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2008年03月 アーカイブ

2008年03月01日

岡本綺堂を偲ぶ

 今日3月1日は岡本綺堂の命日である。来年は綺堂の、再来年は二代目市川左團次の没後70年に当たる。昨今の何とも薄味の歌舞伎座、国立劇場の歌舞伎には辟易とするが、ましてや、不良青年達の若手もの、単なるリメイク物や演出者の名が際立つだけのもの、猿之助の遣らない猿之助歌舞伎など、薄味と言うよりも薄気味の悪い歌舞伎が主流になったようで、歌舞伎の前途は暗澹たるものだと思ってしまう。こんな時代に、岡本綺堂や二代目左團次を持ち出しても、却って彼ら先人に礼を失することかもしれないが、綺堂は外国文学や江戸風俗まで、左團次は同時代のヨーロッパ演劇や劇場制度まで研究し、芝居(歌舞伎)に活かそうとした。彼らのその姿勢は、劇作家でも俳優でもなく、歌舞伎研究者でもない、一介の演劇者である私の範とするものである。
 このブログの左側(緑地)下段にある検索機能を使って「岡本綺堂」を検索すると、12のブログが表記される。「左團次」は11、「左団次」で13のブログが表記される。260ほどのブログで、綺堂と左團次のことによく度々触れたものだと我ながら驚くが、これは長く敬意を抱いているのだから、当然と言えば当然だ。いたずらに「新国立劇場」を検索したら、今書いている≪「新国立劇場の開館十年」を考える≫と≪今月の鑑賞予定 劇場へ美術館へ≫を除いても36のブログが表記された。中傷やら嘲笑やら無視に負けずに、よく書いたものだと我ながら呆れるが、これは長く敵意を抱いているから、ということではない。
 先ほど、田中泯さんのところから「第80回土方巽の誕生を祝う会」開催の知らせを戴いた。「同時代に生まれた喜びを込めて、食事を共にしながら、生きている私たちの想いや望みを語」ろうとのご趣旨。土方巽没して22年、今も氏を偲ぶ人々は数多いる。対して岡本綺堂はどうだろう。綺堂作の左團次の芝居を観た観客も殆ど身罷り、綺堂の親族縁のある方を除けば、今も綺堂を偲ぶものは僅かであろう。僭越不遜は承知で、二年半前にこのブログに書いた≪「閲覧用書棚の本」≫其の六『岡本綺堂日記』を再録し、せめて岡本綺堂を知らない人々に綺堂の人となりの一端を紹介しよう。長文で恐縮だがお読み戴きたい。


2005年08月03日 「閲覧用書棚の本」其の六。『岡本綺堂日記』
GOLDONIのホームページに、『推奨の本』というコンテンツを作っている。そこでは既に、この『岡本綺堂日記』、『明治劇談 ランプの下にて』と、岡本綺堂の二作を取り上げている。まだお読みでない方は、是非そちらもお読み戴きたい。
『ランプの下にて』は、何度読んだことだろうか。とくに「団十郎の死」の項の書出しは、諳んじているほどだ。
「わたしはかなり感傷的の心持で菊五郎の死を語った。さらに団十郎の死について語らなければならない。今日、歌舞伎劇の滅亡云々を説く人があるが、正しく言えば、真の歌舞伎劇なるものはこの両名優の死と共にほろびたと言ってよい。その後のものはやや一種の変体に属するかとも思われる。」
綺堂は、この両名優の後を追うかのように翌明治37年に亡くなった初世市川左団次の死を記し、「私の長物語も先ずここで終ることにする。明治の劇談を団菊左の死に止めたのは、゛筆を獲麟に絶つ"の微意にほかならない。」と筆を擱く。

今回は『岡本綺堂日記』を取り上げる。
日常を描く日記の、ほんの些細な一二行の記載からも、弟子思いの綺堂の姿を見ることが出来る。それは同様に、雇い入れられた女中たちへの、綺堂の主人としての優しさをも、日記から読み取ることが出来る。
震災のあった大正十二(1923)年の十二月三十一日を、
「今年は色々の思い出の多い年で、一々それを繰返すに堪へない。それでも私たち夫婦と女中おふみの身に恙なかつたのが幸福であつたと思はなければならない。十二月十四日から中野が来て、家内が賑かになつた。なんと云つても、一家の責任は主人にある。来年はますます勉強して、一家の者にも幸運を分たなければならない。」と一年を締めくくる。
主家にとっての使用人、女中も家族であるとの認識は、歌舞伎や舞踊などの古典芸能の「家」での師匠と住込みの内弟子の関わりを幼い時から知っている私には当然に思えるが、「女中」が「お手伝いさん」、「家政婦さん」「ホームヘルパーさん」に変わった今日、理解しにくいことかもしれない。
翌大正十三年の九月五日の項に、
「おふみは九時ごろに暇乞いして出てゆく。(中略)夜になつてますます大雨。おふみは午後七時ごろに自宅へゆき着くとのことであるから、汽車を降りてからこの大雨に困つてゐるであらうと思ひやる。新しい女中が来てゐるが、古い馴染がゐなくなつて何だかさびしい。」とある。
同じ九月の十七日には、
「女中のおたかも三十八度五分ぐらゐの発熱で、今朝は起きられない。おえい(妻・栄子)と女中に寝込まれてはどうにもならないので、中野は学校を休むことにする。」
翌十八日も、「おたかは今日も寝てゐる。しかしもう平熱、心配することはない」と案じている。
書生の中野(後の劇作家・中野実)が市村座に出掛けた夜、「中野は中々帰らない。若い女中をひとり起して置くのも寂しかろうと思つて、わたしも起きてゐる。十二時近いころに中野帰宅。初日で幕間が長く、これでも一と幕見残して来たのだといふ。」

 妻と雇い入れたばかりの新しい女中が寝込んでいるこの数日に、以前働いていた使用人が、洗濯や炊事の手伝いに駆けつける。人情深い主人とその優しさに応えようとする女中たち。
こんな世界もなくなってしまった。


 2005年08月11日 「閲覧用書棚の本」其の六。『岡本綺堂日記』(続)
『岡本綺堂日記』は、震災のあった大正12年の7月25日から大正15年(昭和元年)12月31日までの三年半分の日記である。
大正6年6月、綺堂の門に集まる青年達が『嫩(ふたば)会』を組織し、以来月に一度は綺堂宅で、劇談、レコード鑑賞、雑談をしていた。彼らの書いた戯曲の添削をしたり、例会の開催を通知したり、劇場からの招待券を送ったり、到来物を分けて遣ったりと、なんとも弟子思いの綺堂である。震災前から、そしてこの日記の書かれた数年で、何人かの弟子を病で亡くす綺堂だが、そんな彼の姿を想像して涙した。明後日は盆の入りである。

大正十二(1923)年十二月二十二日
「読書。夕刻から雨やむ。神戸の友成の父から郵書が来て、友成は十四日午後八時遂に死去したといふ。かれの運命が長くないことは予想されないでも無かったが、今その訃音を聞くと今更のやうに悲しまれる。年はまだ廿二、活發な青年であつたのに、かへすがえすも残念なことであつた。栗原、菊岡、友成、ふたば会は七八年のあひだに三人の若い会員をうしなつたのである。一種寂寥の感に堪えない。すぐに神戸の森田に郵書を発して、ふたば会を代表して友成方へ悔みにゆくやうに云ひ送る。中嶋にも郵書を発して、ふたば会から悔み状と香典を郵送するやうに云ひ送る。わたしは別に悔み状と香典を送るつもりである。
読書。友成のことが色々思ひ出されて、なんだか楽しまない。窓をあけてみると、空はいつの間にか晴れて、無数の星がきらめいてゐる。夜まはりの拍子木の音がきこえる。」
大正十三(1924)年五月十四日
「午前七時起床。おえいが草花を買つて来て、庭に栽える。私も手伝つた。九時過るころに、講談社の岡田君が来て九月号に何か書いてくれといひ、三十分ほど話してゐるところへ至急電報が来て、「トシヲケサシス」とあつた。中嶋俊雄は今朝死んだのである。十一日におえいと中野が見舞に行つたときには、ますます快方に向ふらしいといふので、いささか安心してこの二日ほどは見舞にも行かなかつたところ、病気は俄に革まったものとみえる。なんだか夢のやうでぼんやりしてしまった。
(中略)それからすぐに仕度して薬研堀の病院へ行く。中嶋は十二日以来、腹膜炎を発し、更に腎臓炎を併発して、今朝八時遂に絶命したといふ。今更なんとも云ひやうがない。残念、残念。続いて柳田が来た。遺骸は納棺して自動車に乗せ、五時ごろから病院を運び出して青山原宿の自宅へ送つてゆく。(中略)中嶋が初めて私の家の門をくぐつたのは、大正三年十月十八日の日曜日で、時雨かかつた薄ら寒い日だつたやうに記憶してゐる。それから足かけ十一年、英一の葬式の時、母の葬式の時、彼はいつもよく働いてくれた。それが今は人に送られる身になつたのである。そんなことを繰り返して、おえいも泣く。
十二時半就寝。雨の音が耳について眠られない。それからそれへと色々のことが思ひ出された。」
大正十四(1924)年七月十日
「雨は夕から一旦やんだが、八時ごろから又ふり出した。その雨を冒して、九時ごろに柳田の姉がたづねて来た。柳田は容態いよいよ危篤、もはや二三日を過すまいといふ。早晩かうなることとは覚悟してゐたが、又、今更に痛い心持になる。本人の不幸、姉の不幸、実になんとも云ひやうがない。姉は十時ごろに雨のふる中を帰つてゆく。そのうしろ姿を見送つて涙ぐまれた。十時半就寝。雨の音はまだやまない。大正十一年に菊岡、十二年に友成、十三年に中嶋、三年ひきつづいてふたば会員をうしなつた上に、今年も又もや柳田を失はなければならない。どうして斯うも不幸がつづくのか、全くなさけないやうな心持になる。」
同年七月十一日
「九時ごろから家を出て、浅草須賀町の明治病院へゆく。柳田は第八号の病室に寝てゐた。本人はこの二三日気候の変化が激しいために少しく弱つたと云つてゐたが、酸素吸入でわづかに呼吸をささへてゐる体である。次の間へ出て、柳田の祖母と姉に面会、持参の見舞金をわたして暫く語る。姉の話によると、病人の容態はいよいよ悪く、もはや今夜を過すまいとのことであつた。就ては亡きあとの始末などを相談して、十一時半ごろにここを出た。
(中略)今夜はふたば会例会で、山下が来て中元の品をくれ、つづいて中野が来て、中元の礼をくれる。やがて小林も来る。今夜の会合者は以上三人。柳田危篤のことを私から聞かされて、いずれも驚いてゐた。例に依つて劇談雑談、十時半散会するころには又もや驟雨がふり出した。
十一時就寝。柳田は今ごろどんな状態であるかと思ひやる。夜のふけるまで雨の音がきこえた。」

2008年03月02日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年3月≫

高村 光雲 『幕末維新懐古談』
 1995年  岩波文庫

 かくてちょうど私の年齢は二十三歳になり、その春の三月十日にお約束通り年季を勤め上げて年明けとなりました。すなわち明治七年の三月十日で文久三年の三月十日に師匠へ弟子入りをしてから正に丸十一年で(礼奉公が一年)年明けすなわち今日の卒業をしたのでありました。
 で、師匠も大きに喜んでくれられ、当日は赤飯を炊き、肴を買って私のために祝ってくれられ、私の親たちをも招かれました。その時父兼松は都合あって参りませんでしたが、母が参り、師匠の前で御馳走になりました。その時師匠は改めて私に向い、将来について一つの訓戒をお話しであった。
 「まず、とにかく、お前も十一年というものは、無事に勤めた。さて、これよりは一本立ちで独立することとなれば、また万事につけて趣が異って来る。それに附けていうことは、何よりも気を許してはならんということである。年季が明けたからといって、俺は一人前の彫刻師となったと思うてはいかぬ。今日まではまず彫刻一通りの順序を習い覚えたと思え。これからは古人の名作なり、また新しい今日の名人上手の人たちのものについて充分研究を致し、自分の思う所によっていろいろと工夫し、そうして自分の作をせねばならぬ。それにつけて、将来技術家として世に立つには少時も心を油断してはならぬ。油断は大敵で、油断をすれば退歩をする。また慢心してはならぬ。心が驕れば必ず技術は上達せぬ。反対に下がる。されば、心を締め気を許さず、謙って勉強をすれば、仕事は段々と上がって行く。また、自分が彫刻を覚え、一人前になったからといって、それで好いとはいわれぬ。自分が一家を為せば、また弟子をも丹精して、種を蒔いて、自分の道を伝える所の候補者をこしらえよ。そして、立派な人物を自分の後に残すことをも考えなくてはならぬ。お前の身の上についてはさらにいうこともないが、これだけは技術のために特に話し置く」
 こう東雲師は諄々と私に向って申されました。私は、いかにも御もっとものお話故、必ず師匠のお言葉を守って今後とも勉強致します旨答えました。
 すると、師匠は、至極満足の体でいられたが、さらに言葉を継ぎ、
 「お前の名前のことについてであるが、今後はお前も一人前となることゆえ、名前が幸吉ではいけない。彫刻師として彫刻の号を附けねばならぬ。ついては、お前の幼名が光蔵というから、この光に、私の東雲の雲の字を下に附けて光雲としたがよろしかろう。やっぱり幸吉のコウにも通っているから……」
と申されました。
 (「年季あけ前後の話」より)

 木彫りの世界はこういうあわれむべき有様でありましたので、私は、どうかしてこの衰頽の状態を輓回したいものだと思い立ちました。ついては、何事によらず、一つの衰えたものを旺んにするにはまず戦わねばならぬ。戦争をするとすると兵隊が入ります。で、その兵隊を作らねばならないとまず差し当ってこう考えました。すなわち木彫界の人を作らなければならない。人の数が多くなればしたがって勢力が着いて来る。そうすれば世に行われると、まあ、見当をつけたのであります。そこで、そういう手段でその人を殖やす方法を取るべきであるか……ということになるのですが、どうといって、弟子でも置いて段々と丹精して、まず自分から手塩に掛けて作るよりほかはない。……と気の長い話でありますが、こう考えるよりほかに道もありませんでした。
 ところが、木彫りは今も申す如く、衰えていて、私自身がその当時現に困窮の中に立ち、終日孜々汲々としていてようやく一家を支えて行く位の有様であるから、誰も進んで木彫りをやろうというものがありません。私自身が弟子を取りたいと考えても、弟子になりてがないという有様である。それは無理からぬ事で、木彫りをやってみた処で、世間に通用しない仕事と看做されていることだから、そういう迂遠な道へわざわざ師匠取りをして這入って来ようという人のないのは、その当時としてはまことに当然のことであったのでした。
 それはそうとして、とにかく私は弟子を取って一人でも木彫りの方の人を殖やす必要を感じている。でその弟子取りを実行しようと思うのですが、それがまた容易には実行出来ないのであります。……というのは、弟子を置けば雑用が掛かります。自分の生計向きは困難の最中……まず何より経済の方を考えなければならない。弟子を置いても弟子に食べさせるものもなく、また自分たちも食べて行けないとあっては、何んとも話が初まらぬわけでありますから―が、まあ、食べさせる位のことはどうやら出来る。自分たちが三杯のものを二杯にして、一杯ひかえたとしても、弟子一人位の食べることは出来る。しかし、暑さ寒さの衣物とか、小遣いとかというものを給するわけには行かない。たとえば私の師匠東雲師が旺んにやっておられた時代に、私たちのような弟子を置いたようなわけとは全く訳が違います。で、なるべくならば、衣食というようなことに余り窮していない方の子弟があって、そういう人が弟子になりたいというのならば、甚だ都合が好いのでありました。しかし、困ってはおっても身の皮を剥いでも、弟子を取り立てたいという希望は充分にあったことで、これが私の木彫り輓回策実行の第一歩というようなわけでありました。
 (「門人を置いたことについて」より)

2008年03月03日

劇場へ美術館へ
≪GOLDONI/2008年3月の鑑賞予定≫

[演劇]
*3月20日(木)から5月18日(日)まで。  浜松町・四季劇場[秋]
劇団四季公演『ミュージカル 李香蘭』
企画・構成・演出:浅利 慶太  作曲:三木 たかし
劇団四季HP http://www.shiki.gr.jp/

*6日(木)から9日(日)まで。     西巣鴨・にしすがも創造舎
『溺れる男』(アルゼンチン)
演出:ダニエル・ベロネッセ

*14日(金)から17日(月)まで。    西巣鴨・にしすがも創造舎
『ムネモパーク』(スイス)
構成・演出:シュテファン・ケーギ

[歌舞伎] 
*2日(日)から26日(水)まで。       東銀座・歌舞伎座
『3月大歌舞伎』
演目:『一谷嫩軍記』『女伊達』『廓文章』
出演:藤十郎  菊五郎  仁左衛門  団十郎 ほか

*2日(日)から11日(火)まで。       三宅坂・国立劇場
3月歌舞伎鑑賞教室「歌舞伎へのいざない」
『芦屋道満大内鑑―葛の葉―』
出演:中村 芝雀  中村 種太郎 ほか

[舞踊]
*21日(金)から23日(日)まで。    西巣鴨・にしすがも創造舎
『アレコ』ほか2作(ベルギー)
振付:シディ・ラルビ・シェルカウイ 
   ダミアン・ジャレ
   アレクサンドラ・ジルベール

[音楽]
*10日(月)。       初台・東京オペラシティコンサートホール
『アンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタル』
演奏曲目:ベートーヴェン:ピアノソナタ第17番「テンペスト」
                 :ピアノソナタ第21番「ワルトシュタイン」
         シューマン:幻想曲ハ長調   

*23日(日)。              江戸川橋・トッパンホール
『マーティン・ヘルムヘン ピアノ・リサイタル』
演奏曲目:J.S.バッハ:パルティータ第6番 ホ短調
     メシアン: 「幼な子イエスに注ぐ20の眼差し」より
     シューベルト:ピアノ・ソナタ第20番 イ長調 D959
     リスト:スペイン狂詩曲

[展覧会]
*30日(日)まで。           丸の内・出光美術館
『西行の仮名 併設 重文 俵屋宗達筆・西行物語絵巻』

*31日(月)まで。       白金台・東京都庭園美術館
『建築の記憶 -写真と建築の近現代-』

*4月13日(日)まで。   木場公園・東京都現代美術館
『川俣 正[通路]』展

2008年03月07日

「新国立劇場の開館十年」を考える(十六)
≪巨額な国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(四)≫

 パチンコ施設業者の団体の長に収まる元文部科学大臣
今回は遠山敦子理事長が兼職する、全日本社会貢献団体機構会長職について書く。
 NHKの会長に就任したばかりの福地茂雄氏が、会長職に専念することなく、「非営利の組織で非常勤の務めだから」と兼職を続けるとしたポストの一つが、社団法人企業メセナ協議会理事長の職である。企業メセナ協議会は、大手企業を中心に150社の会員で構成する企業による文化貢献のための団体。全日本社会貢献団体機構という名は、遠山氏の数多い兼職ポストを調べ始めたつい最近になって知った。先の企業メセナ協議会の設立を主導したのが、フランスの文化支援に詳しかった朝日新聞元パリ支局長の根本長兵衛氏であったので、「全日本社会貢献団体機構」という何とも大きく立派な名を持つ団体は、朝日新聞に強い敵愾心を持つ読売新聞が設立を画した新しい文化支援組織なのかとも思ったが、実のところは、パチンコホール業者の全国組織・全日本遊技事業協同組合連合会が母体となって作った任意団体であった。「全日本」も「社会貢献」も充分に立派だが、「機構」には驚いた。「機構」という名を冠した任意団体が他にあるのか寡聞にして知らないが、パチンコホール業者の志の高さ、社会貢献への意気込みが強く感じられ、私も公益法人を設立する折には、「全宇宙劇場文化貢献機構」とでも命名しようかと思うほどだ。ただそれだと、「宇宙劇場」というパチンコホールチェーンの経営者になったようで、あっぱれ過ぎるか。
 この団体は、平成17年12月に、全日本遊技事業協同組合連合会の地方単組が続けてきた社会貢献事業を全国規模で進めていこうとの趣旨で設立した任意団体だが、名誉会長は日本画家で、日本美術界のドンともいわれる平山郁夫氏。顧問は、塩川正十郎元財務大臣、美術史・美術評論の泰斗である高階秀爾東京大学名誉教授など。理事・評議員には、全国のパチンコホール経営者に交じって、社団法人日本ユネスコ連盟の理事長や、平山氏が会長を務める「文化財保護・芸術研究助成財団」の専務理事、アサヒビールの会長、全日空の最高顧問、東京芸術大学学長の宮田亮平氏など、平山氏と親しい人物が名を連ねている。遠山氏の就任挨拶にも、平山氏からの推挙で会長を引き受けたとある。
 この団体の活動の柱は、加盟する地方の単組が行う社会貢献事業を顕彰すること、学術、文化、命の大切さについての研究・事業活動に助成することのようだ。研究・事業助成については既に34事業を助成したそうで、その主なものを拾うと、「日中韓文化交流フォーラム」を主催する「文化財保護・芸術研究助成財団」に一千万円(17年度)三百万円(19年度)、シンポジウム「危機にさらされている世界遺産をどう守るか」を主催する社団法人日本ユネスコ連盟に四百万円(18年度)、東京芸術大学学長の宮田亮平氏が同人である「美術運動体 九つの音色」に三百万円(19年度)、そして、遠山敦子会長が理事長を務める新国立劇場の「こどものためのオペラ劇場」に五百万円(18年度)、四百万円(19年度)など。さすがは芸術文化の世界に君臨していると言われる平山郁夫氏の主導するこの活動、この団体の役員が関わる事業に助成金が給付されている。この分では、来年度は、高階秀爾氏が館長を務める大原美術館や、氏が大学院長を務める京都造形芸術大学の主催事業が助成されることになるのかもしれない。社会貢献事業を顕彰する審査には、理事でもある地方協同組合の代表者は参加しないなどの適正な運営をしているのだが、この研究・助成事業についての審査は、上記のように、平山郁夫氏、遠山敦子氏始め主だった役員のところに助成することを、その当事者たちが決めている訳で、極めて不適正な審査だと言わねばならない。
 今年の遠山敦子会長の新年挨拶には、この団体が「全日本遊技事業協同組合連合会が母体となり、学識経験者、文化人、政財界関係者が参加して設立された第三者機関です。」とあった。昨今は死語のようになった「文化人」という言葉に久しぶりに触れた。「学識経験者」「政財界関係者」の範疇には入らないご自身を、「文化人」と規定したかったのかもしれない。また、この任意団体が「第三者機関」とは、どういうことだろうか。こういう組織を、「第三者機関」とは言わないのではないか。「国語の改善及びその普及」についての事務を司る文部科学省の元大臣にして、この国語力である。
 この団体の母体である全日本遊技事業協同組合連合会は、助成審査の実態を調べるために、それこそ「第三者機関」を設けるべきではないだろうか。