジネスでも趣味でもない使命・務め」「演劇という悪行だけで充分なので、飲酒、喫煙、夜遊びに関心がない」ので、元気なのかもしれない。ただ、観劇が続くと、かえって気分が塞ぎ、偶のクラシック鑑賞や日曜ごとの美術館めぐりでそれを癒し、英気を養わなければならない。昼過ぎ、神保町から雨の中の散策、竹橋・東京国立近代美術館へ。『RIMPA展』の最終日。子供の夏休みの宿題ではないが、展覧会はぎりぎりにならないとなかなか行けない。雨模様でも、十分待ちの行列が出来ていた。「琳派」中心のものなのに、なんでこんなに人が来るのだろう。主催の東京新聞が購読者に入場券をばら撒いたとしても、こんなに込むものだろうか。テレビを見ないので知らないが、天晴れのフジテレビかで、足りなそうな少年タレントたちがサッカーやバレーボールの大会のように、「僕たちがRINPA展を応援しています」なんて言っているのかと訝っているうちに入場。第1室の宗達、光琳の作品には黒山の人だかりで観られず、化政期の酒井抱一あたりから観ることが出来た。今回はとくに浅井忠の蒔絵文箱が面白かった。つい最近も、東京国立博物館での『万国博覧会の美術』で観た彼のカルタ図案に興味を惹かれた。日本の近代洋画の祖のひとりだが、油彩画以外にも関心があったのだろう。浅井の人生がどんなものだったのか、全く知らないが、気になる美術家のひとりだ。常設展を覗いたが、こちらは見事な鑑賞環境。たぶん、『RIMPA展』に来た人の1、2%しか観に来ていないのではと思えるほどガラガラ。先週行った東京都現代美術館で、常設展を覗いていた観客の大半は、『花と緑の物語展』で見掛けた人ばかりで、『ピカソ展』の観客らしい人はほとんど居なかった。いったいこれはなんなのだろう。美術館を出たら、前庭の正面にバスが出発するところで、車内は満員の乗客。新丸の内ビルから国際フォーラムなど丸の内一帯を巡回する無料シャトルバスだった。なるほど、新観光名所・丸の内の、観光施設としての近代美術館か。六本木ヒルズ観光における森美術館と同じありようか。美術館はシンコク、いや進化している、か。 

2004年10月02日

『Sincere』と『菊坂文庫』

ここ何日か、こちらからの暑中見舞いやGOLDONI開業四周年のmailへの返信を戴いている。その中には、『月面からの眺め』(毎日新聞社刊)の著者で、地域計画や現代美術の推進役としても著名なP3の芹沢高志氏からのmailも。「蔡國強氏のプロジェクトで、台湾金門島に行っていたり、これから釜山行き。戻ったらゆっくり」。先ほどのラジオでは、七大陸最高峰登頂で有名な石川直樹さんが、この蔡氏のプロジェクトの報告をしていた。ボストン美術館のコンサルタントをしている長谷川仰子さんからは、名古屋ボストン美術館の『オキーフとその時代展』絡みの知らせ。雑誌『装苑』の最新号に寄稿したものを読んで欲しい、と。ベケット実践の鈴木恵理子さんからも。「硫酸紙に包まれた本、美味しいお茶が店主を物語っていた。GOLDONIはまさにあなたの作品なのだと得心」。お言葉忝し。夜、たらば蟹の缶詰、卵1パック、ねぎ1本を、本や紙ごみ(?)で膨らんだ鞄に詰め込み、小石川の知人宅へ急ぐ。音楽企画の『Sincere』のメンバーが設けてくださった懇親の一夜。既に彼らの手料理は用意されていて、私の到着を待つばかり。先に集まっていたメンバーの協力で、無事に好物(だけれども初めて作る)「蟹玉」ができる。ほかのメンバーや、NPO法人の「粋塾」を運営、近々には本郷に「菊坂文庫」を開設する志村氏夫妻も駆け付ける。お開きの23時まで、よく話し、よく食した。メンバーはよく聴き、よく準備し、よく片付けた。忝し。

2004年09月30日

GOLDONI JUGEND

 15時過ぎ、ある大手企業で経営計画を手掛ける友人から久しぶりの電話。本社オフィスから離れて、ある製品群の開発部門が二百人規模で、再開発地区のビジネスセンタービルに入居しているが、その区の芸術文化振興財団から支援・協賛のお願いに伺いたいと言って来たが、どんなものだろう、と。財政破綻している区本体からの、委託事業費や運営負担金が大幅に削減されていて、財団運営がキツイのだろう。一口幾らの協賛金目当てのもの。「百万や一千万では、焼け石に水で、お役に立たないのでは。財団への出資やホール・美術館の売却のお話ならば、検討しますよ」と言ったら、とアドヴァイス。小遣い銭を貰いに来たのに、ホールや美術館の買収を持ちかけられたら吃驚して二度と来ないのでは、とも。小遣い銭で思い出したが、三十数年前の高校生時分、駕籠町で体育会系の大学生四人組に金を強要(喝あげ)されかかったことがある。大学名を訊くと、東洋大学だと言うので、「母のいとこが、そちらの学生部長をしている。秋葉神社の、大東亜戦争肯定論者の千葉栄といいますけれど、ご存知ですよね」と伝えたら、彼らの態度が豹変した。以来暫くは彼らからボディガード役を申し込まれて迷惑したことがある。おとなしくしていても保守の高校生というだけでも危ない60年代後半のあの狂騒の中、せっかくのお申し出だったが、新左翼にも公安当局にも神道系右翼高校生と断定されては敵わないので拝辞した。不穏当と思える申し出には、優しく断ることが肝要と、このことで覚えた。
 昨日は、ロス留学組で、今はひとり演出家デビューを企てるK君が、寄贈された資料の整理を3時間ほどしてくれた。今日の昼には、東京理科大劇研出身、フランス留学を計画中の佐々木治己さんが、アテネ・フランセの授業の帰りに寄る。18時前、新潮社メディア室長・岡田雅之氏のお使いで、ドイツ留学を検討しているT君が本を届けてくれる。この三人はいまどきの演劇青年にしては珍しく戯曲・研究書をよく読み、議論も出来る。演出やドラマトゥルク志望というところだろう。私が作りたい『アレーナ・ゴルドーニ東京』は、こういう基礎学力、学問習熟度の高い二十代の青年たちの練成道場のようなもの。彼らは少しとうが経っているが、立派なGOLDONI JUGENDだ。

2004年09月26日

木場、日本橋、丸の内

12時過ぎ、木場・東京都現代美術館に到着。『花と緑の物語展』の最終日。コロー、ピサロ、ルノアール、キスリングほかの七十数点の展示だが、なんと言ってもモネ作品がその内の十点近くで一室を占める。初期作品から後年のあの睡蓮までのコーナーだが、初めて観る「ルエルの眺め」に感心。茨城県近代美術館に収蔵の作品のようで、水戸に出かける機会があれば、また観てみたい。込んではいなかったので、じっくり2時間近く観てまわった。常設展も覗いていたら、15時を過ぎてしまい、次の日本橋・ブリヂストン美術館に急いだ。ここは、「マネ、モネ、ルノワールから20世紀へ-」との副題を持つ『巨匠たちのまなざし展』。所蔵品中心の構成で、ルノワール、シスレー、そしてモネなど、以前に観たものが大半だったが、浅井忠、藤島武二の数点は初見。17時半、ブリヂストン美術館を出て、日本橋から丸の内を散策。この14日にオープンした『OAZO』の丸善新本店を覗く。演劇書のコーナーは、研究書も充実、冊数も多く、GOLDONI店売用の四分の一ほど。30分ほど隅で見ていたが、客は一人も立ち寄らなかった。
現代美術館で思い出したが、17日に同館で開かれた『ピカソ展 -躰とエロス-』の開催レセプションに、スペシャルゲストだかで無芸タレントの叶某女が招かれていて、他の出席者の顰蹙をかっていたそうだ。しかし、ピカソのエロスにゴージャスのエログロで応じるなど、主催者はなかなか深い読みをしたものだ。さすが軽さで勝負のフジ・サンケイグループの産経新聞だけのことはある。天下の朝日新聞は無論、ナベツネ読売ですら教養・節度が邪魔して出来ないキャスティングだ。天晴れ。

2004年09月25日

イタリア文化研究

15時前、ドア越しに葉書を右手にかざして店を覗く人。先ほど郵便配達は来てくれたばかりなのにと訝って出ていくと、随分と貫禄のある普段着の郵便配達人は、実はイタリア文化研究の泰斗・田之倉稔氏だった。「GOLDONIのホームページを観て、推奨本を買いたくなったんだけど、アドレスが書いてないし、いくら電話を掛けてもFAXしても、あなたが出ないので葉書を書いたけれど、届けに来てしまった」。せっかくなので、差出人が手ずから届けるという稀にして価値ある葉書を戴くことにする。「朝から電話、FAXとも使っていますし、キャッチホンなのだけれど、掛りませんか。何番にお掛けになりましたか」と伺うと、何度も掛けてくださったのだろう、すらすらと、「××××の2771」。間違っていたけれど。今日はダヌンツィオについて小一時間伺う。最近の新聞記者の記者気質も。
GOLDONIを開いた頃に、「ゴルドーニという人は、どういう人ですか」と初見の客に訊ねられ、少し説明したら、その後に名刺を出された。イタリア演劇研究が専攻の大学助教授だった。悪戯心で訊いた訳ではなさそうだったが、口頭試問は落第だったのか、以来お越し戴いていない。礼節の国・韓国でも、礼節をかなぐり捨てた我が国でも、俗に染まらない大学人には、名刺を後で出すという変わった作法があるらしい。テレビ局や芸能プロダクションなど生き馬の目を抜く世界の人々との交流で学習したか俗なことでは人後に落ちないが、社会規範からは外れたいまどきの演劇人のいまどきの仕事は、先述の人たちとの新大衆演劇か地方自治体との協働、芸術監督そして大学での実技指導。こんなところで、社会性が身に付くのだろうか。

2004年09月21日

『GOLDONI』の彼岸の入り

午前10時、東銀座の時事通信新本社内に昨秋オープンしたホールへ。案内役はこのホールの建築コンサルに参画した照明家・岩下由治氏。氏は、開場の1年ほど前からよくGOLDONIに見え、このホールについての話ばかりか、劇場や演劇と社会の関わり方など、広範なテーマで話し合ったが、私がこのホールに足を運んだのは初めて。
東京の一等地である銀座に、260平米、天井高6.6m、客席数200〜300のフリースペースは貴重だが、1日60万円の使用料金は、会議やセミナー、ファッションショーなど企業イベントが中心になり、席単価二千円を超えるホールは、演劇公演の会場としては不向きか。運営面で気になる点が幾つかあったが、杞憂で終れば結構なこと。ビル1階の『スター・バックス』で休憩。注文をして下さる岩下氏より先にテラス席に着く。向かいの新橋演舞場を見、旧演舞場の佇まい、客席の雰囲気、終演後におとずれた静謐、叔母・市川翠扇の楽屋や、新派の名優や総務の大江良太郎との想い出に浸った。アイス・カフェラテを飲みながら、二十五年前にともに観た、カルロ・ゴルドーニの『二人の主人を一度に持つと』(ジョルジョ・ストレーレル演出、ミラノ・ピッコロ・テアトロ)の想い出話。互いに舞台照明、演劇製作に従事しながら、演劇やその組織・環境に違和を感じたり、自信を持てなかったニ十代半ば、プロセミアムを超え、躍動的な演技、観客を演劇行為に参加させるという見事な演出のこの作品は、彼にも私にも、劇場人・演劇人としての理想と誇りと自信を与えてくれた。人生を決めたのは、あのゴルドーニ体験だった。
18時30分過ぎ、両国のシアターカイへ。『ピアノのかもめ/声のかもめ』。在独の作家・多和田葉子、同じドイツで活動するジャズピアノの高瀬アキとの朗読と音楽のパフォーマンス。客席は大手新劇団の公演以上に高齢者が目立ち、またその大半がシアターカイの招待者のよう。多和田葉子の朗読を初めて聴いたが、興味深かった。ただ、斜め後の席に座る昔のテレビタレントのYのあげる笑い声が、異常で不快であった。彼女の隣には劇場関係者らしい若い男女がいたが、彼女に注意はしなかった。十年も前のことだが、出張先の京都で、俳優座劇場製作の舞台を観ていた時、携帯電話を鳴らしたり、客席ドアの真近で大声で話す関西では著名な劇評を手掛ける新聞記者がうるさく、注意の鉄拳を振るおうとした直前、今は文学座の企画事業部長を務める、制作担当の青年が私の気配を察知し、この記者をつまみ出し、私の出番がなくなったことがある。
ロビーで。訪欧から戻られたご常連の内山崇氏は、「また、パンフなどお土産を持っていきます」。学生時分からお付き合い戴いている照明家で劇場コンサルの大御所・立木定彦氏は、「お前の蔵書の『もうひとつの新劇史』(千田是也著)、貸してくれ」。四季在籍時以来ニ十数年のお付き合いの朝日新聞・山本健一氏は、「佐藤清郎さんの件の本、取り置きしといてね」。終演後、玄関前で山本氏と談笑。氏と別れた後、前を急ぐオジ様を捕まえ「女子大は如何」。返ってきた答は「蛸部屋(非常勤講師室のことか)」の一言。「インターネットをご覧になるなら、GOLDONIのHPを観てください」とのお願いに、「Googleで検索すれば出てくるんでしょう」。私、うっかり、「そう。先生の上のトップにあるから」。カルロ・ゴルドーニの最高の紹介者である田之倉稔氏、おおらかに笑っておられた。
おりしも彼岸の入り。銀座や両国の出張GOLDONIは、「カルロ・ゴルドーニ」を迎えた一日だった。

2004年09月17日

白洲次郎とスナフキン

ある演劇製作団体で今年から制作助手を務めている、劇作家志望のK君から送られた書下ろしの短編戯曲を繰り返し読んでいたら、大阪府能勢町の浄るりシアターの松田正弘事務局長と柴田佳明さんが訪ねてくださる。国立劇場に出演中の文楽の演者との打合せのための上京で、午前中は総務省の外郭団体『地域創造』にも行って来たという。同シアターの大内祥子館長とは、三十年近いお付き合い。能勢にも93年のオープン時から伺っていて、その時以来、松田さん始め元職・現職の方々とは親しくしている。全国中の行政立ホールと同様、事業予算・人員の削減など厳しいホール運営を強いられているが、『芸術』『文化』『演劇を活用したまちつくり』という前提、お題目を一度忘れて、「地域の経済活動、社会活動と連動したホールの企画、ホールの生きる道を探ろう」とアドヴァイス。近いうちの再会を約して、お二人は半蔵門に向かった。入れ違いに、文学座の本山可久子さんが、大ぶりの見事な二十世紀梨を抱えて御来店。先日お送りした本のお礼だそうだが、過分なお心遣いで恐縮する。
先々週、12年ぶりに再会した倉敷の山川高紀氏が、神田須田町での会合を終え、立ち寄ってくださる。かつての私の印象は、「自分たちの前をあなたが通ると、その後で風が吹く。その場が暖かければ冷たく、冷たければ暖かい風になって。本当に風のような男」だそうだ。私が尊敬する「風の男」白洲次郎の風とは大きな違いの風ではあろうが、ほんの少しだけ白洲さんに近付いたようで嬉しい。度々譬えられる「スナフキンのような男」よりは、はるかに嬉しい。山川氏のいる間に、ご近所のメディアプロデ゙ューサー・後藤光弥氏が来店。彼とはディアギレフの話をしているところに、背広姿の青年が登場。前に一度来たことがあると言うので、「名乗るな、あなたのフルネームを思い出すから」と言って、先客二人も参加しながら、記憶の糸を手繰るがついにギブアップ。早稲田大学文学部出身、この春出版社に勤め始めたO君。演劇とメディアについて研究したいので、来秋に大学院の受験をするつもり、と言う。早稲田かと訊くと、「あそこは学部の4年でこりごり」。話し始めた私たちを気遣ってか、(車の通らない路地にある)店の前で初対面の先客二人は談笑していた。壮大な夢に不釣合いなほど狭小な空間のGOLDONIは、路地までサロンなのだ。

2004年09月14日

開業記念週の来客に教わるもの

朝から挨拶のmail送信、返信のmail、電話も多く戴く。お花や果物、電報など戴く。
17時過ぎ、文学座の山崎美貴さんが、横浜から『幸福の木』『栗饅頭』を抱えて訪ねてくださる。4年前の開店の前後数ヶ月、仕事の合間に準備を手伝ってくださった協力者のひとり。久しぶりの来訪で、増えた本の量と、店の散らかり様に驚いていた。御持たせの和菓子と到来物の果物、アイスティーで1時間半ほど話した。
19時過ぎ、弁護士の濱口博史さんが訪ねてくださる。彼は民間非営利法人制度に詳しい弁護士として知られているが、私的な事柄、法人登記などでお世話戴いている。彼が駒場の学生だった二十数年前からの付き合いで、今は、変則的・過激な手段・方法を選び進みそうな私に、原則、正攻法、筋目のある行動を取るよう諭してくださる。20時前、「接見があるので」と仰って店を出られた。
昨日は三十歳も年下のお嬢さんから、今日は一回り歳下の友人から、善意・優しさを教えられた。
 

2004年09月13日

最後の開業記念日、か。

今日は演劇書専門GOLDONIの4度目の開業記念日。来春からは『舞台芸術図書館』設立準備のため、週の半分だけ店を開ける変則営業に移行するつもり。新しい船出は、多くの方々の御支援・御協力を得ることなしでは出来ないが、来年のこの時期までには、開設か断念かを決めなければならない。そのような状況では、どっちに転んだとしても、5周年はないだろう。GOLDONIで是非本を買って欲しいとは思わないが(古書の値付では、神保町・早稲田の文芸・演劇書を扱う大型店よりはるかに安い、と言われること度々で、書店さんや本好きの方々からも、もう少し高くしなさいと注意されるほど。初めての方には原則4冊までしかお売りしないことにしている。)、演劇に関わる仕事をしている人には、どんな店か確認にいらして戴きたい、と思う。演劇に関わりながら好奇心は持ち合わせていない、ということはないだろうから。4年前の開業以来、6坪に満たない小体の店構えにしては、雑誌・ムックなどで取り上げられることが多く、その反響もあり、毎週末のように全国から尋ねてみえる方がある一方、数人の例外を除き、一般紙の文化・芸能・演劇の担当記者は来店したことがなく、無論紙面で取り上げられたこともない。有力な演劇人や新聞記者の嗅覚は鋭く、あるいは千里眼の持主で、GOLDONIに来なくとも、どんな店だか見えてしまっているのかもしれない。
開業記念の日が休業日と重なり、午後はセゾン文化財団主催のセミナー『指定管理者制度はビジネスチャンス?』受講の予定もあり、直近まで連絡を取っていた方や行き来の多い方には、夕方まで外出の予定があることなど(お祝いにお出掛け下さらないようにとのつもりで)、ご挨拶に一言添えてmailを送信。有楽町から戻ってPCを開くと、朝から送信した挨拶のmail(bccではなく、それぞれに一言書かせて戴いた)のご返事が三十通ほど。同様の電話も数通。18時半過ぎ、前触れもなく、立教大学文学部を今春卒業したばかりのT君が現れる。この夏からは、私と兄の二人の兄弟に別々の職場で仕えたという稀にして不幸な経験を持つ新潮社のOさんのところでアルバイトを始めて、海外戯曲・研究書を読み耽る毎日。御持たせのクッキー、到来物の葡萄・高尾、日本茶を喫しながら、「宮島さんは教育者」から始まり「ドイツ文化センターでドイツ語をしっかり学びなさい」で終る2時間半。よく聴き、よく話した。帰りがけ、「『GOLDONI Blog』での実名表記は、個人情報の漏洩にあたる」と諌められる。「そんなことはないが配慮はします」と応えたので、今回はT君の意見に従った。長幼の序を踏まえながらも、教え、教えられる、互いに腹蔵無く語り合える場、それが『GOLDONI』だから。

2004年09月09日

『TERRA NOVA』と『大手町』

昨夕は文学座アトリエ公演『TERRA NOVA』の翻訳者・名和由理さんがGOLDONIに訪ねてくれて、長い時間話し込んだが、今日は演出の高橋正徳君が寄ってくれる。初演出の稽古場は、つらく厳しいものだったようだが、「同世代の仲間内でやらず、台本を自分以上に読み込んで臨む先輩たちに揉まれたことは大きな収穫」と。1時間ほど話したが、「GOLDONIはほかにはないサロンですね」と言い残してアトリエに戻って行った。入れ替わるように、大手企業で人事戦略セクションの長をしていた友人が、隣町の大手町に所用で来た帰りに立ち寄ってくれる。「新委嘱・新任の組織・部門のトップというものが、着任の3ヶ月以内に新しい方針を打ち出せなければ、その組織は変わらない」、「部課長に意見を求め、その考えを少しずつ取り入れて出してきた方針は、当然のことだが骨格のないもの、誰の考えとも相容れないものになる」。大きくは中央官庁・地方自治体の施策、小さくは文化施設の建設・運営計画などで思い当たる話だ。ミニレクチャーが終るところで、『TERRA NOVA』で一緒になった日本経済新聞の編集委員・河野孝氏が登場。島根県安来市にある『足立美術館』の庭園の話から、日経本紙に連載されていた米子・今井書店のこと、出雲大社・氷川神社、本居宣長の山桜までの1時間の談義。現代演劇の話題では、互いに沈黙し溜め息が出ること度々だが、話が演劇から離れると、時の経つのを忘れ、のんびり豊かな会話になる。「長居してしまった」と仰りながら大手町に戻られる。
明治大学演劇専攻3年生の松本修一君が来店。彼が書いた俳優座劇場でのセミナー・シンポジウムについてのレポートの感想を求められる。30分ほど話して大手町のアルバイト先へ向かった。閉店時間の18時過ぎ、来客・本探しの客が引いたところで、『TERRA NOVA』でアトリエデビューの舞台美術・乗峯雅寛君からの、舞台の感想を求めるmailを読んでいると、親しくしている教育NPO『粋塾』代表の志村光一さんが現れる。一昨日、まつもと市民芸術館での小沢征爾指揮の『ヴォツェック』を観て来た、と。ヴァイオリン指導「スズキ・メソード」の鈴木鎮一氏の邸宅に出来た『鈴木鎮一記念館』にも足をのばしたそう。生前の鈴木鎮一氏の教育への情熱についても伺う。演劇についての教育のあり方を考える昨今、教育の実践家との対話は貴重なもの。
今日もまた、『会う人みな師』の一日だった。

2004年09月07日

『TERRA NOVA』と爆睡招待客

台風の影響で、強い風が吹き晴れたり曇ったり、雨になったりの午後。京都府立大学文学部教授の佐々木昇二氏が来店。エリザベス朝演劇の研究者だが、頻繁に出掛けるイギリスでも、あるいは東京に出てでも演劇をご覧になる。戯曲翻訳をする一握りの研究者は例外だが、現代演劇の稚拙さに愛想が尽きてか観客であることをやめた老練な研究者や、研究者・教育者としては駆け出しながら、才能が有り余るのか年に数十本にも満たない観劇で立派に批評も手掛ける若手研究者が多い中で、真っ当に観劇習慣を身に付けた演劇・戯曲の研究者は少数なのではないか。大学に代表される学問・研究と、実際の演劇現場との乖離が言われて久しい。『ゴルドーニ記念舞台芸術図書館』がその溝を埋める触媒・施設になるのでは、と考える毎日。さて、賛同者は出てくるのだろうか。「シアターガイドでゴルドーニを知りました」と佐々木氏。数多いGOLDONIの紹介記事の中でも特に鋭く興味深い記事になっている、『日経流通新聞』12面「先探人」(2000年10月7日)のコピーをお渡しする。
18時50分、信濃町・文学座アトリエ公演『TERRA NOVA』。左隣の日本経済新聞編集委員の河野孝氏、「帝劇の話は良かった」(8月30日)。忝し。幕間にこの劇の翻訳者・名和由理さんが席まで来てくれる。二言三言の会話の後、厳しい表情になって「宮島さんの右隣りで爆睡しているのは誰ですか」。「マーチン・ネイラー(氏じゃないと良いんだが)」。

2004年09月05日

北千住・THEATRE1010

14時前、北千住駅到着。THEATRE1010の開場記念公演『月の光の中のフランキーとジョニー』観劇。フランキーは40歳を超えた未婚の女、ジョニーは50歳を目前にした離婚歴のある男。出演の竹下景子、萩原流行はともに51歳。そして観客の中心世代は60代の夫婦あるいはこの世代の女性の二人連れ。舞台となっているニューヨークのフランキーのアパートがある地域は、東京に置き換えるとすれば、中野、三軒茶屋、中目黒あたりか。最近のテレビに出てくる若い「芸無し」芸人や演劇やってるつもりの者が住み着くエリアでもある。共通点は、お笑いライブハウスやお手頃のホールも多く、取り敢えずは今していることを疑うことなく、なんとなく続けられそうな気にさせる街なのだろう。北千住はこの舞台を連想させるところか気になり、終演後に駅の周辺を一時間ほど歩いた。この劇場も、外形的には街に突き出した独立の建造物ではなく、ビルの中に収まったホール。この街の中核文化施設としてのハンデキャップは、行政があるいは運営会社・劇場幹部が考えているものより遥かに大きいのではないか。初めての観劇、初めての街歩きだったが、そんなことを強く感じた。先日の柿落しでは市川森一館長が、自分たちが劇場の土台を作ったので、この後は劇場の若いスタッフに譲りたいと、自身と朝倉摂芸術監督の早期の辞任を仄めかしたという。市川氏らの作った土台とは何か、それは、これからの演目とその評価から判断されることなのだろう。

2004年09月04日

非売本の貸出もする『GOLDONI』

海外公演チケット販売の(株)カーテンコールの小林秀夫氏が来店。続いて若い男女の4人組が入ってきたので、小林氏には奥で待機して戴く。演劇とは縁のなさそうな、素朴さと悧発さを持った4人組は、信州大学の人文学部や教育学部の3、4年生。その内のひとりが、GOLDONIでは将来の舞台芸術図書館の蔵書にするつもりで非売品扱いの『コメディア・デラルテ』(ミック著・梁木靖弘訳。未来社刊)を探しているが見つからないと言うので、期限付きで貸して差し上げる。泉澤君、読後レポートを求められるとも知らず、嬉しそうに帰っていく。4人組がいたので店に入れず、外に待つ青年ふたり。音楽公演を企画する団体のメンバー。いつもは企画のことで話を伺ったり、PCのことを教わったりするが、やっと本を探し始めた小林氏に、再度の交流のお願いは憚られ、外で立ち話。
小林氏からはご自身の事業のことなど伺った。当方の、夢の『舞台芸術図書館』についても、長い時間話し合い、また諭されもした。忝し。
フランス演劇の岡田正子さんから、久しぶりの電話。私の陳腐な啓蒙運動を知ってか、相当の年配だと思われたのか、ご自身よりふた回りも下の年齢であることに驚いていらした。
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専門書店に来て、それも品切・絶版の、売値が定価の倍にもなる本を、初めての来訪者が借りられることに本人は驚いていたかもしれない。4年(準備期間を入れれば6年)前に始めたこの演劇書専門GOLDONIは、何度でも言うが、最初から採算度外視の、演劇の啓蒙運動。GOLDONIに来たことのない知り合いの「演劇人」や「演劇研究者」の多くは、劇場や大学などで出会えば、「商売、どう」とお気遣い下さる。彼らの同僚、先輩後輩、教え子が、他では読めない本を借りたり閲覧していることも知らないで、だ。著名なライターの永江朗氏の取材を受けたときには、「こちらは劇団四季とか文学座とか文化庁とかの支援でおやりになっているのですか」との永江さんの最初の問いに、「私の支援だけです」の一言で、彼にバツが悪い思いをさせたが、永江さんほどの目利きでなくとも、普段に本探しをする人ならば、GOLDONIの店の規模では採算が取れないことと同時に、レファレンス中心の日本では稀有な専門書店であること、目的が他にあることは瞬時で判るはず。GOLDONIに来る演劇を学ぶ学生や劇団の研究生は、ほぼ例外なく、「うちの先生はゴルドーニに来ますか」と訊く。「来ないね」と言うと、彼らは一様に悲しそうな表情になる。どういうことか、いまどきの「演劇人」たちに理解できるだろうか。

2004年09月03日

同輩、先輩、後輩との一日

11時、ある東証一部上場企業の子会社で食客をしていた折に出会ったその当時の親会社の営業部門の岡山事務所長が、東京・台場での『アミューズメントマシン・ショー』見学のため上京、店をはじめて訪ねてくれる。山川高紀さん、今は元の部下や次男と倉敷・岡山などで事業を営んでいる。偶々二人とも12年前の同じ日に、その会社を辞めた事を知ったが、彼は東京本社への昇進含みの転勤、私は親会社の経営幹部への誘いを断っての退職。彼は、病妻を岡山に置いての単身赴任が出来ないこと、私のほうは、四十歳を機に7年近い客分暮しに見切りを付け、演劇のインフラ作りを手掛けようと思っていたことが退職の理由。「残っていれば、経営ボードのおひとりでしたね」との優しい彼の言葉に、「すぐに出来の悪い役員たちを殴って辞めていたでしょう」。12年ぶりの再会だったが、昔話に終始せず、事業の進め方や社員のモラールをどう上げるかなど、実践的な話を伺った。部門の会議や打合せなどで見せた私の発言(思考方法)や行動が、創業経営者の顔色を見ることだけに汲々として官僚化した他の幹部社員とかけ離れていて、「やっぱり、あそこでは収まりきれない人でした」と冷静な分析。
15時前、入れ替わりに劇団民芸制作部の木佐美麻有さんが来店。明治大学演劇専攻3年生の頃からGOLDONIに来ていたが、「演劇製作者を目指すなら、新しくて小さな組織に入るよりも、出来るだけ古くて大きなところに就職しなさい。組織が抱える問題点、改良点も大きく、深刻なはずだから勉強になる」との私の説得を聴き入れてくれたのか、他を幾つか断っての民芸入団。彼女の近況を聴いていたところに、元電通総研監査役の岡田芳郎氏が来店。二十五年ほど前(『キャッツ』企画が生まれる以前)、電通と劇団四季で定期的な勉強会を開いたが、電通サイドの責任者が当時の営業企画室幹部だった岡田氏で、私は四季側の連絡係、最年少メンバーだった。昨日の電話で、氏所蔵の『ディアギレフのバレエ・リュス展』のパンフなど無心したので、届けてくださる。木佐美君ともお話戴き、17時前に、浜離宮朝日ホールにお出掛け。ご常連や親しい年配の方の多くは、オペラ・クラシックの熱心な観客だ。
早稲田大学第二文学部演劇専攻4年生の大石多佳子さんが来店。卒論のテーマについて、先輩格の木佐美君も交えて訊く。ある上演団体を取り上げると言うので、「今のものは、なま物だけに難しいね」と言うと、「卒論指導の岡室先生にも言われました」。「現代が良ければ、ヨン・フォッセあたりはどうだろう、べケットとも繋がるし、彼の出身地ノルウェイのイプセンとも繋げられるかな」など話していると、「すみません、お勘定」。声の主は、フォッセを日本で初演出した太田省吾氏が主宰した『転形劇場』の鈴木理江子さん。今はベケット作品を中心にリーディングをしているそうで、半端な指導をお聞かせしたか赤面の至り。

2004年09月01日

『故郷に帰ります』の潔さ

13時過ぎ、mailを読み始める。ゴルドーニHPの『GOLDONI推奨の本』『劇場へ美術館へ』の毎月一度の更新日、「面白い」「精力的に観てますね」「GOLDONI Blog、日記じゃないのにネタがつきませんね」などの便りが5通ほど。同様の電話も続く。14時前、亀戸文化センターの村田曜子さんから、舞台芸術財団演劇人会議発行の季刊「演劇人」の次号に掲載予定の原稿を(せっかちに)事前に読みたくてFAXで送って戴いている最中に、静岡文化芸術大学教授の伊藤裕夫氏が来店。「(依頼されている原稿を)僕はまだ書いていないんです」。研究会や会議、シンポジウムでお会いし、お話する機会は度々あるが、ゴルドーニの整理整頓の出来ていない(書斎のようだと言われること度々の)狭い応接ブースでの久しぶりの密談いや雑談、原稿執筆のお願いなど。
15時過ぎ、伊藤氏と入れ替わるように若い男女の二人組。腰を据えて戯曲を探しているので、いつものように「お茶が入りました」。昴演劇学校の2年生だという。ゴルドーニは劇団文学座と提携し、座員や研究生に本の無償貸出や新刊・古書・洋書の割引販売などの便宜を図っているが、ここ三ヶ月の来店者は、女優の本山可久子さん、演出の松本祐子さんや企画事業部のスタッフくらい。代わって四季や昴の若い劇団員や研究生がよく現れるようになった。女性の方に「半年後に、昴に入れなかったら、どうする」と訊くと、「昴が良いと思って学校に入ったので、選考されなければ他の劇団の養成所に移らず故郷に帰ります」。だらだらと演劇ヤッテルつもりの「演劇人」や、その予備軍が量産されるこの時代、こういう潔さに触れることは稀だ。彼らの精進、達成を祈る。

2004年08月30日

『劇場の記憶』

 午前中、ゴルドーニで9月HP更新のためのチェック作業。推奨本のページで、原典からの採録があり、チェックしていたら、ついつい本を必要のないところまで読んでしまう。12時20分、日比谷・帝国劇場の『ミス・サイゴン』の開演ギリギリに滑り込む。市村正親・本田美奈子・岸田智史の初演を観たのは12年前。ヘリコプターが出たり、キャデラックが浮かんだりの派手ではあるが、秀作とは言えないミュージカルだった。
 松たか子を観ながら、38年前のこの帝国劇場の開場時に、母のお供で来た時の場景を思い出していた。松の祖父・八代目松本幸四郎率いる東宝歌舞伎『二代目中村吉右衛門襲名興行』。今日の歌舞伎の第一人者・二代目中村吉右衛門誕生の舞台だった。休憩時に客席からロビーに出たら、この幸四郎夫人・正子さんが小走りに近づいて来て母に挨拶。今度は、そばの柱の陰に隠れるように立つ十一代目団十郎の未亡人・千代さんを見つけると、引っ立てるようにして連れてきた。
 中村歌六の子で門閥から外れての生まれ育ちながら、一代で名を高めた名優吉右衛門の娘として何不自由なく、また歌舞伎の水で育った正子さん。七代目幸四郎宅の使用人として働き、後に十一代目との子(当代の団十郎)を成しても、親子ともに暫くは入籍・認知してもらえないというほどの、辛酸を嘗め尽くしたであろう千代さん。歌舞伎の世界では対照的な二人との遭遇は、短時間の一場だったが、今でも帝劇のロビーに立てば、鮮明に蘇る「劇場の記憶」だ。
 「劇場も歌舞伎も薄味だった」「でも、あのおば様たちの立ち居振舞いは芝居より面白かったでしょう」。この日が親子で最後の観劇であることを互いに意識しながらの、生意気盛りの子供とそれを受け留める辛辣な母とのいつものやり取りだった。
 その翌年の春、母は長患いの苦しみから解かれた。

2004年08月28日

ホールの誕生と芸術監督

猛暑の夏の土曜日は、本探しの人、私を尋ねての人は少なく、ゴルドーニのある神保町一丁目に僅かに残る路地の前を通る人影もまばら。夕方前、静岡文化芸術大学で教える、演劇評論の扇田昭彦氏が来店。昨日こけら落しが行われた足立区北千住のTHEATRE1010(センジュ、と読むそう。ロバート・アッカーマン氏は「テンテン」と言うそうだ。これを聞いてわたしは幼児語の「おつむてんてん」を思い出した。)のことなど伺う。氏は、明日オープンする、まつもと市民芸術館に、指導する院生たちを引率するご予定とか。
松本の館長・芸術監督は演出家・俳優で日本大学芸術学部教授の串田和美氏。このホールの建設の是非については、市長選挙の争点になったり、住民訴訟があったりで、串田氏は昨春の就任以来、地元での説明会に頻繁に出席、市民とのコミュニケーションの必要性を体感した稀有な演劇人か。他の劇場の芸術監督が商業演劇などの外部演出や、海外にまで出かけての出演などで、長期に劇場を空けたりするなか、劇場・ホールという大きな玩具をあてがわれたこどものようにはしゃぐだけの芸術監督とはひと味もふた味も違う立ち居振舞い。
日大で思い出したが、先週の土曜日にゴルドーニのリニューアルしたHPを見て初めて来店した芸術学部の学生は、今の大学の現状を、「学生も、教員も怠惰」だと嘆いていた。前期15回の授業の大半を休講にして悪びれない教員もいるそうだ。多忙な演出家だそうだが、その名前はつい聞き漏らした。

2004年08月27日

会う人みな師

店の開け立て、ご常連の元美術出版の森清涼子さん、来店。「ゴルドーニに見える若い人に」と美術展のチケットをたびたび下さる。いつも、最近探した本のことなど教えていただく。今日は、『田辺元・唐木順三 往復書簡』(筑摩書房刊、7770円)について。終戦直後の軽井沢での田辺元の暮らし振りの断片を聴かせて戴いた。
14時半、明治大学文学部教授の神山彰氏。以前に入手された、北村喜八宛ての二代目市川左団次、その妻の甥・浅利鶴雄氏(劇団四季の浅利慶太氏の父)、河竹繁俊氏からの挨拶状など十点ほどを見せて戴いた。今日は、昭和三十年代までの日本映画に残る、新劇や歌舞伎・新派の俳優たちの演技の『型』についての興味深いお話。16時過ぎ、「ついつい長い時間話し込んでしまう」と仰りながら店を出られる。
森清さんからは美術・文学の、神山さんからは歌舞伎・映画の講義。毎日のように、本を探しに、あるいは私を訪ねて見える人々が、私の師になる。有難いことだ。
17時半頃、小柄な白人女性が本でいっぱいになった大きなバッグを背負って来店。「歌舞伎の身体論」辺りの本を探しているという。ブルガリアの大学で教え、ロンドン大学の博士課程に学び、立命館大に留学中という。その京都から本探しのために東京中の書店をまわって歩く彼女に、この国の同学の徒、あるいは演劇はどう映っているのだろうか。

2004年08月26日

『チョン・トリオ』演奏会

涼しくなったせいか、ご新規、あるいは二度目という方々の来店が続く。そんなさなかに翻訳家の安達紫帆さんから電話。つい十日ほど前にもお父様の法要の帰りに寄ってくださった。「GOLDONI Blogを面白く読んでいる」と仰る。急ぎの調べごとのため、電話で新国立劇場に勤める劇団の先輩を煩わせる。ニ十数年前の公演についてのことがらだったが、すぐに折り返しの電話で教えてもらう。忝し。17時過ぎ、舞台の映像記録も手掛ける祥林舎の一盃森仁志さんが『舞台映像アーカイブス』についての意見交換のため来店。「かつては演劇のざわめき、演劇の空気のようなものがその劇場の周辺にまで広がっていたように思うが、今ははみ出なくなった」と、鋭い指摘。街に演劇がこぼれていかない、か。東京の街場を離れ、地方の村落の行政立ホールでワークショップやら公演をしていても、同じことか。
19時前、初台のオペラシティコンサートホール。チョン家のミョンファ、キョンファ、ミョンフン三姉弟の『チョン・トリオ』演奏会。ピアノ三重奏曲、ベートーヴェンの『幽霊』、ショスタコーヴィチの第2番、ブラームスの第1番。スコダのピアノ演奏会でもお会いしたご常連の内山崇さんをお見掛けするが、席が離れていてご挨拶叶わず。客席には富裕な在日の韓国人とおぼしき人々が多く見受けられる。客席の中通路の後ろの13列中央(招待利用の特等席)には、竹内『自己責任』外務次官夫妻。『北朝鮮拉致問題』では大臣同様に後方での指揮に徹していてか、動静が伝わらないが、この日ばかりは後ろに坐る私たちへの迷惑顧みず、夫人に促されながらも派手なスタンディング・オベーション。それに引き換え、隣席で周囲に気を遣ってか遠慮勝ちに立ち上がった駐日韓国大使に、かの国の成熟を感じた。 

2004年08月25日

『桜の園』の第三幕

17時前、溜まった8月の新聞クリップを整理中、ここ数日の寝不足がたたってか、数分うたたね。そこに週刊・月刊雑誌記事のデータベース作成の魁、データムの高橋潔氏が来店。27日の金曜に、近くの神田須田町の蕎麦まつやで遅い暑気払いでもと、数日前に電話で約束していたが、ご本人が現れたので微睡んでいる間に金曜日になったかと慌てる。「生憎27日は、大阪出張になってしまった」ので、と断りを言いにわざわざ渋谷のオフィスからのお出まし。忝し。福田恆存、阿部謹也、黒田恭一などの本7点お買い上げ下さる。氏がデータムを設立する前に勤めていた新潮社の編集者時代、編集を担当した作家・江國滋さんとの九州取材旅行の思い出や、当時の同僚・井上孝夫さんの著書『世界中の言語を楽しく学ぶ』(新潮新書)の話などを伺う。ロシア語の項にあるのか、「チェーホフ『桜の園』の第三幕の幕切れのアーニャの台詞の井上君の訳が、非常に良いんだ」とも。『舞台芸術図書館』の立ち上げについて、助言を戴く。18時半、「もうこんな時間か」、と店を出られた。
GOLDONIのIT推進化の協力者が続いて来店。忙しい月末のそれも週央の夜の3時間、智慧を貸してくれる。忝し。

2004年08月23日

遅い盂蘭盆会

行き帰りの乗換駅のホームに吊るされた電光掲示板には毎日のように、「○○時○○分ころ、××駅構内で起きた人身事故のためダイヤが乱れています……」の文字が流れる。毎年、三万人もの自殺者があるというから、この東京では、毎日五人十人が自死しているのだろう。働きざかりの四十代、五十代の男性が多いという。演劇の世界でも、戦後だけでも久保栄、加藤道夫、関堂一、市川団蔵。知己でいえば、大河内豪氏、若狭隆人氏など。学生時代の友人では、幾人かが自裁している。朝な夕な、出会ったこともない人々のいたわしい死をきっかけに、青春期をともに過ごした、あるいは過ごし損なった友人たちを想う。学生時代には、聴きたくもない浄瑠璃や歌舞伎評を無理やり聴かせたりしたものだが、そんな私に、呆れたり、からかったり、苦笑した彼らの言葉はいつも、『君には演劇があっていいな』。合掌。

2004年08月21日

『本質は些事に宿る』

20日の14時。月83万ヒットの美術ポータルサイト、美術館.comの米山公紀氏、駅前コーヒーショップのアイス・ラテを手土産に、打合せのため来店。実弟の作家・米山公啓氏をクールにした、元美丈夫。役所広司を知的にした姿かたち。人生を間違えて演劇でもしていれば、舞台俳優かく在るべしの、一つの典型になったであろうほどのハンサムおじ様。かつては私の周りでも、たとえば大学の劇研でも、四季でもそれぞれ幾人かは、そういうタイプの男はいたものだが。最近、日本でも人気の高い韓国の俳優たちについての印象は、美男・好男子、知的、男っぽい、骨がある、などだそうだ。かつては日本でも称揚され、そして絶滅した「男」の価値。現代日本の映画・テレビ芸能界、歌舞伎・能楽は無論、そして現代演劇の男どもは、『韓流』ファンからすれば、汚く、足りなく、女々しく、軟弱、か。演劇の姿は、現代日本の象徴。山本夏彦の顰に倣えば、『本質は些事に宿る』。
創立90年の宝塚歌劇団が今だ命脈を保っているのは、日本人が好きな偉大なマンネリズムも一因だが、「宝塚音楽学校」を数十倍の競争率で選抜された娘たちの多くの、姿かたち、その後のダンスや歌唱の不断な精進の故ともいえる。
『舞台は選ばれざる者、励まざる者の立つ場ではない』。頭でっかちなだけで上達の遅い子供を叱咤した師のひとりは、そのあとに「がんこうしゅてい、ではいけません」。小学生の頃に最初に覚えた四字熟語は、稽古場でいつも言われていた、あの『眼高手低』。
選ばれ、励み、見識・品格を高め、鑑賞眼をつくり、技を磨く。「演劇の道」は険しく厳しい修行の道。一般の方にとっての行楽地は、「演劇の道」では修行の場。精進潔斎、女道否芸道精進、未熟児・海老蔵の彼女同伴ニューカレドニア篭り。あっぱれ。

2004年08月20日

『ゴルドーニ記念舞台芸術図書館』

昨日15時前。国際基督教大(ICU)の3年生・角前敦子さん、9月からのカナダ・トロントのウインザー大学留学を前に、履修科目の課題図書を探しがてら渡航の挨拶に。恐縮。アリストパネスの『女の平和』を探していると言うので、所蔵(非売)の岩波文庫版(絶版)を餞別にする。最近観た幾本かの舞台の印象など聴いたが、鋭く、的確、説得力のあるもので、舌を巻く。文化庁や助成財団支援による在外研修の多くは、本来の、文字通りの「留学」とはほど遠いものだとよく聞くが、角前さんの1年留学は、科目、履修駒数、単位数からしても本格的。相当にハードなものになりそう。健闘を祈る。
常連の佐々木治己さん、7日の神楽坂での公演を終えて、久しぶりの来店。急ぎのmail・電話連絡の用があり対応できない私に代わり、ぺージェント・児童劇を主唱した坪内逍遥のことなどを、コンパクトに、的確に角前さんの学ぼうとする「教育」に即してミニレクチャー。若く発展途上の青年たちの真剣で初対面ながら和やかなやり取りをみながら聴きながら考えた。夢の『舞台芸術図書館』でしたいことの一つは、第一線の演出家や研究者、評論家、制作者にしてもらおうと妄想している日替わりレファレンス・サービス。専門家や勉強中の学生、アマチュア演劇、学校演劇の人、そして一般の人を相手に、真摯に、そして優しくレファレンスが出来、年の数日くらいレファレンス役を買って出ようという志の高い、奇特な演劇人にどうしたら巡り会えるか。事業運営の資金協力を求めることも難しいが、最大の困難は事業の趣旨を理解し協力してくださる真っ当な演劇人を探すこと、か。

2004年08月19日

Samuel Frenchのカタログ

酷暑、熱風が吹く午後、勉強熱心な青年たちの来店が続く。昴演劇学校2年のF君、演劇実習のための、キャラクター4、5人の戯曲を探しに1ヶ月ぶりに来店。ある程度は海外戯曲を読んでいて、日本の現代戯曲が、自作自演でしか水準に成り得ないことは判っているようで、日本の戦前、あるいは海外戯曲についてのレファレンスがしやすい。急ぎのmail連絡があったので、アンチョコにしているSamuel Frenchのカタログを渡し、『これ見て探し始めていなさい』。
最近の新劇団の付属養成機関の卒業公演や実習公演でも、指導している担当の演出者が、自作自演型の戯曲を遣りたがる傾向があり、海外・国内の別なく、写実であれ、不条理であれ、未熟だが俳優として取組み甲斐のある秀作を稽古・上演したいと思っている生徒たちを失望させているそうだ。とくに卒業公演は、演劇を僅か2、3年だが学んだ彼らの大半が、劇団員に昇格出来ず、志半ばで散っていく最後の舞台でもある。また、それは彼らのその日だけの最高の観客である家族やアルバイト先などの上司や仲間、学校の友人にとっても、滅多にない観劇の機会。生徒の一生の思い出になり、普段演劇と馴染みのない人々に観劇の楽しみを身近で感じてもらえる貴重な時だ。そういう演劇生徒たちの人生の大事な節目であり、劇団の存在意義や社会的認知を獲得する重要な機会でもあるという認識は、劇団の幹部、制作者、演出者にはないのか。
堅気の世界の方が知ったら呆れるだろうが、演劇・舞踊・音楽の制作団体を対象に、税金が補助金として投入される施策が採られて8年、事業規模にしては過剰なほどの補助金の、被受給団体による不公正な経費支出や不正な経理処理の事例は、俄かには信じがたく、またあってはならないことだが、現場とはほど遠い私のところにまで毎週のように届く。文化庁や国税庁、新聞の社会部辺りには詳しいことが入っているのか。日常化していて、掛り合ってられない、ということだろうか。
深夜や早朝のアルバイトで授業料・生活費を捻出してでも養成機関に通い、結果として志し半ばで演劇を断念せざるを得ない多くの彼らの幸いは、情も智も矜持も持ち合わせない、律することを知らない演劇ヤッテるつもりの演劇業界人にならないで済むこと、なのかもしれない。

2004年08月15日

ダンス、そしてデパ地下

16時前、青山劇場に。大阪のシアター・ドラマシティ製作の舞踊公演『盤上の敵』を観る。大阪では3ステージ、東京では4ステージの規模。千秋楽のこの回は、1階では8割以上の入り。
18時半、日本橋三越本店。賀状・暑中見舞や中元・歳暮などのご挨拶をやめて久しいが、本を戴いたり、観劇の誘いの御礼に、持参したりお贈りするための菓子など贈答品選びは、今気付いたが、数少ない息抜きの一つかもしれない。日本橋や銀座の百貨店では、その筋の方が立派なお顔を崩さず、下着売り場で物色していたり、したり顔のグルマンが試食のたこ焼きを頬張っていたりで、下手な舞台よりは遥かに面白い。この日も、高級縫製の半袖省エネスーツの代議士が秘書たち、百貨店の幹部社員風の真中に。半袖スーツ氏、息子も参議院議員にして、家業いや代々で国に尽くす姿天晴れだが、彼のデパ地下・惣菜選び、精力的な政治活動のつかの間の安らぎ、私と同じ息抜きなのかもしれない。
19時半、GOLDONIに。9月のHP用の原稿書き。3日前からHP更新のご案内を四百通ほどe-mailで(bccではなく1通ごとに)送信しているが、今日も三十通ほどの返信を戴いた。ここでは今年の6月から推奨の本と、私の観劇鑑賞予定を紹介しているが、本のご注文が3名、同じものを見る予定だと仰る方2名。「あなたが薦める本なら、読む価値がある」「どんなものを観ているのか気になっていた」とのmailが重なり、恐縮。観劇鑑賞予定(タイトルは「劇場へ美術館へ」)は6月の掲載以来、「鑑賞ガイドとして参考にしている」という声を度々聴く。
明治大学文学部の神山彰教授から長文の返信戴く。私だけが読ませて戴く私信では勿体無い、示唆に富む内容。
DNA Mediaのプロデューサー・後藤光弥氏からも。昨夕、久しぶりに訪ねて呉れて、2時間話し合ったが、『発信基地としてのゴルドーニあればこそ…』の言葉。昨日も『ここは今時珍しいサロン』と。いつも私が教わるばかりで対話になっていないなあと反省していたところだったので、うれしい挨拶。

2004年08月14日

1、2分で帰る演劇系大学生

暑さがぶり返した午後、本探しの客、知人らの訪れはなく、頼まれていた企画書の推敲が捗る。
GOLDONIの新規客の大半は、専門書店の出店ラッシュが評判のこの一帯を知っていてか、ネット検索や新聞・雑誌等の紹介記事を読んでの来店だ。演劇ヤッテるつもりの若者たちの多くは、大学の先生や劇団の演出家である講師に言われて来店するのだが、もともと探している、あるいは読みたい本があるわけではない。旧知の教員や講師から、mail、電話、あるいは劇場で、「誰々というものが近々伺うので、宜しく」と丁寧な挨拶を戴くことがあるが、肝心の本人は、来店しても名乗るわけでもなく、本棚を前に呆然としたまま、本を手に取ることも稀で、1、2分で出て行く。コミュニケーション、文化、演劇など立派な名の付く学科・専攻の学生や、文化庁がその支援事業の対象たる「我が国の芸術水準向上の直接的な牽引力」の劇団の団員や研究生がその中心だが、その没交流、没教養ぶりは見事なものである。演劇の明日は、日本の未来同様に明るく頼もしい。
以前、読売新聞の都内版に6段の紹介記事が出たときは、『役者の卵 訪れる店』という見出しが災いして、呆然、1、2分滞在の演劇ヤッテるつもり組や、GOLDONIにはない「アニメ声優になる本」「演劇ブック」などの本を探すだけの若者たちが続き、閉口した。

2004年08月13日

『公演の招待扱い』其の二

一昨日からこの日記を掲載し始めたが、とくに「4月19日の『公演の招待扱い』を読んだ」との返事を十数人から戴いている。考えさせられる、という声が大半だが、招待の強要をしたのはどこの誰だと、あからさまな問合せも。
夕方、ご常連の内山崇氏が来店。協力されている『チェーホフ展』のパブリシティ記事と、6月29日に偶然一緒になった東京芸術劇場での「スコダ・ピアノリサイタル」の折に、内山さんが撮ったスコダのスナップ写真を頂戴する。「『公演の招待扱い』、読みましたよ」と仰って、手提げバックから出されたのは、ある劇場の観劇招待のFAX返信状。そこには十本近い作品のタイトル、出欠、同伴者(割引価格)の有無などが印刷されており、下段には内山さんが書かれた「当日、お支払いします」の一行。鑑賞の対象との緊張した、あるいは当たり前の関わりを学ばせて戴いた。

2004年08月12日

GOLDONIにも『韓流』

一昨日も覗いた脚本家の津川泉さんが、韓国の劇作家・朴祚烈(パク・チョヨル)さんを案内して見える。津川さんが昨年までソウルで学んだ折の先生の一人だそうで、私も戯曲や評論を読んだことはないが、お名前だけは存じ上げていた実績のある劇作家。1930年生まれで、日本語も堪能。日本と韓国の演劇の現状を短時間だが話した。日本ではここ十年、行政の助成や民間の支援が増えたが、その結果は、行政立ホールの自主制作や市民参加型ワークショップなどで演出や指導の機会が多くなったり、また大学の生き残りのために衣替えや新設の演劇系学科・専攻を持った大学の教員になった演出家・劇作家の余禄が増えただけ。助成・支援も、大学での演劇教育も、本来の舞台芸術創造の基盤整備とはほど遠いところにある、と朴さんに話した。彼はひと言、「厳しい」。津川氏の顔は引きつって見えた。夜は京都造形芸術大学教授の劇作・演出家の自宅に呼ばれている朴さんから帰りがけに戴いた名刺には、「The Korean National University of Arts(guest professor)」の表記が。朴さん、名刺は最初にください。

2004年08月07日

いまは亡き岸田森・草野大悟

午後2時、学会出席のため上京中の岡村和彦氏来店。パソコンのソフトを持ってきてインストールして呉れる。15時の約束の時間ぴったりにドイツ演劇研究の泰斗・岩淵達治氏。酷暑の中、私たちに下さる『ドイツ演劇・文学の万華鏡』『岩淵達治戯曲集・雪のベルリン タカラヅカ』を2冊づつ鞄に入れての御来店。恐縮。岡村君に専門の病理学についてのお尋ねや、私にGOLDONIの店名の由来や「舞台芸術図書館」構想を語らせていただくなど、これにも恐縮した。東大独文科の学生時代や埼玉大の助手として勤め、学習院大助教授の時のドイツ留学など、1940年代から50年代のお話を伺う。60年代後半の六月劇場で付き合いのあった、今は亡き岸田森・草野大悟の思い出も。70年代後半、岸田森に電話で、当時彼が同棲していた劇団の女優への事務連絡の伝言をよく頼んだことを思い出した。「彼女は寝ているので……」という彼の声も寝起きのそれだったが。
岩淵さんとの会話はあっと言う間に2時間半、17時半にお帰りになった。

2004年08月01日

六本木ヒルズ・森美術館

昨31日夜8時、六本木ヒルズ・森美術館『ニューヨーク近代美術館展』。最終日の前日の土曜夜、フロア入り口には当日券を求める客が百人前後と盛況。事前に券を用意していたので、並ぶことなく優先入場。クロークで鞄と背広の上着を預けようとしたら、係の女性、「中は冷えているので、上着は着られた方が…」と親切。入ってすぐに感じたことは、効きすぎの冷房、美術館とは思えない喧騒。夜景目当てのついで鑑賞の若い二人連れが大半。到るところで抱擁と私語が交わされる。子連れの母親も接吻中の男女の前を恥ずかしそうに子供の手を引っ張る。停止線の手前1メートルくらいで観ていても、携帯片手、お手々繋いでのお猿さんたちは、私の前を平然と、そして展示品を横目に急ぎ足。係員のチェックは、停止線を越えた人への注意だけ。
「落ち着いては観させない」「観客にマナーを強いない」新しい美術鑑賞の提案か。

2004年07月08日

連日の観劇

俳優座劇場で、フガードの「ハロー・アンド・グッドバイ」の初日。劇場招待客や新劇好きの高齢者に混じって、久世星佳目当ての、俳優座劇場新規客、北村有起哉と同類の怪優、怪タレント希望者で満員の入り。新劇運動の拠点築地小劇場を規範とする同劇場だが、芸能界出身者だけで舞台を創るなど、築地よりはるかに成熟。
5日にオペラ「カルメン」、翌日はブライアン・クラーク「請願」を観に新国立劇場に、昨夜はオーチャードホールで「42ND STREET」、とジャンルの違うものを続けて観た。この苦行(?)の一番の収穫は、劇場のロビーや観客層の違いをまざまざと感じられたことだ。

2004年06月05日

演劇大学

ご常連のMarlie Vさんから電話。アメリカの大学院の演劇科で学んでいるお嬢さんが、秋に大学で上演するノエル・カワードの原書の問い合せ。「Amazonは?」と訊ねると、「演劇書はまずあなたに確認してから」。ここ3月ほどご無沙汰だが、見える時はゆったりお茶を喫しながら、アメリカの演劇事情や、演劇教育のあり方などを話題にする。以前に、お嬢さんがシカゴ大に入る時、大学院をワシントン大に決める時に、親と子がそれぞれに全米の大学の実情を深く細かく調べる様子など、伺ったことがある。
日本では、演劇、コミュニケーション、文化などの学科や専攻の、演劇実習を専らする学生の大半は、基礎学力不足、修学意欲喪失のまま入学し卒業する。当事者である本人も、高い修学資金を負担したであろう親も、大学受験、あるいは卒業後の進路についても、大方は無関心だろう。東京芸大の演劇学科構想、新国立劇場の演劇学校構想など、耳にすることもあるが、海外の演劇大学のカリキュラムの調査ばかりでなく、現役の演劇人の生活実態や意識調査や、修学希望者層の生活環境や芸術文化についての関心度などの予測も重要だろう。

2004年05月07日

講座『日本の近代演劇』

ご常連の内山崇さん、古書会館での即売会、岩波ホールでの映画鑑賞を楽しんでのご来店。今日はロシア文学者の池田健太郎氏(故人)との少年時代からの交友を伺う。内山氏は年に幾度かのオペラや演劇、クラシック音楽鑑賞中心の海外旅行から戻られた折、本やパンフを手土産にお越しくださる。氏との会話では、日本の演劇のことは一切出ない。
18時過ぎ、若い常連が続く。今晩から始まる亀戸文化センターでの、明治大学の神山彰教授の講座『日本の近代演劇』の受講者たち。18時20分に店を閉め、金魚の糞のようになって、お茶の水から亀戸へ。

2004年04月30日

『悲劇、その謎』

佐々木治己君がアート・マネジメントの若き実践者・柿崎桃子さんを伴って来店。昨年の「ハイナ・ミュラー・フェスティバル」のことなど伺う。
入れ替わりに、福岡の大学で病理学を教える友人の岡村和彦氏が前触れも無く現われる。彼の先月の来京の折、小石川・本郷辺りを散歩した時、本郷の和菓子の老舗「壺屋」の在りかを教えたが、この壺屋の羊羹を手土産にして呉れる。彼、ノーマンド・バーリンの『悲劇、その謎』(新水社刊、品切)を買ったので、このHPに書評欄(構築予定)を書くよう勧める。

2004年04月27日

「劇団の人」

店の開けたて、神田村のご常連や、休講になったからと言って半月ぶりに尋ねてきた国際基督教大(ICU)の3年生など。
第三エロチカの川村毅さんが小学館『せりふの時代』の奥山富恵さんと。5月からの公演『クリオネ』のチラシを持っていた川村さんにICU嬢、「劇団の人ですか」。川村さんたちが帰った後、秋からのカナダ留学の履修テーマの相談を受ける。この春から見えるようになった明治大学演劇専攻3年の松本修一君。しばらくして、関東国際高校出身の田口裕理子さん。松本君に明治大での講義のことなど訊く。
劇団四季宣伝部のWさん、同僚の営業部Nさんに店の事を聞いて、月末に辞める同期の社員に贈る本を探しに初めて尋ねてくる。「劇団(四季)の(OBの)人ですよね」。

2004年04月23日

THEATRE1010

ご常連の北川米喜氏(大阪大学プラズマ研究所)へ返信。京舞井上八千代、日本舞踊の花柳寿応のことなど記す。北川さんはご出身が京都なのか、あるいは科学系の研究者に多く見かける芸能への造詣の深さを感じる。午後、店をアメリカ戻りの演出希望の青年、小日向佑介君に頼み、9月オープンの「THEATRE1010」の内覧会出席の為、北千住へ。東京の生まれ育ちだが、北千住は初めて。そんな出席者が多いのだろう、大岡昇平『武蔵野夫人』の舞台になった武蔵野育ちの支配人・富永一矢氏の説明も、都心からの近さを強調。会場で、劇団四季の専務・佐々木典夫氏、新国立劇場営業部・花田敏男氏の四季の先輩と懇談。

2004年04月19日

公演の招待扱い

文学座の蔭山陽太氏と電話で。劇団公演の招待扱いの事など話す。文化庁や助成団体の審査の専門委員、紀伊國屋、読売、朝日などの演劇賞の選考委員の観劇実態についても。今は民間劇場に勤める劇団での同輩の話では、「新聞社の演劇賞の選考委員をしているけど、おたくの招待状が(私のところに)着ていない」と強要の電話があり、以来仕方なく招待状を送付しているそうだ。劇場関係者でもある者がそこまで弁えのない、卑しい行動をするとは俄かには信じがたい話だが。
「劇評家は役者衆、幕内の衆を自宅や料理屋に招いて一人前」と子供の時分に親に教わり、専門として演劇をするのも観ていくのも経済的に大変なことと知った。確かに明治から昭和十年代の劇作家や劇評家は今の御連中とは違い、随分と身銭を切って演劇と関わっていた。
このことは、批評の対象との緊張した関係を結果として保つことでもある。批評の対象と接点を持たないことで見識をみせたアメリカの劇評家たち、例えば、故ブルックス・アトキンソンは、いまブロードウェイの劇場にその名を留めている。

2004年04月15日

ベルリン演劇祭

立教大を卒業したばかりのTさん、Theatertreffenで観る作品の翻訳戯曲を調べるため、久しぶりの来店。何点かは手持ちのものがあったが、タイトルすら不明のものもあり、版元の知己の編集者や、ご近所の取次・人文社会科学書流通センター、ロシア専門のナウカ書店さんに走って、教えを乞う。
海外の大学(院)への留学や、観劇旅行の準備にGOLDONIを尋ねて来る人は、このTさんのように開業以来3年半で50人は下らない。その中には、文化庁の海外留学制度に応募したり実際に派遣された人はほとんどいないようだ。

2004年04月10日

土曜夜の神保町散歩

カーテンコールの小林秀夫氏、ドイツ演劇研究の山下純照氏、早稲田大や明治大の演劇学専攻の学生たちが続いて来店。「神田村」のご常連数人が覗く。店が暇だと思い、午後の早い時間から遊びに来ていた、友人の西村幸久君と、学会の出張で来京の従兄弟のN市記念病院内科医師・伊藤直也氏、来客の多さに驚く。
閉店後、近所の『天麩羅いもや』『スターバックス』と、若者のようなコースで夜の神保町を案内。

2004年04月09日

劇団民芸『巨匠』

夜、俳優座劇場で、『巨匠』(木下順二作、守分寿男演出、大滝秀治主演)。観客は友の会会員などの高齢者が大半。高井有一さんと遭遇。民芸をよく観るそうだ。新劇団の公演を観るような作家は、この時代に何人いるのだろう。

2004年04月01日

内田光子ピアノ・リサイタル

夕方、外出から戻るところで、DNA Mediaの後藤光弥氏と出会う。「昨日、内田光子(3月31日、サントリーホール)を聴いて来た」と言ったら、「僕も」と握手される。氏は29日のベートーヴェン最後期ソナタ3作も聴いたそう。クラシックのホールで演劇関係者に出会うことは無い。何年か前、ウゴルスキーのピアノ・リサイタル(紀尾井ホール)で、川本三郎さんと席が隣り合わせになって、互いにビックリ。
「最近は演劇を観なくなった。ピアノはいいねえ」。こうして、若いときに演劇に馴染んでいた人々でも、四十代五十代になれば演劇から離れていく。