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2005年02月 アーカイブ

2005年02月01日

『マルタ・アルゲリッチ 室内楽の夕べ』

30日の日曜日の夜は、サントリーホールで催された『マルタ・アルゲリッチ 室内楽の夕べ』。GOLDONIのご常連の内山崇氏と出会う。この半年ほどで、クラシック音楽の演奏会で氏をお見掛けするのは3度目。この広い東京でも、世界水準にある演奏を聴きに出掛ける習慣を持つ人の数は数千か。白洲次郎が所有していたルイ・ヴィトンの鞄が展示されている六本木ヒルズ52階での展覧会の情報をmailで戴いていたので、そのお礼のmailを午後に送らせて戴いたばかり。お出掛けの折、お読み下さったそうで、いつも頂戴する洋書などの資料とともに、厚かましくも「既にお読みであればお譲り下さいませんか」とお願いしていた、以前お買い戴いた諏訪正氏の『ジュヴェの肖像』(芸立出版刊)をお持ち下さった。この日の演目はハイドンの「ピアノ三重奏曲第25番ト長調」、シューマンの「ピアノ四重奏曲変ホ長調作品47」、メンデルスゾーンの「ピアノ三重奏曲第1番ニ短調作品49」。ヴァイオリンは堀米ゆず子、チェロに山崎伸子。この演奏会は、1月17日に予定されていたものだが、アルゲリッチが風邪引きで来日が遅れ、キャンセルになった為に急遽代替で開かれたもの。当初は、ルノー、ゴーティエ(チェロ弾きに相応しい名だ)のカプソン兄弟との共演だったが、堀米、山崎がピンチヒッターで出演。その任を充分に果していた。こちらも急遽聴くことにした演奏会は、豊かなものになった。代替公演の予告から十日足らずの公演、1階は満席、2階も9割方、バルコニーが7割強の入り。奔放でキャンセル魔のアルゲリッチだが、その人気とそれに見合う実力を久しぶりに実感した。

2005年02月02日

松竹に『俳優の刑務所訪問』を勧める

母の義兄(私の伯母の夫)が法務省のキャリア官僚を務め、退職後その外郭団体の常務理事をしていた時のことだから、昭和の三十年代のこと。二十数年前まで沼袋にあった中野刑務所の隣りに伯父の勤める協会があったのか、6歳か7歳くらいのことで詳しくは覚えていないが、駅から暫く歩くと高い塀があった。確かその隣りに伯父と伯母が住む所長宿舎があった。そのとき以来行ったことは無いが、あの塀の高さとその不気味さは、幼い頃の怖い思い出だ。その何年か後、府中の刑務所(の隣りにあった宿舎)にも行ったことがある。その時は、もう中学生だったか、ここに収監されている服役囚が多数いることが判っていて、それはそれで怖いところだと思ったものだ。私には記憶が無いが、兄は伯父が静岡刑務所の所長時代の幼い頃に泊りがけで静岡に遊びに行き、偶然か看守に監視されながら所長官舎の庭を掃除する囚人を目の当たりにし、「悪いことをすると捕まり、刑務所に入れられる」とでも言われたのだろう、家に戻って開口一番「もう、いけないことはしません」と親に誓ったそうだ。
何年か前に、アメリカの刑務所の民営化についてのテレビ番組を観たことがある。カリフォルニア州のある町の中学校の課外授業の話だったと思うが、犯罪防止の教育の一環で刑務所を訪問し、複数の服役囚から罪を犯すことがいかにリスキーかを、身を持って体験した彼らから生徒が教えて貰っていた。
道路交通法違反で捕まり、舞台に穴をあけた中村福助といい、今回の無銭タクシー乗車、警官に対する暴行の公務執行妨害で逮捕された中村七之助といい、天晴れなものである。叔父と甥のこの二人、ともに華奢な体の女形である。七之助はスキャンダルに事欠かない親の躾に問題が無かったとはいえまい。では、体も大きく立役で、親の躾のよくない出来そこないが、街で暴れたらどうなるか。松竹の歌舞伎担当の経営幹部たちの不安が想像できる。必ずまたこんな事件が起きる。不安は杞憂に終らない。この際、松竹所属の歌舞伎俳優全員を連れて府中刑務所ヘ行き、講堂でも大勢の服役囚に囲まれて彼らの話を拝聴する機会を作ったらいい。

2005年02月04日

『クライバーの死』と『目利きの不在』

午前中、5月の演奏会のチケットを電話予約したので、そのチケットを引き取りに上野の東京文化会館に行く。そこで貰った会館の広報誌『音脈』冬号の中にあった写真家・木之下晃氏の文章が面白かった。昨夏亡くなった名指揮者カルロス・クライバーについて書かれたものである。「巨匠が指揮台に登るとなると、世界中からファンが殺到し、チケットはプラチナとなることが分っているのに、姿を現わさなかった。その大きな要因は、現在の音楽界そのものが商業主義にどんどんと傾斜してしまったことにあると、私は思っている。巨匠は芸術として音楽を演奏したかったにもかかわらず、オーケストラは時間で練習を区切り、彼が望む音楽作りを共にすることをせず、演奏をお仕事にしてしまったことを怒っていたのだと思う。世間は巨匠をキャンセル魔といって、キャンセルをしたことを彼の所為にしているが、本当の理由はオーケストラ側の怠慢にあったことは衆知の事実である。巨匠が演奏しなくなったのは、現在の音楽界の在り方に絶望したからだといえる」。今、日本に芸術を作るために、守るために約束を取り消すアーティストはいるか。約束の期限にも書けず、稽古期間にも上演台本として全編が調うことが稀な劇作家が、以前、上演をキャンセルする時に遣った見苦しい言い訳は、芸術家として中途半端なものを舞台に上げる訳にはいかないという、「作家の良心」だった。一昨日、GOLDONI JUGENDのひとりである佐々木治己さんが持ってきてくれた『選択』の2月号の、『日本は「本物」の伝統芸能を守れるか』という文章にはこうある。「本物とそうでない者を見極める目利きが必要であり、目利きが本物と判断した舞踊家を支援し、さらに次の時代を担う本物を育てていくしか道はない。ヨーロッパは、確かにそのようにして芸術を大切に育てている。何にも迎合しない目利きが多数存在し、その多くはパトロンとして、芸術家を育てている。芸術性の低いアーティストを支援すれば、そのパトロンは物笑いの種になる。しかし、今、日本の本物の芸術を見分ける目利きがいるだろうか? 文部科学省と文化庁は、物笑いになるパトロンではないだろうか? 目利きがいなければ、何がすばらしいかはわからない。ヨーロッパの人々は、目利きがすばらしいと言うものを見て、目を肥やし、目の肥えた大衆が本物のアーティストを支えている。本物のアーティストと目利き、そして目の肥えた大衆。三つがそろわなければ、良貨は悪貨に駆逐される運命なのだ」。 今の日本の演劇について言えば、贋物の演劇遣りたがりと、目利きとは縁のない取り巻きのようなマスコミ・批評の御連中、彼らが作り評価する作品を疑い無しに見てしまう目の肥えようのない演劇ファン、という三つが揃っている、ということか。本物の芸術家、目利き、目の肥えた大衆は、行政が作るものではないし、作るべきでもない。あるいは、それを頼るべきでもない。それぞれがその持ち場・領分で水準・見識を持ち、その機能・役割を果たすことから始めるしか解決はないだろう。

2005年02月06日

『4月に崩壊する』か、NHK新体制

普段に週刊誌を買って読む習慣はないが、新聞の広告で、『NHK永井多恵子副会長も「やってられないわ!」橋本新体制早くも4月崩壊へ』との目次を読み、早速に購入して読んだ。『怒れるワイド どいつもこいつも』という巻頭の特集ページを開くと、見開きのタイトルをバックに、左端には波野隆行容疑者の父・中村勘九郎、右端にトップ記事の永井副会長の顔写真が並び、その間には金正日、堤義明、海老沢勝二、などの『どいつもこいつも』の天晴れな御仁たち。これでは永井副会長までが文春編集部の怒りの対象かと思えてしまうが、読んでみればさに非ず。「橋本新体制を遠隔操作し、支配しようとする海老沢派の高級幹部たち」の「分厚い壁にぶち当たった永井副会長は、『副会長をやっていく自信がない』と語ったとある。永井氏のNHKでの最終職員歴は解説主幹。管理職としての最後は浦和放送局長だそうで、一般企業は参考にならないだろうが、中央官庁で言えば本庁課長級程度のポスト経験者。一般には、課長級での退職者が、5年も6年も後輩がトップになり、課長で退職した先輩がその下のポストに収まるということはないだろう。氏はアナウンサーを振り出しに解説委員に転じたスタッフ系職員で、局員も数十人ほどの基幹ではない地方局の管理職を3年ほど務めただけの退職職員を、局員数11800人の大組織のナンバー2に誰がどんな判断で起用したのか全く判らない。文春の記事を読んでも、こんな異例な人事に一言も触れてはいない。
この永井氏、世田谷区の文化生活情報センターの館長を8年ほど務めているそうで、他にも中央官庁や東京都など行政の審議会等の委員を相当数引き受けている。02年だったか内閣府が提言した、男女共同参画推進の一環での政府審議会委員の女性登用が促進されたこともあって、委員の就任依頼が多数あり、多くの審議会委員を務められていたのではないか。しかし03年には総務省の打ち出した行政改革のひとつとして、この政府や自治体の審議会委員の重複就任が問題とされたが、永井氏もその重複委員のひとりになってしまっていた。昨年までは読売新聞制定の演劇賞の選考委員を務めていた。文化・生活関連施設の長としての職務もこなし、委員としての多数の審議会に参画、演劇公演の招待状が届かなくとも主催者などに自ら連絡を取り、観劇の手筈を整えるとの評判は、その積極的な姿勢を証明するもの。永井氏の手腕も見識も政治力も人間的魅力も存じ上げないが、就任したばかりで、『副会長をやっていく自信がない』との弱気な発言は、評判を裏切るもので、せっかく起用してくれた人物の期待をも無にするもの。この事態での副会長就任は、あまたある公職を引いてのものだろうから、ぜひ専心しての全力投球をお願いしたい。週刊文春の言う『4月の崩壊』が現実のものだとしても、「やってられないわ!」と投げ出したい気持ちを抑えてでも、それまでの2ヶ月は大いに奮闘して戴きたい。

2005年02月12日

『新劇』と『リアルタイム』

 先日来、昨年の11月から最近までの新聞の切抜きを整理していて、掲載日は離れているが関連のある二つの記事に目が止まった。一つは、朝日新聞12月9日の夕刊、演劇評論家・大笹吉雄氏の寄稿の記事だ。劇団青年座が11月末からの十日ほど劇団創立50周年記念の事業として下北沢の5会場で同時上演したが、その全てを観た大笹氏の、寸評を含めたレポートだ。観るようにと青年座の製作部から誘われていたが、先約やら急な来客などで一本も観なかった。西田敏行が退団し、津嘉山正種が新国立劇場製作の『喪服の似合うエレクトラ』に出演中。演目、演出、出演者など、これを見逃しては、というせきたてられるような気分にも正直ならなかった。演劇評論家という人たちの批評の対象への迫り方の尋常でない姿勢に驚嘆。「リアリズム演劇もアンチ・リアリズム演劇も、そういう考え方とは無縁な歌舞伎の脚本も、新作も再演もと多様だった。とりあえずはこれが青年座が示した新劇の幅である。同時に注目したいのは、5劇場すべてが定員500以下の小劇場だったことだ。つまり、築地小劇場以来の本来の意味で、新劇は小劇場演劇にほかならない。」と氏は書いている。『新劇の幅』とは思わなかった。『新劇は小劇場演劇』とは知らなかった。青年座が示したのはお祭り気分のごった煮の「企画の幅」だとうかつにも思い込み、彼らの演劇公演の柱は、収益源でもある全国の演劇鑑賞会主催の千人規模のホールでの巡回公演で、下北沢や新宿など4百席程度のホールでの公演は、その為の仕込であり営業の為の発表会、形だけやるのだから小さいところで費用を掛けずに済まそうくらいの魂胆だろうと見くびっていたが、青年座の質の低そうな企画すらが、『築地小劇場以来の』『新劇は小劇場演劇』との凛々しい運動のようなものとは思いもよらないことであった。
 うっかり前半を飛ばしてしまった。大笹氏が冒頭に書いているのは、ある書評に対するコメントだ。その書評には、『今や崩壊したにも等しい新劇』という表現があって、「根拠のない言葉の繰り返しにうんざり」されたそうだ。氏は『喪服の似合うエレクトラ』や『ピローマン』の例をあげ、「新劇は今も元気印」と論じる。六十年代のアングラ台頭期以降、大手新劇団の文学座も民藝も俳優座も、既に昔日の勢いも面影もないほどに弱体化しているものと、私は長く思っていたが、テレビタレントに頼る商業劇場や新大衆演劇専門の劇場の作るものが「新劇」なのだとは知らなかった。
 もう一つの記事が、問題のこの書評だ。これは11月28日付の朝日新聞の読書欄にあるもの。この欄は、同じ朝日の夕刊に載る演劇関連の記事とは段違いに、最も権威ある報道機関と自負する「朝日」の、その見識を存分に示すものとして知られる。書評者にも第一線の研究者や評論家、名高い読書家を揃えている。大笹氏が「うんざり」させられた書評は、関容子著の『女優であること』(文藝春秋社刊)を評した音楽評論家・安倍寧氏の手に成るもの。同書で取り上げられた女優のうち、「奈良岡朋子、岸田今日子ら新劇系が多数を占める。著者の歌舞伎通はつとに知られているところだが、今や崩壊したにも等しい新劇への思い入れも、並々ならぬものと見た」とある。この数日、GOLDONIに見える七十代のご常連に、『今や崩壊したにも等しい新劇』という表現についてご意見を伺っているが、皆さんのご返事は、『その通りでしょう』。ある方は、『そんな状況だからこそ、あなたが蛮勇を振るって書店を開き、図書館を作ってでも新劇の復権を図ろうとしているんでしょ』と、かえって私の認識と決意を訝られる始末。1940年代、50年代の東京の高校生、大学生だったご常連の方々は、その当時からの新劇の観客であり、また実践者でもある。戦後の新劇ブームといわれた時代をリアルタイムで体験されている。文学座の出来たてのアトリエでの公演を高校生の会員として観始め、一昨年までは最大の新劇団でもある四季の役員としても活躍した安倍寧氏の、五十数年にわたる「新劇」の同時代を生きた観客・批評者の実感のこもった感慨に触れて、それに「根拠のない」とか、「うんざり」とかの強い言葉で批判する大笹氏の「新劇」体験とは、いったい如何なるものなのだろうか。
 演劇公演の招待状が届かなければ、文化庁だの読売だの朝日だのNHKだのと、文化助成審査や新聞劇評やテレビ番組で取り上げることをちらつかせ、チケットを強要する手合い、ゴロツキが増殖する昨今だが、その中で劇団四季の招待状が届かないと自著で明かす大笹氏、他人が使う『新劇』や『小劇場』などの言葉に、敏感に反応することも隠さない正直な方、なのかも知れない。

2005年02月18日

白洲次郎の『プリンシプルのない日本』

先月GOLDONIに見えたメディア総合研究所の吉野眞弘氏が作られた、白洲次郎氏の文章を纏めた『プリンシプルのない日本』(2001年、ワイアンドエフ刊)を久しぶりに読んだ。白洲さんが如何なる人物かは今更説明することもないとは思うが、綿貿易で成功した実業家(白洲文平。19世紀末、明治時代中葉にハーバード大に学び、三井銀行、鐘紡に勤めたのちに独立。財を成したが昭和初期の金融恐慌に遭い倒産。)を父に持ち、芦屋生まれ、ケンブリッジ大に学び帰国。ロンドン時代から当時の駐英大使だった吉田茂と親しく、戦後はGHQとの連絡調整の任にあたる。実業家としても、東北電力会長などを歴任。晩年は軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長としても活躍。若くして英国で教養と紳士道を身に付けたが、ゴルフ場でマナーの悪い田中角栄(だったか)を叱りつけたこともあるほどの硬骨、原則の人。五十年ほど前の雑誌『文藝春秋』に載せた文章全体の題は、「おおそれながら」だったり「腹たつままに」、「頬冠をやめろ-占領ボケから立直れ」、「嫌なことはこれからだ-勇気と信念をもって現実を直視しよう」など。またそれぞれの小題も、"智恵なき国民" "軟弱なら軟弱外交らしくせよ" "小役人根性はやめろ" "経営者の小児病を笑う" "政治家の「ハラ」程愚劣なものはない" "血税濫費の「御接待」" "もう一度戦争責任を考えよ"など、あげたら切りがないが、厳しくまた痛快。
さて本題である。この本の中にある、五十二年前に白洲が書いたものをここで取り上げたい。
「事業が苦しくなって来るにつれ、国家補助金を当てにする気分が大分頭をもち上げて来たらしい。新しい日本としては、ドッジさんじゃないが、補助金の制度は止めた筈だ。私は原則的には補助金制度など大反対だ。今、補助金、補助金と叫び出している御連中にしても、何ヘン景気とか何とか言って金がもうかって仕様がなかった時には、税金以上のものを国家に自発的に納入する意志があったろうか。インチキの社会主義者みたいに「私が林檎を一つ持っている。この林檎はみな私のもの。貴方が林檎を一つ持っている。その林檎の半分は私のもの」なんていう様な差引両取り、丸もうけなんていう考え方は、この頃はやりもしないし、通じるわけもない。どうしても或る産業の補助金を交付する必要があるのならやるがよい。然し私はその補助金をやるのに条件をつけたい。
一、政府は補助金を授ける会社の経理を厳重に監査監督すること。
二、その会社の利益が或る程度以上になった時にはその超過分に対して累進的に重税を課すること。
三、その会社の経営に当る人事に就き政府が或る種の発言権を持つこと。 
(中略)私の言いたいことは、もうそろそろ好い加減の一時しのぎやごまかしは止めた方が好い。もっと根本的に我国の経済の現状を直視して、その将来を考えるが好い。(「国家補助金を当てにするな」『文藝春秋 一九五三年六月号』より)」
私の言いたいことはもうお判りだろう。事業を演劇に、国家補助金を文化庁などの文化芸術支援(委託)事業に、インチキの社会主義者を補助金漬けの演劇関係者に、林檎を金に、それぞれ置き換えて読んで欲しい。
国などの補助(税金)を受け、そのことで自立する基盤が整い、その補助金を国に返そうとの心掛けの上演団体があったか。個人では、国内外での研修制度の利用者で、その支給された費用(全て税金)を後に返そうと思った者はいたのか。在外研修制度利用者や、国際交流・海外フェスティバル参加での支援を受けた団体や個人が、文化庁などとのパイプが出来たことをよいことに、補助金取りの亡者に成り果てているのではないか。支援制度の対象になりそうな企画ばかりを考えていないか。今年の1月6日のブログ『新年、そして最後の年に思うこと』に書いたので繰り返しは避けるが、こんなことにならない為にも、またさせない為にも、国は舞台芸術についての補助金・支援制度のあり方を根本的に改めるべきだろう。その為には、業界関係者や演劇評論家など利害関係者を集めた審議会や調査会、審査会などの行政の追認・翼賛的機関を設けず、白洲が付けた条件などをヒントにしつつ、「パブリック・コメント」など、広く一般国民に施策について意見を求めるべきだろう。
白洲次郎は言う。「大体補助金をやってまで運営しなければならない会社が、日本にあり得るとは私は思わない」。「補助金が無ければやって行けぬ様な産業はこの際思い切って止めるがよい。国家の経済環境はそれ程貧困なのだから」。
これは五十年前の国家や経済に限った話、ではない。

2005年02月21日

大学に蝟集する演劇の『レッスン・プロ』

 梅棹忠夫の『比較芸能論』(「日本の古典芸能」第10巻。1971年、平凡社刊)を読んでいたら、こんなことが書いたあった。「職業としての芸能とはなにか。プロフェッショナルな芸能人というのは、どのようなひとをいうのであろうか」。「観客あるいは聴衆のまえで、修練によってえられたところの歌舞音曲の技能を披露する」。「それをもっておもな業務とし、それで生計をささえる人たちが、プロフェッショナルの芸能人とよばれるのだろう」。「芸能学校の数のおびただしさは、それにみあうだけの芸能教師の存在を意味する。それらの人びとは、芸能を教授することによってその生活をなりたたせている。芸能を職とするという意味において、彼らはまぎれもないプロフェッショナルな芸能人ではあるが、先にいったような第一次な意味での芸能人-今日のことばでいえば、芸能タレント-とは、かならずしもいいがたい。」
 早稲田大学、明治大学などの演劇専修・演劇学専攻や、東京学芸大学の教育学部教養系にある芸術文化課程表現コミュニケーション専攻など演劇実習をしない大学を別にすれば、日本大学芸術学部や桐朋学園短大、大阪芸術大学や近畿大学文芸学部などの舞台芸術専攻、数年前に新設された桜美林大学などの実習中心の学科には、現役の俳優や演出家、劇作家、舞台美術や照明、音響、衣装などのデザイナーなどが専任教員あるいは非常勤の講師として勤めている。産児減少化のこの時代、粗製濫造気味だった大学の生き残り戦略上、とくに学力底辺高校の進学希望の生徒の収容先として、講義(座学)ではなく実習中心の専攻科の新設こそが重要。その意味では、演劇実習専攻は恰好のコース。以前は専門学校の演劇実習専攻科が、基礎学力が不足し修学にも就職にも意欲のない高校生の行くところであったようだが、今はそれをこれらの大学が真似したか奪ったようなもの。修学意欲の無い者が、実習ならと望んで励むのだろうか。基礎学力不足と親の経済力は比例している、との説があるが、高校生の時までに、どれだけの舞台芸術に触れたのかは、親の経済力ばかりか、家庭の文化生活力とでも呼ぶべきものと連動している。
 昨年の12月12日のブログ(『水自竹辺流出冷、風自花裏過来香』)に書いたように、劇場の座席の背に足を載せて観劇するような卑しく傲慢な愚か者(そのひとりは自分が勤めている公共ホールで、だ。)たちは、三人とも東京大学、多摩美術大学、早稲田大学で教えている批評、アートマネジメント、演出の専門家。教わる方も凄いが、教える方も負けてはいない。教室での教員と学生の態度は想像がつきそうだ。日本大学芸術学部のある実習では、客員教授の演出家の休講が恒常化し、また他の演出家の講座では「学級崩壊」が起きていると言う。このような大学や、専門学校、劇団やプロダクションなどの養成機関が、演劇だけでは食っていけない「演劇人」の稼ぎの場なのだろう。それぞれに稼ぎは必要だろう。だが、稼ぎと務めが見合ってこそ、人を教えるに相応しいものではないか。
 彼らの半端な教員稼業、真っ当な「務め」と言えるのだろうか。

2005年02月26日

「バカが創り、バカが観る」のが現代の演劇か

「2.26事件」の日だからというわけでもないが、35年前に市ヶ谷の自衛隊基地で自決した三島由紀夫の『私の遍歴時代』(三島由紀夫評論全集、1989年、新潮社刊)を久しぶりに読んだ。「芝居には知的な興味から入って行く人と、体ごと入ってゆく人と、二種類あると思うが、私はどちらかといえば後者に属する。」「はじめて歌舞伎を見たのが、中学一年生のとき、歌舞伎座の比較的無人の「忠臣蔵」で、羽左衛門、菊五郎、宗十郎、三津五郎、仁左衛門、友右衛門の一座であったが、大序の幕が開いたときから、私は完全に歌舞伎のとりこになった。それから今まで、ほとんど毎月欠かさず歌舞伎芝居を見ているわけであるが、何と云っても旺盛な研究心と熱情を以て見たのは、中学から高校の時分であり、当時メモした竹本劇のいろんな型や要所要所やききゼリフは、今でもよく憶えているほどだ。」「さて、私には新劇的教養は全く欠如しており、外国の台本は手あたり次第に読んだが、翻訳劇を見る気は起らず、季節はずれの郡虎彦の戯曲などに夢中になっていた。」 「戯曲を書こうとしてはじめて私には小説の有難味がわかったのであるが、描写や叙述がいかに小説を書き易くしているか、会話だけですべてを浮き上らせ表現することがいかに難事であるか、私は四百字一枚をセリフで埋めるのすら、おそろしくて出来なかった。第一、小説の会話はどちらかといえば不要な部分であり、(もちろんドストエフスキーのような例外もあるが)、不要でなくても、写実的技巧を見せるためだけのものであることが多いのに、戯曲ではセリフがすべてであり、すでに私が能や歌舞伎から学んだように、そのセリフは様式を持っていなければならぬ」。
三島由紀夫は大正末期に生まれ、昭和45(1970)年に昭和と同じ歳で自決した。その17年前の昭和28(1953)年には三島とも親交のあった劇作家の加藤道夫が35歳で自殺しているが、昭和33(1958)年には、20世紀の最初の年に生まれた劇作家の久保栄が自殺している。それぞれ45歳、35歳、57歳と、なんとも勿体無いほどの早死にである。
久保栄の『火山灰地』は、先月の第一部に続いて、来月20日から第二部が上演される。今月の初め、明治大学の神山彰先生が見えた折、先生から、久保栄の劇作に歌舞伎の影響が大きいと教わった。共同通信電の演劇批評で矢野誠一氏はこの『火山灰地』を取り上げ、「登場人物の出入りのたくみさなど、久保栄の演劇的教養の基本が歌舞伎にあったことを教えてくれ…」と書いている。
三島の演劇的教養が、幼少からの歌舞伎や能であり、久保の演劇的教養は、学生時分からの新劇と歌舞伎から。加藤のそれは、旧制中学生時分からのフランスはじめ欧米の戯曲研究だろう。
下北沢で若手の劇作・演出による新作公演を観て、過去の戯曲や映画から着想をパクッただけの作劇にあきれ果てた長年の友人から届いたmailには、「バカが創り、バカが観るものが現代の日本演劇」とあった。教養の凋落がいわれるこの時代、その先頭を走るのが演劇だろう。書くべきなにものも持たず、「描写や叙述が書き易い」小説すら書かず、三島に「会話だけですべてを浮き上らせ表現することがいかに難事であるか」と歎かせた劇作の難しさも知らない、演劇的教養の乏しい、遊び気分の悪ふざけやお遊戯の延長が演劇とでも思っているような、愚劣愚鈍な現代の演劇人やその周辺の業界関係者とやらに出遭わずに済んだだけ、久保、加藤、そして三島は幸いだった。
「藝術生活は断じて囲碁謡曲と同列の娯楽でもなければ俗に云ふ所謂「趣味」と称すべきものでもない。」「俗物から見れば滑稽とも馬鹿正直とも見える程に生真面目なそして熱烈な生活である。ふざけた洒落気分の弛緩した生活ではない。藝術が趣味とすることが出来るから藝術のすべてが趣味的のものであるとは言へない。かかる程度では文化活動の第一線に立って何が出来るか」(『象牙の塔を出て』)。厨川白村の言葉である。