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劇団文学座の七十年 アーカイブ

2007年10月24日

劇団文学座の七十年(十一)
≪『ままごとのやうな文学座』と『森雅之』(一)≫

 昭和十年代の二大劇団、新築地、新協の両劇団が解散させられ、彼らの本拠地である築地小劇場が国民新劇場と改称させられ、「これまで横町の店屋だった文学座が区画整理でいきなり表通りに出て来た」(久保田万太郎)ように、主がいなくなった劇場へ敵失に乗じるかのように、文学座が乗り込んでいったことは既に述べた。
 『文学座五十年史』によれば、その後の文学座はこの国民新劇場を中心に上演を続け、また、1941(昭和16)年1月の武者小路実篤作、岩田豊雄演出の『七福神』をもって、東京公演の直後に初めての大阪公演を実施した(朝日会館、4ステージ。主催=朝日新聞)。主な出演者名だけを記すと、中村伸郎、森雅之、龍岡晋、青野太郎、杉村春子、宮口精二など、主だった創立メンバーや、その後の文学座を代表する俳優達である。
 今回は、このメンバーのうちの一人である森雅之を取り上げる。森は、作家有島武郎の息子で、京都帝国大学哲学科を中退して、金杉惇郎、長岡輝子夫妻を中心に、北沢彪、十朱久雄、三木利夫、飯沢匡などで結成した学生主体の演劇集団「テアトル・コメディ」に参加する。「テアトル・コメディ」は、当時の演劇の左翼的傾向から距離を置き、スマート、詩的でもあるフランス大衆劇を中心に取り上げていた。因みに、長岡輝子は1936(昭和11)年の劇団解散、翌年10月の夫・金杉の早世の後、戦中から慶應義塾大学の学生劇団であった「新演劇研究会」の芥川比呂志、加藤道夫、加藤治子と1947(昭和22)年に「麦の会」を結成、その二年後の1949(昭和24)年1月、彼らと、荒木道子、稲垣昭三を加えた5人とともに文学座に入団する。
 戌井市郎著『芝居の道』(1999年、芸団協刊)には、「今や森は三創立者の期待通り、友田の後継者として成長しており、座員も皆、頼もしく思っていた」と、1944(昭和19)年11月に森が退団するあたりの事を記していて、またそれについては、杉村春子宛の森本薫の手紙数通が取り上げられて、森の言葉として、「演劇が今のような形をとり、座の方向も将来の存続の為とはいいながら、変って来ざるを得ない今日、私一人のわがままを通す事も出来ない事だし、自分を殺して行動を共にすることも苦し」く、「芝居はしたいけれど、何とかして芝居さえしていれば、という気は自分にはない」とある。森がやめたからといってつぶれる文学座ならつぶれても仕方あるまい、と森本は杉村に認めたが、そこからは文学座の置かれている状況と、森本の突き放したような感情も垣間見える。
 森が退団する一年前の1943(昭和18)年10月、文学座は真船豊作の『田園』を上演する。演出は作者の真船の名になっているが、実際に演出にあたったのは、俳優鑑札を取り上げられ、兄弟である伊藤憙朔や中川一政の著作の執筆・翻訳の代筆や、瑞穂劇団で同じ真船の『北斗星』を覆面演出で口を糊していた千田是也である。千田の『もうひとつの新劇史』(1975年 筑摩書房刊)には、
―文学座が『田園』の演出に私を選んだのも、たぶん真船さんの推薦であろう。その年の御殿場に借りた小さな家で岸と二人で百姓仕事をしていたが、森雅之君がわざわざ私を引っ張り出しに来てくれたので、引受けることにした。いざ始めるとすっかり夢中になり、あんまり稽古をねばるので、「千田さんは元左翼でしょう。せめて八時間労働ぐらいで勘弁してくれませんか」と森君が役者を代表して、恐る恐る言いに来た―
 とあり、また、真船が1943(昭和18)年8月12日に千田に書き送った手紙には、
 ―森や戌井などは前から度々小生に言つてゐたことですが、稽古といへば、文学座は、元来ままごとのやうなことばかり。一度あなたの手にかかつて、根本的に叩いて貰いたいといふことは、熱心にわたしの前で言つてゐたことで、「結局、文学座しかないですね」「森は本筋の役者ですよ」と私に言つたあなたの言葉も思ひ出したので… 
 とある。この手紙は、2004年12月、早稲田大の演劇博物館で催された「千田是也」展で展示された。同展については、『提言と諫言』に記した。ご笑読戴きたい。
http://goldoni.org/2004/12/post_60.html

2007年10月06日

劇団文学座の七十年(十)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『森本薫』(二)≫

―杉村のほうは「富島松五郎伝」の公演中に長広が亡くなり、三カ月余りがたったころだった。戌井市郎は森本と杉村の関係についてはこんなふうに語っている。
 「杉村さんの『薫さん、薫さん』という言い方が違ってきましたからわかりますよ。奥さんが一緒にいた間は、杉村さんとの関係はなかったのではないかと思っています。家は近いし、奥さんもいないとなると当然ですよ」(中丸美繪著『杉村春子』文藝春秋刊) 

 2003年3月に出版された同書は、「名女優の知られざる`女の一生`」とその本の帯にもあるように、今まで語られなかった杉村春子の恋愛関係などの新事実が描かれている。敗戦間もない1945(昭和20)年末から進駐軍(GHQ)の民間情報教育局映画音楽演劇部に勤める日系アメリカ人との恋愛などを興味深く読んだ。同書の「第一章 誕生」では、杉村の出生について、「第五章 劇作家森本薫」の項では森本と杉村の不倫について、既に杉村が著した本で書いたり語ったりした以上のことが書かれていた。
 杉村が最初に著した『樂屋ゆかた』(1954年、学風書院刊)では、大阪育ちで小芝居や連鎖劇をよく見ていた森本と、広島の色街育ちで、同じように小芝居や連鎖劇のファンだった自分とはウマが合ったこと、劇団というところは、他人の恋愛に無頓着、自由の世界で、森本と自分が一緒にいても煩い噂はなかったと言っている。そして、杉村自身の恋愛観、女優観も披瀝している。

 ―一緒に生活をするとか、しないとかいうことは別にして、私は一時としても愛人がいなくては生きてゆけないような女です。私は惚れて惚れられて、それが人生のように思えます。誰れにも愛されず、誰れも好きになれなくなったとき、そのときは、扮する役の人物を愛することも、舞台への愛も、すべてを失ってしまったときでしょう。
 女でありながら、女でないような女優にはなりたくありません。愛して愛されることが女優としての、第一の資格ではないでしょうか―。

 引き写すことも憚るほどの、あまりに低俗で、愚かしい表現ではあるが、それが「杉村春子」であるのだろう。有り体に言うならば、「新劇」、「新劇運動」というものを三十数年の間に考え、この十五年ほどは環境基盤整備の孤立無援の新劇運動を続けている私には、「杉村春子」という存在は、「築地小劇場」の人でもなく、「築地座」の人でもなく、やはり大衆的な演劇にこそ相応しい、生まれ育ちの地(自)を根源にした女優であり、新劇の、新劇運動の先達では全くない。

 岩田豊雄の悔恨とは何か。杉村が『樂屋ゆかた』を著した1954(昭和29)年、岩田は『観覧席にて』(読売新聞刊)で、森本について述べている。

 ―私は彼が二十代で死んだのだったら、これほど惜しいと思わぬかも知れぬ。彼は火花のような作家として、心ある人々の胸にいつまでも残ったろう。そういう作家がいつの時代にも、文学史の一頁に輝いているのだ。生涯の短さがかえってその作家を飾り、それはそれで作家の一生涯となるのだ。
 しかし、彼は三十代に生き延びた。そして、映画や新劇の作者部屋の人となった。つまり、現場の需要に応ずる作品を書き始めた。それは決して不成功とはいえなかった。広く世間に知られたのは、それからであった。しかし、彼の火花はもう消えていた。彼もそれを知り、今度は、火花ではない、炎炎と燃えつづけるもののために、油を貯える途中だった。そういう時に彼は死んだ。未完成で死んだ。私はそれが惜しくてたまらない。せめて、彼になお十年の時間を与えられなかったことが、残念でならない。いま死ぬくらいなら、十年前に死んでいた方がよかったと、残酷に似た愚痴まで出てくるのである。

 代表作は、『かくて新年は』『みごとな女』『華々しき一族』か。これらは文学座に参加する遥か以前の、二十代前半の京都時代に書かれた作品である。
 森本薫、三十四年の短い生涯であった。 自分のために三幹事によって作られた文学座の舞台に立つことなく散った友田恭助、享年三十八であった。 在籍中には秀作を残せなかった文学座を代表する劇作家と、創立メンバーとして舞台に立つことのなかった文学座を代表する俳優の森本薫、友田恭助のふたりだが、奇しくも彼らの命日は、きょう10月6日である。

2007年10月04日

劇団文学座の七十年(九)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『森本薫』(一)≫

 文学座の監事であった岸田國士が大政翼賛会文化部長に就任した翌月の1940(昭和15)年11月、築地小劇場は「国民新劇場」と改称させられた。12月、同劇場を本拠地にしていた新協、新築地の二大劇団の解散を受け、敵失とはいえ、主が消えた同劇場に勇躍乗り込んだのが文学座であったことは既に触れた。この月、後に劇作家・飯沢匡言うところの「文学座中興の祖」であり、自ら「新劇の岡本綺堂」たらんとした森本薫が入座する。また、岩田豊雄、久保田万太郎の二監事は顧問に退き、三津田健が代表者となる。このように、この1940年は、劇団創立3年の文学座にとって大きな変化の年であった。
 「首脳部を失い、座員たちは、心細かったろうが、嫌応なしに古参俳優を中心とする結束が生れ、それが今日の文学座の形態の基となったのである。」「主な役者たちが、一揆を起して、城を乗取ったのではなく、反対に彼等は見捨てられて、腕を組み合ったのである。およそ、文学座の座員たちは、女性的であって、一人で天下を狙う野心は乏しいのである」と、岩田豊雄はその著書『新劇と私』(1956年、新潮社刊) に記しているが、彼は「後事を託す」ような心境で、新進気鋭の劇作家であった森本を文学座に引き入れた。
 『演劇百科大事典』第5巻によれば、森本薫(1912~1946)は、文学座の創立した1937(昭和12)年に京都帝国大学英文科を卒業。高校(旧制第三高等学校)在学中から劇作の筆を取り、大学在学中には、『わが家』『みごとな女』を執筆、卒業後に『劇作』誌の同人となり、『かどで』『華々しき一族』『かくて新年は』『衣装』『退屈な時間』などを発表。また、多くのラジオ・ドラマ、シナリオを書き、ノエル・カワードの『私生活』、ソーントン・ワイルダーの『わが町』を翻訳、新鋭の演劇人として劇壇に地歩を築いた。1941(昭和16)年の文学座入座後は、『富島松五郎伝』を脚色し、『怒濤』『女の一生』を執筆、「新劇の舞台に適度の大衆性の導入を意図し」「その大衆心理を熟知した非凡な作劇技巧によって」、とくに『女の一生』は主要な演目になった、とある。また、「近代リアリズムの手法の上に豊穣な才能を遺憾なく開花させた『華々しき一族』を頂点とする」、文学座入座以前の、「初期作品群によって、当時の劇壇に新風を注入した功績は大きい」(玉山慶一著)とある。
 
岩田豊雄の『新劇と私』から、森本についての記述を少し引用する。
―森本は普通の劇作家とちがって、演劇の実際にも志があり、性格も大人びていた。戦時下の新劇に、ムリな注文もせす、さりとて、阿諛的な態度に出る愚も、知っていた。文学座の舵手として、全く好適だった。
 ―私は、彼を文学座に関係させたくせに、あまり深入りさせたくない気持もあった。作家としての彼の優秀な才能をよく知っているだけに、劇団の実際的要求で、折れたり曲ったりするのを、惧れた。『怒涛』という作品なぞに、その危惧を感じ、一言述べると、「いえ、ぼくは、新劇の岡本綺堂になりたいんですよ」と、笑って答えた。それは、負け惜しみのようであり、また、本音のようでもあった。彼のその傾向は、後に『女の一生』となって深められたが、その時も、私は惜しい気持がした。彼が死んでしまった今日、考えることは、文学座なぞに関係させたことが、早過ぎたということである。彼を、もう十年間、書斎の中に置きたかった。

 「深入りさせたくなかった」「もう十年間、書斎の中に置きたかった」と、森本に対する自らの文学座への誘いを悔いた岩田豊雄だが、では彼の悔恨とは何であったのだろうか。

2007年09月25日

劇団文学座の七十年(八)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『岸田國士』(五)≫

 1940(昭和15)年6月、枢密院議長・近衛文麿は、国防国家の完成、外交方針の転換、新政治体制の整備を目標とした新体制運動を主唱、7月には総辞職した米内内閣に代わって首相に就任した。その年の10月12日、新体制運動の主体として、『大政翼賛会』が発足した。
 「この1940(昭和15)年は、新協、新築地への弾圧と、「演劇法」の制定や大政翼賛会に深く参画していく岸田國士の「右旋回」(松本克平)という、対照的なモメントを昭和新劇史に遺した」(『文学座の七十年』(六)、6月18日記述)と書いたが、岸田國士は8月の新協、新築地への弾圧を尻目に、9月には満洲国の招聘を受け現地に赴いていた。「思想の自由を守り抜いている数少ない知識人」「当時の言論に許容されるぎりぎりの境界線のところまで語」ることの出来る人物を文化部長に据え、「時代の閉塞状況にひとつの活路を見いだそう」(渡邊一民著『岸田國士論』より抜粋)としていた『昭和研究会』の三木清、後藤隆之助、中島健蔵などによる政府への工作が功を奏し、後藤からの文化部長就任を要請する電報で、岸田は急遽東京に戻り、就任を受諾した。 岸田國士の大政翼賛会文化部長就任が報じられたのは、発足一週間後の10月19日であった。
 渡邊一民は上述の『岸田國士論』(1982年、岩波書店刊)の中で、1938(昭和13)年の4月から9月まで『朝日新聞』に連載された岸田の小説『暖流』を取り上げ、「ここには、時代への反抗はいっさい存在しない。むしろ時代の肯定が前面に出ることによって、はからずもこの作品を典型的な国策小説、時局小説としているのだと言えるだろう。わたしは『暖流』をもって、やはり岸田國士の一種の転向小説だと見なしたいのである。」と述べている。
 コミュニズムからではないが、自由主義から「転向」して、そのことが評価されて、権力に最も近い文化運動の先頭に立った岸田だが、太平洋戦争勃発の8カ月後の1942(昭和17)年7月、文化部長のポストを投げ出す。『文学座五十年史』には、「大政翼賛会の官僚化にあきたらず辞任」と記されているが、渡邊一民は、「新しい文化を生みだすために、日本の改良が必要だと思った。それは国民のなかから成長するが、上から指導することも一つの方法であり、手段だと思った。これが根本的にまちがっていると自覚しましてね」「私たちは文化の再建と国民運動を考えて参加したのですが、結果は官僚勢力の拡張だった。官僚に文化や芸術は判らない、というより、彼らは文化という名で批判を抑制しようとした。文化統制が目的だった。」(林克也「敗戦期の岸田國士」『文学』1953年5月号)との岸田の言葉を採録している。
 「官僚に文化や芸術は判らない」「文化という名で(体制)批判を抑制しようとした」と、権力、官僚への不審を抱いた岸田國士が大政翼賛会を去って六十五年、亡くなって五十三年後の今日、上演台本の検閲、劇団の強制解散、国家情報機関の専属劇団への慫慂など、国家権力が強権を発動した、六、七十年前の時代を、今、ほとんどの演劇人、とりわけ当の新劇団の構成員すらが理解していないだろう。現代の国家権力による文化政策について少し述べれば、1990(平成2)年の「芸術文化振興基金」の設立、94年の総務省主導による地方公共団体に対する芸術振興支援組織「地域創造」の設立、96年の文化庁の芸術振興策としてのアーツプラン導入など、舞台芸術の周辺環境は大きく変わった。とりわけ、文化政策の施策として採用されている、芸術文化振興基金、 文化庁の(新)アーツプランなどの芸術創造活動支援事業などに見られる国家による手厚い助成制度は、戦時中は無論のこと、戦後四十五年の1990年までは考えられないものであった。泉下の岸田國士は、この税金が投入されている助成制度で最も恩恵を受けている演劇団体が、自分たちが作った文学座であり、この十八年での助成総額が5億円を遙かに超えるだろうと聞かされても、彼は容易に信じることは出来ないだろう。
 1937(昭和12)年9月6日に設立した文学座は、創立以来の七十年で、日本の現代演劇に大きな足跡を残した。創立メンバーみな既に亡くなり、七十年の歴史を知る者は、38(昭和13)年3月の第一回試演会に舞台監督として参加した戌井市郎氏ひとりになった。
 

2007年07月08日

劇団文学座の七十年(七)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『岸田國士』(四)≫

 映画法が施行された直後の1939(昭和14)年12月、映画、演劇、音楽等に対する統制と奨励方策の諮問機関として、文部省内に「演劇、映畫、音樂等改善委員會」が設置された。
今回は、1942(昭和17)年11月に河出書房から刊行された『演劇論』(全5巻)のうちの第四巻『演劇と文化』、不破祐俊執筆の「演劇行政」の項から採録する。

   演劇、映畫、音樂等改善委員會官制
(昭和十四年十二月二十一日 勅令第八百四十六號)
 第一條 演劇、映畫、音樂等改善委員會ハ文部大臣ノ監督ニ属シ其ノ諮問ニ應ジテ演劇、映畫、音樂等ノ改善ニ關スル事項ヲ調査審議ス
 第二條 委員會ハ會長一人委員二十五人以内ヲ以テ之ヲ組織ス
       特別ノ事項ヲ調査スル為必要アルトキハ臨時委員ヲ置クコトヲ得 
 第三條 會長ハ文部次官ヲ以テ之ニ充ツ
       委員及臨時委員ハ文部大臣ノ奏請ニ依リ關係各廳高等官及學識經驗アル者ノ中ヨリ内閣ニ於テ之ヲ任ズ
 第四條 會長ハ會務ヲ總理ス
       會長事故アルトキハ文部大臣ノ指名スル委員其ノ職務ヲ代理ス 
 第五條 委員會ニ幹事ヲ置ク文部大臣ノ奏請ニ依リ内閣ニ於テ之ヲ命ズ
       幹事ハ會長ノ指揮ヲ承ケ庶務ヲ整理ス
 第六條 委員會ニ書記ヲ置ク文部大臣之ヲ命ズ
       書記ハ上司ノ指揮ヲ承ケ庶務ニ従事ス
附  則
   本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

 演劇、映畫、音樂等改善委員會職員氏名(昭和十四年十二月二十二日現在)

   會 長   文部次官            大村 清一 
   委 員 
  全 般  文部省社會教育局長      田中 重之
        教學局長官            小林 光政
          内務省警保局長      本間  精 
       東京帝國大學文學部教授  和辻 哲郎
        日本放送協會文藝部長    小野 賢一郎
 演劇部會  學習院教授 東京帝大文學部講師 (主任)新關 良三
                         岸田 國士
                         三宅 周太郎
                         長田 秀雄
       早大教授 早大演劇博物館長  河竹 繁俊
 <映画部会、音樂部会15名は記載省略>
 <幹事は、文部省社會教育局映畫課長、文部省社會教育官、文部省督學官、内務省警保局警務課長、内務事務官、内閣情報部書記官の5名。氏名省略>       
  

 二  諮問第一號「演劇改善ニ關スル具體的方策如何」

第一回總會は昭和十四年十二月二十七日文部大臣官舎に開かれ、その際文部大臣より次の三つの諮問がなされた。
 
 諮問第一號
    一、演劇改善ニ關スル具體的方策如何
 諮問第二號
    一、映畫法第十條ニ依リ文部大臣ノ選奨スベキ映畫如何
 諮問第三號
    一、健全ナル音樂ノ普及ニ關スル具體的方策如何
 
 これ、當局が演劇行政に積極的に乗り出すに至つた第一歩と言へよう。―
(「『演劇行政』文部省に於ける演劇行政」より)

 前々回の≪『演劇統制』下の『文学座』と『岸田國士』(ニ)≫に記したように、演劇の国家による統制を主張した岸田國士は、その主張を著した半年後には、このように演劇統制のための法律制定に徴用されることになった。自身がそのポストへの就任を待望したか、度重なる固辞も叶わず引き受けざるを得なかったか、その時の心情は不明である。それは、翌40(昭和15)年10月に大政翼賛会の文化部長に就いた時と同様だ。この時以来接触することになる内務・文部官僚たちを岸田がどのように見ていたか。私の関心は、そこでもあるが、ひとまず措こう。
 因みに、今回引用した『演劇行政』の筆者である不破祐俊は、前回も記したように、映画法の制定を担当した文部官僚である。同様に前回紹介した俳優座の故・松本克平の著書『八月に乾杯』(弘隆社刊)には、この不破と映画法を立案先導した内務省の革新官僚達についての記載があるので、少し引用する。

 ―映画法というのは第二十六条まであり、芸術的創造的な問題には一言も触れずに、業者と技術者に対する統制指示の面だけを強調した法令である。私たちに適用されたのはその第六条で左の如き条文である。
 第六条 主務大臣ハ前条ノ登録ヲ受ケタル者其ノ品位ヲ失墜スベキ行為ヲ為シタルトキ其ノ他同条ノ規定ニ依ル当該種類ノ業務ニ従事スルヲ適当ナラズト認メタルトキハ其ノ業務ノ停止又ハ其ノ登録ノ取消ヲ為スコトヲ得
 だが戦争政策に阿諛追従して、我々の弾圧に協力して日本の敗因をつくった彼らこそ、日本の「品位を失墜」させたものであることは今や明白である。内務大臣の湯沢三千男を始め、ナチスドイツに倣って日本に映画法を作った内務省の町村金吾、松本学、館林三喜男、不破祐俊らはその直接の責任者である。だが彼らは戦後も大手を振って各界を闊歩している。日本はまことに役人天国である。例えば湯沢三千男は各種政治経済研究機関、文化団体に関係し、また新市町村建設審議会会長、明治神宮復興奉賛会理事長の傍ら政治活動もしている。映画法の町村金吾は敗戦から戦後にかけて富山県知事、警視総監、東京都次長、国会議員、北海道知事、参議院議員として活躍している。松本学、館林三喜男も同様であった。
 ところで映画法の不破祐俊と俳優座についてはこんな思い出話がある。京都四条河原町角の高島屋デパートに公楽会館が竣工した時、そのコケラ落しに俳優座の「フィガロの結婚」が上演されたことがあった。昭和二十四年十月のことである。初日の昼間舞台稽古をしていた時はまだ客席に椅子は入っておらず、床には水が溜っているという惨憺たる状況であったにも拘らず、開演までにそれが間に合わされたのには驚いたが、その公楽会館の初代支配人が何とこの映画法作成で活躍した不破祐俊であった。支配人なら当然コケラ落しに招いた俳優座に挨拶に来るだろうからどんな男か見てやろうと待っていたが、彼はついに姿を見せなかった。公楽会館は映画をかけたりしていたが閉鎖されて売場になってしまった。彼はその後高島屋系の不動産会社の重役になっている由である。―


2007年06月18日

劇団文学座の七十年(六)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『岸田國士』(三)≫

国家権力が制定を急いだ『演劇法』について述べる前に、我が国初の文化立法である「映画法」に少し触れておく。
 この法律案は、内務省、文部省と、前年に内務省から独立した厚生省によって立案され、1939(昭和14)年3月に帝国議会に上程、成立し、同年4月に公布、10月1日から施行された。
 倉林誠一郎著の『新劇年代記 戦中編』には、映画法の全文二十六条の骨子を、岩崎昶著『映画史』から引用して次のように記している。

 1 映画製作及配給業者の許可制
 2 映画製作従事者(演出者、演技者、撮影技術者)の登録制
 3 劇映画脚本の事前検閲
 4 文化映画、ニュース映画の強制上映
 5 外国映画の上映制限 
 6 映画の種類、数量、配給組織に対する命令権 
 7 違反者への罰則

 ここでは、映画法の全文を記載はしないが、その骨子は、概ね岩崎昶が要約した通りであり、統制の為の法律であることは疑いがない。敢えて付け加えるとすれば、この法律の目的、保護奨励策についてだろう。
 その第一条には、
 「本法ハ國民文化ノ進展ニ資スル為映畫ノ質的向上ヲ促シ映畫事業ノ健全ナル發達ヲ圖ルコトヲ目的トス」
 とあり、また第十条には、
 「主務大臣ハ特ニ國民文化ノ向上ニ資スルモノアリト認ムル映画ニ付選奨ヲ為ス」
 とあり、その具体的な策として、その第十五条に、
 「主務大臣ハ命令ヲ以テ映画興行者ニ対シ国民教育上有益ナル特定種類ノ映畫ノ上映ヲ為サシム」
 「行政官庁ハ命令ノ定ムル所ニ依リ特定ノ映畫興行者ニ対シ啓發宣傳上必要ナル映畫ヲ交附シ期間ヲ指定シテ其ノ上映ヲ為サシム」
 とある。

 劇団俳優座の俳優で、また、演劇研究者、演劇資料収集家でもあった松本克平(4月26日の『提言と諌言』[(劇団文学座の七十年(三)「無定見」「方向性がない」との批判を招く初期の舞台)]で記したように、1940(昭和15)年8月の、新協劇団、新築地劇団に対する弾圧の時に検挙されている。)の著書『八月に乾杯―松本克平新劇自伝』(1986年、弘隆社刊)によれば、当時、文部省の官僚で、内務省、厚生省の革新官僚達と映画法の制定を画策していた不破祐俊が著した『映画法解説』(1941年、大日本映画協会刊)の記述の中に、ヒットラーの映画政策を取り入れ、「従来の出来上った映画を検閲でカットしたり禁止したりするという消極的方針を一擲して、企画の段階で監視、批判、指示、訂正、或いはやめさせると同時に、映画製作に従事する各技術者の思想と姿勢を予め調査し、不適格者を日本映画界から完全に追放することを目指した、ファッショ的な法律であることを示している」(『八月に乾杯』)とある。
 松本克平と一緒に検挙された千田是也は、その著書『もう一つの新劇史』(1975年、筑摩書房刊)で、この映画法の制定される直前、また彼が新築地劇団を退く直前の1938、39、40年を次のように回想している。
 
 ―だがその一方では、新築地の俳優たちの映画出演が急速に増えつつあった。
 この二年余の<新劇興隆>のおかげで、映画会社の連中が新劇団の存在、その統率力、素人ばなれのした企画力、個々の俳優の力量に関心をもちはじめたせいか、劇団にたいする出演要請や提携作品製作の提案が急に増えてきたからである。(略)
 一九三八-三九年度の公演収入が前年度に比べてずっと少なくなり、やっと実りかけた<職業化>への夢がまたあやしくなり始めていたし、築地小劇場が改築工事のため約五ヶ月閉鎖され、東京で充分な本公演を持つことが困難になったり、予定されたいくつかの上演脚本の出来あがりが遅れて公演のめどがたたなかったりしていたときだっただけに、この映画出演の増加は劇団にとっても大きな救いであった。したがって幹事会としては、映画進出を積極的におしすすめざるを得なかったのである。と同時に、このことが劇団の統一を乱したり、演劇活動の障碍になったりすることのないように、南旺映画と共同のユニット映画製作委員会に、岡倉、山川、八田などの演出部員を参加させるとか、各俳優の映画出演を幹事会で厳重にコントロールするとか、いろいろ気を遣いはした。しかしこの映画進出の結果、劇団の大部分の俳優の<職業化>への欲求と演出部員の芸術的意欲との間に大きな溝がつくられ、やがてそれは新劇団としての新築地の命とりになるのを喰いとめることはできなかった。
 そういうことが直接の原因であったとは言い切れないが、『海援隊』の関西公演を了え、『空想部落』の撮影にかかり出した頃から、私も、なんとなく、劇団などというもののなかにいて、いくら頑張ってみてもあまり意味はないような気がしてきた。正式にやめたのはその翌年の二月であるが、一度そう思い始めると、新築地の仕事にはちっとも気が乗らなくなり、その後もずっと書記長の<要職>にあったわけだが、何をやったのか、さっぱり憶えていない。(「Ⅸ 隠れ蓑をきたリアリズム」)

 1940(昭和15)年4月、文学座は東宝映画と提携して、「東宝映画文学座演劇映画研究所」を開設した。また、杉村春子が主演した豊田四郎監督の『奥村五百子』(製作=東京発声映画、現東宝の前身)が公開されたのは、同年6月である。これらは、「映画法」が施行され一年足らずの時期のことだが、映画出演で口を糊していた新協、新築地両劇団の俳優たち、たとえば滝沢修、小沢栄、松本克平、信欣三、宇野重吉、薄田研二、本庄克二、そして千田是也などがこの年の8月に一斉検挙されたが、彼等のその後は、起訴或いは不起訴と別れるが、その殆どの俳優たちは、千田が言うように、演劇人としての<職業化>も、映画出演での口過ぎのような<職業化>も不可能になった。
 いずれにしても、この1940(昭和15)年は、新協、新築地への弾圧と、「演劇法」の制定や大政翼賛会に深く参画していく岸田國士の「右旋回」(松本克平)という、対照的なモメントを昭和新劇史に遺したと言える。

 

2007年06月04日

劇団文学座の七十年(五)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『岸田國士』(二)≫

 ―世界を通じて、演劇は今や膠着状態にあるやうである。歴史的にみてさういふ時代が過去にもむろんあつたが、この状態は當分続きさうな氣がする。
なぜこんな風になつたか、その原因をひと口に云ふのはむつかしいけれども、つまりは現在が藝術の開化に適しない社會情勢にあることをまづ考へなければなるまい。そのうへ、演劇は特に近代企業として様々な矛盾する面を含んでゐて、その點、映畫の生産と普及に押され勝ちであり、且、純粋藝術としての發展進化のうへでは、一定文化水準の觀客層がこれを支持すべき物質的精神的の餘裕をもつといふことが最大要件なのである。
 これはわが國についてのみ云つてゐるのではないことをもう一度明かにしておいて、さて、歐米に於ては、この危機が如何に當面の問題として處理されてゐるかはその國々によつて異るやうである。私は、自分の國のことについて識者の注意を促したいと思ふ。
 
 こんな書き出しから始まるのは、1939(昭和14)年4月に発表された、岸田國士の『演劇統制の重點』である。続く後段を採取する。 

 ―古典劇としての歌舞伎は例外として、現代劇、即ち、現代日本人が現代の思想と感覺とをもつてする舞臺表現なるものをまだ完全に育てあげてゐない今日、早くも演劇の不振時代が來たといふことは、まことに由々しいことである。一部の演劇關係者は、私のこの言葉に不審を抱くであらう。なぜなら、劇場は到るところ滿員に近く、殊に新劇の如きでさへいづれも豫想外に客足がつきだしたといふ現象を極めて樂觀的にみてゐるからである。
 私は逆に、この現象のなかに、演劇の停頓乃至退化を指摘することができる。が、この議論はしばらく預かるとして、私の若干の經驗は、今こそ、日本演劇の整理と改革の好機だといふことを教へる。演劇當事者の間でその動きがなくはない。
 しかし、これまた私の觀察によれば、わが國の風潮の悲しむべき一面であるが、これをいつまでも民間の努力にのみ委ねておくことは、百年河清を待つにひとしいことを茲に私は宣言せざるを得ぬのである。
 戰時の要求に應ずる文化部門の身構へといふ意味とは別個に、また、政治理論の藝術的扮装などと混同しない範圍で、國家は速かに演劇統制に乗り出してほしい。最近新聞の報ずるところによれば、そのプログラムも一應できあがつてゐるやうである。われわれはその内容について直接當局からはなにも聞いてゐないけれど、各項目をざつとみたところでは、別に驚くやうなことはひとつもない。

 この文章の、特に後段を整理してみる。
 ◎現代の思想と感覚を以って成立する舞台表現が育っていない。演劇の不振時代の到来であり、由々しいこと。
 ◎しかし、一部の演劇関係者は、満員の劇場、新劇でさえ予想外に観客がつき出した今日の現象を、極めて楽観的にみている。
 ◎自分の経験で言えば、今こそ日本演劇の整理と改革の好機である。
 ◎この整理と改革を、民間の努力にのみ委ねるべきではない。
 ◎国家は速かに演劇統制に乗り出してほしい。
 
 戦時時局とはいえ、或いは戦時時局だからか、軍人でも官僚でもない、まさに民間の演劇関係者であり、いわゆる芸術派の劇作家である岸田國士の主張は、煎じ詰めれば、「国家は演劇統制に乗り出すべき」というものである。
 この主張が奏効してか或いは災いしてか、本格的な「奨励助成」「統制」を目的とする「演劇法」の制定を目論む文部省が設置した『演劇、映畫、音樂等改善委員會』の演劇部會委員に岸田が任命されるのは、この半年後の39(昭和14)年12月、劇団文学座の監事を辞し、大政翼賛会の文化部長に就くのは、翌40(昭和15)年10月のことである。
 同じ40年8月の新協、新築地両劇団への弾圧とその解散は、「これまでの横丁の店屋だった文学座が区画整理でいきなり表通りにでてきた」(『文学座五十年史』)との、久保田万太郎の名言を引き出す。プロレタリア派の転向や収監による総退場、上述の「演劇統制」を主張する民間人・岸田國士の権力への大きな協力、「敵失」による文学座の躍進を足掛りに、「世界的日本建設」(岸田國士)に向けての「統制」「翼賛」「迎合」の『演劇の時代』が幕を開ける。

2007年05月24日

劇団文学座の七十年(四)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『岸田國士』(一)≫

 「一九三八年四月の国家総動員法の公布につづいて、その八月六日の朝日新聞には、内務省が「演劇映画等の大衆娯楽を戦時体制下に順応せしめるためばかりでなく、更に進んで演劇映画にたいする国家百年の計を樹立すべく」「演劇にたいしても単なる興行統制から一歩進んで完全なる<演劇統制>を施行すべく目下草案を練って居る」こと、ただし、「これは、急進的な手段によらず、業者との懇談協調主義の下に、現在の組織を基本にして、自然に転回させて行く考えである」ことが報道された。 
 日本の政府が、これまで治安維持や徴税の対象にしかしていなかった演劇をはじめて全面的にとりあげ、国としての演劇政策をうちたてよう、しかもその方法は、<一方的な>措置によらず、充分その道の専門家と研究を重ねたうえで最も妥当な道を取るというのである。したがって大方の演劇学者や作家や劇場人がそれに飛びついたのは無理もない。 
 さっそくその二十六日には、長谷川伸、飯塚友一郎の両氏のやっていた<七日会>の提案で十七人の劇作家、演劇評論家、学者によって、日本精神に立脚した<国民演劇聯盟>の結成準備会が麹町内幸町の大阪ビル二階の<日本文化中央連盟>の事務所で開かれ、これには新築地の文芸顧問団に属していた佐々木孝丸、三好十郎の両君もはじめから名を連ねていた。そのせいか、新築地にも招請があり、うっかり断ったら後がうるさかろうと、その何回目かの会合に、私も出かけていった。 
 もうひとつの締めつけは、裁判所のほうから来た。治安維持法違反で執行猶予になった者、出獄した者、仮出獄中の者を、保護観察審査会の決議によって、二年間(更新できる)、保護司の観察下に置くという法律ができたのはかなりまえ、一九三六年の五月のことで、はじめは治安維持法にひっかかったことのある劇団員しかその対象にはならなかった。
 ところが、比較的そういう劇団員の多かった新協が<人民戦線>派の検挙以後、保護観察所を通じて警視庁の了解を得ようとしたのがきっかけで、保護観察所とのあいだに劇団ぐるみの関係が生じてしまった。おかげで新築地もいつの間にかそれに巻きこまれ、劇団の公演毎に保護観察所の保護司を招待し、その意見をきいたり、その斡旋で内務省の警保局や警視庁、さらに軍の情報部の連中などと懇談したりせざるをえないようになっていった。
 (略)この保護観察所の斡旋で、私たちは『土』の公演が終るとすぐ、文学座、新協と組んで、内務省、警視庁、陸軍情報局、などのお役人を築地の宮川に招待して、演劇統制問題について懇談し、劇団側からは新劇の現状の報告、時局下の新劇団の方針とくに上演脚本の選び方、<演劇法>についての新劇団側の希望などを述べ、関係官庁の意見をきいた。」

 千田是也著『もうひとつの新劇史』(筑摩書房、1975年)のⅨ章「隠れ蓑をきたリアリズム(1935~1941)」にある<演劇統制>からの採取である。
 後段にある、新劇団と関係官庁との懇談は、1939(昭和14)年1月26日に開かれている。この懇談は、倉林誠一郎著『新劇年代記 戦中編』にも、『月刊新協劇団』51号を引用して取り上げられているが、新協の機関誌だけに、千田が書いているようには、保護観察所の斡旋であることも、また、劇団側の招待であるようにも記されていない。
また、三劇団側の出席者については、千田是也も言及していないが、この『月刊新協劇団』にも記載がないようだ。『文学座五十年史』にも、文学座創立直後に入団した劇団代表の戌井市郎氏の著書『芝居の道-文学座とともに六十年』(芸団協出版部、1999年)にも、この「懇談」については触れられていない。
 統制側の官吏や軍人と頻繁に会合を持っていることは、村山知義らの新協劇団にとっては千田是也等の新築地劇団同様に、組織維持を含めて、観客・支援者に対しても知られたくない事実だろう。この短信からも、不利と思える情報を極力省略して伝えようとの新協劇団の意図は明らかだが、一方の文学座及びその関係者にとっては、この「懇談」について事実を知らないか、知っていたにしても、『座史』に記載するほどの出来事とは認識しなかったのだろう。この「懇談」への文学座側の出席者については、今はまだ調べが足りずに不明だが、岩田、岸田、久保田の三幹事のうちの誰かは出席しているだろう。
 1939(昭和14)年1月26日のこの「懇談」で、内務省、警視庁、陸軍情報局、保護観察所等の官吏、軍人と、新劇団側幹部との間で語られた『演劇法』とは、「演劇統制」とは何であろうか。
 既に記したことだが、新協劇団、新築地劇団に対する弾圧、一斉検挙、両劇団の解散は、この一年半後の40(昭和15)年8月のことである。満州國政府の招聘で満州視察旅行から戻ったばかりの文学座監事(幹事)の岸田國士が大政翼賛会文化部長に就任するのは、この年の10月、文学座が新協、新築地の両劇団の本拠地だった築地小劇場に初めて進出するのは、国家権力に諂って左翼イメージの付いた「築地小劇場」という劇場名を、「国民新劇場」に変えた直後の40年12月のことである。

2007年04月26日

劇団文学座の七十年(三)
≪「無定見」「方向性がない」との批判を招く初期の舞台≫

 「一にも俳優、二にも俳優といったら、誤解を生むかも知れませんが、少くとも小生は新劇の現状に対して、そんな風な考えをもっています。少くとも小生の任期中は、お客様のことも批評家のこともあまり考えないで、ウチの役者達の芸術上の利害を中心に仕事をしてゆく考えであります。これが結局お客様に喜ばれ、批評家に賞められる一番の近道と考えるからであります。(略)とにかく、僕らは簡単素朴な考えをもって真直ぐな一本道を歩いているのだから、ヤレ文学座は無定見であるとか、ヤレ方向がないとかいう声を聞くと、とても滑稽に感じるのである……」「蒼海亭」パンフレット・岩田幹事"当番雑感" (『文学座五十年史』年表 昭和十四年(一九三九年)の項より)

 岩田豊雄の著書『新劇と私』には、このあたりのことが書かれている。

 「さて、この最初の試演に対して、世評はかなり冷たかった。事実、一つだって、自慢のできる舞台はなかったのだが、悪評のうちに、何かイジ悪いものが含まれていた。三人揃って、何のザマという意味、三人揃ったって、現場の仕事はできるものかという意味なぞ、いろいろあったようだ。つまり、"三人"が眼の仇にされたようなものだった。また、劇評家の大部分は、プロ派の味方だった。」(「文学座のこと(一))

 では、どんな批評が書かれていたのか。
 倉林誠一郎著『新劇年代記 戦中編』(1969年、白水社刊)から、そこに収録されている文学座試演の劇評を抜粋する。

第一回試演(1938年3月25、26日 飛行館 3回公演 入場者数1,206人)
『みごとな女』 作 森本薫、演出 辻久一、配役 あさ子(堀越節子)、直紀(竹河みゆき)、収(中村伸郎)、弘(森雅之)、女中(小野松枝)
『我が家の平和』 作 クウルトリーヌ、翻案 徳川夢声、演出 岸田國士、配役 鳥枝(徳川夢声)、その妻蘭子(杉村春子)
『クノック』 作 ジュウル・ロマン、訳 岩田豊雄、演出 阿部正雄 
『みごとな女』 ◎演出者はいったい、この作品の何を舞台に表はさうとしたんだらう? これでは結局脚本のスタイルにばかり気をとられて、肝心のものを逸してしまったといふ形ではないか? 
『我が家の平和』 ◎浅草にゐると思へば成る程腹も立ちません。初めから気楽な気持で、これはこんな芝居なのだと、そのつもりになって見物します。併しそれではクウルトリーヌが泣きませう。
『クノック』 ◎愉快な作品には違いないが、あまりに奔放で巧妙過ぎる。訓練の行き届かない若い俳優には、到底やりこなせるものではない。演出者は「俳優に活発な想像力を湧かせ」「自発性と自信を駆使してやる」為にこの作品を選んだといふが、果してその効果があっただらうか? (『劇作』 原千代海)

第二回試演(1938年6月4,5,6日 飛行館 3回公演 入場者数1,460人)
『クラス会』 作 岡田禎子、演出 久保田万太郎、配役 米子(東山千栄子=客演)、治代(毛利菊枝=客演)、女中クミ(水口元枝)、きよ(杉村春子)、力枝(白田トシ)、兼子(竹河豊子)、保子(小野松枝) 
『父と子』 作 ポオル・ジュラルディ、演出 岩田豊雄、配役 父・村山順三(徳川夢声)、子・太郎(森雅之)、松本寛一(三木利夫)、女中(塚原初子)
『魚族』 作 小山祐士、演出 岸田國士
 ◎むざんな第一回試演の黒星に比べて、今度の文学座は、兎に角及第の成果を見せてくれた。演出演技に、エキスパートを揃えて、出しものも、観客に親しみやすいものをえらんだ結果であらう。   
『クラス会』 ◎客演の東山を除いては、肝腎な「蛍の火」の唄の盛上りのところで照れて、客席まで恥ずかしくさせてゐた。
 『父と子』 ◎徳川夢声は、前演よりも、ぐっとしまって、段々と新劇俳優への過程をたどってゐる。どうやら、この試演も、素人徳川にもって行かれた形である。
 『魚族』 ◎舞台にのせられたものと、リリック・コメディ風な表現の中に、生活の現象形態の表面だけが丹念に上塗りされてゐる感じで、折角の素材が、生活感情にまで訴へて来ない。
 ◎全体を通じて、この一座のエロキューションは、話術の細部を追ふたのか、所々、大事なせりふが、巧みな言ひ廻しの中に客席に通って来ない憾があった。(『東京日日新聞』 八田元夫) 

第三回試演(1938年10月17-20日 飛行館 5回公演 入場者数1,700人)
『ゆく年』 作・演出 久保田万太郎
 ◎俳優陣が思ったより整ってゐるのも心強かった。この態度で続けたら築地座より強力な劇団になれるだらう。
 ◎三津田健の小間物商は、年齢や言葉の駆使に無理があった。久保田万太郎の得意のせりふではあるが、東京の人が、あんなに気取って、「けど」とか「いいえ」とか言ふだらうか。(Noの意味の「いいえ」でなく、自分で自分に、もう一度念を押すといふやうな意味を含んだ、この作者一流の「いいえ」もしくは「いえ」のことである)森雅之とか中村伸郎とか、若い俳優には、どこかこの作品とぴったりしない、ぎこちないものがあった。(『テアトロ』 染谷格)

 第四回試演(新劇協同公演)(1938年12月1-4日 有楽座 5回公演 入場者数6,000人)
『秋水嶺』 作・内村直也 演出・岩田國士、阿部正雄 
 ◎友田恭助氏の当り役だったもので、友田を偲ぶ意味からしたのださうだが、よい味を持ちながら、物足りなかった。
 ◎杉村春子の朝鮮婦人が出色の出来であった。
『釣堀にて』 作・演出 久保田万太郎
 ◎中村伸郎が巧かった。徳川夢声の直七は、巧いなりに、外の人と離れてゐた。(『演芸画報』 堀川寛一)

第五回試演(1939年2月24-27日 飛行館 6回公演 入場者数不明)
『蒼海亭』(原名マリウス)
作 マルセル・パニョル、訳 永戸俊雄、演出 岩田豊雄、田中千禾夫
配役 セザール(三津田健)、マリウス(森雅之)、パニス(中村伸郎)、エリックス・エスカルトフイグ(坂本猿幹冠者)、オーリーヌ(杉村春子)、ファニー(堀越節子)
 ◎今度の『蒼海亭』は純然たる翻訳劇でもなく、また、むろん、翻案でもないといふ、舞台上の性格の極めて曖昧なものであったために、舞台はどうしても俳優各個の芸に頼らざるを得なくなった。そこで、俳優は得たりとばかりに各自の持ち味を跳梁させはじめたのである。もともと「マリウス」には、かうした跳梁を許すだけの隙がある。文学座の場合は、それを悪く許したといふ感がないでもない。
 ◎演出家はこの雑然たる異種混淆の舞台のうちから自然に立昇ってくる何ものかを脇で泛然と待ち設けてゐる。しかし、俳優の方は、舞台のアンサンブル、言ひかへれば原作の精神の各自の性格を帰一させやうとする代わりに、むしろ、舞台の外の方へ、まるで幾つかの触手を差し伸べるやうに、各自のそれぞれに異る演技の性格を伸出してゐる。
 ◎かうなってくると、観客はいつの間にか作品から遊離して、その時その時の俳優の持ち味だけを賞味しようとする。もはや、舞台上には連続性が欠如してしまってゐる。(『劇作』 太田咲太郎) 

 1938年には1年で4度の試演会を開き、精力的に劇団活動を始めた文学座だが、批評は当時の二大劇団だった新協劇団、新築地劇団の公演についての劇評と比べても厳しいものであった。「文学座は無定見である」とか、「方向がない」との世評に、「滑稽」と反発した岩田豊雄だが、田中千禾夫と共同演出をした第五回試演『蒼海亭』の劇評は、上述の様に特に厳しいものだった。
 その後、39年40年と、文学座は勉強会、試演を順調に続けていくことになる。40年4月、『紀元二千六百年祝典』記念芸能祭に、内村直也作、岸田國士演出の『歯車』(第十回試演)をもって参加する。

 ―さすがに劇団自身もこの作品のひどさに気付いたらしくパンフレットに「調子の低いのは万事祝典劇のため故意にした事だ」と断わり自ら阿諛迎合を認めてゐるが、芸能祭主催者も同時に観客も随分馬鹿にされた話である。
 由来この劇団は遁辞を設けるのが好きだが今度も祝典劇の性質を勝手に狭く限定して作品の不備を蔽ったといはれても仕方あるまい。演出者も俳優もこれでは手も足も出ず気の毒の一語に尽きる。
(『東京朝日新聞』 1940年4月26日号) 

 『紀元ニ千六百年祝典』記念芸能祭参加の4ヶ月後の8月19日、警視庁による新協劇団、新築地劇団関係者への一斉検挙が行われる。主な検挙者を記しておく。
 <新協劇団>秋田雨雀、村山知義、久保栄、久板栄二郎、松尾哲次、天野晃二郎、滝沢修、小沢栄(太郎)、三島雅夫、松本克平、中村栄二、伊達信、信欣三、宇野重吉、細川ちか子、赤木蘭子、原泉
 <新築地劇団>八田元夫、和田勝一、石川尚、薄田研二、本庄克ニ、石黒達也、中江隆介、池田生二
 <その他>千田是也、岡倉士朗、山川幸世、染谷格、若山一夫

 この弾圧を受け、新協劇団は8月22日、新築地劇団は翌23日に解散する。「国家の新体制運動に即応する以外、劇団活動は不可能である事を、今こそはっきり認識」(岩田豊雄 「都新聞」談話)した文学座は、当然のことだが、検挙される者もなく、劇団解散の憂き目に遭うこともなかった。
 この年の10月、近衛文麿が組織した新体制運動『大政翼賛会』が設立された。その重要ポストである文化部長に就任したのは、劇団三幹事のひとり、岸田國士であった。


2007年04月20日

劇団文学座の七十年(二)
≪「反政治主義」から「時局迎合」への変容≫

 ―われわれは、姑息と衒学と政治主義とを排し、眞の意味に於ける「精神の娯楽」を舞臺を通じて知識大衆に提供したいと思ひます。在来の因循な「芝居」的雰囲気と、徒に急進的な「新劇」的生硬の孰れをも脱して、現代人の生活感情に最も密接な演劇の魅力を創造しようといふのであります。われわれは外に向かつては、まづ今まで劇場に縁遠かつた現代の教養ある「大人」に呼び掛けたいのであります。同時に、内に於いては、名實ともに現代俳優たり得る人材の出現に力を盡したいのであります。
 この時局に於て、国民の日常生活の中に、厳粛にして暢達なる藝術的雰囲気を送ることは、われわれの義務とするところであります。それは現代のあらゆる層にわたつて、日一日と顕著になりつつある風俗的危機を救ふことに與るであろうことを確信するものであります。―

 上記は、1937(昭和12)年に書かれた、『文學座創立について』と題する、岩田豊雄、岸田國士、久保田万太郎の三幹事連名の文学座の創立宣言である。文学座私史としては出色の北見治一著『回想の文学座』(中公新書、1987年刊)では、この宣言は「岩田の筆になるものだったと思われる」と記されている。今回は、北見説に従って、岩田豊雄が1956(昭和31)年に著した『新劇と私』を紐解きながら書き進めていくことにする。
 まずは文学座の命名について記す。座名は文学偏重の劇団という考えではなく、プロレタリア劇団がイデオロギーを大切にして戯曲をゾンザイにする傾向に対抗する気持ちがあって命名したという。また、劇団創立はプロレタリア派のヘゲモニーに対して起こしたもので、「正直なことをいうと、文学座の主張とか、スローガンのようなものは、あの時にムリに搾りだし」、また、「大人の観る演劇」を標榜したのは、「プロ派の芝居は"子供の新劇"」だったからという。
 また、築地小劇場の分裂以降の昭和初期の状況については、
 「新劇といえば、"新築地"と"新協"の二つであり、新劇といえばプロ派系統のものと相場がきまり、劇評はプロ派的観点から行われるのが常であった。尤も"新築地"や"新協"にしても、その頃はもうアジ劇の時代ではなく、藤村の"夜明け前"のようなものを上演していたのだが、何といっても、芝居の流儀が私たちと違う。ことに、新劇の大衆化とか、職業化とかいうことをいって、芝居を荒ッぽく取扱うのが、どうも気に食わない。最も気に食わないのは、新劇はわれらのものという風に、威張ってるところだった。
 私は、芸術派の劇団を、もう一度やりたくなった。しかし、岸田と私だけで始めれば、築地座の轍を再び繰り返す惧れがあり、彼の理想家ヒステリーを封じるためにも、もう一人の人物の参加が必要ではないかと思った。その人物は、久保田万太郎以外になかった。 
 久保田万太郎は創作座の後援をしていたので、作家として真船豊、俳優として同座の一団を握っていた。また、新劇の元老としての位置は、岸田にも優っていた。その上、彼は友田夫妻に反感があるわけもなく、むしろ創作座の役者以上に、愛情を抱いていることも、私は知っていた。私は、新しい劇団は、芸術派の世界の中で、できるだけ広い間口をとるべきだと考えた。」(「築地座前後(二)」) とある。

 友田恭助の応召・戦死、田村秋子の不参加は、創立三幹事にとっては大きな痛手であったことだろう。このような厳しい船出を予期せずに「文学座創立宣言」は作られた訳だが、時局は、「やがて、思いがけない戦争が始った。私は政府や軍人が、そんなバカなことをする筈がないと思っていたから、全く意外」(『新劇と私』)な方向に進んだ。「上海事変なんてものを軽く見ていた」(同著)岩田たちが、プロレタリア派と一線を画そうと「反政治主義」の主張を掲げた文学座は、創立の2ヶ月前に起きたこの事変以降、敗戦の1945(昭和20)年夏まで、戦時体制に引き摺られ翻弄されるように、或いは追従、或いは迎合を続けていくことになる。
 戦中の幾つかの事例を挙げる。
 1940(昭和15)年の皇紀二千六百年祝典の芸能祭に『歯車』(作・内村直也、演出・岸田國士)で参加。新築地、新協の二劇団に警視庁から解散命令が出た直後の同年10月には、大政翼賛会文化部長に岸田國士が就任し、退座する(この年の5月に文学座は組織を改革し、幹事を監事と改め、彼等は座の指導と監督を受け持ち、三津田健、杉村春子、森雅之が常任委員として座の運営にあたる。)。1941(昭和16)年1月には、内閣情報局と大政翼賛会の合作による「国民演劇としての新劇の再編成、設計図」が発表され、同年6月には、同じ情報局と翼賛会の斡旋によって日本移動演劇連盟が発足、文学座は移動隊を組織して参画。翌42(昭和17)年2月、森本薫作『黄塵』公演中に起きた、情報局による専属劇団編入騒動。以降、解散命令を受けることなく、移動演劇隊、独自の地方巡回公演、東京公演を実施する。1945(昭和20)年8月15日は、石川県釜清水村小松製作所分工場での移動演劇隊の昼公演を急遽取り止め、劇団疎開先にしていた石川県小松市に戻っている。
 
 岩田は、上述の「情報局専属劇団」について記している。
 ―久保田顧問は、差支えがあって、結局、私と座員とが、相談をするのだが、座員といっても、森本薫以外は、創立以来の役者ばかりだった。
 「君たちは、どうする? 情報局劇団へ行くか」
 私が訊いても、誰も返事しなかった。私たちは、その頃、幹事の役を去り、顧問の格なのだから、命令的なことはいえないから、自分の考えだけを、述べる外なかった。
 「僕は、こうなったら、自発的に、文学座を解散する方がいいと思う」
 しかし、今度も、誰も返事しなかった。ややあって、森本薫が発言した。
 「それより外、仕方がないでしょう」
 やがて役者たちも、次第に、口をきき出したが、腹の立つほど、態度が曖昧だった。しかし、解散説に賛成する者も一人もなかった。
 「私たちは、とにかく芝居をやっていたいので……」
 一番年長で、温厚な役者が、呟きのような言葉を洩らした。情報局劇団入りも、やむをえないという口吻だった。
 私は非常に意外な気がした。新劇というものは、同志的な集まりだと思っていたのに、すっかり裏切られたような気がした。また、紙の表裏のように、一体だと思った私たちと役者たちの関係が、大きな溝のあったことも、覚えずにいられなかった。―(「文学座のこと(一)」)

 「旗挙げ公演もお流れになり、途方にくれた私たちは、それでも集められたのだから散り散りにならないで芝居の仕事を続けてゆきたいと願い」(杉村春子)、その後は戦意高揚劇、翼賛理念劇にも手を染め、情報局専属劇団になりさがってでも、「とにかく芝居をやっていた」かった文学座の俳優たちにとって、「姑息と衒学と政治主義とを排し、眞の意味に於ける「精神の娯楽」を舞臺を通じて知識大衆に提供したいと思ひます。」との創立宣言は、劇団の創立当初から理解不能なものであったのであろうか。

2007年04月13日

劇団文学座の七十年(一)
≪劇団創立三幹事の苦言、諌言、不吉言≫

 現代の演劇のあり様については、この『提言と諌言』では04年から書き続けてきた。この先も、書きながら考えていこうと思う。そのことで、私自身が今よりもより明確に、「演劇の現在」が理解出来るのではと期待している。

 2年ほど前の05年2月12日に、≪『新劇』と『リアルタイム』≫と題するブログを書いた。そこでは、『今や「新劇」は崩壊したにも等しいもの』という認識について触れた。これは、第二次世界大戦後に起こった新劇ブームを体感した世代ばかりか、戦後生まれで演劇を専門とする私も、三十数年は抱いている厳しい認識であり、率直な感想である。
 しかしながら、このような認識・感想を持たない、或いは認識以前に関心を寄せない演劇関係者も多く存在している。中には、「今も新劇は元気である」と主張する演劇評論家、「演劇は活性化している」と分析する演劇研究者も存在する。
 はたしてそうだろうか。新劇(演劇)が元気であり、活性化しているのであれば、国家による支援政策、手厚い支援制度は現代演劇には不要ではないか。受給側の不正・不適正な支出(或いは収奪)が指摘され、たびたび社会問題になりながらも、補助金制度が今も維持されているのは、どういうことだろうか。この辺りのことについても、じっくり考えていきたい。

 かつての新劇大手三座の一つ、劇団文学座は、今年の9月に劇団創立七十年を迎える。
 今回から切れ切れにだが、この劇団の七十年について考えていこうと思う。
 手許にある1987(昭和62)年4月29日発行の『文学座五十年史』の頁を繰りながら、劇団関係者の文章を引用し、まずは祝意を著したい。
 『感謝をこめて』と題する、杉村春子(1997年没)の巻頭の挨拶から書き写す。

 「文学座はご承知のように、久保田、岸田、岩田の三先生が、友田恭助・田村秋子夫妻という名優のために作られた劇団です。1937(昭和12)年、創立の年は蘆溝橋の事変が起きて日中戦争に突入した年でした。そして友田さんの応召、戦死、ほんとにアッという間の出来事でした。田村さんの不出演で旗挙げ公演もお流れになり、途方にくれた私たちは、それでも集められたのだから散り散りにならないで芝居の仕事を続けてゆきたいと願いつづけて、その翌年の一月、神田の貸席(錦橋閣)で、自主的に勉強会を開いて、先生方に私たちの想いをみていただきました。」
 友田恭助については、この『提言と諌言』でも、水谷八重子の著作『ふゆばら』について記した折にすこし触れた。05年12月7日≪「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(弐)≫
 田村秋子については、別の機会に改めて書こうと思っている。
 文学座を作った久保田万太郎、岸田國士、岩田豊雄の三人の文学者の言葉を、『文学座五十年史』から再度拾ってみよう。
 
 「"世帯を大きくするな、大きくするな……"
 と、ぼくは文学座に対してつねにいいつづけて来た。しかも文学座は、しだいにふくれて、おどろくほどの大所帯になった。
 ぼくはそれを嘆く。
 なぜか?
 大所帯になればなるで、神経が太くなり、にぶくなり、あるいは、血のめぐりがわるくなるからである。
 文学座よ、もう一度、二十年まえの気もちに返る気はないか?…といったら、いまは亡き岸田國士が、あの世から、ハンカチで口をふきふき
 ……それはね、あなた……
 と、彼のあの微妙な微笑を示すだろう。
 以上、創立二十年をむかえた文学座に対するぼくの所懐をしるす所以である。」
 (「文学座創立二十年」 久保田万太郎)

 「私たちが文学座をはじめてから、なるほどもう十五年たつわけであるが、それだけの成長をしたかどうか、このへんで厳しい自己批判を加えてもよさそうである。
 ……仕事の量に比して、質の方は、全体にさほど高まったとは言えないように思う。」
 (「創立15周年記念公演パンフレット」 岸田國士)

 「文学座が十五周年を迎えて、ご贔屓の方々がチヤホヤいって下さると思う。ありがたい。しかし、身内のものまでが、坊や大きくなったネなぞと、頭を撫ぜる必要はない。私なぞは、逆に、頭を一つハリ倒してやろうかと、考えている。
 十五年前に、試演という名目で、飛行会館の舞台を踏んだ頃には、三日間の芝居を、一カ月ぐらい稽古をした。座員は電車賃に相当するものも貰えず、たまたま収入があれば、その半額を、次回試演の費用に積立てる規約を忠実に守った。それで、イヤな顔をする者は、一人もなかった。イヤな顔どころか座員の眼は燃え、眉は昮っていた。
 そして十五年経ち、どんな文学座になったか。座員は映画出演だ、ラジオだと、他所の仕事が大変忙がしく、服装もなぞもリュウとしてきた。しかし、顔つきは、昔に比べると、ボンヤリしている。ともかく、これは生長の兆である。皆忙がしくて公演の稽古に顔が揃わない日が多いとか、或いは忙がしくなくても、いい役がつかない時は休むとか、いうことになったら、十五年間の進歩、測り知れざるものがあるのだが、そこまで生長してるとは信じたくない。」
 (「不吉言」 岩田豊雄)

 友田恭助・田村秋子のために、彼らの劇団『築地座』の活動を止めさせてまでして『文学座』を作った三幹事には、肝心の友田のいない文学座はどんなものであったのだろうか。杉村春子らの劇団員に対する三幹事の厳しい指摘から五十年を経過した今、はたして文学座は、どんな集団になったのであろうか。