2017年04月

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30            

« 2007年09月 | メイン | 2007年11月 »

2007年10月 アーカイブ

2007年10月04日

劇団文学座の七十年(九)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『森本薫』(一)≫

 文学座の監事であった岸田國士が大政翼賛会文化部長に就任した翌月の1940(昭和15)年11月、築地小劇場は「国民新劇場」と改称させられた。12月、同劇場を本拠地にしていた新協、新築地の二大劇団の解散を受け、敵失とはいえ、主が消えた同劇場に勇躍乗り込んだのが文学座であったことは既に触れた。この月、後に劇作家・飯沢匡言うところの「文学座中興の祖」であり、自ら「新劇の岡本綺堂」たらんとした森本薫が入座する。また、岩田豊雄、久保田万太郎の二監事は顧問に退き、三津田健が代表者となる。このように、この1940年は、劇団創立3年の文学座にとって大きな変化の年であった。
 「首脳部を失い、座員たちは、心細かったろうが、嫌応なしに古参俳優を中心とする結束が生れ、それが今日の文学座の形態の基となったのである。」「主な役者たちが、一揆を起して、城を乗取ったのではなく、反対に彼等は見捨てられて、腕を組み合ったのである。およそ、文学座の座員たちは、女性的であって、一人で天下を狙う野心は乏しいのである」と、岩田豊雄はその著書『新劇と私』(1956年、新潮社刊) に記しているが、彼は「後事を託す」ような心境で、新進気鋭の劇作家であった森本を文学座に引き入れた。
 『演劇百科大事典』第5巻によれば、森本薫(1912~1946)は、文学座の創立した1937(昭和12)年に京都帝国大学英文科を卒業。高校(旧制第三高等学校)在学中から劇作の筆を取り、大学在学中には、『わが家』『みごとな女』を執筆、卒業後に『劇作』誌の同人となり、『かどで』『華々しき一族』『かくて新年は』『衣装』『退屈な時間』などを発表。また、多くのラジオ・ドラマ、シナリオを書き、ノエル・カワードの『私生活』、ソーントン・ワイルダーの『わが町』を翻訳、新鋭の演劇人として劇壇に地歩を築いた。1941(昭和16)年の文学座入座後は、『富島松五郎伝』を脚色し、『怒濤』『女の一生』を執筆、「新劇の舞台に適度の大衆性の導入を意図し」「その大衆心理を熟知した非凡な作劇技巧によって」、とくに『女の一生』は主要な演目になった、とある。また、「近代リアリズムの手法の上に豊穣な才能を遺憾なく開花させた『華々しき一族』を頂点とする」、文学座入座以前の、「初期作品群によって、当時の劇壇に新風を注入した功績は大きい」(玉山慶一著)とある。
 
岩田豊雄の『新劇と私』から、森本についての記述を少し引用する。
―森本は普通の劇作家とちがって、演劇の実際にも志があり、性格も大人びていた。戦時下の新劇に、ムリな注文もせす、さりとて、阿諛的な態度に出る愚も、知っていた。文学座の舵手として、全く好適だった。
 ―私は、彼を文学座に関係させたくせに、あまり深入りさせたくない気持もあった。作家としての彼の優秀な才能をよく知っているだけに、劇団の実際的要求で、折れたり曲ったりするのを、惧れた。『怒涛』という作品なぞに、その危惧を感じ、一言述べると、「いえ、ぼくは、新劇の岡本綺堂になりたいんですよ」と、笑って答えた。それは、負け惜しみのようであり、また、本音のようでもあった。彼のその傾向は、後に『女の一生』となって深められたが、その時も、私は惜しい気持がした。彼が死んでしまった今日、考えることは、文学座なぞに関係させたことが、早過ぎたということである。彼を、もう十年間、書斎の中に置きたかった。

 「深入りさせたくなかった」「もう十年間、書斎の中に置きたかった」と、森本に対する自らの文学座への誘いを悔いた岩田豊雄だが、では彼の悔恨とは何であったのだろうか。

2007年10月06日

劇団文学座の七十年(十)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『森本薫』(二)≫

―杉村のほうは「富島松五郎伝」の公演中に長広が亡くなり、三カ月余りがたったころだった。戌井市郎は森本と杉村の関係についてはこんなふうに語っている。
 「杉村さんの『薫さん、薫さん』という言い方が違ってきましたからわかりますよ。奥さんが一緒にいた間は、杉村さんとの関係はなかったのではないかと思っています。家は近いし、奥さんもいないとなると当然ですよ」(中丸美繪著『杉村春子』文藝春秋刊) 

 2003年3月に出版された同書は、「名女優の知られざる`女の一生`」とその本の帯にもあるように、今まで語られなかった杉村春子の恋愛関係などの新事実が描かれている。敗戦間もない1945(昭和20)年末から進駐軍(GHQ)の民間情報教育局映画音楽演劇部に勤める日系アメリカ人との恋愛などを興味深く読んだ。同書の「第一章 誕生」では、杉村の出生について、「第五章 劇作家森本薫」の項では森本と杉村の不倫について、既に杉村が著した本で書いたり語ったりした以上のことが書かれていた。
 杉村が最初に著した『樂屋ゆかた』(1954年、学風書院刊)では、大阪育ちで小芝居や連鎖劇をよく見ていた森本と、広島の色街育ちで、同じように小芝居や連鎖劇のファンだった自分とはウマが合ったこと、劇団というところは、他人の恋愛に無頓着、自由の世界で、森本と自分が一緒にいても煩い噂はなかったと言っている。そして、杉村自身の恋愛観、女優観も披瀝している。

 ―一緒に生活をするとか、しないとかいうことは別にして、私は一時としても愛人がいなくては生きてゆけないような女です。私は惚れて惚れられて、それが人生のように思えます。誰れにも愛されず、誰れも好きになれなくなったとき、そのときは、扮する役の人物を愛することも、舞台への愛も、すべてを失ってしまったときでしょう。
 女でありながら、女でないような女優にはなりたくありません。愛して愛されることが女優としての、第一の資格ではないでしょうか―。

 引き写すことも憚るほどの、あまりに低俗で、愚かしい表現ではあるが、それが「杉村春子」であるのだろう。有り体に言うならば、「新劇」、「新劇運動」というものを三十数年の間に考え、この十五年ほどは環境基盤整備の孤立無援の新劇運動を続けている私には、「杉村春子」という存在は、「築地小劇場」の人でもなく、「築地座」の人でもなく、やはり大衆的な演劇にこそ相応しい、生まれ育ちの地(自)を根源にした女優であり、新劇の、新劇運動の先達では全くない。

 岩田豊雄の悔恨とは何か。杉村が『樂屋ゆかた』を著した1954(昭和29)年、岩田は『観覧席にて』(読売新聞刊)で、森本について述べている。

 ―私は彼が二十代で死んだのだったら、これほど惜しいと思わぬかも知れぬ。彼は火花のような作家として、心ある人々の胸にいつまでも残ったろう。そういう作家がいつの時代にも、文学史の一頁に輝いているのだ。生涯の短さがかえってその作家を飾り、それはそれで作家の一生涯となるのだ。
 しかし、彼は三十代に生き延びた。そして、映画や新劇の作者部屋の人となった。つまり、現場の需要に応ずる作品を書き始めた。それは決して不成功とはいえなかった。広く世間に知られたのは、それからであった。しかし、彼の火花はもう消えていた。彼もそれを知り、今度は、火花ではない、炎炎と燃えつづけるもののために、油を貯える途中だった。そういう時に彼は死んだ。未完成で死んだ。私はそれが惜しくてたまらない。せめて、彼になお十年の時間を与えられなかったことが、残念でならない。いま死ぬくらいなら、十年前に死んでいた方がよかったと、残酷に似た愚痴まで出てくるのである。

 代表作は、『かくて新年は』『みごとな女』『華々しき一族』か。これらは文学座に参加する遥か以前の、二十代前半の京都時代に書かれた作品である。
 森本薫、三十四年の短い生涯であった。 自分のために三幹事によって作られた文学座の舞台に立つことなく散った友田恭助、享年三十八であった。 在籍中には秀作を残せなかった文学座を代表する劇作家と、創立メンバーとして舞台に立つことのなかった文学座を代表する俳優の森本薫、友田恭助のふたりだが、奇しくも彼らの命日は、きょう10月6日である。

2007年10月24日

劇団文学座の七十年(十一)
≪『ままごとのやうな文学座』と『森雅之』(一)≫

 昭和十年代の二大劇団、新築地、新協の両劇団が解散させられ、彼らの本拠地である築地小劇場が国民新劇場と改称させられ、「これまで横町の店屋だった文学座が区画整理でいきなり表通りに出て来た」(久保田万太郎)ように、主がいなくなった劇場へ敵失に乗じるかのように、文学座が乗り込んでいったことは既に述べた。
 『文学座五十年史』によれば、その後の文学座はこの国民新劇場を中心に上演を続け、また、1941(昭和16)年1月の武者小路実篤作、岩田豊雄演出の『七福神』をもって、東京公演の直後に初めての大阪公演を実施した(朝日会館、4ステージ。主催=朝日新聞)。主な出演者名だけを記すと、中村伸郎、森雅之、龍岡晋、青野太郎、杉村春子、宮口精二など、主だった創立メンバーや、その後の文学座を代表する俳優達である。
 今回は、このメンバーのうちの一人である森雅之を取り上げる。森は、作家有島武郎の息子で、京都帝国大学哲学科を中退して、金杉惇郎、長岡輝子夫妻を中心に、北沢彪、十朱久雄、三木利夫、飯沢匡などで結成した学生主体の演劇集団「テアトル・コメディ」に参加する。「テアトル・コメディ」は、当時の演劇の左翼的傾向から距離を置き、スマート、詩的でもあるフランス大衆劇を中心に取り上げていた。因みに、長岡輝子は1936(昭和11)年の劇団解散、翌年10月の夫・金杉の早世の後、戦中から慶應義塾大学の学生劇団であった「新演劇研究会」の芥川比呂志、加藤道夫、加藤治子と1947(昭和22)年に「麦の会」を結成、その二年後の1949(昭和24)年1月、彼らと、荒木道子、稲垣昭三を加えた5人とともに文学座に入団する。
 戌井市郎著『芝居の道』(1999年、芸団協刊)には、「今や森は三創立者の期待通り、友田の後継者として成長しており、座員も皆、頼もしく思っていた」と、1944(昭和19)年11月に森が退団するあたりの事を記していて、またそれについては、杉村春子宛の森本薫の手紙数通が取り上げられて、森の言葉として、「演劇が今のような形をとり、座の方向も将来の存続の為とはいいながら、変って来ざるを得ない今日、私一人のわがままを通す事も出来ない事だし、自分を殺して行動を共にすることも苦し」く、「芝居はしたいけれど、何とかして芝居さえしていれば、という気は自分にはない」とある。森がやめたからといってつぶれる文学座ならつぶれても仕方あるまい、と森本は杉村に認めたが、そこからは文学座の置かれている状況と、森本の突き放したような感情も垣間見える。
 森が退団する一年前の1943(昭和18)年10月、文学座は真船豊作の『田園』を上演する。演出は作者の真船の名になっているが、実際に演出にあたったのは、俳優鑑札を取り上げられ、兄弟である伊藤憙朔や中川一政の著作の執筆・翻訳の代筆や、瑞穂劇団で同じ真船の『北斗星』を覆面演出で口を糊していた千田是也である。千田の『もうひとつの新劇史』(1975年 筑摩書房刊)には、
―文学座が『田園』の演出に私を選んだのも、たぶん真船さんの推薦であろう。その年の御殿場に借りた小さな家で岸と二人で百姓仕事をしていたが、森雅之君がわざわざ私を引っ張り出しに来てくれたので、引受けることにした。いざ始めるとすっかり夢中になり、あんまり稽古をねばるので、「千田さんは元左翼でしょう。せめて八時間労働ぐらいで勘弁してくれませんか」と森君が役者を代表して、恐る恐る言いに来た―
 とあり、また、真船が1943(昭和18)年8月12日に千田に書き送った手紙には、
 ―森や戌井などは前から度々小生に言つてゐたことですが、稽古といへば、文学座は、元来ままごとのやうなことばかり。一度あなたの手にかかつて、根本的に叩いて貰いたいといふことは、熱心にわたしの前で言つてゐたことで、「結局、文学座しかないですね」「森は本筋の役者ですよ」と私に言つたあなたの言葉も思ひ出したので… 
 とある。この手紙は、2004年12月、早稲田大の演劇博物館で催された「千田是也」展で展示された。同展については、『提言と諫言』に記した。ご笑読戴きたい。
http://goldoni.org/2004/12/post_60.html

2007年10月31日

推奨の本
≪GOLDONI/2007年11月≫

安田 武 『形の日本文化』
 1984年  朝日新聞

 
 ―つまり理屈っぽくいえば、東京のあやしげな「近代」ふう、そのお手軽な「合理主義」が、何かにつけて気に入らぬ、味気ないということだ。当然のこと、芝居小屋では、何処よりも京都の南座がこころ楽しい。この数年、十二月の顔見世は、祇園の惣見の日に、欠かすことなく東京から駆けつける。
 ここの食堂は、幕間だけしか営業しないという横着はしてないから、見たくない幕は、おでん屋で一杯やりながら時を過ごす。とこうするうちに、幕が降りたのだろう、にわかにざわざわと賑やかになって、桟敷の戸が開き、芸妓・舞妓たちの華やかな群が、どっと廊下に溢れ出す。のれんから顔をのぞかせて、妓たちを呼び入れ、あらためておでんをつついたり、冗談をいったり、―ハネて出てきた黄昏の街に、朝からの雨もよいが、いつか淡雪に変って、京阪四条駅から加茂川の畔、いや振りかえれば、櫓にその淡雪の散りかかる、といった偶然に恵まれれば、顔見世の情緒はまず言うとことなし、ということになる。
 芝居小屋は芝居小屋であって、「劇場」とはちがう、というのが私の頑固な主張なのだ。というのは、舞台と観客席があれば、それは劇場にちがいなかろうが、芝居小屋は、舞台と客席だけでは成立しない、ということだ。芝居小屋は、小屋の全体が社交場、サロンであり、心おきない呑み食い場所でなければならない。小屋の周辺もまた、芝居小屋のある街らしい風情が必要だ。南座こそ、この条件に適う。
 国立劇場は論外、歌舞伎座の昨今も落第だ。むろん、東京の街の荒廃ぶりに、責任の多くがあろうが、それだからこそ一層、歌舞伎座の内だけでも、せめてここにいる間だけ、不愉快な東京を忘れさせてくれればよいのに、事実はアベコベ、現代東京の不愉快さ、そのままの有様だから失望する。食堂が、そば屋から鮨屋まで、幕間だけしか営業しないのは御承知のとおり、八時を過ぎると売店まで、いっせいに閉じてしまう。ただ一個所、三階の酒場だけが終始営業していて、店内の造作も 満点、バーテンも物静かで、ここを唯一の憩いの場所としていたら、それもこの春から店じまいしてしまった。万やむなく、最近は、交叉点を渡って、采女町の「長寿庵」か、築地寄りの「喜多八」まで出向いて一杯やるしかない。
 私の言い方を古臭いという方には、ドアボーイから、クローク係にいたるまで、劇場のなかに働く者すべてが、「劇」の創造に参加していると説いたのが、かのスタニスラフスキーであったことを、是非思い出していただきたい。昨今の劇場は芝居小屋の小屋としての荒廃であり、演者の「芸」の荒廃ともこれは無縁のことではない、と私は思う――。
 たとえば、デューマ・フィスの『椿姫』が、オペラ・コミック座の場景を、いかに美しく描き出しているか、いや、夏目漱石もかつての芝居小屋の華やかな雰囲気を、『明暗』のなかに、いきいきと活写している。今日の歌舞伎座が、果して、小説の背景として登場しうるものかどうか、考えてみてほしいものである。「芝居見物」の情調が失われれば、観劇のたのしみは半減、どころか、ゼロに等しくなりかねないからだ。
(「歌舞伎東西」より)