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2009年03月 アーカイブ

2009年03月01日

「常楽院綺堂日敬居士」

 ――わたしは可なり感傷的の心持で菊五郎の死を語つた。更に團十郎の死について語らなければならない。今日、歌舞伎劇の滅亡云々を説く人があるが、正しく云へば、眞の歌舞伎劇なるものはこの両名優の死と共にほろびたと云つてよい。その後のものはやや一種の變體に属するかとも思はれる。
 (略)そのあとの座敷はいよいよ沈んで來た。團十郎が死んだと決まつたので、無休刊の新聞社の人はその記事をかくために早々立去るのもあつたが、わたしたちのやうな月曜休刊の社のものは直ぐに帰つても仕方がないのと、あやめが気の毒さうにひき止めるのとで、あとに居残つて夜のふけるまで故人の噂をくりかえしてゐると、秋の雨はまだ降りやまないで、暗い海の音がさびしく聞えた。その夜はまつたく寂しい夜であつた。團十郎は天保九年の生まれで、享年六十六歳であると聞いた。その葬式は一週間の後、青山墓地で營まれたが、その日にも雨が降つた。
 さきに菊五郎をうしなつたことも、東京劇界の大打撃には相違なかつたが、つづいて團十郎をうしなつたことは、更に大いなる打撃であつた。晩夜にともしびを失つたやうだと云ふのは、實にこの時の心であらうかとも思われた。今後の歌舞伎劇はどうなる――それが痛切に感じられた。
(略)「團十郎菊五郎がゐなくては、木挽町も観る気になりませんね。」
 かういふ聲をわたしは度々聞かされた。團菊の歿後に洪水あるべきことは何人も豫想してゐたのであるが、その時がいよいよ來た。興行者も俳優もギロチンに上せらるべき運命に囚はれるかのやうに見えた。――
 
 きょう3月1日は、劇作家・岡本綺堂の没後七十年の正忌である。明治の三十年代から、昭和十四年に没するまでの四十余年に亘る綺堂の劇作家としての活躍、劇作家の養成、戯曲雑誌の刊行などにかけた情熱と奮闘は、当時の新興興行資本である松竹の勢力拡大にも大きく貢献したはずだが、今月の歌舞伎座にも、新橋演舞場にも、綺堂の没後七十年を追悼する作品企画は、ない。 

   <岡本綺堂著『明治の演劇』(同光社 昭和24(1949)年刊)から採録した。>  

2009年03月30日

劇場へ美術館へ
≪GOLDONI/2009年4月の鑑賞予定≫

[演劇]
*5日(日)から12日(日)まで。        浜松町・自由劇場
劇団四季公演『ひかりごけ』
劇団四季HP http://www.shiki.gr.jp/

*14日(火)から29日(水)まで。   信濃町・文学座アトリエ
文学座アトリエの会公演『犀』
 
[歌舞伎]            
*26日(日)まで。               東銀座・歌舞伎座
『四月大歌舞伎』
演目:昼の部  『伽羅先代萩』
出演:藤十郎  吉右衛門  仁左衛門  玉三郎 
   我當  秀太郎  歌六  三津五郎 ほか

[演芸] 
*11日(土)から20日(月)まで。     半蔵門・国立演芸場
『国立演芸場4月中席』
出演:桂 歌丸ほか

[音楽]
*19日(日)     初台・東京オペラシティコンサートホール 
『シュトイデ弦楽四重奏団』

[展覧会]
*5月10日(日)まで。        両国・江戸東京博物館
『東海道五拾参次~あの浮世絵がやってきた』

*5月10日(日)まで。  竹橋・東京国立近代美術館工芸館
所蔵作品展『近代工芸の名品一花』

*5月17日(日)まで。   上野・東京国立博物館 平成館
『興福寺創建1300年記念 国宝 阿修羅展』

*5月17日(日)まで。       六本木・サントリー美術館
『一瞬のきらめき まぼろしの薩摩切子』

*6月21日(日)まで。       三好・東京都現代美術館
『池田亮司+/-[the infinite between 0and1]』  

推奨の本
≪GOLDONI/2009年4月≫

『綺堂劇談』 岡本 綺堂著
  青蛙房 1956年 

 養父の権之助はその時代の芝居道には珍しいと云われるほどの、気むずかしい、理屈っぽい人物で、あだ名を神主さんと呼ばれていたそうである。そういう人物であるから、彼は養子の権十郎(後の九代目団十郎)を寵愛すると同時に、その教育は非常に厳重であった。まず浅草馬道の手跡指南森田藤兵衛に就いて読書習字を修業させ、土佐派の画家花所隣春に就いて絵画を学ばせ、舞台上に必要な舞踊、浄瑠璃、琴、三味線は勿論、生花、茶の湯のたぐいに至るまで残りなく稽古させた。
 それがために、長十郎の幼年時代より権十郎の少年時代にわたって、団十郎はほとんど朝から晩まで息をつく暇がなかったと伝えられる。少しぐらいの病気では権之助は容赦しないで、怠けてはならぬと叱り付けて稽古に追い出すという始末。それでも団十郎は素直に勉強していた。しかも権之助の育て方があまりに厳酷であるというので、周囲の者はみな団十郎を憐れんだ。いかに修業が大切だと云っても、遊び盛りの子供に殆んど半時の暇もあたえず、それからそれへと追い廻すのは余りに苛酷であるという噂がしきりに伝えられた。
 海老蔵(七代目団十郎)の弟子たちも見るに見かねて、それを師匠に訴えた。あのままに捨てて置いたらば若旦那は責め殺されてしまうであろうと云うのである。海老蔵もそうかもしれないと思った。しかし一旦他家へやった以上、いかに実父でもみだりに口出しをすることは出来ない。殊にその当時は座元の威勢が甚だ強いのであるから、座元の権之助に対して迂闊なことを云うわけにも行かない。それでも或るとき権之助にむかって、海老蔵は冗談のように云った。
 「あなたは長十郎をよく仕込んで下さるそうですが、あんまり仕込み過ぎて、今に責め殺すかも知れないという噂ですよ。」
 それに対して、権之助は厳然として答えた。
 「成程そうかも知れません。その代りに、もし責め殺されずに生きていれば、きっとあなたよりも良い役者になります。」
 海老蔵も苦笑して黙ってしまったと云う。権之助の予言あやまたず、果たして実父以上の名優となり負おせたのであるが、その当時においては権之助の厳酷な教育法に対して、反感を抱く者が頗る多かったと云うことである。団十郎も後年は人に対して「これも養父が仕込んでくれたお蔭です。」と云っていたが、その当時は何と思っていたか判らない。いずれにしても、彼はおとなしく養父の命令に服従して、他念なく勉強していたのであった。
(『甲字楼夜話』団十郎を語る より)