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2010年04月 アーカイブ

2010年04月02日

「財団法人新国立劇場運営財団の存廃」について考える(十七)

補助金どっぷり 農業ぽっくり

 先週の地下鉄の中刷り広告で目を引いたのは、『WEDGE』4月号の見出しにあった、<補助金どっぷり 農業ぽっくり ―選挙対策のバラマキで ニッポン農業 突然死へ>。早速、地下鉄の駅の売店で購入した。
 この特集「WEDGE Special Report 補助金どっぷり 農業ぽっくり」は全13ページ建てで、その最初の見開き2ページには、米百俵ならぬ「米百票」と書かれたタスキを掛け、ほくそ笑む小沢一郎・民主党幹事長と思しき人物が民主党のマークのついたコンバインに乗り、稲を刈らずに票を買っているつもりか後部に備え付けた投票箱に票を吸い上げているイラストが描かれている。その見開き右部分のリードの文章はこうだ。
<民主党農政の目玉である「戸別所得補償制度」がこの4月からスタートする。「食料自給率向上」というトリックを用い、年金やサラリーマン所得に頼る兼業農家にも補助金をばら撒いた。これぞ政権を問わず繰り返されてきた、典型的な農村票目当ての選挙対策だ。プロ農家の農地が貸し剥されるなど、補助金農政による混乱が生じている。担い手の声に反する政策をこれ以上続けると、ある日突然、日本の農業は再生不能に陥ってしまう>。
 そもそも戸別所得補償制度とはなにか。「稲作農家を対象に、2010年度予算で5600億円が計上」「コメ生産が1兆8000億円程度だから、これだけでも膨大金額」「政府はコメのキログラムあたりの生産費を計算する。この際、自家労働も雇用者賃金に近い時給で評価するので、生産費はコメの市場価格をはるかに上回った高水準になる。この生産費と市場価格の差額を、政府が農家の指定口座に、直接、所得補償金として入金する」というもの。したがって、市場価格が低迷しても、コメさえ作れば利益が保証されるのだから、増産意欲が増すが、日本全体ではコメが余って米価が下がる。「<バラマキ→増産→米価下落→さらなるバラマキ>のスパイラルを引き起こし、穴は際限なく広がっていく。ますます補助金頼みを強めざるをえなくなるであろうが、その補助金も、主要先進国で最悪という日本の財政では、早晩、尽きる。わざわざ稲作を補助金依存症にしておいて、やがて補助金が切れるのだから、突然死を強いているようなものである。」

 「そもそも真摯に農業生産の腕を磨き、販路開拓や食品加工との連携などの努力をしてきた農家ならば、すでに安定的な値段で農産物を売ることができており、戸別所得補償など必要としていない。戸別所得補償で救済されるのは、生産や経営の努力を怠った者である。…」と続く文章を読んでいて、察しの悪い私も気が付いた。この戸別所得補償制度と、文化庁、芸術文化振興基金などの公的助成制度は、同じ発想であり、同じ構造であり、そして同様な災禍を招くだろうと。上の文にある農業、農家、農産物、戸別所得補償制度を、演劇、演劇人、劇場、助成金と読み換えたらよい。
 「そもそも真摯に演劇の腕を磨き、販路開拓や外部との連携などの努力をしてきた演劇人や演劇集団、劇場ならば、すでに安定的な値段で製作物を売ることができており、助成金など必要としていない。助成金で救済されるのは、製作や経営の努力を怠った者である」。

2010年04月03日

推奨の本
≪GOLDONI/2010年4月≫

『劇場往来』 高橋誠一郎著
 青蛙房  2008年

 (略)先生の演劇論は早くから演劇人の注意を引いておったらしく、明治九年十一月に類焼した新富座が十一年六月、日本最初の額縁式洋風劇場として復活し、同七、八両日を期して、古錦絵に残っているような落成式を挙げたとき、座元十二代目守田勘弥の式辞を五代目尾上菊五郎が代読し、これに次いで、九代目市川團十郎が俳優一同を代表して式辞を朗読したのち、河竹繁俊氏著『日本演劇全史』によると、「前海軍大尉正七位当時演舌者の松洲堀龍太が羽織袴にて舞台の中央に座し」て、一文を読み上げたが、これは同年五月二十三日の三田演説会で、福沢先生の演説された内容の大意を文章にしたもので、その要旨は、古来、芝居について、賛否両様の議論が行なわれているが、悪いのは芝居そのものではなく、その関係者が下劣だったためである。須らくその向上をはかるべきである、というにあった。
 (略)先生は日本の芝居を、家族打ち揃って見物しても、顔を赤らめるようなことがなく、また学者士君子が見ても顰蹙することのないものにしようと苦心しておられた。
 やはり朝の散歩のさいであったろうか、私は、何かの話のついでに「先生は左團次がいちばんご贔屓でしょう」と申し上げると、先生は、軽くうなずいて、「なァに、別段贔屓というわけではないが、あの男が、いちばんよくこちらのいうことを聴くか……」と答えられたことが記憶に残っている。
 明治三十二年三月、左團次が三世河竹新七脚色の「蔦模様血染御書」すなわち、いわゆる「細川血達磨」を再演した時、この劇は、大川友右衛門と小姓数馬の反自然な恋愛を中心とするもので、とうてい、文明世界の舞台に上すべきものでないことを先生の機関紙『時事新報』が指摘すると、左團次は、直ぐに、小姓数馬を腰元数江に改めた。福澤先生は、左團次が、殊によく先生の意見を容れる点で、彼を愛しておられたのである。
 先生は、いかがわしい浄瑠璃や唄の文句などを、みずから訂正されたりした。「十種香」の「こんな殿御と添い臥しの」云々という文句は「こんな殿御と妹と背の」と改めるべきだと説いておられた。
 先生はひとり左團次ばかりでなく、團十郎、菊五郎の出演にも肩を入れられた。明治二十三年に来朝して、上野公園その他で風船乗りを演じて評判になったスペンサーの妙技をそのまま舞踊に仕組んだ河竹黙阿弥の「風船乗評判高閣」を、翌二十四年一月、五代目尾上菊五郎が歌舞伎座で上演した時、先生は特に甥の今泉秀太郎氏を楽屋に入り込ませ、主役の菊五郎にほんとうの英語を教え込み、舞台でこれを喋べらせることに努力された。
 Ladies and gentlemen.
I have been up three thousand feet.
Looking down, I was pleased to see you in this Kabukiza.
Thanks you, ladies and gentlemen, with all my heart.
I thank you.
 明治二十五年三月、菊五郎と左團次が同時に大阪に乗り込み、角座と浪花座で競演することになった際、先生は、初め、左團次の依頼に応じ、大阪毎日新聞社の高木喜一郎氏(慶應義塾出身、同新聞社二代目社長)に宛てて添書を書いた。ところが、さらに菊五郎からも所望があって、断ることができず、同じく、よろしく御贔屓、御評判のほどを願う旨の一書を認めた。先生曰く、「人事多忙、役者の添書まで認めねばならぬとは、老翁、亦、困る哉」と。
 先生は、また、明治二十四年四月、團十郎が、福地桜痴の「春日局」を歌舞伎座で上演した時には、贔屓客への配り物に添える宣伝文までも書いて与えた。これには、先ず、團十郎の言葉として、「明日、私の芝居を御覧になりますなら、どうかこの包をお持ち下さいまし」と書いてある。客が「なぜ、こんなものを呉れるのか」と問うと、この包の中には「ハンカチが半ダースはいっている。今度の『春日局』には、愁嘆場があるから」と答えるのである。(略)
(『三田評論』昭和四十二年一月号)
(「福澤先生と演劇」より)