推奨の本
≪GOLDONI/2011年2月≫
『踊りの心』 尾上 松緑 著
毎日新聞社 1971年
(略)役者なんてうまいからいいっていうもんじゃないので、やはり雰囲気っていうことが大事なんじゃないでしょうか。
これがいえるのは、今いった市村のおじさん(十五代目市村羽左衛門=引用者注)は、むろんそうだけれども、先々代の高島屋、左団次さんという方がそうだったと思うんです。どっちかといえば無器用な方で……。ところが、これがライバルとして、六代目(尾上菊五郎)はつねに意識してたんですけれども、とうとう一緒にお芝居しませんでした。
これは、菊五郎のけい眼だと、私は思うんです。もう、あすこまで無技巧だと、のれんに腕押しでしょせん、自分はかなわない、とあの六代目に思わせたほど、左団次さんは大きな役者さんでした。
たとえば、先の歌右衛門さんなんていう方が出てきた場合に、そこへ菊五郎なり吉右衛門なり出ても、やはりたいへん小さくなっちゃうんです。年も違いますけれども……。
ところが、この左団次さんという方はその中間的な年齢ですけれども、でーんとぶつかるんですね。ということは、あまりに無技巧だから威圧を受けちゃうんでしょう。まあ非常に新しいものもよかった方でありながら、「毛抜」だとか「鳴神」だとか、現在われわれがやっても、みんな高島屋さんの作品ですものね。つまり、高島屋に強烈なライバル意識を持ってた師匠のもとに預けられてた私ですが、この「毛抜」や「鳴神」は高島屋さんがお手本というわけです。
今でも思い起こすんですけど、高島屋さんの芝居を見に行った時なんか、六代目が「どうだった」と真剣に聞きましたよ。忘れもしないあの「皿屋敷」で鎗を取っての幕切れね。さっと鎗をとってなんにもしないで、そのままたたたっ、とはいっちゃいますもんね。七三のところで、たいてい普通の人はちょっと形をつけるんです。またつけたくなるんですよ。そりゃそうですよ。花道長いんですから……。
「さっと鎗をとって、パッパッと持ち変えて、トントントンとはいっちゃった」と話しましたら「うん、そうだろう。そうだろう。」と、うなずいていました。わかるんですよ、高島屋のが。
だから、六代目が恐れたっていうことは無技巧で押してこられるということで、またそういう人を非常に恐れていました。
(「役者の主張(二)」 <先々代市川左団次>より)
まあ軍隊ですから、なぐられもしましたけど、これについて面白い話があるんです。
だいたい、私は死んだ団十郎の兄(十一代目市川団十郎)に子供の時、よくなぐられたんです。中の兄(八代目松本幸四郎)には、いっぺんもなぐられたことはないんですけれどもね。
これは東宝劇場での父の十七回忌追善興行の時に、口上の中でそういう話を私がすると、上の兄が、
「そんなこと、俺はおぼえがない」
って、こういうんですよ。
ところが、これは軍隊へ行かないと、わからないんです。私もなぐられたことはなぐられて、私をなぐった相手は全部覚えているんです。それで、なぐったこともあるんです。招集兵をね。全然覚えてませんもんね。だれをなぐったか。
上の兄はなぐられたことがないんでしょ。だもんだから、なぐったことは忘れてるんですね。だけど、私はやはり骨身にこたえてますからね。
ですから、軍隊生活というものをよくよくかみしめて考えてみると、なぐられたからこそいろんな兵隊っていうものの、いわば本当の下の生活とかその気持も、わかるんですよ。こっちは将校じゃありませんから、当番もしましたし、隊長のおふんどしも洗ったし、縫いものもしましたし、三助もしたしなんてことで、おそらく私の年代の連中はほとんどみんな、これをやってるでしょう。
しかし、まあ命をなくした人が多いんですが、さいわい生き残っているだけに、そういったことの経験から、歌舞伎というものをやっていく場合、下の人の気持だとかなんとかいうものは、まあわかります。
(「甲種合格三番」<なぐられた話>より)
こんな思い出もあります。中の兄は子供の頃から正義派でしたから、上の兄にとっては、なんとなくけむったくて、苦手だったんじゃないでしょうか。何かというと、トバッチリはいつも私に飛んできました。源平碁なんかしてまして、上の兄が負けてしまいますと、急に怒り出して、火箸かなんか持って、追っかけてくるんです。とんだ「金閣寺」の松永大膳ていうわけです。また、蜂の子を見つけて――あれ、うまいんですよ――いざ食べようという時になりますと、「金平糖やるから、お前は親の方を食え」なんていいだすんです。いくら金平糖もらったからって、親蜂を食うわけにゃいきませんからね……。
ある時、兄弟三人で渋谷の通りを歩いてますと、突然、上の兄が、
「おい、お前たち、おやじがもし、死んだらどうする。」
と聞くんです。
なにしろ時ならぬ突飛な質問ですから、中の兄も私も、
「そりゃ……急にそんなこといわれても……」
というばかりで、正直いって二人とも、何も頭に答えが浮かんできませんでしたから
「兄さん、あんたはどうするんです?」
と聞きかえしましたら、そりゃ物凄いあの大声で
「俺がわからないから、お前たちに聞いてるんだ!」
と、どなり返されたのには、まったく恐れ入りました。
(「家庭のこと」<兄弟のこと>より)