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2013年06月23日

八世市川団蔵について(其の八) <昭和四十七年八月執筆>

 団蔵の七回忌の朝を播磨灘で迎えようと思っていた私は、団蔵がこの世での「最期の泊」に選んだ小豆島の旅館「たちばな荘」に、今年の六月二日夕刻に着いた。もとより私の旅は、取材旅行のようなものではなかったのだが、宿のご主人、支配人はじめここで働く人々から、六年前に団蔵が泊まった時の様子を詳しく聞くことが出来た。私ははじめ、「たちばな荘」で一泊して、三日の夜、団蔵が乗ったのと同じ時刻の船で神戸に渡る予定を立てていたのだが、ご主人から、「四日に団蔵丈を偲ぶ会があるから出席して欲しい」と誘われたので、予定を変えて四日まで残ることにした。その会は団蔵の死後、その忌日である六月四日に、毎年この宿のご主人が、新聞記者や団蔵の生前の舞台を識る地元の人々を招いて行う団蔵供養の会であった。私は、この宿の玄関前に建てられた団蔵の碑の前での読経をきき、そこで知り合った老紳士と二三時間歌舞伎の話をしたのだが、その老紳士・小汐正実さんは、毎年この日に団蔵を忌う句を詠んでこられたそうで、短冊に書く前に私にその句を教えてくれた。

  草桔梗  蔵俳の碑に  通う径

 宿を発つ時に、小汐さんから「これが草桔梗だよ」と言って渡された、背の低い、花房が直径一糎にもみたない青紫の、目立ちはしないがきれいな草桔梗を、団蔵の「死」を活かすことの重要さと、その困難さを感じながら、神戸へ向う船のデッキから彼の眠る海へ投げ入れた時の思いを、私は終生忘れないだろう。
(一九七二年八月執筆)

2013年06月22日

八世市川団蔵について(其の七) <昭和四十七年八月執筆>

  いくぶん長い引用だが、これは武智鉄二の、国立劇場初の公演「菅原伝授手習鑑」の感想である。この文章は、国立劇場の姿勢・俳優の低劣さを、武智らしい表現で端的に言い表している。
明治に入って、それまでの歌舞伎を大きく変えたのは、九世市川団十郎の、所謂「活歴」であり、またそれを基礎とした「団菊系の芸風」であろう。しかし、このことが、今日の「歌舞伎の衰退」の要因であると結論する訳にはいかない。今日まで、この「団菊系」や、「団蔵系」の芸風を含む多くの芸風が残されて来ているが、しかし、それらの芸風を、「芸」それ自体から比較検討する姿勢が、近代以後の「歌舞伎の世界」に希薄であったことが、この衰退の要因ともなるであろう。

 団蔵は昭和十七年に、父七世団蔵の生涯と芸談を記した『七世市川団蔵』を上梓している。この書は、「はしがき」に河竹繁俊博士が「我が文化財に対する貴重な文献で」あり、「戦後において必然的に急速に推移すべき劇芸に対して資益する所多き明治の役者論語で」、また「歌舞伎劇術の教科書である」と記しているように、極めて重要な意義を持っている。この書には、「本格について」という項があり、そこで団蔵は、「団菊の芸を本格とする役者や批評家の意見に真向からいどみかかっ」ている。(今尾哲也・前掲書)
 団菊系の芸の隆盛に比して、影の薄れた団蔵系の芸を明らかにし、再評価させようとする意図を持っていたのである。そして、終生それを舞台に出しきるほどの才を持っていなかった団蔵は、その瞬間まで、その意図を大事に持ち続けなかればならなかったのである。(続く)

2013年06月21日

八世市川団蔵について(其の六) <昭和四十七年八月執筆>

 一六〇三年、出雲の阿国による京・四条河原での歌舞伎躍りの興行に始まる歌舞伎の歴史は、多く、国家権力との対立の歴史であった。たとえば、徳川幕府による女歌舞伎・若衆歌舞伎の禁止、心中物の執筆・上演の禁止などは、歌舞伎が下層の民衆の、権力に対する批判精神を培うことを阻むためのものであった。そして、そのような徳川幕府の演劇統制の強化に抗して、歌舞伎は幕末まで、本来の「傾(かぶ)きものの精神」を貫いたのである。しかし、明治になって、歌舞伎は「様式」の中に篭り、「傾きものの精神」を喪失させて行った。そして、今日残っているものは、「傾く」ことを忘れた役者と、それを取り巻く人間と、その低劣さ、これらを増長させることにもなっている興行上の欠陥、という「歌舞伎の衰退」現象である。

  退屈な「菅原」(菅原伝授手習鑑=引用者注)の大序のうち、私は型に順応した神話の世界をながめていた。この時間は、人間が神の世界からとりもどした芸能を、ふたたび神の世界へ返上するための儀式の時であった。民族学者がいけないのである。民族学者が展開した学問の世界は、決して科学の名で呼ぶに値するようなきびしいものではなかった。国立劇場に巣食う末派民族学派は趣味的な芸能行事の復活を、古典の復活と勘違いしているのだ。貧乏人が急にお金を持たされて、うれしがって、いろいろな思いつきを田舎大尽のように俳優におしつけ、俳優は俳優で、お旦那をとりまく野だいこの了簡で、ところどころ国立劇場の顔を立て、芸の分野では、在来どおり、型通りのお芝居やってのけて、糊口にありつく。型通りやられたらお芝居はまるで型なしである。がそんなことは知ったことじゃない。このような精神の成り上がり者と取り巻きとが、演劇造りする場―それが国立劇場の実態ではないのか。
(「伝統演劇の発想」)
(続く)

2013年06月20日

八世市川団蔵について(其の五) <昭和四十七年八月執筆>

  折口信夫門下の演劇評論家・戸板康二は、団蔵の死より五年ほど経った昭和四十六年九月、「小説団蔵入水」を発表した。(「小説現代」1971年10月号)
「人間残酷物語・歌舞伎界の内幕」という副題のついたこの作品は、作家・網野菊の団蔵の死を扱った秀作「一期一会」(「群像」1966年11月号)を意識して書かれたものではあろうが、「一期一会」と比べものにならないほどの凡作である。この作品は、ドキュメント風な小説であるが、その中には、人間残酷物語と銘打つだけの人間や残酷さは描かれていない。まして、歌舞伎の内幕など、全く明らかにされていないのである。この「小説団蔵入水」を、多才である戸板康二の、大衆小説作家としての作品としてみるならば、彼は次の点から批判されるべきである。それは、同様に演劇評論家の尾崎宏次が、団蔵の死後いちはやく、「かぶきの最長老をそこまで追いつめた、かぶきの今の制度そのものに問題がある」と受けとめた「団蔵の死」を、自身の大衆小説のネタにしたことである。(続く)

2013年06月19日

八世市川団蔵について(其の四) <昭和四十七年八月執筆>

  演劇評論家であり、また今日の歌舞伎演出の第一人者である利倉幸一は、団蔵の自殺について次のように述べている。

  封建制の典型のように見られている歌舞伎に対して、この団蔵の死を、それへの一つの抵抗としてジャーナリズムの一部がとりあげたのは、例によって例の如しであった。団蔵にそういう抵抗が全然なかったとは言わないが、それは直ちにかぶきの世界の悪弊に結びつけるのは少し性急な意見のようにぼくは思う。(中略)役者の家に役者の子として、それも抜き差しならぬ名家に生を享けたのが、団蔵の不幸だったのだ。実はその不幸さえも、団蔵はぼくたちが考えているよりも、深い受けとめようをしていなかったのではないかと、ぼくは不遜にも考える。
(『ある歌舞伎俳優の自殺』『文藝春秋』1966年8月号)

 名家の子として生を享けたという宿命を誰よりも強く自覚していたのは、言うまでもなく団蔵である。この事実を、利倉は全く識らなかったのだろうか。いや、たぶん、「くすんだ舞台」の「役者らしくない役者」(利倉幸一)である年寄りのことなど、識ろうとしなかったのであろう。
私は、「団蔵の不幸」に、このような演出家のもとで舞台を勤めなければならなかった、ということをも含めなければならないと思う。(続く)

2013年06月18日

八世市川団蔵について(其の三) <昭和四十七年八月執筆>

 団蔵は、前述の『朝日ジャーナル』のインタビューに答えて、自分は父(七世市川団蔵)が明治劇壇で団菊(九世市川団十郎・五世尾上菊五郎)と並べられたほど偉大であったから、団蔵の名を襲うのが嫌であったし、自分は「目も小さい、声もよくない、体も小さい、セリフが流れるように言えない」ので、役者として不適格である、と語っている。
この団蔵の自覚は、三島が、「役者の自意識というものは、芸だけに働いてゐればよいもので、自分の本質に関する自意識は芸の邪魔になることが多い」(前掲書)と述べているように、本質的かつフェータルな自覚である。
団蔵は四十歳の時に、自分を省みて引退を申し出たが、興行主の松竹から留意させられた。それどころか、昭和十八年には、前名の九蔵から、強引に「八世団蔵」を襲名させられたのである。そしてその二年後、「本当に引退を決意した」のだが、また留意させられたのである。ア・プリオリに役者としての資性が劣っていることを、若年の頃から熟知していた団蔵の不幸は、終生彼に付き纏うそれであった。

  若年の団蔵には、それだけの(六世尾上菊五郎や初世中村吉右衛門などのような・引用者注)芸に対する欲や執着がなかったのだ。当然かれ(父・七世団蔵)は、八世に芸を教えようとはしなかった。「出来るまで自分で工夫してやれ」とつきはなした。そして叱るときには、「おれの腕を洋小刀で削ると金貨が出る。手前の腕は世間並の血だけしか出めェ」といったという。
今尾哲也は、「団蔵親子」(『変身の思想』所収)で右のように述べたあと、七世団蔵の言葉、「世間並の血」に着目して、次のように続けている。

 「世間並の血」とはいいえて妙である。まさに八世は「世間並の血」しかもちあわさなった。(中略)その「世間並の血」しかもっていなかった手低のかれは、ついに生きて眼高をあらわすことができなかった。そのかわり、「世間並の血」をもつ一人の平凡な人間として、死をもって、「雷の如き批評」を下したのである。 (続く)

2013年06月17日

八世市川団蔵について(其の二) <昭和四十七年八月執筆>

 作家三島由紀夫は、団蔵入水の二ヶ月後に、「団蔵」を次のように述べている。

  団蔵の死は、強烈・壮烈、そしてその死自体が、雷の如き批評である。批評といふ行為は、安全で高飛車なもののやうに世界から思われてゐるが、本当に人の心を搏つのは、ごく稀ながら、このやうな命を賭した批判である。(中略)歌舞伎の衰退の真因が、歌舞伎俳優の下らない己惚れと、その芸術精神の衰退とマンネリズムとにあることを、団蔵は、誰よりもよく透視してゐた。
  (『団蔵・芸道・再軍備』「20世紀」1966年9月号)

私の識る限りにおいて、三島由紀夫は、団蔵の死を「雷の如き」・「命を賭した」歌舞伎に対する強烈な批評と受けとめた最初の人である。彼の「団蔵感」は、これから取り上げることになるが、「歌舞伎の世界」と関わりの深い演劇評論家の「団蔵評」に比べれば、遥かにすぐれたものである。「歌舞伎の世界」と距離を置いていた三島が、このような演劇評論家よりも「団蔵の死」に関してすぐれた見解を提出したという事実は、「今日の歌舞伎の衰退」の真因と大きく関わってくる問題でもある。そしてこのことは、「団蔵」に即して言うならば、彼に死を選ばせたもの、彼を死に至らせた、死に追いやったものと繋がりを持ってくるだろう。(続く)

2013年06月16日

八世市川団蔵について(其の一) <昭和四十七年八月執筆>

八世市川団蔵について <昭和四十七(1972)年執筆>

昭和四十一年六月四日未明、四国の霊場八十八ヶ所の巡拝を無事済ませた歌舞伎界の最長老、八世市川団蔵は、播磨灘で入水した。団蔵はその年の四月、「八代目団蔵舞台生活八十二年引退披露」と銘打った歌舞伎座での引退興行を無事勤め上げ、五月一日、二十年来の念願であった四国巡拝の一人旅に出たのである。そしてそのひと月後、小豆島坂手港から神戸へ向う汽船から、自らの命を絶ったのである。

 団蔵は引退興行を勤めた四月、『朝日ジャーナル』(1966年4月10日号)「一問一答」のインタビューに答えて、次のように語っている。

  歌舞伎は低下していると思います。なんですか、器用になっていますが、これで名人は出るのかな、と思います。芝居は勢力争いではないのでして、ほんとうの競争は舞台でだけやったものです。礼儀もしぜん保たれます。なにかいっても、あんな年寄りがと思われて、反感をいだかれるくらいなら、黙っていたほうがいい。そんな気持ちが私にもございます。芝居は本来娯楽でして、人さまに見ていただくものです。いまの歌舞伎はどうも料金が高すぎましょう。もっと大衆的になって、ほんとうの芝居好きによろこんでいただきたいものです。

団蔵は、歌舞伎の衰退・役者の低劣さ、歌舞伎興行上の問題を、極めて平明で、(役者としての分を弁えているかのように)遠慮深い言葉を用いて、鋭く指摘している。そして、このインタビューの二ヶ月後、団蔵はこの指摘を根拠にして、まさしく、自身の死をもって、歌舞伎に対する最初にして最後の批判を顕在化させたのである。

   我死なば 香典受けな 通夜もせず
      迷惑かけず さらば地獄へ

団蔵はあたかも、「私なんぞがこのような批判をすることは、許されることではない」とでも言うように、右の辞世を遺して、どこまでも暗い奈落へ身を投げたのである。(続く)

2013年06月13日

九代目団十郎の妻  宮内寿松

九代目団十郎の妻  宮内寿松 

(略)時間が早いので幹部俳優は誰も居まいと思って、いつもは雁治郎が使う楽屋口のとっつきの二階の部屋に顔を出すと、橋尾老人(中車)が火鉢に火もついてない部屋でツマラナそうな顔をしている、「いい所へ宮さん、一寸話がある。座って下さい」まさか話があるというのに帰るわけにもいかず――
 「去年の夏でしたね、長十郎を連れて築地の宗家に行った時…」「そうそう座布団の一件、弟子には座布団を敷かせない、の話ですね」「あの時隠居さんが旦那(九代目)がいるわけではあるまいし、と言って私に味方してくれたら、若御新造(実子、三升夫人)が変なことを言いましたね、三升(若旦那)がいます、て――市川を名乗っていれば誰でも成田家の弟子ですよ、ですが今の私や藤間(先代の幸四郎)、小山(新十郎)などは違いますよ、そこをよく考えないといけませんよ」
 と役者の女房の心得を話してくれた。そのなかで師匠(九代目)のことはよく劇聖だの、芝居の神様だのと言いますがね、亭主を神様にまで仕上げた女房つまり成田家ではます未亡人のことを何とも言わないのは女房大明神どころではなく、女房様々のことを忘れている、ます未亡人みたいに九代目のお三輪(妹背山)があれだけの評判になった内助の功はますさんの若かりし時の亭主への忠誠だったと話してくれた。役者の女房は亭主の浮気退治だけが仕事ではなく、舞台で亭主が売り出せるように仕向けなければ駄目だとも話していた。
 明治三六年五月の歌舞伎座で一番目に「春日局」を九代目が出したが、ますさんは「旦那にはこの役はもう無理だ」と言って身体のことを常より気を使っていた、とのこと。このことは三升さんも言っていたが、成田家の隠居さんは表面に出てカレ、コレ言わないが、裏では重きをなしていたことは確かだ。「とにかくエライものです」と未亡人をホメテいた。ます隠居のことは小山さん(市川新十郎)もホメテいた。市川三升の「九代目団十郎を語る」でも三升さんは「昔から俳優の家内というものは……夫のよいこと、悪いことをすべて知っていて芝居に関する一切の掛合いごとなどもみな女房の役目、母(ます)はそれを実によく守ったものである」と書いている。
 ます隠居は京橋南槇町に会所を開いていた幕府御用達小倉家の娘で九代目が三四才、ます(小倉家にいた時はまさ、後成田家の三升に因んでますと改名)さんは二五才、当時としては晩婚であったわけ。(略)団十郎をあれだけにした蔭の力のます夫人のことを何とも言わないし、書きもしない。(略)劇界としてはもっともっと大事にしなければならない人だと思う。
(『百味』 昭和48(1968)年6月号より)

2013年06月04日

『草桔梗 蔵俳の碑へ 通う径』(小汐正実作)2005年6月4日掲載

 昭和47年6月4日の午後、四国一周の気ままなひとり旅を満喫していた大学三年生は、それまでの僅か二十年の人生でもたぶんもっとも緊張と敬虔さが混じりあった複雑な心境で、船のデッキに立っていた。

× × × × × × × ×

 昭和41年6月5日の朝だったか、その翌年春に亡くなった母が、読んでいた新聞の社会面を広げたまま黙ってその場を離れた。私は訝しげに母を目で追い、そして新聞を手にした。そこには、歌舞伎の老優の入水を伝える記事が大きく載っていた。私の高祖父が九代目市川団十郎の岳父ということもあり、母も戦前から親しく行き来していた海老蔵後の十一代目団十郎(堀越の治雄叔父)が半年前に亡くなったばかりで、老優の訃報に接して、悲しみが募ったのだろうか。十一代目を思い出したのか、自身の間近に迫った死を思い、記事の続きを読めなくなったのだろうか。
 その年の4月、歌舞伎座での彼の「引退披露興行」と銘打った公演で、『助六』の髭の意休を観たばかりで、(この老優を偲んで作家・網野菊が書いた『一期一会』という短編の中に書かれていたかも知れないが、自身の引退興行で殺される役を演じるということは如何なものだろう)芝居で殺されたその彼が自殺をしたということに、大きな驚きを感じた。
 老優はこの引退興行を勤め上げた翌5月、念願の四国霊場八十八ヶ所の巡拝の旅に出て、それを無事に済ませて小豆島に渡り、この島の霊場四十八ヶ所をも巡拝し終えて、この地の宿に草鞋を脱いだ。そして一泊したあと、翌日深夜発の船から暗い海へ身を投げた。デッキに靴が揃えて置かれており、覚悟の自殺とも報じられた。享年八十四であった。
 老優の七回忌にあたる47年6月4日を、彼が乗ったと同じ時刻の船の上で迎えようと、一週間前から四国に入った。徳島では大学の教室や図書館、学生食堂に闖入、高知・桂浜では憧れてもいない坂本竜馬に、松山・道後では浴場で機嫌の良い漱石になりきるという、いかにも凡庸な大学生の気楽気ままなひとり旅だった。弘法大師との同行二人のお遍路さんと数ヶ所の札所で出会い、食堂で昼食をともにしたりした。それぞれが思いを胸に秘めながら、決して安楽とは言えない巡拝の旅の途中のことで、遍路ではない暢気な大学生の旅の目的が、6年前と同じ季節、同じ遍路道を歩み播磨灘に消えた老優を偲ぶものとは、お遍路のどなたも思い及ばなかっただろう。
 老優のこの世の最期の泊は、質素で落ち着いた宿だった。島の案内所ででも教わったのか、偶然に見付けた宿かは判らない。人柄も芸も地味と言われた老優にとって、自分の質に似たこの宿で過ごした人生最後の一日はどんなものだったのだろう。
× × × × × × × ×

 昭和47年6月4日の午後、神戸に向う船は混雑していて、デッキにも大勢の乗客が出ていた。私は老優が身を投げた海に、乗船前に用意していた草桔梗の一枝を投げ入れ、手を合わせた。宿の脇にひっそりと生えていた、背の低い、花房が1センチにも満たない青紫の、目立ちはしないがきれいな草桔梗は、死への旅に赴く老優の目に映っただろうか。
 (私はこの年の夏、日比谷の図書館に通い、団蔵関連の資料を渉猟し、エッセイを書きました。二十歳の若書きにして拙い文章です。ただ、この旅とひと夏掛けた原稿書きを終え、浄瑠璃の研究者になる夢を諦め、見識のある製作者に、そして良識のある劇場主になろうと思いました。爾来三十有余年、その願いは力足らず、いまだ成就していません。ただ、私にとっては自分の道を決めた小論だと思っています。このGOLDONIブログに載せました。ご笑読をお願いします。) 
 
 今日6月4日は、老優・八代目市川団蔵の正忌(祥月命日)である。

2011年10月01日

GOLDONI開設11周年のご挨拶(続)

 拝復
 先日はご祝意を賜りまして有難うございます。
 学生時分から十年余り続けていた舞踊、演劇の現場から離れ、その後に企業経営の真似ごとを七年ほどして、齢四十で舞台芸術の環境基盤整備、樹木医に擬えて劇場医のような仕事などもして二十年近くなります。
 この二十年の間にも、作品、人材の質の低下、劣化は止まらず、相変わらずのハコモノ行政による公共ホールの乱造や、税金を使った助成金のバラマキなどに見られるお粗末な文化行政もあって、舞台芸術の世界はより悪化しています。それらを正すことが、真の舞台芸術振興だと思い定め、舞台芸術の環境基盤整備をライフワークとしてきましたが、果たして身を削ってまで、経済的な負担に耐えながら遣るべき務めかと、諦めそうになったことも幾度かはありました。しかし、乏しい才能、微かな専門性を生かす道は、やはり幼少からプロフェッショナルになるべく周囲から望まれ、鍛えられ、学び、実践してきた「舞台」とその基盤整備しかありえず、可能であればあと数年でも、自分なりの集大成にしてみたいと今は思うようになりました。

 先日お送りしましたように、不躾ながら、メールで年に一度、開設の御挨拶をさせて戴いています。これは、挨拶と言うよりも決意表明だと言われることも多いのですが、無名の演劇人がひたすら、その環境を少しでも良好なものに、また豊かなものに、そしてより厳格なものにと、徒労に終わりそうなことに厭きずに続けていることの報告です。

 私のささやかな活動を私の知人から聞かされた映画監督の熊井啓(故人)さんは、「映画には啓蒙家は出てこない。こんな時代に、演劇の啓蒙家がいるとは驚きだ。演劇というのは痩せても凄いものだな。」と言われたそうです。
 熊井監督の映画も知らず、また面識もありません。ただ、映画人に「演劇というのは痩せてもすごいものだな」と言われた演劇人として、その言葉を裏切らない活動を、この先もささやかでも続けていこうと思っています。

 九代目市川團十郎の、そして市川三升の墓に手を合わせれば、そしてGOLDONIの書棚に飾ってある両先達の写真を見つめれば、いつも、「辛い仕事だが、お前しかいないのだよ」の声が聞こえるような気がします。   
 九代目を、三升を、彼らの演劇人生を裏切らない活動を、暫くは続けていこうと思っています。
 
 また、厳しいご指導ご鞭撻を賜りたく存じます。
 ご多忙かと思いますが、偶さかのお手隙の折にお出掛け下さい。

2011年09月30日

GOLDONI開設11周年のご挨拶

 謹啓
 平素はご高配を賜りまして有り難うございます。
 さて、GOLDONIは本日九月十三日、開設十一周年を迎えました。
 開設当初は週五日、その後は週二日の変則営業でしたが、五年ほど前から営業を止め、今は稀覯本探究のお手伝い、高額新刊書籍の割引販売のご協力だけをしており、普段は書斎として使っています。
 二十数年前から、舞台芸術創造の基盤整備のための研究・実践機能を併せ持つ施設、舞台芸術図書館の開設を演劇人生の最終目標にして参りました。演劇専門書店の開設も、そのリサーチの為のものでした。
 この数年は蔵書の拡充に努めてきましたが、この先、今年度中には一般財団法人GOLDONI舞台芸術研究機構(仮称)を設立し、明年春までには活動拠点を新設、小さな図書閲覧室を構えて、近い将来のリタイアメントまでの短期間、舞台芸術とりわけ演劇への貢献を意識した最後の活動にしようと思っています。
 今後もご厚誼を賜りますようお願い申し上げます。

 追伸
 本日は、幼少より崇敬してきました九代目市川團十郎(1838-1903)の正忌にあたり、青山霊園の團十郎、女婿の市川三升(没後、十代目市川團十郎追贈)(1882-1956)はじめ縁戚の墓前に、恒例にしている活動報告をして参りました。
 九代目病没の前後に青山墓地に移されて、墓所中央に立っている九代目以前の團十郎代々の墓の前に据えられた石作りの花立ては、私の幼少の時分からか、壊れているままでした。
 十一代、そして当代が、代々の團十郎とは血縁ではないにしても、その名跡をついだ者として、代々の團十郎を敬うことは当然のことです。
 墓守ひとつ満足に出来ない先代、当代。そして、代々の團十郎が眠る青山墓地のすぐそばの歓楽街で夜ごと遊び惚け、揚げ句の果て暴力事件に巻き込まれる虚けの当代海老蔵。 結果として分に不相応な、そして不実な三代を作ってしまった三升の墓前で、九代目没後から五十余年、市川家統領として歌舞伎を守ってきた三升の不憫を思い、思わず涙してしまいました。

2011年06月04日

『草桔梗 蔵俳の碑へ 通う径』(小汐正実作)2005年6月4日掲載

 昭和47年6月4日の午後、四国一周の気ままなひとり旅を満喫していた大学三年生は、それまでの僅か二十年の人生でもたぶんもっとも緊張と敬虔さが混じりあった複雑な心境で、船のデッキに立っていた。

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 昭和41年6月5日の朝だったか、その翌年春に亡くなった母が、読んでいた新聞の社会面を広げたまま黙ってその場を離れた。私は訝しげに母を目で追い、そして新聞を手にした。そこには、歌舞伎の老優の入水を伝える記事が大きく載っていた。私の高祖父が九代目市川団十郎の岳父ということもあり、母も戦前から親しく行き来していた海老蔵後の十一代目団十郎(堀越の治雄叔父)が半年前に亡くなったばかりで、老優の訃報に接して、悲しみが募ったのだろうか。十一代目を思い出したのか、自身の間近に迫った死を思い、記事の続きを読めなくなったのだろうか。
 その年の4月、歌舞伎座での彼の「引退披露興行」と銘打った公演で、『助六』の髭の意休を観たばかりで、(この老優を偲んで作家・網野菊が書いた『一期一会』という短編の中に書かれていたかも知れないが、自身の引退興行で殺される役を演じるということは如何なものだろう)芝居で殺されたその彼が自殺をしたということに、大きな驚きを感じた。
 老優はこの引退興行を勤め上げた翌5月、念願の四国霊場八十八ヶ所の巡拝の旅に出て、それを無事に済ませて小豆島に渡り、この島の霊場四十八ヶ所をも巡拝し終えて、この地の宿に草鞋を脱いだ。そして一泊したあと、翌日深夜発の船から暗い海へ身を投げた。デッキに靴が揃えて置かれており、覚悟の自殺とも報じられた。享年八十四であった。
 老優の七回忌にあたる47年6月4日を、彼が乗ったと同じ時刻の船の上で迎えようと、一週間前から四国に入った。徳島では大学の教室や図書館、学生食堂に闖入、高知・桂浜では憧れてもいない坂本竜馬に、松山・道後では浴場で機嫌の良い漱石になりきるという、いかにも凡庸な大学生の気楽気ままなひとり旅だった。弘法大師との同行二人のお遍路さんと数ヶ所の札所で出会い、食堂で昼食をともにしたりした。それぞれが思いを胸に秘めながら、決して安楽とは言えない巡拝の旅の途中のことで、遍路ではない暢気な大学生の旅の目的が、6年前と同じ季節、同じ遍路道を歩み播磨灘に消えた老優を偲ぶものとは、お遍路のどなたも思い及ばなかっただろう。
 老優のこの世の最期の泊は、質素で落ち着いた宿だった。島の案内所ででも教わったのか、偶然に見付けた宿かは判らない。人柄も芸も地味と言われた老優にとって、自分の質に似たこの宿で過ごした人生最後の一日はどんなものだったのだろう。
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 昭和47年6月4日の午後、神戸に向う船は混雑していて、デッキにも大勢の乗客が出ていた。私は老優が身を投げた海に、乗船前に用意していた草桔梗の一枝を投げ入れ、手を合わせた。宿の脇にひっそりと生えていた、背の低い、花房が1センチにも満たない青紫の、目立ちはしないがきれいな草桔梗は、死への旅に赴く老優の目に映っただろうか。
 (私はこの年の夏、日比谷の図書館に通い、団蔵関連の資料を渉猟し、エッセイを書きました。二十歳の若書きにして拙い文章です。ただ、この旅とひと夏掛けた原稿書きを終え、浄瑠璃の研究者になる夢を諦め、見識のある製作者に、そして良識のある劇場主になろうと思いました。爾来三十有余年、その願いは力足らず、いまだ成就していません。ただ、私にとっては自分の道を決めた小論だと思っています。このGOLDONIのHPに載せました。ご笑読をお願いします。) 
 
 今日6月4日は、老優・八代目市川団蔵の正忌(祥月命日)である。

 

2010年03月01日

岡本綺堂七十一回の正忌

 …綺堂老人は話題が広くて、座談の名手だった。酒席でも生来の下戸で、しかも座持ちがよかった例を古老から聞いたことがある。師匠筋に当る福地桜痴がそうだったらしい。会合ぎらいで、引き籠りが常であったが、来客は歓迎で誰とでも快く会った。みんな長っ尻で困るとこぼしていたが、客の方に言わせると、話の接ぎ穂が次々に芽をふいて、立ちにくいのであった。まんざらの人嫌いではないのである。
 但しこの老人、若いときから癇癪持ちで議論好きで、喧嘩っ早かった。その気風は老年に及んでも時に爆発した。折り目を正す、筋を通すという段になると、決して妥協しなかった。誰からも、いい人だと褒められるようではダメだ、敵もあれば味方もあるという張りがなければ、これからの世の中に立っていかれないぞ。年少の気弱い私をつかまえて、歯がゆそうに、むきになって戒めたことがあった。一身のほかに味方なしという信条の老人は、自分自身にも甘えない剛気の姿勢を崩さなかった。
 それなればこそ孤独だった。むしろ孤独を楽しむ強さがあった。下戸だから酒の上の失敗がない。旅が嫌い、会合が嫌い、徒党が嫌い、スポーツもギャンブルも嫌い、映画が嫌い、書画骨董あつめや、稀書珍籍をあさるのも嫌い、イデオロギーとセンチメンタル大っ嫌い、嫌い嫌いで、艶聞もなし。逸話のないのが逸話のようなものである。河竹黙阿弥は、おれの家は芝居にならねえと言ったそうであるが、綺堂老人にもスキャンダルの入り込む余地は全くなかった。
(略)読物は余業の心持だった老人は、半七も楽しんで書いていたらしく、その楽しさが読者にも伝わるようである。戯曲は、その作にふさわしい俳優が生まれなければ成功しない。綜合の仕事である。読物の方は独りで事足りる。綺堂老人の本業と余技と、どちらが後世に残るかは判らない。
 それにしても、読物の方に向かっては、私の本業は戯曲ですから、無理な注文はお断りします。劇場に向っては、芝居で飯を食っている訳じゃありません。どうぞ他へお頼みなさい。そう言い得た二刀流の綺堂老人は、気に染まぬものへは、ひどく無愛想であった。…

 岡本経一執筆『半七老人・綺堂老人』(「旺文社文庫版『半七捕物帳・五』解説」)より採録した。今日3月1日は、岡本綺堂の七十一回目の正忌である。

2009年06月04日

『草桔梗 蔵俳の碑へ 通う径』(小汐正実作)2005年6月4日掲載

 昭和47年6月4日の午後、四国一周の気ままなひとり旅を満喫していた大学三年生は、それまでの僅か二十年の人生でもたぶんもっとも緊張と敬虔さが混じりあった複雑な心境で、船のデッキに立っていた。

× × × × × × × ×

 昭和41年6月5日の朝だったか、その翌年春に亡くなった母が、読んでいた新聞の社会面を広げたまま黙ってその場を離れた。私は訝しげに母を目で追い、そして新聞を手にした。そこには、歌舞伎の老優の入水を伝える記事が大きく載っていた。私の高祖父が九代目市川団十郎の岳父ということもあり、母も戦前から親しく行き来していた海老蔵後の十一代目団十郎(堀越の治雄叔父)が半年前に亡くなったばかりで、老優の訃報に接して、悲しみが募ったのだろうか。十一代目を思い出したのか、自身の間近に迫った死を思い、記事の続きを読めなくなったのだろうか。
 その年の4月、歌舞伎座での彼の「引退披露興行」と銘打った公演で、『助六』の髭の意休を観たばかりで、(この老優を偲んで作家・網野菊が書いた『一期一会』という短編の中に書かれていたかも知れないが、自身の引退興行で殺される役を演じるということは如何なものだろう)芝居で殺されたその彼が自殺をしたということに、大きな驚きを感じた。
 老優はこの引退興行を勤め上げた翌5月、念願の四国霊場八十八ヶ所の巡拝の旅に出て、それを無事に済ませて小豆島に渡り、この島の霊場四十八ヶ所をも巡拝し終えて、この地の宿に草鞋を脱いだ。そして一泊したあと、翌日深夜発の船から暗い海へ身を投げた。デッキに靴が揃えて置かれており、覚悟の自殺とも報じられた。享年八十四であった。
 老優の七回忌にあたる47年6月4日を、彼が乗ったと同じ時刻の船の上で迎えようと、一週間前から四国に入った。徳島では大学の教室や図書館、学生食堂に闖入、高知・桂浜では憧れてもいない坂本竜馬に、松山・道後では浴場で機嫌の良い漱石になりきるという、いかにも凡庸な大学生の気楽気ままなひとり旅だった。弘法大師との同行二人のお遍路さんと数ヶ所の札所で出会い、食堂で昼食をともにしたりした。それぞれが思いを胸に秘めながら、決して安楽とは言えない巡拝の旅の途中のことで、遍路ではない暢気な大学生の旅の目的が、6年前と同じ季節、同じ遍路道を歩み播磨灘に消えた老優を偲ぶものとは、お遍路のどなたも思い及ばなかっただろう。
 老優のこの世の最期の泊は、質素で落ち着いた宿だった。島の案内所ででも教わったのか、偶然に見付けた宿かは判らない。人柄も芸も地味と言われた老優にとって、自分の質に似たこの宿で過ごした人生最後の一日はどんなものだったのだろう。
× × × × × × × ×

 昭和47年6月4日の午後、神戸に向う船は混雑していて、デッキにも大勢の乗客が出ていた。私は老優が身を投げた海に、乗船前に用意していた草桔梗の一枝を投げ入れ、手を合わせた。宿の脇にひっそりと生えていた、背の低い、花房が1センチにも満たない青紫の、目立ちはしないがきれいな草桔梗は、死への旅に赴く老優の目に映っただろうか。
 今日6月4日は、老優・八代目市川団蔵の39回目の命日である。

 (私はこの年の夏、日比谷の図書館に通い、団蔵関連の資料を渉猟し、エッセイを書きました。その原稿は近々にこのホームページに載せる予定です。二十歳の若書きにして拙い文章です。ただ、この旅とひと夏掛けた原稿書きを終え、浄瑠璃の研究者になる夢を諦め、見識のある製作者に、そして良識のある劇場主になろうと思いました。爾来三十有余年、その願いは力足らず、いまだ成就していません。ただ、私にとっては自分の道を決めた小論だと思っています。是非ご笑読をお願いします。)

2009年03月01日

「常楽院綺堂日敬居士」

 ――わたしは可なり感傷的の心持で菊五郎の死を語つた。更に團十郎の死について語らなければならない。今日、歌舞伎劇の滅亡云々を説く人があるが、正しく云へば、眞の歌舞伎劇なるものはこの両名優の死と共にほろびたと云つてよい。その後のものはやや一種の變體に属するかとも思はれる。
 (略)そのあとの座敷はいよいよ沈んで來た。團十郎が死んだと決まつたので、無休刊の新聞社の人はその記事をかくために早々立去るのもあつたが、わたしたちのやうな月曜休刊の社のものは直ぐに帰つても仕方がないのと、あやめが気の毒さうにひき止めるのとで、あとに居残つて夜のふけるまで故人の噂をくりかえしてゐると、秋の雨はまだ降りやまないで、暗い海の音がさびしく聞えた。その夜はまつたく寂しい夜であつた。團十郎は天保九年の生まれで、享年六十六歳であると聞いた。その葬式は一週間の後、青山墓地で營まれたが、その日にも雨が降つた。
 さきに菊五郎をうしなつたことも、東京劇界の大打撃には相違なかつたが、つづいて團十郎をうしなつたことは、更に大いなる打撃であつた。晩夜にともしびを失つたやうだと云ふのは、實にこの時の心であらうかとも思われた。今後の歌舞伎劇はどうなる――それが痛切に感じられた。
(略)「團十郎菊五郎がゐなくては、木挽町も観る気になりませんね。」
 かういふ聲をわたしは度々聞かされた。團菊の歿後に洪水あるべきことは何人も豫想してゐたのであるが、その時がいよいよ來た。興行者も俳優もギロチンに上せらるべき運命に囚はれるかのやうに見えた。――
 
 きょう3月1日は、劇作家・岡本綺堂の没後七十年の正忌である。明治の三十年代から、昭和十四年に没するまでの四十余年に亘る綺堂の劇作家としての活躍、劇作家の養成、戯曲雑誌の刊行などにかけた情熱と奮闘は、当時の新興興行資本である松竹の勢力拡大にも大きく貢献したはずだが、今月の歌舞伎座にも、新橋演舞場にも、綺堂の没後七十年を追悼する作品企画は、ない。 

   <岡本綺堂著『明治の演劇』(同光社 昭和24(1949)年刊)から採録した。>  

2008年07月14日

もうひとつの「7月14日」  

 ―劇団四季創立記念日に先人を偲ぶ
 今日7月14日は劇団四季の創立55周年の記念日である。午後には、記者会見などが予定されていると聞く。新聞、テレビ・ラジオなどで取り上げられることだろうから、私の拙い文で祝意を表すことは差し控えよう。

 今回は1928(昭和3)年に敢行された、歌舞伎の最初の海外公演について書く。それは、今は無きソビエト連邦政府の招聘による二代目市川左團次一座の、モスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)公演である。
この歌舞伎公演は、前年の建国10年祭に国賓として招かれた小山内薫が、ソビエト連邦政府の当局者と交した会話で出た話といわれ、帰国した小山内が、左團次、そして松竹・大谷竹次郎社長に相談し快諾を得、駐日ソビエト大使館に伝え実現したとされている。
この公演は、モスクワ第二芸術座(客席数千三百強)で行われ、初日前に12日分のチケットが売り切れ、急遽次のレニングラードでの公演を短縮して、5日の日延べとし17日間の興行となった。尚、この劇場の芸術監督は名優ミハイル・チェーホフだったが、この月にアメリカに亡命していて、左團次一座とは遭遇していない。
 『左團次歌舞伎紀行』(平凡社、1929年刊)からの孫引きだが、当時の大阪朝日新聞の記事によれば、「その日またもや前賣切符を賣出したが、忽ち午前中に最終日までの分が賣切れてしまつたのだといふ。切符賣出しの當初は争つて求める民衆の列が、あの劇場廣場に數町にわたつてゐたといふ。何しろ革命以後劇らしい劇が来てくれず、外國ものに全く渇していた芝居好きの國民はこんど始めて外國の大物、しかも露國にとつては始めての純『カブキ』といふ最も珍しい東洋劇を迎へたのであるから、民衆の喜びは、いふまでもない…」(同書)という盛況ぶりだった。
 蛇足だが、この左團次一座の本邦初の海外歌舞伎公演の後は、夥しい数の海外歌舞伎公演が実施されている。昨年も、パリでは団十郎、海老蔵などの一座が、ニューヨーク、ワシントンでは勘三郎一座が公演しているが、パリは5日間、ニューヨークは6日間、ワシントンは1日という短期間の公演だった。左團次一座の公演の意義、影響力は無論だが、規模の大きさが知れよう。
 尚、団十郎、勘三郎の公演はともに、その挨拶やら演出に、それぞれフランス語、英語を取り入れたという。日本の伝統芸能たる歌舞伎を知らしめる公演では如何なものだろう。
 ―外國で日本の芝居をやる場合に、ともすると演技の上で外國人の気に入るやうに、外國人の趣味に迎合するやうにと殊更に改めることが多いが、そんなことは今度のロシア興行ではとらない所である。飽く迄も純日本式に演つて、日本固有の國劇を忠實に紹介するといふ精神で演じて貰いたい―
 左團次は、松竹・大谷社長主催の壮行会でこう述べたという。百年も前にヨーロッパに学んだ経験を持つ唯一の歌舞伎俳優の、至極真っ当な言である。

 第二芸術座での興行の翌日には、隣のボリショイ劇場(客席数四千五百強)で追加の公演をした。「さしもの大劇場も立錐の余地ないまでの満員で大盛況のうちにモスクワ十八日間の興行を打ち上げ」(同書)たという。
 レニングラード公演は、第二芸術座と同規模の国立マールイ・オペラ劇場で7日間行われた。残り三回の公演の六千枚程のチケットの申込数は四万を超えたという。また、同市で公演中のメイエルホリド一座(「メイエルホリド名称国立劇場」のことか)の招待を受け、エレンブルグの『ヨーロツパの滅亡』、ゴーリキーの『検察官』、オストロフスキー『森』のそれぞれ一部上演を観劇した。メイエルホリド本人は、前月からフランスに休暇滞在していたため、左團次とは出会っていない。

 たびたび引用した『左團次歌舞伎紀行』には、劇団四季代表の浅利慶太氏の父、浅利鶴雄氏の若き日の写真と、氏が著した「海外公演準備日誌」「歐州巡遊記」が掲載してある。氏は、この左團次一座公演のために単身モスクワに赴き、事前折衝を済ませて戻り、松竹副社長秘書として本隊に同行した。一行は、左團次、松竹副社長・城戸四郎、鶴雄氏にとっては叔母にあたる左團次夫人・高橋とみ(登美)、病気で渡航を断念した小山内薫に代わって演出・文芸顧問役を務める劇作家の池田大伍など総勢45名。東京から列車で敦賀まで行き、敦賀から船でウラジオストクまで、そこからモスクワまではシベリア鉄道と、二週間を超える旅程である。当初は、朝鮮・満州を経由してチタからシベリア鉄道でモスクワへ入る予定だったが、満州鉄道の列車転覆事件が報道された直後であり、ソビエト政府から「安全確保のため、最初からソビエト国領を通過して欲しい」との要請があって、この行程に変更された。
 敦賀港出港の様子が描かれているので、採取する。
 ―午後三時、嘉義丸に乗船のため桟橋に行く。桟橋には敦賀町長後藤貞雄、敦賀廓検査總取締北川作治郎氏を始め町の有志、組合の藝妓總出の見送りで波止場は立錐の餘地もない。一行は嘉義丸に乗船して甲板に並ぶ。やがて出船の合圖の銅鑼が響き渡り、萬歳の聲に送られて汽船は波止場を離れて行く。甲板の人々と波止場に見送る美妓連の手に握り交はされた赤や青や紫のテープは綾をなしながらひらひらと船足と共に延びてゆく。それも一つ切れ、二つ切れ、最後まで残つてゐた左團次丈の手のテープもきれた。(略)かうして先發した大道具の三人を除く一行四十五人を乗せた嘉義丸は船首を一轉すると一路浦鹽へ向けてエンヂンの音を高めたのである。―
 
 この敦賀港の出港は、今から80年前、劇団四季創立の四半世紀前のきょう、7月14日のことであった。

2008年03月01日

岡本綺堂を偲ぶ

 今日3月1日は岡本綺堂の命日である。来年は綺堂の、再来年は二代目市川左團次の没後70年に当たる。昨今の何とも薄味の歌舞伎座、国立劇場の歌舞伎には辟易とするが、ましてや、不良青年達の若手もの、単なるリメイク物や演出者の名が際立つだけのもの、猿之助の遣らない猿之助歌舞伎など、薄味と言うよりも薄気味の悪い歌舞伎が主流になったようで、歌舞伎の前途は暗澹たるものだと思ってしまう。こんな時代に、岡本綺堂や二代目左團次を持ち出しても、却って彼ら先人に礼を失することかもしれないが、綺堂は外国文学や江戸風俗まで、左團次は同時代のヨーロッパ演劇や劇場制度まで研究し、芝居(歌舞伎)に活かそうとした。彼らのその姿勢は、劇作家でも俳優でもなく、歌舞伎研究者でもない、一介の演劇者である私の範とするものである。
 このブログの左側(緑地)下段にある検索機能を使って「岡本綺堂」を検索すると、12のブログが表記される。「左團次」は11、「左団次」で13のブログが表記される。260ほどのブログで、綺堂と左團次のことによく度々触れたものだと我ながら驚くが、これは長く敬意を抱いているのだから、当然と言えば当然だ。いたずらに「新国立劇場」を検索したら、今書いている≪「新国立劇場の開館十年」を考える≫と≪今月の鑑賞予定 劇場へ美術館へ≫を除いても36のブログが表記された。中傷やら嘲笑やら無視に負けずに、よく書いたものだと我ながら呆れるが、これは長く敵意を抱いているから、ということではない。
 先ほど、田中泯さんのところから「第80回土方巽の誕生を祝う会」開催の知らせを戴いた。「同時代に生まれた喜びを込めて、食事を共にしながら、生きている私たちの想いや望みを語」ろうとのご趣旨。土方巽没して22年、今も氏を偲ぶ人々は数多いる。対して岡本綺堂はどうだろう。綺堂作の左團次の芝居を観た観客も殆ど身罷り、綺堂の親族縁のある方を除けば、今も綺堂を偲ぶものは僅かであろう。僭越不遜は承知で、二年半前にこのブログに書いた≪「閲覧用書棚の本」≫其の六『岡本綺堂日記』を再録し、せめて岡本綺堂を知らない人々に綺堂の人となりの一端を紹介しよう。長文で恐縮だがお読み戴きたい。


2005年08月03日 「閲覧用書棚の本」其の六。『岡本綺堂日記』
GOLDONIのホームページに、『推奨の本』というコンテンツを作っている。そこでは既に、この『岡本綺堂日記』、『明治劇談 ランプの下にて』と、岡本綺堂の二作を取り上げている。まだお読みでない方は、是非そちらもお読み戴きたい。
『ランプの下にて』は、何度読んだことだろうか。とくに「団十郎の死」の項の書出しは、諳んじているほどだ。
「わたしはかなり感傷的の心持で菊五郎の死を語った。さらに団十郎の死について語らなければならない。今日、歌舞伎劇の滅亡云々を説く人があるが、正しく言えば、真の歌舞伎劇なるものはこの両名優の死と共にほろびたと言ってよい。その後のものはやや一種の変体に属するかとも思われる。」
綺堂は、この両名優の後を追うかのように翌明治37年に亡くなった初世市川左団次の死を記し、「私の長物語も先ずここで終ることにする。明治の劇談を団菊左の死に止めたのは、゛筆を獲麟に絶つ"の微意にほかならない。」と筆を擱く。

今回は『岡本綺堂日記』を取り上げる。
日常を描く日記の、ほんの些細な一二行の記載からも、弟子思いの綺堂の姿を見ることが出来る。それは同様に、雇い入れられた女中たちへの、綺堂の主人としての優しさをも、日記から読み取ることが出来る。
震災のあった大正十二(1923)年の十二月三十一日を、
「今年は色々の思い出の多い年で、一々それを繰返すに堪へない。それでも私たち夫婦と女中おふみの身に恙なかつたのが幸福であつたと思はなければならない。十二月十四日から中野が来て、家内が賑かになつた。なんと云つても、一家の責任は主人にある。来年はますます勉強して、一家の者にも幸運を分たなければならない。」と一年を締めくくる。
主家にとっての使用人、女中も家族であるとの認識は、歌舞伎や舞踊などの古典芸能の「家」での師匠と住込みの内弟子の関わりを幼い時から知っている私には当然に思えるが、「女中」が「お手伝いさん」、「家政婦さん」「ホームヘルパーさん」に変わった今日、理解しにくいことかもしれない。
翌大正十三年の九月五日の項に、
「おふみは九時ごろに暇乞いして出てゆく。(中略)夜になつてますます大雨。おふみは午後七時ごろに自宅へゆき着くとのことであるから、汽車を降りてからこの大雨に困つてゐるであらうと思ひやる。新しい女中が来てゐるが、古い馴染がゐなくなつて何だかさびしい。」とある。
同じ九月の十七日には、
「女中のおたかも三十八度五分ぐらゐの発熱で、今朝は起きられない。おえい(妻・栄子)と女中に寝込まれてはどうにもならないので、中野は学校を休むことにする。」
翌十八日も、「おたかは今日も寝てゐる。しかしもう平熱、心配することはない」と案じている。
書生の中野(後の劇作家・中野実)が市村座に出掛けた夜、「中野は中々帰らない。若い女中をひとり起して置くのも寂しかろうと思つて、わたしも起きてゐる。十二時近いころに中野帰宅。初日で幕間が長く、これでも一と幕見残して来たのだといふ。」

 妻と雇い入れたばかりの新しい女中が寝込んでいるこの数日に、以前働いていた使用人が、洗濯や炊事の手伝いに駆けつける。人情深い主人とその優しさに応えようとする女中たち。
こんな世界もなくなってしまった。


 2005年08月11日 「閲覧用書棚の本」其の六。『岡本綺堂日記』(続)
『岡本綺堂日記』は、震災のあった大正12年の7月25日から大正15年(昭和元年)12月31日までの三年半分の日記である。
大正6年6月、綺堂の門に集まる青年達が『嫩(ふたば)会』を組織し、以来月に一度は綺堂宅で、劇談、レコード鑑賞、雑談をしていた。彼らの書いた戯曲の添削をしたり、例会の開催を通知したり、劇場からの招待券を送ったり、到来物を分けて遣ったりと、なんとも弟子思いの綺堂である。震災前から、そしてこの日記の書かれた数年で、何人かの弟子を病で亡くす綺堂だが、そんな彼の姿を想像して涙した。明後日は盆の入りである。

大正十二(1923)年十二月二十二日
「読書。夕刻から雨やむ。神戸の友成の父から郵書が来て、友成は十四日午後八時遂に死去したといふ。かれの運命が長くないことは予想されないでも無かったが、今その訃音を聞くと今更のやうに悲しまれる。年はまだ廿二、活發な青年であつたのに、かへすがえすも残念なことであつた。栗原、菊岡、友成、ふたば会は七八年のあひだに三人の若い会員をうしなつたのである。一種寂寥の感に堪えない。すぐに神戸の森田に郵書を発して、ふたば会を代表して友成方へ悔みにゆくやうに云ひ送る。中嶋にも郵書を発して、ふたば会から悔み状と香典を郵送するやうに云ひ送る。わたしは別に悔み状と香典を送るつもりである。
読書。友成のことが色々思ひ出されて、なんだか楽しまない。窓をあけてみると、空はいつの間にか晴れて、無数の星がきらめいてゐる。夜まはりの拍子木の音がきこえる。」
大正十三(1924)年五月十四日
「午前七時起床。おえいが草花を買つて来て、庭に栽える。私も手伝つた。九時過るころに、講談社の岡田君が来て九月号に何か書いてくれといひ、三十分ほど話してゐるところへ至急電報が来て、「トシヲケサシス」とあつた。中嶋俊雄は今朝死んだのである。十一日におえいと中野が見舞に行つたときには、ますます快方に向ふらしいといふので、いささか安心してこの二日ほどは見舞にも行かなかつたところ、病気は俄に革まったものとみえる。なんだか夢のやうでぼんやりしてしまった。
(中略)それからすぐに仕度して薬研堀の病院へ行く。中嶋は十二日以来、腹膜炎を発し、更に腎臓炎を併発して、今朝八時遂に絶命したといふ。今更なんとも云ひやうがない。残念、残念。続いて柳田が来た。遺骸は納棺して自動車に乗せ、五時ごろから病院を運び出して青山原宿の自宅へ送つてゆく。(中略)中嶋が初めて私の家の門をくぐつたのは、大正三年十月十八日の日曜日で、時雨かかつた薄ら寒い日だつたやうに記憶してゐる。それから足かけ十一年、英一の葬式の時、母の葬式の時、彼はいつもよく働いてくれた。それが今は人に送られる身になつたのである。そんなことを繰り返して、おえいも泣く。
十二時半就寝。雨の音が耳について眠られない。それからそれへと色々のことが思ひ出された。」
大正十四(1924)年七月十日
「雨は夕から一旦やんだが、八時ごろから又ふり出した。その雨を冒して、九時ごろに柳田の姉がたづねて来た。柳田は容態いよいよ危篤、もはや二三日を過すまいといふ。早晩かうなることとは覚悟してゐたが、又、今更に痛い心持になる。本人の不幸、姉の不幸、実になんとも云ひやうがない。姉は十時ごろに雨のふる中を帰つてゆく。そのうしろ姿を見送つて涙ぐまれた。十時半就寝。雨の音はまだやまない。大正十一年に菊岡、十二年に友成、十三年に中嶋、三年ひきつづいてふたば会員をうしなつた上に、今年も又もや柳田を失はなければならない。どうして斯うも不幸がつづくのか、全くなさけないやうな心持になる。」
同年七月十一日
「九時ごろから家を出て、浅草須賀町の明治病院へゆく。柳田は第八号の病室に寝てゐた。本人はこの二三日気候の変化が激しいために少しく弱つたと云つてゐたが、酸素吸入でわづかに呼吸をささへてゐる体である。次の間へ出て、柳田の祖母と姉に面会、持参の見舞金をわたして暫く語る。姉の話によると、病人の容態はいよいよ悪く、もはや今夜を過すまいとのことであつた。就ては亡きあとの始末などを相談して、十一時半ごろにここを出た。
(中略)今夜はふたば会例会で、山下が来て中元の品をくれ、つづいて中野が来て、中元の礼をくれる。やがて小林も来る。今夜の会合者は以上三人。柳田危篤のことを私から聞かされて、いずれも驚いてゐた。例に依つて劇談雑談、十時半散会するころには又もや驟雨がふり出した。
十一時就寝。柳田は今ごろどんな状態であるかと思ひやる。夜のふけるまで雨の音がきこえた。」

2008年02月13日

「あんた、殺気があるよ」と戒めた、百瀬博教氏の死を悼む

 1月28日付の朝日新聞朝刊の社会面には、「格闘技のプロデューサーとしても知られる作家の百瀬博教さん(67)が27日、東京都港区南青山5丁目の自宅マンション浴室で意識不明の状態で見つかり、搬送先の病院で死亡した。警視庁は病死か事故死とみている。百瀬さんは、力道山や石原裕次郎が出入りした東京のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」で用心棒をしていた。著作に「不良ノート」「裕次郎時代」などがある。」との記事が出ていた。
 百瀬氏は一度だがGOLDONIに見えたことがある。その時のことは、2004年12月9日付のブログ≪『Sincere』と『Pride』の一夜≫に書いた。短い文章なので再録する。

 19時前、お茶の水女子大のOGを中心メンバーにした音楽企画集団『Sincere』の3人が、先月の公演の報告と今後の活動についての相談にやってくる。彼らと話し込んでいた21時前、店のガラス戸越しに中を覗くキャップを被った大柄の男性。なんだなんだと、彼らを押しのけて前進、ガラス戸を開ける。途端に男性3名、女性1名の4人組に囲まれる。キャップの男性は、「(フランス文学者の)鹿島茂さんにおたくを教えてもらった」と仰る。殴り込まれるのかと身構えていたが、とんだ勘違いで、恐縮しながら狭い店内へご案内。
 ニューラテンクォーター、用心棒、ピストル、懲役など、GOLDONIではついぞ耳にしない言葉が先様から発せられ、会話の中途で、作家の百瀬博教さんであることが判る。GOLDONIの店の構え・規模からしても利益が出るような商売ではないことはお判りなのだろうか、何冊か買って助けてやろうとの御慈悲でか、何冊もお買い下さるような勢いで本を選んでおられた(それも私の評価している亡くなった演劇人の本ばかり。物凄いインテリとの世評通りの選択。)ので、「手前どもはお一人様4冊までにして戴いております」と恐る恐る申し上げると、「そうか。ま、店の仕来たりだからな」と、見事なほどあっさりと納得して戴く。その後だったか、最初に私が店から出てきた時には、「俺に喧嘩を売りにきたのかと思ったよ」とも。「また来るからな」と不敵、いや素敵な笑顔で仰って、お供を引き連れお帰りになった。氏とのやり取りを見ていた彼らは、「懲役という言葉を生で聞くのは初めて」と感心、「いつもの凄みに、お墨付が与えられた」と、日夜自らの粗暴さを戒め、精進に努める私をからかった。

 
 今日は上のブログで触れなかったことを少し書く。
 私が戸外まで見送りをした時、百瀬氏は「俺に喧嘩を売りに来たのかと思ったよ」とおどけながら仰り、そして語調を変え、驚くほどに優しく、「あんた、殺気があったよ」。氏の、「殺気は隠せ」「気をつけろよ」との忠告だったのかもしれない。そして、「困ったことがあったら、いつでも言って来てくれよ」とも言われたが、生来持ち合わせていない「凄み」の効かせ方など授けて戴くのも躊躇われ、また当方が不在がちでもあってか、残念ながら氏との再会は叶わなかった。
 百瀬氏とのホンの20分足らずの、しかし大きな戒めを戴いた出会いであった。ご冥福を祈る。


2004年12月19日

水道橋能楽堂の『劇場の記憶』

 午前中に渋谷Bunkamuraザ・ミュージアムでの『流行するポップ・アート展』を観ようと思っていたが、午後にも予定があり、今週の平日に行くことにする。10時過ぎGOLDONIに。頼まれている企画のアイデアを絞ろうとするが、資料を読んでいるうちに出掛ける時間になり、まったく捗らずじまい。13時40分、GOLDONIを閉め歩いて水道橋・宝生能楽堂に。
今日の能は、シテ東川光夫(曾我十郎)の『小袖曾我』。曾我の十郎、五郎兄弟が、父・河津三郎を殺した工藤祐経を十八年の辛苦の末に仇を討つ、という歌舞伎でいえば曾我狂言の源流にある「吾妻鏡」「曾我物語」に取材した作品のひとつ。源頼朝の富士での巻狩に従う祐経を討つべく、十郎祐成、五郎時致の兄弟が仇討ちの挨拶(永久の別れ)に母を訪ねるが、法師になるはずが幼少からの仇討ちの一念から、預けられていた別當から逃亡した弟五郎は、母の勘当を受けていて対面叶わず。十郎は五郎を伴い、母の前で弟の孝心など訴えたが聞き入れられず、泣きながら去ろうとすると、やっと心が通じたのか母は二人を許し、兄弟は晴れやかに富士の裾野をめざして発つ、という筋書き。動きの少ないツレ和久莊太郎(母)を観ながら、四十年ほど前に初めてここ(旧・水道橋能楽堂)に来たことなどを想い出していた。
 最初は母のお供だったが、母が亡くなった後は、たびたび師匠と一緒に勉強に来た。二十六年も前のことだが、地方出張から戻りその足で日生劇場へ。その楽屋前の通路で、今は亡き女優の影万里江に呼び止められた。「なにしてるの。おばさん、亡くなったわよ」「どこのおばさん?」「翠扇さん!。あんたんちの他の伯母さんは知らないわよ。早く会ってきなさい」。
市川翠扇の葬儀の夜だったか、師匠に参列の礼を伝えに稽古場を訪ねた折、私を慰めるつもりでか亡母や翠扇との想い出を語り、別れ際には、独身で子を持ったことのない彼女は、子を諭すような母親の表情になって、「(後援者は)私だけになったわね。私を大事にしなさいよ」と、笑顔で言い、珍しく門の外で私の姿が見えなくなるまで見送って呉れた。
そのひと月後、『ウエストサイド物語』北海道ツアーから戻った朝、彼女の突然の死を知らされた。勘当が解け、晴れやかに舞う兄弟を佇み見守る十郎、五郎の母と、門の外で、「振り向かないでいいから。前を向いて歩きなさい」とでも言うような所作で見送っていた師匠とが重なった。
 水道橋能楽堂が想い出させてくれた過ぎし日。これもまた、『劇場の記憶』だ。

2004年12月15日

貸切り状態の『千田是也展』

朝9時過ぎ、昨晩遅くまで狭いGOLDONIで、出席者7名でのミーティングをしたので、その為に移動させた本や棚を元に戻すなどの後片付けをして、11時に早稲田大学演劇博物館に赴く。「新劇の巨人-その足跡」と副題された『千田是也展』の最終日。いつものように一階の閲覧者の人数を数え(2人)、会場の2階に上がると、受付のガードウーマンの他に人影無し。この展覧会の関連シンポジウムが先月4日が開かれたが、平日の午後だったので参加できなかったが、明治大の神山彰教授やGOLDONI JUGENDの話では、パネラーの中で、小沢昭一氏、佐藤信氏の語る、千田是也氏との邂逅、旧俳優座劇場、俳優座養成所時代のエピソードが秀逸だったそう。一人で静かに歩いても怖いほどに床の軋む演劇博物館、シンポジウムのあったその日くらいは、大人数が押しかけ、危険回避のための入場制限をする騒ぎにでもなったのだろうか。展示品は、写真やポスター、公演の映像など、安手の印象。昭和18年8月の、真船豊から千田宛ての手紙があった。<…森(雅之)や戌井(市郎氏)などは前々から度々小生に言ってゐたことですが、稽古といへば、文学座は元来ままごとのやうなことばかり。一度あなたの手にかかって根本的に叩いて貰いたい、といふことは熱心に私の前で言ってゐたことで、「結局、文学座しかないですね」「森は本筋の役者です」と私に言ったあなたの言葉を思ひ出したので…>とあった。これが、真船豊の作・演出の文学座公演『田園』で、千田是也が覆面演出をしたきっかけとなった手紙。演劇博物館は千田氏の蔵書の寄贈を受け、千田文庫として管理しているようだが、その参考にか、数十点の単行本を展示していた。その本の背表紙のシールの貼り方のだらしなさに愕然。ニコライ・ブハリン著『史的唯物論』などは、まったく補修されていなかった。本来は補修して収蔵することが書籍管理の原則だが、都も西北まで来ると他の考えでもあるのか。予算が足りず、蔵書の管理まで手が回らないという、大学経営側などに対する今回の展示にかこつけた手の込んだアピールなのだとしたら、演博関係者は見事な演出力。手書きや辞書を切り貼りして作った千田さんの情報カードを初めて見た。戦後の50年代、関西公演『オセロ』の大阪朝日会館の楽屋での休憩時間にカードゲームをしようとして、自分の名刺で作った自筆手書きトランプは見事なもの。千田さんのビジュアルなセンスは、遺伝・環境が作ったものだろうが、映画の黒沢明といい、千田是也といい、一級の演出家は絵が描け、その造形力も高い。舞台美術家・オペラ演出家・映画監督のフランコ・ゼフィレッリはその典型か。批判は承知で何度でも言うが、他人の舞台は殆ど観ず、独善的な唯のやりたがり、演劇専門教育は無論のこと、美術や建築・工芸などの素養も造詣もなく、同様にやりたがりの、戯曲分析力が演出家同様身に付かない舞台美術デザイナーと組んで天晴れな舞台を作り続ける我が国の昨今の舞台演出家の何人が、日常の気分だけは遣ってるつもりの演劇人の何人が、この巨人を作った時代や環境、演劇の偉大さ崇高さを感じる絶好の機会でもあったこの展覧会に足を運んだのだろうか。私のような至らぬ者にさえ、常に気付きの機会は用意されているが、唯我独尊の天晴れなやってるつもりの演劇人たる彼らには、どうなのだろう。