安田 武 『形の日本文化』
1984年 朝日新聞
―つまり理屈っぽくいえば、東京のあやしげな「近代」ふう、そのお手軽な「合理主義」が、何かにつけて気に入らぬ、味気ないということだ。当然のこと、芝居小屋では、何処よりも京都の南座がこころ楽しい。この数年、十二月の顔見世は、祇園の惣見の日に、欠かすことなく東京から駆けつける。
ここの食堂は、幕間だけしか営業しないという横着はしてないから、見たくない幕は、おでん屋で一杯やりながら時を過ごす。とこうするうちに、幕が降りたのだろう、にわかにざわざわと賑やかになって、桟敷の戸が開き、芸妓・舞妓たちの華やかな群が、どっと廊下に溢れ出す。のれんから顔をのぞかせて、妓たちを呼び入れ、あらためておでんをつついたり、冗談をいったり、―ハネて出てきた黄昏の街に、朝からの雨もよいが、いつか淡雪に変って、京阪四条駅から加茂川の畔、いや振りかえれば、櫓にその淡雪の散りかかる、といった偶然に恵まれれば、顔見世の情緒はまず言うとことなし、ということになる。
芝居小屋は芝居小屋であって、「劇場」とはちがう、というのが私の頑固な主張なのだ。というのは、舞台と観客席があれば、それは劇場にちがいなかろうが、芝居小屋は、舞台と客席だけでは成立しない、ということだ。芝居小屋は、小屋の全体が社交場、サロンであり、心おきない呑み食い場所でなければならない。小屋の周辺もまた、芝居小屋のある街らしい風情が必要だ。南座こそ、この条件に適う。
国立劇場は論外、歌舞伎座の昨今も落第だ。むろん、東京の街の荒廃ぶりに、責任の多くがあろうが、それだからこそ一層、歌舞伎座の内だけでも、せめてここにいる間だけ、不愉快な東京を忘れさせてくれればよいのに、事実はアベコベ、現代東京の不愉快さ、そのままの有様だから失望する。食堂が、そば屋から鮨屋まで、幕間だけしか営業しないのは御承知のとおり、八時を過ぎると売店まで、いっせいに閉じてしまう。ただ一個所、三階の酒場だけが終始営業していて、店内の造作も 満点、バーテンも物静かで、ここを唯一の憩いの場所としていたら、それもこの春から店じまいしてしまった。万やむなく、最近は、交叉点を渡って、采女町の「長寿庵」か、築地寄りの「喜多八」まで出向いて一杯やるしかない。
私の言い方を古臭いという方には、ドアボーイから、クローク係にいたるまで、劇場のなかに働く者すべてが、「劇」の創造に参加していると説いたのが、かのスタニスラフスキーであったことを、是非思い出していただきたい。昨今の劇場は芝居小屋の小屋としての荒廃であり、演者の「芸」の荒廃ともこれは無縁のことではない、と私は思う――。
たとえば、デューマ・フィスの『椿姫』が、オペラ・コミック座の場景を、いかに美しく描き出しているか、いや、夏目漱石もかつての芝居小屋の華やかな雰囲気を、『明暗』のなかに、いきいきと活写している。今日の歌舞伎座が、果して、小説の背景として登場しうるものかどうか、考えてみてほしいものである。「芝居見物」の情調が失われれば、観劇のたのしみは半減、どころか、ゼロに等しくなりかねないからだ。
(「歌舞伎東西」より)