昭和四十一年六月四日未明、四国の霊場八十八ヶ所の巡拝を無事済ませた歌舞伎界の最長老、八世市川団蔵は、播磨灘で入水した。団蔵はその年の四月、「八代目団蔵舞台生活八十二年引退披露」と銘打った歌舞伎座での引退興行を無事勤め上げ、五月一日、二十年来の念願であった四国巡拝の一人旅に出たのである。そしてそのひと月後、小豆島坂手港から神戸へ向う汽船から、自らの命を絶ったのである。
団蔵は引退興行を勤めた四月、『朝日ジャーナル』(1966年4月10日号)「一問一答」のインタビューに答えて、次のように語っている。
歌舞伎は低下していると思います。なんですか、器用になっていますが、これで名人は出るのかな、と思います。芝居は勢力争いではないのでして、ほんとうの競争は舞台でだけやったものです。礼儀もしぜん保たれます。なにかいっても、あんな年寄りがと思われて、反感をいだかれるくらいなら、黙っていたほうがいい。そんな気持ちが私にもございます。芝居は本来娯楽でして、人さまに見ていただくものです。いまの歌舞伎はどうも料金が高すぎましょう。もっと大衆的になって、ほんとうの芝居好きによろこんでいただきたいものです。
団蔵は、歌舞伎の衰退・役者の低劣さ、歌舞伎興行上の問題を、極めて平明で、(役者としての分を弁えているかのように)遠慮深い言葉を用いて、鋭く指摘している。そして、このインタビューの二ヶ月後、団蔵はこの指摘を根拠にして、まさしく、自身の死をもって、歌舞伎に対する最初にして最後の批判を顕在化させたのである。
我死なば 香典受けな 通夜もせず
迷惑かけず さらば地獄へ
団蔵はあたかも、「私なんぞがこのような批判をすることは、許されることではない」とでも言うよう
に、右の辞世を遺して、どこまでも暗い奈落へ身を投げたのである。
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作家三島由紀夫は、団蔵入水の二ヶ月後に、「団蔵」を次のように述べている。
団蔵の死は、強烈・壮烈、そしてその死自体が、雷の如き批評である。批評といふ行為は、安全で高飛車なもののやうに世界から思われてゐるが、本当に人の心を搏つのは、ごく稀ながら、このやうな命を賭した批判である。(中略)歌舞伎の衰退の真因が、歌舞伎俳優の下らない己惚れと、その芸術精神の衰退とマンネリズムとにあることを、団蔵は、誰よりもよく透視してゐた。
(『団蔵・芸道・再軍備』「20世紀」1966年9月号)
私の識る限りにおいて、三島由紀夫は、団蔵の死を「雷の如き」・「命を賭した」歌舞伎に対する強烈な批評と受けとめた最初の人である。彼の「団蔵感」は、これから取り上げることになるが、「歌舞伎の世界」と関わりの深い演劇評論家の「団蔵評」に比べれば、遥かにすぐれたものである。「歌舞伎の世界」と距離を置いていた三島が、このような演劇評論家よりも「団蔵の死」に関してすぐれた見解を提出したという事実は、「今日の歌舞伎の衰退」の真因と大きく関わってくる問題である。そしてこのことは、「団蔵」に即して言うならば、彼に死を選ばせたもの・彼を死に至らせた・死に追いやったものと繋がりを持ってくるだろう。
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団蔵は、前述の『朝日ジャーナル』のインタビューに答えて、自分は父(七世市川団蔵)が明治劇壇で団菊(九世市川団十郎・五世尾上菊五郎)と並べられたほど偉大であったから、団蔵の名を襲うのが嫌であったし、自分は「目も小さい、声もよくない、体も小さい、セリフが流れるように言えない」ので、役者として不適格である、と語っている。
この団蔵の自覚は、三島が、「役者の自意識というものは、芸だけに働いてゐればよいもので、自分の本質に関する自意識は芸の邪魔になることが多い」(前掲書)と述べているように、本質的かつフェータルな自覚である。
団蔵は四十歳の時に、自分を省みて引退を申し出たが、興行主の松竹から留意させられた。それどころか、昭和十八年には、前名の九蔵から、強引に「八世団蔵」を襲名させられたのである。そしてその二年後、「本当に引退を決意した」のだが、また留意させられたのである。ア・プリオリに役者としての資性が劣っていることを、若年の頃から熟知していた団蔵の不幸は、終生彼に付き纏うそれであった。
若年の団蔵には、それだけの(六世尾上菊五郎や初世中村吉右衛門などのような・引用者注)芸に対する欲や執着がなかったのだ。当然かれ(父・七世団蔵)は、八世に芸を教えようとはしなかった。「出来るまで自分で工夫してやれ」とつきはなした。そして叱るときには、「おれの腕を洋小刀で削ると金貨が出る。手前の腕は世間並の血だけしか出めェ」といったという。
今尾哲也は、「団蔵親子」(『変身の思想』所収)で右のように述べたあと、七世団蔵の言葉、「世間並の血」に着目して、次のように続けている。
「世間並の血」とはいいえて妙である。まさに八世は「世間並の血」しかもちあわさなった。(中略)その「世間並の血」しかもっていなかった手低のかれは、ついに生きて眼高をあらわすことができなかった。そのかわり、「世間並の血」をもつ一人の平凡な人間として、死をもって、「雷の如き批評」を下したのである。
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演劇評論家であり、また今日の歌舞伎演出の第一人者である利倉幸一は、団蔵の自殺について、次のように述べている。
封建制の典型のように見られている歌舞伎に対して、この団蔵の死を、それへの一つの抵抗としてジャーナリズムの一部がとりあげたのは、例によって例の如しであった。団蔵にそういう抵抗が全然なかったとは言わないが、それは直ちにかぶきの世界の悪弊に結びつけるのは少し性急な意見のようにぼくは思う。(中略)役者の家に役者の子として、それも抜き差しならぬ名家に生を享けたのが、団蔵の不幸だったのだ。実はその不幸さえも、団蔵はぼくたちが考えているよりも、深い受けとめようをしていなかったのではないかと、ぼくは不遜にも考える。
(『ある歌舞伎俳優の自殺』『文藝春秋』1966年8月号)
名家の子として生を享けたという宿命を誰よりも強く自覚していたのは、言うまでもなく団蔵である。この事実を、利倉は全く識らなかったのだろうか。いや、たぶん、「くすんだ舞台」の「役者らしくない役者」(利倉幸一)である年寄りのことなど、識ろうとしなかったのであろう。
私は、「団蔵の不幸」に、このような演出家のもとで舞台を勤めなければならなかった、ということをも含めなければならないと思う。
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折口信夫門下の演劇評論家・戸板康二は、団蔵の死より五年ほど経った昭和四十六年九月、「小説団蔵入水」を発表した。(「小説現代」1971年10月号)
「人間残酷物語・歌舞伎界の内幕」という副題のついたこの作品は、作家・網野菊の団蔵の死を扱った秀作「一期一会」(「群像」1966年11月号)を意識して書かれたものではあろうが、「一期一会」と比べものにならないほどの凡作である。この作品は、ドキュメント風な小説であるが、その中には、人間残酷物語と銘打つだけの人間や残酷さは描かれていない。まして、歌舞伎の内幕など、全く明らかにされていないのである。この「小説団蔵入水」を、多才である戸板康二の、大衆小説作家としての作品としてみるならば、彼は次の点から批判されるべきである。それは、同様に演劇評論家の尾崎宏次が、団蔵の死後いちはやく、「かぶきの最長老をそこまで追いつめた、かぶきの今の制度そのものに問題がある」と受けとめた「団蔵の死」を、自身の大衆小説のネタにしたことである。
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一六〇三年、出雲の阿国による京・四条河原での歌舞伎躍りの興行に始まる歌舞伎の歴史は、多く、国家権力との対立の歴史であった。たとえば、徳川幕府による女歌舞伎・若衆歌舞伎の禁止、心中物の執筆・上演の禁止などは、歌舞伎が下層の民衆の、権力に対する批判精神を培うことを阻むためのものであった。そして、そのような徳川幕府の演劇統制の強化に抗して、歌舞伎は幕末まで、本来の「傾(かぶ)きものの精神」を貫いたのである。しかし、明治になって、歌舞伎は「様式」の中に篭り、「傾きものの精神」を喪失させて行った。そして、今日残っているものは、「傾く」ことを忘れた役者と、それを取り巻く人間と、その低劣さ、これらを増長させることにもなっている興行上の欠陥、という「歌舞伎の衰退」現象である。
退屈な「菅原」(菅原伝授手習鑑=引用者注)の大序のうち、私は型に順応した神話の世界をながめていた。この時間は、人間が神の世界からとりもどした芸能を、ふたたび神の世界へ返上するための儀式の時であった。民族学者がいけないのである。民族学者が展開した学問の世界は、決して科学の名で呼ぶに値するようなきびしいものではなかった。国立劇場に巣食う末派民族学派は趣味的な芸能行事の復活を、古典の復活と勘違いしているのだ。貧乏人が急にお金を持たされて、うれしがって、いろいろな思いつきを田舎大尽のように俳優におしつけ、俳優は俳優で、お旦那をとりまく野だいこの了簡で、ところどころ国立劇場の顔を立て、芸の分野では、在来どおり、型通りのお芝居やってのけて、糊口にありつく。型通りやられたらお芝居はまるで型なしである。がそんなことは知ったことじゃない。このような精神の成り上がり者と取り巻きとが、演劇造りする場―それが国立劇場の実態ではないのか。 (「伝統演劇の発想」)
いくぶん長い引用だが、これは武智鉄二の、国立劇場初の公演「菅原伝授手習鑑」の感想である。この文章は、国立劇場の姿勢・俳優の低劣さを、武智らしい表現で端的に言い表している。明治に入って、それまでの歌舞伎を大きく変えたのは、九世市川団十郎の、所謂「活歴」であり、またそれを基礎とした「団菊系の芸風」であろう。しかし、このことが、今日の「歌舞伎の衰退」の要因であると結論する訳にはいかない。今日まで、この「団菊系」や、「団蔵系」の芸風を含む多くの芸風が残されて来ているが、しかし、それらの芸風を、「芸」それ自体から比較検討する姿勢が、近代以後の「歌舞伎の世界」に希薄であったことが、この衰退の要因ともなるであろう。
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団蔵は昭和十七年に、父七世団蔵の生涯と芸談を記した『七世市川団蔵』を上梓している。この書は、「はしがき」に河竹繁俊博士が「我が文化財に対する貴重な文献で」あり、「戦後において必然的に急速に推移すべき劇芸に対して資益する所多き明治の役者論語で」、また「歌舞伎劇術の教科書である」と記しているように、極めて重要な意義を持っている。この書には、「本格について」という項があり、そこで団蔵は、「団菊の芸を本格とする役者や批評家の意見に真向からいどみかかっ」ている。(今尾哲也・前掲書)
団菊系の芸の隆盛に比して、影の薄れた団蔵系の芸を明らかにし、再評価させようとする意図を持っていたのである。そして、終生それを舞台に出しきるほどの才を持っていなかった団蔵は、その瞬間まで、その意図を大事に持ち続けなかればならなかったのである。
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団蔵の七回忌の朝を播磨灘で迎えようと思っていた私は、団蔵がこの世での「最期の泊」と選んだ小豆島の旅館「たちばな荘」に、今年の六月二日夕刻に着いた。もとより私の旅は、取材旅行のようなものではなかったのだが、宿のご主人、支配人はじめここで働く人々から、六年前に団蔵が泊まった時の様子を詳しく聞くことが出来た。私ははじめ、「たちばな荘」で一泊して、三日の夜、団蔵が乗ったのと同じ時刻の船で神戸に渡る予定を立てていたのだが、ご主人から、「四日に団蔵丈を偲ぶ会があるから出席して欲しい」と誘われたので、予定を変えて四日まで残ることにした。その会は団蔵の死後、その忌日である六月四日に、毎年この宿のご主人が、新聞記者や団蔵の生前の舞台を識る地元の人々を招いて行う団蔵供養の会であった。私は、この宿の玄関前に建てられた団蔵の碑の前での読経をきき、そこで知り合った老紳士と二三時間歌舞伎の話をしたのだが、その老紳士・小汐正実さんは、毎年この日に団蔵を忌う句を詠んでこられたそうで、短冊に書く前に私にその句を教えてくれた。
草桔梗 蔵俳の碑に 通う径
宿を発つ時に、小汐さんから「これが草桔梗だよ」と言って渡された、背の低い、花房が直径一糎にもみたない青紫の、目立ちはしないがきれいな草桔梗を、団蔵の「死」を活かすことの重要さと、その困難さを感じながら、神戸へ向う船のデッキから、彼の眠る海へ投げ入れた時の思いを、私は終生忘れないだろう。
June 04, 2005
『草桔梗 蔵俳の碑へ 通う径』(小汐正実作)