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「閲覧用書棚の本」其の十一。『岸田國士全集』(参)

この『提言と諌言』で6月から、「閲覧用書棚の本」を書き始めて、というよりもその前からだが、たびたび先人の言葉や業績を持ち出して、それに提言や諌言や批判を織り交ぜるという私の書き方に、「権威付けをして、対象を批評するやり方が巧妙」と、誉めて(批判も含まれているのかもしれないが)下さる方がいくたりかいらっしゃるが、私のような鈍才が現代演劇について考え感じているようなことは、既に明治・大正の時代から、先人たちが論じていたことである。それを、この機会に紹介し、合わせて問題提起をしたい、関心を持って貰いたいと願ってのことだ。
これまでに、二世市川左団次『左團次藝談』(6月20日)、市川寿海『寿の字海老』(6月23日27日)、二世市川翠扇『鏡獅子』(7月7日9日)、山本勝太郎・藤田儀三郎『歌舞伎劇の経済史的考察』(7月13日)、穂積重遠『獨英觀劇日記』(7月26日)、岡本綺堂『岡本綺堂日記』(8月3日11日)、小宮豊隆『藝のこと・藝術のこと』(8月20日23日)、岸井直衛『ひとつの劇界放浪記』(8月26日)、岡本綺堂『明治の演劇』(9月7日)、市川三升『九代目市川團十郎』(9月10日11日13日)、そして今回の岸田國士全集(9月15日18日
まで書いてきた。それぞれが長い文章になっているが、辛抱してご笑読をお願いする。

今回取り上げるものは、「演劇慢話」である。これは、大正15年8月に、『都新聞』に十回続けて連載された、八百字ほどの演劇随想である。これから採録する文章は、「七、芸術的劇場」である。今から80年も前に、それも当時設立された築地小劇場を意識して書かれたものではあるが、今日の新国立劇場の本来のあり方を指し示して
いるように私には思える。新国立劇場について、特に演劇部門のことについては、近々に思うところを述べるつもりだ。したがって今回は、岸田の「劇場論」の紹介に留めておく。

 「芸術的劇場とは、営利の目的を離れて専ら芸術的舞台を創造することを存在理由とする劇場を云ふので、できるだけ多くの観客を吸収して、出来るだけ興行主の懐を肥やさうとする商業劇場に対立すべきものであります。
 芸術的に保たれた舞台が、十分見物を惹き得るといふのは理想で、実際は、低級な、卑俗な趣味が、最も多数者の興味を唆つてゐるわけなのです。
 処が、芸術的といふ言葉は、如何にも厳粛な響きを伝へるわが国の現状から云へば無理もないことですが、徒らに芸術的なる名の下に、ぎこちない、未完成な、時によると投げやりな舞台を公開し、苟くも芸術的演劇の観客が、退屈さうな顔をするのは不都合だと云はぬばかりに、シヤアシヤアとしてゐるのは、慥に芸術を冒涜するもの
であるのみならず、これでは、永久に芸術的演劇は、商業劇場のうちに於てのみ、之を観得るといふ矛盾から脱することは出来ますまい。
 所謂芸術的演劇としてわれわれの鑑賞に堪へ得る歌舞伎劇のあるものは、実際、商業劇場の中に於て、之を観得るのみです。歌舞伎劇は営利の具足ることによつて、次第に非藝術的となりつつある事実を否むことはできません。
 そこで、私は、商業劇場以外に、例へば能楽の如く、歌舞伎劇の芸術的存在を保護するに足る純芸術的劇場の創設は、時代の急務であると思ひます。それと同時に、一般の商業劇場は、歌舞伎劇以外に新しい現代的通俗劇の樹立によつて興行成績の向上を計るべきです。新しい現代的通俗劇とは、民衆の趣味と生活に根ざす、あらゆる様式のスペクタクルです。メロドラマ可なり、ヴォオオドヴィル可なり、ルヴイユウ可なり、フアルス可なり…。
 さうなつて始めて、新劇によつて立つ芸術的劇場の存在が意義あるものとなるのであります。
 今のやうな有様では、どんな劇場で、どんな俳優が演じても、新しい文芸劇でさへあれば、それは芸術的演劇と呼ばれ、劇場の格式、俳優の地位が極めて「好い加減」であります。これは、演劇の進化、芸術的純化の上に甚だ好ましくない結果を齎すことになります。」