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劇団文学座の七十年(十)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『森本薫』(二)≫

―杉村のほうは「富島松五郎伝」の公演中に長広が亡くなり、三カ月余りがたったころだった。戌井市郎は森本と杉村の関係についてはこんなふうに語っている。
 「杉村さんの『薫さん、薫さん』という言い方が違ってきましたからわかりますよ。奥さんが一緒にいた間は、杉村さんとの関係はなかったのではないかと思っています。家は近いし、奥さんもいないとなると当然ですよ」(中丸美繪著『杉村春子』文藝春秋刊) 

 2003年3月に出版された同書は、「名女優の知られざる`女の一生`」とその本の帯にもあるように、今まで語られなかった杉村春子の恋愛関係などの新事実が描かれている。敗戦間もない1945(昭和20)年末から進駐軍(GHQ)の民間情報教育局映画音楽演劇部に勤める日系アメリカ人との恋愛などを興味深く読んだ。同書の「第一章 誕生」では、杉村の出生について、「第五章 劇作家森本薫」の項では森本と杉村の不倫について、既に杉村が著した本で書いたり語ったりした以上のことが書かれていた。
 杉村が最初に著した『樂屋ゆかた』(1954年、学風書院刊)では、大阪育ちで小芝居や連鎖劇をよく見ていた森本と、広島の色街育ちで、同じように小芝居や連鎖劇のファンだった自分とはウマが合ったこと、劇団というところは、他人の恋愛に無頓着、自由の世界で、森本と自分が一緒にいても煩い噂はなかったと言っている。そして、杉村自身の恋愛観、女優観も披瀝している。

 ―一緒に生活をするとか、しないとかいうことは別にして、私は一時としても愛人がいなくては生きてゆけないような女です。私は惚れて惚れられて、それが人生のように思えます。誰れにも愛されず、誰れも好きになれなくなったとき、そのときは、扮する役の人物を愛することも、舞台への愛も、すべてを失ってしまったときでしょう。
 女でありながら、女でないような女優にはなりたくありません。愛して愛されることが女優としての、第一の資格ではないでしょうか―。

 引き写すことも憚るほどの、あまりに低俗で、愚かしい表現ではあるが、それが「杉村春子」であるのだろう。有り体に言うならば、「新劇」、「新劇運動」というものを三十数年の間に考え、この十五年ほどは環境基盤整備の孤立無援の新劇運動を続けている私には、「杉村春子」という存在は、「築地小劇場」の人でもなく、「築地座」の人でもなく、やはり大衆的な演劇にこそ相応しい、生まれ育ちの地(自)を根源にした女優であり、新劇の、新劇運動の先達では全くない。

 岩田豊雄の悔恨とは何か。杉村が『樂屋ゆかた』を著した1954(昭和29)年、岩田は『観覧席にて』(読売新聞刊)で、森本について述べている。

 ―私は彼が二十代で死んだのだったら、これほど惜しいと思わぬかも知れぬ。彼は火花のような作家として、心ある人々の胸にいつまでも残ったろう。そういう作家がいつの時代にも、文学史の一頁に輝いているのだ。生涯の短さがかえってその作家を飾り、それはそれで作家の一生涯となるのだ。
 しかし、彼は三十代に生き延びた。そして、映画や新劇の作者部屋の人となった。つまり、現場の需要に応ずる作品を書き始めた。それは決して不成功とはいえなかった。広く世間に知られたのは、それからであった。しかし、彼の火花はもう消えていた。彼もそれを知り、今度は、火花ではない、炎炎と燃えつづけるもののために、油を貯える途中だった。そういう時に彼は死んだ。未完成で死んだ。私はそれが惜しくてたまらない。せめて、彼になお十年の時間を与えられなかったことが、残念でならない。いま死ぬくらいなら、十年前に死んでいた方がよかったと、残酷に似た愚痴まで出てくるのである。

 代表作は、『かくて新年は』『みごとな女』『華々しき一族』か。これらは文学座に参加する遥か以前の、二十代前半の京都時代に書かれた作品である。
 森本薫、三十四年の短い生涯であった。 自分のために三幹事によって作られた文学座の舞台に立つことなく散った友田恭助、享年三十八であった。 在籍中には秀作を残せなかった文学座を代表する劇作家と、創立メンバーとして舞台に立つことのなかった文学座を代表する俳優の森本薫、友田恭助のふたりだが、奇しくも彼らの命日は、きょう10月6日である。