2017年09月

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

アーカイブ

« 「新国立劇場の開館十年」を考える(十五)≪巨額な国費が投入されながら、理事長・芸術監督が専念しない不思議な劇場(三)≫ | メイン | 推奨の本≪GOLDONI/2008年3月≫ »

岡本綺堂を偲ぶ

 今日3月1日は岡本綺堂の命日である。来年は綺堂の、再来年は二代目市川左團次の没後70年に当たる。昨今の何とも薄味の歌舞伎座、国立劇場の歌舞伎には辟易とするが、ましてや、不良青年達の若手もの、単なるリメイク物や演出者の名が際立つだけのもの、猿之助の遣らない猿之助歌舞伎など、薄味と言うよりも薄気味の悪い歌舞伎が主流になったようで、歌舞伎の前途は暗澹たるものだと思ってしまう。こんな時代に、岡本綺堂や二代目左團次を持ち出しても、却って彼ら先人に礼を失することかもしれないが、綺堂は外国文学や江戸風俗まで、左團次は同時代のヨーロッパ演劇や劇場制度まで研究し、芝居(歌舞伎)に活かそうとした。彼らのその姿勢は、劇作家でも俳優でもなく、歌舞伎研究者でもない、一介の演劇者である私の範とするものである。
 このブログの左側(緑地)下段にある検索機能を使って「岡本綺堂」を検索すると、12のブログが表記される。「左團次」は11、「左団次」で13のブログが表記される。260ほどのブログで、綺堂と左團次のことによく度々触れたものだと我ながら驚くが、これは長く敬意を抱いているのだから、当然と言えば当然だ。いたずらに「新国立劇場」を検索したら、今書いている≪「新国立劇場の開館十年」を考える≫と≪今月の鑑賞予定 劇場へ美術館へ≫を除いても36のブログが表記された。中傷やら嘲笑やら無視に負けずに、よく書いたものだと我ながら呆れるが、これは長く敵意を抱いているから、ということではない。
 先ほど、田中泯さんのところから「第80回土方巽の誕生を祝う会」開催の知らせを戴いた。「同時代に生まれた喜びを込めて、食事を共にしながら、生きている私たちの想いや望みを語」ろうとのご趣旨。土方巽没して22年、今も氏を偲ぶ人々は数多いる。対して岡本綺堂はどうだろう。綺堂作の左團次の芝居を観た観客も殆ど身罷り、綺堂の親族縁のある方を除けば、今も綺堂を偲ぶものは僅かであろう。僭越不遜は承知で、二年半前にこのブログに書いた≪「閲覧用書棚の本」≫其の六『岡本綺堂日記』を再録し、せめて岡本綺堂を知らない人々に綺堂の人となりの一端を紹介しよう。長文で恐縮だがお読み戴きたい。


2005年08月03日 「閲覧用書棚の本」其の六。『岡本綺堂日記』
GOLDONIのホームページに、『推奨の本』というコンテンツを作っている。そこでは既に、この『岡本綺堂日記』、『明治劇談 ランプの下にて』と、岡本綺堂の二作を取り上げている。まだお読みでない方は、是非そちらもお読み戴きたい。
『ランプの下にて』は、何度読んだことだろうか。とくに「団十郎の死」の項の書出しは、諳んじているほどだ。
「わたしはかなり感傷的の心持で菊五郎の死を語った。さらに団十郎の死について語らなければならない。今日、歌舞伎劇の滅亡云々を説く人があるが、正しく言えば、真の歌舞伎劇なるものはこの両名優の死と共にほろびたと言ってよい。その後のものはやや一種の変体に属するかとも思われる。」
綺堂は、この両名優の後を追うかのように翌明治37年に亡くなった初世市川左団次の死を記し、「私の長物語も先ずここで終ることにする。明治の劇談を団菊左の死に止めたのは、゛筆を獲麟に絶つ"の微意にほかならない。」と筆を擱く。

今回は『岡本綺堂日記』を取り上げる。
日常を描く日記の、ほんの些細な一二行の記載からも、弟子思いの綺堂の姿を見ることが出来る。それは同様に、雇い入れられた女中たちへの、綺堂の主人としての優しさをも、日記から読み取ることが出来る。
震災のあった大正十二(1923)年の十二月三十一日を、
「今年は色々の思い出の多い年で、一々それを繰返すに堪へない。それでも私たち夫婦と女中おふみの身に恙なかつたのが幸福であつたと思はなければならない。十二月十四日から中野が来て、家内が賑かになつた。なんと云つても、一家の責任は主人にある。来年はますます勉強して、一家の者にも幸運を分たなければならない。」と一年を締めくくる。
主家にとっての使用人、女中も家族であるとの認識は、歌舞伎や舞踊などの古典芸能の「家」での師匠と住込みの内弟子の関わりを幼い時から知っている私には当然に思えるが、「女中」が「お手伝いさん」、「家政婦さん」「ホームヘルパーさん」に変わった今日、理解しにくいことかもしれない。
翌大正十三年の九月五日の項に、
「おふみは九時ごろに暇乞いして出てゆく。(中略)夜になつてますます大雨。おふみは午後七時ごろに自宅へゆき着くとのことであるから、汽車を降りてからこの大雨に困つてゐるであらうと思ひやる。新しい女中が来てゐるが、古い馴染がゐなくなつて何だかさびしい。」とある。
同じ九月の十七日には、
「女中のおたかも三十八度五分ぐらゐの発熱で、今朝は起きられない。おえい(妻・栄子)と女中に寝込まれてはどうにもならないので、中野は学校を休むことにする。」
翌十八日も、「おたかは今日も寝てゐる。しかしもう平熱、心配することはない」と案じている。
書生の中野(後の劇作家・中野実)が市村座に出掛けた夜、「中野は中々帰らない。若い女中をひとり起して置くのも寂しかろうと思つて、わたしも起きてゐる。十二時近いころに中野帰宅。初日で幕間が長く、これでも一と幕見残して来たのだといふ。」

 妻と雇い入れたばかりの新しい女中が寝込んでいるこの数日に、以前働いていた使用人が、洗濯や炊事の手伝いに駆けつける。人情深い主人とその優しさに応えようとする女中たち。
こんな世界もなくなってしまった。


 2005年08月11日 「閲覧用書棚の本」其の六。『岡本綺堂日記』(続)
『岡本綺堂日記』は、震災のあった大正12年の7月25日から大正15年(昭和元年)12月31日までの三年半分の日記である。
大正6年6月、綺堂の門に集まる青年達が『嫩(ふたば)会』を組織し、以来月に一度は綺堂宅で、劇談、レコード鑑賞、雑談をしていた。彼らの書いた戯曲の添削をしたり、例会の開催を通知したり、劇場からの招待券を送ったり、到来物を分けて遣ったりと、なんとも弟子思いの綺堂である。震災前から、そしてこの日記の書かれた数年で、何人かの弟子を病で亡くす綺堂だが、そんな彼の姿を想像して涙した。明後日は盆の入りである。

大正十二(1923)年十二月二十二日
「読書。夕刻から雨やむ。神戸の友成の父から郵書が来て、友成は十四日午後八時遂に死去したといふ。かれの運命が長くないことは予想されないでも無かったが、今その訃音を聞くと今更のやうに悲しまれる。年はまだ廿二、活發な青年であつたのに、かへすがえすも残念なことであつた。栗原、菊岡、友成、ふたば会は七八年のあひだに三人の若い会員をうしなつたのである。一種寂寥の感に堪えない。すぐに神戸の森田に郵書を発して、ふたば会を代表して友成方へ悔みにゆくやうに云ひ送る。中嶋にも郵書を発して、ふたば会から悔み状と香典を郵送するやうに云ひ送る。わたしは別に悔み状と香典を送るつもりである。
読書。友成のことが色々思ひ出されて、なんだか楽しまない。窓をあけてみると、空はいつの間にか晴れて、無数の星がきらめいてゐる。夜まはりの拍子木の音がきこえる。」
大正十三(1924)年五月十四日
「午前七時起床。おえいが草花を買つて来て、庭に栽える。私も手伝つた。九時過るころに、講談社の岡田君が来て九月号に何か書いてくれといひ、三十分ほど話してゐるところへ至急電報が来て、「トシヲケサシス」とあつた。中嶋俊雄は今朝死んだのである。十一日におえいと中野が見舞に行つたときには、ますます快方に向ふらしいといふので、いささか安心してこの二日ほどは見舞にも行かなかつたところ、病気は俄に革まったものとみえる。なんだか夢のやうでぼんやりしてしまった。
(中略)それからすぐに仕度して薬研堀の病院へ行く。中嶋は十二日以来、腹膜炎を発し、更に腎臓炎を併発して、今朝八時遂に絶命したといふ。今更なんとも云ひやうがない。残念、残念。続いて柳田が来た。遺骸は納棺して自動車に乗せ、五時ごろから病院を運び出して青山原宿の自宅へ送つてゆく。(中略)中嶋が初めて私の家の門をくぐつたのは、大正三年十月十八日の日曜日で、時雨かかつた薄ら寒い日だつたやうに記憶してゐる。それから足かけ十一年、英一の葬式の時、母の葬式の時、彼はいつもよく働いてくれた。それが今は人に送られる身になつたのである。そんなことを繰り返して、おえいも泣く。
十二時半就寝。雨の音が耳について眠られない。それからそれへと色々のことが思ひ出された。」
大正十四(1924)年七月十日
「雨は夕から一旦やんだが、八時ごろから又ふり出した。その雨を冒して、九時ごろに柳田の姉がたづねて来た。柳田は容態いよいよ危篤、もはや二三日を過すまいといふ。早晩かうなることとは覚悟してゐたが、又、今更に痛い心持になる。本人の不幸、姉の不幸、実になんとも云ひやうがない。姉は十時ごろに雨のふる中を帰つてゆく。そのうしろ姿を見送つて涙ぐまれた。十時半就寝。雨の音はまだやまない。大正十一年に菊岡、十二年に友成、十三年に中嶋、三年ひきつづいてふたば会員をうしなつた上に、今年も又もや柳田を失はなければならない。どうして斯うも不幸がつづくのか、全くなさけないやうな心持になる。」
同年七月十一日
「九時ごろから家を出て、浅草須賀町の明治病院へゆく。柳田は第八号の病室に寝てゐた。本人はこの二三日気候の変化が激しいために少しく弱つたと云つてゐたが、酸素吸入でわづかに呼吸をささへてゐる体である。次の間へ出て、柳田の祖母と姉に面会、持参の見舞金をわたして暫く語る。姉の話によると、病人の容態はいよいよ悪く、もはや今夜を過すまいとのことであつた。就ては亡きあとの始末などを相談して、十一時半ごろにここを出た。
(中略)今夜はふたば会例会で、山下が来て中元の品をくれ、つづいて中野が来て、中元の礼をくれる。やがて小林も来る。今夜の会合者は以上三人。柳田危篤のことを私から聞かされて、いずれも驚いてゐた。例に依つて劇談雑談、十時半散会するころには又もや驟雨がふり出した。
十一時就寝。柳田は今ごろどんな状態であるかと思ひやる。夜のふけるまで雨の音がきこえた。」