2021年07月

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

アーカイブ

« バイエルン総監督・ジョナス氏の講義録(十一) | メイン | 劇団文学座の七十年(二)≪「反政治主義」から「時局迎合」への変容≫ »

劇団文学座の七十年(一)
≪劇団創立三幹事の苦言、諌言、不吉言≫

 現代の演劇のあり様については、この『提言と諌言』では04年から書き続けてきた。この先も、書きながら考えていこうと思う。そのことで、私自身が今よりもより明確に、「演劇の現在」が理解出来るのではと期待している。

 2年ほど前の05年2月12日に、≪『新劇』と『リアルタイム』≫と題するブログを書いた。そこでは、『今や「新劇」は崩壊したにも等しいもの』という認識について触れた。これは、第二次世界大戦後に起こった新劇ブームを体感した世代ばかりか、戦後生まれで演劇を専門とする私も、三十数年は抱いている厳しい認識であり、率直な感想である。
 しかしながら、このような認識・感想を持たない、或いは認識以前に関心を寄せない演劇関係者も多く存在している。中には、「今も新劇は元気である」と主張する演劇評論家、「演劇は活性化している」と分析する演劇研究者も存在する。
 はたしてそうだろうか。新劇(演劇)が元気であり、活性化しているのであれば、国家による支援政策、手厚い支援制度は現代演劇には不要ではないか。受給側の不正・不適正な支出(或いは収奪)が指摘され、たびたび社会問題になりながらも、補助金制度が今も維持されているのは、どういうことだろうか。この辺りのことについても、じっくり考えていきたい。

 かつての新劇大手三座の一つ、劇団文学座は、今年の9月に劇団創立七十年を迎える。
 今回から切れ切れにだが、この劇団の七十年について考えていこうと思う。
 手許にある1987(昭和62)年4月29日発行の『文学座五十年史』の頁を繰りながら、劇団関係者の文章を引用し、まずは祝意を著したい。
 『感謝をこめて』と題する、杉村春子(1997年没)の巻頭の挨拶から書き写す。

 「文学座はご承知のように、久保田、岸田、岩田の三先生が、友田恭助・田村秋子夫妻という名優のために作られた劇団です。1937(昭和12)年、創立の年は蘆溝橋の事変が起きて日中戦争に突入した年でした。そして友田さんの応召、戦死、ほんとにアッという間の出来事でした。田村さんの不出演で旗挙げ公演もお流れになり、途方にくれた私たちは、それでも集められたのだから散り散りにならないで芝居の仕事を続けてゆきたいと願いつづけて、その翌年の一月、神田の貸席(錦橋閣)で、自主的に勉強会を開いて、先生方に私たちの想いをみていただきました。」
 友田恭助については、この『提言と諌言』でも、水谷八重子の著作『ふゆばら』について記した折にすこし触れた。05年12月7日≪「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(弐)≫
 田村秋子については、別の機会に改めて書こうと思っている。
 文学座を作った久保田万太郎、岸田國士、岩田豊雄の三人の文学者の言葉を、『文学座五十年史』から再度拾ってみよう。
 
 「"世帯を大きくするな、大きくするな……"
 と、ぼくは文学座に対してつねにいいつづけて来た。しかも文学座は、しだいにふくれて、おどろくほどの大所帯になった。
 ぼくはそれを嘆く。
 なぜか?
 大所帯になればなるで、神経が太くなり、にぶくなり、あるいは、血のめぐりがわるくなるからである。
 文学座よ、もう一度、二十年まえの気もちに返る気はないか?…といったら、いまは亡き岸田國士が、あの世から、ハンカチで口をふきふき
 ……それはね、あなた……
 と、彼のあの微妙な微笑を示すだろう。
 以上、創立二十年をむかえた文学座に対するぼくの所懐をしるす所以である。」
 (「文学座創立二十年」 久保田万太郎)

 「私たちが文学座をはじめてから、なるほどもう十五年たつわけであるが、それだけの成長をしたかどうか、このへんで厳しい自己批判を加えてもよさそうである。
 ……仕事の量に比して、質の方は、全体にさほど高まったとは言えないように思う。」
 (「創立15周年記念公演パンフレット」 岸田國士)

 「文学座が十五周年を迎えて、ご贔屓の方々がチヤホヤいって下さると思う。ありがたい。しかし、身内のものまでが、坊や大きくなったネなぞと、頭を撫ぜる必要はない。私なぞは、逆に、頭を一つハリ倒してやろうかと、考えている。
 十五年前に、試演という名目で、飛行会館の舞台を踏んだ頃には、三日間の芝居を、一カ月ぐらい稽古をした。座員は電車賃に相当するものも貰えず、たまたま収入があれば、その半額を、次回試演の費用に積立てる規約を忠実に守った。それで、イヤな顔をする者は、一人もなかった。イヤな顔どころか座員の眼は燃え、眉は昮っていた。
 そして十五年経ち、どんな文学座になったか。座員は映画出演だ、ラジオだと、他所の仕事が大変忙がしく、服装もなぞもリュウとしてきた。しかし、顔つきは、昔に比べると、ボンヤリしている。ともかく、これは生長の兆である。皆忙がしくて公演の稽古に顔が揃わない日が多いとか、或いは忙がしくなくても、いい役がつかない時は休むとか、いうことになったら、十五年間の進歩、測り知れざるものがあるのだが、そこまで生長してるとは信じたくない。」
 (「不吉言」 岩田豊雄)

 友田恭助・田村秋子のために、彼らの劇団『築地座』の活動を止めさせてまでして『文学座』を作った三幹事には、肝心の友田のいない文学座はどんなものであったのだろうか。杉村春子らの劇団員に対する三幹事の厳しい指摘から五十年を経過した今、はたして文学座は、どんな集団になったのであろうか。