二代目市川左團次七十回の正忌に(続)
―俳優といふものは、大概、何某は誰に手引きされて、あれだけの役者になつたのであるとか、誰に引立てられて、あれだけの位置になつたのであるとか。と、いふことが普通のやうですが、一體、あなたは、誰の世話に一番なつてゐるのですか。
「私にとつては、不幸か、或ひは幸か、さういふ人は、一人もゐません。自傳でも述べたとほりに、幼少の頃には九代目團十郎の舞薹も見てゐますし、その後、父が明治座を建てて九代目もそれに出演をしたので、少年時代にも親しく其技藝には接してゐますが、別に手を取つて教えを授けられたといふこともなく、父の手許以外には始めから出なかつたので、今かうやつてゐられるのも全く父のお蔭で、特に誰に取りたつてお蔭を蒙つたといふやうな人もゐないのです。さうして其父も非常な放任主義で、わざわざ教わつたといふことは僅か一度か二度しかありませんでした。」
―あなたには特に贔屓といふやうなものはありますか。
「私には謂ふところの贔屓といふやうなものはありません。従つて、贔屓を訪問するといふこともなく、父も此點は同じで、團十郎には貴顕方の贔屓があるとか、五代目菊五郎には岩崎や何かといふ紳商方の贔屓があるとかいふやうでしたが、父には、さういふものはありませんでした。例へば平沼専藏氏が贔屓だと一時思はれてゐたこともあつたやうですが、これは父が平沼家の家政上で面倒をみたことがあつたので、さういふ關係から、明治座を建てる時に、幾分の出資をしてくれたので、然しこれも役者の所謂贔屓として出してもらつたといふのではなく、判證文でちやんと借りたので、父の没後、私が返濟をしました。父の贔屓に就ては、かういふことがありました。明治三十年の三月でした。明治座で「芽出柳翠綠松前」と「意中謎忠義繪合」を出してゐた時のことです。非常な不入で、大に困つてゐたところが、突然、時事新報に「是非、此芝居を見るべし。」と、云ふ意味の大きな廣告が數日間に渡つて掲載をされました。新聞に芝居の廣告などは、まだ珍しかつた時代なので、これが非常な効果を奏して、俄に景気を盛り返し大入滿員の盛況で千秋樂迄打ち續けましたが、誰が廣告を出したのか、いくら時事新報社に問合せてみても、ただ三田の一商人となつてゐると云ふだけで、まるでわからない爲に、どうすることも出來無いので其儘に打ち過ぎてゐたところ、後で、これが、福澤諭吉先生であつたと解つたことがありました。……かやうに、私の家の贔屓は、父の代から、眼立たぬ贔屓、隠れた贔屓、生真面目な贔屓で、私も訪問をしてまはるなどといふ贔屓はありませんし、また、さういふこともしませんが、十年以上も毎興行缺かさず観にきてくださるといふやうな只管に舞薹の上の贔屓はあつて、さうして、私は、これを全く有難いことに心得てゐます。」
(二代目市川左團次著『左團次藝談』「問はるるままに」より)