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『クライバーの死』と『目利きの不在』

午前中、5月の演奏会のチケットを電話予約したので、そのチケットを引き取りに上野の東京文化会館に行く。そこで貰った会館の広報誌『音脈』冬号の中にあった写真家・木之下晃氏の文章が面白かった。昨夏亡くなった名指揮者カルロス・クライバーについて書かれたものである。「巨匠が指揮台に登るとなると、世界中からファンが殺到し、チケットはプラチナとなることが分っているのに、姿を現わさなかった。その大きな要因は、現在の音楽界そのものが商業主義にどんどんと傾斜してしまったことにあると、私は思っている。巨匠は芸術として音楽を演奏したかったにもかかわらず、オーケストラは時間で練習を区切り、彼が望む音楽作りを共にすることをせず、演奏をお仕事にしてしまったことを怒っていたのだと思う。世間は巨匠をキャンセル魔といって、キャンセルをしたことを彼の所為にしているが、本当の理由はオーケストラ側の怠慢にあったことは衆知の事実である。巨匠が演奏しなくなったのは、現在の音楽界の在り方に絶望したからだといえる」。今、日本に芸術を作るために、守るために約束を取り消すアーティストはいるか。約束の期限にも書けず、稽古期間にも上演台本として全編が調うことが稀な劇作家が、以前、上演をキャンセルする時に遣った見苦しい言い訳は、芸術家として中途半端なものを舞台に上げる訳にはいかないという、「作家の良心」だった。一昨日、GOLDONI JUGENDのひとりである佐々木治己さんが持ってきてくれた『選択』の2月号の、『日本は「本物」の伝統芸能を守れるか』という文章にはこうある。「本物とそうでない者を見極める目利きが必要であり、目利きが本物と判断した舞踊家を支援し、さらに次の時代を担う本物を育てていくしか道はない。ヨーロッパは、確かにそのようにして芸術を大切に育てている。何にも迎合しない目利きが多数存在し、その多くはパトロンとして、芸術家を育てている。芸術性の低いアーティストを支援すれば、そのパトロンは物笑いの種になる。しかし、今、日本の本物の芸術を見分ける目利きがいるだろうか? 文部科学省と文化庁は、物笑いになるパトロンではないだろうか? 目利きがいなければ、何がすばらしいかはわからない。ヨーロッパの人々は、目利きがすばらしいと言うものを見て、目を肥やし、目の肥えた大衆が本物のアーティストを支えている。本物のアーティストと目利き、そして目の肥えた大衆。三つがそろわなければ、良貨は悪貨に駆逐される運命なのだ」。 今の日本の演劇について言えば、贋物の演劇遣りたがりと、目利きとは縁のない取り巻きのようなマスコミ・批評の御連中、彼らが作り評価する作品を疑い無しに見てしまう目の肥えようのない演劇ファン、という三つが揃っている、ということか。本物の芸術家、目利き、目の肥えた大衆は、行政が作るものではないし、作るべきでもない。あるいは、それを頼るべきでもない。それぞれがその持ち場・領分で水準・見識を持ち、その機能・役割を果たすことから始めるしか解決はないだろう。