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2007年09月 アーカイブ

2007年09月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2007年9月≫

加賀山 直三『團十郎三代』
 1943年  三杏書院

 「實はね、今日は……。」
 と、アッサリ白状に及ぼうと切り出した途端に、
 「實子、何をゴタゴタして居るんだねえ。この暑い最中、いつ迄も端近にお立たせ申して……」
 と年寄らしい氣近かな聲をさせて、奥から團十郎の未亡人おますが出て來た。
 まア、山路さん、いらつしゃいまし。お暑いぢやアございませんか。さアお上んなすつて、さアさア何卒……」
 と性急に先に立つて、案内し乍ら、
 「今年の暑さぢやア、何處に居たつて同じこツてすが、奥の客間なら、切めて庭に打水がしてありますから、いいえ、婿が若いに似合はず庭いじりが好きでしてね、始終手入れをしますし、この頃の暑さでは、打水を絶やしませんから、お陰で見た目だけでも涼しくつて、何とか息がつけさうです。旦那も庭は好きでしたが、御存じの物臭でしたから、時々思ひ出した様にさせるだけで、夏暑いなア當りまへのこ
ツた、と例の調子でしてね……」
 と、有名な、流暢な辦舌の中に、庭に面した奥座敷に通つて、座を勧め、位置がきまると、扨、改まつて挨拶の口上が取り交わされる、おますの挨拶の丁寧にして流暢、言辭の豊富、委曲を盡くした辭令の巧みさは、この家に馴染の深い松楓も萬々承知の上で、若旦那育ち乍ら、今では多少世馴れたつもりでも、到底太刀打の叶はぬ物だつた。
 先づ、時候の見舞ひから始まつて、御無沙汰のお詫び、この前來た時お構ひをしなかつた事、その理由、その事情、それらが泉の水の滾々として溢れるが如く流れ出る。そして、その間、決して相手方の容喙を許さない。何とも早、鮮かなもので、松楓はいつもの事乍ら壓倒されて了つて、その應待はすつかり諦め、用件の始まる迄を無爲に過すのである。
 で、この安宅の關を辦慶程の苦心もしずに通り抜けて、松楓は用件を切り出した。

 松楓のこの希望は、快くおます未亡人の聞き納れる處となつた。
 「ええ、それはわたくし共では願つてもない事です。何しろ成田屋では七代目以來の家の者ですし、中途で當家を離れては居りましても、始めわたしは成田屋へでなく、河原崎の家へ嫁に來た者なのですから、年の上だけでなく、いろいろ成田屋の事を心得て置きたいと思つて、時々何か聞き出したりもしますのですが、御承知の學門も何もないわたくしの事ゆゑ、あつちこつち飛び飛びに、出たとこ勝負の取りとめもなく聞く様な始末で、トンと埒があきませんのですから、あなたの様な學のある、何でもよく
物を心得たお方に、順序を立てて聞き出して戴ければ、わたくしどもの方でもどんなに幸せる事か知れやアしません……」
 と例の巧妙な辭令の洪水が始まり出したので、松楓はただもう苦笑を洩らすばかり……、流石におますも氣が付いて、
 「オヤオヤ、これやアいけない。今日は大きいばァやが立女形の筈でしたツけ。では早速…」
 (「序詞」より)

 九代目未亡人おます、その出生、經歴、團十郎との結婚のいきさつは、伊原靑々園氏編の『市川團十郎の代々』中の本人の直談に委しいので、これを轉載して置く。
 「わたくしの名はまさと云うのが本當ですが、戸籍で書き間違つてますとなつたのを、今では本當の名前にして居ります。弘化四年一月生れで、父は南槇町、俗に西會所と申しました、彼處の瓢箪屋の隣りで、小倉庄助と申しました。母は千代と云ひまして、これが家附きの娘で、先夫との仲に男の子が二人、女の子が二人ありまして、その先夫が離縁になつて、庄助がその跡へ聟に参つたのです。これにも男の子が一人、女の子が三人ありまして、わたくしは三人の女の仲ですから、先夫の子供から數へると四人目の娘に當ります。
 家業は銀主―御用達―でしたが、零落しまして、わたくしは胤違ひの兄で、龜岡石見―御一新後は甚蔵と云ひました―それへ引き取られました。わたくしと妹が片付かないで、わたくしは兄の處へ行つて居たのですが、山谷の八百善夫婦が里になつて嫁に参りました。八百善を里にとは、主人(九代目、當時權之助)が頼んでくれましたが、小倉も龜岡も八百善を知つて居たから里になつてくれました。役者の處へ行くのですから親類とは緣切りで参りましたが、姉娘(實子)が初舞薹の時から再びつきあふ事になりました。」云々。

 九代目市川團十郎の事は今更ここに掲ぐべきではないだらう。本文の終り明治十四年以後だけでも詳述すれば、以上の全文よりずつと多くの紙面を必要とするし、又本稿の構成上にも喰ひ違ひが生じて來るので、それらは又次の機會に譲る事として、周知の事だが、明治三十六年九月十三日午後三時四十五分、茅ケ崎の別荘で息を引取つた事を記して置くのみにとどめる。享年六十六。同月二十日に本葬施行。謚號、玉垣道守彦。青山墓地に葬る。
 (「補遺」より)

 


2007年09月25日

劇団文学座の七十年(八)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『岸田國士』(五)≫

 1940(昭和15)年6月、枢密院議長・近衛文麿は、国防国家の完成、外交方針の転換、新政治体制の整備を目標とした新体制運動を主唱、7月には総辞職した米内内閣に代わって首相に就任した。その年の10月12日、新体制運動の主体として、『大政翼賛会』が発足した。
 「この1940(昭和15)年は、新協、新築地への弾圧と、「演劇法」の制定や大政翼賛会に深く参画していく岸田國士の「右旋回」(松本克平)という、対照的なモメントを昭和新劇史に遺した」(『文学座の七十年』(六)、6月18日記述)と書いたが、岸田國士は8月の新協、新築地への弾圧を尻目に、9月には満洲国の招聘を受け現地に赴いていた。「思想の自由を守り抜いている数少ない知識人」「当時の言論に許容されるぎりぎりの境界線のところまで語」ることの出来る人物を文化部長に据え、「時代の閉塞状況にひとつの活路を見いだそう」(渡邊一民著『岸田國士論』より抜粋)としていた『昭和研究会』の三木清、後藤隆之助、中島健蔵などによる政府への工作が功を奏し、後藤からの文化部長就任を要請する電報で、岸田は急遽東京に戻り、就任を受諾した。 岸田國士の大政翼賛会文化部長就任が報じられたのは、発足一週間後の10月19日であった。
 渡邊一民は上述の『岸田國士論』(1982年、岩波書店刊)の中で、1938(昭和13)年の4月から9月まで『朝日新聞』に連載された岸田の小説『暖流』を取り上げ、「ここには、時代への反抗はいっさい存在しない。むしろ時代の肯定が前面に出ることによって、はからずもこの作品を典型的な国策小説、時局小説としているのだと言えるだろう。わたしは『暖流』をもって、やはり岸田國士の一種の転向小説だと見なしたいのである。」と述べている。
 コミュニズムからではないが、自由主義から「転向」して、そのことが評価されて、権力に最も近い文化運動の先頭に立った岸田だが、太平洋戦争勃発の8カ月後の1942(昭和17)年7月、文化部長のポストを投げ出す。『文学座五十年史』には、「大政翼賛会の官僚化にあきたらず辞任」と記されているが、渡邊一民は、「新しい文化を生みだすために、日本の改良が必要だと思った。それは国民のなかから成長するが、上から指導することも一つの方法であり、手段だと思った。これが根本的にまちがっていると自覚しましてね」「私たちは文化の再建と国民運動を考えて参加したのですが、結果は官僚勢力の拡張だった。官僚に文化や芸術は判らない、というより、彼らは文化という名で批判を抑制しようとした。文化統制が目的だった。」(林克也「敗戦期の岸田國士」『文学』1953年5月号)との岸田の言葉を採録している。
 「官僚に文化や芸術は判らない」「文化という名で(体制)批判を抑制しようとした」と、権力、官僚への不審を抱いた岸田國士が大政翼賛会を去って六十五年、亡くなって五十三年後の今日、上演台本の検閲、劇団の強制解散、国家情報機関の専属劇団への慫慂など、国家権力が強権を発動した、六、七十年前の時代を、今、ほとんどの演劇人、とりわけ当の新劇団の構成員すらが理解していないだろう。現代の国家権力による文化政策について少し述べれば、1990(平成2)年の「芸術文化振興基金」の設立、94年の総務省主導による地方公共団体に対する芸術振興支援組織「地域創造」の設立、96年の文化庁の芸術振興策としてのアーツプラン導入など、舞台芸術の周辺環境は大きく変わった。とりわけ、文化政策の施策として採用されている、芸術文化振興基金、 文化庁の(新)アーツプランなどの芸術創造活動支援事業などに見られる国家による手厚い助成制度は、戦時中は無論のこと、戦後四十五年の1990年までは考えられないものであった。泉下の岸田國士は、この税金が投入されている助成制度で最も恩恵を受けている演劇団体が、自分たちが作った文学座であり、この十八年での助成総額が5億円を遙かに超えるだろうと聞かされても、彼は容易に信じることは出来ないだろう。
 1937(昭和12)年9月6日に設立した文学座は、創立以来の七十年で、日本の現代演劇に大きな足跡を残した。創立メンバーみな既に亡くなり、七十年の歴史を知る者は、38(昭和13)年3月の第一回試演会に舞台監督として参加した戌井市郎氏ひとりになった。
 

2007年09月29日

推奨の本
≪GOLDONI/2007年10月≫

小宮 豊隆 『中村吉右衛門』
 1962年  岩波書店

 吉右衛門のお母さんが団十郎贔屓で、お父さんの歌六が吉右衛門に、自分流の芝居を教へてゐると、そばについてゐて片端からそれをぶちこわして行き、仕舞には夫婦喧嘩が始まつて、「お前、そんなに堀越(九代目団十郎の名字-引用者注)が好きなのなら、なんでおれのところへ嫁にきた、いつそ堀越の嫁になれ」とお父さんがどなりつけることもあつたといふ話は、有名である。このお母さんは昔の市村座の座附の茶屋の、万屋の娘だつたといふが、いろいろ話を聞いて見ると、随分えらいところのあるお母さんだつたらしい。私は昔一度会つたことがあるが、別に立ち入つた話をしたわけでもなかつたので、えらかつたかどうかの印象は、私には残つてゐない。
 吉右衛門によると、吉右衛門のお母さんは「黒勝」と言はれた名人の花柳勝次郎の弟子で、五つ六つの時分から踊を仕込まれたのだといふが、芸ごとに明るい人で、吉右衛門は絶えずその監督を受け、芝居があくと必ず初日に見に来て「ピンからキリまでダメの出し通し」で、吉右衛門は一度だつてほめられたことはなかつたさうである。これはお母さんは純粋な江戸つ子で団十郎贔屓で、お父さんは上方生れで重い伝統を背負つた上方役者だつたので、芸といふものに対する考へ方の相違が、とかく吉右衛門の芸に対するお母さんの小言になつたものに相違ないが、然しそれだけではなく、お母さんには江戸の芸だの上方の芸だのといふものを超えて、もつと広い意味での芸に対して、相当しつかりした見識があつたせゐではないかと思ふ。
 吉右衛門が子供芝居に出て人気を一身に集めてゐた際に、お父さんに話して、子供芝居に出し続けることを思ひとまらせ、吉右衛門が十六歳の時、歌舞伎座の慈善興行に出て『寺子屋』の松王を勤め大変好評を博したのを機会に、吉右衛門を歌舞伎座の座附にしてもらひ、団十郎の手許で端役や傍役を丁寧に勤めさせるやうにしたのも、お母さんの力だつたらしい。
 子供芝居の子供には、ほんとの腹は分からない。分からないままで大人の芝居をするのだから、芸が小さく固まつてしまふおそれがある。従つてこれには百害があつても一利はないと言はれてゐる。それと同じ立場に立つて、お母さんは、若い者は若い者に似合ひの役を勤めながら、自然の順序を踏んで、大きく勤め上げて行くべきだと考へたものだろうと思ふ。もつとも吉右衛門は晩年になつて、一概にさうも言ひ切れない。早くからむづかしい役で鍛へて置けば、大人になつてから役の性根の呑み込みも早く、動きや調子、間やイキをしつかり身につけることができる。芸が固まるとか小さくなるとかいふのも、所詮本人の心がけと勉強とにある。従つてこれは切替へる時のやり方一つにかかつてゐるといふべきだと言つた。これはまつたくその通りである。然しこれは自分の経験を決して無駄にせず、何もかも自分の芸術を大きく育て上げる為の栄養にすることのできた、吉右衛門のやうな役者であつて初めて言ひうることで、その吉右衛門を教育する上でお母さんの採つたこの際の態度は、やはり当を得た態度だつたと言ふべきである。 
 (「吉右衛門のお母さん」より)

 吉右衛門は役の性根をしつかり押へた上で芝居をした。然しそれだけではなく、吉右衛門はその押へた性根を舞台の上で表現するに就いて、顔のつくり、衣装のつけ方は勿論のこと、顔の表情、からだの表情、歩き方、坐り方、動き方を始め、声の出し方、台詞の抑揚、台詞の間のとり方、テムポやリズムなどに、一一精確にあらゆる工夫を凝らした。盛綱でも熊谷でも、大蔵卿でも貞任でも、長兵衛でも松蔵でも、さういふ点で、みんな実に細かに仕分けられてゐるのである。こんな芝居は今日では、もう到底見ることができない。のみならず例へば長兵衛が水野のうちへ呼ばれて行き、水野に挨拶をする場面など、相手は旗本、自分は町人だといふので、身分の上では十分敬意を表しはするが、然し男づくの勝負なら負けてゐるものかといふ気概が腹の底にあることが、見物にはつきり通じて、吉右衛門の長兵衛には、長兵衛の「位」が実に見事に表現されるのである。これも今日の芝居には見られない。
 ――吉右衛門の一周忌は、もう目の前に迫つて来てゐる。然し私にはまだ吉右衛門が、はつきり死んでしまつたのだといふ気がしない。どつかからひょつくり出て来そうな気が屡する。ただ芝居を見に行くと、吉右衛門はもうゐないのだといふことを、いやでも認めなければならないのである。 (昭和三〇・八・一九)
 (「吉右衛門の芸」より) 

2007年09月30日

劇場へ美術館へ
≪GOLDONI/2007年10月の鑑賞予定≫

[演劇]
*10月20日(土)から11月25日(日)まで。     浜松町・自由劇場
劇団四季公演『鹿鳴館』
作:三島 由紀夫  演出:浅利 慶太
照明:吉井 澄雄  美術:土屋 茂昭 
劇団四季HP http://www.shiki.gr.jp/

[歌舞伎] 
*3日(水)から27日(土)まで。           半蔵門・国立劇場 
『平家女護島-俊寛-』二幕
『昔語黄鳥墳(むかしがたりうぐいすづか)』三幕六場   
出演: 幸四郎 彦三郎 段四郎 梅玉 ほか

*2日(火)から26日(金)まで。           東銀座・歌舞伎座
『芸術祭十月大歌舞伎』
<夜の部>
『怪談牡丹燈籠』
『奴道成寺』
出演: 仁左衛門 玉三郎 三津五郎 錦之助 ほか

[オペラ]
*6.11.14.17.21.24                初台・新国立劇場
『タンホイザー』
作曲/台本:リヒャルト・ワーグナー  演出:ハンス=ペーター・レーマン
指揮:フィリップ・オーギャン 
管弦楽:東京フィルハーモニー交響楽団
出演: アルベルト・ボンネマ ハンス・チャマー マーティン・ガントナー
     リチャード・ブルンナー リカルダ・メルベート リンダ・ワトソン ほか

[音楽]
*14日(日)。         御茶ノ水・日本大学カザルスホール
『イリア・グリンゴルツ無伴奏ヴァイオリンリサイタル』
演奏曲目 イザイ:   無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第4番ホ短調
       バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ
         コダーイ :ガランタ舞曲 
ドヴォルザーク:交響曲第7番 ニ短調

*27日(土)。            横浜市中区山下・神奈川県民ホール
『ライプツィヒ弦楽四重奏団』
演奏曲目  レスピーギ:「日没」
 ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第11番ヘ短調
        ショーソン:「コンセール」

[展覧会]
*28日(日)まで。                   丸の内・出光美術館
『仙がい・センガイ・SENGAI-禅画に遊ぶ』

*4日(木)から11月18日(日)まで。  上野・東京芸術大学大学美術館
『岡倉天心 -芸術教育の歩み-』

*6日(土)から12月16日(日)まで。         虎の門・大倉集古館
『富岡鉄斎展』