2017年08月

Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

アーカイブ

« 2008年08月 | メイン | 2008年10月 »

2008年09月 アーカイブ

2008年09月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2008年9月≫

『イタリー日記』 小宮豊隆著 
角川書店 1979年

二月三日 日曜日
(略)今日はマリア・メラートがダヌンチオの「鉄」という脚本をやるが見に行かないかという。実は腹の工合がわるいのだが、とためらったが結局行くことにして、山田にうちの飯を喰わせる。こっちはコンソメとオムレツだけを喰っておく。
 マリア・メラートというのは第二のドゥーゼといわれている女優だそうである。大変に台詞がいいので評判だという。そのメラートのかかっているテアトロ・ヴァレというのはなかなか由緒のある劇場だそうで、まあ日本でいうと新富座のようなところだと山田がいっていた。小さい小屋だけれども、由緒ある小屋なので、いつでもいい役者がかかるんだそうである。
(略)ダヌンチオがこの間フューメの併合問題かなにかについて演説をした時には、レディたちがおもちゃの国旗を幾旒もダヌンチオに送ったのだそうだ。するとダヌンチオはそれをしばらくふりかざしてから、聴衆に向ってなげたのだそうだ。すると女がわれもわれもと先を争って奪い合いをしたのだそうだ。ちょっと歌舞伎の役者が、手拭いだのかんざしだのを投げるような趣がありました、と山田がいった。これなぞもやっぱりダヌンチオ一流の責め道具なんだろう。もっとも我々の考え方と西洋人の考え方とが、いろんな点でかなり違うから、こういう責めの道具も或いは有効であり、もしくは自然なものとしてうけとられるのかもしれない。それでなければトルストイのようになってしまわなければならないのかもしれない。
 しかし社交と芸術とはどうも本当は両立しないように自分には思われる。ラファエロでも、社交がなかったらもっといいものができたのじゃないか。ミケランジェロだのダ・ヴィンチだのレムブラントだのにはその芸術に煩いとなる程の社交がなかった。あってもそれをふみにじることができたのではないか。ロココの芸術やルネサンスの芸術は社交の中から生まれてきた芸術なのだろうか。それとも社交を超越していた芸術だろうか。ルネサンスの芸術をそういう方向から研究してみたらかなり面白い研究ができるかもしれない。しかしルネサンスがどうであろうと、芸術は社交と遠ざかるにしたがってその純粋性を保つことができるような気がすることは確かである。
 ( 「ローマ(二) 一九二四年二月三日」 より)

劇場へ美術館へ
≪GOLDONI/2008年9月の鑑賞予定≫

[演劇]
*2日(火)から9月20日(土)まで。      浜松町・自由劇場
劇団四季公演『トロイ戦争は起こらないだろう』
作:ジャン・ジロドゥ  訳:諏訪 正  演出:浅利 慶太
装置:金森 馨  照明:吉井 澄雄  音楽:武満 徹
劇団四季HP http://www.shiki.gr.jp/

*11日(木)から22日(月)まで。     吉祥寺・吉祥寺シアター
文学座9月アトリエの会『ミセス・サヴェッジ』
作:ジョン・パトリック  訳:安達 紫帆  演出:上村 聡史
出演:吉野 由志子  藤堂 陽子 山崎 美貴  
    斎藤 志郎  大滝 寛  中村 彰男 ほか 
[歌舞伎]            
*2日(火)から26日(金)まで。        東銀座・歌舞伎座
『秀山祭九月大歌舞伎』夜の部
「近江源氏先陣館」(盛綱陣屋)
「天衣紛上野初花」
出演:吉右衛門 富十郎 玉三郎 左團次 歌六 錦之助 ほか

*25日(木)まで。              東銀座・新橋演舞場
『新秋九月大歌舞伎』夜の部
「加賀見山旧錦絵」
「色彩間苅豆」
出演:時蔵 海老蔵 亀治郎 団蔵 ほか

[文楽]
*5日(金)から21日(日)まで。        半蔵門・国立劇場
「近頃河原の達引」
五世豊松清十郎襲名披露「口上」
「本朝廿四孝」
出演:竹本住大夫 竹本綱大夫 豊竹嶋大夫 鶴澤錦糸 
   吉田簑助 吉田文雀 桐竹紋寿 桐竹勘十郎 ほか

[音楽]
*17日(水)。             赤坂・サントリーホール
『ウィーン・フィルハーモニー ウィーク イン ジャパン2008
クレメンス・ヘルスベルク楽団長講演会(室内楽付) 』
「カラヤンとウィーン・フィル」
「ウィーン・フィルハーモニー協会創立100周年を迎えて」
講演:クレメンス・ヘルスベルク、リッカルド・ムーティ
演奏:ライナー・キュッヒル(Vn) ゲアハルト・イーベラー(Vc) ほか
          
[展覧会]
*21日(日)まで。    六本木ミッドタウン・サントリー美術館
『小袖 江戸のオートクチュール』(後期)

*10日(水)から9月23日(火)まで。     銀座・松屋8階大催場
『白洲次郎と白洲正子』展

*6日(土)から10月26日(日)まで。       丸の内・出光美術館
『近代日本の巨匠たち』
―上村松園 東山魁夷 佐伯祐三 板谷波山 富本憲吉 平櫛田中―

2008年09月16日

『劇聖・九代目市川團十郎』と『GOLDONI』開設8年   

GOLDONIは2000年9月13日に、新刊書も古書も洋書も扱う演劇専門書店として開業したが、二年ほど前からは平常の営業を止め、今は演劇関連の稀覯本探究のお手伝いだけをして、「舞台芸術図書館」作りの準備に入っている。
 今日は開設8周年のご挨拶に代え、岡本綺堂が著した『明治劇談 ランプの下にて』から、「団十郎の死」の一部を転載する。GOLDONIの開設日が、1903(明治36)年に亡くなったこの劇聖・九代目市川團十郎の正忌であることは、このブログでもホームページでも度々書いた。お手隙の折に、九代目團十郎に触れた拙文のご笑読をお願いする。

 わたしはかなり感傷的な心持で菊五郎の死を語った。さらに団十郎の死について語らなければならない。今日、歌舞伎劇の滅亡云々を説く人があるが、正しく言えば、真の歌舞伎劇なるものはこの両名優の死と共にほろびたと言ってよい。その後のものはやや一種の変体に属するかとも思われる。(略)
 いまの市村羽左衛門はそのころ市村家橘といっていたのであるが、その年の秋興行から十五代目羽左衛門を相続することになっていたので、その披露のために各新聞社の劇評記者を大森の松浅に招いた。わたしも『東京日日新聞』の劇評記者として出席することになった。
 九月十三日、その日は日曜日で、朝から秋らしい雨がしとしとと降っていた。定刻の午後五時ごろに松浅にゆき着くと、接待として市村門下の坂東あやめが待ちうけていた。あやめのことは前に書いた。わたしと前後して、各社の諸君も大抵来会したのであるが、主人側の家橘が顔をみせない。茅ヶ崎(団十郎)の容態が悪いので、朝からあっちへ見舞に行っているのですと、あやめは頻りに言い訳をしていた。
 団十郎の模様がよくないということは、これまで新聞紙上にも伝えられて、世間でもみな知っていた。わたしたちはむろん承知していた。今度こそ再び起つことは覚束ないという情報をも握っていた。それだけに今日のあやめの話がいよいよ胸にこたえて、堀越もいよいよいけないのかという嘆息まじりの会話が諸人のあいだに交換された。我々の予感が現実となって、「春日局」が遂に最後の舞台となったことなども語られた。なかには自分の社へ電話をかけて、団十郎いよいよ危篤を通知する人もあった。
 涼しいのを通り越して、薄ら寒いような雨に日は早く暮れて、午後六時ごろには大森もまったく暗くなった。フロックコートを着た家橘があわただしく二階へかけあがって来て、挨拶もそこそこに、どうも困りましたという。かれは茅ヶ崎から駈けつけて来たのであって、団十郎はきょうの午後にとうとう死んでしまったということを口早に話した。臨終の模様などを詳しく語った。我々ももう覚悟していることではあったが、今や確実の報告を聞かされて、俄かに暗い心持になった。
 家橘は改名の口上を団十郎にたのむはずであった。その矢さきに彼をうしなったので、家橘は取りわけて落胆しているらしかった。こうなった以上、なまじいの人を頼むよりも、いっそ自分ひとりで口上を言った方がよかろうと我々が教えると、どうもそうするよりほかはありますまいと本人も言っていた。なにしろ右の次第であるから、わざわざお呼び立て申して置きながら失礼御免くださいと挨拶して、家橘は降りしきる雨のなかを再び茅ヶ崎へ引返して行った。
 そのあとの座敷はいよいよ沈んで来た。団十郎が死んだと決まったので、無休刊の新聞社の人はその記事をかくために早々立去るのもあったが、わたしたちのような月曜休刊の社のものは直ぐに帰っても仕様がないのと、あやめが気の毒そうに引き止めるのとで、あとに居残って夜のふけるまで故人の噂をくりかえしていると、秋の雨はまだ降りやまないで、暗い海の音がさびしく聞こえた。その夜はまったく寂しい夜であった。団十郎は天保九年の生まれで、享年六十六歳であると聞いた。その葬式は一週間の後、青山墓地に営まれたが、この日にも雨が降った。  さきに菊五郎をうしなったことも、東京劇界の大打撃には相違なかったが、つづいて団十郎をうしなったことは、更に大いなる打撃であった。暗夜にともしびを失ったようだというのは、実にこの時の心であろうかとも思われた。今後の歌舞伎劇はどうなる――それが痛切に感じられた。(略)
 「団十郎菊五郎がいなくては、木挽町も観る気になりませんね。」
 こういう声をわたしは度々聞かされた。団菊の歿後に洪水あるべきことは何びとも予想していたのであるが、その時がいよいよ来た。興行者も俳優もギロチンにのぼせらるべき運命に囚われたかのように見えた。

2008年09月24日

「新国立劇場の開館十年を考える」(三十)
≪次期芸術監督人事について(七)≫

 「あの人は昔から人一倍プライドが高く、新聞記者など見下している。会見でも、あからさまに記者を蔑んだ物言いをするし、すぐにキレますよ」
 これは、今月の1日に突然の辞意表明をした福田康夫首相について、ある政治記者が漏らした言葉である(『週刊新潮』08.09.11 [特集]「自民党の終わりの始まり」より)。これを読んで、ある人物を思い出した。ほかでもない、新国立劇場運営財団の理事長である遠山敦子氏である。と言っても、私自身は、遠山氏とは面識もなく、オペラ公演の初日や賛助会員の観劇日に、招待客への挨拶のつもりなのか、開演前などに客席の一階中央部分の招待用の席周辺を、ゆっくりと歩きまわる老婦人として知っているだけである。彼女の顔を知らなければ、その振る舞いを見て、劇場のトップだとは思わないだろう。オペラの芸術監督である若杉弘氏が劇場客席を歩きまわる姿も、遠山氏に似てはいないが同様に異様である。
 既にこのブログ『提言と諫言』「新国立劇場の開館十年を考える」(二十七)≪次期芸術監督人事について(四)≫<「悪評交響曲」鳴り響く「新国立劇場」遠山敦子理事長>で、『週刊新潮』の記事を紹介した。出演者の相次ぐキャンセルを訝る記者に対して、<「顔を真っ赤にして怒ったり」>、同様に、劇場の芸術的水準の維持確保の姿勢を問われると、<「ふんっ、芸術ね」と吐き捨て>、<批判されることが大嫌い>で、新聞でのオペラ評が批判的だと、事務方に「こんなことを書かれて悔しくないの」と怒鳴り、「貴紙の評価は事実に反する」と抗議をさせるそうで、人を人とも思わないその言動は、この『週刊新潮』の記事が事実だとすれば、専制君主、暴君の様であって、独立行政法人の委託業務を随意契約で受け、巨額な国税が投入されていて、近いうちにはその存続すらが問われることにもなる、官僚のための公益法人の天下り渡り鳥の態度としては、いただけない。6月末以来の芸術監督就任を巡る問題での騒ぎは収束したかに見えるが、財団トップがこれだけ目立ってしまえば、次は「独立行政法人の民営化」をマニフェストに加える民主党も、「行政の無駄撲滅キャンペーン」を始めた自由民主党も、「日本芸術文化振興会の完全民営化」、そして「新国立劇場への補助金全廃」を検討することになるかもしれない。
 拙速との批判を強引に押し切り、「国立大学法人」法の成立を推進、大学の序列化、格付けに躍起となり、国立大学の命運を担うポストとなった理事、監事職に文部科学省出身者(天下り)を大量に押し込むことに成功したと言われる遠山氏だが、新国立劇場運営財団理事長に天下ってから3年半、自身の組織運営手法が、如何に稚拙であり強引であるかが露呈した。『週刊新潮』には、「とにかく私は、何らルールに反したことはしておりません」と答えた遠山氏だが、これは法令違反でなければ、トップとしては何をしてもいいのだということである。この姿勢こそが、今回の騒動の根本にある。意に沿わぬオペラ批評を書かれて、「貴紙の評価は事実に反する」と抗議させる感性、神経は、芸術創造団体のリーダーとしても、法人組織の責任者としても「不適任」であることを見事に証明している。芸術文化に造詣が深い訳でもない一介の天下り官僚に、何とも不似合い、不釣り合いなポストを与えたのは、氏の部下でもあった文部科学省の現役幹部ではあるが、そんな者でも劇場トップが務まると思わせているのが、彼らが所管する現代日本の舞台芸術界である。自助努力をせず、文化庁の事業(国税)、補助金に縋ることでしか生活が出来ない、補助金中毒患者と成り果てた者たちが集う「舞台芸術界」こそ、改革が必要であるが、これはまた別の機会に論じる。
 今回の騒動は、トップの更迭で収束すべきものと思うが、遠山批判の狼煙を上げたはずの舞台芸術界、とりわけ演劇関係者たちは、習い性となっているのか、予想通りの「腰砕け」、新シーズンには今までと同様に、新国立劇場の仕事を引き受け、或いは招待状を手に劇場に通うという情けない様を演じることだろう。そうであれば遠山氏は辞任もしないし、文部科学省も動かない。6月末からこの問題をたびたび取り上げた新聞各紙も、いまでは何事もなかったように、新国立劇場公演の紹介記事を載せている。日本の凋落は、政治や経済や行政だけが作っているのではない。芸術文化、ジャーナリズムの軟弱さ軽薄さにも因を求めることが出来よう。
 11年目のシーズンに入った新国立劇場だが、三十回まで続いたこの「新国立劇場の開館十年を考える」は、もうしばらく書き続けるつもりである。