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2016年06月02日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2016年6月》

丸山眞男著 『忠誠と反逆ーー転形期日本の精神史的位相ーー』
筑摩書房 1992年

(略) けれども、政治団体が自主的集団を代表するところでは、国家と独立した社会の十全な発達は期待できない。むしろ本来的に闘争集団であり権威性と凝集性を欠くことのできない政治団体にたいして、開いた社会への垂範的な役割を託するということ自体に内在的な無理があるというべきであろう。政治と異なった次元(宗教・学問・芸術・教育等)に立って組織化される自主的結社の伝統が定着しないところでは、一切の社会的結社は構造の上でも機能の上でも、政治団体をモデルとしてそれに無限に近づこうとする傾向があるし、政党は政党で、もともと最大最強の政治団体としての政府の小型版にすぎない。それだけにここでは一切の社会集団がレヴァイアサンとしての国家に併呑され吸収されやすいような磁場が形成されることとなる。「交詢社」などの使命とした「社交」がその後たどった運命はどうであったか。維新以来のもっとも著名な知日家の一人であるB.チェンバレンは、この国の自然の風景の素晴らしさと対蹠的に「社交」がおそろしく退屈なことをのべ、「日本における善美なもののカタログをひろげれば随分沢山ある。けれども諸君の教養ある魂が客間やコンサートホールのよろこびを憧がれはじめたら、諸君はむしろ故国へ帰る切符を買った方がいい」と勧告しながら、そこに潜む根本問題についてつぎのような定式化をこころみている。
「日本では、社交界というのはほとんど全く政府筋のものである。イギリスで田舎の名門といえば、官職引き受けるものも引き受けないものもあるが、引き受けた場合にも、それですこしでも家門の名誉が増すわけではなく、それどころか逆に官位の方に箔が付くのであるが、そういった意味の名門に当るものが日本には皆無である。(中略)日本では皇室が事実上唯一つの栄誉の源泉であり、一旦敗れた大義名分にはこの国では誰も味方に付き手がない。(中略)皇室(というより皇室の名において行動する者なら誰でもいいのだが)は古い封建制の廃墟の上に新たな官僚制こそを築いたが‥‥この官僚制こそ国家そのものでありまた社交界でもあって、いかなるライヴァルの存在をも始めから排除してしまうような、本来の意味での貴族制なのである。‥‥実際日本の社会では官界が圧倒的なエレメントであり、政府の援助なしには何一つできない。アングロ=サクソンはこうした個人主義の欠如をもって、とかく弱さの源泉と断定しがちである。しかしこうした見方にたいして、日本の驚異的勃興ーー日本の政府の指導下の奮励によってたった一世代の間にかちえた地位ーーはまさに抗し難い反証となる。日本はプロシャのように中央集権化を通じて成功した。その四千三百万の国民はあたかも一人の人間のようにうごくのである」。
無数の閉じた社会の障壁をとりはらったところに生まれたダイナミックな諸要素をまさに天皇制国家という一つの閉じた社会の集合的なエネルギーに切りかえて行ったところに「万邦無比」の日本帝国が形成される歴史的秘密があった。チェンバレンのいう「反証」がはたして、またどこまで、反証でありえたかを、すでに私達はおびただしい犠牲と痛苦の体験を通じて知っている。しかし、その体験から何をひき出すかはどこまでも「第三の開国」に直面している私達の自由な選択と行動の問題なのである。
『開国』(『講座現代倫理』第十一巻「転換期の倫理思想(日本)」1959年)