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2009年07月30日

「閲覧用書棚の本」其の十八。『人物評論』創刊號(四)

≪政界内報≫
松岡全権人氣失墜
―同僚の嫉妬と性格の祟り  荒木の影も薄らぐ

 國際的にも、日本的にも、あれ程壓倒的な人氣を持つてゐるらしいジュネーブ全権、松岡洋右の評判が、この頃に至つて特に御本尊の外務省方面に、格別惡いと云ふ確かなニュースがある。今迄のデクの棒式な、英語一つろくに話せぬ全権に比べると、洋右先生あまり器用に、派手に、上手にやつてのけたため、却って御殿女中式役人根性から、漠然と嫉妬された結果だらうと、某消息通は語つてゐるが、實は他にも原因があるらしい。
 松岡と云ふ男は、大體がアメリカじこみの半毛唐人で、よく饒舌るし、よく議論もするし、とかく俺ほど頭のいい人間はナイぞ、と云つた風な高慢ちきな性格である上に、滿鐡でも、實業界方面でも、誰からも煙つたがられて來た人物なのである。洋右に一番必要なのは、お饒舌を慎むことと、高慢な量見を捨てる事と、もう少し馬鹿になる事。結局は俺が、俺がと、どの席へも出しやばらぬ事などである。人間から受ける感じには、鶴見祐輔を少し大人にした様なクサミがあるからいけない。どうせ洋右の大芝居は、内田外交の強腰と云ふよりも、荒木貞夫をめぐる連中の支持があるから、あれだけ派手にやれたわけに違ひないが、この頃の政變の中心がまた少し變つて來て、荒木の痩せた髯つ面が、少々ばかり影も薄くなつた様に考へられるのは面白い。
 

≪財界内報≫ 
今太閤馬脚を現はす 
―「おれは齋藤首相と同ぢや」とインチキな智慧の出しやう

 没落人では智慧者今太閤で通つた小林一三が、俺が俺がで東電に乗込んでみたところ、いくら智慧者でも宇宙の進化を逆に廻すことはできないので、一年たつても二年たつても相變らず東電は腰が立ちさうもない。流石の今太閤もよる年並みで、いくら頭を叩いても智慧が出なくなつた。やうやく小林でだめだとわかつたので、やつと去年の暮ごろから、東邦電力の松永安左衛門に押し出されさうだ、などといふ噂もぽつぽつ廣がりはじめた。小林の洋行説などもこのごろ出たものだ、ところでこれに對する智慧者の末路を思はせるやうな小林の見榮が面白い。いつも新しいことがわかつてゐるやうなことをいひたがる彼がいふには、今日の經濟界は従來の正統的な經濟原則は當てはまらなくなつた。それは政治でも同じことで、このごろは従來の憲政の常道といふことが必ずしも行はれなくなつた。そしてさういふ時局を救ふためには、政治の専門家ではない齋藤子などが内閣をとるやうになつた。しかしこれは一時の難局を救ふためのものであるから、それを切抜ければ再び専門政治家に渡してやるだらう。これは電氣事業などの方でも同じで、僕(小林)が東電をやるのはある期間の難局に處するためだ、だから一定のところまでくれば後は松永君なり誰なりに渡すことになるのだと、自分を齋藤實と同様に説明するところなどに細かい藝がある。智慧の出し方が少しインチキになつてきた。

2009年07月27日

「閲覧用書棚の本」其の十八。『人物評論』創刊號(三)

顔面解剖學 
正力松太郎―縛る男か縛られる男―

 この面がまへは、誰がみても、縛る方か、縛られる方かのどつちかで、ただの人間でないことは明らかである。縛る方でいへば、強力掛長か内鮮課長、縛られる方でいへば、強盗・強姦・殺人等の強力犯か、少くとも博徒の親分の貫禄は、十分具つてゐる。
 野心的な眼、物慾の旺盛さうな口、顔の眞中に、砂の中から半身を現したスフィンクスのやうに乗り出して、あたりを支配してゐる鼻、どこをみても、近代人らしいスマートなところはちつともない。それでゐて彼の支配下にある讀賣新聞は、新聞といふよりもむしろ日刊綜合文化雑誌に近いんだから、甚だ愉快だ。
 彼が社長として入社したとき、「前官房主事」といふ何となく不気味な肩書から、このよろよろの日刊雑誌が、一體どうなることやらと思はれたが、頽勢を一擧に挽回したばかりでなく、文化的要素も失はれるどころか、かへつて一層豐富になつた。その代り折々とんでもない失敗を演じる。いつか德富蘇峰が國民新聞で、深尾須磨子のことを現代の清少納言だとか何とか褒めたのを讀み、早速彼女の家へ自動車を乗りつけて、月給二百圓で招聘する契約を結んだといふ。當の須磨子さん、狐につままれたやうに、目をパチクリさせたことはいふまでもない。もちろん、長つづきはしなかつたが、正常ナンセンス子を雇ひ入れて政治家を訪問させたり、辯士くづれでも何でも引つぱりこんで、短期契約で面白さうなところを吐き出させる技術はなかなかうまいもの。これは文化なんてものに取引以上の關心をもたないものでないと眞似られない藝當である。
 とにかくこの顔をみていると、猛烈な支配慾といつたやうなものが、マザマザと感じられる。しかもその支配は、いはゆる「王道」でなく「覇道」である。彼は朝早くから夜遅くまで編輯室に頑張つて、一つ氣に入らないと、幹部級の人間でも、小僧のやうに叱りつけるばかりでなく、社内スパイを放つて、誰が社の封筒を浪費するかといふことまで知つてゐるさうだ。前身が前身だけに、さういふ噂も立つのだらうが、それでは現在以上の大をなすことはむづかしいといはねばならぬ。


生殺陣
――<文化時評>――

 非常時内閣のヴオーカリスト永井拓相、「赤旗」で送られた堺利彦の葬儀に参列して、貴族院で叱らる。悲しくもあり、目出度くもある。(A)

            ◇

 鶴見祐輔が久しぶりでメリケンから來朝した。(彼アメリカに行けば、「歸米す」といはれる)この俗物の大元締、今度は何をいふかと思つたら、「テクノクラシー」ときた。そんなことで、又代議士になるためのハクをつけやうなどとたくらんでゐるから、祐輔なんざ「土偶の法螺師」(デクノホラシー)だつてんだ。(E)

            ◇
 
 先月、ロンドンの客舎で、テオドラ夫人に永別し、遥々長文の「遺書」をファッショ日本に寄せた老萼堂、近く「生ける屍」を携へて歸る。彼の言、論旨に多くの矛盾を含みつつも、なほ傾聽に價す。現在日比谷座に禄を食む四百頭髗のうち、ブルジョア自由主義のために氣を吐く唯一最後の存在といふべし。

            ◇

 文壇反動化の最大の惡弊は、正宗白鳥の如き金利生活者的存在を跋扈させてゐることである。長い間かかつて蓄へた小金を抱きつつ、依姑地と退嬰性をもつてケチをつけて歩くことを老後の樂しみにしてゐる五十婆に似たり。例へば、大佛次郎の「手紙の女」を評して曰く、「『赤穂浪士』以後進歩がない」と。――いつたい、お手前の批評にしろ、作品にしろ、自然主義以来の進歩が、少しでもあると思つてゐるのか。(A)

2009年07月24日

「閲覧用書棚の本」其の十八。『人物評論』創刊號(二)

看板に僞りあり  郷 登之助

―藤村・有三・義三郎等の假面を剝ぐ

 1.文壇「ルーブル詐欺」
 現在の社會では、大抵の人間は、他人を何等かの形式で欺くことによつて生活してゐるのである。もつとも巧妙に、もつとも合法的に、他人を欺くすべを心得たものが、今日の社會における「成功者」である。
 嘘だと思ふなら、日々の新聞をみるがいい。意識的な虚僞や、過失的な誤報を除いても、何等かの誇張や歪曲を含まない記事は絶無だといつていいくらゐだ。誇張や歪曲も、たしかに欺瞞の一形式である。
 政治・經濟界、思想界を初め、複雑多端な一般社會現象の中から、或る事件を選んで報道するといふことは、どんなに「公正」らしく見せかけても、やはり一つの歪曲である。ことに大衆の生活にとつて、もつとも重要な事件が起つてゐるにもかかはらず、それを隠蔽したり、默殺したりするといふことは、形式的には消極的であるが、實質的にはたしかに積極的な欺瞞である。
 かういふ欺瞞は、新聞の記事面においてばかりでなく、廣告面でもよく現れてゐる。否、この方が遥かに露骨で、大膽だ。近頃の廣告の大部分は、廣告でなくて、詐欺だ。それはインチキ賣藥や、化粧品や、どりこのや、またそれらと何等選ぶところのない通俗雑誌ばかりでなく、インテリ相手の出版物にも、その傾向が甚だしくなつてきた。
 かくて直木三十五の最大の愚作「日本の戰慄」が、廣告では「レマルクの『西部戰線異狀なし』以上の傑作」になり、「待合ファッショ」の某々が、藝者を傍に侍らして、一杯氣嫌で投ぐり書きしたヨタ文學が、「至誠至忠、萬人を感泣せしむる愛國の大文學」となる。かうなると、廣告もまた有難いかななどといつてはおれなくなる。たちの惡い點では、近頃頻々と新聞によく出る「ルーブル詐欺」などよりも、ずつと徹底してゐるわけだ。

 2.一聯の「模造聖人」たち
 更に、もつといけないことは、この種の廣告が、世人を欺くばかりでなく、廣告される本人自身を欺くことである。つまり、廣告によつてデッチあげられた虚像を自分自身の實像だと思ひこむことだ。その實例は、文壇思想界から、いくらでも拾ひ出すことができる。かの島田清次郎の悲惨な生涯などは、その典型的なものである。その他、倉田百三、有島武郎、武者小路實篤等々の一聯の「模造聖人」たちは、すべてこれに属する。廣告文書きの巧妙なタクトに操られて、世人と共に自分自身を欺くことが、最後にどんな結果をもたらすかは、これらの愛すべく憐れむべきドンキホーテの末路が、明らかに證明してゐる通りである。
 しかしながら、この種の「模造聖人」たちは、無邪氣で、好感がもてる。一番よくないのは、このコンマーシャリズムを巧みに利用して、自己の商品價値を不當につりあげてゐるばかりでなく、藝術的にいつても、素晴らしい價値をもつてゐるかの如く見せかける技術をもつてゐる手輩である。前記の「模造聖人」たちは、いくらか自分で自分を「信仰」してゐるから、實像と虚像とのギャップがばれやすい。そして一度ばれだすと、収拾がつかなくなる。自分に對する「信仰」がぐらついてくる。さうなると、まつたくみじめなものだ。
 ところが、さういふ「信仰」をすらもち合せてゐない連中は、自分をつくらふことが甚だ巧妙だから、容易にボロが出ない。宗教界でも、自分は爪の垢ほどの信仰をもたないで、大變な信者のやうに見せかけてゐる徹底した職業的宗教家は、決して尻尾を出して失業しないと同様に、文壇、思想界にも、さういふ連中が決して少くない。
 もつとも、それが完全に職業化し、長年月にわたつて、つひに習ひ性となり、虚像の衣が垢じみて、皮膚のやうになつて本人のからだにぴつたり食つついてゐる連中は、もはや自分でも衣だか膚だかわからなくなつて、人から剥がされて、はじめてびつくりするだらう。それだけに、それを剥ぎとるのは、なかなか容易ではないが、文化的には重大な意義を有するわけだ。
 それは單なる作品の品定めや、評論の誤謬指摘のやうな、ケチな仕事ではない。まづ文壇から始めよう。

 3.この「努力」「精進」「嚴格」!
 現文壇における最大のインチキ師は、島崎藤村、山本有三、十一谷義三郎の三人だと書いたら、誰しも驚いて目を丸くするばかりでなく、筆者自身を緣日商人的インチキ師だと思ふだろう。人のいい文學靑年たちは、早速ゲンコを固めて、筆者の上へのしかかつてくるかも知れない。しかしまあ、さう昂奮しないで、筆者のいふことを一通りきいてもらひたい。その上でなら、筆者は喜んでこの禿げた頭を差しのべよう。
 もつとも、ほんとの文壇の消息通で、よく人間の本質を見ぬきうる明をもつた男だつたら、「はあん、やりをつたわい」と、うなづいてくれるかも知れない。さういふ人たちも、一應は筆者の言ひ分をきいてほしい。
 何分藤村は、文壇の大僧正だし、有三も義三郎もすでに管長格だ。おまけにこの三人は、ヨタモンやインチキ師で充満してゐる文壇でも、もつとも「良心」的な存在で、いはば文學の守護神である。この三人を除いたら、日本の現文壇を見わたして、どこに藝術家らしい藝術家がゐるか、とさへ考へられてゐる。だが、筆者は反對に、そこまで世人を「信仰」させることに成功した彼等の手練手管にかねがね感嘆し、敬服してゐるのである。
 誰でもちよつと氣をつければわかるやうに、この三人には、著しい共通性がある。彼等の手品のタネを探るには、まづこの共通性が第一の手がかりになる。同じ穴の貉は、大體同じ方法で身をかくすすべを心得てゐるから。
 この三人はいづれも、才能の作家ではなくて、「努力の作家」だといはれてゐる。彼等が現在えてゐる文壇的地位は、たしかに才能以上であることは、誰しも認めてゐるところであるが、それは彼等の倦まざる努力の結果であり、藝術に對する絶えざる精進の賜だと考へられてゐる。それに彼等は、揃ひも揃つて、身を持することにいたつて「嚴格」である。酔つぱらつて銀座を流して歩くやうなことは、決してやらない。事實少しもやらないかどうか疑問だが、少くとも公衆の眼にとまつて、ゴシップ種になるやうなところでは、斷然やらない。ときにはゴシップ種になるやうなことがあつても、それはかへつて彼等の「嚴格」さを裏書きするやうなものしか傳へられない。またさういふゴシップの中にさへ、少しでも誤傳があると、「藝術家」らしくヒンシュクして、嚴重に抗議することを忘れない。 
 彼等の手品のタネに、この「努力」この「精進」この「嚴格」の中に潜んでゐるのである。それらによつて彼等は、自分たちの地位や商品價値を不當につりあげてゐるのだ。 (以下省略)

2009年07月18日

「閲覧用書棚の本」其の十八。『人物評論』創刊號(一)

大宅壮一編輯『人物評論』創刊號

<目次>

◆創刊の辭(巻頭言)           ( 大宅 壮一)  
藤村・有三・義三郎の假面を剝ぐ
 ―看板に僞りあり              郷  登之助
人物評論學                   杉山  平助
白露の將軍                   大佛  次郎
人物評論
 ―各務 鎌吉論              森田   久 
 ―林  房雄論               貴司  山治
 ―城戸 元亮論               伊藤金次郎
 ―堺  利彦論               山崎今朝彌
 ―長谷川時雨論             林  芙美子 
◇新人推奨 ◇人物風土記 ◇關西女人風景
◇ダンサーの見た紳士達 ◇滿鐡の人々
◇海外人物ニュース
國民精神文化研究所の人々       福智院 七郎     
低能教授列傳(帝大・早大・大商大)   A  B  C 
無能校長列傳                X  Y  Z
◆生殺陣(文化時評) 
◆鵺を射る 杉本幸次郎のイデオロギー 松林 忠太郎
藝術派新人論                中河  與一
プロ派新人論                龜井 勝一郎
女流詩壇新人論              大木  惇夫
中里介山・人と生活             笹本   寅
佐藤春夫氏の鼻              龍膽  寺雄    
顔面解剖學(正力松太郎・及川道子)
偶像を破壊す(徳富蘇峯・永田秀次郎)
インポシブル・インタビユウ
 ―1.赤垣源蔵と尾崎士郎
 ―2.釋迦と武者小路實篤
 ―3.楠正成と直木三十五
◆新聞に出ないニュース(無為替に惱む三井の安川)
經濟雑誌總まくり              印地  其氏 
生神様を裸にす(光瑞の兄弟達)     諏訪  開藏
◇思想善導物語  ◇學界ゴシツプ
特輯小説
 ―池田成彬                 久野   豐彦
 ―吉良上野                武田 麟太郎
 ―藏原父子                落合  三郎 
附録 人物内報
 ◆文壇内報  
   ・青野季吉の早大身賣   ・久野豐彦ノーズロ金山發見
   ・作家同盟親族會議の圖  ・武田麟太郎つひに結婚す
   ・平林たい子を守る歌
 ◆政界内報
   ・松岡全權人氣失墜      ・政界人物キキン
   ・中野にのらぬ平沼      ・内相になれない宇垣
   ・戰々恟々の政友會
 ◆財界内報
   ・今太閤小林馬脚をあらはす   ・横柄老大川のかはりやう
   ・齋藤定吉の孤獨地獄       ・森永キャラメル社長赤字ザンゲ
   ・ふるへてゐた山田白木屋専務
 ◆映畫内報
   ・義信すみ子愛の破局か     ・不二映畫つひに解散 
   ・逢初夢子便所内の傑作     ・重右衛門さん總ナメ
   ・城戸所長の過ぎたイタズラ
 ◆スポーツ内報
   ・暴動の直接責任者は文部省  ・スポーツ結婚三重奏
   ・楠本宮崎をめぐる爭奪戰     ・資金難になやむデ盃戰
   ・ラグビー有爲轉變
 ◆ヂャーナリズム内報
   ・野間報知と野依帝都の好取組 ・千倉書店主九日社長となる
   ・鶴見祐輔の讀賣入り       ・春陽堂の醜態と菊池寛の違約
   ・圓本の祟りとインチキ限定版

<奥付>

昭和八年二月二十日 印刷
昭和八年三月  一日 發行

東京市日本橋區南茅場町六〇番地
發行編輯兼印刷人   宮島 正男

東京市日本橋區南茅場町 茅場町會舘
        人  物  評  論  社
        電話  茅場町九五五番
        振替 東京七四〇九〇番  

2009年03月30日

推奨の本
≪GOLDONI/2009年4月≫

『綺堂劇談』 岡本 綺堂著
  青蛙房 1956年 

 養父の権之助はその時代の芝居道には珍しいと云われるほどの、気むずかしい、理屈っぽい人物で、あだ名を神主さんと呼ばれていたそうである。そういう人物であるから、彼は養子の権十郎(後の九代目団十郎)を寵愛すると同時に、その教育は非常に厳重であった。まず浅草馬道の手跡指南森田藤兵衛に就いて読書習字を修業させ、土佐派の画家花所隣春に就いて絵画を学ばせ、舞台上に必要な舞踊、浄瑠璃、琴、三味線は勿論、生花、茶の湯のたぐいに至るまで残りなく稽古させた。
 それがために、長十郎の幼年時代より権十郎の少年時代にわたって、団十郎はほとんど朝から晩まで息をつく暇がなかったと伝えられる。少しぐらいの病気では権之助は容赦しないで、怠けてはならぬと叱り付けて稽古に追い出すという始末。それでも団十郎は素直に勉強していた。しかも権之助の育て方があまりに厳酷であるというので、周囲の者はみな団十郎を憐れんだ。いかに修業が大切だと云っても、遊び盛りの子供に殆んど半時の暇もあたえず、それからそれへと追い廻すのは余りに苛酷であるという噂がしきりに伝えられた。
 海老蔵(七代目団十郎)の弟子たちも見るに見かねて、それを師匠に訴えた。あのままに捨てて置いたらば若旦那は責め殺されてしまうであろうと云うのである。海老蔵もそうかもしれないと思った。しかし一旦他家へやった以上、いかに実父でもみだりに口出しをすることは出来ない。殊にその当時は座元の威勢が甚だ強いのであるから、座元の権之助に対して迂闊なことを云うわけにも行かない。それでも或るとき権之助にむかって、海老蔵は冗談のように云った。
 「あなたは長十郎をよく仕込んで下さるそうですが、あんまり仕込み過ぎて、今に責め殺すかも知れないという噂ですよ。」
 それに対して、権之助は厳然として答えた。
 「成程そうかも知れません。その代りに、もし責め殺されずに生きていれば、きっとあなたよりも良い役者になります。」
 海老蔵も苦笑して黙ってしまったと云う。権之助の予言あやまたず、果たして実父以上の名優となり負おせたのであるが、その当時においては権之助の厳酷な教育法に対して、反感を抱く者が頗る多かったと云うことである。団十郎も後年は人に対して「これも養父が仕込んでくれたお蔭です。」と云っていたが、その当時は何と思っていたか判らない。いずれにしても、彼はおとなしく養父の命令に服従して、他念なく勉強していたのであった。
(『甲字楼夜話』団十郎を語る より)

2005年12月16日

「閲覧用書棚の本」其の十七。『歌舞伎談義』

今日日12月8日は、真珠湾攻撃の記念日と言うよりも、ジョン・レノンの命日として(商業主義に踊らされるメディアと、近代史に無知・無関心な現代人には、こちらの方が良いのだろう。)記憶されることになったようだが、十二月十四日と言えば、元禄十五(1702)年に起きた、「赤穂浪士による吉良邸討ち入り」である。ただ、「元禄」も、「赤穂浪士」も、「吉良」も、そして「討ち入り」も、真珠湾攻撃を知らない現代人には、既に「何の事?」、かも知れない。

岡本綺堂著の『歌舞伎談義』は、綺堂歿後の昭和24年2月に同光社から刊行された。本書は、昭和6年に『舞臺叢書』として刊行された『歌舞伎談義』に、「黙阿彌研究」と、歌舞伎の代表作品十二篇の評論を集めた「歌舞伎往来」を増補している。
今回は、この討ち入りを扱った『仮名手本忠臣蔵』の作者、竹田出雲についての言及を採録する。

―竹田出雲、元祿四年に生まれて、寶暦六年に死す。六十六歳。操りの作者であつたことは云ふまでもない。かれは大阪の竹本座の座元で、あはせて、其座の立作者であつた。かれの作物で、操りから更に歌舞伎に移し植ゑられて、今日まで其生命を保つてゐるものは、わたしの知つてゐる限りでは約十種ある。誰でも知つていることではあらうが、説明の順序としてその題目を掲げる。
『大塔宮曦鎧』『蘆屋道満大内鑑』『小栗判官車街道』『ひらがな盛衰記』『夏祭浪花鑑』『菅原傳授手習鑑』『義経千本櫻』『假名手本忠臣蔵』『双蝶々曲輪日記』『小野道風青柳硯』。
(略)何と云つても操り芝居の代表的作家としては、近松門左衛門と竹田出雲と近松半二と、この三人をあげるより外はない。したがつて、その操りから移し植られた所謂「竹本劇」の舞臺の上から見ても、かれら三人をやはり代表作の作家として認めなければならない。
(略)出雲といふ人の経歴も、かの近松と同じやうに餘り委しく傳へられてゐない。かれの父はからくりで有名な竹田近江である。(略)砂時計の発明者、からくり人形の発明者を父として生れた彼は、同じ血をうけて矢張り緻密な頭脳の所有者であつたことは容易に想像されるであろう。 (「歌舞伎往来」)

―近松門左衛門は本業であつたが、それに對抗してゐた紀海音は一方醫師であり、傍らに和歌を修めて法橋に叙せられてゐる。竹田出雲は忠臣蔵等の作で有名ではあるが、その本業は竹本座の座元で、同座の経営に力を盡してゐたのである。そのほかにそれを本業としてゐたのは、近松半二と並木宗輔ぐらゐのもので、他は醫師であり、茶屋の主人であり、人形使ひであり、義太夫語りであつて、皆その本業の傍らに筆を執つたのが多い。
江戸の浄瑠璃作者には、それを本業とした者は一人も見當らない。福内鬼外は彼の平賀源内の変名である。松貫四は茶屋の主人、紀の上太郎は越後屋(今日の三越呉服店)の主人、容楊黛は下谷の町醫師、烏享焉馬は大工の棟梁である。かういふ風に、素人が自分の趣味から筆を執つて兎もかくも百年二百年の生命を保ち得るだけの作品を世に残したのは偉とすべきで、専門家はまことに顔色なしと云つてもよい。(「歌舞伎談義」)

世界の中でこの国だけの例外のようだが、演劇を志向する人間には教養が必要でなくなって久しい。受容する観客もまた同様だ。批評家も、そして劇作家もまた然りである。
「専門家はまことに顔色なし」と、書いた綺堂が生きていれば、この時代の演劇状況を何と言うだろうか。

2005年12月13日

「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(五)

「雑感」の続きである。

―独逸の作家、ベルンハルト・ケラーマンはその『日本漫歩』の中で、
「ハナミチは戯曲の呼吸が通うところである。そしてそれはまさしく観客の中を貫いている。本舞台で人物が幸福に酔つている時、運命は長く尾をひいてハナミチの上を観客の中から迫つて来るのである。新らしい運命の襲来を効果づける手段として、これ位素晴しいものはあるまい。又、舞台の余韻、余情を深めることハナミチに如くものはない。西洋の役者は後に退場するが、日本の役者は前に退場する。悲しい別れの場を想像してみるがいい。母に別れた子供は物思わしげにハナミチにかかり立ち止つては目と目で名残を惜しみ、ためらいつつも段々距つて行く余韻は長く観客の中に吸い込まれる。戯曲の生命はハナミチを通つて脈打ち観客の心に流れ込むのである」
と言つている。
これは一外国人の単なる歌舞伎劇観の印象に過ぎないが、私ども演劇人に多くの示唆を持つ言葉である。私ども日本の演劇人が花道の効用をはたして如何ほど、科学的に考えて居るであろうか。なお単に花道だけの問題でなしに、日本演劇の独自性といつたやうな問題に案外、外国人から教えられる処がありはしないだろうか。ケラーマンは、なお歌舞伎に対してこんなことを言つている。
「外国語のしやべれる日本人は最早古い芝居に興味をもつて居らず、古い芝居に興味をもつているらしい日本人は外国語を知らなかった。」皮相の観の嫌いはあるが、これを新劇にあてはめて考えた場合にも、私どもの内省をうながす何物かを含んで居るのではあるまいか。
時代的に優れた戯曲が現われない限り演劇の正しい発展はない。俳優は演劇企業家の同情者であるよりは、優れた戯曲作家の支持者であり共力者であることは勿論だ。
今年こそ時代を誘導してゆくような素晴らしい戯曲の現われることを切望している。―

70年近く前の水谷の言葉は、今も新しい。

2005年12月12日

「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(四)

『ふゆばら』の中に、昭和13(1938)年1月に発表したと思われる「雑感」という小文が載っている。水谷の十代の頃からの芝居仲間だった友田恭助や芸術座の渡辺実が戦死したのは、その前年の12年である。

―身近かな人たちが二人も相ついで戦死してしまつたことは、何としても悲しい事ではあるし、それぞれの仕事の上で惜しい事ではあるけれども、それだけに戦争の厳粛さを感じないでは居られない。
一切の感傷や私情のさしはさめない高い処にある民族の興亡という問題に、今更らに敬虔の念を覚える。
戦争は勝たねばならない。それはもう理屈ではない。これらの親しい人たちの壮烈な戦死を無意義なものにしてはならない。(「雑感」)

死者を追悼しながらも、「民族の興亡」の為、「理屈ではな」く、「戦争は勝たねばならない」と語る姿は、戦後60年を過ぎた今から見れば、哀れを誘うほどの愚かさかもしれない。
戦時下の水谷を含む多くの演劇人に比べれば、現代の演劇人は「賢明」である。己は戦争や危険から最も遠い安全で、危機感を自覚しにくい世界に身を置きながら、戦争反対のアピールに名を連ねたり、「非戦」を主張するなど現代の、それも第一線の演劇人の多くがやっていることは、「戦争に加担している」はずの国が作った、国民の批判の高い「渡りの天下り官僚が運営」し、いつまでも「国家助成にすがる」新国立劇場で、破格に高い戯曲執筆料や演出料、出演料、講義謝礼をせしめることでもあるのだから。
また、そればかりか、智慧のない施策である芸術文化の補助金に群がりながらの「芸術活動」、それも戦後民主主義か社民主義か知らないが、サヨク気分演劇人が掃いて棄てるほどいるこの世界には、過去の戦時体制に代わるもの、例えば助成金制度の全面撤廃など、演劇をすることが厳しくなる状況が必要かもしれない。
「言論の自由」、「表現の自由」、演劇では何をしても検束される恐れの無いこの時代に、戦時下で、軍部からの締め付けを受けながら、その体制に協力・迎合せざるを得なかった演劇人のひとりとして、それもすでに大女優としての水谷の当時の言動、振舞・居方は、演劇の基礎・素養もなく、「演劇の他はない」訳ではない、「素人に毛の生えたような」現代の演劇人には、想像することすら出来ないことかもしれない。

2005年12月10日

「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(参)

早速だが、『ふゆばら』の「あとがき」を読んでいて、水谷には昭和7年に『舞台の合間に』という著作があることを知った。「鏡を拭いて」という小説と、「米国旅行記」などが収録されているという。「あとがき」で「主婦の友社から刊行」と水谷は書いているが、所蔵する古書店の目録には「演劇研究社刊」とある。

大正12年9月の関東大震災の後、その10月には、新派に『ドモ又の死』で初出演した水谷だが、翌13年に再興した第二次芸術座では、イプセンの『人形の家』やアンドレエフの『殴られるあいつ』、ショーの『武器と人』など、翻訳劇を上演していた。前述したように、水谷はついに築地小劇場に加わることなく、第二次芸術座と商業演劇を経て、昭和3(1928)年10月、新派公演の藤森成吉作『何が彼女をそうさせたか』に出演し、新派に加入した。
大正14年、大阪朝日新聞社の招待でアメリカへ映画視察の旅に出る。この『ふゆばら』には記載がないが、その折には名優バレンチノにも会ったと、どこかで読んだ憶えがあるが、『ふゆばら』には、「思い出のチャップリン先生」という一章があるので採録する。

―チャップリン先生は一口に申せば東洋風の哲人だといえましょう。(略)近代の老子ではありますまいか。(略)その黙々たる裡に……無為にして化するといつた趣が、泌々と感ぜられるのでございます。
チャップリン先生は、世間的には至つて無頓着な方だそうですけれど、芸術的には極めて神経過敏な方らしいのです。氏の映画が短い年で完成せず、数年にまたがる事もあるそうですが成程、あの撮影法を見ればそうもあろうかと存じます。
(略)何でも一度撮ると、幾度も幾度も同じ場面を撮つてみて、それを試写してから、いよいよいいとならなければ次に移らないのだそうです。ですから実際に役立つフィルムの尺数は、使用したフィルムの十分の一に足りないという事です。
日本の映画も今日は非常に進歩し、俳優でも監督でもカメラでも、決して米国に負けないと思われますのに、出来上つた代物が比較にならないほど貧弱なのは、全くこの丁寧さが足りないのではないでしょうか。十五日間で七八千呎の映画を完成したり、三日間で一本の取り上げるなどの芸当で、いいものが出来る筈がないのは当然でしょう。

26歳の水谷が、昭和7(1932)年、チャップリンの来日にちなんで書いた文章と思われる。
チャップリンに会った時の水谷は芳紀二十歳、すでに日本を代表する女優であった。

2005年12月07日

「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(弐)

『青い鳥』の大阪公演に出演するために早稲田大を中途退学し、演劇に専心することになった21歳の友田恭助は、大正9年12月、早稲田大での友人や、当時14歳の水谷八重子とともに『師走座』(のちに『わかもの座』と改称)を結成、坪内逍遥作の『現代男』やシュミット・ボン作『ジオゲネスの誘惑』、ビヨルンソン作の『森の処女』を上演した。演技指導は青山杉作であった。
稽古は麹町(現在の五番町辺り)の伴田(友田の本名は伴田五郎)家の屋敷で行い、公演は、小石川関口台の、今は椿山荘の一部になっている、伴田土地会社所有の広大な土地に露天舞台を作り、邸宅から、「アームチェアだのテーブルだのは、見張りをつけておきましてそつとみんなで持ち出し」「しまいには、ドアのハンドルまでとり外」
ずして舞台に飾ったという(『ふゆばら』)。
この辺りは、スタニスラフスキーが子供の時に、その邸宅や別荘で家庭劇で遊んでいたことを思い出させる。友田の演劇への開眼も、子供時分の茅ヶ崎の別荘での、従姉弟達との「芝居ごっこ」だったという。同じ茅ヶ崎の近所にあった別荘に来ていた土方与志と知り合ったのもこの頃である。友田や水谷たちの世界は、チェーホフの『かもめ』に描かれた世界と近似している。
その後も水谷は、「ともだち座」でダンセニイの『アラビヤ人の天幕』やチェーホフの『かもめ』、ストリンドベリの『熱風』に出演。井上正夫ともプーシキンの『大尉の娘』などを上演している。
大正13(1924)年2月、18歳の水谷は、第二次「芸術座」を結成、イプセンの『人形の家』を上演する。水谷のノラ、友田のヘルメル。演出は青山杉作である。
この年の6月、小山内薫、土方与志、和田精(イラストレーター和田誠氏の父)、汐見洋、友田恭助、浅利鶴雄(劇団四季・浅利慶太氏の父)の六人の同人によって組織された築地小劇場が開場した。

―友田さんとは青山先生の指導のもとに「わかもの座」という研究劇団をつくつてイプセンの「幽霊」などを上演、将来とも一緒の舞台を念じていましたが、震災後、築地小劇場ができたとき、私は義兄と一緒に第二次芸術座を組織したため、築地へ行くのをことわつてお別れしました。もしあの時に私が築地にいつたらどんなことになつていましたでしょうか。同時にいま私が念じている新劇への精進はなかつたことだけは確かでしょう。(「新劇への激しい欲求」)

築地小劇場出演の時は「客演という事になる」、と思っていた水谷だが(田村秋子・伴田英司共著『友田恭助のこと』(私家版、1972年刊))、ついにその機会は訪れなかった。

2005年12月04日

「閲覧用書棚の本」其の十六。『ふゆばら』(壱)

劇団新派の名女優・水谷八重子(無論の事だが、故人の初代水谷八重子である。)には著書が数点あるが、この『ふゆばら』はその最初のものである。参考までに、他をあげておくと、『藝・ゆめ・いのち』(昭和31年、白水社)、『松葉ぼたん・舞台ぐらし五十年』(昭和41年、鶴書房)、『女優一代』(昭和41年、読売新聞社)、『過ぎこしかた』(昭和46年、日芸出版)である。
また、水谷の編著・刊行に、義兄水谷竹紫の追憶・遺稿集『竹紫記念』(昭和11年)がある。
『ふゆばら』を紹介する前に、何回かに分けて、水谷八重子の演劇人生を辿ってみる。
水谷は明治38年8月、東京・牛込矢来町に生まれる。ちなみに、この年生まれの舞台人には、新国劇の辰巳柳太郎、島田正吾、女優の田村秋子、細川ちか子、宝塚の天津乙女などがいる。同じ牛込の赤城下町に育った俳優座の千田是也は明治37年の生まれである。
父・水谷六郎は当時、三菱合資会社神戸造船所の所長で、後に三菱造船所(現在の三菱重工業)の副社長を務めた。今でいえば、ビジネスエリートであり、彼女は現代には絶えていない良家の出身の舞台俳優である。
坪内逍遥門下だった義兄で劇作家の水谷竹紫の縁で、島村抱月の芸術座の第一回公演の『内部』(メーテルリンク作・中村吉蔵訳。有楽座)で、台詞はなかったが初舞台を踏んでいる。大正2年、水谷7歳の時である。本式の初舞台は、その3年後、帝國劇場での芸術座公演『アンナ・カレーニナ』の息子・セルジー役であった。この帝劇での公演の後に神戸・聚楽館でも巡回公演を一週間行ったが、それは父・六郎が買い切ったものだという(「ふゆばら」)。
大正9年、アメリカ帰りの畑中寥坡演出による民衆座公演『青い鳥』のチルチルが、14歳、雙葉高等女学院2年生の水谷の女優デビューである。なお、ミチルは夏川静江、犬は早稲田大生だった友田恭助である。ちなみに、この『青い鳥』を、後の日本生命社長の故・弘世現は当時15歳の中学生の折に観て感激した。その45年後、「本物の感動は、それに接した人に役立つ。子供や若い人に生の舞台を見せたい」と、設立した日比谷・日生劇場での小学6年生招待公演「ニッセイ名作劇場」を作った。この公演は昭和39年から41年後の今も、劇団四季の制作・出演で続いている。現在は東京(日生劇場)だけでなく、全国で巡回されて、延べ六百数十万人が観劇してきた。
大正10年には、井上正夫と映画『寒椿』(監督・畑中)に出演。校則の厳しいカトリックの学校に配慮して名を秘し、「覆面令嬢」として出演したという。

2005年11月30日

「閲覧用書棚の本」其の十五。『中村吉右衛門』(参)

― 『沼津』で役者が見物に口を利くといふ習慣が、いつごろから始まつたものか、私は知らない。第一私には、これが初めての経験である。しかし花道が見物席の中を貫き、ある場合には見物は役者の肉体に触ることもできるやうな状態で、役者がその上で芸をする仕組になつてゐる歌舞伎では、見物席の中から役者が飛びだして舞台に上つて行つて芝居をするといふやうな工夫も随分前からあつたらしいので、この『沼津』の工夫も、恐らく相当古い時分からのものだらうと思ふ。これはある意味で、見物が一緒になつて芝居をするといふことである。少くとも昔の見物はかういふ仕組だの工夫だのがあるために、役者に親近感を持ち、芝居を自分のものと感じ、役者のためにも芝居のためにも親身になつて肩を入れる気になつたに違ひないのである。
もっともこれは実は逆で、昔は見物が役者と親類付合をするやうな関係にあつたから、かういふ仕組だの工夫だのが自然と生れて来たかも知れない。しかし実はそれはどうでもいいことである。大事なことは昔歌舞伎が見物から、自分のものとして愛されてゐたといふことである。
新劇が興隆しそうにしては、またいつのまにかぐづぐづになつてしまふ。それにはいろいろな原因が考へられるが、しかし一番大きな原因は、新劇が見物から、自分のものとして愛されてゐないといふ点にあるのではないかと思ふ。もちろんそのために新劇がすぐ歌舞伎の真似をするがいいかどうかには、議論の余地が十分ある。ただ額縁の向ふで演じられてゐる芝居が、自分たちとはほとんど縁のないものであるといふ感じを与へてゐるのでは、これは歌舞伎でも新劇でも同様であるが、芝居はまづおしまひだといふことだけは、知つて置く必要のあることである。(『沼津』の花道)

豊隆のこの『中村吉右衛門』の中に、唯一「新劇」への言及があったので採録した。
「いつのまにか」「ぐづぐづにな」ってしまう「新劇」。
「ぐづぐづ」こそ、「新劇」の、今も有効な謂なのかもしれない。

『中村吉右衛門論』が『新小説』に載ったとき、豊隆の師である夏目漱石は、
「もつと鷹揚にもつと落ち付いて、もつと読手の神経をざらつかせずに、穏やかに人を降参させる批評の方が僕は真に力のある批評だと云ひたい。」と手紙で窘めた。(「私の『中村吉右衛門論』のこと」)

―私は『中村吉右衛門論』を書いて以来吉右衛門の為に弁じたり、吉右衛門の為に景気をつけたりしてゐるうちに、劇評の専門家のやうなものになつてしまつた。それが漱石先生には気にいらなかつた。これは別に先生が吉右衛門を嫌つたわけでもなんでもなく、ただ私が学問に専念する代りに、劇場内部の浮き浮きした空気の中を、得意そうにあるき廻つてばかりゐることが、私の将来の為によくないと、先生が考へたからである。そのことは先生の手紙だの随筆だのの中にも書かれてゐる。然しその先生は大正五年(一九一六)になくなつた。それとともに私は『漱石全集』の編輯を引きうけることになつたので、到底芝居など見てゐるひまがなくなつてしまつた。自然私は劇評の筆を折り、劇場からも遠ざかることになつた。ただその後も私は吉右衛門の歌舞伎だけは、機会が許す度に断えず観、且つ屡批評して来たのである。

外国文学の研究者や出版の編集者で、演劇の批評に手を染める者がこの時代にも生まれるが、これからは、そんな者達が劇場・ホールの中を得意そうに歩き回る姿を見る度に、吉右衛門の為に弁じたり景気をつけたりしているうちに、劇評の専門家の様になっていた豊隆を叱った夏目漱石を思い出すことが出来そうである。

2005年11月28日

「閲覧用書棚の本」其の十五。『中村吉右衛門』(弐)

―今の興行者や役者が半可な新しがり屋にかぶれて、古いものの新しさを尊重し、愛護する事を忘れるといふ事は、畢竟は彼等自らを滅ぼす日、自ら路頭に迷つて、果てはのたれ死をする日を、自ら招き寄せるといふ事に過ぎない。
事実、縦令それがどのやうに古い年代に書かれた脚本であらうとも、それに新しい解釈を容れ得る内容を持つた脚本であるならば、いつまでも新しいものとして舞台の上に活躍する。例へばこの『勧進帳』のやうな芝居は幾度繰り返して見ても、見る度に新しい、鮮かな驚嘆を私に経験させる芝居である。『勧進帳』は、役者がかなりに下手な役者であつても面白い。役者が旨ければ旨い程、余計に面白くなる。深くも、強くも、劇しくも、大きくも、―どうとも新しく見せる事の出来る芝居である。

―歌舞伎役者は無暗に新作物を演る事の愚をやめて、古い名作を新しく演活す心掛けを持つて貰ひたいといふ事を、毎度の事ながら付け加へて、この一篇を結びたいと思ふ。新しい新しいと世間で言はれてゐる歌舞伎役者と雖も、まだ本当に新しい芝居を見せてはゐない。新しい魂なら、何を表現の方便にしても、其処には屹度新しいものが浮いて来る筈である。(「『勧進帳』の比較」)

最近の渋谷の商業劇場や興行資本がその場凌ぎで遣りたがる、新作や改作ものに対する批判のような文章だが、これは、『中村吉右衛門論』と同じく、『新小説』に載った、90年以上も前の小宮豊隆の批評である。
大正3(1914)年4月、東京の歌舞伎座、市村座、帝國劇場の3座は、『勧進帳』の競演となった。GOLDONIの「閲覧用書棚」にある『帝劇の五十年』(昭和41(1966)年、東宝株式会社刊行)と『歌舞伎座復興記念・歌舞伎座』(昭和26(1951)年、歌舞伎座出版部刊)によれば、歌舞伎座は、十五世市村羽左衛門の弁慶、二世市川左団次の富樫、五世中村歌右衛門の義経。市村座は、六世尾上菊五郎の弁慶、初世中村吉右衛門の富樫、七世坂東三津五郎の義経。帝劇は、七世松本幸四郎の弁慶、六世尾上梅幸の富樫、七世沢村宗十郎の義経であった。
『歌舞伎座』には、「結局劇評を綜合しますと、弁慶は幸四郎に、富樫は左団次に、義経は歌右衛門にと軍配が上がったやうであります」とあり、『帝劇の五十年』では、「弁慶のかぎりは幸四郎に誰もが軍配をあげた。」とある。
しかし、豊隆の印象は全く違うものだった。
「事実、三座の弁慶に対する私の批評の如きは、随分世間の批評家達の見る処と掛離れたものとなつている。」と豊隆は前置きし、羽左衛門の弁慶(歌舞伎座)と吉右衛門の富樫(市村座)を高く評価する。
「幸四郎の弁慶は、あの白痴らしい気の抜けた処のあるのが第一の欠点である。」「殊に羽左衛門は幸四郎に比べて、舞台の空気を支配し得る能力を余計に備えている。」「吉右衛門の富樫は、感激に富んだ、意気のためには凡てを放擲する気組を持つた富樫である。五分も隙かさぬ鋭利な処を、濃やかな、暖かな、大きななさけを包んでゐる富樫である。」と市村座の作品を評価する。

―所謂おのぼりさんを誘き寄せる策略ででもあろう。四月興行の各座は大抵在来の脚本ばかりを選んで舞台に上ぼらせてゐる。それが却つて見物としての私にとつてかなり愉快な事であつた。殊に『勧進帳』のやうな面白い芝居を、歌舞伎、帝劇、市村などの役者が競争の形で、取分けそれに全力を傾けて演じて見せてくれたといふ事は、所謂「新作物」の舌触りの粗い、肥料臭い田舎料理に畏縮してゐた私にとつて、非常な誘惑力を備へた滋味の献立てであつた。

漱石先生の批評で、「頭から『中村吉右衛門論』全体を否定されてしまつた気がした」豊隆だったが、その3年後に書いたこの「『勧進帳』の比較」は、勧進帳の作品解説としても興味深い。
新作物を「肥料臭い田舎料理」と譬える豊隆だが、彼はたぶん自腹を切って月に何本もの芝居を観劇していたのだろう。そんな者は昨今トンと見掛けないが、そのような見巧者でなければ書けない、辛辣だが的確な批評である。

2005年11月24日

「閲覧用書棚の本」其の十五。『中村吉右衛門』(壱)

 ―文壇で会つて見たいと思ふ人は一人も居らぬ。役者の中では会つて見たいと思ふ人がたつた一人ある。会つて見たら、色々の事情から多くの場合失望に終るかも知れぬ。それにも拘らず、芸の力を通して人を牽き付けて止まぬ者は、この唯一人である。この唯一人とは、言ふ迄もない、中村吉右衛門である。

明治44(1911)年8月号の『新小説』に掲載された、小宮豊隆の『中村吉右衛門論』の書出しである。25歳の初世吉右衛門を、27歳の豊隆が論じたものだ。今回は、この『中村吉右衛門論』ほか、豊隆が吉右衛門についてものしたエッセイや、二人の対談が載った、昭和37(1962)年、岩波書店刊の『中村吉右衛門』を取り上げる。

―「人」として教育せられ、又「人」として生活する前に、「型」に育てられ、「型」に活きた今の多くの役者は、「型」を操るには自在の妙を得ても、「型」に相応しき「心」を盛る事が出来なかつた。役者とても人である。人と生れた以上、或る程度に或る種類の閲歴を積んでゐる事に変りはないが、ただ、その閲歴の種類と程度とが多くの場合限られたる範囲を薄く浅く触れてゐるに過ぎなかつた。

―自己の扮すべき役役を自己の閲歴を提げて独自の解釈を試みようとした最初の役者は、恐らく九代目団十郎であらう。(中略)自己天賦の箇性と閲歴とを残り無く傾け尽して、古き「型」に新しき生命を盛つた吉右衛門の努力は、旧型に泥むを棄てて、我から古をなさんとする意気を示すものである。

―我等に直接なる生活経験と全然遠ざかり行かんとする歌舞伎芝居に最も近代的の価値を与へる為には、あらゆる歌舞伎役者は、吉右衛門の踏み行く(また団十郎の踏んだと推せらるる)道を踏まねばならぬ。吉右衛門の踏む道が大なる意味に於て完成する時は、歌舞伎芝居が真の意義に於ける芸術として完成する時である。この道を外にして歌舞伎芝居の進みやうはない。又かくの如くにしてのみ歌舞伎芝居は、形は古くとも、いつ迄も味新しき内容を人に与へ得るものである。

―吉右衛門の芸術を貫く二大特徴は、真摯と熱情とである。換言すれば、熱あり力ありて、ただ一筋に深く突き進まんとする、徹底したる態度の発現といふ事である。台詞廻しに見る劇しい熱著といふのも、この徹底したる態度の変形に外ならない。既に真面目である。駄洒落の分子と遊戯の分子とを欠くのは当然である。既に熱烈である。生温き好悪と生温き愛情とは、その堪え得る処ではない。

―日常生活に於ける吉右衛門は、極めて口数少き人ださうである。更に又、少しも自己に就いて語らぬ人だそうである。劇に関する月刊雑誌、或は新聞記事に見ても、多くの役者は愚にもつかぬ苦心を喋喋広告してゐるに反し、吉右衛門は未だ嘗て自己の苦心を語つて居らぬ。みだりに自己を吹聴して反応を他に求むる者は、自ら信ずる事薄き証拠である。自己を他より得来らんとする、幼稚にして且つ浅ましき心を現はすものである。

豊隆が帝大の学生時分から師事した作家の夏目漱石は、明治44年の夏の盛り、氷の塊を金盥に立てて背に置き、汗を拭きながら吉右衛門論を執筆中の豊隆に手紙を送り、「吉エモンとか申すもの暑さのみぎり故成るべく中らぬ様あつさり願候」と書き添えたという。(「私の『中村吉右衛門論』のこと」)
結果は漱石にとっては予見した通りのものになった。
「書中だからあつさり願い度と云つたら君は畏まりましたと云ふに拘はらず君はあんな暑苦しいものを書いた。暑苦しい思をする以上は其代りに何か頂だかなくつちや割に合はない。君は何を与へたといふ積だろう」(同上)

2005年11月22日

「閲覧用書棚の本」其の十四。『役者論語』(六)

今回は、「賢外集」「佐渡嶋日記」から採録する。

一 坂田藤十郎曰く、歌舞妓役者は何役をつとめ候とも、正眞をうつす心がけより外他なし。しかれども乞食の役めをつとめ候はば、顔のつくり着物等にいたる迄、大概に致し、正眞のごとくにならざるやうにすべし。此の一役ばかりは常の心得と違ふなり。其ゆへいかんとならば、歌舞妓芝居はなぐさみに見物するものなれば、随分物毎花美にありたし。乞食の正眞は、形までよろしからざるものなれば、目にふれてもおもしろからず、慰にはならぬものなり。よつてかくは心得べしと常々申されし。

一 坂田藤十郎曰く、歌舞妓やくしやといへるものは、人のたいこをもつ氣しやうにては、上手になりがたし。そのやうに心降ると、後は役者同士の出合も、はなはだ疎遠になる物なりと、若き者どもに毎度申されし。

以上は「賢外集」の二條である。
坂田藤十郎がいかなる役者であったか、その一端をご紹介した。
今月末からの京都・南座、新春の東京・歌舞伎座は、鴈治郎改め坂田藤十郎襲名興行である。立派な平成の藤十郎になって欲しい。そして、形ばかりの歌舞伎タレント紛いが目立ち、目利きがいないマスコミや観客が騒がしい昨今の歌舞伎が、滋味深い古典芸能として、今の歌舞伎に失望して去ってしまった見巧者の観客や、ミーハーではない新しい観客が歌舞伎を観るように務めて欲しい。人気だけで芸も品も無い世襲俳優全盛の昨今、これからの観客に、初代藤十郎の偉大さをも知らしめる活躍を望みたい。

「閲覧用書棚の本」の『役者論語』、〆は「佐渡嶋日記」の十六條からひとつ、「日記」内の「しょさの秘伝」という舞踊の心得からひとつを採録する。

一 ひととせ備中國宮内といへる所の芝居へ罷下り、ふと當所にて死去せし古人金子六右衛門が古墳に参らんとこころざし、少シのよすがを求め、やうやう方角を知て、叢の中に分入、ちいさき石塔あり。花をさし水を手向、それよりほとりにて、人をやとい塚の前の薄など刈りとらせ、ほそき板をひろひ得て、矢立の筆にて金子六右衛門墓と書つけ、さしおきたり。天地は萬物の逆旅といへど、取わき役者は、一所不住にて、何國にて終をとるやらん、空しき身の上にてぞ有ける。

一 ふりは目にてつかふと申て、ふりは人間の體のごとし。目は魂のごとし。たましいなき時は、何の用にも立ず。ふりに眼のはづれるを死ぶりといひ、所作の氣に乗て、ふりと眼といつちにするを、活たる振とは申なり。それ故ふりは目にてつかふと心得べき事第一也。はてしなき故筆をとめぬ。

2005年11月18日

「閲覧用書棚の本」其の十四。『役者論語』(五)

今回は民屋四郎五郎著の「續耳塵集」から、いくつか採録する。

一 元祖沢村長十郎、狂言に、長持のうちに忍びの者ゐるをしつて、鑓にてつく仕内ありて、長十郎袴のももだちとり、思入してつかつかと行き、なんのくもなく長持をつきしに、坂田藤十郎其時いふやうは、さてさて長持のつきやう心得がたし。ちとちと工夫せられよといひければ、長十郎其夜工夫して、翌日袴のもも立ちを取、長持の傍へつかつかと行、又跡へ戻り袴もおろし、そろそろとさし足して長持の傍へより、聞耳をたて、内に忍びゐる様子を考へて、一ト鑓につきければ、藤十郎手を打て、さてさて驚き入たり。後々は其一人たるべしと、ほめられたるとかや。はたして三ケ津に名人の譽れ高し。

一 金子一高曰く、狂言末になれば、役者ざれ笑ふ。我は末に成ても大事によく勤む。その故は東國西國數百里あなたの人、今日の見物の内に有。其遠方の稀人は、又と見る事なし。名ある役者のざれて見せるは、残念の事也。藝者のたしなむべき義と、同座の人におしへけり。

一 櫻山庄左衛門はせりふ付に便有ゆへ、古歌をよく覺しとて、此人三千餘首古歌をそらにて覺たり。それゆへ庄左衛門はせりふ付上手也と、役者よく用ひたり。

一 片岡仁左衛門曰く、俳諧を仕習ふべし。神祇・釋教・戀、何にても役にしたがひ心も詞も文盲ならず、藝のたよりとなるは、はいかい也とすすめしと也。

一 ある老翁曰く、役者に五徳あり。貴き御方の前にもゆるされ出、諸人に賞せられ、自然と古語を覺へ、又勤めて脛脈をめぐらし、嗜て年若く見ゆ。

昨年6月の当HPのリニューアルで新規に作った『推奨の本』のページでは、度々、岸田國士、岩田豊雄、加藤道夫、千田是也、浅利慶太など演劇の先達の本から、特に演劇人にとっての教養のあり方について言及されているところを採録させてもらった。是非、まとめてお読み戴きたい。
芳沢あやめ、坂田藤十郎など元禄期の名優たちばかりか、下って明治期の九代目團十郎など傑出した俳優たちは、観察者であり、そして教育者でもあった。そして彼等は、それぞれがその時代の一級の教養人であった。
60年代のアンダーグラウンド演劇が勃興してのち、教養のある演劇人は絶滅した。傑出したと呼ぶべき俳優もおらず、規範とすべき作品も無く、規矩正しい演劇人が消えた今、これからの演劇を、次代の演劇人を誰が創り育てるのだろうか。
今年の春から、新国立劇場に演劇研修所が設けられた。所長、副所長を務める演出家たちは、商業演劇、芸能プロなどの芸能人・タレント出演の舞台演出で凌ぎをしている。そんな者たちが中心になって運営している研修所の研修生は15人、今年度予算は6千数百万円である。研修生一人あたりでは4百万円を超える額になるが、全額が国費である。「演劇」や「芝居」という字すら満足に書けない者が多数いるといわれる研修生たちに、芸能界擦れした教養人でも教育者でもない彼等は、一体何を教えているのだろうか。

2005年11月15日

「閲覧用書棚の本」其の十四。『役者論語』(四)

今回は元禄時代の大名優・坂田藤十郎などの聞書として知られる金子吉左衛門著「耳塵集」である。

一 或藝者、藤十郎に問て曰、我も人も、初日にはせりふなま覚なるゆへか、うろたゆる也。こなたは十日廿日も、仕なれたる狂言なさるるやうなり。いかなる御心入ありてや承りたし。答て曰く、我も初日は同、うろたゆる也。しかれども、よそめに仕なれたる狂言をするやうに見ゆるは、けいこの時、せりふをよく覚え、初日には、ねからわすれて、舞臺にて相手のせりふを聞、其時おもひ出してせりふを云なり。其故は、常々人と寄合、或は喧嘩口論するに、かねてせりふにたくみなし。相手のいふ詞を聞、此方初て返答心にうかむ。狂言は常を手本とおもふ故、けいこにはよく覚え、初日には忘れて出るとなり。

昨04年6月の当方のHPのリニューアルで、毎月の『推奨の本』というページを始めたが、今年05年3月のそれに、歿後に十代目市川團十郎を追贈された市川三升が書いた 『九代目市川團十郎』(1950年 推古書院刊)を取り上げた。

「父は常に門人等に教えて曰ふ。
台詞は覚えたら一度忘れてしまふことだ。そして又新しく覚える。すると今度はほんたうの自分の腹から台詞が出て来るし個性と言ふものが出て来る。舞台に出てもし台詞がつかえたりすると、ややもすると自分が丸出しになり味もなにも無くなって醜態を演ずることになる。そこを一旦忘れて更に覚え直すことになれば、自然台詞の意味もよくわかり、気分もはっきりするから、徒らに台詞に捉はれるといふことが無くなる。忘れたらその台詞に似た言葉でふさげ。
台詞はただうろ覚えに覚えただけではいけない。腹に台詞を畳み込んで置けば、同じ意味の言葉で責をふさげるから、頓挫を来すことは無い。…」(「時代と世話と」より)

九代目は、この役者論語の耳塵集を若い頃から読んでいたことだろう。このことを舞台で実践し、また実感したことだろう。
「覚えて忘れろ」は、明治の名人のひとり、七世市川團蔵の言葉だったか。
『歌舞伎十八番集』の脚注に郡司正勝氏が書いているが、初代中村吉右衛門はその母から、「せりふをおぼえたら、一度忘れてしまえ、そうでないと、いかにも機械の様になって、本当の味が出ない。舞台にニジミが出ないよ」と教えられたという。ちなみに、この母・嘉女は、市村座の座附茶屋『萬屋』の娘で、上方役者の三代目中村歌六に嫁したが、長子の吉右衛門には、父の真似をしてはいけない、九代目の真似をしなくてはいけないと教え込んだほどの団十郎贔屓で、そんなこともあってか夫婦喧嘩が絶えなかったという。
付け加えれば、この吉右衛門と三代目中村時蔵は正妻・嘉女の子であるが、十七代目中村勘三郎(当代の父)は、還暦を過ぎた歌六とお妾との間に出来た子である。先だっての十八代目襲名披露興行に、親族である二代目吉右衛門や、五代目歌六ほかの一門の主だった俳優が出演していないという異常な事態を、新聞記者や歌舞伎評論家は書いたのだろうか。不勉強で知らなかった者もいるだろうし、判っていながら事情があってか書かなかった者もいるのだろう。
ともに先代になるあの兄弟間にあったであろう諍いが、子や孫の代にも影を落としているのだろう、か。

2005年11月12日

「閲覧用書棚の本」其の十四。『役者論語』(参)

一 女形は楽屋にても、女形といふ心を持べし。辧当なども人の見ぬかたへむきて用意すべし。色事師の立役とならびて、むさむさと物をくひ、さてやがてぶたいに出て、色事をする時、その立役しんじつから思ひつく心おこらぬゆへ、たがひに不出來なるべし。
一 所作事は狂言の花なり。地は狂言の實なり。所作事のめづらしからん事をのみ思ふて、地を精ださぬは、花ばかり見て實をむすばぬにひとしかるべし。(中略)花のさくは實をむすぶ為なれば、地をたしかにして花をあしらへと、若き女形へ度々異見せられし。

元禄時代の名女方であった芳沢あやめの芸談「あやめ艸」全二十九條の内のよく知られた二條である。

十歳の頃、道行ものの清元『お染久松』の久松を渋谷の今は無き東横ホールで踊ったことがある。稽古ではお相手の主役・お染さまの拙さに泣かされたが、その外の稽古場まで私の着物を入れた風呂敷を持って付いて来て呉れた内弟子のお姉さんから、その様子を耳にした師匠に諭された。
「下手を相手にしたときには、その下手を上手に見せるように心掛けなさい」。
私も充分に下手の部類だと思っていたが、お染さまよりは上手である事を認められたことがうれしく、稽古よりは出来の良い本番になった覚えがある。師匠のあの時の言葉が、「あやめ艸」にあることは、乙葉先生の講義を受けた時に知る訳だが、彼女が郡司正勝先生と勉強会を続けていた事を知ったのもその頃だった。この師匠には、「浄瑠璃をしっかり読みなさい」「良い舞台を観なさい」などと良く言われた。最近何を読んでいるかと訊かれ、辻邦生と応えたら、「いいセンスしているわ」と、珍しく褒められたりしたのも、その頃だった。
かつて舞踊家は、一級の教養人でもあった。
この師匠のことは、昨年の12月19日の『提言と諌言』<水道橋能楽堂の『劇場の記憶』>に書いたので、ご笑読戴きたい。

一 人の金をかへさず、はらひもせず、家をかい、けつこうなる道具を求め、ゆるゆると暮す人と、相手の損ねる事をかまはず、我ひとり當りさへすればよいと、思ふ役者が同じことなり。金をかしたる人何ほどか腹をたつべし。相手になる役者みじんに成ことなれば、つゐには身上のさまたげともなるなりと申されし。 

享保14(1729)年、57歳で没した吉沢あやめの言葉は、三百年後の今も新しい。
かつて俳優は、一級の観察者でもあった。

2005年11月10日

「閲覧用書棚の本」其の十四。『役者論語』(弐)

今回は富永平兵衛著の「藝鑑」を取り上げる。
この書を初めて読んだのはいつの頃か長い間思い出せずにいたが、近松研究の泰山北斗、乙葉弘教授の浄瑠璃講読の講義の教本を昨晩たまたま見つけ、その中に、「芸鑑を調べること」との走り書きがあり、それが18歳の頃であると判った。
この『藝鑑』の、これから採録する條は、以来三十有餘年の間に幾度読んだことだろう。
映画やテレビの番組で見たとは思えないが、この一條に描かれた世界が、私の脳裏には映像となって大事に納められている。
幼少の折に劇場主になろうとして四十数年、浄瑠璃と演劇製作を学んで三十有餘年、いまだに劇場を持てず、傑作を製作出来ないでいるが、劇場主、あるいは演劇製作者としての模範は、ここに描かれる座元・村山又兵衛である。

一 明歴二年丙申。其比は京は女形のさげ髪は法度にてありしに、橋本金作といふ女形、さげ髪にて舞台へ出、其上桟敷にて客と口論し、脇ざしをぬきたる科によつて、京都かぶき残らず停止仰付けられたり。これによつて京都座元村山又兵衛といふもの、芝居御赦免の願ひに御屋敷へ出る事十餘年。しかれども御とり上なかりし故、又
兵衛宿所へもかへらず、御屋敷の表に起臥して毎日願ひに出るに、雨露に打れし故、着物はかまも破れ損じ、やせつかれて、人のかたちもなかりしなり。其比の子供(色子)、役者ども、多くは商人、職人となり、又は他國へ小間物など商ひにゆくものあまた有。わづかに残りし子供、役者銘々に出銭して、食物を御座敷の表へはこび又兵
衛をはごくみしが、芝居御停止十三年、寛文八年戊申にかぶき芝居御赦免なされ、三月朔日より再興の初日出せり。狂言はけいせい事也。此日は不就日なりとて留めけれども、吉事をなすに惡日なしと、おして初日を出しぬ。十三年が間の御停止ゆりたる事なれば、見物群集の賑ひ言語に述がたし。
村山氏の大功、後世の役者尊むべき事なり。

舞台芸術の世界では、バブル経済の破綻した1990年代から、遅れてきた文化バブルとでも言うべきか、文化庁の文化芸術、とりわけ舞台芸術への支援・助成制度が量的に拡大し、96年からは重点的支援策である現在のアーツプランが始まった。
関西歌劇団の母体である財団法人関西芸術文化協会による助成金不正受給事件(10月22日11月4日の『提言と諌言』をお読み戴きたい。)は、見事なほどに氷山の一角であろう。今までにこの制度で支援を受けたものは数百の団体・ホール・劇場に及ぶだろうが、不正をしていないと証拠を出して立証出来るところはほとんど無いだろう。この制度に先行して実施されている、現在の独立行政法人日本芸術文化振興会による芸術文化振興助成対象活動等の助成事業を含めれば、この十数年でも、延べ数千の団体が助成金を受けている。このような助成のあり方を、文辞正しきは『ばら撒き』と言う。この『ばら撒き』、新国立劇場の得意の「チケットばら撒き」程度の事であれば、私ひとりの批判で事が済む。
事は国費(税金)に係わることである。「補助金等に係る予算の執行の適正化に関する法律」によれば、補助金の不正受給は5年以下の懲役もしくは100万円以下の罰金を科せられる犯罪行為である。
年間50億円を超える国費が運営委託費の名目で投入される新国立劇場の遠山敦子理事長、長谷川善一常務理事は、ともに文部(科学)省の出身、所謂天下り官僚である。遠山氏は、このアーツプランを当時文化庁長官として推進、長谷川氏は、この芸術文化振興助成活動を前任の日本芸術文化振興会理事として管掌していた。今後、文化庁が訴訟準備に入り、検察や警察が動くような事になれば、身内の文部科学省の後輩たちばかりか、あまたの芸術文化団体に累を及ぼすことになるだろう。その中には、嫌疑の係る人物も炙り出されるかもしれない。文化行政ばかりか舞台芸術の世界にとっても厳しい事態が来るだろう。
アーツプラン始め助成制度の存廃を議論・検討すべき時期が来たのかもしれない。その際に、最初に取り上げられるのは、新国立劇場の50億円という巨額な国費投入の是非であろう。そして、もし仮にそんな動きが具体化したとしたら、理事長始め百数十人の役職員は、人事を尽して支援を訴え賛同を求めて行動するのだろうか。財務省前や国会議事堂の請願受付で、端座して訴えをするほどの心構えが出来ているのだろうか。
村山又兵衛のように、気概と見識と行動力を持たなければ劇場経営者は勤まらないと思うのだが、民であれ官であれ補助金に慣れ切って自立心を持たない今日の舞台芸術の世界では、望むだけ野暮な話なのだろうか。

2005年11月08日

「閲覧用書棚の本」其の十四。『役者論語』(壱)

今回は、岩波書店刊行の日本古典文学大系『歌舞伎十八番集』に所収の『役者論語』を取り上げる。
安永五(1776)年九月に、京都の役者評判記の版元である八文字屋が出版した、この『役者論語』の冒頭には

此書や、むかしより上手名人と稱ぜし役者のはなしどもを古人書留めし巻々なり

として、「舞臺百ケ條」「藝鑑」「あやめ艸」「耳塵集」「續耳塵集」「賢外集」「佐渡嶋日記」をあげ、

右七部の書は、優家の亀鑑なれども梓にちりばめ、付録に當時三ケ津役者藝品定を加入する而已

と記す。
「優家の亀鑑なれども梓にちりばめ」は言うまでもなく、<俳優の家の手本・秘伝ではあるが出版する>というほどの意味である。三ケ津は、京・大阪・江戸のことである。

此書をとくと御覧ん被下候へは役者善悪鏡にかけたることくあきらかにわかり申候。右も無ちかい近日より本出し申候故おしらせ申上ますかほみせ二の替芸品定并ニやくしや大全やくしや綱目やくしや全書かふき事始なとも此書に御引くらへ御覧ん被下べく候上手下手の分ち相見へ申候

岩波版の校注・解説者の郡司正勝氏は、この出版広告に着目し、「この書に載せた古人役者の金言が、当時の劇評の基準となるべきもの」との、版元の出版意図があったことを指摘し、「劇評の基準としての『役者論語』をもって、現代の役者を批判した実例を挙げて示そうとしたのではないか」と述べている。

今回は、「舞臺百ケ條」から取り上げる。

一 精を出すといふは、ねても覚ても、仕内を工夫し、稽古にあくまで精を出して、さて舞臺へ出ては、やすらかにすべし。稽古に力一ツぱい精出したるは、やすらかにしても、少しは間はぬけぬものなり。稽古工夫には心をつくさず、舞臺にてばかり精を出だせば、きたなく、いやしく成て、見ざめのする事うたがひなし。さて惣稽古といふものは、初日より二日も前にすべき事也。初日の前日は、とくと休みて、きのふの惣稽古の事を、ほつほつ心におもひめぐらし、気をやすめて、初日を始れば、初日よりおち付て、間のあく事なし。前日にアタフタと稽古し、夜をかけて物さはがしく、翌日を初日とすれば、わるひ事もかなりがけにせねばならず。此ケ條大切の事なり。

メディアでは全く取り上げる事がないが、この5月の新国立劇場での井上ひさし書き下ろし戯曲公演は、初日の三日前に本が出来上がるという、本来であれば公演中止をすべき興行であった(5月25日の『提言と諌言』<『危険な綱渡り』を上演中の新国立劇場>)。つい先月の帝劇公演も、本が初日の前日に仕上がるという、ぶざまなものだった。こんな仕上がりでは、さぞかし製作側も、俳優も、スタッフも、アタフタとしたことだろう。新国立の方の演出者は芸術監督だそうだが、初日直前に劇場内の他の公演の稽古場に現れ、「うちの稽古場は覗くな。皆気が触れているから」と、本人も気が昂ぶっていたのだろうか、真顔でのたまったそうだ。
帝劇公演の方の演出者も、この新国立劇場の芸術監督氏だったそうで、その偶然に驚かされたが、さてどんな心境だったのだろう。
最近は生き馬の目を抜くほどの、泣く子も黙る芸能プロとも手を組む早稲田大学の出身で、この郡司正勝教授の教え子だというこの芸術監督氏、郡司先生から直々に演劇者にとっての亀鑑、バイブルとも言える『役者論語』を学ばなかった、のだろうか。

2005年09月30日

「閲覧用書棚の本」其の十三。『加藤道夫全集』(参)

加藤道夫の古典芸能に対しての造詣・関心がどのようなものかに興味があり、今回はその目的もあってこの全集を再読した。そこから選んだ三つの文章を紹介する。
最初は、「覚書断片」と記された未発表ノートにある、「『なよたけ』に就いて。」である。

「あの芝居(『なよたけ』)の後半を舞台にのせると云ふことは、厳密な意味で、作者の経験した内的ヴィジオンの世界に迄観客を惹き入れて行かなければ、全く無駄なことですから。観客の立場として、僕は世阿彌の幾つかの芝居で、それを経験致しました。『能』のコオラスは、恐らく希臘劇のそれよりも、遥かに素晴しいものだと思ひます。(但し、數多い能の曲目の中で秀れた作品はほんとに數へる程しかない様です。)
『能』の演劇様式は、それが固定したコンヴァンシオンになり了へた時、作者の自由を拘束する<公式>になり了へた時、……明らかに堕落致しました。Correspondenceのないエコオ……これ程、退屈で、つまらぬものはまたとありません。
(僕はつまらぬ『能』に接して、幾たびとなく坐を立つたことがありました。)」

次は、昭和23年9月号の『日本演劇』に載った「文五郎讃」である。

「「色模様文五郎好み」。吉田文五郎師が登場する。筆者が師の名技に接するのは六年振りだ。彼は齢既に八十を数える老境である。高僧の如き風貌、翁はおごることも、たかぶることも知らない。今、関寺の小町が彼の手の中で生きている。私は涙がこみ上げた。このひとは永い一生を人形と共に生きて来た。唯ひたすらに人形を生か
すと言う無形にして高貴なるわざに一生を捧げ続けて来た。……徒らに衒気と傲慢と偏見に真実を見失っている人々よ! このひとりの翁の前に慙愧するがいい!<芸術>とは斯う言うものなのだ。ひたすらの刻苦と精進。彼の精神は今輝かしくも「わざ」を克服している。之は決して錯覚ではない。事実、師の人形は、他の何れの人形達よりも鮮かに、見事に私の眼の前に生きているのだから。……
 民主主義の時代だろうと、共産主義の時代だろうと、此の厳しい刻苦と精進の「芸道」を否定してしまえば、歌舞伎も能も人形浄瑠璃も死滅して行く他はない。此等の芸術は、最早、「時代」とは何の関係もないものなのだから。……
 語り手、我が浄瑠璃界の至宝、豊竹山城少掾の見事な口演の節奏に乗った文五郎師の政岡(御殿の場)は第一回の演目中、圧巻であった。」

最後は、『三田文学』の昭和24年8月号に載せた「怒りと夢と幻」である。

「怒りが僕をあの様な世界に誘い込んだのだと思っている。やがて自分にも襲いかかるであろう運命の宣告を、半ば諦めた様に、僕は待っていた。それまでの日々を、僕は能楽堂や図書館の中で過した。それ以外に僕は抑え難い怒りをまぎらわす方法を知らなかったから。怒りが激しかったればこそ、僕はあの「能」の夢と幻の世界を理解することが出来たのだと思っている。特に死んだ万三郎師の舞は忘れられない。消えざる幻の様に、今でも鮮かに僕の脳裡に蘇って来る。名人は「恋重荷」を舞っていた。あのひとも定めし激しい怒りの中に夢と幻を追っていたことであろう。……
  重荷なりともおふまでの、重荷なりともおふまでの、恋の持夫になろうよ。
世阿弥の実現した幻の世界の底には言い難い激しい、深い怒りがひそんでいる。人の世の現実に対する激しい怒りこそ、深い幻の世界を生むものだ。僕をあの様に強く惹きつけたのは他ならぬ世阿弥自身の怒りであった。
(中略)演劇にしてもそうである。劇作家が外的な現実に唯唯として隷属してしまったら、真の夢や幻は生れ出る筈はない。舞台の自由なヴィジオンの羽搏きは喪われて行くであろう。
怒りも、愚衆のそれに似た生々しい言辞にこめられるだけならば、そんなものはむしろ醜いものだ。芸術の在るべき姿とは凡そ縁遠い。そんな凡俗な怒りなどには興味も湧かない。此の現実を見よ、などと言う様な看板は芸術を見せる場所にはない筈である。
(中略)芸術からその様な怒りを取り除いてしまったら、凡そ何と無意味なものか。その様な時、人間の智慧なぞ何と言う無価値なものか。僕は彼等の怒りを知っていればこそ、彼等の夢や幻をも信じているのである。」

己は安全なところに身を置きながら、「非戦の会」などに名を連ねたり、国家権力の庇護を無自覚に受け、行政の取って付けたような、予算ばら撒き型の文化政策に便乗、補助金漬け、麻薬中毒患者同様に思考停止してしまった現代演劇の権威や中堅、若手の劇作家や演出家、製作団体に、戦時下に加藤が抱えたであろう「怒り」、そして「夢」や「幻」は、露ほども理解出来まい。それは万三郎の、あるいは世阿弥の怒りも、同様に芸能人として持て囃される現代の能楽師には理解不能であろう。
昭和28年12月22日に自裁した加藤道夫は、古典芸能が、そして現代演劇が、「外的な現実に隷属してしまった」時代を長らえずに済んだ、と言えば言い過ぎだろうか。

2005年09月27日

「閲覧用書棚の本」其の十三。『加藤道夫全集』(弐)

本著の年譜を参考に、昭和20年の敗戦時までの加藤道夫の軌跡を追う。
彼は大正7年10月17日に福岡・戸畑で生れ、父・武夫の東京帝国大学理学部教授転任により3歳の時に上京、世田谷区上馬、のちに同区若林の旧北原白秋邸の洋館に移り住む。府立五中(現・都立小石川高校)から昭和12年、19歳で慶應義塾大学予科入学。昭和15年、英吉利文学科に進み、仏蘭西演劇研究会を作り、学友・芥川比呂志の演出で、ヴィルドラック『商船テナシティ』(フランス語上演)に出演。翌16年4月、芥川、鳴海四郎、原田義人、鬼頭哲人などと「新演劇研究会」を結成する。尚、この第2巻には、「新演劇研究會當番日誌」という、オリジナルは分厚い表紙の横書きの事務用帳簿2冊に書かれた当時の会の日誌が掲載されている。その中のある日には、
「告知(特に丸ノ内、銀座、田村町、霞ヶ関方面に勤務する諸氏へ) 當分の中晴天の日有志は正午頃より一時頃まで日比谷公園内附近を逍遥せよ。然らば必ずや幾人かの會員に相會ふを得ん。日輪の下樹木艸花に圍まれて互ひの顔に接するの時は、我々に新しき發見をもたらす事必然なり。」
と、鳴海四郎(弘)が書き記していたりで、面白い。この日誌には、新演劇研究会の会員16名が登場する。俳優・演出家の芥川比呂志は昭和56年10月に、東大教養学部教授でドイツ文学専攻の原田義人は昭和35年に、慶應法学部助教授でフランス語を教えていた鬼頭哲人は昭和45年に亡くなった。そして先の翻訳家の鳴海四郎は、昨年10月7日、87歳で亡くなった。加藤の妻であった女優の加藤治子さんはご健在である。
加藤は大学院に進み、陸軍省通訳官に任官。19年にマニラ、ニューギニアへ赴任。「以降終戦まで、全く無為にして記すべきことなし。人間喪失。マラリアと栄養失調にて死に瀕す。」と加藤の自筆年譜にある。赴任前に執筆した戯曲「なよたけ」の生原稿は、岸田國士、川口一郎、岩田豊雄らに回覧されていた。
「そして、「なよたけ」だけが、遂に、残った。それを、文学座で、一度、舞台に、かけたいのは、前からの懸案で、演出も、私が受持とうと思っていた。いよいよ、今年の秋に、それを実現しようとなって、私は自分で演出の都合がつかぬと知った時、躊躇なく、「芥川君、君頼む」と、会議の席でいった。芥川君に最初の演出をさせてみたい気は、前からあったが、それよりも、私はこれを一種の弔合戦と見、故人のために親友の出馬を望んだのである。」と、岩田豊雄は、昭和30年の文学座「なよたけ」公演のパンフレットに書いている。
さて、今回は早川書房の現代演劇選書の第7巻として、加藤の死の直前、昭和28年11月に刊行された、『ジャン・ジロゥドゥの世界』の一部分を紹介する。

「事実、ジロゥドゥの劇には腐肉の臭いは全くしない。彼は初めから、演劇の実人生に勝る美点を知っていた。だから、彼は先ず、一切の日常的な自然主義的要素を自分の劇から閉め出して、演劇のヴィジオンを本質的な美意識圏の中に解放したのである。その為、彼の劇に登場する人物はギリシャの勇士であり、ゲルマンの騎士であ
り、更に水妖や、美しい、極めて人間的な堅信のニンフ達であった。そう言う大胆な人物や場所の設定を通じて、ジロゥドゥは本質的に演劇のヴィジオンを変革したのである。ジロゥドゥの詩韻の絃は既にしてこのような非凡な「舞台幻想」の世界に緊密に張られるのである。従って、開幕の第一語から、言葉は全的な音楽的責任を負わさ
れることは当然である。彼の劇的文体の見事な《ひびかい》は、詩韻の絃がその深い《拡ごり》にこだまする音楽にも似ている。
更に彼は、非凡な進行法、知的な展開法を駆使して、観客を最も演劇的な選抜きの瞬間だけに集中させた。実際、『オンディ?ヌ』の侍従の言葉に俟つまでもなく、劇がその現実時間にだらだらと追従して行ったのでは、それこそ退屈極まりないものになろう。時間の一致を無視するジロゥドゥの劇は、従って、稠密な演劇的モメントの連続に依る極めて演劇的な絶対時間をかたちづくる。それ故に、彼の劇は、実に充実した演劇的活気に充ちている。開幕と同時に、人々は純粋な演劇的体験の中に放心し、現実時間とは全く別な時間の進展を意識するのである。
空間の場合も同様で、彼は自由奔放に場所の一致を無視し、現実界に次元の異るinvisibleな世界、natureの世界、幻想の世界、夢の世界をオーヴァラップして行き、その演劇的処理は誠に見事と言う他ない。「時間」と「空間」を自由に飛躍する新しい知的な展開法に依って、ジロゥドゥは、写実主義に閉されていた近代劇の世界に、本質的な演劇の魅力の鉱脈を探りあてたのであった。
更にジロゥドゥの戯曲を通読して我々の発見するもうひとつの貴重な宝は、彼の人生に対する深い理解であり、人間の宿命に対する寛く大きな愛情であろう。ジロゥドゥ程、形而下的人間臭を持たず、而も極めて高い人間的な感動を与える作家を僕は他には知らない。彼のヒューマニズムこそは、その意味では、最も高度に高められた人類への愛の表白でなくて何であろう。」

2005年09月25日

「閲覧用書棚の本」其の十三。『加藤道夫全集』(壱)

『加藤道夫全集』全2巻。青土社、1983年刊。第1巻は「なよたけ」「思い出を売る男」「襤褸と宝石」などの戯曲や放送劇、舞踊劇の脚本などが二段組み700ページに、第2巻は評論・エッセイ・書簡などが二段組み630ページに編まれている。発売当時の定価は共に7,800円だったが、現在は日本文学などの専門古書店では2冊揃いで3万円台の値をつけている。今回はその第2巻から、岸田國士著の『新しき演劇のために』(創元文庫刊)の解説として書かれた文章を紹介する。
青土社の予約申込書には、監修=中村真一郎・芥川比呂志、編集=浅利慶太・諏訪正と書かれている。加藤道夫は昭和28年12月に亡くなっている。芥川比呂志とは残念ながら面識がない。文学座のアトリエを初めて覗いたのは大学生の頃で、既に十年も前に芥川さん達は劇団雲に移っていた。実際の舞台を観ることもなかった。たまたま新宿の紀伊國屋や、来年の閉場が決まった千石の三百人劇場、三宅坂の国立劇場などの客席やロビーで見掛けたことがあるだけだが、今でも芥川さんの鋭い「目」を思い出す。中村真一郎氏は劇通としても著名だった。日生劇場での四季の公演の初日によくお見えになった。二十年も前のことだが、劇場雑誌を6号ほど作ったことがあるが、中村さんにも巻頭エッセイを無心したことがある。原稿料の振りこみ先が何ヶ所かに分かれていて、中には奥方に内緒の口座でも作っておられたのか、『こっちに入れてね』と念を押されたことがある。幸いにして浅利慶太氏、諏訪正氏には、今でも年に何度もその謦咳に接して教えを受けている。諏訪さんにはつい先日、浅利さんには先月、GOLDONIにご来駕を賜った。

「岸田氏が演劇研究の為、フランスに渡った頃は、既にフランスの演劇が更に新たな変革を行いつつあった時期でした。それが恰度、フランス演劇の革新運動に生涯を賭けた故ジャック・コポオがヴィユ・コロンビエ座に拠って、新しい劇作家・俳優達と共に新しい演劇美を追求し、世の注目を惹いていた時期であります。岸田氏はすすんでコポオに師事し、自ら真新しい二十世紀演劇の息吹きをはっきりと感じとった最初の日本人であったわけです。
 コポオは何よりも先ず演劇に本質的な美を求めた人であります。極端な写実主義や自然主義の演劇には本質的な演劇美が欠けていたし、国立劇場の演劇なども唯仰々しいデクラマシオンと型通りの科を無意味に伝承しているだけでした。要するに、演劇は本来の芸術的生命を喪って、低俗な商業主義に隷属し、文字通り堕落した状態にあったわけです。この堕落の状態から演劇を救済しようとして立上がったのが、ジャック・コポオでした。《演劇をして再び演劇たらしめる》必要を痛感したコポオは《此の侮辱に打ち勝ち、演劇本来の光輝と誇りを恢復する為に「完全に新しい劇場」を作らねばならなかった》のであります。
(中略)コポオは先ず俳優達に本質的な芸術意識を鼓吹し、言葉に対する厳格な知的配慮を要求し、戯曲の台辞に宿る芸術的生命を引き出すこと、つまり、演劇に於ける言葉の使命を最も重要視して、新しい演劇は飽くまでも演技は中心にならなければいけない、更に演技の基準は厳正に言葉の内的生命を表現することに置かれねばならぬ、と主張した人であります。之は、言い換えれば、それまでの芸人的演技を否定し、俳優も立派な芸術家としてはっきりと内的意識を持たねばならぬ、と言うことであります。
(中略)斯の様な演劇を直接にコポオそのひとから学び取られた岸田氏が、故国である東方の島国に帰って、その国の演劇の寒心すべき水準の低さを眼のあたりに見た時、その慨嘆たるや如何ばかりだったかは、この書を読んでも容易に感得出来る筈です。
(中略)氏は又、劇作家には<戯曲以前のもの>、演技者には<演技以前のもの>を要求して居られます。之は別の言葉で言わして頂けば、芸術家として持つべき芸術意識のことであり、精神の器のことであり、内面のレンズのことであり、詩的感受性のことであり、知性のことであります。新劇の舞台に鋭い現代感覚が閃かない理由はすべてその<以前のもの>の欠如にあります。新しい演劇を志すものは、ひたすらな努力に依って先ず此の<以前のもの>をしかと己れの内側に獲得しなければなりますまい。新しい演劇表現は新しい演劇意識の獲得なくしては考えられぬことであります。
それは文学・音楽・美術等、あらゆる分野の芸術の富を貪欲に己れの内側に摂取する不断の努力に依ってのみ実現し得ることでありましょうが、此の書こそはその様な演劇意識獲得の道に通ずる最初の扉の役目を果すものであることを、最後に筆者は断言して憚りません。」

2005年09月23日

「閲覧用書棚の本」其の十二。『「かもめ」評釈』

池田健太郎著、中央公論社、1978年刊。
池田は昭和4(1929)年、東京生まれ。東京大学仏文科卒業、立教大学講師を経て東京大学の助教授になるが、昭和44(1969)年に退官。在学中から師事した神西清や原卓也とともに『チェーホフ全集』(中央公論社刊)を翻訳・刊行。昭和54(1979)年11月に没している。享年五十。ちなみに、神西清は昭和32年3月に53歳で亡くなっている。自裁だが昭和28年12月に亡くなった加藤道夫は享年三十五。加藤同様に、文学座文芸(演出)部に籍を置いた神西、池田の早すぎる死は、文学座ばかりか演劇界にとって大きな痛手であった、といま思うものは数少ないだろう。
 昨年の10月、ロシア・マールイ劇場が来日して、天王洲のアートスフィアで、ともにユーリー・ソローミン演出の『かもめ』と『三人姉妹』を上演した。朝日新聞、アートスフィア、阿部事務所の三者の共催で、私の観た日は、ほぼ3割程の客席。一、二日は台風の影響もあったのだろうが、それにしても記録的な不入り興行になったようだ。作品は、いまどき珍しい正統なリアリズム演劇のお手本のようなもので、久しぶりにチェーホフ作品を堪能することの出来た稀有な機会になったが、台風等の影響によるチケットの変更やキャンセルなどの観客対応に誠実さがなく、チケットが12,000円、9,000円、5,000円と3種あったが、9,000円、5,000円の席は二階のごく僅かな席だったようで、見せ掛けに安い席を数席だけ用意し、実際には最高価格席だけを販売するという最近にしては珍しいえげつなさで、劇場も製作団体も天下の朝日新聞ともに、ビジネスを理解しているとは思えない営業制作姿勢が、せっかくの公演の高い評価を貶める結果となった。
『岸田國士全集』について書いた18日の『提言と諌言』でも触れたが、この国では未だに現代劇の俳優や演出家は、「玄人面をした素人」でしかない。同様に、自助努力、新たな観客作りを忘れ、国税投入、文化庁などの補助金に頼り、地方の演劇鑑賞会や地方行政立ホールの買い取り公演を繰り返している製作団体、テレビタレントとそれを生で見たいだけの客におもねり、あとはこれも行政の補助金に頼るだけの商業劇場や新国立劇場始め行政立ホールは、薄汚い「玄人面した素人」でしかない。チケットをばら撒くのは、新国立劇場や行政立ホールくらいかと思っていたら、立派な商業劇場である「とうきゅうBunkamura」も、TBSとの共催、キリンビールの特別協賛での舞劇『覇王別姫』のチケット販売が振るわず、客席を埋めるべくの動員(無償の集客活動)努力をしていた。このBunkamuraで覚えたことか、芝居の最中に、舞台の上から、客席にいる知り合いの芸能人などを探すほどの天晴れ野郎も登場してしまう歌舞伎座も、既に本当の玄人の劇場とは言い難い。観客が見巧者という、観客としての玄人でなくなった現在、劇場も俳優も演出家も製作者も、玄人でも素人でもない、半端ものになってしまった。
そんな時代を生きずに済んだだけでも、加藤道夫、神西清、そして池田健太郎は幸いだった、と言えば言い過ぎだろうか。

私の所蔵する『「かもめ」評釈』は、神保町の文学専門の古書店から購入したもの。
福田恆存氏宛の献呈署名本である。


「モスクワ芸術座による『かもめ』初演のさいに、トリゴーリン役を演じたスタニスラフスキイの演技をチェーホフが好まなかったことは先にも触れたが、この場におけるトリゴーリンのせりふ「おれには意志というものがないんだ。一度だってあったためしがないんだ。」をめぐって、チェーホフとスタニスラフスキイとのあいだに解釈の相違があったことが知られる。第二幕ですでに語られたように、流行作家トリゴーリンは祖国を愛し、民衆を愛していた。自分が作家であるならば、民衆の苦しみや将来について語り、科学や人間の権利について書く義務があると感じていた。ところが彼はそれを実行することができなかった。そういう厳しい作家の道に踏み入る意志と忍耐力を欠き、単なる風景描写や小手先の技巧によって、流行作家となっているにすぎない。つまり彼は意志薄弱な男なのであり、逆に言えばその意志薄弱なところに、―人気もあり、才能もあり、しかも弱い男であるというその点に、アルカーヂナが、―のちにはニーナが―女として、強く心を惹かれたとも考えられるわけである。そんなところから、スタニスラフスキイは、見るからに意志薄弱な、弱々しい、いわば優男として、トリゴーリン役を演じたらしい。それが作者であるチェーホフには気に入らなかった。一八九九年二月、―このとき彼は『かもめ』の舞台をまだ見ていない
が、―トリゴーリンが弱々しく活気がなさすぎるという意味の劇評が出た。それを読んだチェーホフは、憤慨して妹マリヤに書いている。「なんという頓馬だ! だってトリゴーリンは人に好かれるんだぜ、人を夢中にさせるんだぜ。ひとことで言えば魅力的な男なんだぜ。それを弱々しい、うすぼけた人物として演じるなんて、よっぽど無能な、気のきかない役者だよ」。チェーホフの不満は、芸術座の舞台を見たのちも収まっていない。同じ年の十二月、彼は芸術座のもうひとりの創立者である旧友ネミローヴィチ=ダンチェンコにあててこう書いている。「トリゴーリンの歩き方や話し方はまるで中風患者みたいだった。彼には『意志というものがない』、で、そのことを演技者は彼なりに理解したわけだが、僕は見ていて吐き気がする思いだった」。
 チェーホフの評語は、毎度のことながら言葉少なであり、委曲を尽したものではない。が、このことは彼の人間理解が深く、また彼が人間を熟知していたことを、―人間が複雑な存在であり、決して一面的な評語をもってその全人格を表現することができないことを彼が知っていたことを、物語っているのであろうか。トリゴーリンは「意志」がないが魅力的であり、またアルカーヂナはケチで俗悪ではあるが、同時に息子を愛しているのである。」

2005年09月21日

「閲覧用書棚の本」其の十一。『岸田國士全集』(参)

この『提言と諌言』で6月から、「閲覧用書棚の本」を書き始めて、というよりもその前からだが、たびたび先人の言葉や業績を持ち出して、それに提言や諌言や批判を織り交ぜるという私の書き方に、「権威付けをして、対象を批評するやり方が巧妙」と、誉めて(批判も含まれているのかもしれないが)下さる方がいくたりかいらっしゃるが、私のような鈍才が現代演劇について考え感じているようなことは、既に明治・大正の時代から、先人たちが論じていたことである。それを、この機会に紹介し、合わせて問題提起をしたい、関心を持って貰いたいと願ってのことだ。
これまでに、二世市川左団次『左團次藝談』(6月20日)、市川寿海『寿の字海老』(6月23日27日)、二世市川翠扇『鏡獅子』(7月7日9日)、山本勝太郎・藤田儀三郎『歌舞伎劇の経済史的考察』(7月13日)、穂積重遠『獨英觀劇日記』(7月26日)、岡本綺堂『岡本綺堂日記』(8月3日11日)、小宮豊隆『藝のこと・藝術のこと』(8月20日23日)、岸井直衛『ひとつの劇界放浪記』(8月26日)、岡本綺堂『明治の演劇』(9月7日)、市川三升『九代目市川團十郎』(9月10日11日13日)、そして今回の岸田國士全集(9月15日18日
まで書いてきた。それぞれが長い文章になっているが、辛抱してご笑読をお願いする。

今回取り上げるものは、「演劇慢話」である。これは、大正15年8月に、『都新聞』に十回続けて連載された、八百字ほどの演劇随想である。これから採録する文章は、「七、芸術的劇場」である。今から80年も前に、それも当時設立された築地小劇場を意識して書かれたものではあるが、今日の新国立劇場の本来のあり方を指し示して
いるように私には思える。新国立劇場について、特に演劇部門のことについては、近々に思うところを述べるつもりだ。したがって今回は、岸田の「劇場論」の紹介に留めておく。

 「芸術的劇場とは、営利の目的を離れて専ら芸術的舞台を創造することを存在理由とする劇場を云ふので、できるだけ多くの観客を吸収して、出来るだけ興行主の懐を肥やさうとする商業劇場に対立すべきものであります。
 芸術的に保たれた舞台が、十分見物を惹き得るといふのは理想で、実際は、低級な、卑俗な趣味が、最も多数者の興味を唆つてゐるわけなのです。
 処が、芸術的といふ言葉は、如何にも厳粛な響きを伝へるわが国の現状から云へば無理もないことですが、徒らに芸術的なる名の下に、ぎこちない、未完成な、時によると投げやりな舞台を公開し、苟くも芸術的演劇の観客が、退屈さうな顔をするのは不都合だと云はぬばかりに、シヤアシヤアとしてゐるのは、慥に芸術を冒涜するもの
であるのみならず、これでは、永久に芸術的演劇は、商業劇場のうちに於てのみ、之を観得るといふ矛盾から脱することは出来ますまい。
 所謂芸術的演劇としてわれわれの鑑賞に堪へ得る歌舞伎劇のあるものは、実際、商業劇場の中に於て、之を観得るのみです。歌舞伎劇は営利の具足ることによつて、次第に非藝術的となりつつある事実を否むことはできません。
 そこで、私は、商業劇場以外に、例へば能楽の如く、歌舞伎劇の芸術的存在を保護するに足る純芸術的劇場の創設は、時代の急務であると思ひます。それと同時に、一般の商業劇場は、歌舞伎劇以外に新しい現代的通俗劇の樹立によつて興行成績の向上を計るべきです。新しい現代的通俗劇とは、民衆の趣味と生活に根ざす、あらゆる様式のスペクタクルです。メロドラマ可なり、ヴォオオドヴィル可なり、ルヴイユウ可なり、フアルス可なり…。
 さうなつて始めて、新劇によつて立つ芸術的劇場の存在が意義あるものとなるのであります。
 今のやうな有様では、どんな劇場で、どんな俳優が演じても、新しい文芸劇でさへあれば、それは芸術的演劇と呼ばれ、劇場の格式、俳優の地位が極めて「好い加減」であります。これは、演劇の進化、芸術的純化の上に甚だ好ましくない結果を齎すことになります。」

2005年09月18日

「閲覧用書棚の本」其の十一。『岸田國士全集』(弐)

今回は、平成元(1989)年12月に第2回配本として刊行された第19巻<評論随筆1>に収録の、「二つの答」を取り上げる。本著の後記によれば、この評論の初出は、大正13(1924)年9月15日発行の大阪演劇連盟機関雑誌『舞台評論』第41号に掲載、後に『我等の劇場』に収録された。
岸田國士の経歴を、平凡社刊演劇百科大事典の加藤新吉氏が書かれたものを参照して、簡単に紹介する。(加藤氏は文学座演出部に所属していたが、今年の3月16日に亡くなった。氏は、文学座の最後の教養人だった。)
岸田國士は明治23(1890)年、東京・四谷に生れ、陸軍幼年学校、士官学校を出て陸軍少尉任官。大正5(1916)年東京帝国大学仏文選科に入学。後にパリ・ソロボンヌ大学やヴィユ・コロンビエ座の演劇学校に学ぶ。大正12(1923)年の帰国、翌年から「古い玩具」「チロルの秋」「命を弄ぶ男ふたり」「紙風船」などを続けて発表。これから紹介するエッセイなどで演劇論を展開。昭和になっては新劇協会、友田恭助・田村秋子の築地座で指導、雑誌『劇作』の作家を育てた。昭和12年には久保田万太郎、岩田豊雄と文学座を創設、戦時中は大政翼賛会文化部長を務めた。戦後は芸術家集団『雲の会』を結成、昭和28年に芸術院会員。文学座の『どん底』の舞台稽古の最中に倒れ、昭和29(1954)年3月4日に亡くなった。大正末から戦後のほぼ三十年、劇作家、小説家、演劇研究家、演劇指導者としての人生は、当時に類例のないスケールの大きさと深さを感じさせる。
1960年代のアンダーグラウンド演劇の後、70年代から登場した団塊世代とそれ以降の演劇人が、多少の例外を除けば、例えば自作自演出の者は、舞台芸術の素養もなく、政治にも社会にも関心も低く、高校や大学でのイベントで、面白がって、はしゃいで、唐や寺山、或はつかの真似を始めた目立ちたがり屋。俳優志願の者は、概ね学力不足の劣等生で、ついに選択すべき職業や大学の専攻を探せず、そんな愚か者でも持ち合わせている自己表現意欲を、何の基礎も鍛錬も無しに満たせそうなものとして「演劇のようなもの」に出会い、だからこそか、励むことなく、「演劇のようなもの」の世界に、だらしなく浮遊する者たち、と若い時から見ていた。この5年の神保町での定点観察と、やはり5年で三百本ほどの演劇鑑賞から、それは確信になった。
GOLDONIには、上演の為の戯曲を探し求めて、東京だけでなく、全国から(会社の出張や、休暇を遣って)、アマチュア演劇をしている青年、中には壮年も多く訪ねて見える。その多くは、東京なり地元の高校・大学を出て、正業に就き、その余暇に芝居作りを楽しむ、健全な生活者だ。彼等は、演劇に掛ける気持も費用も、東京で「演劇をやっているつもり」の、只の怠け者とは桁違いだ。彼等の熱心さに、一度に4冊までの販売しかしないGOLDONIの原則は、いつも反故になる。
アマチュアが一般的な生活力や常識を持ち、余暇の時間とお金を掛けて演劇と向かい合う。
演劇教師として口過ぎをするにしても、テレビ芸能で稼ぐにしても、外食産業や呑み屋などのアルバイトで働くにしても、それらは「演劇の時間」ではない。本来の専門性、幼少からの専門教育も受けず、専門的な日常も持たず、毎日の身体訓練や稽古、戯曲研究などの「演劇の時間」を持たない、それでいて演劇専門のつもりでいられる者たちを、私は「やってるつもりの演劇人」と呼んでいる。彼等に、健全なアマチュア演劇の愛好者の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。というよりも、「演劇のようなもの」から足を洗って、職業訓練所や学校に行き直してでも真っ当な社会人になって欲しい。
 この国の現代劇とは、百年も前から今日まで、その殆どが、この「やってるつもりの演劇人」という、「玄人面をした素人」が、なけなしかそこそこの才能ででっち上げる演劇だ、といえば言い過ぎか。


「よく人が云うことではあるが、素人劇といふものが存在し得るだけに、芝居の「玄人」にはなりにくい。然し、現在の日本には、現代劇を演ずる為めの「玄人」が欲しいのです。現代劇を書く為めの「玄人」がもつとあつていいのです。現代日本の劇作家中、二三人を除いては、みな「玄人面をした素人」だと断言して憚りません。
 素人なら、素人らしい芝居を見せて貰ひたい。そこからだんだん、「過去の玄人には無いもの」が生れて来るのも事実です。然し、それが為めには、玄人のやらないこと、玄人では出来ないことをやつて欲しい。今の日本の現代劇が面白くないのは、素人劇だからと云ふだけではない。素人が玄人の真似をしてゐるからです。
 新劇の俳優に玄人と云へるものがないと云つて置きながら、玄人の真似とは如何、かういふ反問に答へることは、頗る容易です。これは、新劇の開拓者が、西洋の真似をした。真似の出来るところだけ真似をした。主に表面だけ、形式だけ、言ひ換へれば、半分だけ真似をした。内容と本質は、即ち残りの半分は、在来の芝居、又は間に合せの芸当でお茶を濁した。在来の芝居からは、比較的下らないものを随分取り入れてゐる。無意識的に取り入れてゐる。之等の新劇の開拓者の功労は、勿論認めなければなりません。また、色々な事情で、さういふ人達の理想は実現されなかつたでせう。然し、兎に角小成に安んじた-と云つて悪ければ-あんまり早く玄人のやうなつもりになつてしまつたのです。
 そんなら、どこまでが素人で、どこからが玄人か、そんな馬鹿なことを尋ねる人もありますまいが、それはつまり、修業の程度にあると云ふより外はありません。
 「玄人の芸は型にはまつてゐていけない」。これは新芸術愛好者のよく口にする文句です。僕も、そのうちに、さういふことを云ひ出すかも知れません。ただ、今のところ、日本に現代劇と云はるべき「殆ど完成した」芸術的演劇がまだその形を成してゐないことは、何と云つても心細い。
 そこで僕は、前にも云うつたやうに、素人劇団でもいいから、もつと「面白い芝居」をみせる工夫をして貰ひたいのです。それには危なかしくつてもいいから変に固い苦しくない、重苦しくない、かさかさ、或はじめじめしない、馬鹿馬鹿しくてもいいから朗らかな、気取らない、大胆な、然し、常に聡明な、趣味の優れた作品を選んで、よく稽古を積んで、金なんか取らないで見せるくらゐの覚悟でかかつて貰ひたいのです。
 さういふものの中から、やがて、ほんたうのものが生れて来るかもわかりません。
 要するに、歌舞伎劇以外に、「面白い芝居」が出て欲しい。われわれの芝居をもちたい。これが僕の現在の願ひです。」

2005年09月15日

「閲覧用書棚の本」其の十一。『岸田國士全集』(壱)

岸田國士全集全27巻、岩波書店刊。
今回採録するのは、平成3(1991)年12月に第25回配本として刊行された第27巻<評論随筆9>に収録の、「二つの戯曲時代」である。本著の後記によれば、この評論の初出は、昭和23年1月に岸田自身が編み刊行された『近代戯曲選』に「解説」として書かれたものであるから、その執筆は敗戦直後の22年だろうか。
僅かな例外を除けば、国税投入、文化庁などの補助金のばら撒きでしかない日本の貧困な文化政策のおこぼれに与る、貧して鈍した助成金麻薬患者と成り果てた演劇人しか生息しないこの時代にあって、私は『本質は些事に宿る』、演劇の諸相を見つめれば、そこからも政治や経済や社会が、大きくいえばこの国が、世界が見えると思って活動してきた。岸田の人生の軌跡と重なるもののない私だが、岸田はこの国では絶滅した本格の演劇人として、模範にしたい人である。  
この評論が書かれてから58年が過ぎたが、頭の先から尻尾まで補助金漬けで自立心も自制心も欠落した、あるいは初手から持ち合わせていない演出家や俳優、末流の商売人が経営するような大学の生き残り戦略に利用され、基礎学力のない落ちこぼれ高校生の収容先と化した演劇や文化政策などの学部や学科・専攻の即席教員で糊口をしのぐ演劇ギョーカイ人が作る演劇とその現状を、岸田が生きていたらどう思うだろうか。
『本質は些事に宿る』。この二十年、文化政策や演劇事情を見つめて来たが、そこで見たものはこの国の危さだ、といえば言い過ぎか。
今回の衆議院議員選挙の結果を知り、岸田のこの文章を思い出した。


「新劇」の名のかくの如き曖昧模糊たる用法の由来するところは、「歌舞伎或は新派」が劇界の主流なる如き観を示すことと一脈相通じてゐるのである。
即ち、わが国の興行界と劇場の常連とが形づくる一つの雰囲気は「歌舞伎或は新派」的なる演劇風景に密着し、相互的に生活の基盤を与へ合ひつつ、この外界への作用は、劇場の魅力に化けて、それが一般大衆の抜くべからざる封建性に媚び、動もすれば国粋を標榜して、国際的なる一切の進歩に背を向けさせ、都市的洗練を競ふことはあつても、それは常に懐古的であり、人間美の標準は紋切型のやうに、「いき」と「はり」である。美は美なりとしても、なんといふ限られた「危ふい美」の世界であらう。そしてまたなんといふ、鼻につき易い、人間性を無視した同工異曲の数々であらう。
そこには誰でも納得のいかぬものがある。おほらかなもの、真に厳粛なもの、幸福を思ひ描かせるものがない。虚構を通じての真実が稀にあるかと思へば、ただ、自然なものさへも極めて少いのである。
わが劇場の観衆は、なぜ、久しい間、舞台にそれらのものを求めなかつたのか? これはちやうど、なぜ、わが国に健全な議会政治が発達しなかつたか、といふ問ひに似てゐる。 
「俗衆」なるものは、知てゐることしか解らない、とは、フランスのある劇作家の述懐である。私は、わが国の劇場の一般観衆を以て俗衆なりとは云はぬが、しかも、見馴れたものしか観たがらず、また、さういふものの価値しか判断できないといふ不幸な事実を、わが国に於ては、特に国民の、精神的機能のうちに、著しく目立つた現象として指摘しないわけにいかないのである。

2005年09月13日

「閲覧用書棚の本」其の十。『九代目市川團十郎』(参)

今日9月13日は、九代目市川団十郎の正忌である。GOLDONIの開業5周年の記念日でもある。
石の上にも三年との譬えもあるが、東京の一等地、世界一の書店街の一角での5年に亘る書店運営で、経済的には痛手を負ったが、いまどき流行らない自己犠牲的な演劇の啓蒙を、いささかの私心も無く、個人の営為としてよくやり抜くことが出来たものだと、閉店を目前にした今、すこしは誇るような気分でいる。そのくらいの自負は許されるだろうと思っている。(この辺りのことは6月19日の『提言と諌言』<閉店まで三ヶ月を切った『GOLDONI』> に書いたので、ご笑読を願う。)
九代目の祥月命日を6回連続してGOLDONIで過ごすことができた。三升の五十年忌に当たる来年の2月1日を、そして来年のこの日を、どこでどんなふうに迎えるのか、それはまだわからない。

団十郎の死からその葬儀までを、喪主であった三升は描いている。    

「明治三十六年二月十八日に五代目菊五郎が世を去り、その華やかな葬儀の列は築地の家の前に暫くとどまり、そして本所の菩提所大雲寺へ向つた。私は父の代りに寺島家の親族と共に徒歩で送つたのであつた。此の日父は亡き親友に名残を惜しむため、門前にて翠扇に柄香爐を持たせ、家族一同と共に禮装して霊柩を迎へ、懇ろに焼香して見送つたが、父は感慨無量の面持で家に入り、母をはじめ皆を顧み「おれが死んだら、棺脇には升蔵、新十郎、染五郎、栗三郎、團五郎、幸升が附くように……ほかにも門弟はあるが、この六人は皆子飼からの弟子だから……」と言つた。 
(中略)九月十二日、この朝は少しく小康を保ち、顔を洗ひ口を漱ぎ、手を浄めて「神殿の方へ向けてくれ」といふ。家人の手をかりて神殿に向き直ると恭しく禮拝して、法華経の自我経を誦していたが、それがすむと全く口を利かなくなつてしまひ、翌十三日の午後三時頃危篤に陥り、同四十五分眠るが如き大往生を遂げた。
(中略)遺骸の茅ヶ崎を去る十五日には、葬列は村を一巡して、土地の人々に別れを告げ貨物列車を清掃してこれに安置され、附添として私が従ひ、絶えず香をたき、他に二等車一輌に家族をはじめ關係者達が従ひ、その夜の中に新橋へ着くとホームは涙を以て迎へられる人で満たされてゐた。既に準備の成つてゐる築地の本宅に父の遺骸は迎へられ、廣間へ安置されると共に神式によつて二十日葬儀が營まれることになつた。
(中略)その日は蕭々たる秋雨の音なく降りそそぎ、一入哀愁を深めた、葬列は二十餘町に及び、先頭が虎の門に達してゐるのに、殿りはまだ築地の家を出きらぬ有様で、各方面からの眞榊が長蛇の列を造つた譯で、その當時一時眞榊が品切れになり相場もために狂つたといふ程であつた。
葬列は築地の家から歌舞伎座の前を通り、ここで關係者の焼香を受け、虎の門を経て赤坂通りを青山斎場に向つたのであるが、會葬者は劇界は申すに及ばず、あらゆる方面の名流を網羅した。
(中略)私は喪主として烏帽子をかむり杖を携えて棺に従つたが、此の烏帽子と杖は棺に載せて共に歛めた。謚名は「玉垣道守彦霊」。かくて父の霊は青山の塋城に眠に就いたのである。」(「父の終焉」より)

2005年09月11日

「閲覧用書棚の本」其の十。『九代目市川團十郎』(弐)

明治元年、九代目団十郎の養父で、河原崎座の座元である権之助が、今戸の家に押入った浪士の強盗に切り殺されるという事件があった。この時、九代目は風呂場にいて難を逃れたが、母屋から聞こえる権之助の断末魔の呻き声を聞いた。これが後の「湯殿の長兵衛」の役作りに活かされたという。
その13年後の初冬、九代目が強盗に襲われる。

「話は少しく講談めくが、明治十三年の十一月二十八日、新富町の自宅へ六人組の強盗の入つたことがある。此の話は永く世間の語り草にもなつてゐたが、當時内弟子としては、新十郎、升蔵などがゐて出入の按摩なども泊つて行つたりしてゐた時分である、丁度此の日も按摩が泊つて其の療治をうけて眠つた父が、不圖眼を覚して見ると、見馴れぬ姿の者が四五人入り込み、頻りに何か物色してゐる。中の一人は山岡頭巾をかぶり、眼が覚めた父に向つて手にした脇差をズブリと畳へ突き刺して、急に凄文句を並べ出したのである。然し父は別段驚いた様子も見せず、「何でも貴下方の好きな物を持つて行つて下さい、然し、家人の中には親から預つた大切な弟子たちも居ることですから、どうかこれ等の者には怪我をさせないようにして戴きたい」と穏かに制し、そして傍らの母にも「皆さんの望むものを何でも出してあげるがよい」と命じたのである。そこで賊は目ぼしい物を掻き集めるように纏めて背負い出し、「もう用はねえから寝るがいい」と捨台詞を残して出て行つてしまつた。そのあとを見送つた父が、戸外を見ると、空は晝のように明るい月があつたので
 白浪の 引くあと凄し 冬の月
と一句を吟じた。
 此の賊は其の後吉原へしけ込んで駄々羅遊びをした為めに、その時遊女に與へた父の着物から足がつき、皆捕へられたが、然し賊に持つていかれたものは半分も出なかつたといふ。
 この時、戸外で見張りをして居た賊の一人は丁年未満といふので減刑され、出獄してから北海道で薪屋を開いてゐたが、ある時上京して歌舞伎座で、父の「地震加藤」を見物し、これほどの名優の家に押入つたのは誠に面目ないと懺悔の手紙を寄せて来たと云ふのである。
(中略)なほ数日を経た或る夜、光明寺三郎氏が遊びに来られてゐる處へ、云ひ合せたように西園寺侯が見え、ステッキを振りながら、「堀越居るか」と突然戸を開けて入つて見えたので、父は又賊かと驚いたといふ一つの笑話が残つて居る。」(「六人組の白浪」より)

『白浪五人男』など、歌舞伎の演目でご存知の方も多いと思うが、白浪とは盗賊のことである。
7月7日9日の『提言と諌言』で、「鏡獅子」を紹介したが、舞踊の名手でもあった九代目の舞踊観や教え方叱り方などが描かれている。私は子供の頃から今でも、テレビ芸能人化した歌舞伎俳優や舞台俳優を嫌悪してきたが、三升は、芸人根性を蛇蝎の如くに忌み嫌った九代目の剛直性をも指摘する。

「次に父の最も得意とした舞踊に就いて述べてみることとする。元来市川流の踊は、西川流と志賀山流から出て一家をなしたもので、それが父に依つて創始され、翠扇に傳へられたのである。
 父の舞踊に就いての主張は、踊は唯手足の動きばかりではいけない、腹がなくてはならぬといふのである。従来の振付師のすることを見ると、唯昔の型をそのまま踏襲してゐるばかりで、歌詞に就いての調べなども杜撰を極めて居たもので、自然振付なども誤つた型が残されてゐた。「麻綯るたびの楽しみを…」といふくだりなど、たび
を旅にかけて草履をはく振りがついてゐるなどそれである。「鏡獅子」の稽古の時、翠扇が牡丹の花を見あげる形のところなど、父が傍らで見てゐて「そんな大きな牡丹はない」と教へたことがある。
 父はさうした點に非常に深い關心を寄せてゐて、何處までもその眞を掴むやうに深く掘下げて研究した。即ち研究もせず調べも怠り唯あり来りのまま無關心にやつてゐることを腹がないといつたのである。父の持論として踊は一劃一線、どこを切つてもそれが繪になつてゐなければならない。それが日本舞踊の精神であるというてゐた。
まことに箴言である。
(中略)稽古に就いても一家の持論をもつてゐて、「稽古は何度やつても同じである、多くやつては却つて學ぶ方に気の弛みがでる」と、父は三度以上は教へない。稽古をする方でも三度以上は教へて貰えないから、自然に一度も身にしみて稽古する。それ故だんだんと上達してゆくわけである。
 踊も三度、叱言も三度、それで聞かなければ、もう駄目として叱言も言はない、芝居の上でも役によつて一通り教へるが、それが解らなければ、次にはその役はやらせない、それに就いて他人がどう言はうが聞き入れない。
 かうなると日頃の剛直性が現はれて通俗的な妥協性は無くなるのである。自信があればこそ断行するのであるが、一面には、それが世の誤解を受けたともいへる。實に藝術家としての尊厳な態度は十分に把持した。
 所謂藝人根性といふものを蛇蝎のごとく忌み嫌ひ、口癖のように家人の者を誡めたのであつた。」(「父の舞踊とその主張」より)

2005年09月10日

「閲覧用書棚の本」其の十。『九代目市川團十郎』(壱)

市川三升著、推古書院、昭和25年刊。函、本の奥付けには、『九代目市川團十郎』とあるが、本の背、タイトルは、『九世團十郎を語る』となっている。55年前の、おおらかな本作りである。
今回は、3回に分けてご紹介する。それぞれに相当に長い文章になるが、お付き合い戴きたい。
筆者は昭和31年の没後、十代目市川團十郎を追贈された。既にこの<提言と諌言>の7月7日の「閲覧用書棚の本」の『鏡獅子』でも登場した三升こと堀越福三郎は、九代目の長女・実子(二代目市川翠扇)の夫であり、九代目歿後の成田屋・市川宗家の当主であり、歌舞伎界の総帥とも言うべき存在。
福三郎は、東京・日本橋江戸橋西詰で代々手広く履物商を営んでいた稲延利兵衛(後に稲延銀行を設立、東京市議会議員、富士紡績取締役などを務める。)の次男として生まれ、慶應義塾に学び、日本通商銀行に就職、明治34年に堀越家に婿入りする。九代目が芸の跡目としてではなく、市川宗家の後継者として、自分と同様に政治家や学者文人とも交流するに相応しい教養や見識を持つ(梨園ではその後も百年の間、類例の無いことだが)ブルジョワ出身のインテリゲンチャの青年を娘の婿にと望んだ。そこには、その三十年前の、九代目自身の嫁選びと相通じたものがある。

「明治四年、父は三十四歳で妻を迎へた。花嫁は京橋南槙町に西會所を開いてゐた御用達小倉庄助の娘でまさと呼び、母を千代と呼んだ。當時の俳優の多くが花柳界から妻を迎えたのに反し是非とも堅気な家の娘をと望み、縁あつて小倉家の娘おまさを貰うことになつたが、小倉家の方でも娘を俳優の家に縁付かせるといふのは大英斷であつた。そこで同家でも世間を憚り山谷の八百善を假の親許として河原崎家に嫁がせた。
 母ますが、どうして河原崎家に嫁いで来たかといふと、小倉家の縁家に芝居茶屋をやつてゐたものがあり、自然母も芝居へ足繁く出入りするようになり、その中不圖權十郎(後の團十郎)の将来のあることを見込んで是非に嫁ぎたいと傳手を求めて父まで申し込んで来た。父は總てを祖母に任せてしまひ、祖母も亦同意したので、見合いもせずに此の縁談が纏つたのである。」(「結婚」)

野口達二著の『芸の道に生きた人々』(昭和41年、さ・え・ら書房刊)の、「九代目市川団十郎」の項に、このあたりのことに触れた文章があるので、参考に採録する。(ちなみに、この本は、比較演劇学の泰斗・河竹登志夫氏宛の献本署名本である。)

「旧土佐(高知県)藩主の山内容堂などは、権之助の後援者のひとりでしたが、河原崎権之助を自宅によんで、七代目・市川団十郎の創りだした「勧進帳」をときどき舞わせながら、それにふさわしい衣装などをあたえていたということです。これら有力な後援者のなかにも、そろそろ九代目・市川団十郎を、権之助につがせようという心の動きがみられるようになってきていました。 河原崎権之助は、そろそろ、このあたりで身をかためるようにすすめられ、妻をもらうことにしました。明治四年のことです。妻の名は、ますといいました。良家の出のますは、親類と縁をきり、いったん、八百善という料理屋の養女になってから権之助のところに嫁入りしてきます。
役者は河原こじきだ、その河原こじきと結婚する―、ということが、そんなめんどうな手つづきをとらせたのです。東京を代表する三座の、その一つの座頭の役者でも、役者であるがために、そうした仕打ちにあまんじなければならなかった時代です。御一新がすんだといっても、まだ、世の中は、そんなに封建的なものだったのです。
 口にこそだしませんでしたが、河原崎権之助の心のなかでは、きっと、そうした古いものへの反抗が、静かに芽ばえていたのでしょう。心のうちにひそんでいたその芽ばえが、やがて燃えだし、河原こじきの芸といわれていた歌舞伎を、国劇とよばれるものにまで高め、同時に、役者の地位を、人なみにおしあげていく生涯を送らせたも
のと思われます。」

 團十郎の妻「ます」の兄・亀岡市三郎(小倉市三郎)は、江戸城の石垣修復や品川沖台場造営を請け負う幕府石方棟梁の亀岡甚蔵(亀岡甚造)の娘婿になり、娘をもうけた。私の母方の祖母である。(私の高祖父であるこの亀岡甚蔵(亀岡甚造)については、高村光雲著『幕末維新懐古談』(岩波文庫刊)に、光雲の師・高村東雲の後援者の一人として描かれている。金龍山浅草寺、成田山新勝寺などの信徒総代を長く務め、宗派を問わず信仰していた彼は、若い時分から常に数珠を離さないほどの信心深い人物だったようだ。プリンシプルを重んじた私の演劇感が、時として理念的で抹香臭く感じられるとすれば、この高祖父の血が災いしているのかもしれない、と言えば大げさか。かつて、テレビマンユニオン会長だった故・萩元晴彦氏が教えてくれた言葉に、「製作作品には2種類のプレイヤーが要る。それは、俳優や演奏家などのPlayerと、製作者として作品の完成や成功を祈るPrayerとだ」というものがある。私はこの言葉を拠り所にして、演劇を実践し考えてきた。私の演劇感が、信心のように説経染み、抹香臭くなるのも当然かもしれない。)
子供の時分に母から聞いた話だが、明治10年生まれの祖母の記憶によると、祖母の幼いころには、「ます」叔母は、実家である小倉家や、兄の家であり自分が育った亀岡家に戻って来たり、訪ねて来たことがなかったという。
麻布鳥居坂の井上馨伯爵邸で天覧歌舞伎が催されたのは明治20年4月。祖母がやっと「ます」叔母や團十郎の存在を知ったのは、そのころだったという。築地の團十郎家と日本橋の亀岡家の行き来が始まり、釣道楽の團十郎が弟子に届けさせた釣果が、曽祖父の家の夕餉の膳をたびたび賑わした。
 時代は明治になっていたが、苗字帯刀を許された江戸幕府御用達の家族と、歌舞伎界の総帥とはいえ、長く被差別民だった歌舞伎俳優とが、宿命的な身分やその意識から放たれ、世間に憚ることなく親族付き合いを出来るようになるまでには長い歳月が必要だった、ということかもしれない。

2005年09月07日

「閲覧用書棚の本」其の九。『明治の演劇』

岡本綺堂著、同光社、昭和24年の刊行である。
これは、「過ぎにし物語」として『新演芸』の大正9年8月号から始まった連載の追憶談。単行本としては、『明治劇談・ランプの下にて』として、昭和10年に岡倉書房から刊行され、その後も戦時中の17年に大東出版社から文部省推薦本として出され、この同光社本になり、その後も、40年には青蛙房から単行本として、55年には旺
文社文庫、平成5年には岩波文庫として刊行されている。綺堂は大正5年から雑誌連載の形で始まった『半七捕物帳』の作家として人気を博したが、『修善寺物語』『鳥辺山心中』『番町皿屋敷』『東京の昔話』『長崎奉行の死』などの196篇の戯曲作家であり、随筆、翻訳、演劇研究にも多くの著作を持つ。
岩波文庫版には、綺堂家の書生で、後に養子になる岡本経一の解説が載っている。先にこれを紹介する。なお、手許の同光社本の見返しには、献本者の署名はないが、「市川猿之助様」と書かれている。現猿之助の祖父・猿翁宛であろう。
脱線するが、知り合いの作家・評論家などから贈られた署名入りの本は拙宅と倉庫に収蔵していて、展示や閲覧用の本として店にあるのは、神保町の古書店などで求めた献本署名入りの数十冊の本だ。大概は、本の所有者が亡くなり、その遺族が古書業者に処分を依頼して、それが業者の市などを通して古書店に流れたものだ。ただ、中には所有者が健在で、本人の意思でか、処分したものと思われるものがある。著者が自分の署名した献呈本を古書店などで目にしたら、どんなものだろう。「静かな演劇」とかの劇作家が、芸能タレントに贈った戯曲本、ミュージカルやストレートプレイもどきの演劇になぜか情熱を注ぐ歌舞伎俳優が、早口だか早飲み込みだかが売りのキャスターに贈った随筆本などに目を止めるたび、大事にされなかった本の不幸を、哀れみに近いものを感じる。

「劇評家狂綺堂主人の若き日の風貌を仲間は揃って゛若旦那"と見立てている。身だしなみもきっちりと礼儀正しく、色白で痩せぎすの長身であった。この若旦那は潔癖で孤独癖で、そして事によると議論好きだったらしい。俳優と私的な附き合いをせず、楽屋へ出入りをしなかった。劇作家綺堂になってからも、俳優と公的な附き合いだけだったのは、自らの信念だったのだろうか。新作上演のときでも、舞台稽古に立ち会って、初日を見るだけであった。最もコンビを謳われた二代目左団次とさえ私の交流をしなかった。したがって、俳優を語るのは舞台の上のことだけで、その私的生活には及ばない。
 書斎人である。まことに明窓浄机だった。机の上には原稿紙とペンだけ、身の廻りに本一冊、紙きれ一枚散っていない。」

岡本綺堂(本名は敬二)は明治5年に東京・高輪に生まれた。父は二百石取りの御家人、彰義隊として上野、父祖の地・奥州二本松で官軍と戦い敗れた過去を持つ。英国公使館書記官として三十数年勤めるが、明治の粋人としても知られていた。
綺堂は幼少より、漢詩、英語をこの父に教えられていたが、そんな修身が士族としての誇りや、新時代を生きる覚悟を涵養したのだろうか。

「父の腰巾着で大劇場を覗いたり、腰弁当で鳥熊の芝居に入り込む以外に、自分も一つ芝居を書いてみようという野心は、この時分から初めて芽を噴いたのであった。父は初めにわたしを医師にしようという考えであったそうであるが、友人の医師の忠告で思い止まって、更にわたしを画家にしようと考えたが、何分にもわたしに絵心がな
いので、それもまたやめてしまって、ただ何がなしに小学から中学へ通わせて置いたのである。しかも父はその当時の多数の親たちが考えていたように、わが子を゛官員さん"にする気はなかった。時はあたかも藩閥政府の全盛時代で、いわゆる賊軍の名を負って滅亡した佐幕派の子弟は、たとい官途をこころざしても容易に立身の見込みがなさそうである。そういうわけで、父はわたしに何の職業をあたえるという定見もなく、わたしもただぼんやりと生長していく間に、あたかも演劇改良などが叫ばれる時代が到来したので、わたしも狂言作者なってみようかと父に相談すると、それも好かろうと父はすぐに承認してくれた。
 父が容易にそれを許可したのは、第一に芝居というものが好きであるのと、求古会員の一人として常に団十郎らに接近していたのと、もう一つには流行の演劇改良論に刺戟されて、かの論者が主唱するように、゛脚本の著作は栄誉ある職業"と認めたためでもあったらしいが、更に有力なる原因は、こんな事にでもしなければ我が子を社
会へ送り出す道がないと考えたからであろう。八歳の春には「誰がこんな詰まらない、芝居などというものを書くものか。」と、団十郎の前で窃かに肚をきめていたわたしが、十六の歳には自分から進んで芝居というものを書こうと思い立ったのである。これも一種の宿命であるかも知れない。」

2005年08月26日

「閲覧用書棚の本」其の八。『ひとつの劇界放浪記』

岸井良衛著『ひとつの劇界放浪記』は、昭和56年、青蛙房刊である。大阪の松竹、東宝映画、東宝演劇、TBSテレビ、そして東宝演劇と渡り歩いたプロデューサーの岸井良衛は、文化学院在学中の大正15(1925)年、十八歳の時に岡本綺堂の門を叩いた。『岡本綺堂日記』の続編に、岸井はたびたび登場する。
昭和五年二月二十日の項には、「午後一時ごろに帰宅すると、岸井の父の辰雄氏がその義兄龍前君同道で来訪。その用件は岸井が来る四月から再び文化学院へ入学する事になったが為に、「舞台」の編輯に従事するを止めさせて貰ひたいといふのである。勿論、わたしに異議はないので、承諾。岸井は雑誌の編輯を口実にして、諸方を遊び廻つてゐたらしい。それでは当人の為にもならないので、かたがた編輯を止めさせることに決める。辰雄氏等は一時間ほど話してゆく。つづいて岸井が来たので、改めて「舞台」編輯から手を引くやうに云ひ聞かせる」とある。
大正15年、入門を許されたばかりの岸井は綺堂に郵書で、劇作の勉強の為に舞台稽古を見たいと申し出た。綺堂の返信が、この書に載っている。岸井は、「これには、いろいろの教えがふくまれているので掲げることにする。」と記しているが、これは現代にも、そして劇作家だけでなく、演劇製作者や俳優、演出家にとっても戒めになるので採取する。

「拝復 舞台稽古を見たいといふ御手紙でしたが、まあそんな事は止した方がいいと思ひます。由来、観劇以外に劇場に出入することは見合せた方がいいと思ひます。芝居は観客の一人として正面から見物してゐればいいので、それで十分に研究は出来ます。劇場の内部に入り込んだり、劇場関係者に接近したりするのは、努めて避けなければいけません。里見君(里見弴)が「芝居の魅力」と題して、真に劇を研究しようと思ふ人は決して劇場の楽屋などに入り込んではならない、その空気の魅力に因て堕落すると説いてゐましたが、小生も同感です。舞台稽古を見たり、劇場関係者と懇意になつたりして、劇場の内部の消息に通じたやうに考へるのは、いはゆる芝居道楽の人間のすることで、真剣に劇を研究する者の取るべき道ではありません。小生は門下生を堅く戒めて普通の観劇以外に劇場へ入り込むことを禁じてゐます。昔と今とは時代が違ひます。劇は書斎で研究すべき時代となりました。参考のため見物したければ、見物席から見てゐればいいのです。かへすがへすも芝居道楽の真似をしてはいけません。舞台稽古などを見たところで作劇上何の利益もありません。その時間を利用して書物の一冊も読んだ方が遥かに有益です。」

同書の中で、岸井は綺堂門下生の横顔を描く。そこにも綺堂の優しさが現れている。

「△次は山下巌さん
山口県の人で、先生の門下には大正十一年十月からということで、内閣印刷局につとめていた。たいへんに真面目な人で、ふたば会の集まりに一日も休んだことがなかったと先生は言われている。
昭和八年四月に下谷病院に腸チブスで入院した。どうも様子がおかしいということで、見舞に行く前に、何か伝言でもと、先生の家を訪ねた。果せるかな山下さんの容態はよくなかった。往きに寄ったので報告しなければいけな
いと思って、病院の帰りに先生を訪ねると―
きっと寄ると思っていた。
ということで、お腹が空いているだろうからと、カレーライスとチキンカツを取っておいて下すった。
腹をこしらえてから聞こう。
と言われて、応接間で一人で大急ぎで食事をした。
やがて先生がはいって来られたので、山下さんの容態を話して、「どうやら、いけないと思います」と、はっきり言うと、しばらくして先生は―
君、焼場は、どこが近いかね。
と言われた。意外な先生の言葉に、「えっ」と、先生を見ると、先生の目には涙が光っていた。
その月の十八日に死亡した。
お通夜から葬式から焼場まで、先生は山下さんの傍をはなれなかった。」

『提言と諌言』の8月11日<「閲覧用書棚の本」其の六。『岡本綺堂日記』(続)>に取り上げたが、弟子たちが毎年のように逝く。二十二歳で劇作家として世に出ることなく儚く逝った弟子を悼んで作った綺堂の句を、岸井は記録している。

「 七月十二日 柳田顕道逝く
 去年のけふは 燈籠買って 来りしに 」

『岡本綺堂日記』によれば、「去年(こぞ)の今日」、大正十三年七月十二日は、珍しく在京の弟子が揃い、「ふたば会」を催していた。その五月に亡くなった中嶋俊雄の新盆、夭折した弟子達を偲んだ夜だったのだろう。翌十三日、綺堂は急逝した弟子の墓参りのため、巣鴨の染井墓地、入谷の長松寺に赴く。師に付き従い参詣する弟子達の中に、柳田顕道、そして山下巌の姿もあった。 
 

2005年08月23日

「閲覧用書棚の本」其の七。『藝のこと・藝術のこと』(続)

 東北帝国大学教授だった小宮豊隆は、第1次吉田茂内閣の文部大臣に就任した東京帝国大学教授で国際法の田中耕太郎が短期間兼ねていた東京音楽学校校長の後任として昭和21年に就任、同校が24年に東京美術学校と統合され、新制の東京芸術大学になるまでの、最後の校長でもあった。
 最初に「音楽と政治」と題した文章を採取する。56年前に書かれたものだが、そこに描かれる教育や文化についての政治家や役所の対応ぶりは、今と寸分違わない。歌舞伎の退廃・危機は百年越しだが、官が(政が、でもある)この国での個人の営み・生活のあり様(文化)全てに介入し、かつ結果責任を取らないという行政の姿は、薩長中心の官軍による明治の太政官政府の出現以来、百三十有余年続いている。

 「私はなぜ音楽学校をやめたか。
 衆議院の文部委員会で、芸術大学に邦楽を入れることが票決され、それが文部省への要請となり、校長としての私もそれに従わなければならないはめになったからである。しかも私はそれに従うことを欲しなかったし、また従うべきでないとも信じたからである。
 三味線というものは、一家団欒の空気を作るものであるとか、農村の盆踊にピアノやヴァイオリンが使えるかと論じた委員もあった。お前はアメリカに留学してアメリカの学問をしたからそういうことを言うのだろうとか、お前は洋楽心酔者である。然し洋楽はもう生き詰まっているのだぞとか論じた委員もあった。
(中略)元来学問や芸術の事は、責任を持たせて、それぞれの専門家に委せて置けばいいのである。委せて置けないから、文部委員会が口を入れるのだと言うのなら、致し方もないが、しかしそれならそれだけの見識を示してもらいたい。原子物理学を大学に入れるとか入れないとかという問題になると、さすが専門家に委せるより仕方がないと、誰でも考えるに違いない。しかしこと音楽に関する問題になると、浪花節を贔屓にする人間でも、都々逸が三味線にのる人間でも、みんなその道の通人をもって任じる傾向があるから、始末が悪い。
 日本の将来の音楽をどうするか、音楽の面で日本を再建するにはどうすべきであるかと言うような問題は、それしきの音楽の愛を超えた、もっと厳粛な問題なのである。」(昭和24年6月11日)

 私が持ち出しをしてでもGOLDONIを始めようとした理由の一つに、演劇製作の現場と、戯曲研究や文化政策などを研究・教育する大学とが乖離している現実に対して、そのことが理解出来ずか根本的な解決を図ろうとしない演劇界、文化行政やその周辺の者に対する批判があった。以下に取り上げる豊隆の文章に触れ、このテーマが実に長い間、この国に横たわる厄介な問題であることを再認識した。

 「在来の芸術家にはあまりに理論がなさ過ぎた。学者にはまた理論があっても、芸術が無かった。在来の芸術家は、理論を持たないのみでなく、理論を嫌う傾向があった。頭を使うと芸がまずくなると言った者さえあるくらいである。勿論技術を無視した理論は、芸術の足しにならないには違いない。然し自分の芸術を客観化して、何所に長所があり何所に短所があるかを知り、絶えず工夫しつつ自分の芸術を鍛錬して行くことを可能にするものは、理論であり、もしくは知性的要素である。正しい理論が正しく芸術家に働きかける限り、それは芸術家の発展を妨げるどころではなく、反対に芸術家を刺激して一所に停滞せしめず、不断の進展を将来するはずである。
 (中略)元来日本の社会には、学問的な雰囲気とともに芸術的な雰囲気に乏しい憾みがあった。戦争に次ぐ敗戦は、更にその傾向を著しくして、専門の学校の内部でさえも、そういうものは影を潜めてしまったというのが、日本の現状である。将来日本の芸術を育て上げる為には、まずこの雰囲気が濃厚に醸成されなければならない。その為には大学は無論のこと、既に高等学校においてその醸成が企てられなければならない。然しそのことは、何も知りもしないくせに、生意気に芸術家を気取る青二才ばかりを作り出すような、みっともない結果に陥ってはならない。此所では、過去の幼年学校、士官学校などのような、眼隠しされた馬車馬を作ることを目的とするのでなく、反対に「人間」「生活」「社会」などに対する感覚の窓の開かれた人間を作ることを目的とする。重要でもないことに得意になり、下らないことを誇りとするような視野の狭い者は、仮に初めのうちはいるとしても、次第に影を潜め、少なくとも考え方の自由な、感じ方の豊かな、若い学徒を生み出すことができるはずである。」(23年3月9日)

 「多くの芸術家は、感情が一切である、知性などはいらないという。感情のない芸術と言うものが考えられないことは無論である。然しその感情が把えられ、表現されてこそ、初めて芸術は成立するのである。しかもそれを把え、それを表現するものは知性を措いて外にはない。感情の把え方や把えたものの表現の仕方の深い浅い、広い狭い、高い低いは、知性の深い浅い、広い狭い、高い低いによってきまるのである。
 知性は一般に理屈と混同され易い。口ばかりが達者で、考えること言うことが芸術の表面を滑走してばかりいるのは、真の知性ではない。真の知性とは、何が正しく何が正しくないか、何が善で何が善でないか、何がほん物で何がほん物でないか、そういうものをはっきり弁別する力である。在来の言葉遣いをすれば、それは勘であると言えないこともない。日本の古い時分の芸術家の傑作は多くはその勘によって把えられ、その勘によって表現されたものである。 然し勘は浮動する。とって押えて始終磨きをかけていなければ、ともすると消えてなくなってしまう。勘を無意識の奥から曳き出して意識的なものにし、それを所有し確保し、それに磨きをかけて強力なものにし、必要な時にはいつでも出して使えるようにするものが、知性である。この知性の働いていない芸術は、痴呆の芸術であるに過ぎない。」(24年5月20日)

2005年08月20日

「閲覧用書棚の本」其の七。『藝のこと・藝術のこと』

 小宮豊隆著『藝のこと・藝術のこと』は1964年、角川書店の刊行である。彼には初代の吉右衛門を描いた『中村吉右衛門』(1962年、岩波書店刊)があるが、いずれこれも取り上げるつもりだ。
 小宮豊隆については、中学生の時分に目にした『夏目漱石全集』の解説や漱石の年譜かなにかで初めてその名を知った。『三四郎』のモデルだということも、そのころに親から聞いた覚えがある。東京帝国大学の独文科の学生時代から、後の物理学者の寺田寅彦などとともに漱石を度々訪ね、後に門人となる文学者で、能楽や歌舞伎、松尾芭蕉の研究者としても著名であるが、大学生だった私には、ストリンドベリイの『父』の翻訳をした人物としての記憶が新しい。
 今回採取する文章は、「歌舞伎の役者」である。1951(昭和26)年6月24日の執筆とある。54年前に豊隆が指摘した歌舞伎の危機的な状況は、今も続いている。先日も書いたが、九代目団十郎、五代目菊五郎、初代左団次などの「名優の死と共に真の歌舞伎劇は亡び、その後は一種の変体に属する」と岡本綺堂は述べた。歌舞伎は百年も前から危機的な状況なのかもしれない。2月12日の『提言と諌言』<『新劇』と『リアルタイム』>で書いたが、「今や崩壊したにも等しい新劇」との妥当と思える表現に過剰に反応、「根拠のない言葉の繰り返しにうんざり」させられたと新聞劇評に書いた演劇評論家がいるが、私が「歌舞伎の危機的状況」を指摘したら、同様に
 「根拠のない発言」として、歌舞伎俳優の番頭のようになっている演劇評論家あたりから非難があるかもしれない。
 歌舞伎俳優のスキャンダルや刑事事件が続出している。2月2日の『提言と諌言』<松竹に『俳優の刑務所訪問』を勧める>でも指摘したが、この先も愚かな俳優による犯罪やトラブルは増えるだろう。企業としての生き残りに必死の興行資本や無責任なメディアが作り上げた人気があるだけの、五十歳になってもちゃらちゃらした俳優に、子供の躾や弟子の指導が出来る訳がないだろう。還暦を迎える俳優は、遊び更ける倅を叱れず、その倅が仕出かした不始末を親として詫びる手紙で、己の孫にも当たる、婚外子として父親の無いハンデキャップを負わされた赤子と、倅に弄ばれた女性に、「お子様の成長をお祈りします」と書くような俳優が、倅にどんな躾をしているのか、弟子にどんな指導をしているのか凡そ想像がつくだろう。こんな天晴れな御仁を委員に委嘱している文部科学省の文化審議会、どんな文化を論じているのだろう。江戸歌舞伎の大名跡の襲名が約束されているこの倅が、催しなどに度々遅刻をしたり、芸能タレントと浮名を流し、競馬などの賭け事に興じている様を報道で知るにつけ、私の心配は現実のものとなるような気がしてならない。
 芸能としても制度としても組織としても機能不全を起している歌舞伎だが、国は伝統芸能としての歌舞伎を民間の一興行資本に任せず、文化財保護の対象として、本腰を入れて対処すべき時期に来ていると思う。

 「若い歌舞伎の役者の新作物を手がけることが、このごろの流行になりかけている。歌舞伎の芸の鍛錬はむずかしいし、在来の歌舞伎の脚本で人を動かすことは困難である。あまり骨が折れないで、何かしら新しそうに見えるものを演じた方が、評判になる公算が多いに違いない。新作物が流行しそうになっているのも、無理はないかも知れない。(中略)新作物を手がける以上は、どこか演技の上で新しいものが出ていたり、感情の上で新しい表現が出ていたりしなければならないのである。いくらかでも芝居になっている所は、実は歌舞伎の古い型を使っているようでは、何の為の新作物だか分らない。これにはやはり座方まかせでなく、役者が自分で脚本を選んで、自分で工夫し、自分で新しい芝居を作り上げようとする見識と情熱とが必要である。
 ストリンドベリは、役者はあまり本を読んだり物を考えたりしない方がいい。そうすると役者はとかく生意気になりたがり、芸に計算が見えたりしていけないといっている。そうもいえるには違いない、然し私は若い歌舞伎役者は、逆に、生意気にならないように、芸に計算が見えないように気をつけて、もっと本を読んだり物を考えたりするがいいと思っている。もっともストリンドベリはそう言ったあとで、役者は戯曲なぞは読まなくてもいいが、小説を読むといろいろ得るところがある。例えばディケンズなどは、戯曲作者よりも更に根本的に人間を捕え、無限に複雑な心理を覗かせてくれるのみならず、あらゆる人物の動作と表情とを実に豊富にまた実に見事に描き出していると、つけ加えた。人間と人間の心理と動作と表情との種種相に通じることは、歌舞伎役者のみでなく、一般の役者にとって必要欠くべからざることであるが、それには研究と反省とが常に心がけられなければならないことは言うまでもない。
 若い歌舞伎役者が新しくなりうる為に一番必要なことは、贔屓の客の機嫌をとるという、あの歌舞伎役者の生活から抜け出ることである。長い因習の力でそれが急には実現できないとすれば、少なくとも自分の生活を引き締めて、研究と反省との生活にできるだけ多くの時間を捧げることである。ふところ手をして据え膳に座っているのでは新しくなりようはない。この際私がまず勧めたいことは、例えばスタニスラフスキイの『俳優修業』のような本を、肚に落ちつくまで精読し通すことである。」

2005年08月11日

「閲覧用書棚の本」其の六。『岡本綺堂日記』(続)

『岡本綺堂日記』は、震災のあった大正12年の7月25日から大正15年(昭和元年)12月31日までの三年半分の日記である。
大正6年6月、綺堂の門に集まる青年達が『嫩(ふたば)会』を組織し、以来月に一度は綺堂宅で、劇談、レコード鑑賞、雑談をしていた。彼らの書いた戯曲の添削をしたり、例会の開催を通知したり、劇場からの招待券を送ったり、到来物を分けて遣ったりと、なんとも弟子思いの綺堂である。震災前から、そしてこの日記の書かれた数年で、何人かの弟子を病で亡くす綺堂だが、そんな彼の姿を想像して涙した。明後日は盆の入りである。

大正十二(1923)年十二月二十二日
「読書。夕刻から雨やむ。神戸の友成の父から郵書が来て、友成は十四日午後八時遂に死去したといふ。かれの運命が長くないことは予想されないでも無かったが、今その訃音を聞くと今更のやうに悲しまれる。年はまだ廿二、活發な青年であつたのに、かへすがえすも残念なことであつた。栗原、菊岡、友成、ふたば会は七八年のあひだに三人の若い会員をうしなつたのである。一種寂寥の感に堪えない。すぐに神戸の森田に郵書を発して、ふたば会を代表して友成方へ悔みにゆくやうに云ひ送る。中嶋にも郵書を発して、ふたば会から悔み状と香典を郵送するやうに云ひ送る。わたしは別に悔み状と香典を送るつもりである。
読書。友成のことが色々思ひ出されて、なんだか楽しまない。窓をあけてみると、空はいつの間にか晴れて、無数の星がきらめいてゐる。夜まはりの拍子木の音がきこえる。」
大正十三(1924)年五月十四日
「午前七時起床。おえいが草花を買つて来て、庭に栽える。私も手伝つた。九時過るころに、講談社の岡田君が来て九月号に何か書いてくれといひ、三十分ほど話してゐるところへ至急電報が来て、「トシヲケサシス」とあつた。中嶋俊雄は今朝死んだのである。十一日におえいと中野が見舞に行つたときには、ますます快方に向ふらしいといふので、いささか安心してこの二日ほどは見舞にも行かなかつたところ、病気は俄に革まったものとみえる。なんだか夢のやうでぼんやりしてしまった。
(中略)それからすぐに仕度して薬研堀の病院へ行く。中嶋は十二日以来、腹膜炎を発し、更に腎臓炎を併発して、今朝八時遂に絶命したといふ。今更なんとも云ひやうがない。残念、残念。続いて柳田が来た。遺骸は納棺して自動車に乗せ、五時ごろから病院を運び出して青山原宿の自宅へ送つてゆく。(中略)中嶋が初めて私の家の門をくぐつたのは、大正三年十月十八日の日曜日で、時雨かかつた薄ら寒い日だつたやうに記憶してゐる。それから足かけ十一年、英一の葬式の時、母の葬式の時、彼はいつもよく働いてくれた。それが今は人に送られる身になつたのである。そんなことを繰り返して、おえいも泣く。
十二時半就寝。雨の音が耳について眠られない。それからそれへと色々のことが思ひ出された。」
大正十四(1924)年七月十日
「雨は夕から一旦やんだが、八時ごろから又ふり出した。その雨を冒して、九時ごろに柳田の姉がたづねて来た。柳田は容態いよいよ危篤、もはや二三日を過すまいといふ。早晩かうなることとは覚悟してゐたが、又、今更に痛い心持になる。本人の不幸、姉の不幸、実になんとも云ひやうがない。姉は十時ごろに雨のふる中を帰つてゆ
く。そのうしろ姿を見送つて涙ぐまれた。十時半就寝。雨の音はまだやまない。大正十一年に菊岡、十二年に友成、十三年に中嶋、三年ひきつづいてふたば会員をうしなつた上に、今年も又もや柳田を失はなければならない。どうして斯うも不幸がつづくのか、全くなさけないやうな心持になる。」
同年七月十一日
「九時ごろから家を出て、浅草須賀町の明治病院へゆく。柳田は第八号の病室に寝てゐた。本人はこの二三日気候の変化が激しいために少しく弱つたと云つてゐたが、酸素吸入でわづかに呼吸をささへてゐる体である。次の間へ出て、柳田の祖母と姉に面会、持参の見舞金をわたして暫く語る。姉の話によると、病人の容態はいよいよ悪く、もはや今夜を過すまいとのことであつた。就ては亡きあとの始末などを相談して、十一時半ごろにここを出た。
(中略)今夜はふたば会例会で、山下が来て中元の品をくれ、つづいて中野が来て、中元の礼をくれる。やがて小林も来る。今夜の会合者は以上三人。柳田危篤のことを私から聞かされて、いずれも驚いてゐた。例に依つて劇談雑談、十時半散会するころには又もや驟雨がふり出した。
十一時就寝。柳田は今ごろどんな状態であるかと思ひやる。夜のふけるまで雨の音がきこえた。」

2005年08月03日

「閲覧用書棚の本」其の六。『岡本綺堂日記』

GOLDONIのホームページに、『推奨の本』というコンテンツを作っている。そこでは既に、この『岡本綺堂日記』、『明治劇談 ランプの下にて』と、岡本綺堂の二作を取り上げている。まだお読みでない方は、是非そちらもお読み戴きたい。
『ランプの下にて』は、何度読んだことだろうか。とくに「団十郎の死」の項の書出しは、諳んじているほどだ。
「わたしはかなり感傷的の心持で菊五郎の死を語った。さらに団十郎の死について語らなければならない。今日、歌舞伎劇の滅亡云々を説く人があるが、正しく言えば、真の歌舞伎劇なるものはこの両名優の死と共にほろびたと言ってよい。その後のものはやや一種の変体に属するかとも思われる。」
綺堂は、この両名優の後を追うかのように翌明治37年に亡くなった初世市川左団次の死を記し、「私の長物語も先ずここで終ることにする。明治の劇談を団菊左の死に止めたのは、゛筆を獲麟に絶つ"の微意にほかならない。」と筆を擱く。

今回は『岡本綺堂日記』を取り上げる。
日常を描く日記の、ほんの些細な一二行の記載からも、弟子思いの綺堂の姿を見ることが出来る。それは同様に、雇い入れられた女中たちへの、綺堂の主人としての優しさをも、日記から読み取ることが出来る。
震災のあった大正十二(1923)年の十二月三十一日を、
「今年は色々の思い出の多い年で、一々それを繰返すに堪へない。それでも私たち夫婦と女中おふみの身に恙なかつたのが幸福であつたと思はなければならない。十二月十四日から中野が来て、家内が賑かになつた。なんと云つても、一家の責任は主人にある。来年はますます勉強して、一家の者にも幸運を分たなければならない。」と一年を締めくくる。
主家にとっての使用人、女中も家族であるとの認識は、歌舞伎や舞踊などの古典芸能の「家」での師匠と住込みの内弟子の関わりを幼い時から知っている私には当然に思えるが、「女中」が「お手伝いさん」、「家政婦さん」「ホームヘルパーさん」に変わった今日、理解しにくいことかもしれない。
翌大正十三年の九月五日の項に、
「おふみは九時ごろに暇乞いして出てゆく。(中略)夜になつてますます大雨。おふみは午後七時ごろに自宅へゆき着くとのことであるから、汽車を降りてからこの大雨に困つてゐるであらうと思ひやる。新しい女中が来てゐるが、古い馴染がゐなくなつて何だかさびしい。」とある。
同じ九月の十七日には、
「女中のおたかも三十八度五分ぐらゐの発熱で、今朝は起きられない。おえい(妻・栄子)と女中に寝込まれてはどうにもならないので、中野は学校を休むことにする。」
翌十八日も、「おたかは今日も寝てゐる。しかしもう平熱、心配することはない」と案じている。
書生の中野(後の劇作家・中野実)が市村座に出掛けた夜、「中野は中々帰らない。若い女中をひとり起して置くのも寂しかろうと思つて、わたしも起きてゐる。十二時近いころに中野帰宅。初日で幕間が長く、これでも一と幕見残して来たのだといふ。」
妻と雇い入れたばかりの新しい女中が寝込んでいるこの数日に、以前働いていた使用人が、洗濯や炊事の手伝いに駆けつける。人情深い主人とその優しさに応えようとする女中たち。
こんな世界もなくなってしまった。

2005年07月26日

「閲覧用書棚の本」其の五。『獨英觀劇日記』

今回は穂積重遠著『獨英觀劇日記』である。東寶書店刊、定価三圓特別行為税相當額十銭との記載が奥付データにある。はしがきの書出しは、「芝居の面白い國は、いくさも強い」。如何にも戦時下の昭和十七年十月に刊行された本ではある。
「ドイツの演劇振り観劇振りは極めて眞面目で研究的だ。例へばベルリンのドイッチェス・テヤターでラインハルト演出のシェクスピア劇を續演してゐたが、その演出も舞臺装置も音楽も演技も極めて良心的研究的であつて、本場の英國では當時到底企て得なかつた本格的な紗翁劇であつた。」と、ドイツ演劇を称える。
本著は大正元年から五年まで、文部省留学生として独仏英米4国に派遣され法律学を修めて来た穂積重遠の観劇記である。重遠の父は、貴族院議員、枢密院議長を務めた法学界の重鎮・穂積陳重。陳重の妻(重遠の母)歌子は実業家・渋澤栄一の長女。この夫妻は芝居好きとしても有名で、孫にあたる西欧政治史専攻の東京教育大学教授・穂積重行が編んだ『穂積歌子日記』(みすず書房、1989年刊)には、夫妻や家族での芝居(歌舞伎)見物のことが頻繁に出てくる。明治から戦前までの一級の教養人にとって、芝居が如何に身近なものだったかが判る。劇通の教養人など殆どいなくなった現代、と言うよりも劇通も教養人もいなくなったこの時代、歌舞伎座や新国立劇場に集う観客が醸し出す、教養の無さ、素養の無さには呆れるが、それを指摘すべき見識と教養を備えた批評家もほぼ絶滅した。戦後六十年続く教養の瓦解は、モラルの崩壊同様に止むことがない。
教養と言えば、一般教養課程での穂積重行教授の講義を履修、謦咳に接しながら、何を教わったかは全く覚えていない。恥じ入るばかりである。
教養の無い私にもみえてきたことがある。
「芝居の面白くない国は、外交も含めたいくさも弱い」。

十二月十四日(日)
夜はドイツ座で「ハムレット」を観る。同座では目下有名なラインハルトの演出でシェクスピア物の研究的上演をやつてゐて、今までに「仲夏夜夢」「ハムレット」「からさわぎ」の三つを上場した。今週からは「ヴェニスの商人」が始まり、追々新しいものを加へ、取交ぜて御覧に入れるといふ趣向。「仲夏夜夢」はさきに見て非常に面白かつたし、又、「ヴェニスの商人」はキット面白からうと思ふから、律ちやん(次弟律之助、現海軍造船少将、當時佛國派遣中、年末にベルリンに遊びに來ることになつてゐた。)が來たらこの二つを見せることにしようといふ計劃だが、今日は單身「ハムレット」を観に行く。
ハムレットの役は目下同座の人氣役者たるアレキサンダー・モアッシーが演じる。どうも顔付に品がないので王子らしい所に乏しく、この點では東京で観た土肥春曙の方がまさつてゐるやうに思ふが、さすがにせりふ廻しの活殺自在な所、藝に力のある所などは勿論くらべ物にならず、チョイチョイよい所があつた。しかしこの役はすこぶるむつかしさうな役で、まだまだとても満點はやれぬ、まづまづ及第點といふ所であらう。オフェリアはエリゼ・エッカースベルといふまだ極く若い女優が勤める。中々可愛らしいが、甚だ未熟で持ちきれない。國王もポロニウスもあまり感心せず、先王の幽霊に至つては大下手糞、御蔭で肝心の「ゴースト・シーン」も凄くも何ともない。その中で抜群の大出來はローザ・ベルテンスの皇后、この女優は前に見た「デヤ・フェヤローレネ・ゾーン」の母の役でも感心させたが、中々上手だ。皇后としての品位、ハムレットに對する愛情、初めから何となく不安な様子等申分なく、随ってハムレットが母に迫る一場が一番の見物であつた。
要するに豫期した程は面白くなかつた。かういふクラシックの有名なものは、こちらの期待が大きいから中々満足させられにくい。それにこれはよほどむづかしい芝居だね。やはりヘンリー・アーヴィングのやうな大名優がやらなくてはほんたうに面白くみせられないこと、團十郎がゐなくては「忠臣蔵」らしい「忠臣蔵」が出せぬと同様であらう。
    (一六、ハムレット  ―ベルリン、ドイツ座―)

2005年07月13日

「閲覧用書棚の本」其の四。『歌舞伎劇の経済史的考察』

今回は、山本勝太郎、藤田儀三郎の共著『歌舞伎劇の経済史的考察』(寶文館、1927年刊)を取り上げる。
当HPに先月から掲載した拙文『八世市川団蔵について』や、2005年6月4日付の『提言と諌言』にも登場する小汐正実氏は、旧制高校生か京都帝大生時分に歌舞伎をよくご覧になっていたようで、経済学部の卒業論文では、歌舞伎小屋の木戸銭と諸物価の比較をしたと伺った。お目に掛かった昭和47年には、既に丸金醤油の役員を退いておられた。その頃の氏はたぶん七十歳代、この本が書かれた大正末・昭和初期、京都や大阪で歌舞伎と親しむ、教養のある、時代の学生だったのだろう。その時分に、氏もこの本を読まれたかもしれない。そんなことを思いながら今回久しぶりに再読した。

「歌舞伎芝居に現れたる江戸と大阪」
江戸の町人の経済観念は極めて幼稚なものであった。理財の事を談ずるは士君子の恥辱なりとした封建武士の経済観念と餘り距りはなかったのである。上方下りの豪商や、上方商人の出店は別として、少く共江戸に永住し、江戸の氣風に染つた者達の間には、どうしても武士から受ける感化影響は避けがたいのであった。元禄時代の江戸歌舞伎の荒事は勿論の事、南北黙阿彌の「金」を扱つた作品の中にも、上方町人の抱いて居つた様な執拗な「貨幣禮讃」「拝金思想」を認むることは却つて困難である。少く共所謂江戸ッ子の連中には、依然として幼稚な、大數的な、非経済的観念が存在して居つたのである。黙阿彌の舞臺にも随所にその氣風が見受けられる。
(中略)夙に経済的発展の過程を踏んで来た商都大阪には斯様に早く「金」の芝居が出て、そしてその舞臺の上には、かくの如き貨幣禮讃の思想が演出されていた。彼らはその金權の王城に據つて武士を征服し、屈従せしめたにも不拘、猶且武士と妥協して「町人道」を築き、「商賣冥利」を確心して、愈愈その本領を發揮して行つたので
ある。然るに、武士の都たる江戸に於ては、永く「金」の芝居を見る事は出來なかつた。江戸の町人達は、武士に反抗し乍ら、而もその武士氣質に魅惑せられて、いつまでも封建武士流の幼稚なる経済観念の圏域を脱することは出來なかつたのである。大阪町人が新生の資本主義経済の大潮流に飛込んで、町人社會建設の新舞臺に華々しく活躍して行つたのに對して、江戸の町人、就中「江戸ッ子」は遂にブルジョワ経済の眞髄を理解することは出來なかつたのである。そして商都大阪と武士の大城下江戸と―この両都に於ける経済観念の進歩發達のこの相異がかくも顕著に舞臺の上に演出せられたるとき、上方芝居と江戸歌舞伎との對照は、竟に舞臺の上の興味を超えて、われらに對してかくの如き注目を投ぜしむるの至つたのである。 

2005年07月09日

「閲覧用書棚の本」其の三。『鏡獅子』(続)

明治劇壇を代表する名優、九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎は若い時からの好敵手だった。五代目は明治36年の2月に亡くなったが、その時、九代目はライバルを失い張り合いを無くし、翌年の引退を決意したという。その團十郎も、この年の9月に亡くなる。
五代目は、嗣子の菊之助(後の六代目菊五郎)を立派な俳優に仕立てて貰いたいと、團十郎に預けた。十八歳で父を失った菊之助にとっては團十郎は父以上の師と言っても良い存在。六代目を作り上げたのはこの團十郎だとも言われている。舞踊の名手でもあった團十郎に二十年以上に亘って厳しい指導を受けて育った翠扇は、父の踊りの稽古の折、その代稽古も務め、後の六代目の師匠格でもあった。

「六代目の鏡獅子を見て」
歌舞伎座へは昨晩拝見に行つて参りました、六代目はああいふ如才ない俳優ですから、早速牧野さん(菊五郎支配人)を使として、何卒氣に入らないところがあつても、今日は叱つてくれるなとお言傳でした。さうして幕になりましてからも亦、如何でしたと問合せでしたから、相變わらず誠に結構に拝見しました。ただ、慾を申せば、手獅子を持つての引込みが、初演の時ほどに行きませんでしたネと、言傳を申して遣りました迄で、(中略)眞實、手獅子を持つての引込みは最初の時が一番よかつたと思ひます。今回は何方かと申せば、少々粗雑に見えたと申し度いほどで、ご承知の通り上手に飾りました一對の獅子頭、その一つを手に取りましてから、この引込み迄が、最もこの所作事の中心とも申すべき眼目だけに、この件がアッサリしてをりましたのは、残念にも存じられましたのです。(中略)片手は獅子、半身は優しい女性、この使い分けの振りが先づ第一の眼目で、亡父の歿後、いろいろな方がこれをお演りでしたが、一旦倒れましたお小姓が、獅子の力に引かれて起上りますところ、誰殿でも手をついてでなくては、起直られませぬため、眞に獅子へ魂が通つてゐるやうに見えないのです。それを手獅子が眞實活きてゐるやうに扱つたのは、亡父だけだつたなどと仰しやつて下さつたお方もありましたが、何と申しても、ここは至難な急所でございます。(中略)何のかのと、他人さまの事は岡目八目でかれこれ申しますものの、とり分けてこの所作事などは、亡父さへ老後には出来ぬ踊りだと申しました程の難曲、殊に藝はその日その日の氣分で、出來不出來は免れません。今更ながらむづかしいのが藝道であるとつくづく思ひました。

「おどり 道成寺」
一體この様な物を演じます場合に、女らしさを忘れをると云ふ事は一番嫌はねばならない事であります。よく見受ける事でありますが、始めしなやかに踊つて居られます時は、如何にも女子であつたが、狂ひとなつて参りますと、男か女か分らなくなり、又甚だしいのになりますと、丸で男になつて仕舞つた事があるのを見受けますが、そ
れは只踊ると云ふ事のみに懸命になつた結果がさうなつたのでありませう。さうした事は踊り本體の上から申しましても無論爪弾きせねばならない事であります。
いつぞや或る女優さんの芝居を見に行かれたお方の批評に、女優の女形がどうも女にならない、と云ふのは不思議だと云はれた方がありました。之は御尤もの事でありまして、よく父が私に踊りを教へてくれました時、折々どうしても女にならないと叱言を申されて、女が女にならず、男が男にならない物だと嘆じたのを覚えて居りますが、考へて見ますと、尤もの事だと常日頃思ふのであります。女にまれ、男にまれ、その演出する者が、物を十分に仕活かすと申します事は、その性を忘却しないことが第一の用件であります。振りの善惡も、こなしの善惡も、先づその次ぎと思はねばならぬと私は考へます。

2005年07月07日

「閲覧用書棚の本」其の三。『鏡獅子』

今回は、二世市川翠扇著『鏡獅子』(芸艸堂出版部、昭和22年刊)である。編纂は、翠扇の夫で、明治36年に九代目市川團十郎が亡くなって以来、昭和31年に病没するまで、市川宗家の当主として勤め、歌舞伎界きってのインテリゲンチャとしても著名な市川三升(歿後に十代目を追贈された)。校閲は養父・宝岑と親子二代の劇作家・劇通として鳴らした川尻清潭。執筆者は、この翠扇のほかには、六代目尾上菊五郎、三代目中村時蔵、四代目市川男女蔵(後の三代目市川左団次)、五代目中村福助(現七代目中村芝翫の父。戦前に早世している。)など。明治26年3月の歌舞伎座で、九代目團十郎が初演した、『春興鏡獅子』(作:福地桜痴、曲:三世杵屋正次郎)について語っている。
既にこのブログでも書いたことだが(6月19日『閉店三ヶ月をきったGOLDONI』)、今年の9月13日は、店の開業5周年。この日が九代目の正忌である。何とかこの日までは店を開けていようと思っている。この二世翠扇は昭和19年に病没しているので、資料でしか彼女のことを知らない。何枚かの写真がこの本にも載っているが、彼女と従姉妹である私の祖母によく似ている。そんな祖母の歿後五十年の今年は、何も報いることが出来なかった。そして私が幼少の頃から尊敬する三升の五十年忌にあたる来年、GOLDONIの更なる事業の展開を彼等に報告できるとよいのだが。

「踊りの巧拙」
よく人様から、どういふ風な踊りが上手か、又いいのか…と問はれる場合があります。一口に言ひ難いので、先づ總體にクセのないこと、またアクのないことで、第一に潤ひがなければならぬ事です。それから同時に、ふつうに踊りを御覧になる場合、又おどりを習ふ人でも、その動作の止まりの型は元よりやかましく言つて習ひますが、形の善悪よりも、モツト大事なものがあります。それは一つの形から次ぎの形に移るその微妙なところを無理なしに
程よく運ぶことで、そこにうま味があり、妙味もある譯でございます。よく靜姿に非常にいい形を示す方の内に、どうかすると木に竹をついだ様な感じを与へられる様な事がありますのは、その動作から動作に移る間に缺陥がある譯です。
例を擧げますと、扇一本扱ひましても、技が達して居りますれば、それによつて天地の萬象を目前に見せる事が出來る譯であります。然しそれは、口に言ひ得ない事であり、従つて筆で書き現はし難い事であります。これは凡ての藝事にも共通でありますが、先づ早いお話が、踊りの好きなお方であり、又見巧者の方々が、あれがいいと言ふ場合は共に一緒です。その事を思へば口に言ひ現はし難い事であり、筆で書き現はし難いのであつてもハハアと共通する點があります。それが妙と申すものでありませう。
(中略)或る日一つの形が何としても出來ないので、鏡を見て色々と工夫をしてをりました処が、之れを父・團十郎が見て申すには、『鏡を見て研究するのは惡い事ではないが、決してそれに囚はれてはならない。鏡が無くても自分の體が見える様にならなければ本當でない。つまり自分の形の良し惡しを自分の目で見てゐては、何時までも上達しない。何としても自分の形を自分の心で見る。つまり自分の心の鏡に寫して見て研究せねば不可ない……』と言われましたが、當時自分としては深く氣にも止めず、又さう言ふ事が果して為し得るものかと考へもしませんでした。ところが、何年か経つ間には、成る程と思ふ事が數々あり、その言葉の意味が良くわかつてまゐりました。
自分の心で、自分の形が見える様になれば、自然體だけは動ける様になつたのですから、それに大事の心を吹き入れるといふ事は、演ずる主人公の心持になる事で、前に例を引きました通り、物を見る場合、手をかざしていい景色だな――といふ心持を以て、その形をするのであります。さうして、その心持が目や體、全體に自然と現はれてくるのです。此の表現の判然とするとしないと、又その現はし方が美しいと、否とから巧拙が分るるものであります。只景色を見るだけにも、之れ程の複雑さを感ずるのでありますが、踊りは只それだけの事でなしに、人間の込み入つた心持や、世の中萬物に對する種々の感情などを現はすのでありますから、一つ一つを筆や口に上せて申し述べる事は、中々盡し得るものではありません。ほんたうの少しの事が、非常な相違を生むものであります。

2005年06月27日

「閲覧用書棚の本」其の二。『寿の字海老』(続)

寿海の『寿の字海老』は、日本経済新聞に連載した「私の履歴書」と、芸談抄「楽屋のれん」、先輩俳優達を描いた「おもかげ」、の三部構成になっている。奢り気負い衒いのない平明な文章は、温厚、篤実な人柄が感じられ、容姿、風格、口跡良しの寿海の舞台を懐かしく思い出させてくれる。夥しい数の歌舞伎芸能タレント本が出版されるこの時代、この『寿の字海老』を読み直すと、上梓された昭和35(1960)年から今日までの、ほんの45年の歳月で、歌舞伎が、演劇が、寿海さんに叱られることを承知で大げさに言えば、日本が失ってきたものの大きさを実感する。
子供時分の一番の贔屓役者であった寿海が、演劇人として尊敬する二世左團次の脇役を長く勤めていたことを識ったのはいつの頃だったか。多分三十数年前の学生時分だろう。日本共産党の傘下劇団の前進座と袂を別った河原崎長十郎が、その後も中国共産党シンパとして活動し、郭沫若の『屈原』上演に奔走していた折、吉祥寺の前進座住宅に彼を尋ねたことがある。九代目團十郎の縁戚で、左團次や当時亡くなったばかりの寿海と一座していた長十郎の、見苦しいほどの狂奔振りが堪えられず、「ヘタでも歌舞伎を遣るしかないだろう」と諌言するのが目的、返答次第では天誅を加えるくらいのつもりでいた。初めて対座した長十郎翁は、長く政治に翻弄されたからか想像以上に頑迷で、残念ながら既に「歌舞伎」俳優ではなかった。日共とも中共とも無縁になって、「歌舞伎」を作るならば協力してやろうくらいの気持でいた自分が阿呆らしく、虚しくなり、おとなしく数十分で退散した。それにしても、齢七十の老優を叱り付けに行った二十歳の大学3年生、自分のしたことながら可笑しく恥かしく、あの時のことを思い出して笑うことがある。


「左団次さんのことは、いろいろ書きましたのでくどくは申しません。なんといっても私には一番思い出深く有難い人です。
「踊りの出来ない奴は役者じゃない」などと悪口もいわれましたが、やっぱり偉大な人でした。何せ五十何年も前から茶屋制度廃止を思い立ったり、自由劇場を創立して新劇運動をはじめたのですから、つまり、そのころから今日を見透していた人です。
現在「歌舞伎の曲り角」などといわれ、歌舞伎の不振が伝えられています。こういう時に左団次さんがいてくれたらと思います。
いつも黙々として何かを考えていた孤独の人でした。小言もいわなければ役の注文もしない人です。私など三十五年も長い間一座して小言らしい小言をいわれたのは、「鳥辺山心中」で坂田源三郎をやったとき「太田君、あんまり白く塗らない方がいいよ」と一度いわれたきりです。舞台稽古の時なども、新作物ですと型がないので私が「ここで右手をあげましょうか」と聞きますと「僕はどちらでもいいよ」といいます。この゛どちらでもいい"という時は気に入らない時で、実は左手をあげて貰いたいのです。そこで私は察して左手をあげますと、ニコニコ笑います。ニコニコ笑えば及第なのです。
もう一つ思い出すのは、前に述べた、ダンクローズ式基本体操からとって、新しい形を残したことです。まず「鳥辺山」の大詰、四条河原で、お染と半九郎が、死装束で出てくるところの「あの面白さを見る時は……」で、うしろ向きになり、半九郎がお染を抱きながら右手で舞台上手寄りの祇園町を指すところがあります。この差し方が変っています。こういうことは筆舌では説明しにくいのですが、普通踊りから来た型ですと、右ヒジを折って、手を返して胸のあたりへ持って来てから、サッと右へのばして指すのです。ところが左団次さんは無造作に胸から水平に斜め右上へ上げて指すのです。そんな型は今までにないのですが、無造作にやっていながら実に自然で優美に見えます。これなど明らかにダンクローズ式です。私も、左団次さんがなくなってから半九郎をやる時はこの型でやります。数年前京都の南座で、若手連中が「鳥辺山」の勉強芝居をやった時、私が演出のお手伝いをして、この型をしますと、武智鉄二さんが、「今の指す型は変っていますね」と不思議がっていましたので、ダンクローズの話をしたら大変喜んでいました。
「伊達政宗」という新作物をやった時もそうです。伊達政宗が部下の支倉六右衛門をローマへ使いにやるという筋の芝居で、左団次さんの政宗に私は支倉六右衛門をやっていました。大詰で政宗が「ローマへ」といって揚幕を指さすと、私の支倉がハッと目礼して幕になるのです。この時の「ローマへ」といって指さす型が、鳥辺山の月を指す型と同じで効果をあげていました。
岡本綺堂さんの「佐々木高綱」で、頼朝を罵倒する前のところで、高綱がイライラして、舞台の上手から下手をウロウロ歩き回る場面があります。初演の時は劇評で「動物園の熊のようだ」と書かれましたが、これもあちらの芝居の型をとり入れたものです。高綱がイライラした気持がよく現われていて、今も型として残っています。
「修禅寺物語」でも、頼家が夜討ちにあって、姉のかつらが手負いになり、夜叉王のところへ帰って来るところがあります。そこで夜叉王が驚いて「娘か」というのですが、ここなど普通ですと、身を乗り出して驚く程度です。左団次さんは「娘か」といって、しゃがんで両手をあげ、ちょうど殿様蛙が立ち上ったような形をしました。これもダンクローズの型です。
酒は全然ダメでした。若いころはよく、鳥屋、牛肉屋、天ぷら屋へ一緒に行きました。勘定は全部ワリカンでした。これはケチというのではなく、若い時からこの人の主義でした。
孤独でしたが、反面さびしがり屋のところもありました。神田甲賀町に住んでおられ、私など、遊びに行くと、奥さんともども大変歓迎してくれたものです。当時私は本郷三組町に住んでいまして、その後神田三崎町へ引越したところ、左団次さんはある人に「太田君は、今度近くなったからちょいちょい遊びに来るだろう」といっていたそうですが、私の方は出無精で、あまり行きませんでした。」

2005年06月23日

「閲覧用書棚の本」其の二。『寿の字海老』

今回は、三世市川寿海著『寿の字海老』(展望社、昭和35年刊)を取り上げる。
寿海を識っているという、もっとも若い世代は、京都・南座か大阪・中座か新歌舞伎座で、あるいは東京の歌舞伎座で観ていた1960年代の少年少女だろう。私も、そのひとりである。
昭和41(1966)年6月に、瀬戸内海で入水した八世市川團蔵の晩年の舞台の印象は、当時小学生、中学生だった私には薄いものだが、中学・高校生の時分に観た寿海は、声が良く、格調がある老優として、そして何より九代目の系統の俳優であると言うこともあって贔屓にしていた(当時の子供までを贔屓にするほどの俳優だった)。寿海おじいさんのことを、「雷蔵の養父」と紹介されることが、子供の頃から嫌いだった。雷蔵さんに罪は無いが、「何て失礼な」と、密かに腹を立てていた。
小柄な年寄りが舞台では文字通り大きな大名優寿海になっていた。最後に観た舞台は、歌舞伎座での『寿曾我対面』の工藤祐経だったか。足が不自由になっていた寿海の姿は痛々しいものではあったが、これも座頭役者としての勤めであり、それでも、老いても消えない風格こそが大事、と少し強がりながら舞台を、というよりも寿海ひとりを見詰めていたことを今も度々思い出す。歌舞伎でも能楽でも現代劇でも、風格品格のない俳優しかいない昨今、寿海のことばかり思い出している。
寿海の書く先代幸四郎、言うまでも無いが今では先々代になる、七世松本幸四郎のことである。九代目団十郎の門弟で、長男を宗家の市川三升の養子に差出し(後の十一代目市川団十郎)、三男(後の尾上松緑)を六代目菊五郎に預けたことは有名だが、家の者には、この子供達を「坊ちゃん」と呼ばせなかったほどの躾の厳しい人物だった。「坊ちゃん」扱いを受け、芸能タレントや取り巻きと遊びまわる父親の後姿を見て育つのだから、警察の御用になるくらいは当然のこと。興行会社の経営陣をも家の郎党扱いする「バカぼん」ばかりの歌舞伎界になったのは、こういうかつての俳優の偉大さを、興行資本の社員も現役の歌舞伎俳優も、そして観客も、マスコミも識らないということもその一因だ。


「《先代幸四郎の教え》
不器用だとかなんだとか批評もされましたが、舞台の大きな役者でした。先代幸四郎さんの当り役は何といっても「勧進帳」と「大森彦七」です。特に「勧進帳」の弁慶は団十郎直伝の名品で千数百回上演した専売特許です。東宝時代思いもかけなかった「勧進帳」をやったことは、前にも書きました。初日の前、渋谷のお宅で午前二時まで掛って弁慶を教わりました。何といっても私は柄がなく、とても弁慶のニンにないので、この大役に恐れをなしていたのですが、幸四郎さんに「まずヒジを張って大きく見せろ」といわれたことが大変役に立ちました。問答のせりふ回しも懇切ていねいに教わりましたが、(中略)細かいコツをすっかり教えて頂いて、どうやら曲がりなりにも勤めることが出来たのも幸四郎さんのおかげです。この時には宗家の三升さんご夫婦や三津五郎さんにもお世話になりました。それから、昭和二十四年二月、私が現在の寿海を襲名した時、披露狂言として十八番の「助六」をやる時も直接教えて頂きたかったのですが、私は大阪にいましたので、東京へ行けず、大阪の藤間良輔さんに東京に行って貰い、教えて頂いたことを聞いて無事勤めたわけです。この時幸四郎さんは身体が悪いのにわざわざ立ち上って良輔さんに教えて下さり、帰りには「寿海君にくれぐれもよろしく」というお言伝まで頂きました。それから病勢がぐっと進んで間もなく、亡くなられましたので、私のために死期を早めたのではないかといつも心苦しく思っています。」

2005年06月20日

「閲覧用書棚の本」其の一。『左團次藝談』

GOLDONIの閲覧用の書棚にあって、貸出しをしていない本を、9月の閉店までに何冊かご紹介していこうと思う。
その最初に取り上げるのは、二世市川左團次著『左團次藝談』(南光社、昭和11年刊)である。
この著書の前半にある「左團次藝談」は、『日本人の自伝』(全25巻。平凡社、1981年刊)の第20巻『七世市川中車、初世中村鴈治郎、二世市川左団次』に採録されているので、地域の図書館ででも借りてお読み戴きたい。彼は明治13(1880)年生まれ。父初世左團次は幕末の名優市川小團次の弟子(後に養子縁組)で、後に明治劇壇を代表した、謂う所の「團菊左」の左、である。
百年ほど前の明治36、7(1903、4)年は、歌舞伎に激動激震が起こった時。2月に五世菊五郎が、9月には九世團十郎が、翌37年8月に左團次が亡くなるなど、江戸の歌舞伎を識る三名優が相次いでこの世を去っている。
この時、彼は23歳。名優左團次の実子で、市川家の弟子筋でもあり、「十代目團十郎を狙ってゐる」という噂まで立てられていたという(『左團次芸談』)。明治39(1906)年9月に相続した明治座で父の追善興行を行い、その12月、欧州へ演劇修業に出掛けた。帰国後、明治座の興行制度の改革を実践(失敗に終るが、当時の劇場内外の旧弊を改革するなど、現在の商業劇場の運営スタイルの原型を生み出したといえる)。そして、小山内薫と提携しての『自由劇場』の結成など、明治末年から昭和15(1940)年に亡くなるまで、常に演劇改革を主張し先導した。
十年ほど前に亡くなった、劇団俳優座の俳優で近代日本演劇史家でもあった松本克平氏の有名なスクラップ帳を50冊ほど入手し、読んだことがある。その中に、三世市川寿海が書いた毎日新聞の『藝道十話』という連載があったが、この二世左團次について、「日本の近代劇に夜明けをもたらせた先駆者」で、「歌舞伎俳優にしてはまれに見る教養人であり、まれに見る誠実の人」と評していた。人柄が良かったからか、進取の気性に富んでいたのか、伊藤熹朔、巌谷三一、本庄桂輔、北村喜八、浅利鶴雄、菅原卓などと野外劇を企てたり、七草会として知られた、池田大伍、岡本綺堂、岡鬼太郎、小山内薫、川尻清潭、吉井勇、永井荷風、山崎紫紅、松居松葉、木村錦花らとの交友など、ブレーンに恵まれた。
この『左團次藝談』を上梓した翌12年の5月、彼は第二次の自由劇場の旗挙げを宣言する。しかし、その3年後の昭和15年2月23日に亡くなる。功なり名を遂げた左團次だが、常に熱情を持って演劇の改革に向った彼にとっては、志半ばの死、であっただろう。
「しいて道楽といえば、読書と錦絵の収集」、「酒は一滴も召しあがらない。まったく歌舞伎役者とは思えぬ謹厳さ」(寿海)を崩さずに過ごした二世左團次の六十年の演劇人生は、比ぶべくもなくまた僭越至極弁えが無いと批判されるだろうが、私の範とするところである。


「往年、小山内君と自由劇場を起した経緯は自傳で詳しく述べておきましたが、日本の劇壇に対して刺戟を與へたい。演劇の向上に資したい。其進歩に寄與したいと考へたからでした。其頃としては、これが導火線になつて數年を出でずして、きつと良き演劇が現れる。劇壇も目覚しく呼吸をしてくるであらうと望んだからでした。ところが今になつてみても依然として同じことです。然し世間では、どうやら反響があつたやうに云つてくれました。外國では新劇運動を起した者は、反響があつたならば大概それで引下つてゐるやうです。アントワンも功成り名遂げて退いたし、ラインハルトも一仕事すると長い間休むし、スタニスラフスキイも今では隠居同然です。然し我國の現在とは事情が違ひます。我國の劇壇の現状では行詰りを感ぜざるを得ません。此儘で引込んではゐられなくなるのです。全く現在のやうなことをやつていて、これでいいのだと安坐をかいてゐられるでせうか。商業演劇としては勿論仕方が無いとしても、一藝術家として現在のやうな状態で安閑としてゐられるとしたら、私は全く不思議に思はざるを得ません。今のやうな状態では私は全く行詰らざるを得ないのです。私を大變に買被り過ぎての斯ういふ聲をも耳にします。左團次は大成した位置にゐる俳優であるのに、今更新しい運動を起すでもあるまいではないか。然し私は決して大成などはしてゐません。大成してゐるのだから、もうこれでいいと落着いてしまつてゐる人がゐるとしたら、それこそ事實上に於て行詰つてゐるのではないでせうか。『行詰り』を感ずるところにこそ『行詰り』が無いのではないでせうか。また、かういふ親切な忠告をも受けます。其人の好意は過去の自由劇場を役に立つた仕事だと信じてゐてくれるのです。さうして折角過去に認められた仕事をしたのに、今更第二次の自由劇場などを起して、もし今度失敗をしたら、折角の過去の自由劇場が臺無しになつてしまふのが惜しくはないのか。然し私は、そんなことは氣にかけてはゐません。自傳の自由劇場の項にも述べたとほり、藝術はもともと商業ではありません。損もなければ得もありません。新しい藝術上の運動を起すといふこと、ただ其事實だけに意味があるのだと信じてゐます。―『私は永久に昔の戦場から退く事は出來ないと思ひます。然し若し私が再び出陣するとしたら、私は新しい武器を提げ、新しい甲冑を着けて向ふでありませう。』―これはイプセンが千九百年にプロゾール伯へ贈つた書簡の一節ですが、私が第一回の自由劇場に上演した『ジョン・ガブリエル・ボルクマン。』をイプセンが書いてから此手紙迄四年。其『ジョン・ガブリエル・ボルクマン。』上演の自由劇場第一回の時から今迄二十八年。私の新しい武器、新しい甲冑も亦自ら異らざるを得ません。第一次の自由劇場とは、まるで別のものとして、新しくスタートを切りたいと思つてゐます。そうして今度は廣く演劇文化運動の為にも働きかけてゆきたいと願つてゐます。演劇に對する熱情は、炎のやうに、いつでも私の體を包んでゐます。否、私自身が炎です。これ以外には、私には、何もありません。……演劇に對する熱情……演劇に對する熱情……これ以外には、私には何もありません。」