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2005年08月 アーカイブ

2005年08月02日

蜷川『リア王』の二分された劇評

先月末に販売用の本棚を整えていて、蜷川幸雄著『NOTE増補1969-2001』が棚から大きくはみ出ているのが目に止まった。それを手にしてパラパラとめくっていて、巻末にある扇田昭彦氏の「蜷川幸雄の闘いと変化」という文章を読んだ。その中には、埼玉とイギリスで公演した『リア王』についての言及があり、蜷川がロイヤル・シェイクスピア・シアター初のアジア人招聘演出家であり、その「日本的色調を強く打ち出した蜷川演出に対して、ロンドンの新聞劇評は批判と肯定へと、評価が大きく分れた」とあった。「ガーディアンの劇評家マイケル・ビリントンは『蜷川新演出を酷評した批評家はなぜ半分しか正しくないのか』という異例の論評を書き、蜷川演出に批判的だった他紙の劇評家の不公平さをたしなめた」ともあり、このあたりの事情を書いたと思われる、私にとっては未読の参照資料をあげていた。
「不公平な」新聞劇評がどんなものであったのかが気になる。お越し戴いたり劇場ででもお見掛けしたら扇田氏に伺ってみようと思った。
今日、久しぶりに資料の整理をしていて、ある学会の研究集会での研究発表の資料に、この『リア王』についてのものがあり、巧い具合に、「二分した劇評」との括りで、彩の国さいたま芸術劇場、バービカンシアターでの公演での新聞劇評を載せていた。バービカンの劇評が、扇田氏が言われるところの不公平な劇評なのかも知れない。
その資料から、「二つの劇評」を採録させて戴く。
「細部に多くの新しい解釈を加えつつ全体を正統的にまとめる。より成熟した演出がなされている。(中略)主演のナイジェル・ホーソンはさすがに風格のある演技。前半はもう少し愚かしい激情がほしいが、狂気に陥ると、演技におかしみが生まれ、舞台が弾む。」『朝日新聞』1999年9月27日
「ああ、このプロダクションは、この万人の共感を呼ぶ才能あふれる喜劇俳優が、賞賛の歓呼の中で、引退の花道を歩む道を閉ざしてしまったのだ。(中略)英国の俳優と仕事をするとき、蜷川は弱点を露呈する。つまり人物解釈や、テクストの掘り下げよりも、明らかに演劇的効果を大切にするという点である。傑出した俳優たちは、何のよりどころも与えられず、自分の技術を頼りにするのみなので、時には別の作品を演じているように見えてしまう。(中略)しかし、この作品を本当にもて余していたのは蜷川なのである。」『インディペンデント紙』1999年10月30日

2005年08月03日

「閲覧用書棚の本」其の六。『岡本綺堂日記』

GOLDONIのホームページに、『推奨の本』というコンテンツを作っている。そこでは既に、この『岡本綺堂日記』、『明治劇談 ランプの下にて』と、岡本綺堂の二作を取り上げている。まだお読みでない方は、是非そちらもお読み戴きたい。
『ランプの下にて』は、何度読んだことだろうか。とくに「団十郎の死」の項の書出しは、諳んじているほどだ。
「わたしはかなり感傷的の心持で菊五郎の死を語った。さらに団十郎の死について語らなければならない。今日、歌舞伎劇の滅亡云々を説く人があるが、正しく言えば、真の歌舞伎劇なるものはこの両名優の死と共にほろびたと言ってよい。その後のものはやや一種の変体に属するかとも思われる。」
綺堂は、この両名優の後を追うかのように翌明治37年に亡くなった初世市川左団次の死を記し、「私の長物語も先ずここで終ることにする。明治の劇談を団菊左の死に止めたのは、゛筆を獲麟に絶つ"の微意にほかならない。」と筆を擱く。

今回は『岡本綺堂日記』を取り上げる。
日常を描く日記の、ほんの些細な一二行の記載からも、弟子思いの綺堂の姿を見ることが出来る。それは同様に、雇い入れられた女中たちへの、綺堂の主人としての優しさをも、日記から読み取ることが出来る。
震災のあった大正十二(1923)年の十二月三十一日を、
「今年は色々の思い出の多い年で、一々それを繰返すに堪へない。それでも私たち夫婦と女中おふみの身に恙なかつたのが幸福であつたと思はなければならない。十二月十四日から中野が来て、家内が賑かになつた。なんと云つても、一家の責任は主人にある。来年はますます勉強して、一家の者にも幸運を分たなければならない。」と一年を締めくくる。
主家にとっての使用人、女中も家族であるとの認識は、歌舞伎や舞踊などの古典芸能の「家」での師匠と住込みの内弟子の関わりを幼い時から知っている私には当然に思えるが、「女中」が「お手伝いさん」、「家政婦さん」「ホームヘルパーさん」に変わった今日、理解しにくいことかもしれない。
翌大正十三年の九月五日の項に、
「おふみは九時ごろに暇乞いして出てゆく。(中略)夜になつてますます大雨。おふみは午後七時ごろに自宅へゆき着くとのことであるから、汽車を降りてからこの大雨に困つてゐるであらうと思ひやる。新しい女中が来てゐるが、古い馴染がゐなくなつて何だかさびしい。」とある。
同じ九月の十七日には、
「女中のおたかも三十八度五分ぐらゐの発熱で、今朝は起きられない。おえい(妻・栄子)と女中に寝込まれてはどうにもならないので、中野は学校を休むことにする。」
翌十八日も、「おたかは今日も寝てゐる。しかしもう平熱、心配することはない」と案じている。
書生の中野(後の劇作家・中野実)が市村座に出掛けた夜、「中野は中々帰らない。若い女中をひとり起して置くのも寂しかろうと思つて、わたしも起きてゐる。十二時近いころに中野帰宅。初日で幕間が長く、これでも一と幕見残して来たのだといふ。」
妻と雇い入れたばかりの新しい女中が寝込んでいるこの数日に、以前働いていた使用人が、洗濯や炊事の手伝いに駆けつける。人情深い主人とその優しさに応えようとする女中たち。
こんな世界もなくなってしまった。

2005年08月11日

「閲覧用書棚の本」其の六。『岡本綺堂日記』(続)

『岡本綺堂日記』は、震災のあった大正12年の7月25日から大正15年(昭和元年)12月31日までの三年半分の日記である。
大正6年6月、綺堂の門に集まる青年達が『嫩(ふたば)会』を組織し、以来月に一度は綺堂宅で、劇談、レコード鑑賞、雑談をしていた。彼らの書いた戯曲の添削をしたり、例会の開催を通知したり、劇場からの招待券を送ったり、到来物を分けて遣ったりと、なんとも弟子思いの綺堂である。震災前から、そしてこの日記の書かれた数年で、何人かの弟子を病で亡くす綺堂だが、そんな彼の姿を想像して涙した。明後日は盆の入りである。

大正十二(1923)年十二月二十二日
「読書。夕刻から雨やむ。神戸の友成の父から郵書が来て、友成は十四日午後八時遂に死去したといふ。かれの運命が長くないことは予想されないでも無かったが、今その訃音を聞くと今更のやうに悲しまれる。年はまだ廿二、活發な青年であつたのに、かへすがえすも残念なことであつた。栗原、菊岡、友成、ふたば会は七八年のあひだに三人の若い会員をうしなつたのである。一種寂寥の感に堪えない。すぐに神戸の森田に郵書を発して、ふたば会を代表して友成方へ悔みにゆくやうに云ひ送る。中嶋にも郵書を発して、ふたば会から悔み状と香典を郵送するやうに云ひ送る。わたしは別に悔み状と香典を送るつもりである。
読書。友成のことが色々思ひ出されて、なんだか楽しまない。窓をあけてみると、空はいつの間にか晴れて、無数の星がきらめいてゐる。夜まはりの拍子木の音がきこえる。」
大正十三(1924)年五月十四日
「午前七時起床。おえいが草花を買つて来て、庭に栽える。私も手伝つた。九時過るころに、講談社の岡田君が来て九月号に何か書いてくれといひ、三十分ほど話してゐるところへ至急電報が来て、「トシヲケサシス」とあつた。中嶋俊雄は今朝死んだのである。十一日におえいと中野が見舞に行つたときには、ますます快方に向ふらしいといふので、いささか安心してこの二日ほどは見舞にも行かなかつたところ、病気は俄に革まったものとみえる。なんだか夢のやうでぼんやりしてしまった。
(中略)それからすぐに仕度して薬研堀の病院へ行く。中嶋は十二日以来、腹膜炎を発し、更に腎臓炎を併発して、今朝八時遂に絶命したといふ。今更なんとも云ひやうがない。残念、残念。続いて柳田が来た。遺骸は納棺して自動車に乗せ、五時ごろから病院を運び出して青山原宿の自宅へ送つてゆく。(中略)中嶋が初めて私の家の門をくぐつたのは、大正三年十月十八日の日曜日で、時雨かかつた薄ら寒い日だつたやうに記憶してゐる。それから足かけ十一年、英一の葬式の時、母の葬式の時、彼はいつもよく働いてくれた。それが今は人に送られる身になつたのである。そんなことを繰り返して、おえいも泣く。
十二時半就寝。雨の音が耳について眠られない。それからそれへと色々のことが思ひ出された。」
大正十四(1924)年七月十日
「雨は夕から一旦やんだが、八時ごろから又ふり出した。その雨を冒して、九時ごろに柳田の姉がたづねて来た。柳田は容態いよいよ危篤、もはや二三日を過すまいといふ。早晩かうなることとは覚悟してゐたが、又、今更に痛い心持になる。本人の不幸、姉の不幸、実になんとも云ひやうがない。姉は十時ごろに雨のふる中を帰つてゆ
く。そのうしろ姿を見送つて涙ぐまれた。十時半就寝。雨の音はまだやまない。大正十一年に菊岡、十二年に友成、十三年に中嶋、三年ひきつづいてふたば会員をうしなつた上に、今年も又もや柳田を失はなければならない。どうして斯うも不幸がつづくのか、全くなさけないやうな心持になる。」
同年七月十一日
「九時ごろから家を出て、浅草須賀町の明治病院へゆく。柳田は第八号の病室に寝てゐた。本人はこの二三日気候の変化が激しいために少しく弱つたと云つてゐたが、酸素吸入でわづかに呼吸をささへてゐる体である。次の間へ出て、柳田の祖母と姉に面会、持参の見舞金をわたして暫く語る。姉の話によると、病人の容態はいよいよ悪く、もはや今夜を過すまいとのことであつた。就ては亡きあとの始末などを相談して、十一時半ごろにここを出た。
(中略)今夜はふたば会例会で、山下が来て中元の品をくれ、つづいて中野が来て、中元の礼をくれる。やがて小林も来る。今夜の会合者は以上三人。柳田危篤のことを私から聞かされて、いずれも驚いてゐた。例に依つて劇談雑談、十時半散会するころには又もや驟雨がふり出した。
十一時就寝。柳田は今ごろどんな状態であるかと思ひやる。夜のふけるまで雨の音がきこえた。」

2005年08月15日

バイエルンの招待者は大統領ただ一人

この秋には、ドイツ・ミュンヘンからバイエルン州立歌劇場が来日、ワーグナーの『タンホイザー』、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』、ヘンデルの『アリオダンテ』の3作品を計9公演、同劇場音楽監督のズービン・メータ指揮のコンサートが2回予定されている。10月には、オーストリアからウィーン・フィル、ドイツからベルリン・フィルが続々と来日する。政府・自治体の助成金(税金)が引き出し易いからか、「日本におけるドイツ年」に便乗、海外演劇事情に疎い芸術監督や制作担当者が作品の水準も推し量れずに、仲介者などの言うままにか買わされた作品を上演、顰蹙を買うこと度々の新国立劇場を始めとする日本の行政立ホールの主催した演劇公演とは違い、クラシックの音楽会は、民間音楽ホールや招聘団体の企画だけに、チケットも高いが吟味された定評のあるものを聴くことが出来る。
今回は、このバイエルン州立歌劇場の話である。
今年の4月9日に東京・赤坂のドイツ文化会館で催された昭和音楽大学オペラ研究所主催のシンポジウム『オペラ劇場運営の現在』には、残念ながら出席できなかった。先月だったか、GOLDONIのご常連の内山崇氏から、このシンポジウムを聴講したと伺い、気になって早速に主催者である昭和音楽大学に問い合わせて資料を頂戴し
た。当日の講義録は制作中とのことで、後日に送って戴くことにした。
内山氏の関心も、また私の関心も、この日の基調講演者だったこの歌劇場の総監督(Staatsintendant)であるピーター・ジョナス(Sir Peter Jonas)にある。ジョナスについては、オペラ通でもない私でも長く知っているほどの人物なので、多くの方がご存知だろうから詳しくは書かないが、イギリスとアメリカの大学、大学院で文学とオペラ、音楽史を学んだのち、ショルティ率いるシカゴ交響楽団の芸術監督(8年)、イングリッシュ・ナショナル・オペラの総監督(8年)を経て、1993年からバイエルンの総監督を務める辣腕のディレクター。来年7月までの05/06シーズンを最後に引退、その後は音楽の世界と別れ、第二の人生を建造物や絵画の鑑賞、長距離歩行などで楽しもうとしているそうだが、最近は07年からのザルツブルグ音楽祭総監督の最有力候補とも言われている。
講義録が入手出来たら、改めてその詳細を書くつもりだが、今日は内山氏から伺ったお話で、最も興味深かった、ジョナスの経営改革についてのエピソードを書く。が、その前に日本の歌劇場である新国立劇場について書く。
新国立劇場の「平成16年度の事業報告」によれば、オペラ公演の有料入場率の最高は、野田秀樹演出による新制作『マクベス』の91.8%(しかし残念なことに、この『マクベス』の再演は、60.1%と記録的な不入りに終った。)。この『マクベス』は、客席数1,814のオペラ劇場での6回の公演なので、単純に計算すれば、総キャパシティは10,884席。これの91.8%は9,991席。差し引きすると893席が売れ残りか招待・非売の席だったことになる。初日からチケットは売り切れていたと聞いたが、それが事実だとしたら、仮に893席を一般料金21,000円で売ったとしても売り切れたことだろう。その合計額は18,753,000円である。2千万円近い大金を無駄にしていると思うが、毎年50億円を超える税金が投入される天下の新国立劇場にとっては、この2千万円は端金なのだろう。
オペラについての知識・造詣は無論のこと、またその企画力は当然として、歌劇場の統率、運営にも定見を持ち、采配を振るって来たジョナスが書いた、彼の最後になる05/06シーズンブックのはしがきの一部を英文そのままに引き写す。
At the time of writing,in early 2005,we are riding on the crest of a wave of public success supported by public loyalty.2004 again broke all attendance records and,yet again, showed increased financial receipts beyond our expectation.The extraordinary level of tikket sales and sponsorship income recently has shielded us from the slings and arrows of political fortune and misfortune.
いかに観客を増やすか、支援を受けるかは、公共劇場の命題である。国家・行政の政治的あるいは人事的介入をどう避けるかは、芸術性を高め独立性を保障・担保するためにも重要なテーマである。ピーター・ジョナスの歌劇場運営改革の一つに、公演の観劇招待という慣行をやめたことが挙げられる。招待状が届かなくなった人々からの招待の強要・無心には、『チケットはご用意します。(引き落としの)クレジットカードの番号をお知らせ下さい』とだけ答えたという。
そして現在、バイエルン州立歌劇場の招待者はドイツ連邦共和国大統領ただ一人だそうである。   
新国立劇場の演劇公演では、6月のベルリナー・アンサンブル公演だけでなく、不入りな公演ではチケットを大量にばら撒いていると聞く。オペラやバレエの主催公演では、1階2階正面の最高価格席に、この劇場の理事や評議員あるいは職員が座り、その何人もが寝入っている姿を度々見掛けるが、彼らがチケットを購って観ているとは思えない。劇場関係者に、舞台稽古でなく、本公演を最高価格席で観せる神経も、また観る度胸も私には無いが、こんなところからも改革の手をつけなければいけないだろう。
新国立劇場の改革を推進するといわれる遠山敦子理事長だが、その見識と辣腕を多いに期待する。

2005年08月20日

「閲覧用書棚の本」其の七。『藝のこと・藝術のこと』

 小宮豊隆著『藝のこと・藝術のこと』は1964年、角川書店の刊行である。彼には初代の吉右衛門を描いた『中村吉右衛門』(1962年、岩波書店刊)があるが、いずれこれも取り上げるつもりだ。
 小宮豊隆については、中学生の時分に目にした『夏目漱石全集』の解説や漱石の年譜かなにかで初めてその名を知った。『三四郎』のモデルだということも、そのころに親から聞いた覚えがある。東京帝国大学の独文科の学生時代から、後の物理学者の寺田寅彦などとともに漱石を度々訪ね、後に門人となる文学者で、能楽や歌舞伎、松尾芭蕉の研究者としても著名であるが、大学生だった私には、ストリンドベリイの『父』の翻訳をした人物としての記憶が新しい。
 今回採取する文章は、「歌舞伎の役者」である。1951(昭和26)年6月24日の執筆とある。54年前に豊隆が指摘した歌舞伎の危機的な状況は、今も続いている。先日も書いたが、九代目団十郎、五代目菊五郎、初代左団次などの「名優の死と共に真の歌舞伎劇は亡び、その後は一種の変体に属する」と岡本綺堂は述べた。歌舞伎は百年も前から危機的な状況なのかもしれない。2月12日の『提言と諌言』<『新劇』と『リアルタイム』>で書いたが、「今や崩壊したにも等しい新劇」との妥当と思える表現に過剰に反応、「根拠のない言葉の繰り返しにうんざり」させられたと新聞劇評に書いた演劇評論家がいるが、私が「歌舞伎の危機的状況」を指摘したら、同様に
 「根拠のない発言」として、歌舞伎俳優の番頭のようになっている演劇評論家あたりから非難があるかもしれない。
 歌舞伎俳優のスキャンダルや刑事事件が続出している。2月2日の『提言と諌言』<松竹に『俳優の刑務所訪問』を勧める>でも指摘したが、この先も愚かな俳優による犯罪やトラブルは増えるだろう。企業としての生き残りに必死の興行資本や無責任なメディアが作り上げた人気があるだけの、五十歳になってもちゃらちゃらした俳優に、子供の躾や弟子の指導が出来る訳がないだろう。還暦を迎える俳優は、遊び更ける倅を叱れず、その倅が仕出かした不始末を親として詫びる手紙で、己の孫にも当たる、婚外子として父親の無いハンデキャップを負わされた赤子と、倅に弄ばれた女性に、「お子様の成長をお祈りします」と書くような俳優が、倅にどんな躾をしているのか、弟子にどんな指導をしているのか凡そ想像がつくだろう。こんな天晴れな御仁を委員に委嘱している文部科学省の文化審議会、どんな文化を論じているのだろう。江戸歌舞伎の大名跡の襲名が約束されているこの倅が、催しなどに度々遅刻をしたり、芸能タレントと浮名を流し、競馬などの賭け事に興じている様を報道で知るにつけ、私の心配は現実のものとなるような気がしてならない。
 芸能としても制度としても組織としても機能不全を起している歌舞伎だが、国は伝統芸能としての歌舞伎を民間の一興行資本に任せず、文化財保護の対象として、本腰を入れて対処すべき時期に来ていると思う。

 「若い歌舞伎の役者の新作物を手がけることが、このごろの流行になりかけている。歌舞伎の芸の鍛錬はむずかしいし、在来の歌舞伎の脚本で人を動かすことは困難である。あまり骨が折れないで、何かしら新しそうに見えるものを演じた方が、評判になる公算が多いに違いない。新作物が流行しそうになっているのも、無理はないかも知れない。(中略)新作物を手がける以上は、どこか演技の上で新しいものが出ていたり、感情の上で新しい表現が出ていたりしなければならないのである。いくらかでも芝居になっている所は、実は歌舞伎の古い型を使っているようでは、何の為の新作物だか分らない。これにはやはり座方まかせでなく、役者が自分で脚本を選んで、自分で工夫し、自分で新しい芝居を作り上げようとする見識と情熱とが必要である。
 ストリンドベリは、役者はあまり本を読んだり物を考えたりしない方がいい。そうすると役者はとかく生意気になりたがり、芸に計算が見えたりしていけないといっている。そうもいえるには違いない、然し私は若い歌舞伎役者は、逆に、生意気にならないように、芸に計算が見えないように気をつけて、もっと本を読んだり物を考えたりするがいいと思っている。もっともストリンドベリはそう言ったあとで、役者は戯曲なぞは読まなくてもいいが、小説を読むといろいろ得るところがある。例えばディケンズなどは、戯曲作者よりも更に根本的に人間を捕え、無限に複雑な心理を覗かせてくれるのみならず、あらゆる人物の動作と表情とを実に豊富にまた実に見事に描き出していると、つけ加えた。人間と人間の心理と動作と表情との種種相に通じることは、歌舞伎役者のみでなく、一般の役者にとって必要欠くべからざることであるが、それには研究と反省とが常に心がけられなければならないことは言うまでもない。
 若い歌舞伎役者が新しくなりうる為に一番必要なことは、贔屓の客の機嫌をとるという、あの歌舞伎役者の生活から抜け出ることである。長い因習の力でそれが急には実現できないとすれば、少なくとも自分の生活を引き締めて、研究と反省との生活にできるだけ多くの時間を捧げることである。ふところ手をして据え膳に座っているのでは新しくなりようはない。この際私がまず勧めたいことは、例えばスタニスラフスキイの『俳優修業』のような本を、肚に落ちつくまで精読し通すことである。」

2005年08月23日

「閲覧用書棚の本」其の七。『藝のこと・藝術のこと』(続)

 東北帝国大学教授だった小宮豊隆は、第1次吉田茂内閣の文部大臣に就任した東京帝国大学教授で国際法の田中耕太郎が短期間兼ねていた東京音楽学校校長の後任として昭和21年に就任、同校が24年に東京美術学校と統合され、新制の東京芸術大学になるまでの、最後の校長でもあった。
 最初に「音楽と政治」と題した文章を採取する。56年前に書かれたものだが、そこに描かれる教育や文化についての政治家や役所の対応ぶりは、今と寸分違わない。歌舞伎の退廃・危機は百年越しだが、官が(政が、でもある)この国での個人の営み・生活のあり様(文化)全てに介入し、かつ結果責任を取らないという行政の姿は、薩長中心の官軍による明治の太政官政府の出現以来、百三十有余年続いている。

 「私はなぜ音楽学校をやめたか。
 衆議院の文部委員会で、芸術大学に邦楽を入れることが票決され、それが文部省への要請となり、校長としての私もそれに従わなければならないはめになったからである。しかも私はそれに従うことを欲しなかったし、また従うべきでないとも信じたからである。
 三味線というものは、一家団欒の空気を作るものであるとか、農村の盆踊にピアノやヴァイオリンが使えるかと論じた委員もあった。お前はアメリカに留学してアメリカの学問をしたからそういうことを言うのだろうとか、お前は洋楽心酔者である。然し洋楽はもう生き詰まっているのだぞとか論じた委員もあった。
(中略)元来学問や芸術の事は、責任を持たせて、それぞれの専門家に委せて置けばいいのである。委せて置けないから、文部委員会が口を入れるのだと言うのなら、致し方もないが、しかしそれならそれだけの見識を示してもらいたい。原子物理学を大学に入れるとか入れないとかという問題になると、さすが専門家に委せるより仕方がないと、誰でも考えるに違いない。しかしこと音楽に関する問題になると、浪花節を贔屓にする人間でも、都々逸が三味線にのる人間でも、みんなその道の通人をもって任じる傾向があるから、始末が悪い。
 日本の将来の音楽をどうするか、音楽の面で日本を再建するにはどうすべきであるかと言うような問題は、それしきの音楽の愛を超えた、もっと厳粛な問題なのである。」(昭和24年6月11日)

 私が持ち出しをしてでもGOLDONIを始めようとした理由の一つに、演劇製作の現場と、戯曲研究や文化政策などを研究・教育する大学とが乖離している現実に対して、そのことが理解出来ずか根本的な解決を図ろうとしない演劇界、文化行政やその周辺の者に対する批判があった。以下に取り上げる豊隆の文章に触れ、このテーマが実に長い間、この国に横たわる厄介な問題であることを再認識した。

 「在来の芸術家にはあまりに理論がなさ過ぎた。学者にはまた理論があっても、芸術が無かった。在来の芸術家は、理論を持たないのみでなく、理論を嫌う傾向があった。頭を使うと芸がまずくなると言った者さえあるくらいである。勿論技術を無視した理論は、芸術の足しにならないには違いない。然し自分の芸術を客観化して、何所に長所があり何所に短所があるかを知り、絶えず工夫しつつ自分の芸術を鍛錬して行くことを可能にするものは、理論であり、もしくは知性的要素である。正しい理論が正しく芸術家に働きかける限り、それは芸術家の発展を妨げるどころではなく、反対に芸術家を刺激して一所に停滞せしめず、不断の進展を将来するはずである。
 (中略)元来日本の社会には、学問的な雰囲気とともに芸術的な雰囲気に乏しい憾みがあった。戦争に次ぐ敗戦は、更にその傾向を著しくして、専門の学校の内部でさえも、そういうものは影を潜めてしまったというのが、日本の現状である。将来日本の芸術を育て上げる為には、まずこの雰囲気が濃厚に醸成されなければならない。その為には大学は無論のこと、既に高等学校においてその醸成が企てられなければならない。然しそのことは、何も知りもしないくせに、生意気に芸術家を気取る青二才ばかりを作り出すような、みっともない結果に陥ってはならない。此所では、過去の幼年学校、士官学校などのような、眼隠しされた馬車馬を作ることを目的とするのでなく、反対に「人間」「生活」「社会」などに対する感覚の窓の開かれた人間を作ることを目的とする。重要でもないことに得意になり、下らないことを誇りとするような視野の狭い者は、仮に初めのうちはいるとしても、次第に影を潜め、少なくとも考え方の自由な、感じ方の豊かな、若い学徒を生み出すことができるはずである。」(23年3月9日)

 「多くの芸術家は、感情が一切である、知性などはいらないという。感情のない芸術と言うものが考えられないことは無論である。然しその感情が把えられ、表現されてこそ、初めて芸術は成立するのである。しかもそれを把え、それを表現するものは知性を措いて外にはない。感情の把え方や把えたものの表現の仕方の深い浅い、広い狭い、高い低いは、知性の深い浅い、広い狭い、高い低いによってきまるのである。
 知性は一般に理屈と混同され易い。口ばかりが達者で、考えること言うことが芸術の表面を滑走してばかりいるのは、真の知性ではない。真の知性とは、何が正しく何が正しくないか、何が善で何が善でないか、何がほん物で何がほん物でないか、そういうものをはっきり弁別する力である。在来の言葉遣いをすれば、それは勘であると言えないこともない。日本の古い時分の芸術家の傑作は多くはその勘によって把えられ、その勘によって表現されたものである。 然し勘は浮動する。とって押えて始終磨きをかけていなければ、ともすると消えてなくなってしまう。勘を無意識の奥から曳き出して意識的なものにし、それを所有し確保し、それに磨きをかけて強力なものにし、必要な時にはいつでも出して使えるようにするものが、知性である。この知性の働いていない芸術は、痴呆の芸術であるに過ぎない。」(24年5月20日)

2005年08月26日

「閲覧用書棚の本」其の八。『ひとつの劇界放浪記』

岸井良衛著『ひとつの劇界放浪記』は、昭和56年、青蛙房刊である。大阪の松竹、東宝映画、東宝演劇、TBSテレビ、そして東宝演劇と渡り歩いたプロデューサーの岸井良衛は、文化学院在学中の大正15(1925)年、十八歳の時に岡本綺堂の門を叩いた。『岡本綺堂日記』の続編に、岸井はたびたび登場する。
昭和五年二月二十日の項には、「午後一時ごろに帰宅すると、岸井の父の辰雄氏がその義兄龍前君同道で来訪。その用件は岸井が来る四月から再び文化学院へ入学する事になったが為に、「舞台」の編輯に従事するを止めさせて貰ひたいといふのである。勿論、わたしに異議はないので、承諾。岸井は雑誌の編輯を口実にして、諸方を遊び廻つてゐたらしい。それでは当人の為にもならないので、かたがた編輯を止めさせることに決める。辰雄氏等は一時間ほど話してゆく。つづいて岸井が来たので、改めて「舞台」編輯から手を引くやうに云ひ聞かせる」とある。
大正15年、入門を許されたばかりの岸井は綺堂に郵書で、劇作の勉強の為に舞台稽古を見たいと申し出た。綺堂の返信が、この書に載っている。岸井は、「これには、いろいろの教えがふくまれているので掲げることにする。」と記しているが、これは現代にも、そして劇作家だけでなく、演劇製作者や俳優、演出家にとっても戒めになるので採取する。

「拝復 舞台稽古を見たいといふ御手紙でしたが、まあそんな事は止した方がいいと思ひます。由来、観劇以外に劇場に出入することは見合せた方がいいと思ひます。芝居は観客の一人として正面から見物してゐればいいので、それで十分に研究は出来ます。劇場の内部に入り込んだり、劇場関係者に接近したりするのは、努めて避けなければいけません。里見君(里見弴)が「芝居の魅力」と題して、真に劇を研究しようと思ふ人は決して劇場の楽屋などに入り込んではならない、その空気の魅力に因て堕落すると説いてゐましたが、小生も同感です。舞台稽古を見たり、劇場関係者と懇意になつたりして、劇場の内部の消息に通じたやうに考へるのは、いはゆる芝居道楽の人間のすることで、真剣に劇を研究する者の取るべき道ではありません。小生は門下生を堅く戒めて普通の観劇以外に劇場へ入り込むことを禁じてゐます。昔と今とは時代が違ひます。劇は書斎で研究すべき時代となりました。参考のため見物したければ、見物席から見てゐればいいのです。かへすがへすも芝居道楽の真似をしてはいけません。舞台稽古などを見たところで作劇上何の利益もありません。その時間を利用して書物の一冊も読んだ方が遥かに有益です。」

同書の中で、岸井は綺堂門下生の横顔を描く。そこにも綺堂の優しさが現れている。

「△次は山下巌さん
山口県の人で、先生の門下には大正十一年十月からということで、内閣印刷局につとめていた。たいへんに真面目な人で、ふたば会の集まりに一日も休んだことがなかったと先生は言われている。
昭和八年四月に下谷病院に腸チブスで入院した。どうも様子がおかしいということで、見舞に行く前に、何か伝言でもと、先生の家を訪ねた。果せるかな山下さんの容態はよくなかった。往きに寄ったので報告しなければいけな
いと思って、病院の帰りに先生を訪ねると―
きっと寄ると思っていた。
ということで、お腹が空いているだろうからと、カレーライスとチキンカツを取っておいて下すった。
腹をこしらえてから聞こう。
と言われて、応接間で一人で大急ぎで食事をした。
やがて先生がはいって来られたので、山下さんの容態を話して、「どうやら、いけないと思います」と、はっきり言うと、しばらくして先生は―
君、焼場は、どこが近いかね。
と言われた。意外な先生の言葉に、「えっ」と、先生を見ると、先生の目には涙が光っていた。
その月の十八日に死亡した。
お通夜から葬式から焼場まで、先生は山下さんの傍をはなれなかった。」

『提言と諌言』の8月11日<「閲覧用書棚の本」其の六。『岡本綺堂日記』(続)>に取り上げたが、弟子たちが毎年のように逝く。二十二歳で劇作家として世に出ることなく儚く逝った弟子を悼んで作った綺堂の句を、岸井は記録している。

「 七月十二日 柳田顕道逝く
 去年のけふは 燈籠買って 来りしに 」

『岡本綺堂日記』によれば、「去年(こぞ)の今日」、大正十三年七月十二日は、珍しく在京の弟子が揃い、「ふたば会」を催していた。その五月に亡くなった中嶋俊雄の新盆、夭折した弟子達を偲んだ夜だったのだろう。翌十三日、綺堂は急逝した弟子の墓参りのため、巣鴨の染井墓地、入谷の長松寺に赴く。師に付き従い参詣する弟子達の中に、柳田顕道、そして山下巌の姿もあった。