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「常楽院綺堂日敬居士」

 ――わたしは可なり感傷的の心持で菊五郎の死を語つた。更に團十郎の死について語らなければならない。今日、歌舞伎劇の滅亡云々を説く人があるが、正しく云へば、眞の歌舞伎劇なるものはこの両名優の死と共にほろびたと云つてよい。その後のものはやや一種の變體に属するかとも思はれる。
 (略)そのあとの座敷はいよいよ沈んで來た。團十郎が死んだと決まつたので、無休刊の新聞社の人はその記事をかくために早々立去るのもあつたが、わたしたちのやうな月曜休刊の社のものは直ぐに帰つても仕方がないのと、あやめが気の毒さうにひき止めるのとで、あとに居残つて夜のふけるまで故人の噂をくりかえしてゐると、秋の雨はまだ降りやまないで、暗い海の音がさびしく聞えた。その夜はまつたく寂しい夜であつた。團十郎は天保九年の生まれで、享年六十六歳であると聞いた。その葬式は一週間の後、青山墓地で營まれたが、その日にも雨が降つた。
 さきに菊五郎をうしなつたことも、東京劇界の大打撃には相違なかつたが、つづいて團十郎をうしなつたことは、更に大いなる打撃であつた。晩夜にともしびを失つたやうだと云ふのは、實にこの時の心であらうかとも思われた。今後の歌舞伎劇はどうなる――それが痛切に感じられた。
(略)「團十郎菊五郎がゐなくては、木挽町も観る気になりませんね。」
 かういふ聲をわたしは度々聞かされた。團菊の歿後に洪水あるべきことは何人も豫想してゐたのであるが、その時がいよいよ來た。興行者も俳優もギロチンに上せらるべき運命に囚はれるかのやうに見えた。――
 
 きょう3月1日は、劇作家・岡本綺堂の没後七十年の正忌である。明治の三十年代から、昭和十四年に没するまでの四十余年に亘る綺堂の劇作家としての活躍、劇作家の養成、戯曲雑誌の刊行などにかけた情熱と奮闘は、当時の新興興行資本である松竹の勢力拡大にも大きく貢献したはずだが、今月の歌舞伎座にも、新橋演舞場にも、綺堂の没後七十年を追悼する作品企画は、ない。 

   <岡本綺堂著『明治の演劇』(同光社 昭和24(1949)年刊)から採録した。>