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2005年06月 アーカイブ

2005年06月04日

『草桔梗 蔵俳の碑へ 通う径』(小汐正実作)

昭和47年6月4日の午後、四国一周の気ままなひとり旅を満喫していた大学三年生は、それまでの僅か二十年の人生でもたぶんもっとも緊張と敬虔さが混じりあった複雑な心境で、船のデッキに立っていた。

× × × × × × × ×

昭和41年6月5日の朝だったか、その翌年春に亡くなった母が、読んでいた新聞の社会面を広げたまま黙ってその場を離れた。私は訝しげに母を目で追い、そして新聞を手にした。そこには、歌舞伎の老優の入水を伝える記事が大きく載っていた。私の曽祖父が九代目市川団十郎の義兄ということもあり、母も戦前から親しく行き来していた海老蔵後の十一代目団十郎(堀越の治雄叔父)が半年前に亡くなったばかりで、老優の訃報に接して、悲しみが募ったのだろうか。十一代目を思い出したのか、自身の間近に迫った死を思い、記事の続きを読めなくなったのだろうか。
その年の4月、歌舞伎座での彼の「引退披露興行」と銘打った公演で、『助六』の髭の意休を観たばかりで、(この老優を偲んで作家・網野菊が書いた『一期一会』という短編の中に書かれていたかも知れないが、自身の引退興行で殺される役を演じるということは如何なものだろう)芝居で殺されたその彼が自殺をしたということに、大きな驚きを感じた。
老優はこの引退興行を勤め上げた翌5月、念願の四国霊場八十八ヶ所の巡拝の旅に出て、それを無事に済ませて小豆島に渡り、この島の霊場四十八ヶ所をも巡拝し終えて、この地の宿に草鞋を脱いだ。そして一泊したあと、翌日深夜発の船から暗い海へ身を投げた。デッキに靴が揃えて置かれており、覚悟の自殺とも報じられた。享年八十四であった。
老優の七回忌にあたる47年6月4日を、彼が乗ったと同じ時刻の船の上で迎えようと、一週間前から四国に入った。徳島では大学の教室や図書館、学生食堂に闖入、高知・桂浜では憧れてもいない坂本竜馬に、松山・道後では浴場で機嫌の良い漱石になりきるという、いかにも凡庸な大学生の気楽気ままなひとり旅だった。弘法大師との同行二人のお遍路さんと数ヶ所の札所で出会い、食堂で昼食をともにしたりした。それぞれが思いを胸に秘めながら、決して安楽とは言えない巡拝の旅の途中のことで、遍路ではない暢気な大学生の旅の目的が、6年前と同じ季節、同じ遍路道を歩み播磨灘に消えた老優を偲ぶものとは、お遍路のどなたも思い及ばなかっただろう。
老優のこの世の最期の泊は、質素で落ち着いた宿だった。島の案内所ででも教わったのか、偶然に見付けた宿かは判らない。人柄も芸も地味と言われた老優にとって、自分の質に似たこの宿で過ごした人生最後の一日はどんなものだったのだろう。

× × × × × × × ×

昭和47年6月4日の午後、神戸に向う船は混雑していて、デッキにも大勢の乗客が出ていた。私は老優が身を投げた海に、乗船前に用意していた草桔梗の一枝を投げ入れ、手を合わせた。宿の脇にひっそりと生えていた、背の低い、花房が1センチにも満たない青紫の、目立ちはしないがきれいな草桔梗は、死への旅に赴く老優の目に映っただろうか。
今日6月4日は、老優・八代目市川団蔵の39回目の命日である。


(私はこの年の夏、日比谷の図書館に通い、団蔵関連の資料を渉猟し、エッセイを書きました。その原稿は近々にこのホームページに載せる予定です。二十歳の若書きにして拙い文章です。ただ、この旅とひと夏掛けた原稿書きを終え、浄瑠璃の研究者になる夢を諦め、見識のある製作者に、そして良識のある劇場主になろうと思いました。爾来三十有余年、その願いは力足らず、いまだ成就していません。ただ、私にとっては自分の道を決めた小論だと思っています。是非ご笑読をお願いします。)

2005年06月19日

閉店まで三ヶ月を切った『GOLDONI』

演劇書専門GOLDONIは2000年9月13日に神田神保町に開業した。初めの3年ほどは、神保町と半蔵門の事務所を日に一度二度と往復したりの日常だったが、一昨年に事務所を畳んでからは、(GOLDONIは午後から開けるが)、早い時は朝の8時頃から遅い時は深夜までの15、6時間を店で過ごしたりしている。本探しの来店者や、私を訪ねての来客が続いたりすると、昼や夕の食事も満足に摂れないこともある。神保町での開店準備を含むと5年ほど神保町に毎日のように通っているが、体が疲れていても、GOLDONIにやって来る事は愉しい。今年に入ってGOLDONIに来なかった日はたったの三日だった。
GOLDONIの、私のこの先の展開はいま現在も決まっていない。ただ、演劇の基盤整備の一助にと、それも片手間のつもりで始めた務めだったが、想像以上に時間も手間も知恵も必要だった5年という時間と、貧しい私には厳しい経済的負担を重ねての書店経営を、どう総括するか。具体的にはどう活かすか、あるいはどう結着(落し前)を付けるか。夏までのこのひと月で考えを整理しようと思っている。
昨年の開業四周年の折や、新年のご挨拶でお送りしたmailや、取材を受けたムックや雑誌の記事を読んでか、閉店をご存知の方は、『店はいつで閉めるのか』と尋ねる。これまでは、『まだ、決めていない』と明言を避けてきたが、いま現在は、開業5年になる9月13日(九代目市川団十郎の命日である)までは続けようと思っている。石の上にも三年、というが、意地でも五年続ければ、あの世で遅参の挨拶をする折には、九代目は誉めては呉れまいが、労をねぎらっては呉れるかもしれない。
いまはそれだけを励みに、残りの三ヶ月を全うしようと思っている。

2005年06月20日

「閲覧用書棚の本」其の一。『左團次藝談』

GOLDONIの閲覧用の書棚にあって、貸出しをしていない本を、9月の閉店までに何冊かご紹介していこうと思う。
その最初に取り上げるのは、二世市川左團次著『左團次藝談』(南光社、昭和11年刊)である。
この著書の前半にある「左團次藝談」は、『日本人の自伝』(全25巻。平凡社、1981年刊)の第20巻『七世市川中車、初世中村鴈治郎、二世市川左団次』に採録されているので、地域の図書館ででも借りてお読み戴きたい。彼は明治13(1880)年生まれ。父初世左團次は幕末の名優市川小團次の弟子(後に養子縁組)で、後に明治劇壇を代表した、謂う所の「團菊左」の左、である。
百年ほど前の明治36、7(1903、4)年は、歌舞伎に激動激震が起こった時。2月に五世菊五郎が、9月には九世團十郎が、翌37年8月に左團次が亡くなるなど、江戸の歌舞伎を識る三名優が相次いでこの世を去っている。
この時、彼は23歳。名優左團次の実子で、市川家の弟子筋でもあり、「十代目團十郎を狙ってゐる」という噂まで立てられていたという(『左團次芸談』)。明治39(1906)年9月に相続した明治座で父の追善興行を行い、その12月、欧州へ演劇修業に出掛けた。帰国後、明治座の興行制度の改革を実践(失敗に終るが、当時の劇場内外の旧弊を改革するなど、現在の商業劇場の運営スタイルの原型を生み出したといえる)。そして、小山内薫と提携しての『自由劇場』の結成など、明治末年から昭和15(1940)年に亡くなるまで、常に演劇改革を主張し先導した。
十年ほど前に亡くなった、劇団俳優座の俳優で近代日本演劇史家でもあった松本克平氏の有名なスクラップ帳を50冊ほど入手し、読んだことがある。その中に、三世市川寿海が書いた毎日新聞の『藝道十話』という連載があったが、この二世左團次について、「日本の近代劇に夜明けをもたらせた先駆者」で、「歌舞伎俳優にしてはまれに見る教養人であり、まれに見る誠実の人」と評していた。人柄が良かったからか、進取の気性に富んでいたのか、伊藤熹朔、巌谷三一、本庄桂輔、北村喜八、浅利鶴雄、菅原卓などと野外劇を企てたり、七草会として知られた、池田大伍、岡本綺堂、岡鬼太郎、小山内薫、川尻清潭、吉井勇、永井荷風、山崎紫紅、松居松葉、木村錦花らとの交友など、ブレーンに恵まれた。
この『左團次藝談』を上梓した翌12年の5月、彼は第二次の自由劇場の旗挙げを宣言する。しかし、その3年後の昭和15年2月23日に亡くなる。功なり名を遂げた左團次だが、常に熱情を持って演劇の改革に向った彼にとっては、志半ばの死、であっただろう。
「しいて道楽といえば、読書と錦絵の収集」、「酒は一滴も召しあがらない。まったく歌舞伎役者とは思えぬ謹厳さ」(寿海)を崩さずに過ごした二世左團次の六十年の演劇人生は、比ぶべくもなくまた僭越至極弁えが無いと批判されるだろうが、私の範とするところである。


「往年、小山内君と自由劇場を起した経緯は自傳で詳しく述べておきましたが、日本の劇壇に対して刺戟を與へたい。演劇の向上に資したい。其進歩に寄與したいと考へたからでした。其頃としては、これが導火線になつて數年を出でずして、きつと良き演劇が現れる。劇壇も目覚しく呼吸をしてくるであらうと望んだからでした。ところが今になつてみても依然として同じことです。然し世間では、どうやら反響があつたやうに云つてくれました。外國では新劇運動を起した者は、反響があつたならば大概それで引下つてゐるやうです。アントワンも功成り名遂げて退いたし、ラインハルトも一仕事すると長い間休むし、スタニスラフスキイも今では隠居同然です。然し我國の現在とは事情が違ひます。我國の劇壇の現状では行詰りを感ぜざるを得ません。此儘で引込んではゐられなくなるのです。全く現在のやうなことをやつていて、これでいいのだと安坐をかいてゐられるでせうか。商業演劇としては勿論仕方が無いとしても、一藝術家として現在のやうな状態で安閑としてゐられるとしたら、私は全く不思議に思はざるを得ません。今のやうな状態では私は全く行詰らざるを得ないのです。私を大變に買被り過ぎての斯ういふ聲をも耳にします。左團次は大成した位置にゐる俳優であるのに、今更新しい運動を起すでもあるまいではないか。然し私は決して大成などはしてゐません。大成してゐるのだから、もうこれでいいと落着いてしまつてゐる人がゐるとしたら、それこそ事實上に於て行詰つてゐるのではないでせうか。『行詰り』を感ずるところにこそ『行詰り』が無いのではないでせうか。また、かういふ親切な忠告をも受けます。其人の好意は過去の自由劇場を役に立つた仕事だと信じてゐてくれるのです。さうして折角過去に認められた仕事をしたのに、今更第二次の自由劇場などを起して、もし今度失敗をしたら、折角の過去の自由劇場が臺無しになつてしまふのが惜しくはないのか。然し私は、そんなことは氣にかけてはゐません。自傳の自由劇場の項にも述べたとほり、藝術はもともと商業ではありません。損もなければ得もありません。新しい藝術上の運動を起すといふこと、ただ其事實だけに意味があるのだと信じてゐます。―『私は永久に昔の戦場から退く事は出來ないと思ひます。然し若し私が再び出陣するとしたら、私は新しい武器を提げ、新しい甲冑を着けて向ふでありませう。』―これはイプセンが千九百年にプロゾール伯へ贈つた書簡の一節ですが、私が第一回の自由劇場に上演した『ジョン・ガブリエル・ボルクマン。』をイプセンが書いてから此手紙迄四年。其『ジョン・ガブリエル・ボルクマン。』上演の自由劇場第一回の時から今迄二十八年。私の新しい武器、新しい甲冑も亦自ら異らざるを得ません。第一次の自由劇場とは、まるで別のものとして、新しくスタートを切りたいと思つてゐます。そうして今度は廣く演劇文化運動の為にも働きかけてゆきたいと願つてゐます。演劇に對する熱情は、炎のやうに、いつでも私の體を包んでゐます。否、私自身が炎です。これ以外には、私には、何もありません。……演劇に對する熱情……演劇に對する熱情……これ以外には、私には何もありません。」

2005年06月23日

「閲覧用書棚の本」其の二。『寿の字海老』

今回は、三世市川寿海著『寿の字海老』(展望社、昭和35年刊)を取り上げる。
寿海を識っているという、もっとも若い世代は、京都・南座か大阪・中座か新歌舞伎座で、あるいは東京の歌舞伎座で観ていた1960年代の少年少女だろう。私も、そのひとりである。
昭和41(1966)年6月に、瀬戸内海で入水した八世市川團蔵の晩年の舞台の印象は、当時小学生、中学生だった私には薄いものだが、中学・高校生の時分に観た寿海は、声が良く、格調がある老優として、そして何より九代目の系統の俳優であると言うこともあって贔屓にしていた(当時の子供までを贔屓にするほどの俳優だった)。寿海おじいさんのことを、「雷蔵の養父」と紹介されることが、子供の頃から嫌いだった。雷蔵さんに罪は無いが、「何て失礼な」と、密かに腹を立てていた。
小柄な年寄りが舞台では文字通り大きな大名優寿海になっていた。最後に観た舞台は、歌舞伎座での『寿曾我対面』の工藤祐経だったか。足が不自由になっていた寿海の姿は痛々しいものではあったが、これも座頭役者としての勤めであり、それでも、老いても消えない風格こそが大事、と少し強がりながら舞台を、というよりも寿海ひとりを見詰めていたことを今も度々思い出す。歌舞伎でも能楽でも現代劇でも、風格品格のない俳優しかいない昨今、寿海のことばかり思い出している。
寿海の書く先代幸四郎、言うまでも無いが今では先々代になる、七世松本幸四郎のことである。九代目団十郎の門弟で、長男を宗家の市川三升の養子に差出し(後の十一代目市川団十郎)、三男(後の尾上松緑)を六代目菊五郎に預けたことは有名だが、家の者には、この子供達を「坊ちゃん」と呼ばせなかったほどの躾の厳しい人物だった。「坊ちゃん」扱いを受け、芸能タレントや取り巻きと遊びまわる父親の後姿を見て育つのだから、警察の御用になるくらいは当然のこと。興行会社の経営陣をも家の郎党扱いする「バカぼん」ばかりの歌舞伎界になったのは、こういうかつての俳優の偉大さを、興行資本の社員も現役の歌舞伎俳優も、そして観客も、マスコミも識らないということもその一因だ。


「《先代幸四郎の教え》
不器用だとかなんだとか批評もされましたが、舞台の大きな役者でした。先代幸四郎さんの当り役は何といっても「勧進帳」と「大森彦七」です。特に「勧進帳」の弁慶は団十郎直伝の名品で千数百回上演した専売特許です。東宝時代思いもかけなかった「勧進帳」をやったことは、前にも書きました。初日の前、渋谷のお宅で午前二時まで掛って弁慶を教わりました。何といっても私は柄がなく、とても弁慶のニンにないので、この大役に恐れをなしていたのですが、幸四郎さんに「まずヒジを張って大きく見せろ」といわれたことが大変役に立ちました。問答のせりふ回しも懇切ていねいに教わりましたが、(中略)細かいコツをすっかり教えて頂いて、どうやら曲がりなりにも勤めることが出来たのも幸四郎さんのおかげです。この時には宗家の三升さんご夫婦や三津五郎さんにもお世話になりました。それから、昭和二十四年二月、私が現在の寿海を襲名した時、披露狂言として十八番の「助六」をやる時も直接教えて頂きたかったのですが、私は大阪にいましたので、東京へ行けず、大阪の藤間良輔さんに東京に行って貰い、教えて頂いたことを聞いて無事勤めたわけです。この時幸四郎さんは身体が悪いのにわざわざ立ち上って良輔さんに教えて下さり、帰りには「寿海君にくれぐれもよろしく」というお言伝まで頂きました。それから病勢がぐっと進んで間もなく、亡くなられましたので、私のために死期を早めたのではないかといつも心苦しく思っています。」

2005年06月27日

「閲覧用書棚の本」其の二。『寿の字海老』(続)

寿海の『寿の字海老』は、日本経済新聞に連載した「私の履歴書」と、芸談抄「楽屋のれん」、先輩俳優達を描いた「おもかげ」、の三部構成になっている。奢り気負い衒いのない平明な文章は、温厚、篤実な人柄が感じられ、容姿、風格、口跡良しの寿海の舞台を懐かしく思い出させてくれる。夥しい数の歌舞伎芸能タレント本が出版されるこの時代、この『寿の字海老』を読み直すと、上梓された昭和35(1960)年から今日までの、ほんの45年の歳月で、歌舞伎が、演劇が、寿海さんに叱られることを承知で大げさに言えば、日本が失ってきたものの大きさを実感する。
子供時分の一番の贔屓役者であった寿海が、演劇人として尊敬する二世左團次の脇役を長く勤めていたことを識ったのはいつの頃だったか。多分三十数年前の学生時分だろう。日本共産党の傘下劇団の前進座と袂を別った河原崎長十郎が、その後も中国共産党シンパとして活動し、郭沫若の『屈原』上演に奔走していた折、吉祥寺の前進座住宅に彼を尋ねたことがある。九代目團十郎の縁戚で、左團次や当時亡くなったばかりの寿海と一座していた長十郎の、見苦しいほどの狂奔振りが堪えられず、「ヘタでも歌舞伎を遣るしかないだろう」と諌言するのが目的、返答次第では天誅を加えるくらいのつもりでいた。初めて対座した長十郎翁は、長く政治に翻弄されたからか想像以上に頑迷で、残念ながら既に「歌舞伎」俳優ではなかった。日共とも中共とも無縁になって、「歌舞伎」を作るならば協力してやろうくらいの気持でいた自分が阿呆らしく、虚しくなり、おとなしく数十分で退散した。それにしても、齢七十の老優を叱り付けに行った二十歳の大学3年生、自分のしたことながら可笑しく恥かしく、あの時のことを思い出して笑うことがある。


「左団次さんのことは、いろいろ書きましたのでくどくは申しません。なんといっても私には一番思い出深く有難い人です。
「踊りの出来ない奴は役者じゃない」などと悪口もいわれましたが、やっぱり偉大な人でした。何せ五十何年も前から茶屋制度廃止を思い立ったり、自由劇場を創立して新劇運動をはじめたのですから、つまり、そのころから今日を見透していた人です。
現在「歌舞伎の曲り角」などといわれ、歌舞伎の不振が伝えられています。こういう時に左団次さんがいてくれたらと思います。
いつも黙々として何かを考えていた孤独の人でした。小言もいわなければ役の注文もしない人です。私など三十五年も長い間一座して小言らしい小言をいわれたのは、「鳥辺山心中」で坂田源三郎をやったとき「太田君、あんまり白く塗らない方がいいよ」と一度いわれたきりです。舞台稽古の時なども、新作物ですと型がないので私が「ここで右手をあげましょうか」と聞きますと「僕はどちらでもいいよ」といいます。この゛どちらでもいい"という時は気に入らない時で、実は左手をあげて貰いたいのです。そこで私は察して左手をあげますと、ニコニコ笑います。ニコニコ笑えば及第なのです。
もう一つ思い出すのは、前に述べた、ダンクローズ式基本体操からとって、新しい形を残したことです。まず「鳥辺山」の大詰、四条河原で、お染と半九郎が、死装束で出てくるところの「あの面白さを見る時は……」で、うしろ向きになり、半九郎がお染を抱きながら右手で舞台上手寄りの祇園町を指すところがあります。この差し方が変っています。こういうことは筆舌では説明しにくいのですが、普通踊りから来た型ですと、右ヒジを折って、手を返して胸のあたりへ持って来てから、サッと右へのばして指すのです。ところが左団次さんは無造作に胸から水平に斜め右上へ上げて指すのです。そんな型は今までにないのですが、無造作にやっていながら実に自然で優美に見えます。これなど明らかにダンクローズ式です。私も、左団次さんがなくなってから半九郎をやる時はこの型でやります。数年前京都の南座で、若手連中が「鳥辺山」の勉強芝居をやった時、私が演出のお手伝いをして、この型をしますと、武智鉄二さんが、「今の指す型は変っていますね」と不思議がっていましたので、ダンクローズの話をしたら大変喜んでいました。
「伊達政宗」という新作物をやった時もそうです。伊達政宗が部下の支倉六右衛門をローマへ使いにやるという筋の芝居で、左団次さんの政宗に私は支倉六右衛門をやっていました。大詰で政宗が「ローマへ」といって揚幕を指さすと、私の支倉がハッと目礼して幕になるのです。この時の「ローマへ」といって指さす型が、鳥辺山の月を指す型と同じで効果をあげていました。
岡本綺堂さんの「佐々木高綱」で、頼朝を罵倒する前のところで、高綱がイライラして、舞台の上手から下手をウロウロ歩き回る場面があります。初演の時は劇評で「動物園の熊のようだ」と書かれましたが、これもあちらの芝居の型をとり入れたものです。高綱がイライラした気持がよく現われていて、今も型として残っています。
「修禅寺物語」でも、頼家が夜討ちにあって、姉のかつらが手負いになり、夜叉王のところへ帰って来るところがあります。そこで夜叉王が驚いて「娘か」というのですが、ここなど普通ですと、身を乗り出して驚く程度です。左団次さんは「娘か」といって、しゃがんで両手をあげ、ちょうど殿様蛙が立ち上ったような形をしました。これもダンクローズの型です。
酒は全然ダメでした。若いころはよく、鳥屋、牛肉屋、天ぷら屋へ一緒に行きました。勘定は全部ワリカンでした。これはケチというのではなく、若い時からこの人の主義でした。
孤独でしたが、反面さびしがり屋のところもありました。神田甲賀町に住んでおられ、私など、遊びに行くと、奥さんともども大変歓迎してくれたものです。当時私は本郷三組町に住んでいまして、その後神田三崎町へ引越したところ、左団次さんはある人に「太田君は、今度近くなったからちょいちょい遊びに来るだろう」といっていたそうですが、私の方は出無精で、あまり行きませんでした。」

2005年06月30日

クラシック音楽鑑賞と贈答習慣

週に一度か二度の、そのたびに期待を裏切られ、俳優や演出の稚拙さばかりか、品格や矜持の無さまで透けてしまう、水準にない演劇の鑑賞で、身に付いてしまった穢れを振り払うための、月に一度有るか無きかのクラシック音楽鑑賞は欠かせない。その音楽会選び、チケットの購入には手間を掛けている。先日も、或るピアニストの、サントリーホールでの10月のリサイタルの優先予約が迫り、聴いたことのない彼の評価を知ろうと、GOLDONIのご常連で、年に数度はヨーロッパにオペラやオーケストラを聴くためにお出掛けの内山崇氏にメイルをした。その日の夜にはメイルで彼のエピソードなどをお教え戴き、翌日には速達郵便で、スクラップされている関連の音楽雑誌の記事などを送って戴いた。
毎月6桁に届く、私にとっては大きな額の赤字を積みながらの書店運営で、それも乏しい生活費から捻出する一万円前後のチケット購入だが、年長者をお煩わせしたりの検討作業、年に一度か二度の観劇や小旅行の計画にも胸弾ませる、真っ当な生活者のそれのようで、気に入っている。
九十年代の数年、大手の新劇団や劇場の同世代や若手の演劇製作者と、私や家の者が作る手料理を頬張りながら、事務所や拙宅で勉強会を開いていた。そんなことを覚えていてか、公演に招待して戴くこともある。何が災いしてか若い時分から、友人は少ないが知り合いは多いと言われること度々で、交流下手の接待好き、ホストひとりで4、50人規模のパーティもしてしまうほどの人好き。ビジネス・損得抜きで、生来のお節介がさせるのか、知恵を授けたりの機会も多く、そんなことの礼にか、公演に誘って戴くことも多い。年に多くても7、80回程の観劇のうちで、チケットを購うことは月に二度有るかどうかで、大半は招待状、無償で観劇させてもらっている。
そんな折は、心ばかりの(心配りをしているつもりでもあるが)季節の果物や菓子などを手土産にしたり、観劇の後日に送っている。そんな贈答品選びに、出費の嵩むGOLDONIの運営を案じる親族や親友から恵んでもらったり、安く頒けてもらったりのプリペイドカードや商品券を持って、週に一度は、日本橋や銀座の百貨店に出掛けている。長らく、中元、歳暮など欠礼している私でも、贈答文化の中で暮らしているなとつくづく思うが、これはまた別の話だ。
手土産を持っての観劇、ただ、借りを作ることが嫌いなだけでなく、生来の潔癖さが、ということでもないが、只見をしている自分が、チケットを購入して観劇する一般の観客に後ろめたく、ましてや、税金が投入されている公共劇場・ホールや、国の助成金を得ている劇団などの公演を、無償で見せてもらっていることに、内心忸怩たるものがあるから、せめてその気分から逃れたい、誤魔化したい、というまったく自分本意の行為、とも言える。
いつものフレーズでお生憎様、新聞の演劇賞の審査委員だからと、上演劇場・団体に招待を強要して恥じない「文化人」、劇団四季は招待状を寄越さないと何のつもりか自著に書く天晴れな「評論家」、大学の教え子なのか若い娘を伴い、この者のチケットまで招待扱いを強いる、同じ新聞賞の審査委員などを兼ねる「大学教師」などは論外だが、自腹を切らずに鑑賞し、あまつさえ批評もしようと言う厚かましい批評家気取りのように、無論手ぶらで来場、招待観劇の返事もせずに現われたり、遅刻しても平然、席が悪いと文句を言い、終演後には、飲食の接待は当たり前の、彼らの日常と意識。決してマネの出来ない薄汚さは、今の演劇やその製作手法に相応しいもの。
やはり、心ばかりの手土産持参、クラシック音楽鑑賞同様に私の矜持の為にも必要な、贈答習慣なのかも知れない。