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劇団文学座の七十年(二)
≪「反政治主義」から「時局迎合」への変容≫

 ―われわれは、姑息と衒学と政治主義とを排し、眞の意味に於ける「精神の娯楽」を舞臺を通じて知識大衆に提供したいと思ひます。在来の因循な「芝居」的雰囲気と、徒に急進的な「新劇」的生硬の孰れをも脱して、現代人の生活感情に最も密接な演劇の魅力を創造しようといふのであります。われわれは外に向かつては、まづ今まで劇場に縁遠かつた現代の教養ある「大人」に呼び掛けたいのであります。同時に、内に於いては、名實ともに現代俳優たり得る人材の出現に力を盡したいのであります。
 この時局に於て、国民の日常生活の中に、厳粛にして暢達なる藝術的雰囲気を送ることは、われわれの義務とするところであります。それは現代のあらゆる層にわたつて、日一日と顕著になりつつある風俗的危機を救ふことに與るであろうことを確信するものであります。―

 上記は、1937(昭和12)年に書かれた、『文學座創立について』と題する、岩田豊雄、岸田國士、久保田万太郎の三幹事連名の文学座の創立宣言である。文学座私史としては出色の北見治一著『回想の文学座』(中公新書、1987年刊)では、この宣言は「岩田の筆になるものだったと思われる」と記されている。今回は、北見説に従って、岩田豊雄が1956(昭和31)年に著した『新劇と私』を紐解きながら書き進めていくことにする。
 まずは文学座の命名について記す。座名は文学偏重の劇団という考えではなく、プロレタリア劇団がイデオロギーを大切にして戯曲をゾンザイにする傾向に対抗する気持ちがあって命名したという。また、劇団創立はプロレタリア派のヘゲモニーに対して起こしたもので、「正直なことをいうと、文学座の主張とか、スローガンのようなものは、あの時にムリに搾りだし」、また、「大人の観る演劇」を標榜したのは、「プロ派の芝居は"子供の新劇"」だったからという。
 また、築地小劇場の分裂以降の昭和初期の状況については、
 「新劇といえば、"新築地"と"新協"の二つであり、新劇といえばプロ派系統のものと相場がきまり、劇評はプロ派的観点から行われるのが常であった。尤も"新築地"や"新協"にしても、その頃はもうアジ劇の時代ではなく、藤村の"夜明け前"のようなものを上演していたのだが、何といっても、芝居の流儀が私たちと違う。ことに、新劇の大衆化とか、職業化とかいうことをいって、芝居を荒ッぽく取扱うのが、どうも気に食わない。最も気に食わないのは、新劇はわれらのものという風に、威張ってるところだった。
 私は、芸術派の劇団を、もう一度やりたくなった。しかし、岸田と私だけで始めれば、築地座の轍を再び繰り返す惧れがあり、彼の理想家ヒステリーを封じるためにも、もう一人の人物の参加が必要ではないかと思った。その人物は、久保田万太郎以外になかった。 
 久保田万太郎は創作座の後援をしていたので、作家として真船豊、俳優として同座の一団を握っていた。また、新劇の元老としての位置は、岸田にも優っていた。その上、彼は友田夫妻に反感があるわけもなく、むしろ創作座の役者以上に、愛情を抱いていることも、私は知っていた。私は、新しい劇団は、芸術派の世界の中で、できるだけ広い間口をとるべきだと考えた。」(「築地座前後(二)」) とある。

 友田恭助の応召・戦死、田村秋子の不参加は、創立三幹事にとっては大きな痛手であったことだろう。このような厳しい船出を予期せずに「文学座創立宣言」は作られた訳だが、時局は、「やがて、思いがけない戦争が始った。私は政府や軍人が、そんなバカなことをする筈がないと思っていたから、全く意外」(『新劇と私』)な方向に進んだ。「上海事変なんてものを軽く見ていた」(同著)岩田たちが、プロレタリア派と一線を画そうと「反政治主義」の主張を掲げた文学座は、創立の2ヶ月前に起きたこの事変以降、敗戦の1945(昭和20)年夏まで、戦時体制に引き摺られ翻弄されるように、或いは追従、或いは迎合を続けていくことになる。
 戦中の幾つかの事例を挙げる。
 1940(昭和15)年の皇紀二千六百年祝典の芸能祭に『歯車』(作・内村直也、演出・岸田國士)で参加。新築地、新協の二劇団に警視庁から解散命令が出た直後の同年10月には、大政翼賛会文化部長に岸田國士が就任し、退座する(この年の5月に文学座は組織を改革し、幹事を監事と改め、彼等は座の指導と監督を受け持ち、三津田健、杉村春子、森雅之が常任委員として座の運営にあたる。)。1941(昭和16)年1月には、内閣情報局と大政翼賛会の合作による「国民演劇としての新劇の再編成、設計図」が発表され、同年6月には、同じ情報局と翼賛会の斡旋によって日本移動演劇連盟が発足、文学座は移動隊を組織して参画。翌42(昭和17)年2月、森本薫作『黄塵』公演中に起きた、情報局による専属劇団編入騒動。以降、解散命令を受けることなく、移動演劇隊、独自の地方巡回公演、東京公演を実施する。1945(昭和20)年8月15日は、石川県釜清水村小松製作所分工場での移動演劇隊の昼公演を急遽取り止め、劇団疎開先にしていた石川県小松市に戻っている。
 
 岩田は、上述の「情報局専属劇団」について記している。
 ―久保田顧問は、差支えがあって、結局、私と座員とが、相談をするのだが、座員といっても、森本薫以外は、創立以来の役者ばかりだった。
 「君たちは、どうする? 情報局劇団へ行くか」
 私が訊いても、誰も返事しなかった。私たちは、その頃、幹事の役を去り、顧問の格なのだから、命令的なことはいえないから、自分の考えだけを、述べる外なかった。
 「僕は、こうなったら、自発的に、文学座を解散する方がいいと思う」
 しかし、今度も、誰も返事しなかった。ややあって、森本薫が発言した。
 「それより外、仕方がないでしょう」
 やがて役者たちも、次第に、口をきき出したが、腹の立つほど、態度が曖昧だった。しかし、解散説に賛成する者も一人もなかった。
 「私たちは、とにかく芝居をやっていたいので……」
 一番年長で、温厚な役者が、呟きのような言葉を洩らした。情報局劇団入りも、やむをえないという口吻だった。
 私は非常に意外な気がした。新劇というものは、同志的な集まりだと思っていたのに、すっかり裏切られたような気がした。また、紙の表裏のように、一体だと思った私たちと役者たちの関係が、大きな溝のあったことも、覚えずにいられなかった。―(「文学座のこと(一)」)

 「旗挙げ公演もお流れになり、途方にくれた私たちは、それでも集められたのだから散り散りにならないで芝居の仕事を続けてゆきたいと願い」(杉村春子)、その後は戦意高揚劇、翼賛理念劇にも手を染め、情報局専属劇団になりさがってでも、「とにかく芝居をやっていた」かった文学座の俳優たちにとって、「姑息と衒学と政治主義とを排し、眞の意味に於ける「精神の娯楽」を舞臺を通じて知識大衆に提供したいと思ひます。」との創立宣言は、劇団の創立当初から理解不能なものであったのであろうか。