新刊書籍から
≪GOLDONI/2010年11月①≫
『モーツァルトの台本作者―ロレンツォ・ダ・ポンテの生涯』
田之倉 稔著 平凡社新書 2010年
そして、この時期に書かれたダ・ポンテのすべての台本を凌駕するオペラが誕生する。≪ドン・ジョヴァンニ≫である。正確にいえば≪罰せられた放蕩者、あるいはドン・ジョヴァンニ≫、ドランマ・ジョコーザ、二幕、作曲モーツァルトである。≪フィガロ≫と同じく、台本作家を選んだのはモーツァルトであろう。
「モーツァルトはプラハに招かれ、指揮者兼ピアニストとして音楽狂揃いのプラハ聴衆の前に登場し、≪フィガロ≫の絶大の成功を肌身で感じる体験をするが、そのとき現地の座元で劇場賃貸人のパスクワーレ・ボンディーニから、一七八七年の秋シーズン期に新しいオペラを作曲してほしいと依頼されるのである」(リヒャルト・ブレッチャッハー『モーツァルトとダ・ポンテ』小岡礼子ほか訳、アルファベータ)。それが≪ドン・ジョヴァンニ≫だったのであるが、ダ・ポンテはモーツァルトのほかサリエリとマルティンという大物にも台本を依頼されていて、いまや売れっ子の台本作家となっていたのである。さすがにヨーゼフ二世も、三人に同時に台本を書くなどという芸当はできるかと心配したが、ダ・ポンテは「やってもます」と自信をもって答えた。こうして三人用台本の執筆が同時進行した。(略)≪ディアーナの樹≫の初演後、ダ・ポンテはプラハへと急いだ。「私はこの作品に出演する俳優たちを指導するべく同地に八日間滞在した」と書いている。ただ初日には立ち会わなかった。
現代ではオペラや演劇のみならず、あらゆるパフォーマンスに演出の要素は不可欠であるが、これは明らかに近代的な概念であり、われわれはみなこの概念に縛られている。ところがモーツァルトの時代はどうか。誰が演出しているのかさだかではない。おそらく作曲家だったり、指揮者だったり、あるいは劇場支配人だったりしたのだろう。ところが右のような記述を読むと、台本作家も演出の一端を担っていたことがわかる。
コンメディア・デッラルテとは、起源、実態、活動の時期、劇団構成、上演作品など不明な点は少なくないが、一応十六世紀中頃、北イタリアのある地域で形成されてきた演劇ジャンルということになっている。俳優たちはパンタローネ、アルレッキーノ、イル・ドットーレといった役名をもち、仮面をつけ、主として即興喜劇を演じた。戯曲の形をとった台本は少なく、多くは簡単な筋書きをもとに俳優たちが物語を作っていた。
そのほうが度重なる上演に好都合だった。また役柄は決まりきったものが多いが、それは役名に社会的地位が表象されていたからである。例えばパンタローネは貴族とか裕福な商人とか、支配する側に属するもの、アルレッキーノ・プルチネッラは下僕、家来といった、支配される側に属するもの、イル・ドットーレは学者、弁護士、医者といった知識を手段に生計を立てているもの、といった具合に。軍人をパロディにしたカピターノという役柄もある。下僕や家来にもさまざまな役名がある。要するにコンメディア・デッラルテのコンセプトは、何人かの社会の階層を表象する役によってある世界を実現できるというものだった。類型の集合体が世界だというわけである。類型化した世界を持ち歩いて、演劇的イメージを広めてまわったのが、移動巡業型の劇団だった。コンメディア・デッラルテはバロック時代の世界像にぴったりの演劇ジャンルだった。
コンメディア・デッラルテの隆盛はイタリア北部で見られたが、南部の民衆劇にも大いなる影響を与えた。とくにナポリでは地場のプルチネッラ芝居と混交し、十七世紀から十八世紀にかけて次から次へと喜劇作品を産出した。筋書きが紋切り型で、同工異曲の作品というジャンルの性格が、膨大な数の生産をうながした。オペラ・ブッファが胚胎してきた文化的背景はこのようなものだった。この喜劇的オペラ、神話物語や史劇によらない世俗的なオペラがナポリで生まれたのは、プルチネッラ芝居の盛んだった土地柄と関係があったのである。ドン・ジョヴァンニものもこうした地芝居の定番の一つだった。
(「第二章 オペラ都市ウィーン」より)
ドン・ファンはカトリシズムという宗教的コンテクストがあってこそ精彩を放ったのだが、ピルグリム・ファザーズを先祖にもつピューリタンにとっては負の存在である。倫理にもとる、退廃的人物である。一夫多妻を信奉するかのような、女性蔑視を内包した思想の持ち主は、ピューリタンの敵である。こうした人物は新しい価値体系を構築しつつあったあたらしい世界には必要ではないばかりか、否定すべき対象であった。ダ・ポンテも、ニューヨークのピューリタン的な風土を肌に感じていたので、ヨーロッパ文化の内部でどんなに重要な要素を持っていたとしても、「ドンジュアニズム」は受容されないと判断していた。≪ドン・ジョヴァンニ≫再演の実現性はうすかった。
どれほど豊饒な文化を生み出していようとも、十八世紀ヨーロッパは「アンシアン・レジーム」だった。ピューリタニズムはそれを乗り越えた文化だった。アメリカは「ドン・ファンもの」ばかりか、バレエも受け入れなかった。イタリアやフランスの宮廷バレエは、主流がバロックからロマン派になるにつれ、バレリーナの衣裳は身体の線や形を強調するようになった。こうした舞台美術はとてもピューリタンの精神には容認しがたかった。それにバレエもオペラも社会の階級性になんら疑義をしめさなかった。王族や貴族と富裕な市民がパトロンであり、その芸術は彼らによって形成されてきた。ヨーロッパでは文化のアンシアン・レジームは革命によっても覆らなかった。ところがアメリカはちがった。革命的精神は、政治であれ、文化であれ、アンシアン・レジームと関係があるものは忌避した。共和制への共感は広がり、女性の対等性への認識も芽生えてきた。女性に対するドン・ファン的な態度は認められるはずもなかった。
(「第四章 時代はアメリカへ」より)