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「閲覧用書棚の本」其の十一。『岸田國士全集』(弐)

今回は、平成元(1989)年12月に第2回配本として刊行された第19巻<評論随筆1>に収録の、「二つの答」を取り上げる。本著の後記によれば、この評論の初出は、大正13(1924)年9月15日発行の大阪演劇連盟機関雑誌『舞台評論』第41号に掲載、後に『我等の劇場』に収録された。
岸田國士の経歴を、平凡社刊演劇百科大事典の加藤新吉氏が書かれたものを参照して、簡単に紹介する。(加藤氏は文学座演出部に所属していたが、今年の3月16日に亡くなった。氏は、文学座の最後の教養人だった。)
岸田國士は明治23(1890)年、東京・四谷に生れ、陸軍幼年学校、士官学校を出て陸軍少尉任官。大正5(1916)年東京帝国大学仏文選科に入学。後にパリ・ソロボンヌ大学やヴィユ・コロンビエ座の演劇学校に学ぶ。大正12(1923)年の帰国、翌年から「古い玩具」「チロルの秋」「命を弄ぶ男ふたり」「紙風船」などを続けて発表。これから紹介するエッセイなどで演劇論を展開。昭和になっては新劇協会、友田恭助・田村秋子の築地座で指導、雑誌『劇作』の作家を育てた。昭和12年には久保田万太郎、岩田豊雄と文学座を創設、戦時中は大政翼賛会文化部長を務めた。戦後は芸術家集団『雲の会』を結成、昭和28年に芸術院会員。文学座の『どん底』の舞台稽古の最中に倒れ、昭和29(1954)年3月4日に亡くなった。大正末から戦後のほぼ三十年、劇作家、小説家、演劇研究家、演劇指導者としての人生は、当時に類例のないスケールの大きさと深さを感じさせる。
1960年代のアンダーグラウンド演劇の後、70年代から登場した団塊世代とそれ以降の演劇人が、多少の例外を除けば、例えば自作自演出の者は、舞台芸術の素養もなく、政治にも社会にも関心も低く、高校や大学でのイベントで、面白がって、はしゃいで、唐や寺山、或はつかの真似を始めた目立ちたがり屋。俳優志願の者は、概ね学力不足の劣等生で、ついに選択すべき職業や大学の専攻を探せず、そんな愚か者でも持ち合わせている自己表現意欲を、何の基礎も鍛錬も無しに満たせそうなものとして「演劇のようなもの」に出会い、だからこそか、励むことなく、「演劇のようなもの」の世界に、だらしなく浮遊する者たち、と若い時から見ていた。この5年の神保町での定点観察と、やはり5年で三百本ほどの演劇鑑賞から、それは確信になった。
GOLDONIには、上演の為の戯曲を探し求めて、東京だけでなく、全国から(会社の出張や、休暇を遣って)、アマチュア演劇をしている青年、中には壮年も多く訪ねて見える。その多くは、東京なり地元の高校・大学を出て、正業に就き、その余暇に芝居作りを楽しむ、健全な生活者だ。彼等は、演劇に掛ける気持も費用も、東京で「演劇をやっているつもり」の、只の怠け者とは桁違いだ。彼等の熱心さに、一度に4冊までの販売しかしないGOLDONIの原則は、いつも反故になる。
アマチュアが一般的な生活力や常識を持ち、余暇の時間とお金を掛けて演劇と向かい合う。
演劇教師として口過ぎをするにしても、テレビ芸能で稼ぐにしても、外食産業や呑み屋などのアルバイトで働くにしても、それらは「演劇の時間」ではない。本来の専門性、幼少からの専門教育も受けず、専門的な日常も持たず、毎日の身体訓練や稽古、戯曲研究などの「演劇の時間」を持たない、それでいて演劇専門のつもりでいられる者たちを、私は「やってるつもりの演劇人」と呼んでいる。彼等に、健全なアマチュア演劇の愛好者の爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。というよりも、「演劇のようなもの」から足を洗って、職業訓練所や学校に行き直してでも真っ当な社会人になって欲しい。
 この国の現代劇とは、百年も前から今日まで、その殆どが、この「やってるつもりの演劇人」という、「玄人面をした素人」が、なけなしかそこそこの才能ででっち上げる演劇だ、といえば言い過ぎか。


「よく人が云うことではあるが、素人劇といふものが存在し得るだけに、芝居の「玄人」にはなりにくい。然し、現在の日本には、現代劇を演ずる為めの「玄人」が欲しいのです。現代劇を書く為めの「玄人」がもつとあつていいのです。現代日本の劇作家中、二三人を除いては、みな「玄人面をした素人」だと断言して憚りません。
 素人なら、素人らしい芝居を見せて貰ひたい。そこからだんだん、「過去の玄人には無いもの」が生れて来るのも事実です。然し、それが為めには、玄人のやらないこと、玄人では出来ないことをやつて欲しい。今の日本の現代劇が面白くないのは、素人劇だからと云ふだけではない。素人が玄人の真似をしてゐるからです。
 新劇の俳優に玄人と云へるものがないと云つて置きながら、玄人の真似とは如何、かういふ反問に答へることは、頗る容易です。これは、新劇の開拓者が、西洋の真似をした。真似の出来るところだけ真似をした。主に表面だけ、形式だけ、言ひ換へれば、半分だけ真似をした。内容と本質は、即ち残りの半分は、在来の芝居、又は間に合せの芸当でお茶を濁した。在来の芝居からは、比較的下らないものを随分取り入れてゐる。無意識的に取り入れてゐる。之等の新劇の開拓者の功労は、勿論認めなければなりません。また、色々な事情で、さういふ人達の理想は実現されなかつたでせう。然し、兎に角小成に安んじた-と云つて悪ければ-あんまり早く玄人のやうなつもりになつてしまつたのです。
 そんなら、どこまでが素人で、どこからが玄人か、そんな馬鹿なことを尋ねる人もありますまいが、それはつまり、修業の程度にあると云ふより外はありません。
 「玄人の芸は型にはまつてゐていけない」。これは新芸術愛好者のよく口にする文句です。僕も、そのうちに、さういふことを云ひ出すかも知れません。ただ、今のところ、日本に現代劇と云はるべき「殆ど完成した」芸術的演劇がまだその形を成してゐないことは、何と云つても心細い。
 そこで僕は、前にも云うつたやうに、素人劇団でもいいから、もつと「面白い芝居」をみせる工夫をして貰ひたいのです。それには危なかしくつてもいいから変に固い苦しくない、重苦しくない、かさかさ、或はじめじめしない、馬鹿馬鹿しくてもいいから朗らかな、気取らない、大胆な、然し、常に聡明な、趣味の優れた作品を選んで、よく稽古を積んで、金なんか取らないで見せるくらゐの覚悟でかかつて貰ひたいのです。
 さういふものの中から、やがて、ほんたうのものが生れて来るかもわかりません。
 要するに、歌舞伎劇以外に、「面白い芝居」が出て欲しい。われわれの芝居をもちたい。これが僕の現在の願ひです。」