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2008年08月 アーカイブ

2008年08月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年8月≫

『茶の本』  岡倉天心著 
桶谷秀昭訳 講談社学術文庫 1994年

THE BOOK OF TEA By Okakura-Kakuzo  Fox Duffield & Company,1906 
It is much to be regretted that so much of the apparent enthusiasm for art at the present day has no foundation in real feeling.In this democratic age of ours men clamour for what is popularly considered the best, regardless of their feelings. They want the costly, not the refined ; the fashionable, not the beautiful. To the masses, contemplation of illustrated periodicals, the worthy product of their own industrialism, would give more digestible food for artistic enjoyment than the early Italians or the Ashikaga masters, whom they pretend to admire. The name of the Artist is more important to them than the quality of the work. As a Chinese critic complained many centuries ago, "People criticise a picture by their ear." It is this lack of genuine appreciation that is responsible for the pseudo-classic horrors that to-day greet us wherever we turn.         
[ Ⅴ  ART APPRECIATION ] 

 たいへん残念なことだが、今日、芸術にたいするこれほど盛んな表面の熱狂は、真実の感情に根ざしていない。このわれわれの民主主義の時代には、人びとは自分の感情を顧みることなく、世間一般がもっともよいと見做すものに喝采を送っている。彼らが欲しがるのは、高価なものであって、風雅なものではない。当世風のものであって、美しいものではない。大衆にとって、彼ら自身の産業主義の価値ある産物である絵入り雑誌を眺める方が、彼らが賛美するふりをしている初期のイタリア人や足利時代の巨匠よりも、芸術的享受にはより消化のいい食物となってくれるのであろう。作品の質よりも芸術家のなまえの方が、彼らにとって大事なのだ。何百年も昔の中国の或る批評家がかこったように、「民衆は彼らの耳によって絵を批評する。」今日どこを向いても、目に触れる擬古典的なぞっとするしろものにたいしては、この正真の鑑賞力の欠如が責めを負うべきである。
(『茶の本』1906年刊  「第五章 芸術鑑賞」より) 

2008年08月03日

劇場へ美術館へ
≪GOLDONI/2008年8月の鑑賞予定≫

[演劇]
*9月14日(日)まで。        静岡市民文化会館大ホール
劇団四季ミュージカル公演『美女と野獣』
劇団四季HP http://www.shiki.gr.jp/

[歌舞伎]            
*21日(木)から26日(火)まで。   半蔵門・国立劇場小劇場
『第14回 稚魚の会・歌舞伎会合同公演』
「菅原伝授手習鑑」吉田社頭車引の場
「釣女」「勢獅子」
「番町皿屋敷」

*30日(土)、31日(日)。       半蔵門・国立劇場小劇場
『松尾塾子供歌舞伎』
「京人形」
「義経千本桜」釣瓶鮓屋の場
「浮気聟」

[落語会]
*26日(火)。              赤坂・赤坂区民ホール
『桂歌丸独演会』
       
[音楽]
*9(土)、10日(日)。         半蔵門・国立劇場小劇場
『第10回 音の会』
鳴物・長唄「神田祭」
歌舞伎「御所桜堀川夜討」
舞踊「供奴」

*31日(日)。              赤坂・サントリーホール
『サントリー音楽財団サマーフェスティバル2008/MUSIC
TODAY21 第18回芥川作曲賞選考演奏会』          

[展覧会]
*9月15日(月・祝)まで。          六本木・国立新美術館
『ウィーン美術史美術館所蔵 静物画の秘密展』

*9月15日(月・祝)まで。         日本橋・三井記念美術館
『NIPPONの夏 -応挙・歌麿・北斎から「きもの」までー』 

*9月21日(日)まで。    六本木ミッドタウン・サントリー美術館
『初公開 松坂屋染織参考館の名品 小袖 江戸のオートクチュール』

[見学]
*4日(月)、5日(火)。    溜池・日本財団ビル2階 大会議室
『国の「事業仕分け」』
自民党「無駄遣い撲滅プロジェクトチーム」による文部科学省の
 「政策棚卸し」。
<対象> 文部科学省の事業(30事業程度)
<参加者> 事業説明者:文部科学省職員
     「仕分け人」(評価者)
     コーディネーター:自民党「無駄遣い撲滅プロジェクトチーム」
     構想日本事業仕分けチーム及び外部有識者

2008年08月04日

「新国立劇場の開館十年を考える」(二十六)
≪次期芸術監督人事について(三)≫

 新国立劇場の次期芸術監督の選出を巡る一連の動きの中で、新国立劇場の対応はどんなものかを少し紹介する。
 選考プロセスの詳細開示を求めた演劇関係者の声明を受け、劇場は7月17日に回答したことを、そのホームページの「最新ニュース」で伝えている。

「芸術監督選定プロセスの詳細開示を求める声明」に対する回答について
2008年7月14日付で、演劇人有志と日本劇作家協会、日本演出家協会、国際演劇評論家協会日本センターから、新国立劇場運営財団にだされました「芸術監督選定プロセスの詳細開示を求める声明」につきまして、「次期演劇芸術監督の選考とその考え方」として、7月17日に返答いたしましたのでお知らせいたします。
 新国立劇場をご支援くださっている方々には、ご心配をおかけしましたことをお詫びいたします。今後も、皆様により愛され親しまれる劇場をめざして、職員一同全力で精進してまいりますので、引き続き、ご支援くださいますようお願い申し上げます。
 *一部の理事から、審議内容が公開されたことについて

 「次期演劇芸術監督の選考とその考え方」と題する回答を簡単に要約する。
 「日本に定着していない芸術監督制度を取り入れ」て劇場が発足し、多くの成果をあげた。これは、演劇部門でも過去11年で「現監督を含む歴代4人の芸術監督をはじめかかわった芸術家の皆様のご努力の結果と認識している」などと前文にある。
 本文は、<演劇芸術監督の業務内容><演劇芸術監督の任期と現監督><選考過程><理事会後の動き><今後の対応><新国立劇場運営の透明性について>の6項からなり、全体としては、この問題についての劇場執行部としての手落ち、誤まった運営は全くなく、劇場執行部には非はないとの主張を展開するものである。最後の項「新国立劇場運営の透明性について」は、特にこの回答の眼目と思われるので、その全文を転記する。
 「新国立劇場運営財団では、芸術・文化団体、芸術家、言論界、教育者、経済界等の幅広い分野から、各界を代表する高い識見を有する方々に、理事、評議員にご就任いただいている。重要な議題については、詳細なる資料を上程の上で、これら理事・評議員により、真剣かつ闊達なる議論・審議を行い、国立の劇場として国民の皆様の負託に応えられる様な、透明性の高い運営を行っている。また、理事会・評議員会の議決・報告案件については、従来より、国民の皆様への説明責任を十分に果たすとの方針のもと、会議後、遅滞無くマスコミ各社の方々に対してブリーフィングを行い、劇場運営全般についての理解促進に努めている。
 一部の報道に、官僚主義、お役所的、秘密主義との指摘があるが、劇場の運営や重要事項の決定プロセスは上記の通り、高い透明性が担保されている実態とは全く乖離したものであることを申し添えたい。」
 
 上記のように、この日の「最新ニュース」にある、<*一部の理事から、審議内容が公開されたことについて>も、全文を転記する。
 「そもそも、新国立劇場運営財団の理事会で芸術監督選任に関する審議内容は非公開で行われています。それは席上多くの個人名やその資質、評価などが話し合われており、自由闊達なご意見をいただくためです。したがって、討議に参加される方々にも守秘義務があります。このような会議の内容を公開することは問題であり、また、一時間にわたる会議の一部をとりあげることは恣意的な引用の恐れがあり不適切であると考えます。財団の運営に携わる理事として、遺憾なことと考えております。」

 転記したように回答の「新国立劇場運営の透明性について」には、「新国立劇場運営財団では、芸術・文化団体、芸術家、言論界、教育者、経済界等の幅広い分野から、各界を代表する高い識見を有する方々に、理事、評議員にご就任いただいている。」とあるが、この文章の書き手、主体は誰か。例えば、文部科学省が、その施策の追認機関のような審議会について述べるのであれば、こういう書き方もしよう。しかし、財団理事・評議員という自分の身内に対して、「高い識見を有する方々」で「ご就任いただいている」とする表現は、些か異常である。協働意識のみごとな欠如と、劇場は自分達執行部だけのものとの強い姿勢は充分に伝わるのだが。
 一般論としては、組織の最高議決機関の討議を非公開にしていることはままあることで、それを怪しむにはあたらない。ただ、独立行政法人の所有する国立施設の運営を委託されていて、国民の税金がその運営経費八十億円の7割を占める公益法人の理事会の討議内容は、ホームページで議事録として公開するべきものだろう。討議に参加した理事に、「守秘義務があ」るとのことだが、「新国立劇場運営財団寄付行為」を読む限りは、理事に会議内容についての守秘義務は課していない。また、「遺憾なことと考えて」いるのは運営財団なのか、或いは理事長なのかが判らない。そもそも、この回答者が、「財団法人新国立劇場運営財団」となっているが、最高議決機関である理事会に諮ったものなのか、遠山敦子理事長以下の常勤理事によるものなのかが判らない。常識(民間人の、と限定すべきか)的に言えば、財団の最高議決機関に諮らずに、その財団の理事について、遺憾表明をするとは考えられない。この「最新ニュース」でも、一連の新聞報道でもその点は触れられていない。
 官僚や、新聞ジャーナリストには、この一般論や常識は通用しないものかもしれない。
 次回は、守秘義務を果たさず、遺憾だと言われた理事・永井愛氏のメモについて書く。
 

2008年08月06日

「新国立劇場の開館十年を考える」(二十七)
≪次期芸術監督人事について(四)≫

<「悪評交響曲」鳴り響く「新国立劇場」遠山敦子理事長> 週刊新潮7月31日号

 <官僚的体質の特徴のひとつが、批判を嫌うということだとすれば、目下その最右翼と目されるのが、新国立劇場の遠山敦子理事長(69)である。独断専行に鳴り響くのは「悪評交響曲」ばかり。>とのリードで始まる、新国立劇場運営財団の遠山理事長が主役の記事である。取材を受けてコメントを載せているのは、一般紙の政治部記者、複数の文化部記者、新国立劇場関係者、小田島雄志氏、そしてご本人の遠山氏の、脇役4人と主役の「女傑」、1ページの記事にしては登場人物が多い。
 まずは、朝日新聞の社説で「社説らしからぬ個人批判」を受けたこの「女傑」の言動が取り上げられている。 昨2007年12月12日のブログ、「新国立劇場の開館十年」を考える(五)≪本物が退散し、偽物が蝟集する『綻びの劇場』≫にも書いたが、昨年秋のオペラ公演で、主役級歌手のキャンセルが相次いだことがあった。このことについて、音楽記者会と遠山理事長との懇親会での記者と遠山氏との遣り取りが描かれている。この問題を「ある記者が問うと、"契約上全く問題ない"と顔を真っ赤にして怒る。記者が"客が納得しない""芸術的水準が保てない"と畳みかけると"ふんっ、芸術ね"と吐き捨てた。批判されるのが大嫌いなんです」とある。また、「複数の全国紙が新国のオペラ公演について批判的な評を載せると、書いた記者」には、公演を誉める客のアンケートと共に、「"貴紙の評価は事実に反する"という抗議文」が届くのだそうだ。「事務方は遠山さんに"こんなこと書かれて悔しくないの!"と怒鳴られ、渋々抗議したとか。個人のブログに抗議が届いた人さえいる」そうだ。
 私は遠山氏が運営財団の理事長に天下ってくる遥か以前から、新国立劇場の運営について批判を続けていて、4年前からはこのブログでたびたび書いている。しかし、遠山理事長の目には留まっていないのか、寂しいことだが、今までに一度も劇場側から抗議を受けたことはない。「ブログのここは、事実と違います」などの指摘を貰うこともない。その代り、文化庁やら劇場やら遠山氏と近い方々からは、劇場側の事情や遠山氏を擁護するような話を度々聞かされ、当然のことだが、劇場得意のバラマキのチケットではなく、チケットを購って観劇に出掛ければ、顔見知りの職員は例外なく慌てて隠れたり、目を合わさないように無視したりと、それなりのあっぱれな応対をして貰っている。
 昨年秋には、部長職のすべてを異動させる人事を断行、今度は三部門の芸術監督を一気に代えようとの遠山氏の強権姿勢が今回の迷走を招いた。オペラ部門の次期芸術監督に擬せられた尾高忠明氏については、既報のように、尾高氏も正式に就任を受諾していなかったが、これも遠山氏という「お上の命に下々の意思確認など要らぬ、との発想」と新国関係者は語る。コミュニケーションの不足を理由に再任されない鵜山仁演劇部門芸術監督の意思確認も同様で、理事でもある小田島氏は、「鵜山君が自ら辞退したのかと思えば、彼の意志も確認せずに降ろすことにしたとか。」「密室ばかりで不愉快です」と憤慨する。また、別の理事は、「遠山さんは媚びない鵜山さんが嫌いで、芸術監督の上に芸術顧問を設け、高校時代の同窓生を就けようとしていました」とある。週刊新潮の記事では、この同窓生の名を明らかにしていない。週刊新潮の記者も知らない、無名の人物、単なる同郷の同窓生、なのだろうか。
 そして主役本人の登場である。遠山氏としては、鵜山は解任ではなく再任しないということであり、「制作現場から悲痛な声が届き、方々から批判の声も上がっていました。現監督を傷つけないために、コミュニケーションというギリギリの言葉を選」んだのだそうである。またこの事態になる前に、なぜ直接に話し合いを持たなかったかを記者に問われても、「担当理事がいますから」。当事者である鵜山氏とは自らコンタクトを取っていないようであり(まあ、元文部科学大臣閣下からすれば、この劇場の芸術監督などは"下々"もいいところだろう。)、劇場運営の要諦は無論のこと、問題解決手法のイロハすら御存知ないらしい。ほかにも、<事を荒立てている理事がいて残念>、<芸術顧問の話は間違ったニュース>、<"ふんっ、芸術ね"発言は記憶にない>、<何らルールに反したことはしていない>、などとのたまった。
 「見事に批判を受け付けず、今日も「悪評」が響く」。記事は結んでいる。

2008年08月13日

「新国立劇場の開館十年を考える」(二十八)
≪次期芸術監督人事について(五)≫

芸術監督予定者をめぐる理事会でのやりとり 永井愛 7月14日

 この『提言と諫言』の前々回8月4日に、「新国立劇場の開館十年を考える」(二十六)≪次期芸術監督人事について(三)≫で書いたことだが、新国立劇場のサイトには、7月17日付けの「最新ニュース」に、<*一部の理事から、審議内容が公開されたことについて>があり、「そもそも、新国立劇場運営財団の理事会で芸術監督選任に関する審議内容は非公開で行われています。それは席上多くの個人名やその資質、評価などが話し合われており、自由闊達なご意見をいただくためです。したがって、討議に参加される方々にも守秘義務があります。このような会議の内容を公開することは問題であり、また、一時間にわたる会議の一部をとりあげることは恣意的な引用の恐れがあり不適切であると考えます。財団の運営に携わる理事として、遺憾なことと考えております。」との(理事長か財団執行部か判らぬが)遺憾表明が載った。また、前回8月6日の「新国立劇場の開館十年を考える」(二十七)≪次期芸術監督人事について(四)≫では、『週刊新潮』7月31日号の記事から、「事を荒立てている理事がいて残念」との遠山理事長の発言を取り上げた。
 今回は、運営が独断専行だとして批判の渦中にある遠山理事長をして、「財団の運営に携わる理事として、遺憾」「事を荒立てている」と言わしめた、理事である劇作家の永井愛氏が発表した「芸術監督予定者をめぐる理事会でのやりとり」である。
 この文章は、新宿の淀橋第3小学校の廃校跡地に設置された社団法人芸能実演家団体協議会運営の芸能花伝舎で開かれた、演劇関係者12名と関係3団体による「芸術監督選定プロセスの詳細開示を求める声明」を明らかにするための記者会見で配られたものである。全文はシアターウェブのサイト で読むことができる。
 前文には、「情報を操作してまで、鵜山現監督の再任を阻止しようとした理事長サイドのやり方に強い疑問を持ってい」て、「情報の外におかれているという意味では」、次期芸術監督に選考された「宮田氏も被害者の一人」。発表するこの文章は、当日の理事会でのメモから纏めたもので、「言葉はそのままでは」なく、「間違いが含まれている可能性もあるため、財団には是非、詳細な記録を公開していただきたい」とある。
 理事会でのやり取りは、ここでは記さない。ただ、そこにあった「時間がない」、「一任してほしい」との遠山理事長の発言が事実とすれば、そのことは異常なことと指摘しておくに止める。
 理事会がどこで、何人の出席者で、何時から何時まで開かれたかが永井氏の文章にはなく、この類いのメモとしては不足が多い。
 以前の理事会は、日本経団連の会議室を借りて開いていたようだが、この6月23日の理事会の会場は、同様に日本経団連だったのだろうか。運営財団の会長・御手洗冨士夫氏、5名いる顧問のうちの豊田章一郎、今井敬、奥田碩の3氏は、(日本)経団連の会長経験者であり、全理事31名のうちの半数が経済界から選ばれていることなどの事情から、この日本経団連ビルの会議室を借りているのかと思うが、せめて年に二度か三度の理事会は、運営財団自身の会議スペースで開催するのが筋ではないか。新国立劇場は独立行政法人日本芸術文化振興会の施設であり、運営財団は単なる運営を随意契約によって託されている団体である。財団執行部はその辺りの事情を斟酌考慮して、理事会を劇場の外で実施しているのだろうか。であれば、というよりもそもそも、この劇場とは別のところに運営財団の根拠地、ヘッドクオーターはあるべきで、理事長室や常務理事室、管理・総務部門のオフィス、会議室は、劇場内に置く必要もない。遠山理事長は、施設としての劇場の「場長」に任ぜられているのではなく、あくまでも、施設運営業務を委託されている団体の責任者、という立場である。このあたりの制度、或いは制度理解の不備、けじめのなさが、今回の事態の誘因の一つだと言えば言い過ぎだろうか。
 
 <理事会のやりとり>の後には、<補足>があり、そこには、財務省や文化庁への影響力を期待して、小田島雄志、鈴木忠志、山崎正和の3氏を理事長の顧問(アドバイザー)に迎える考えが財団側にあることを、劇場の演劇部門の中島豊プロデューサーから聞かされたこと、と書いている。
また、「制作部が芸術監督に対し、これまでより積極的に発言や提言を行う。芸術監督が独裁的になったり、暴走されたりすると制作陣はやりにくい。こうした体制の変更は理事会にかける必要はないと思っている」との霜鳥秋則常務理事の発言がある。
 この、「理事長の顧問(アドバイザー)」の話は、先の『週刊新潮』での、「芸術顧問の話は間違ったニュース」との遠山氏の否定で済む話かどうか。永井氏はこの文章の最後に、<疑問と問題点>として、
 「顧問(アドバイザー)についても疑問は多い。いったい何をアドバイスするのか。芸術監督に直接ものを言わないとしても、理事長への「助言」が、発言力を強めた制作サイドに降りてきて、現場に影響を与えることにならないか。そうなれば、芸術監督の上にもう一人監督がいるのと同じことになる。芸術監督制度が骨抜きになってしまう。劇場の根幹を揺るがす、こうした問題はオープンな議論があってしかるべきなのに、執行部のやり方にはまったく透明性がない。」
 と記しているが、その疑いは至極真っ当である。遠山氏の言う通りに、「芸術顧問の話は間違ったニュース」で、そもそも「最初からなかった話」ということではないのであれば、それこそ劇場のサイトの「最新ニュース」で、どう間違ったニュースなのかを知らせるべきだろう。
 小田島雄志、鈴木忠志、山崎正和の3氏が、この件についてどう考えているのかは、寡聞にして知らない。

2008年08月25日

「新国立劇場の開館十年を考える」(二十九)
≪次期芸術監督人事について(六)≫

「公的芸術監督の役割 劇作家・山崎正和氏に聞く」  日本経済新聞8月19日夕刊 

 「選考経過に演劇人有志から批判が出て、職責が改めて注目されている。その知られざる役割とは。」とリードにある。兵庫県立芸術文化センターの芸術監督を経験した山崎氏に聞く「体験的芸術監督論」。見出しには、「バランスと常識 納税者の視点を」とある。 今回はこの記事の要約である。
 公の劇場での芸術監督に求められるのは、微妙なバランスと常識である。芸術監督は、税金の管理者たる行政側を啓蒙し、議員を説得し、納税者に訴えなければならない。その間でのコミュニケーションの欠如は、芸術監督の責任だ。兵庫の芸術監督を始めた時は、県議相手にロビー活動までした。ギリシャの昔から、演劇は公に支援されるものだが、それを得る努力は演劇人がしなければならない。芸術監督は官僚を味方につけるべきだ。西洋では市民の文化への関心が分散しておらず、舞台芸術であれば、オペラとバレエとドラマで括れる。日本では、芸術ジャンルの数が多く、能、狂言、歌舞伎、オペラ、バレエ、新派、新劇とあり、国がお金を分ける基準がない。新国立劇場でいえば、三部門の芸術監督が競いあい、我が方に多く支援してくれと国民にお願いするのが仕事であって、劇場内部で揉めている余裕などないはずだ。一九九五年に阪神淡路大地震が起きた直後、文化なぞやっているのは非国民だという雰囲気があり、税金を使って演劇をする困難に直面した。その五ヶ月後に「ゲットー」を上演したが、兵庫県からも連絡が途絶えがちで、私は東京と大阪の企業をまわって二千万円の支援を取りつけた。その折に役者たちに、「あなた方のギャラは県民の税金から出る。そのうち六千人はすでに亡くなっている。亡くなった方の税金も使って、芝居をするのですよ」と語った。我田引水だが、やってよかった。何も感じられなくなっていたのに、あの芝居を見たら目の前の霞が落ち、感じることが出来るようになった、という投書があった。悲劇による悲しみの浄化が現実に起きた。演劇にはそんな力がある。困難な状況が生まれた時、イニシアチブを取って課題を乗り越えるのが、芸術監督なのだ。
 
 ここには、この山崎氏の談話をまとめたと思われる編集委員の解説記事も載っている。その中に、現演劇部門芸術監督の鵜山仁氏を再任しなかった背景に、「監督不在状況への制作現場の危機感があった」との指摘がある。そして、「関係者の不信の根を取り除き、劇場に期待する観客や関係者の信頼回復に向け、指導力を発揮するときだ」としている。

  山崎正和氏は記事にあるように劇作家であり、また評論家としても著名である。また、関西大学や大阪大学で長く教鞭をとったこともあり、後には地方私立大学の学長を長く務め、昨年からは文部科学大臣の諮問機関である中央教育審議会の会長も務めている。中央教育審議会の会長は、東京大学総長や、慶應大や早稲田大のトップ、財界の首脳などが選ばれており、大阪大学教授を定年前に退職した山崎氏の起用は、異例なことと言われている。大学進学希望者の全入が現実となり、濫造された私立大学の淘汰が迫られる今日、進学希望者の全入を先取りするかのように大学受験偏差値が40を大きく下回り、大学生き残りに懸命な地方私立大学での学長経験が買われたとも聞く。氏の「体験的学長論」を聞きたいところだが、これはまた別の話だ。
 この記事には、山崎氏の話にも、編集委員の解説にも、氏が渦中の新国立劇場運営財団の理事であり、演劇部門の芸術監督の選考の重責を担う選考委員でもあることに触れていない。そのあたりが、却って気になる。渦中の劇場の当事者が、この時点でそのことには触れず、他の劇場での体験だけを語るとは、いささか妥当性を欠いてはいないか。「他人ごと(人ごと)」なる言葉を自国の宰相に投げつけるマスコミの不躾に倣って言うならば、この山崎氏、何とも当事者意識を欠いた、「他人ごと」理事である。「(新国立)劇場内でもめている余裕などないはず」と山崎氏は語るが、この言葉は劇場と関わりのない者にこそ相応しい発言である。永井愛氏のメモや、『週刊新潮』の記事にもあったが、劇場の理事、選考委員であるばかりか、今度は遠山敦子理事長の芸術顧問にも就くとの噂があるほど、この新国立劇場に深く関わり、遠山理事長を遥かに超える劇場への「愛着」「深い思い入れ」すら感じさせる山崎氏だが、自身の推薦で芸術監督に就任した鵜山氏に、立派な経験譚を語り、芸術監督としての心得と戒めを与えたのだろうか。