2021年07月

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

アーカイブ

« 2007年03月 | メイン | 2007年05月 »

2007年04月 アーカイブ

2007年04月01日

バイエルン総監督・ジョナス氏の講義録(十一)

 バイエルン州立歌劇場におけるサー・ピーター・ジョナス氏のインテンダントという職位は、その前提である劇場機構とともに日本には存在しない。また、氏のような舞台芸術の実践家であり、数百人規模の組織運営のキャリア、専門家という存在は、日本の行政立の劇場・ホールにはいない。『シャッポは軽いほど良い』 とは、小沢一郎氏がかつての総理・海部俊樹氏を党首に担ぐ時の言葉だったか、これは総理や党首ばかりの話ではない。文部科学省や行政組織、外郭団体などによる文化施設のトップの人選は、これを見習っているのだろうかと疑いたくなるほどである。とくに行政立の劇場・ホールには、文部(科学)省や地方行政の天下りや芸能実演家など、その運営の専門性にも見識にも疑問符の付く人物がお飾りトップに収まることが多いが、劇場・ホールの製作や事業の運営幹部・中核スタッフの能力が高ければ、実害は少ないだろう。問題は、運営幹部の能力ばかりか、見識の低さ、モラルの低さがお飾りシャッポ以上であったりすることだ。こんな軽いシャッポや運営幹部が、全国の公共劇場・ホールに蝟集し、保身に汲々として、政府・行政(税金)補助金にありつくことを最大の目的としていることだ。
 また、行政立の劇場・ホールは、多くの現役の演劇人を、芸術監督やディレクター、参与などの肩書で雇っている。そこには余程の甘い汁でもあるのだろう。この『提言と諌言』の2005年7月27日の<先達の予想的中の『新国立劇場』>に書いたことだが、「国立劇場の管理の仕事をやっていた人に聞いたんだけど、芝居をやってた人間の方がずぶのお役人よりももっと官僚的になるそうだ。」との千田是也氏の発言や、「第二国立劇場で一番心配なのは、二流の芸術家が官僚化して、あの中に閉じこもったら、サザエの一番奥のところにダニが入った恰好になっちゃってね。ほじくり出すのに困っちゃって、日本芸術の最大のガンになる。」との浅利慶太氏の予想は、二十年以上も前のものだが、見事に的中している。
 
 昨年3月31日まで、『提言と諌言』を二百本近く書いてきたが、大半は現在の舞台芸術・演劇状況への批判であった。例えば、新国立劇場の不公正・不適正な運営に関する批判や、業界人になりさがった演劇人の有り様についての批判である。「最近は演劇ジャーナリズムすら翼賛化した」との声を聞くことたびたびだが、その中で、孤立・反撃を恐れずに書いてきたつもりである。「君が『提言と諌言』を書かなくなったせいで、ますます演劇状況は酷くなった」との大袈裟なお言葉を戴くこともあるが、このお言葉を真に受け、「体制には常に批判者がいなければいけない」との大仰な信念を曲げず、「賎しいものを賎しいと難じて、倦む事勿れ、恥じる事勿れ」との先達の叱咤を励みに、今後も劇場運営、演劇製作、組織経営のあり方を考えていこうと思っている。

2007年04月13日

劇団文学座の七十年(一)
≪劇団創立三幹事の苦言、諌言、不吉言≫

 現代の演劇のあり様については、この『提言と諌言』では04年から書き続けてきた。この先も、書きながら考えていこうと思う。そのことで、私自身が今よりもより明確に、「演劇の現在」が理解出来るのではと期待している。

 2年ほど前の05年2月12日に、≪『新劇』と『リアルタイム』≫と題するブログを書いた。そこでは、『今や「新劇」は崩壊したにも等しいもの』という認識について触れた。これは、第二次世界大戦後に起こった新劇ブームを体感した世代ばかりか、戦後生まれで演劇を専門とする私も、三十数年は抱いている厳しい認識であり、率直な感想である。
 しかしながら、このような認識・感想を持たない、或いは認識以前に関心を寄せない演劇関係者も多く存在している。中には、「今も新劇は元気である」と主張する演劇評論家、「演劇は活性化している」と分析する演劇研究者も存在する。
 はたしてそうだろうか。新劇(演劇)が元気であり、活性化しているのであれば、国家による支援政策、手厚い支援制度は現代演劇には不要ではないか。受給側の不正・不適正な支出(或いは収奪)が指摘され、たびたび社会問題になりながらも、補助金制度が今も維持されているのは、どういうことだろうか。この辺りのことについても、じっくり考えていきたい。

 かつての新劇大手三座の一つ、劇団文学座は、今年の9月に劇団創立七十年を迎える。
 今回から切れ切れにだが、この劇団の七十年について考えていこうと思う。
 手許にある1987(昭和62)年4月29日発行の『文学座五十年史』の頁を繰りながら、劇団関係者の文章を引用し、まずは祝意を著したい。
 『感謝をこめて』と題する、杉村春子(1997年没)の巻頭の挨拶から書き写す。

 「文学座はご承知のように、久保田、岸田、岩田の三先生が、友田恭助・田村秋子夫妻という名優のために作られた劇団です。1937(昭和12)年、創立の年は蘆溝橋の事変が起きて日中戦争に突入した年でした。そして友田さんの応召、戦死、ほんとにアッという間の出来事でした。田村さんの不出演で旗挙げ公演もお流れになり、途方にくれた私たちは、それでも集められたのだから散り散りにならないで芝居の仕事を続けてゆきたいと願いつづけて、その翌年の一月、神田の貸席(錦橋閣)で、自主的に勉強会を開いて、先生方に私たちの想いをみていただきました。」
 友田恭助については、この『提言と諌言』でも、水谷八重子の著作『ふゆばら』について記した折にすこし触れた。05年12月7日≪「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(弐)≫
 田村秋子については、別の機会に改めて書こうと思っている。
 文学座を作った久保田万太郎、岸田國士、岩田豊雄の三人の文学者の言葉を、『文学座五十年史』から再度拾ってみよう。
 
 「"世帯を大きくするな、大きくするな……"
 と、ぼくは文学座に対してつねにいいつづけて来た。しかも文学座は、しだいにふくれて、おどろくほどの大所帯になった。
 ぼくはそれを嘆く。
 なぜか?
 大所帯になればなるで、神経が太くなり、にぶくなり、あるいは、血のめぐりがわるくなるからである。
 文学座よ、もう一度、二十年まえの気もちに返る気はないか?…といったら、いまは亡き岸田國士が、あの世から、ハンカチで口をふきふき
 ……それはね、あなた……
 と、彼のあの微妙な微笑を示すだろう。
 以上、創立二十年をむかえた文学座に対するぼくの所懐をしるす所以である。」
 (「文学座創立二十年」 久保田万太郎)

 「私たちが文学座をはじめてから、なるほどもう十五年たつわけであるが、それだけの成長をしたかどうか、このへんで厳しい自己批判を加えてもよさそうである。
 ……仕事の量に比して、質の方は、全体にさほど高まったとは言えないように思う。」
 (「創立15周年記念公演パンフレット」 岸田國士)

 「文学座が十五周年を迎えて、ご贔屓の方々がチヤホヤいって下さると思う。ありがたい。しかし、身内のものまでが、坊や大きくなったネなぞと、頭を撫ぜる必要はない。私なぞは、逆に、頭を一つハリ倒してやろうかと、考えている。
 十五年前に、試演という名目で、飛行会館の舞台を踏んだ頃には、三日間の芝居を、一カ月ぐらい稽古をした。座員は電車賃に相当するものも貰えず、たまたま収入があれば、その半額を、次回試演の費用に積立てる規約を忠実に守った。それで、イヤな顔をする者は、一人もなかった。イヤな顔どころか座員の眼は燃え、眉は昮っていた。
 そして十五年経ち、どんな文学座になったか。座員は映画出演だ、ラジオだと、他所の仕事が大変忙がしく、服装もなぞもリュウとしてきた。しかし、顔つきは、昔に比べると、ボンヤリしている。ともかく、これは生長の兆である。皆忙がしくて公演の稽古に顔が揃わない日が多いとか、或いは忙がしくなくても、いい役がつかない時は休むとか、いうことになったら、十五年間の進歩、測り知れざるものがあるのだが、そこまで生長してるとは信じたくない。」
 (「不吉言」 岩田豊雄)

 友田恭助・田村秋子のために、彼らの劇団『築地座』の活動を止めさせてまでして『文学座』を作った三幹事には、肝心の友田のいない文学座はどんなものであったのだろうか。杉村春子らの劇団員に対する三幹事の厳しい指摘から五十年を経過した今、はたして文学座は、どんな集団になったのであろうか。
 


2007年04月20日

劇団文学座の七十年(二)
≪「反政治主義」から「時局迎合」への変容≫

 ―われわれは、姑息と衒学と政治主義とを排し、眞の意味に於ける「精神の娯楽」を舞臺を通じて知識大衆に提供したいと思ひます。在来の因循な「芝居」的雰囲気と、徒に急進的な「新劇」的生硬の孰れをも脱して、現代人の生活感情に最も密接な演劇の魅力を創造しようといふのであります。われわれは外に向かつては、まづ今まで劇場に縁遠かつた現代の教養ある「大人」に呼び掛けたいのであります。同時に、内に於いては、名實ともに現代俳優たり得る人材の出現に力を盡したいのであります。
 この時局に於て、国民の日常生活の中に、厳粛にして暢達なる藝術的雰囲気を送ることは、われわれの義務とするところであります。それは現代のあらゆる層にわたつて、日一日と顕著になりつつある風俗的危機を救ふことに與るであろうことを確信するものであります。―

 上記は、1937(昭和12)年に書かれた、『文學座創立について』と題する、岩田豊雄、岸田國士、久保田万太郎の三幹事連名の文学座の創立宣言である。文学座私史としては出色の北見治一著『回想の文学座』(中公新書、1987年刊)では、この宣言は「岩田の筆になるものだったと思われる」と記されている。今回は、北見説に従って、岩田豊雄が1956(昭和31)年に著した『新劇と私』を紐解きながら書き進めていくことにする。
 まずは文学座の命名について記す。座名は文学偏重の劇団という考えではなく、プロレタリア劇団がイデオロギーを大切にして戯曲をゾンザイにする傾向に対抗する気持ちがあって命名したという。また、劇団創立はプロレタリア派のヘゲモニーに対して起こしたもので、「正直なことをいうと、文学座の主張とか、スローガンのようなものは、あの時にムリに搾りだし」、また、「大人の観る演劇」を標榜したのは、「プロ派の芝居は"子供の新劇"」だったからという。
 また、築地小劇場の分裂以降の昭和初期の状況については、
 「新劇といえば、"新築地"と"新協"の二つであり、新劇といえばプロ派系統のものと相場がきまり、劇評はプロ派的観点から行われるのが常であった。尤も"新築地"や"新協"にしても、その頃はもうアジ劇の時代ではなく、藤村の"夜明け前"のようなものを上演していたのだが、何といっても、芝居の流儀が私たちと違う。ことに、新劇の大衆化とか、職業化とかいうことをいって、芝居を荒ッぽく取扱うのが、どうも気に食わない。最も気に食わないのは、新劇はわれらのものという風に、威張ってるところだった。
 私は、芸術派の劇団を、もう一度やりたくなった。しかし、岸田と私だけで始めれば、築地座の轍を再び繰り返す惧れがあり、彼の理想家ヒステリーを封じるためにも、もう一人の人物の参加が必要ではないかと思った。その人物は、久保田万太郎以外になかった。 
 久保田万太郎は創作座の後援をしていたので、作家として真船豊、俳優として同座の一団を握っていた。また、新劇の元老としての位置は、岸田にも優っていた。その上、彼は友田夫妻に反感があるわけもなく、むしろ創作座の役者以上に、愛情を抱いていることも、私は知っていた。私は、新しい劇団は、芸術派の世界の中で、できるだけ広い間口をとるべきだと考えた。」(「築地座前後(二)」) とある。

 友田恭助の応召・戦死、田村秋子の不参加は、創立三幹事にとっては大きな痛手であったことだろう。このような厳しい船出を予期せずに「文学座創立宣言」は作られた訳だが、時局は、「やがて、思いがけない戦争が始った。私は政府や軍人が、そんなバカなことをする筈がないと思っていたから、全く意外」(『新劇と私』)な方向に進んだ。「上海事変なんてものを軽く見ていた」(同著)岩田たちが、プロレタリア派と一線を画そうと「反政治主義」の主張を掲げた文学座は、創立の2ヶ月前に起きたこの事変以降、敗戦の1945(昭和20)年夏まで、戦時体制に引き摺られ翻弄されるように、或いは追従、或いは迎合を続けていくことになる。
 戦中の幾つかの事例を挙げる。
 1940(昭和15)年の皇紀二千六百年祝典の芸能祭に『歯車』(作・内村直也、演出・岸田國士)で参加。新築地、新協の二劇団に警視庁から解散命令が出た直後の同年10月には、大政翼賛会文化部長に岸田國士が就任し、退座する(この年の5月に文学座は組織を改革し、幹事を監事と改め、彼等は座の指導と監督を受け持ち、三津田健、杉村春子、森雅之が常任委員として座の運営にあたる。)。1941(昭和16)年1月には、内閣情報局と大政翼賛会の合作による「国民演劇としての新劇の再編成、設計図」が発表され、同年6月には、同じ情報局と翼賛会の斡旋によって日本移動演劇連盟が発足、文学座は移動隊を組織して参画。翌42(昭和17)年2月、森本薫作『黄塵』公演中に起きた、情報局による専属劇団編入騒動。以降、解散命令を受けることなく、移動演劇隊、独自の地方巡回公演、東京公演を実施する。1945(昭和20)年8月15日は、石川県釜清水村小松製作所分工場での移動演劇隊の昼公演を急遽取り止め、劇団疎開先にしていた石川県小松市に戻っている。
 
 岩田は、上述の「情報局専属劇団」について記している。
 ―久保田顧問は、差支えがあって、結局、私と座員とが、相談をするのだが、座員といっても、森本薫以外は、創立以来の役者ばかりだった。
 「君たちは、どうする? 情報局劇団へ行くか」
 私が訊いても、誰も返事しなかった。私たちは、その頃、幹事の役を去り、顧問の格なのだから、命令的なことはいえないから、自分の考えだけを、述べる外なかった。
 「僕は、こうなったら、自発的に、文学座を解散する方がいいと思う」
 しかし、今度も、誰も返事しなかった。ややあって、森本薫が発言した。
 「それより外、仕方がないでしょう」
 やがて役者たちも、次第に、口をきき出したが、腹の立つほど、態度が曖昧だった。しかし、解散説に賛成する者も一人もなかった。
 「私たちは、とにかく芝居をやっていたいので……」
 一番年長で、温厚な役者が、呟きのような言葉を洩らした。情報局劇団入りも、やむをえないという口吻だった。
 私は非常に意外な気がした。新劇というものは、同志的な集まりだと思っていたのに、すっかり裏切られたような気がした。また、紙の表裏のように、一体だと思った私たちと役者たちの関係が、大きな溝のあったことも、覚えずにいられなかった。―(「文学座のこと(一)」)

 「旗挙げ公演もお流れになり、途方にくれた私たちは、それでも集められたのだから散り散りにならないで芝居の仕事を続けてゆきたいと願い」(杉村春子)、その後は戦意高揚劇、翼賛理念劇にも手を染め、情報局専属劇団になりさがってでも、「とにかく芝居をやっていた」かった文学座の俳優たちにとって、「姑息と衒学と政治主義とを排し、眞の意味に於ける「精神の娯楽」を舞臺を通じて知識大衆に提供したいと思ひます。」との創立宣言は、劇団の創立当初から理解不能なものであったのであろうか。

2007年04月26日

劇団文学座の七十年(三)
≪「無定見」「方向性がない」との批判を招く初期の舞台≫

 「一にも俳優、二にも俳優といったら、誤解を生むかも知れませんが、少くとも小生は新劇の現状に対して、そんな風な考えをもっています。少くとも小生の任期中は、お客様のことも批評家のこともあまり考えないで、ウチの役者達の芸術上の利害を中心に仕事をしてゆく考えであります。これが結局お客様に喜ばれ、批評家に賞められる一番の近道と考えるからであります。(略)とにかく、僕らは簡単素朴な考えをもって真直ぐな一本道を歩いているのだから、ヤレ文学座は無定見であるとか、ヤレ方向がないとかいう声を聞くと、とても滑稽に感じるのである……」「蒼海亭」パンフレット・岩田幹事"当番雑感" (『文学座五十年史』年表 昭和十四年(一九三九年)の項より)

 岩田豊雄の著書『新劇と私』には、このあたりのことが書かれている。

 「さて、この最初の試演に対して、世評はかなり冷たかった。事実、一つだって、自慢のできる舞台はなかったのだが、悪評のうちに、何かイジ悪いものが含まれていた。三人揃って、何のザマという意味、三人揃ったって、現場の仕事はできるものかという意味なぞ、いろいろあったようだ。つまり、"三人"が眼の仇にされたようなものだった。また、劇評家の大部分は、プロ派の味方だった。」(「文学座のこと(一))

 では、どんな批評が書かれていたのか。
 倉林誠一郎著『新劇年代記 戦中編』(1969年、白水社刊)から、そこに収録されている文学座試演の劇評を抜粋する。

第一回試演(1938年3月25、26日 飛行館 3回公演 入場者数1,206人)
『みごとな女』 作 森本薫、演出 辻久一、配役 あさ子(堀越節子)、直紀(竹河みゆき)、収(中村伸郎)、弘(森雅之)、女中(小野松枝)
『我が家の平和』 作 クウルトリーヌ、翻案 徳川夢声、演出 岸田國士、配役 鳥枝(徳川夢声)、その妻蘭子(杉村春子)
『クノック』 作 ジュウル・ロマン、訳 岩田豊雄、演出 阿部正雄 
『みごとな女』 ◎演出者はいったい、この作品の何を舞台に表はさうとしたんだらう? これでは結局脚本のスタイルにばかり気をとられて、肝心のものを逸してしまったといふ形ではないか? 
『我が家の平和』 ◎浅草にゐると思へば成る程腹も立ちません。初めから気楽な気持で、これはこんな芝居なのだと、そのつもりになって見物します。併しそれではクウルトリーヌが泣きませう。
『クノック』 ◎愉快な作品には違いないが、あまりに奔放で巧妙過ぎる。訓練の行き届かない若い俳優には、到底やりこなせるものではない。演出者は「俳優に活発な想像力を湧かせ」「自発性と自信を駆使してやる」為にこの作品を選んだといふが、果してその効果があっただらうか? (『劇作』 原千代海)

第二回試演(1938年6月4,5,6日 飛行館 3回公演 入場者数1,460人)
『クラス会』 作 岡田禎子、演出 久保田万太郎、配役 米子(東山千栄子=客演)、治代(毛利菊枝=客演)、女中クミ(水口元枝)、きよ(杉村春子)、力枝(白田トシ)、兼子(竹河豊子)、保子(小野松枝) 
『父と子』 作 ポオル・ジュラルディ、演出 岩田豊雄、配役 父・村山順三(徳川夢声)、子・太郎(森雅之)、松本寛一(三木利夫)、女中(塚原初子)
『魚族』 作 小山祐士、演出 岸田國士
 ◎むざんな第一回試演の黒星に比べて、今度の文学座は、兎に角及第の成果を見せてくれた。演出演技に、エキスパートを揃えて、出しものも、観客に親しみやすいものをえらんだ結果であらう。   
『クラス会』 ◎客演の東山を除いては、肝腎な「蛍の火」の唄の盛上りのところで照れて、客席まで恥ずかしくさせてゐた。
 『父と子』 ◎徳川夢声は、前演よりも、ぐっとしまって、段々と新劇俳優への過程をたどってゐる。どうやら、この試演も、素人徳川にもって行かれた形である。
 『魚族』 ◎舞台にのせられたものと、リリック・コメディ風な表現の中に、生活の現象形態の表面だけが丹念に上塗りされてゐる感じで、折角の素材が、生活感情にまで訴へて来ない。
 ◎全体を通じて、この一座のエロキューションは、話術の細部を追ふたのか、所々、大事なせりふが、巧みな言ひ廻しの中に客席に通って来ない憾があった。(『東京日日新聞』 八田元夫) 

第三回試演(1938年10月17-20日 飛行館 5回公演 入場者数1,700人)
『ゆく年』 作・演出 久保田万太郎
 ◎俳優陣が思ったより整ってゐるのも心強かった。この態度で続けたら築地座より強力な劇団になれるだらう。
 ◎三津田健の小間物商は、年齢や言葉の駆使に無理があった。久保田万太郎の得意のせりふではあるが、東京の人が、あんなに気取って、「けど」とか「いいえ」とか言ふだらうか。(Noの意味の「いいえ」でなく、自分で自分に、もう一度念を押すといふやうな意味を含んだ、この作者一流の「いいえ」もしくは「いえ」のことである)森雅之とか中村伸郎とか、若い俳優には、どこかこの作品とぴったりしない、ぎこちないものがあった。(『テアトロ』 染谷格)

 第四回試演(新劇協同公演)(1938年12月1-4日 有楽座 5回公演 入場者数6,000人)
『秋水嶺』 作・内村直也 演出・岩田國士、阿部正雄 
 ◎友田恭助氏の当り役だったもので、友田を偲ぶ意味からしたのださうだが、よい味を持ちながら、物足りなかった。
 ◎杉村春子の朝鮮婦人が出色の出来であった。
『釣堀にて』 作・演出 久保田万太郎
 ◎中村伸郎が巧かった。徳川夢声の直七は、巧いなりに、外の人と離れてゐた。(『演芸画報』 堀川寛一)

第五回試演(1939年2月24-27日 飛行館 6回公演 入場者数不明)
『蒼海亭』(原名マリウス)
作 マルセル・パニョル、訳 永戸俊雄、演出 岩田豊雄、田中千禾夫
配役 セザール(三津田健)、マリウス(森雅之)、パニス(中村伸郎)、エリックス・エスカルトフイグ(坂本猿幹冠者)、オーリーヌ(杉村春子)、ファニー(堀越節子)
 ◎今度の『蒼海亭』は純然たる翻訳劇でもなく、また、むろん、翻案でもないといふ、舞台上の性格の極めて曖昧なものであったために、舞台はどうしても俳優各個の芸に頼らざるを得なくなった。そこで、俳優は得たりとばかりに各自の持ち味を跳梁させはじめたのである。もともと「マリウス」には、かうした跳梁を許すだけの隙がある。文学座の場合は、それを悪く許したといふ感がないでもない。
 ◎演出家はこの雑然たる異種混淆の舞台のうちから自然に立昇ってくる何ものかを脇で泛然と待ち設けてゐる。しかし、俳優の方は、舞台のアンサンブル、言ひかへれば原作の精神の各自の性格を帰一させやうとする代わりに、むしろ、舞台の外の方へ、まるで幾つかの触手を差し伸べるやうに、各自のそれぞれに異る演技の性格を伸出してゐる。
 ◎かうなってくると、観客はいつの間にか作品から遊離して、その時その時の俳優の持ち味だけを賞味しようとする。もはや、舞台上には連続性が欠如してしまってゐる。(『劇作』 太田咲太郎) 

 1938年には1年で4度の試演会を開き、精力的に劇団活動を始めた文学座だが、批評は当時の二大劇団だった新協劇団、新築地劇団の公演についての劇評と比べても厳しいものであった。「文学座は無定見である」とか、「方向がない」との世評に、「滑稽」と反発した岩田豊雄だが、田中千禾夫と共同演出をした第五回試演『蒼海亭』の劇評は、上述の様に特に厳しいものだった。
 その後、39年40年と、文学座は勉強会、試演を順調に続けていくことになる。40年4月、『紀元二千六百年祝典』記念芸能祭に、内村直也作、岸田國士演出の『歯車』(第十回試演)をもって参加する。

 ―さすがに劇団自身もこの作品のひどさに気付いたらしくパンフレットに「調子の低いのは万事祝典劇のため故意にした事だ」と断わり自ら阿諛迎合を認めてゐるが、芸能祭主催者も同時に観客も随分馬鹿にされた話である。
 由来この劇団は遁辞を設けるのが好きだが今度も祝典劇の性質を勝手に狭く限定して作品の不備を蔽ったといはれても仕方あるまい。演出者も俳優もこれでは手も足も出ず気の毒の一語に尽きる。
(『東京朝日新聞』 1940年4月26日号) 

 『紀元ニ千六百年祝典』記念芸能祭参加の4ヶ月後の8月19日、警視庁による新協劇団、新築地劇団関係者への一斉検挙が行われる。主な検挙者を記しておく。
 <新協劇団>秋田雨雀、村山知義、久保栄、久板栄二郎、松尾哲次、天野晃二郎、滝沢修、小沢栄(太郎)、三島雅夫、松本克平、中村栄二、伊達信、信欣三、宇野重吉、細川ちか子、赤木蘭子、原泉
 <新築地劇団>八田元夫、和田勝一、石川尚、薄田研二、本庄克ニ、石黒達也、中江隆介、池田生二
 <その他>千田是也、岡倉士朗、山川幸世、染谷格、若山一夫

 この弾圧を受け、新協劇団は8月22日、新築地劇団は翌23日に解散する。「国家の新体制運動に即応する以外、劇団活動は不可能である事を、今こそはっきり認識」(岩田豊雄 「都新聞」談話)した文学座は、当然のことだが、検挙される者もなく、劇団解散の憂き目に遭うこともなかった。
 この年の10月、近衛文麿が組織した新体制運動『大政翼賛会』が設立された。その重要ポストである文化部長に就任したのは、劇団三幹事のひとり、岸田國士であった。


2007年04月30日

劇場へ美術館へ
≪GOLDONI/宮島惠一・2007年5月の鑑賞予定≫

[演劇]
*5月22日(火)から6月21日(木)まで。       浜松町・自由劇場
劇団四季公演『解ってたまるか!』
詳細:劇団四季HP http://www.shiki.gr.jp/

[歌舞伎]
 *1日(火)から25日(金)まで。           東銀座・新橋演舞場
 五月大歌舞伎 夜の部 
『妹背山婦女庭訓』『隅田川続俤』 
出演:吉右衛門 富十郎 歌六 錦之助 ほか 

[音楽]
*25日(金)。                   紀尾井町・紀尾井ホール
『ギル・シャハム ヴァイオリン・リサイタル』
曲目:ウォルトン ヴァイオリン・ソナタ
  :バッハ   無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第二番 

[演芸]
*11日(金)から20日(日)まで。         半蔵門・国立演芸場
『五月中席 真打昇進襲名披露公演』

[展覧会]
*6月10日(日)まで。         上野・東京藝術大学大学美術館 
『パリへ― 洋画家たち 百年の夢』

*7月1日(日)まで。               丸の内・出光美術館
『肉筆浮世絵のすべて』
―その誕生から歌麿・北斎・広重まで―
  
*7月1日(日)まで。    初台・東京オペラシティアートギャラリー
『藤森建築と路上観察』
 ―第10回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展帰国展―