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2011年07月14日

推奨の本
≪GOLDONI/2011年7月≫

 
『よみがえれ、バサラの精神―今、何が、日本人には必要なのか?』
  会田 雄次著 PHP研究所 1987年

 

 敗戦の屈辱と責任を忘れるな

 日本は今次大戦で世界で類のないほど徹底的で、しかも屈辱的な負け方をした。末期の負けざまは帝国陸海軍の過去の栄光をすべて踏みにじられたような無様なものだった。そういう負け方をしたからには、それ以前の侵略行動への反省とともに、この屈辱はずっともちつづけねばならない。
 もっとも、私が敗戦をはっきり認識せよということは、一般に情緒的にいわれている戦争責任をもちつづけよというのとは少しちがう。外国に対する具体的なその償いは、東京裁判をはじめ戦犯裁判と賠償金の支払いでともかく一応終った。だが、日本人による敗戦追及はなされていない。A級戦犯の靖国神社合祀問題での論争にも、ついにこの敗戦責任は問題にされなかった。
 昔からどの国でも、降将、逃亡指揮官は断罪されるのが普通。旅順要塞の司令官ステッセルは降伏が早すぎるとして罪に問われ、日本海海戦で、戦えばこちらは全滅するだけと悟って降伏したネボガトフ中将は死刑を宣告された。旧日本軍で部下を戦場に残し、自分はいち早く逃亡、残された将兵は全滅といった場合でさえ、その指揮官は何ら責任を問われていない。いまさらそれを問えというのではない。だがこういう敗戦処理が、戦後日本の無責任体制をつくる一因となり、その無責任さが、外交折衝でも日本人は口先だけで何も実行しないという憤りを招く大きな原因にもなっている。それを自覚せよということである。
 さらに敗戦を明確に認めることは、敗戦によって当然生れる勝利者の無法にじっと耐える心を養うとともに、その無法にどの程度耐えるべきなのか、具体的な戦後処理ということでは、それをどの程度、どの期間になし終えるかを明らかにし、それを実行することでもある。合理的な近代世界の特質は有限責任、時効という概念を導入したことにある。国際関係でも当然、それが貫徹さるべきであろう。
 戦争責任ということで、ただいじいじした心をずっと心情的にもちつづけよということでは、敗戦国として永久に無償援助を続けよ、企業は損な契約を結べといった要求に、どの程度、いつまで応じつづけるかをはっきりさせることはできない。相手側はその弱みにつけこみつづけ、国内の便乗者がそれを煽るという状況を続けることは、日本人を自棄か、責任からの逃亡か、逆上へ追いこむだけとなる。現在その兆候は目にみえるものとなった。これでは豊かさを真に身につけることは不可能だろう。そのための敗戦を認識せよという提案でもある。
 ただ、こんな奇怪な敗戦処理の結果、困ったことに日本は独立国でなくなり、フランスやイギリスのようなプライドも自主性ももちえなくなった。現在でも、金はあるが、精神的な自主性は失ったままである。となると、日本人が生きていくうえでモデルとすべき階層が、社会から消えてしまったことを意味する。
 徳川時代でさえも、中級の旗本などはしっかりした規範をもって生活していたから、幕府を倒した薩長までが彼等を真似ようとした。明治以後は、たとえば海軍の軍人がそうで、日本自体は貧しかったが、海軍は超一流の軍艦をもち、イギリス海軍にならってマナーもよかった。戦前まで、日本は世界に誇るにたる一龍の集団をこうして何らかの形でもちつづけてきたし、そういう集団があれば、それをモデルとして精神的自立をめざすこともできたのである。
 ところが戦後は、政治家、官僚、実業人、どれをとっても、個々人は別として国民生活のモデルになりうるような集団や階層は見当らない。それに上と下は腐っていても、中堅層は金はないけれど悪いことはしないというのが近代民主国家の基盤なのだが、今日の日本にはそれもなくなっている。となると日本人は、自分たちの生活のモデルとなる層を新たにつくっていかなければならないことになる。


 「技術者」を優遇する社会を

 日本の高度成長とその繁栄は、高度工業製品を開発、製造、内外に販売、とりわけ輸出を増やした技術者、技能労働者、それに協力した経営・販売者にもっぱら依存している。その人数はといえば、多くみて日本の労働人口六千五百万人の十分の一、六~七百万人がそれにたずさわっているだけだ。
しかもその核心となる人々といえばずっと少なく、まあ百万人程度であろう。その百万人のほとんどは広い意味での第一線の技術者であり、この人たちがこれまでの技術を改良して革新して、現在の日本製品の声価をかち得たのだ。つまり、一億二千万人の生活を支え、さらに豊かにしてきたのは、この百万人を原動力としてきたおかげといって過言ではないのである。
 今後の日本は、さらに高度技術製品を開発生産、それを輸出した代金で、原材料や生活必要品を輸入、テレビ製造程度までの工業は中進国や開発途上国に譲って分業体制をとるという以外に道はない。それが不可能となれば、豊かな生活どころか、自給率七十パーセント、その生産に必要な資材の輸入まで考えれば自給率五十パーセントを切る、計算によっては三十五パーセントという食糧輸入国日本である。国内資源はゼロの国である。瞬時にその息の根を止められてしまうことになるはずだ。
 このためには何としても、この真の価値を生み出している六百万人、とりわけその核心となる百万人を中心とする社会体制を作り上げねばならぬ。その人々にエネルギーを持続し、誇りを保てる待遇を与え、その後継者を養成せねばならぬ。すぐれた能力者をそちらに向けるべく、社会の価値体系を変更しなければならぬ。そのため、教育制度をはじめ、大きな変革は緊急必要事なのである。

(略)このまま行けば、必ずこの百万人はそれと自覚しないまま、一種の反乱を起すだろう。負担だけが増加するそんな仕事を志す若者もなくなるだろう。現にスウェーデンやデンマークでは、社会保障の負担に耐えかねた技術者は、アメリカに逃げだしたり、阿呆らしくなって仕事をしなくなって、社会の危機を招いている。日本がこんな事態になれば、戦前の生活水準か、または現在の台湾・韓国など中進国なみに生活レベルを落し、以後もそういう逆行を続けていかなければならなくなるだろう。
 今日でも、怠け者はみな怠け放題に怠けている。公務員が働きすぎているなどと思う人はまあいまい。国民の怠情に音をあげている欧米先進国の策謀にのって、政府やマスコミが怠けの勧めという大号令をかけるという不思議を演じているのは日本だけである。それではせっかくのお勧めだからと、たとえば大学の教師がもっと授業を休み、研究を怠り、学生は講義をサボり、ただでさえ少ない読書を減らし、レジャーに精を出したら、主張した人々は、我が言容れられりと喜ぶのだろうか。
 技術者、研究者を中核とする社会作りに、最も根本的な、そして最大の障害となるのは、今日の平等主義である。
(略)研究者、技術者の真の養成はいまのままでは不可能だろう。やたらに詰め込むというアメリカの大学教育は、決して効果をあげていない。今日までの創造的発見発明は、いろいろな点で外来者のおかげに依存する側面が大きいのだ。といって、入試主義の東大式教育がよいとはいえない。少なくとも、高校からの別途教育がそのため不可欠なのだが、そんな学制改革案はエリート主義反対の大唱和によって一瞬に粉砕されよう。 
 現状では少し手直しするのが関の山。ひたすらこの真の働き手がこれまでどおりの献身を続けてくれますようにと、天佑に期待する以外ないのである。
 (第四章「本物の贅沢」より)