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劇団文学座の七十年(十一)
≪『ままごとのやうな文学座』と『森雅之』(一)≫

 昭和十年代の二大劇団、新築地、新協の両劇団が解散させられ、彼らの本拠地である築地小劇場が国民新劇場と改称させられ、「これまで横町の店屋だった文学座が区画整理でいきなり表通りに出て来た」(久保田万太郎)ように、主がいなくなった劇場へ敵失に乗じるかのように、文学座が乗り込んでいったことは既に述べた。
 『文学座五十年史』によれば、その後の文学座はこの国民新劇場を中心に上演を続け、また、1941(昭和16)年1月の武者小路実篤作、岩田豊雄演出の『七福神』をもって、東京公演の直後に初めての大阪公演を実施した(朝日会館、4ステージ。主催=朝日新聞)。主な出演者名だけを記すと、中村伸郎、森雅之、龍岡晋、青野太郎、杉村春子、宮口精二など、主だった創立メンバーや、その後の文学座を代表する俳優達である。
 今回は、このメンバーのうちの一人である森雅之を取り上げる。森は、作家有島武郎の息子で、京都帝国大学哲学科を中退して、金杉惇郎、長岡輝子夫妻を中心に、北沢彪、十朱久雄、三木利夫、飯沢匡などで結成した学生主体の演劇集団「テアトル・コメディ」に参加する。「テアトル・コメディ」は、当時の演劇の左翼的傾向から距離を置き、スマート、詩的でもあるフランス大衆劇を中心に取り上げていた。因みに、長岡輝子は1936(昭和11)年の劇団解散、翌年10月の夫・金杉の早世の後、戦中から慶應義塾大学の学生劇団であった「新演劇研究会」の芥川比呂志、加藤道夫、加藤治子と1947(昭和22)年に「麦の会」を結成、その二年後の1949(昭和24)年1月、彼らと、荒木道子、稲垣昭三を加えた5人とともに文学座に入団する。
 戌井市郎著『芝居の道』(1999年、芸団協刊)には、「今や森は三創立者の期待通り、友田の後継者として成長しており、座員も皆、頼もしく思っていた」と、1944(昭和19)年11月に森が退団するあたりの事を記していて、またそれについては、杉村春子宛の森本薫の手紙数通が取り上げられて、森の言葉として、「演劇が今のような形をとり、座の方向も将来の存続の為とはいいながら、変って来ざるを得ない今日、私一人のわがままを通す事も出来ない事だし、自分を殺して行動を共にすることも苦し」く、「芝居はしたいけれど、何とかして芝居さえしていれば、という気は自分にはない」とある。森がやめたからといってつぶれる文学座ならつぶれても仕方あるまい、と森本は杉村に認めたが、そこからは文学座の置かれている状況と、森本の突き放したような感情も垣間見える。
 森が退団する一年前の1943(昭和18)年10月、文学座は真船豊作の『田園』を上演する。演出は作者の真船の名になっているが、実際に演出にあたったのは、俳優鑑札を取り上げられ、兄弟である伊藤憙朔や中川一政の著作の執筆・翻訳の代筆や、瑞穂劇団で同じ真船の『北斗星』を覆面演出で口を糊していた千田是也である。千田の『もうひとつの新劇史』(1975年 筑摩書房刊)には、
―文学座が『田園』の演出に私を選んだのも、たぶん真船さんの推薦であろう。その年の御殿場に借りた小さな家で岸と二人で百姓仕事をしていたが、森雅之君がわざわざ私を引っ張り出しに来てくれたので、引受けることにした。いざ始めるとすっかり夢中になり、あんまり稽古をねばるので、「千田さんは元左翼でしょう。せめて八時間労働ぐらいで勘弁してくれませんか」と森君が役者を代表して、恐る恐る言いに来た―
 とあり、また、真船が1943(昭和18)年8月12日に千田に書き送った手紙には、
 ―森や戌井などは前から度々小生に言つてゐたことですが、稽古といへば、文学座は、元来ままごとのやうなことばかり。一度あなたの手にかかつて、根本的に叩いて貰いたいといふことは、熱心にわたしの前で言つてゐたことで、「結局、文学座しかないですね」「森は本筋の役者ですよ」と私に言つたあなたの言葉も思ひ出したので… 
 とある。この手紙は、2004年12月、早稲田大の演劇博物館で催された「千田是也」展で展示された。同展については、『提言と諫言』に記した。ご笑読戴きたい。
http://goldoni.org/2004/12/post_60.html