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2005年03月 アーカイブ

2005年03月02日

マイケル・ベネットの言葉

劇団四季が27年前の初演以来たびたび上演している、ミュージカル『コーラスライン』のオリジナルの原案・演出・振付をしたマイケル・ベネットの言葉がその公演パンフレットにある。「オーディションのときには演出家はビジネスライクであることが一番大切」と言い、「そうでないと、ダンサーたちに持たせるべきではない希望を持たせることになる」。「オーディションに落ちた人が、威厳と誇りをもって」、ほかの道、他の人生を歩むことが出来るようにしなければならない、ということだろう。彼自身が現役のダンサー兼振付師であったことから、もし踊れなくなったらどうするかを問われて、「そう、そのときは振付もやめます。それでいいのです。なぜなら、私に代わって私の役割を果そうとする、素晴らしくそして新しい素質が次々と現われるでしょうから」と答えている。この発言の十年後、ベネットはエイズで亡くなるが、このような舞台人としての矜持と覚悟、潔さは、たぶん今でも多くのブロードウェイの舞台人にとって共通のもの、水準のものだろう。日本ではまったく聞かない科白、持ち合わせないプライド、ではある。

2005年03月06日

見識・良識なき「学識経験者」が巣食う『芸術祭』

アメリカ最大の演劇賞であるトニー賞は、毎年6月にニューヨークのラジオシティ・ミュージックホールに六千人の出席者を集めて開かれる。選考には凡そ七百人の演劇製作者、舞台関係者、演劇ジャーナリストがあたる。全米各地でどれほどの演劇賞があるのかは詳らかではないが、このトニー賞は、選考に加わる人の数といい、オン・ブロードウェイの数千人の関係者が会場に集うことといい、何ともスケールの大きなものである。ちなみに1976年のトニー賞は、主演男優賞を『マイ・フェア・レディ』のジョージ・ローズに譲ったほかは、作品賞はじめ主演女優、作詞・作曲、演出、振付の賞を、先日このブログで取り上げたマイケル・ベネットたちが作った『コーラスライン』が独占した。
はたして日本の賞事情はどんなものか。歴史のあるものでは、1946(昭和21)年に制定された文化庁芸術祭賞がある。これは毎年秋の約一ヶ月の開催期間中、この芸術祭に参加した個人・団体を対象に、文化庁が依頼した「学識経験者等」専門家数人が審査選考し褒賞するもの。文化庁の開催要項には、入場券を審査委員全員と文化庁の事務方に届けることが記されている。まず、文化庁がどういう選考基準で審査委員を選んだのか、行政の追認機関ではありがちな審議会などの構成メンバーの選定同様、まったく不明だ。選考そのものも委員の投票で決まるのか、話し合いで決まるのか、文化庁事務方からの指示で決まるのかは不明。選考過程も公表されておらず、すべて密室での審査であることから、「談合」によって受賞者を決めているだろうと疑う人もあり、公正、平等、情報公開など、この時代に求められている行政の業務執行のあり方からも大きく逸脱している。こういうものに審査委員として参加する「学識経験者」や、参加する団体・個人の時代感覚の無さや民度の低さが、政治同様に行政の怠慢を許しているとも言える。
それはともかく、芸術祭に参加する個人・団体に対して、個別に審査委員と事務方にチケットを届ける、というやり方も前時代的・不合理。これは、芸術祭開催前に、チケットを文化庁に届け、事務方はそれをまとめて審査委員に渡せば済むこと。個別にチケットを審査委員に送れということは、それこそ事前の賞取り工作を是認し、あるいは奨励していると疑われてもしようのないもの。演劇部門のことは知らないが、舞踊部門では、公演の当日の招待受付で、お車代・お食事代を封筒に入れ、チケットとともに公然と審査委員に渡しているそうだ。文化庁長官が委嘱した選考委員諸氏、「こんな買収や不正はいかん」と受け取りを拒否する人物はいないようで、少額とは言え文化庁からのお手当と、参加者からの「お心付け」と、無料での鑑賞という、哀れなほどに貧乏臭く舞台を汚すほどの卑しい好事家ぶりである。芸術祭だけではないが、文化庁の芸術文化支援事業のうちの大半に、このような「学識経験者等の専門家」が選考・審査委員として助成対象の決定に参与している。そうであるからには、この選考・審査委員は準公務員、みなし公務員のようなものではないか。演劇などでは常態化しているが、この手の「学識経験者等」に括られる批評家やジーナリストなどは、普段からチケットを買い求める習慣が無く、観たいと思う公演でも招待状が届なければ自ら電話でチケットを強要する者(このブログの2月6日<『4月の崩壊する』か、NHK新体制>をお読み下さい。)、学生のような若い娘を連れ、その分のチケット代すら支払おうともせずに受付で主催者側と揉めるといわれる大学の教員など、愚劣なさまは枚挙に暇が無いほど。チケット代、お車代、お食事代の支出・受領は、官吏が禁じられている贈収賄そのものである。以前、音楽や演劇の個人・団体から、商品券などを受け取ったとして文化庁の文化普及課の事務官が逮捕されたことがあり、その数年前には、当時の文化庁の文化部長が同様に新型自動車を提供された疑いを芸術雑誌に指摘されたことがある。以来、綱紀粛正が進んでいるのか文化庁職員が自ら不正に手を貸すなどの噂は聞かない。
舞台芸術をめぐる周辺環境は、先の助成制度や官・民の支援機関の新設や新国立劇場の開場、あるいは阪神・淡路大震災などの災害から学んだボランティア活動の積極化などで1990年代に大きく変わった。特に目立つ変化は、それまでとは比較にならないほどの大きな額(税金)が舞台芸術に投入されるようになったことだ。であればなおのこと、事業の適正な執行、不正の排除、情報公開は当然であり必至である。不心得な、見識の無い「学識経験者」たちのご機嫌を取り、懇ろにならなければ、芸術祭賞や新聞社の舞台芸術(演劇)賞、そして助成金が獲得出来ない現状である。文化庁や助成団体の審査委員であること、新聞社の賞の選考委員であることをちらつかせ、劇団や劇場からチケットを強要、パンフレットやホームページ等での執筆機会をものにし、なかには演劇の製作団体や劇場への助成金の獲得、不適正な経理処理にまで加担しているといわれるほどの「学識経験者」を、文化行政の周辺から、そして舞台芸術そのものから一掃すべきである。
文化庁に芸術祭の取りやめを勧める所以である。

2005年03月10日

東京大空襲の記念日に『断腸亭日乗』を読む

東京大空襲から六十年、永井荷風の『断腸亭日乗』昭和二十(1945)年三月十日の項にはこう書いてある。「昨夜猛火は殆東京全市を灰になしたり。北は千住より南は芝、田町に及べり。浅草観音堂、五重塔、公園六区見世物町、吉原遊郭焼亡、芝増上寺及び霊廟も烏有に帰す。明治座に避難せしもの悉く焼死す。本所深川の町々、亀戸天神、向嶋一帯、玉の井の色里凡て烏有となれりといふ。午前二時に至り寝に就く。灯を消し眼を閉るに火星紛々として暗中に飛び、風声啾々として鳴りひびくを聞きしが、やがてこの幻影も次第に消え失せいつか眠におちぬ」。ふと、昭和十六年十二月の日米開戦当時をどんな風に記していたかが気になった。「十二月十一日。晴。後に陰。日米開戦以来世の中火の消えたるやうに物静なり。浅草辺の様子いかがならむと午後に徃きて見る。六区の人出平日と変りなくオペラ館芸人踊子の雑談また平日の如く、不平もなく感激もなく平安なり。予が如き不平家の眼より見れば浅草の人たちは尭舜の民の如し。仲店にて食料品をあがなひ昏暮に帰る」。
1990年以降のこの十数年、税金による助成金や支援制度などに頼りきり、行政に擦り寄る無節操・不見識な者ばかりが跳梁跋扈する「演劇界隈」に背を向け、一般社会、とりわけ演劇に関心のない、あるいは演劇に絶望した方々にも向け、徒労に終るかもしれないささやかな啓蒙と提言をしている、決して不平家ではないつもりの私にも、荷風があの戦時態勢の時局をどんな眼で見ていたのかは興味深い。ドイツ・ナチスを模倣したという国民統制組織である『大政翼賛会』が立ち上がった昭和十五(1940)年十月十一月、その刷新改組があった翌十六(1941)年四月五月辺りを追ってみた。「この頃は夕餉にも夕刊新聞を手にする心なくなりたり。時局迎合の記事論説読むに堪えず。文壇劇界の傾向に至つてはむしろ憐憫に堪ざるものあればなり」(昭和十五年十月十五日)。また、十一月二十三日には「このたびの改革にて最も悲運に陥りしものは米屋と炭屋なるべく、昔より一番手堅い商売と言はれしものが一番早く潰され、料理屋芝居の如き水商売が一番まうかる有様何とも不可思議の至りなりと。右米屋の述懐なり」とある。劇場の盛況についても言及している。「帰途電車にて歌舞伎座前を通るにあたかも開場間際と見え観客入口の階段に押合ひ雑沓するさま物凄きばかりなり。劇場の混雑は数寄屋橋日本劇場のみにてあらずと見ゆ。近年歌舞伎座の大入つづきかくの如き有様にては役人が嫉視の眼もおのづから鋭くなるわけなり。近き中に必制裁の令下るなるべし。観客の風采容貌の醜陋なること浅草六区と大差なきが如し」(昭和十六年四月十九日)。
この年の五月十一日の項には、「頃日耳にしたる市中の風聞左の如し」として、五つばかりの話を記している。その中の一つを紹介する。「俳優尾上菊五郎その伜菊之助徴兵検査の際内々贔屓筋をたより不合格になるやう力を尽くせしかひありて一時は入営せしがその翌日除隊となりたり。菊五郎はもう大丈夫と見て取るや否や、伜の除隊を痛歎し世間へ顔向けが出来ぬと言ひて誠しやかに声を出して泣きしのみならず聯隊長の家に至り不忠の詫言をなしたり。聯隊長は何事も知らざれば菊五郎は役者に似ず誠忠なる男なりと、これまた嘘か誠か知らねど男泣きに泣きしといふ」。今は事実関係が判らないので、いずれ調べてみたい。孫の勘九郎、曾孫の七之助の似たもの親子について、仄聞するその行状、物言いなどに見られる不実さは、いったいどこから宿ったものか謎であったが、これは遺伝子のなせる業だったのか。
昭和十八(1943)年の正月一日に記した「町の噂」の中には、「浅草公園の道化役者清水金一公園内の飲食店にて殴打せられ一時舞台を休みし由。なほまたエノケン緑波などいふ道化役者の見物を笑せる芝居は不面目なれば芸風を改むべき由その筋より命令ありしといふ。」とあり、思わず笑ってしまった。

2005年03月20日

春の彼岸のGOLDONI

卑しいものを卑しいと言えば己も卑しくなる、という戒めを幼い頃から親に教わり、金持ち喧嘩せず、君子は危うきに近寄らずの譬えを、「ニヒリズム」が横溢していた学生時分には弁えていたつもりだったが、卑しきものばかりが蠢き、金持ちも君子も既に見限りいなくなった演劇の世界で、原則を保持し少しは教養を身につけ、尋常な節度を持った人間たちが真摯に活動する場を創りたいと、ニンではないことを承知でいまどき陳腐と思われる啓蒙運動を続けてきた。このブログを読んで、演劇とは無縁の世界の友人・知人たちは、「演劇業界」や行政に対する私の批判が厳しく、リスクが多すぎることなどを心配して、メールや電話、時にはGOLDONIや誘われて出掛ける外食の折などに忠告をして呉れる。GOLDONI開業以来の常連客の中には、演劇の拠点作りに背水の陣を敷いて臨む姿を知り、それに賭ける情熱が、命まで賭けたものになるのではと懸念する人もいるようだ。有り難く、勿体無いことだ。彼等の心配が杞憂に終るかどうかは、この私にも判然としない。幼少からの修業や修養、親や師匠たちから教えられた戒め弁えを措いても、卑しく腐った現代演劇の世界を、いま少しは批判し、その浄化を進めていくつもりだ。先祖や先人の墓前に額ずかず、誘いや相談の電話もメールも届かず作業の捗る休日のGOLDONIで、その不孝不忠を詫びる、春の彼岸の中日である。

2005年03月30日

文芸評論家の『演劇評論』を読む

最近ぴあから刊行されたムック『シアターワンダーランド』を見た。内容については触れない。GOLDONIでは常備しない水準のものなので、今後も棚には置かない。注文も承らない。この手の本が演劇書だと思っている新刊書店での立ち読みをお勧めする。「学力低下・学問習熟度の低い者、素養の無い基礎教育をまともに受けなかった者でも遣りたがるものが現代演劇」との私の認識について、理解を戴けるものだとは思う。83ページにあるリードの文章は凄い。「今年デビューしたての若手の子が言った」という言葉には愕然とした。松たか子をミューズと、鈴木杏を女優と称える編集担当者たちにとっては、文学座のスタッフは、「子」の扱いなのだろうか。手にとってみて、早判りで判るものなど所詮はたいしたものではない、との確信が得られたことは収穫だった。立ち読みをお勧めする所以である。
三一書房刊行の『現代日本戯曲大系』第一巻にある、文芸評論家・奥野健男氏執筆の解説は、刊行された1970年代後半にどんな受けとめられ方をしたのだろうか。「新劇は戦争によってながい間、世界から閉ざされていた日本人、なかんずく青年たちにとって、より広い世界を眼前に直接おしひらき、展開し、その世界に導いてくれる、なによりも有効な窓であった。青年たちは争って新劇を観、新劇を論じ、そして自ら新劇を上演しようとした。と同時に新劇を観なければ戦後の文化人、知識人として失格だ、新劇を観、論じることが、戦後文化人のパスポート的意味を持ち、新時代のバスに乗遅れないため、新劇を観る傾向さえ生まれた。新劇を観、それについてしゃべることが戦後のインテリの見栄にもなって行った。」「敗戦直後の新劇の人々の中に、ついに自分たちの天下がやって来た、これからは新劇が演劇の主流であるという甘い幻想の上にたった勝者のおごりやたかぶりの意識があったのではないか」「だがその勝利は自分でたたかいとったものではなく、敗戦と連合軍によってもたらされたものに過ぎなかった。そこに日本共産党が占領軍を解放軍と規定し、平和革命を夢見たと同じ思い上りとあやまりがあった。外から見ていると、当時の共産党も新劇も連合軍の権力をバックにして、時の主流になったように思われた。親方GHQの時代の寵児であった。東宝や松竹が頭を下げてくれば、大威張りで乗ってしまう、これでは時勢の逆転により、歌舞伎などの旧劇と単に入れ替ったというのに過ぎなくなる。新劇は敗戦直後、ブームに乗って余り有頂天になり過ぎた。過去の新劇への自己批判や反省がなさ過ぎた。少しでも洞察力があれば、敗戦によっても、資本主義の社会構造は根本的には変っていないことに気付いたであろうし、そのようなかたちでの大資本との提携はうまく行かず、早晩破綻することは自明の理であったのに。」「しかし、戦後の新劇は、西洋の名作に頼り過ぎたようだ。翻訳劇一辺倒であり過ぎたようだ。だからその面からの反動もはやかった。時代が少し落着くと、新劇は岩波文庫の赤帯と同じ教養、啓蒙のための芝居となってしまった。つまり西洋の古典や近代の名作の紹介劇として、自己形成期の学生やBGしか観なくなってしまった。人生のうち一度は新劇に夢中になるが、大人になれば青くさくて、観念的で観る気もしないと卒業してしまう゛はしか"みたいな芝居になってしまったのだ。そして新劇ブームの反動として新劇をバカにして観ないことが、インテリの見栄になるような新劇侮蔑の時代がはじまり、それがながく定着するようになり」「文学的には傍流的存在として無視され、戦前より更に低い位置に甘んじる結果になった。」
雑誌『文学』の1985年8月号には、同じ奥野健男の演劇評論、『小説と劇作の逆転-戦後演劇史-』」が載っている。「昭和二十年代の後半から三十年代の前半にかけて、ぼくたちは新劇をやけみたいに見歩いたものだが、それは新劇の時代遅れと、シラジラしさを確認するだけの虚しい行為だった。そしてぼくたち当時の若い文学者、演劇人は集まれば、なぜ新劇にだけ戦後文学、戦後芸術に相当するものが生まれないのだろうか、だいいち日本人の創作劇がこの十年間殆ど演じられなかった。創作劇運動を起こさなければどうにもならない。まずあのくそリアリズムを打破し、真に劇的な舞台をつくらねばと、思想的立場は違ってもみな熱い議論を交わしたものだった。今やだれの目にも明らかだった。新劇の世界にだけは、戦後劇作はない、戦後派劇作家は生まれて来なかった。日本の創作劇など要らないとばかり戦前戦中一緒にやって来た仲間である劇作家まで見捨てた新劇界が、劇作の新人を気長に養成したりするはずはなかった。その結果新劇だけは戦後日本の切実な状況を表現しようにも、それに適う劇作を持たないことになった。新劇の急速な没落は理の当然であった」。
戦後新劇の愚かさ・異常さは奥野健男の評論から窺うことが出来る。戦後六十年の今日、テレビ芸能人、芸能プロダクション頼りのボーダレスとやらの「現代の演劇」に、戦後新劇の罪とその害がどれほど宿っているかは、ぴあの『シアターワンダーランド』から学ぶことが出来る。