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二世市川左團次 アーカイブ

2010年02月25日

二代目市川左團次七十回の正忌に(続)

 ―俳優といふものは、大概、何某は誰に手引きされて、あれだけの役者になつたのであるとか、誰に引立てられて、あれだけの位置になつたのであるとか。と、いふことが普通のやうですが、一體、あなたは、誰の世話に一番なつてゐるのですか。
 「私にとつては、不幸か、或ひは幸か、さういふ人は、一人もゐません。自傳でも述べたとほりに、幼少の頃には九代目團十郎の舞薹も見てゐますし、その後、父が明治座を建てて九代目もそれに出演をしたので、少年時代にも親しく其技藝には接してゐますが、別に手を取つて教えを授けられたといふこともなく、父の手許以外には始めから出なかつたので、今かうやつてゐられるのも全く父のお蔭で、特に誰に取りたつてお蔭を蒙つたといふやうな人もゐないのです。さうして其父も非常な放任主義で、わざわざ教わつたといふことは僅か一度か二度しかありませんでした。」
 ―あなたには特に贔屓といふやうなものはありますか。
 「私には謂ふところの贔屓といふやうなものはありません。従つて、贔屓を訪問するといふこともなく、父も此點は同じで、團十郎には貴顕方の贔屓があるとか、五代目菊五郎には岩崎や何かといふ紳商方の贔屓があるとかいふやうでしたが、父には、さういふものはありませんでした。例へば平沼専藏氏が贔屓だと一時思はれてゐたこともあつたやうですが、これは父が平沼家の家政上で面倒をみたことがあつたので、さういふ關係から、明治座を建てる時に、幾分の出資をしてくれたので、然しこれも役者の所謂贔屓として出してもらつたといふのではなく、判證文でちやんと借りたので、父の没後、私が返濟をしました。父の贔屓に就ては、かういふことがありました。明治三十年の三月でした。明治座で「芽出柳翠綠松前」と「意中謎忠義繪合」を出してゐた時のことです。非常な不入で、大に困つてゐたところが、突然、時事新報に「是非、此芝居を見るべし。」と、云ふ意味の大きな廣告が數日間に渡つて掲載をされました。新聞に芝居の廣告などは、まだ珍しかつた時代なので、これが非常な効果を奏して、俄に景気を盛り返し大入滿員の盛況で千秋樂迄打ち續けましたが、誰が廣告を出したのか、いくら時事新報社に問合せてみても、ただ三田の一商人となつてゐると云ふだけで、まるでわからない爲に、どうすることも出來無いので其儘に打ち過ぎてゐたところ、後で、これが、福澤諭吉先生であつたと解つたことがありました。……かやうに、私の家の贔屓は、父の代から、眼立たぬ贔屓、隠れた贔屓、生真面目な贔屓で、私も訪問をしてまはるなどといふ贔屓はありませんし、また、さういふこともしませんが、十年以上も毎興行缺かさず観にきてくださるといふやうな只管に舞薹の上の贔屓はあつて、さうして、私は、これを全く有難いことに心得てゐます。」
 (二代目市川左團次著『左團次藝談』「問はるるままに」より)

2010年02月23日

二代目市川左團次七十回の正忌に

 およそ如何なる藝術家でも――例へば、畫家、彫刻家、音樂家等々、孰れも――自分の作品をば見ること、聞くことが出來るのであるが、ひとり舞薹俳優のみにあつては、此事は不可能である。此事は舞薹俳優にとつて不幸のやうに誤認をする者がゐるかも知れぬが、然し、實は、そこにこそ、舞薹俳優の存在の意義があるのである。
 現在に於ては、映畫があり、音畫があり、ラヂオがあり、蓄音器があつて、舞薹俳優と雖も、自分の科を見ること、自分の白を聞くことは出來るが、然し、それらに依つて演ずるのと、舞薹に於て演ずるのとは、其科白两者の條件が全く違ふべきであつて、それに依つて現されたものは、既に舞薹の上の藝ではないのである。
 自分は知恩院の野外劇の時に映畫に撮られたこともあるし、またレコードに吹込まれたこともあるが、それらを見ても、それらを聞いても、舞薹の藝との喰ひ違ひが明かに缺點となつて現れて、或ひは自分の藝の缺點が、誇張をされて現れてゐるやうにさえも思われて、まことに不快な念を抱かせられるものである。然し、それらに囚れて舞薹がいぢけては實につまらぬことなので、それらは、ただ参考以上に、こだはる必要は無いと思つている。
 舞薹の藝とは、即ち、直接に観客の前で作り上げながら見せて行く藝である。従つて、所演する劇場の建築條件や観客の立場などを考慮しないと自分一人だけでは良いと思つても、意外の失敗を招く場合が無いとも云へない。
 卽ち、舞薹の廣袤や其遠近や観客席の條件等を考へずに演じたならば、圓柱や薹座の高さ大きさを考へずに其上に立像を置くやうなものであつて、如何に實物大の立像であらうとも、圓柱の高低に依つて其肢體の大きさや平均が違つて見えるやうに、また劇場の繪看板でも、下から仰ぐものと、前に立てるものとでは、其肢體の平均が違つて描いてあるやうに、俳優の藝も、それらの諸條件に従つて批判の角度が違つて價値附けられるものであるから、そこが非常に六圖加敷いところなのである。(略)

 また役者の藝といふものは、脚本と、役者の頭と、役者の藝との三つが揃はなければ、傑作は出來るものではないと考へられる。脚本が良くても藝が下手ではいけず、役者の頭が先走つて脚本や藝がそれに伴はなくてもいけず、今の若い俳優達や、新劇運動に携つている俳優達の間には、頭が先走つて、藝のそれに伴はぬという失敗が屢々見受けられるが、此三拍子揃つた傑作と云ふものは、一代の間にも數あるものではなくて、一生に一度でも良いくらゐだと思つてゐる。
 また役者の頭や藝よりも、脚本の方が少し低いものでないと、藝を振ふことが十分に出來無いといふ場合さへもある。これは現在の我國の稽古の日取りや其他の點からきてゐるのであるが、小山内君との自由劇場の頃、世界の名脚本を演じてゐる場合に、稽古日數でも十分にあればともかくも、これが短時日であると、其脚本の力に抑へつけられ、頭の仕事の解釋にばかり囚はれて藝が追はれ勝になり、ただ演じてゐるに過ぎないといふやうな經驗をしたことさへもある。然し容易しい脚本を選んで、なるべく仕勝手の好いものを演ずるやうにといふ意味では斷じてないので、ただ頭や藝の届く範圍のものでないと、準備日數の十分にあるものでないと、其結果がどうかと氣遣れるのである。
 一代の名舞薹であるとか、其役者でなければ出來ないものであるとか、と、云ふやうな前述の三位一體の傑作は、一般の人々が見ても眞に推服をするものでなければならぬので、少數の識者は種々の事情を知つてゐて、そのハンデイキャツプもあつて褒めるのであるから、事情も何も知らぬ人々迄もが、眞に推服をするやうなものでなければ、やはり、本當ではないわけである。
 或る醫學博士に「醫者は何歳位が一番腕の冴えてゐるところか。」と、聞いたことがあるが、其名醫の答へるには、四十歳から五十歳まづ六十歳位迄が一番の盛りで、それからは、ただ今迄の名聲や堕力で持續をしてゐるやうなものだとのことであつた。自分は、これを聞いた時に成程と頷けたが、役者も亦確に同じことで、六十歳位迄で其以後は大概堕力で走つてゐるやうなものであつて、藝其物が圓熟をしたといふ場合は別であるが、やはり先づ四十歳位迄に名を爲さぬような人だと心細いわけで、それから六十歳位迄が、身心共に最も油の乗つてゐるところであらうと思ふ。
 従つて、これからの芝居を進めて行く上に於ては、若い人達が、徒らな賣名的行爲を避け、只管に精進努力をして、一路、演劇の爲に盡してくれるやうに望んで止まないのである。
 一言に天才と云ふが、努力の無いところには、決して天才は生れない。――と、信じてゐる。

 上記は、二代目市川左團次著『左團次藝談』(南光社 昭和11(1936)年刊)からの採録である。左團次は昭和15年2月23日に病没した。享年六十、俳優としては「最も盛りの歳」であった。

2009年11月27日

自由劇場百年の日に

 この自由劇場の組織竝に興行方針に就て左團次は次のやうに語つている。
 「自由劇場は常設の建物は無く試演の舞薹随時随所に定めると云ふ規則で、すべてを會員組織の團體にして會員の總數を興行資本主なり顴客なりに頼んで、新時代に適當なる脚本を忠實に演じて、新規に興る脚本の爲に、又新規に興る劇場の爲に、一筋の道を開かうと云ふ目的なのですから、どなたでも此趣旨に御賛成の方は、既定の會費を納めて下されば、會員になる事が出來る譯で、會員となれば別に見物料なしでお見せ申しますのですが、會員外の方には見物を許さないと云ふ定めにしてあります。猶自由劇場の第一の目的とする新らしい見物を作ると云ふ事に付ては多少腦のある興行人は既に考へては居るのですけれども、如何にせん商賣として興行する以上は、資本に對する利益を考へますから、歌舞伎座の田村成義君のお話にもあつた通り、金の猫と銀の猫とは値打の違う事は知つてゐても、只貰つた金でも無ければ、みすみす一般の見物に受けられない事と、みすみす不入なのとが見え透て居る事では、たとへ日本の芝居の位置が上ると云ふいい事にしても、儲けやうと思つて金を出して居る資本主に對して、興行師として頼まれた位置のものには出來ないと云はれて居ますが、是は全く無理のない所ですが、さう云つて居てはいつまでも新らしい脚本を紹介する事が出來ない譯ですから、そこで同志の人を資本主と見物とを兼ねた會員組織にして、聊か日本演劇界の爲に貢献してみたいと云ふ考へなのです。」

 この組織は、左團次が洋行中見聞して來たイギリスのステヱジ・ソサイエテイや、ドイツのフライエ・ビユウネや、フランスのテアトル・リイブル等に其範をとつた事は云ふ迄もないが、同時に其頃我國に萌芽を發した許りの産業組合竝に其根源をなす欧洲の協同組合の形式に甚だ似通ふ點の多い事は見遁せぬ事實なのである。
 この會員組織の演劇に就ては、前にも述べた如く、坪内逍遥の文藝協会も亦、其軌を一にするものであつたが、自由劇場にせよ、文藝協会にせよ、またフランスのアントアヌ一派ですら認識をしてゐなかつた残念なことは、それが藝術上の新しい運動であるといふ點にのみ心を奪われ、その組織こそは全世界に大變動を與へた協同組合組織の範疇に属するものであると云ふ事實を見落としてゐた事である。
 明治四十二年と云へば、我國の産業組合法に劃期的な大改正が加へられて、地方聯合會制度や中央金庫が認められ、購買組合が配給の他に加工をなす事を認められ、信用組合の豫約加入制度も許可をされた年である。
 若し此頃、協同組合運動者が演劇文化に對する正しい認識を持ち、又左團次、小山内薫等が協同組合運動の經濟史上の意義を認識してゐたならば、恐らく今日の日本劇界は根底から其内容を異にしてゐたであらうが、不幸にして此目的を同じうする两者が相識る機會がなかつた爲に、我國の自由劇場運動は單なる藝術的革新運動に終始してしまつたのであつた。
 然しながら、よしそれが單なる藝術上の改革に終つたにもせよ、日本の演劇史上に特筆大書すべき偉大な功績を殘したと云ふ點で、我々は自由劇場の名を永遠に忘れてはならないのである。
(「『市川左團次』松居桃楼著 1942年刊」より)

 自由劇場第一回の試演『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』(作:イプセン、翻驛:森鴎外、会場:有楽座)が行われたのは、1909年11月27日。百年前のきょうであった。

2009年02月23日

「新興院伎樂杏花日榮居士」

 ――彼が二千六百年を契機として實現せんとしてゐた計劃内容を、誰よりも、よく知つてゐた岡鬼太郎は、讀賣新聞紙上で、「まことに残念なことでした。友人として唯々丈の逝去を悼むばかりです。先代の『新しい表現』を受け継いで、苦境時代に處して仕事をするのにも、自分一身のほかには味方はないといふ信念で、松竹合名社時代に大谷氏と最初に結びあつて以来不屈不撓の奮闘を續けて来ました。世の中もますます變る時、順境に漸く達した丈に、元気を恢復して、じつくりと仕事をして貰ひたかつた。ただそれだけが残念でなりません。」と追悼をした。
 外務省の柳澤健は、「彼はわが歌舞伎を海外に紹介した第一人者であつたとともに、海外の新聲を我が劇壇に齎らした先覚者でもあつたのである。謂はば彼は我が劇壇に於ける唯一の國際文化人であつたと言つてもいいのだ。その巨木が今倒れたのである。名優サラ・ベルナールの死に対して、國葬を以て酬いた佛蘭西と國情の違つてゐる我國としてはたかが一俳優の死に対して、何もやつてやれぬことは自分でもよく判つてはゐるが、せめて國際文化の交流に関心を持つ者だけでも、心からの弔意を、彼の墓前に捧げる事にしたい。」と述べて居た。
 (略)會葬者は數千名に達し、劇壇文壇其の他あらゆる方面からの弔問客が限りもなく續いたのであつた。其の中でも前進座と新協劇團の全員が各劇團旗を推し立てて参列したのは、(略)単なる歌舞伎俳優にあらずして、我國新劇の開拓者である事を如實に物語つてゐたのであつた。
 (略)彼の精神は、常に演劇の為、文化の為に盡力する人々の血管のなかに、至誠熱情の脈博を、此世のあらん限り、人類のあらん限り、打ち續けて行くであろう。否、彼の人生に対する真摯な生涯の物語は、劇界のみならず、人生のあらゆる部門に活躍する人々にとつて、偉大なる亀鑑として永遠に語り継がれるに違ひない。
 彼の生涯は、俳優として藝術家として偉大であつたと云ふよりも實に人間として偉大であつた。彼は其の生涯を通じて我々に「俳優修業の道は、すぐれたる演技システムによつて技術を高めると共に、人間としての自己を磨くところにある。俳優には生れつきの才能、直覺力、勘のよさと言つたものも勿論必要ではあるが、それと同時に、智的な教養がなければならない。殊にこれからの新しい俳優には、『知性』といふものが『感性』に劣らない位に大切なのである。卑俗なメロドラマを演じる場合はいざ知らず、藝術的なものであればあるほど、内容の深い掘り下げを要求してゐる。そして、深く掘り下げる力は、理解し分析する力であり、智性の力である。かういふ深く細かく分析する智力、教養によつて研かれ豊かにされたセンス――それが新しい俳優の資格である。」と云ふ事を證據立ててくれたのであつた。
 (略)「俳優は人間的に立派でなければならぬ」と云ふ眞理だけは、永遠に生きてゐるのである。――

 きょう2月23日は、不世出の歌舞伎俳優・二世市川左團次の69回目の正忌である。
      <松居桃楼著『市川左團次』(昭和17(1942)年刊)から採録した。> 

2007年05月14日

左團次の第二次自由劇場旗挙宣言(二)

 二代目市川左団次は「自由劇場再建の夢」果たせぬままに、1940(昭和15)年2月23日に病没する。享年五十九。最後の舞台は、同年2月の新橋演舞場での『対面』の工藤、『修禪寺物語』の夜叉王。舞台との永久の別れは中日を過ぎた14日に訪れた。「幾たび打直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、われ拙なきにあらず、鈍きにあらず、源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今といふ今、はじめて覚った。神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まずわが作にあらわれしは、自然の感応、自然の妙、技芸神に入るとはこの事よ。伊豆の夜叉王、われながら天晴れ天下一ぢやなう」。前年3月に亡くなった岡本綺堂の『修禪寺物語』の名台詞だが、左団次の死は、まさに「われながら天晴れ天下一」の俳優のそれであった。
 4月10日の四十九日法要の折、故人の遺志として、前進座、新劇団体にそれぞれ千円が寄贈されたという。因みに、当時の新協劇団、新築地劇団の二大劇団、北村喜八らの芸術小劇場の築地小劇場での公演の入場料は、凡そ二円前後。飛行館で試演会を続けていた文学座の入場料は一円二十銭前後である。この新劇団体宛ての千円は、前年11月に改築された築地小劇場の照明機材を補充する費用に充てられたという。
 新協劇団は「日本の新劇に最初の鍬を入れた」(都新聞)故・左団次を追悼して、この年の5月10日から「自由劇場回想公演」を実施、二日の日延べもあり34日間の長期興行となった。演目は前半が有楽座での自由劇場第二回試演に上演された『出発前半時間』(作・フランク・ヴェデキント、訳・森鴎外、演出・松尾哲次)、第二次自由劇場のために真船豊が書き下した『遁走譜』(演出・千田是也)。後半は1910(明治43)年12月に自由劇場公演として小山内薫の演出、(市川左団次のペペル、市川猿之助のクレーシチ、市川寿美蔵のサチン、市川荒次郎の男爵)で初演され、その後は「新劇十八番もの」といわれた、マキシム・ゴーリキーの『どん底』(訳・小山内薫)を上演した。演出・村山知義、装置・伊藤熹朔、照明・穴沢喜美男、舞台監督・水品春樹。配役は、滝沢修のルカ、宇野重吉のペペル、千田是也のサチン、小沢栄(太郎)のコスチリョフ、細川ちか子のワシリーサなどであった。 
 千田是也著『もうひとつの新劇史』(筑摩書房刊)には、演目選定の経緯が記されている。

 ―はじめはまた『どん底』をという話だったが、記念公演というといつも『どん底』が出てくるのはいかにも曲がなさすぎるし、一九三七年の五月の自由劇場の再建声明のさい左団次が真船豊氏に委嘱した『遁走譜』をその遺志を受継ぐかたちで上演したらどうかと私が提案したのがそもそものきっかけであった。それでも当ること間違いなしの『どん底』はそのままのこすことになり、(略)そのあげく『遁走譜』の演出は、言い出しっぺの私が受け持つことになり、ついでに『どん底』のサチンの役も引きうけ、今度は演出者の村山君のきつい御注文で、新築地でやったニヒリスト・アナーキスト的なサチンでなく、大いに人道主義的なサチンを相つとめることになった。―

 この新協劇団の左団次追悼公演が好評のうちに終った翌7月、新築地劇団は『第二の人生』(里村欣三作、八田元夫演出)を上演した。両劇団のこの5月から7月に掛けての公演が、ともに両劇団にとっての、そして築地小劇場にとっての最後の本公演となった。警視庁による両劇団に対する弾圧と、それに続く劇団の解散がその由である。左団次の死の半年後の1940(昭和15)年の夏は、左団次の望んだ新劇団の活躍が潰えた時でもある。
 2月の二代目市川左団次の死に始まり、8月の二大劇団の強制的な解散、11月の築地小劇場の国民小劇場への改称という、それぞれの終焉を迎えた1940年は、「新劇」の大きな転換点を迎えた時として記憶されるべきだろう。
 この年の10月19日、文学座の監事だった岸田國士が大政翼賛会の文化部長に就任。「新劇」の砦、象徴でもあった築地小劇場が「国民小劇場」に姿を変えた直後の12月、劇団文学座はマルセル・パニョル作『ファニー』を引提げて、新協、新築地という「主を失なった」国民小劇場に初進出した。
 「存在せずして存在する處の劇場」(左団次)を志向した明治末の自由劇場、「理想的小劇場の設立」(小山内薫)を掲げて誕生した大正末の築地小劇場という日本新劇の本流は消滅し、以来、時局に適合し、或いは迎合する戦中「新劇」という支流だけが残った、と言えば言い過ぎだろうか。
 

2007年05月07日

左團次の第二次自由劇場旗挙宣言(一)

 ―市川左団次、自由劇場の旗挙げきまると、この日の都新聞は次のように報じている。
「やるゾといふ気構えだけで劇壇に大きな波紋を描いた左団次の自由劇場は、昨年十二月各方面に挨拶状を送った切り鳴りを鎮め、大江主事以下、伊藤熹朔、田島淳、小出英男、本庄桂輔の諸氏が一切を委せられ、裏に廻って着々準備を進めていたが、最高諮問機関として、顧問に島崎藤村、菊池寛両氏の就任方を頼んだところ、両氏ともに快諾、出来得る限り援助するという返事を得、之に力を得て自由劇場は急速に具体化し、いよいよ新秋十月末、東劇で再建の旗挙公演を行える見通しがつくところまで漕ぎつけた。自由劇場は演劇文化のためにつくすことを建前に、左団次が私財を投出して一切の費用を負担しようとするもので、俳優は脚本を第一義とするため、演出者の希望によって、歌舞伎畑ばかりでなく、広く新派、新劇の中からも選ぼうという方針、その手始めに作品の提供を岸田国士氏の劇作一派、村山知義、三好十郎、久板栄二郎、久保栄、真船豊に当ったところ、村山、三好の両氏が承諾、六月一杯には時代物の脚本を書き上げることを約束、真船豊氏も現代物五幕を執筆中で、これは今月中に完成するので、この三つの中から選び大体時代物、現代物二本立となる予定である。―

 倉林誠一郎著の『新劇年代記』<戦中編>からの引用である。
 岸田國士、岩田豊雄、久保田万太郎の三人が文学座を創立する直前の1937(昭和12)年5月7日、二代目市川左団次は、正式に第二次の自由劇場の旗挙げを宣言した。しかし、左団次は、その二ヶ月後の7月7日に起こった中国・盧溝橋事件を発端とする日中戦争に配慮して旗挙げを取り止め、また不運にも病を得、1940(昭和15)年2月23日に病没する。この年の都新聞の「演劇回顧」には、「左団次の自由劇場は今年一番の期待されてゐた」が、「無期延期となったことは,沈滞の歌舞伎に活を入れるものと期待されてゐただけに拍子抜け」とある。短い文節で、二度も「期待」と書かざるを得なかったほど、筆者の、あるいは当時の劇壇の「期待」は大きなものだったのだろう。
 一昨年の6月20日にこのブログ『提言と諌言』で始めた「閲覧用書棚の本」では、その第一回に『左團次藝談』を取り上げている。ご笑読をお願いする。
http://goldoni.org/2005/06/post_96.html

 二代目市川左団次が第二次自由劇場の旗挙げを宣言した1937年5月7日は、70年前の今日である。左団次の幻に終った宣言に思いを寄せたい。
 私にとっては最も大切な、『七十年』である。