ひと場面・ひと台詞
≪―10月の舞台から― 『元禄忠臣蔵』「最後の大評定」 作・真山青果≫
[序篇]
元禄十四年三月下旬の或る日。朝。播州赤穂の城下大石内蔵助良雄の屋敷。…幕あく―居間には大石内蔵助、昨夜は徹宵しらべ物などに従事したるものの如く、小机を据え諸日記などをその辺にちらして、訪問者に接見している。内蔵助この時四十三歳、温厚にして小柄なる人品、音声低くおだやかに、談話の間に少し肩をすくむる癖あり、黒絹の置頭巾を額に置く。訪問者は岡島八十右衛門にて、中小姓兼勘定方をつとめて二十石五人扶持を給せらる。八十右衛門は、同志原惣右衛門の実弟にて、岡島家をつぎたる人、骨格たくましく膂力あり、極めて剛直なる侍、この時三十六歳。
内蔵助 一昨日、昨日―引き続いて御城内評議の模様を見るに、勇あり、義あり、かねて頼もしと見申したる侍どもは、みな故内匠頭さまの御無念を体し、吉良殿を憎み、御公儀の片落ちを怨み申し、籠城、切腹、あるいは復讐―みな侍として、最後の眉目をかざり、激発にも及ばんとする模様に見えた。無理からぬ次第、かく…あるべきはずのこととは思いまする。
岡島 はい。
内蔵助 が…。(暫く沈黙)表を潔うする者には、おのれを立てる虚偽も…随って生ずるものじゃ。また、卑怯未練に見ゆる者には、その卑怯未練の姿に隠されたる道理真実があるものじゃ。人の上に立つ者は、節儀の者のうちにも誠実をみるとともに、卑怯者のうちにも、その本然の誠実を見出さねばなりませぬ。
岡島 はい。
内蔵助 冷熱二人の勤めとはそれじゃ。役人たる者は、おのれに合せて人を見てはならぬ。好もしと思う者に虚偽を知り、憎しと見る者のうちに真実を見出さねばならぬ。殊に金穀出納にかかわる役人、面目の節義をねごうてはなりませぬ。外聞の至極を欲してはなりませぬ。これ誠、これ実、数字の正しきに従わねばなりませぬ。怒るな、悔むな、恐れるな―大変に処して、役人の心懸けじゃ。冷熱二人―篤と、御思案なされよ。
[その六]
内蔵助 十四日は殿の御命日。御城のさまも今日が見納め…、静かに月光を踏んで帰ろう。
瀬尾 は。
瀬尾ら三人は去る。内蔵助、低徊顧望して去る能わざるものの如く、暫く立ち停りて暗涙にむせぶ。この時、装置上の技巧によりて、舞台の道具を引いて城門は遠く遠景となり、下手の方に侍小路の長屋塀あらわれる。
その前の明き屋敷のところに、井関徳兵衛、具足櫃にもたれて泣き倒れいる。その側に莚をかけたるは、既に介錯を終りたる紋左衛門の死体なり。
月光は水の如く蒼く、四辺に降りそそぎ、地虫チロチロと鳴く。内蔵助静かに歩み来る。
内蔵助 (ギョッとして透かし見て)徳兵衛ではないか。
徳兵衛 (グッタリして顔も上げず)内蔵助どのか…。
内蔵助 そ、それは?
徳兵衛 倅だ。
内蔵助 やはり、思うに違わず―。
徳兵衛 内蔵助、徳兵衛の思いちがいと、明らかに聞かしてくれ。おれは慌て者、無分別者になってもいい。御預りの城を渡し、御厩の馬まで売るとは、こなた心中に秘めた大望があるのであろう。
内蔵助 ええ…。
徳兵衛 内蔵助、われとおれとは餓鬼友達だ! かならず何か、大望があるであろう。聞かせてくれ、聞かせてくれ…。(何か言い紛らさんとする内蔵助にかぶせて)艱難にあたって、光輝を増すは、おぬしの素質じゃ。必ずとも、このままに退き倒れる貴様ではない。何かある、何かあろう?(脇差をプツリと腹に突き立てて)死出の旅路を踏み出したおれだ。聞かせてくれ、内蔵助聞かせてくれ…!
内蔵助 吉良どのは四位の少将ながら、纔か四千石の小身者だ。たとえ上杉家十何万石を後ろに着るとも、さまで恐るる敵ではない。が―、公儀御贔屓の吉良家に乱入することは、公儀御政道に批判を加え、公儀御大法の片落ちを天下に向って非難することになるのだ。復讐は軽く、御政道の批判は難い。ここに思案があり、大事があるのだ。
徳兵衛 (刀をグッと引き廻し)耳が遠くなりそうだ。早くいえ、早くいえ。
内蔵助 (決然として)内蔵助は、天下の御政道に反抗する気だ。
徳兵衛 それでよし、おれは先に行く。後は頼んだ。
内蔵助 徳兵衛、やがて行くぞ。
徳兵衛 道草を食うな。内蔵助、待っている…。
徳兵衛、咽喉の笛をはねる。
月光蒼白。内蔵助、凝ッと親友の死体を見下したる後、衣紋の塵を払うて、静かに帰路につく。
真山青果著『元禄忠臣蔵』(上)岩波文庫1982年刊
『元禄忠臣蔵』「最後の大評定」
平成18(2006)年10月 国立劇場公演 大石内蔵助=二代目中村吉右衛門
初演 昭和10(1935)年 大石内蔵助=二代目市川左團次