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2008年01月 アーカイブ

2008年01月01日

「新国立劇場の開館十年」を考える(七)
≪無償観劇を強要する演劇批評家、客席で観劇する劇場幹部≫

 ―昭和四十二年三月中旬。
 たしか小劇場の公演だったと思う。私は日曜日に取材を兼ねて、劇場へ出かけた。取材記者の席は舞台に向かって右側、前列から五、六番目で、体を斜めにしないとよく舞台がみえないところにあった。ふと、座席正面、中央をみるとT理事長、N文化財保護委員長が観劇中だ。この分ではいい席は大方、文部省の役人で占められていることだろうと思った。
 私は新聞記者になる前から、ずい分芝居をみているが、いまだに松竹大谷竹次郎会長が、また東宝菊田一夫専務が自分の劇場の客席で観ていたということを知らない。大谷会長はいつでも監事室でみていた。あるかぶき俳優の告別式で、泣いて告別の辞をのべた直後、かたわらの劇場支配人に「どうや、今日の入り(劇場の入場人員)は」と聞いたという商売の鬼、大谷氏の根性は、客席でみるなんていうもったいないことは出来なかったに違いない。なによりも「お客は王様」という信念がそうさせたといった方が正しい。大谷会長が監事室にあらわれる日は、劇場関係者、作者、役者にまで、ピーンとした緊張がみなぎっていた。―

 石原重雄著『取材日記 国立劇場』からの引用である。
 05年11月だったか、文化庁の新進芸術家在外研修(留学)制度利用者の研修発表演劇公演が新国立劇場小劇場で行われたが、公演初日のセンターブロックの客席中央には、主催者である文化庁の職員が6人ほど並んでいて、普段はどの劇場でも中央の最上等の席が宛がわれ、居眠りしながら観劇する習慣を持つ年配の批評家たちが、左右ブロックの隅の席に追いやられて居心地が悪そうに座っていた。予算消化、助成制度維持のためのアリバイ作り、或いは業界団体への財政支援のための公演のようで、作品としては異常にレヴェルの低いものだったが、「チケットのばらまきの実態」「文化庁職員の特権意識」「演劇批評家の生態」を見事に著した瞬間であり、入場料より安い見物であった。この公演は、ほとんどの観客がばらまきチケットでの観劇で、当日券を購入して入場するという奇特な客の席は、最後尾のはずれであった。よほど、文化庁の職員たちに、「主催者が良い席を占めていて、数少ない有償観客を冷遇するとは何ごとか」と叱ろうかとも思ったが、そんなしきたりも判らないからこそ、真ん中の席にいる連中には、何の事だか判るまいと諦めた。
 新国立劇場では、オペラ公演でも、演劇公演でも、中央の最上等の席には、劇場(財団)理事や評議員などが同伴者を伴って大挙して観劇していることがある。彼らの誰一人、自分が劇場の人間とは思っていないから、「このチケットを売っていれば、二席で四万何千円の売上げだな」などとは考えない。名前を貸しているのだから、招待席に座って当然、くらいにしか思っていないのだろう。劇場は客商売の場でもあるとの認識がなく、単なる名誉職のつもりで理事や評議員に名を連ねているとしたらそれも問題だが、それ以上に理事長や常務理事、芸術監督などが平然と客席で観劇する劇場とは、これも民間の劇場ではないことで、何とも異常である。このブログで、バイエルン州立歌劇場の前総裁のサー・ピーター・ジョナス氏の講義録について度々書いたが、バイエルンの招待者は、州首相ただ一人だそうである。これに引き替え、新国立劇場の招待、ばらまきのチケットは多い時では数千枚規模だろう。
 新聞記者の取材であれ、批評家の劇評の為の鑑賞であれ、劇場側が無償(招待)で、それも客席中央の席を用意しなければいけないとは思わない。度々このブログで書いていることだが、自分に招待状を送ってこない製作団体に電話をして、読売新聞の演劇大賞の選考委員だと言ってチケットを強要したという豪の者ばかりか、同賞や、朝日舞台芸術賞の選考委員、文化庁や芸術文化振興基金等の審査委員のご連中にとっては、劇場や製作団体から招待状が届くのはごく当たり前のこと、プログラムの執筆依頼や付け届け、接待までが当然視されていると聞く。同伴者がいる場合でも、その分のチケット代も踏み倒そうとする者まで出る始末である。(このご連中は、揃いも揃って新国立劇場の評議員であったり、研修所の講師だったりする。はやりで言えば、品格があれば今の新国立劇場には蝟集しないだろう)例えば文芸の評論家が、版元や著者から贈呈される本だけで批評を書くことはないだろうし、また文芸評論家だと言って、関わりのない版元や著者から読みたい本を無償で提供させる、と言うこともないだろう。「大新聞社が舞台芸術の振興や支援をしようと言うなら、せめて選考委員のチケット代くらいは新聞社が負担して、経営基盤の弱い劇場・製作団体を少しは助けるべきだろう」と、読売新聞の編集局の責任者に諫言したことがあるが、今も費用負担などせずに相変わらず只見をさせ、一流ホテルを借りて授賞式とパーティーをしているのだろう。芸術文化に関心を向けるところ、金を掛けるべきところが違うと叱ってみても、この国の政治体制を思慮し憂える経営者を頂く天下の大新聞社の編集幹部たちには、この国の舞台芸術を思慮し憂える私の話などは小さ過ぎてか、蛙の面に水、取るに足りないものだったのだろう。
 昔語りだが、文化庁の国内研修制度を利用して勉強していた若手俳優が、その成果を自己資金の持ち出しで形にしたいというので、その真摯な姿勢に動かされて、何人かの演劇製作者と試演会を企画し、無償或いは持ち出しでその製作に協力したことがある。(と言っても、最も主導的に働いたのは、二十代、三十代のパリパリの製作者たちであり、私はと言えば、不足する製作費用を立て替え、稽古場を提供し、公演期間の当日受付の電話番をした程度だが。)公演の前評判も高く、百席の小劇場での5回ほどの公演でもあり、公演前にチケットは売り切れた。公演期間の毎日、大手新劇団の幹部俳優や著名な映画(舞台)俳優などからも、「チケットを買わせてくれないか」との電話が頻繁にかかってきたが、「遅すぎる」と言ってすべてお断りした。公演を手伝った十数人の者も全員、本番の舞台を観ることが出来ないほどであった。そんな中で、「批評をしている○○だが…」と、何とも高圧的で無礼な物言いの電話が掛かってきた。「公演の案内を貰ったが」とだけ言って言葉を続けない。こちらが「どうぞどうぞ。お名前は?」とでも言うと思っていたようだが、電話番の私の一言は、「だから、どうした?」。先方は普段にない展開に慌てたのか、急に名乗り直したが、「期日指定、座席指定の公演だから、観劇希望は締切日までに連絡するのがルールだろう。批評家だから、そのルールを守らなくても良いというのは失礼な話である。約束は守らないと、な」と言って電話をおいた。(後で聞いたら、この無礼者はある官庁のキャリア官僚だそうで、ここではその名を明かさないが、今も二千万円台の高禄を食んでいる。数年後には退職して天下り役人として、大臣官房が見つけて来た宛がい扶持のポストにでも就くのだろう。)チケット購入者には開演時間を過ぎての入場は出来ない旨お知らせしていたこともあり、開演時間に遅れて来場する観客はなかったが、無償観劇の批評家の幾たりかが開演後にやってきたので、「批評家が遅れて来て、どうするんだ」と、(電話番なのに、受付の製作者を差し置いて)言って帰って貰った。
 十数年前の、ただただ粗暴な頃の思い出、ではある。

2008年01月02日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年1月≫

世阿弥 『花鏡』 応永三十一年

 一、是非初心を忘るべからずとは、若年の初心を忘れずして、身に持ちて在れば、老後にさまざまの徳あり。「前々の非を知るを、後々の是とす」と云へり。「先車のくつがへす所、後車の戒め」と云々。初心を忘るるは、後心をも忘るるにてあらずや。功成り名遂ぐる所は、能の上る果也。上る所を忘るるは、初心へかへる心をも知らず。初心へかへるは、能の下る所なるべし。然れば、今の位を忘れじがために、初心を忘れじと工夫する也。返返、初心を忘るれば初心へかへる理を、能々工夫すべし。初心を忘れずば、後心は正しかるべし。後心正しくは、上る所のわざは、下る事あるべからず。是すなはち、是非を分つ道理也。
 又、若人は、當時の藝曲の位をよくよく覺えて、是は初心の分也、なをなを上る重曲を知らんがために、今の初心を忘れじと拈弄すべし。今の初心を忘るれば、上る際をも知らぬによりて、能は上らぬ也。さるほどに、若人は、今の初心を忘るべからず。
 
 一、時々の初心を忘るべからずとは、是は、初心より、年盛りの比、老後に至るまで、其時分時分の藝曲の、似合たる風體をたしなみしは、時々の初心也。されば、その時々の風義をし捨てし捨て忘るれば、今の當體の風義をならでは身に持たず。過し方の一體一體を、今當體に、みな一能曲に持てば、十體にわたりて、能數盡きず。其時々にありし風體は、時々の初心なり。それを當藝に一度に持つは、時々の初心を忘ぬにてはなしや。さてこそ、わたりたる為手にてはあるべけれ。然れば、時々の初心を忘るべからず。

 一、老後の初心を忘るべからずとは、命には終りあり、能には果てあるべからず。その時分時分の一體一體を習ひわたりて、又老後の風體に似合事を習は、老後の初心也。老後初心なれば、前能を後心とす。五十有餘よりは、せぬならでは手立なしと云り。せずならでは手立なきほどの大事を、老後にせん事、初心にてはなしや。
 さるほどに、一期初心を忘ずして過ぐれば、上る位を入舞にして、つゐに能下らず。然れば、能の奥を見せずして生涯を暮らすを、當流の奥儀、子孫庭訓の秘傳とす。此心底を傳ふるを、初心重代相傳の藝案とす。初心を忘れば、初心子孫に傳るべからず。初心を忘れずして、初心を重代すべし。
 此外、覺者智によりて、又別見所可有。

2008年01月09日

「新国立劇場の開館十年」を考える(八)
≪劇場のトップマネジメントは及第か(上)≫

税金で賄われる「民間の財団」という不思議な劇場
この『「新国立劇場の開館十年」を考える』は、旧蝋三日、その第一回≪「世界の三本指に入る」と豪語する天下り劇場理事長≫http://goldoni.org/2007/12/br.htmlを書いた。そこでは、この劇場が凡そ毎年八十億円規模の予算で運営され、その七割に当たる五十数億円は国費が投入されていること、公演事業収入は十六億円弱、協賛金・賛助金収入は七億円弱であり、国民の税負担なしでは運営出来ない、天下り官僚が君臨する典型的な国立の文化施設の一つであることを述べた。またそこでは、一昨年一月に発行された劇場の冊子『ジ・アトレ』に載った遠山敦子理事長の「新しい年に向けて」と題した挨拶から、「わが新国立劇場は国際的にも大変評価されるようになりました。」「新国立劇場を訪れた芸術家たちからは、その専門的な観点からしても世界で三本の指に入る優れた劇場との言葉をいただいております。」との言葉を引用し、(来日したオペラ関係者の社交辞令を真に受けたにしても)その運営については開場以来厳しい批判を受けており、また、国税が投入されている以上は、運営のことごとくを詳らかにして臨むべき国立の劇場の最高責任者である財団理事長の公式な発言としては、謙虚さや矜持も見られず、如何なものかと書いた。今回は、この挨拶の後段にある発言について書こうと思う。
 遠山氏は、新国立劇場は二つの大きな役目を負っていて、第一は質の高い作品を国内外に発信すること、第二は愛され親しまれる劇場であることとして、「劇場をもっと魅力あるものとし、活性化させ、人生の夢を叶えられる場所にしたいと願っています」と言った。また、「劇場は国立の名を冠しておりますが、運営を行っているのは民間の財団です。サービス精神に富んだ劇場にするべく、職員の意識改革にも積極的に取り組んでいるところです。」「一流の芸術家が人生をかけて取り組み、多くの関係者が手を携えて幕が開くのです。人間の集合がもたらす情熱、エネルギー、体温を感じて戴きたいと願っています。」と記している。
 この挨拶文が、遠山理事長の作でなく、劇場の総務部にでもいるスピーチライターを務める職員の手によるものだとしても、理事長挨拶であるからには、劇場総体の方向性、今後の姿勢、決意を表したものと受け止めるべきものだろう。「質の高い舞台芸術を創造し、国の内外に発信」して、また、「広く皆さんに愛される、親しまれる劇場であること」を目指すという姿勢は、何も国立の(組織運営の税負担が七割、天下り官僚が常勤理事者に二人いる、典型的な国営施設である)劇場として、さして重要なものとは思えない。営利を求めるべき民間の劇場が理想として掲げるものでもあろう。また何を以って、誰が作品の質の高低を判じるのかは大きな問題であり、軽々に語ることではないだろう。また、現代では極小メディアである劇場を、万人に「愛され」「親しまれる」ようにしたいとは、土台無理な話である。直截に言えば、劇場の最高責任者の所信表明としては落第である。以前から書いてきたように、劇場の最高責任者は、舞台芸術にも、文化施設の運営にも、ましてや劇場そのものについても、経験も造詣も見識もない者が、容易に務まるものではない。全く専門性がない元文部官僚が、天下り先として用意された官の外郭団体のトップのポストを務めようとするならば、せめて劇場の成り立ちを学び、これは公僕として専門性を高めたはずの「公共」「公益」についての見識を前提に、この劇場でそれをどう考え、具現化するかに努めるべきだろう。そのためには、「世界で三本の指に入る優れた劇場」との妄想から脱却して、劇場の現状を謙虚に認識し、そして、専念専心して努めるだろう。
 無論のことだが、挨拶の文章をとやかく言っているのではない。「運営を行っているのは民間の財団」とあるが、「民間の財団」という希代な表現にも、敢えてここでは批判を加えない。「職員の意識改革にも積極的に取り組んでいる」そうだが、肝心の「役員」が抜けていることも気になるが、敢えて言挙げしない。挨拶文での所信表明が落第でも結構である。問題にしているのは、その運営姿勢そのものである。毎年五十億円の税金が使われる国立施設のトップマネジメントが落第では、利害に関わる業界関係者は論外だが、一般の納税者、主権者たる国民は、結構、結構と言うだろうか。

2008年01月17日

「新国立劇場の開館十年」を考える(九)
≪劇場のトップマネジメントは及第か(中)≫

芸術監督は「ギャラの高いアルバイト」で良いのか
  ―国立ストラスブール劇場の資料によれば、劇場監督は任期中、自らが監督する劇場以外での演出活動、出演活動が禁止されている。ただし文化大臣の許可を得れば可能であるが、実質的には演出家として、よりステータスが高い劇場の演出家として抜擢される場合以外には裁可が下りないであろう。ただし自らの劇場で制作した公演を、べつの国立劇場、国立演劇センターに持ち出すことは可能である。ともかく、公共劇場の劇場監督に就任した以上はそれ以外の仕事はできないのだ。日本では言うまでもなく、公共劇場の芸術監督が他劇場で演出することは通常のことであり、場合によっては大学の専任教員にも就いている現状がある。それは日本では認められていることなのだから、それ自体しかたがないことなのだが、芸術監督に兼職を認めることによって、公共劇場が十全に機能するために劇場監督がしなければならないことが、日本では十分に行われていないとも言える。―(佐藤康「芸術監督の思想-フランスの公共劇場をめぐって」『演劇人』一八号所収)

  新国立劇場の演劇部門の芸術監督は、今シーズンからは文学座演出部所属の鵜山仁氏である。初代の芸術監督は演劇評論家の藤田洋氏、二代目となる開場時の芸術監督は副監督を務めていた元民藝の演出家・渡辺浩子氏(故人)、三代目はフリーの演出家・栗山民也氏であった。渡辺浩子氏は芸術監督になる三年前に芸術参与・副芸術監督に就いたが、その就任時には三十五年の間所属していた劇団民藝を退団しているので、藤田、栗山、渡辺氏の三人は、新国立劇場以外には所属しない状態での就任だった。しかし、鵜山氏は、平成十七年四月の芸術参与就任時から現在まで、劇団文学座の演出部に所属している。渡辺氏は、この劇場の仕事に忙殺されて、文化庁や運営側の理事者、職員との軋轢もあって命を縮めたとも言われた(平成十年六月十二日死去。享年六十二)。しかし、渡辺氏も新国立劇場に転籍していた五年の間に、退団した民藝や、自身が主宰する製作団体の公演の演出を数本しているので、厳密に言えば専念していた訳ではない。鵜山氏は、劇団を退団しなくてもよく、専念しなくとも構わないとでも思ったのかもしれず、また鵜山氏の起用に動いた担当の常務理事や、氏を推薦したと思われる演劇関係の理事、評議員なども、芸術監督に専念することを前提条件にしなかったのかもしれない。だとすれば、鵜山氏、新国立劇場関係者は、無自覚であり、無責任な話である。

2007年 6月 演劇公演 『モスクワからの退却』  加藤健一事務所製作
       9月 演劇公演 『アルゴス坂の白い家』 新国立劇場製作
      11月 演劇公演 『家族の写真』      俳優座劇場製作(再演)
      11月 オペラ公演『カルメン』       新国立劇場製作
      11月 演劇公演 『円生と志ん生』     こまつ座製作(再演)
      11月 演劇公演 『オスカー』       NLT製作(再演) 
2008年 1月 演劇公演 『長崎ぶらぶら節』    文学座製作 
       2月 演劇公演 『人間合格』       こまつ座製作(再演) 
       3月 演劇公演 『思い出のすきまに』   加藤健一事務所製作
       5月 演劇公演 『オットーと呼ばれる日本人』新国立劇場製作
       6月 オペラ公演『ナクソス島のアリアドネ』 東京二期会製作
       9月 演劇公演 『ゆれる車の音』     文学座製作(再演)
 
  鵜山氏は昨年九月に芸術監督に就任したが、ここでは、今シーズンの幕開き直前の鵜山氏の演出作品を挙げた。遺漏があるかもしれない。新作の演劇公演では、概ね六週間程度の稽古期間が一般的だが、再演でも、キャストの変更などがあれば、数週間の稽古期間を設けているはずである。この数年は再演演出を含めれば年に十数本の演出を引き受ける多忙な鵜山氏には、新国立劇場の芸術監督の務めに専念するなど、考えもつかないことだろう。
 「任期中は自ら監督する劇場以外での演出活動、出演活動が禁止され」、上司に当たる文化大臣の許可は、「よりステータスが高い劇場の演出家として抜擢される場合以外には」下りないフランスの国立劇場と、他の組織に在籍していても構わず、専念することも求められない日本の新国立劇場。慣れない舞台芸術の世界で、それも文部省幹部職員時分のように、「よきに計らえ」とはいかないマネジメントが求められ、専念専心して指揮を執る遠山敦子理事長には、この鵜山氏の芸術監督としての働き方はどう映っているのだろうか。

2008年01月26日

「新国立劇場の開館十年」を考える(十)
≪NHK副会長を引責辞任した新国立劇場の評議員≫

 報道部門の記者らの株式のインサイダー取引疑惑が取り沙汰されている日本放送協会(NHK)だが、24日には橋本元一会長、永井多惠子副会長が引責辞任する事態となった。橋本会長ら理事会メンバーはこのインサイダー疑惑を昨年12月には把握していて、その発覚の隠蔽を図ったとの報道もあり、橋本会長、永井副会長始め全理事は、真相究明のために開かれる第三者委員会の調査を受けるなどの厳しい立場になりそうだという。
 このブログの二〇〇五年二月六日には、<『4月に崩壊する』か、NHK新体制>≫http://goldoni.org/2005/02/post_75.html
と題して、雑誌『週刊文春』が書いた同年四月の永井副会長辞職によるNHK執行部の崩壊説を取り上げ、<「やってられないわ!」と投げ出したい気持ちを抑えてでも、それまでの2ヶ月は大いに奮闘して戴きたい。>と永井氏の精励を期待した。『週刊文春』の早期崩壊説は残念ながら外れたが、本人の引責辞任、そして疑惑の真相究明の調査対象者になるという事態で、私の永井氏への期待も残念ながら大きく外れた。当時、永井氏は、せたがや文化財団の理事長を務めており、また中央官庁の審議会の委員を重複して受けていた。局員数一万二千人の大組織の最高幹部として、また毎年二千七百万円を超える給与を得ることになるその職務に専念するべきであると考え、参議院の総務委員会の委員を務める自由民主党、民主党の議員たちにその旨を伝えて、彼らからは「専念させる」との返事を貰ったことがある。永井氏のその後の活動は詳らかではないが、インターネットで調べた限りでは、せたがや文化財団理事、新国立劇場運営財団評議員にその名がある。公職を辞退して、NHK副会長職に専念していなかったことになる。「専念させる」と約束した議員諸公には、それが反故にされたことを糺さなければならない。
 また、二〇〇六年一月四日には、<『規制改革・民間開放』と『文化芸術振興』>
http://goldoni.org/2006/01/post_157.html

と題して、規制改革・民間開放推進会議が決定した最終答申について触れ、『効率化追求による文化芸術の衰退を危惧する』とする文化庁主導の反対運動に、美術界の重鎮である平山郁夫氏や高階秀爾氏、この永井氏、新国立劇場運営財団の遠山敦子理事長も発起人として加勢していることを書いた。<日本の芸術文化の先行きに不安に駆られてか危惧の念を持たれてか、矢も楯もたまらずにか、名を連ねている。言論・表現の自由が憲法で保障されている日本ではあるが、行財政改革が最大の国内政治テーマになっている昨今、その改革を推進する内閣機関に対して、天下りの渡り鳥やお飾りトップのはずの「公的組織」の長が、こんな反攻の挙に出るとは思わなかった。>
 永井氏が政治音痴であるのかどうかは知らない。この先にどんな咎め、どんな指弾を受けることになるのかも判らない。ただ、任期満了の退任まで数時間のところで引責辞任を迫られた永井氏の胸中は、察するに余りある。引責辞任したこの日の夜、永井氏は新国立劇場の大劇場でのオペラ『ラ・ボエーム』を、一階中央の普段は招待用に使っているであろう席で鑑賞していたが、果たして気を落ち着かせて終演まで楽しむことができただろうか。永井氏の三席隣りに着席していた保利耕輔元文部大臣は、永井氏を見掛けたとしたら、氏に慰めの声を掛けたのだろうか。或いは、劇場の役職員が最上席で鑑賞していることを訝り、叱責を与えただろうか。
 カーテンコールが終わり席を立つ時に中央の席、その左右の客席通路をみたが、既に永井氏の姿はなかった。

2008年01月31日

劇場へ美術館へ
≪GOLDONI/2008年2月の鑑賞予定≫

[演劇]
*2月22日(金)から3月22日(土)まで。     浜松町・自由劇場
劇団四季公演『ミュージカル 赤毛のアン』
原作:ルーシー・M・モンゴメリー
演出:浅利 慶太  振付:山田 卓   
劇団四季HP http://www.shiki.gr.jp/

*8日(金)から14日(木)まで。   小竹向原・サイスタジオコモネA
『パイドラの愛』
作:サラ・ケイン  翻訳:添田 園子
演出:松井 周

*15日(金)から17日(日)まで。          両国・シアターΧ
『泥棒論語』
原作:花田 清輝  構成・演出:山本 健翔
音楽・演奏:ロネン・シャピラ  
 
[歌舞伎] 
*1日(金)から25日(月)まで。          東銀座・歌舞伎座
『歌舞伎座百二十年 
 初代松本白鸚二十七回忌追善 二月大歌舞伎』 昼の部
演目:「菅原伝授手習鑑」(車引)
   「積恋雪関扉」
   「仮名手本忠臣蔵」(祗園一力茶屋の場)ほか
出演:幸四郎 吉右衛門 梅玉 歌六 三津五郎 錦之助 芝雀 福助 ほか

[音楽]
*1日(金)。                 江戸川橋・トッパンホール
『シリーズ・チェロ最前線 ピーター・ウェスペルウェイ』
出演:ピーター・ウェスぺルウェイ(チェロ) 
   アレクサンドル・メルニコフ(ピアノ)

[演芸]
*11日(月)から20日(水)まで。         三宅坂・国立演芸場  
『二月中席』
大喜利「鹿芝居 人情噺 子は鎹」
出演:金原亭 馬生  林家 正雀 ほか 

*27日(水)。             赤坂・赤坂区民センター区民ホール
『立川談志落語会』
 

[展覧会]
*6日(水)まで。           新宿・京王百貨店 京王ギャラリー
『大和うるし工芸  杉村 聡 作品展』

*17日(日)まで。                  丸の内・出光美術館
『王朝の恋 ―描かれた伊勢物語―』

*17日(日)まで。           六本木一丁目・泉屋博古館分館
『新春展 「吉祥のこころ」』