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推奨の本
≪GOLDONI/2010年4月≫

『劇場往来』 高橋誠一郎著
 青蛙房  2008年

 (略)先生の演劇論は早くから演劇人の注意を引いておったらしく、明治九年十一月に類焼した新富座が十一年六月、日本最初の額縁式洋風劇場として復活し、同七、八両日を期して、古錦絵に残っているような落成式を挙げたとき、座元十二代目守田勘弥の式辞を五代目尾上菊五郎が代読し、これに次いで、九代目市川團十郎が俳優一同を代表して式辞を朗読したのち、河竹繁俊氏著『日本演劇全史』によると、「前海軍大尉正七位当時演舌者の松洲堀龍太が羽織袴にて舞台の中央に座し」て、一文を読み上げたが、これは同年五月二十三日の三田演説会で、福沢先生の演説された内容の大意を文章にしたもので、その要旨は、古来、芝居について、賛否両様の議論が行なわれているが、悪いのは芝居そのものではなく、その関係者が下劣だったためである。須らくその向上をはかるべきである、というにあった。
 (略)先生は日本の芝居を、家族打ち揃って見物しても、顔を赤らめるようなことがなく、また学者士君子が見ても顰蹙することのないものにしようと苦心しておられた。
 やはり朝の散歩のさいであったろうか、私は、何かの話のついでに「先生は左團次がいちばんご贔屓でしょう」と申し上げると、先生は、軽くうなずいて、「なァに、別段贔屓というわけではないが、あの男が、いちばんよくこちらのいうことを聴くか……」と答えられたことが記憶に残っている。
 明治三十二年三月、左團次が三世河竹新七脚色の「蔦模様血染御書」すなわち、いわゆる「細川血達磨」を再演した時、この劇は、大川友右衛門と小姓数馬の反自然な恋愛を中心とするもので、とうてい、文明世界の舞台に上すべきものでないことを先生の機関紙『時事新報』が指摘すると、左團次は、直ぐに、小姓数馬を腰元数江に改めた。福澤先生は、左團次が、殊によく先生の意見を容れる点で、彼を愛しておられたのである。
 先生は、いかがわしい浄瑠璃や唄の文句などを、みずから訂正されたりした。「十種香」の「こんな殿御と添い臥しの」云々という文句は「こんな殿御と妹と背の」と改めるべきだと説いておられた。
 先生はひとり左團次ばかりでなく、團十郎、菊五郎の出演にも肩を入れられた。明治二十三年に来朝して、上野公園その他で風船乗りを演じて評判になったスペンサーの妙技をそのまま舞踊に仕組んだ河竹黙阿弥の「風船乗評判高閣」を、翌二十四年一月、五代目尾上菊五郎が歌舞伎座で上演した時、先生は特に甥の今泉秀太郎氏を楽屋に入り込ませ、主役の菊五郎にほんとうの英語を教え込み、舞台でこれを喋べらせることに努力された。
 Ladies and gentlemen.
I have been up three thousand feet.
Looking down, I was pleased to see you in this Kabukiza.
Thanks you, ladies and gentlemen, with all my heart.
I thank you.
 明治二十五年三月、菊五郎と左團次が同時に大阪に乗り込み、角座と浪花座で競演することになった際、先生は、初め、左團次の依頼に応じ、大阪毎日新聞社の高木喜一郎氏(慶應義塾出身、同新聞社二代目社長)に宛てて添書を書いた。ところが、さらに菊五郎からも所望があって、断ることができず、同じく、よろしく御贔屓、御評判のほどを願う旨の一書を認めた。先生曰く、「人事多忙、役者の添書まで認めねばならぬとは、老翁、亦、困る哉」と。
 先生は、また、明治二十四年四月、團十郎が、福地桜痴の「春日局」を歌舞伎座で上演した時には、贔屓客への配り物に添える宣伝文までも書いて与えた。これには、先ず、團十郎の言葉として、「明日、私の芝居を御覧になりますなら、どうかこの包をお持ち下さいまし」と書いてある。客が「なぜ、こんなものを呉れるのか」と問うと、この包の中には「ハンカチが半ダースはいっている。今度の『春日局』には、愁嘆場があるから」と答えるのである。(略)
(『三田評論』昭和四十二年一月号)
(「福澤先生と演劇」より)