2021年07月

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

アーカイブ

« 「新国立劇場の開館十年」を考える(二十三)≪巨額な国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(十)≫ | メイン | 「新国立劇場の開館十年を考える」(二十四)≪次期芸術監督人事について(一)≫ »

もうひとつの「7月14日」  

 ―劇団四季創立記念日に先人を偲ぶ
 今日7月14日は劇団四季の創立55周年の記念日である。午後には、記者会見などが予定されていると聞く。新聞、テレビ・ラジオなどで取り上げられることだろうから、私の拙い文で祝意を表すことは差し控えよう。

 今回は1928(昭和3)年に敢行された、歌舞伎の最初の海外公演について書く。それは、今は無きソビエト連邦政府の招聘による二代目市川左團次一座の、モスクワ、レニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)公演である。
この歌舞伎公演は、前年の建国10年祭に国賓として招かれた小山内薫が、ソビエト連邦政府の当局者と交した会話で出た話といわれ、帰国した小山内が、左團次、そして松竹・大谷竹次郎社長に相談し快諾を得、駐日ソビエト大使館に伝え実現したとされている。
この公演は、モスクワ第二芸術座(客席数千三百強)で行われ、初日前に12日分のチケットが売り切れ、急遽次のレニングラードでの公演を短縮して、5日の日延べとし17日間の興行となった。尚、この劇場の芸術監督は名優ミハイル・チェーホフだったが、この月にアメリカに亡命していて、左團次一座とは遭遇していない。
 『左團次歌舞伎紀行』(平凡社、1929年刊)からの孫引きだが、当時の大阪朝日新聞の記事によれば、「その日またもや前賣切符を賣出したが、忽ち午前中に最終日までの分が賣切れてしまつたのだといふ。切符賣出しの當初は争つて求める民衆の列が、あの劇場廣場に數町にわたつてゐたといふ。何しろ革命以後劇らしい劇が来てくれず、外國ものに全く渇していた芝居好きの國民はこんど始めて外國の大物、しかも露國にとつては始めての純『カブキ』といふ最も珍しい東洋劇を迎へたのであるから、民衆の喜びは、いふまでもない…」(同書)という盛況ぶりだった。
 蛇足だが、この左團次一座の本邦初の海外歌舞伎公演の後は、夥しい数の海外歌舞伎公演が実施されている。昨年も、パリでは団十郎、海老蔵などの一座が、ニューヨーク、ワシントンでは勘三郎一座が公演しているが、パリは5日間、ニューヨークは6日間、ワシントンは1日という短期間の公演だった。左團次一座の公演の意義、影響力は無論だが、規模の大きさが知れよう。
 尚、団十郎、勘三郎の公演はともに、その挨拶やら演出に、それぞれフランス語、英語を取り入れたという。日本の伝統芸能たる歌舞伎を知らしめる公演では如何なものだろう。
 ―外國で日本の芝居をやる場合に、ともすると演技の上で外國人の気に入るやうに、外國人の趣味に迎合するやうにと殊更に改めることが多いが、そんなことは今度のロシア興行ではとらない所である。飽く迄も純日本式に演つて、日本固有の國劇を忠實に紹介するといふ精神で演じて貰いたい―
 左團次は、松竹・大谷社長主催の壮行会でこう述べたという。百年も前にヨーロッパに学んだ経験を持つ唯一の歌舞伎俳優の、至極真っ当な言である。

 第二芸術座での興行の翌日には、隣のボリショイ劇場(客席数四千五百強)で追加の公演をした。「さしもの大劇場も立錐の余地ないまでの満員で大盛況のうちにモスクワ十八日間の興行を打ち上げ」(同書)たという。
 レニングラード公演は、第二芸術座と同規模の国立マールイ・オペラ劇場で7日間行われた。残り三回の公演の六千枚程のチケットの申込数は四万を超えたという。また、同市で公演中のメイエルホリド一座(「メイエルホリド名称国立劇場」のことか)の招待を受け、エレンブルグの『ヨーロツパの滅亡』、ゴーリキーの『検察官』、オストロフスキー『森』のそれぞれ一部上演を観劇した。メイエルホリド本人は、前月からフランスに休暇滞在していたため、左團次とは出会っていない。

 たびたび引用した『左團次歌舞伎紀行』には、劇団四季代表の浅利慶太氏の父、浅利鶴雄氏の若き日の写真と、氏が著した「海外公演準備日誌」「歐州巡遊記」が掲載してある。氏は、この左團次一座公演のために単身モスクワに赴き、事前折衝を済ませて戻り、松竹副社長秘書として本隊に同行した。一行は、左團次、松竹副社長・城戸四郎、鶴雄氏にとっては叔母にあたる左團次夫人・高橋とみ(登美)、病気で渡航を断念した小山内薫に代わって演出・文芸顧問役を務める劇作家の池田大伍など総勢45名。東京から列車で敦賀まで行き、敦賀から船でウラジオストクまで、そこからモスクワまではシベリア鉄道と、二週間を超える旅程である。当初は、朝鮮・満州を経由してチタからシベリア鉄道でモスクワへ入る予定だったが、満州鉄道の列車転覆事件が報道された直後であり、ソビエト政府から「安全確保のため、最初からソビエト国領を通過して欲しい」との要請があって、この行程に変更された。
 敦賀港出港の様子が描かれているので、採取する。
 ―午後三時、嘉義丸に乗船のため桟橋に行く。桟橋には敦賀町長後藤貞雄、敦賀廓検査總取締北川作治郎氏を始め町の有志、組合の藝妓總出の見送りで波止場は立錐の餘地もない。一行は嘉義丸に乗船して甲板に並ぶ。やがて出船の合圖の銅鑼が響き渡り、萬歳の聲に送られて汽船は波止場を離れて行く。甲板の人々と波止場に見送る美妓連の手に握り交はされた赤や青や紫のテープは綾をなしながらひらひらと船足と共に延びてゆく。それも一つ切れ、二つ切れ、最後まで残つてゐた左團次丈の手のテープもきれた。(略)かうして先發した大道具の三人を除く一行四十五人を乗せた嘉義丸は船首を一轉すると一路浦鹽へ向けてエンヂンの音を高めたのである。―
 
 この敦賀港の出港は、今から80年前、劇団四季創立の四半世紀前のきょう、7月14日のことであった。