2021年07月

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

アーカイブ

« 推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2021年1月》 | メイン | 推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2021年3月》 »

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2021年1月》

『劇場への招待』 福田 恆存著
    新潮社  1957年刊

 藝術作品の條件
 近代劇は、新劇は、今こそ劇場を自分の手にとりもどさなければならない。そして劇場の主權を觀客に手わたさなければならない。日常生活の現實を寫すといふリアリズムの惡習をすつぱりすててしまふがよろしい。觀客は劇場まで足をはこんで、現實を認識することなど欲してはゐません。かれらが望んゐることは、現實をそとから認識することではなくて、劇場のなかに作られる新しい現實のうちに没入することです。舞臺と平土間とのあひだの鐵のカーテンをとりはらふことーこのことはいままで何度もいはれてゐながら、いまだに實現されない。それはあたりまへです。何度もゐはれてゐながら、ほんたうに理解したうへではけつしていはれてゐないからです。
 劇作家も演出家も俳優も、自分たちは觀客が藝術創造に参與するための道具にすぎぬと自覚してゐない以上、それは當然です。それどころか、かれらは觀客を、自分たちが藝術創造をおこなふための道具とこころえてゐる。稽古場だけでははりあひがないから、お客を呼んできて鏡にしようといふのです。今日の俳優はどうやらことごとくこの種の自我狂におちいつてゐるらしい。俳優ばかりではない、小説家も政治家も革命家もみんなさうだ。また芝居の觀客も、小説讀者もさうであります。みんな孤獨になつてゐる。そしてなにより重要なことは、かれらが自分たちの孤獨に氣づかずにゐるといふことです。氣づかずにゐながら、舞臺の上と下ではおたがひに心をとざしあひ、自分だけの自己陶醉にふけらうとしてーすなはち俳優もめいめいで自分が主役にならうとしてーいたづらに焦つてをります。
 俳優はその性格からいつて、もつとも自己陶醉にふけりがちな人間であります。同時に自分を殺し他人の顏をたててやることの名人でなければならない。演劇は演劇みづからのために、近代のリアリズムから自己を解放する必要があると同時に、他のあらゆる藝術の、そして政治の、生活の、社會の、いはば現代文明の孤獨な自己閉鎖症状からわれわれを救つてくれねばならず、またそれをなしうる可能性を一番もつてゐる藝術形式であります。演劇はタブローになつてはなりません。活人畫になつてはいけません。もしタブローであるならば、活人畫であるならば、觀客席をも含めて、そのそとにはひとりの觀客もはみでないタブローをこしらへあげるべきだ。孤獨を求めるものは劇場に來ぬがいい。孤獨であつて孤獨から脱出したいと欲するもののみ劇場にくるがよい。劇場はひとりの孤獨者もつくつてはならない。そして現代人はいまもつとも孤獨から解放される必要があり、それをしてくれるものを求めてゐるのです。演劇こそはまさにそのものであります。
 (「藝術新潮」昭和二十五年四月號)より。