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2021年07月31日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2021年7月》

 『喜劇の王様たち』 中原 弓彦著
 1963年 校倉書房刊
 
 益田キートン氏が名言を吐くこと
 最後の回で、初めて益田キートン氏に紹介されたが、氏はサイレント喜劇のギャグにくわしく、また、「実践」の面でも、いろいろ教えられることが多かった。
 私は、子供の頃、浅草で「あきれたボーイズ」時代の氏を見ているが、今まで一番おかしかったのは、三十二年の暮に宝塚で見た東宝ミュージカルの『忠臣蔵』である。
 キートン氏のセンスは、ドタバタではなく、ミュージカルの方にむいていると思うが、あの妙に息を抜いたようなアブノーマルな喋り方(実際もそうである)や動き方をしていながら、ピタッピタッとタイミングが合うのに感心してしまう。「年期の入った芸」というものは凄いものだと、私は感服した。
 「ギャグは一秒の何百分の一というタイミングが大事なのョ」と氏は言う。
 「ぼくらが、“あきれたボーイズ”をやってた時は、一つのギャグを幾日もかけて、練習したものです。その時ウケたギャグを、戦後、浅草でやってもダメだったそうですョ。特に映画やテレビの時は、コメディアンだけが分ってたんじゃダメです。監督が分ってなきゃアね‥‥」
 日本には良いコメディアンがいる、と私はつくづく思った。居ないのは、むしろ、作者とギャクマンと監督(ただしNTVの井原高忠氏と前記NHKの末盛憲彦氏は有能の士である)なのである。
 こう呟きながらも、キートン氏は、わずか一分ほどの芸を、五秒刻みで、練習にかかっていた。これがショウマンの精神というものである。
 (「笑いの神様たち」より)

 戦後のコメディアンの変遷をたどる時、その活躍を時代・社会情勢と結びつけて論じるほど安易なることはない。
 たとえば、トニー谷の登場を占領軍の政策と結びつけていうがごときがそれで、このようなまねは私のもっとも軽べつするところだが、といって、時代の風潮をまったく無視し得ぬことも事実なので、このへんのかねあいがむずかしいのである。
  
 空手形に終ったロッパの宣言
 敗戦の年の秋、「サンデー毎日」(だったと記憶する)に、古川ロッパが威勢のいい一文を寄せた。いままではことごとく検閲検閲でしばられたが、これからは、やりたいことをやってやるぞ! といったいった意味の文章だったと記憶する。 
 これを読んで、私は、子供心にも、ロッパというのは偉い人だ、と感久しゅうしたものである。というのは、何をかくそう、神国の敗色濃い最中、私は小学生の身でありながら、有楽座のロッパ一座の公演を、『花咲く港』から『ガラマサどん』『交換船』に至るまで、かたっぱしから見ていたからである。検閲の激しい中で、あれだけ笑わせてくれた人だ、こんどはどんなに面白い芸を見せてくれるのかしら。 
 が、ロッパのこの宣言は空手形に終ったのである。アチャラカで何メートル以上滑ってはいけない、という戦時中の規定の中であれだけ笑わせてくれた才人が、自由をとりもどしたとたん、詰らなくなった。美食からくる糖尿病その他のせいもあろうが、彼のような自由人が、自由な時代に放たれたとたん、駄目になった。
 戦時中のコメディーは、有楽座を根城とする、エノケン、ロッパ両一座に代表される。ともに最盛期は過ぎていたはずだが、菊田一夫のセンス溢れる台本により好調だった。菊田一夫というと、いまでは低俗ドラマ作者のイメージしかないが、ナンセンス喜劇の作者としての才能は、その後、類を見ない。近時、彼を罵倒するのがショウ関係の若者のあいだで流行しているようだが、苦々しい限りである。
 (「戦後コメディアンの変遷」より)

2021年05月10日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2021年5月》

『表現のビジネスーコンテント制作論』浜野 保樹著
   東京大学出版会 2003年刊
 
 コンテントと芸術

 表現活動を経済行為としてみなすことすらも拒否する傾向がある。コンテント業界でも、クリエーターという言葉とともにアーティストという言葉がよく使われるが、それは芸術家は金に無頓着であるという意識を悪用している場合が少なくない。作家が金に無頓着でいてほしいという願いと、作家をアーティストと呼ぶ回数は比例しているかもしれない。また自らをアーティストという場合は、選ばれた人間であるという特権意識を持っているときで、どちらにしても思惑がある。ときに自分の作品が「当たらなくてもいい」という作家がいるが、それは自らが芸術の世界に属していることの表明である。
 (略)もちろん、コンテント・ビジネスは芸術と産業の二面を持っている。営利目的で芸術作品が生まれるのかという問いが発せられることがあるが、コンテント・ビジネスは芸術作品を作るためのシステムではない。結果的にコンテント・ビジネスのために作られた作品が芸術作品になることがあっても、コンテント・ビジネスのシステムはアートや芸術とは根本的に異なる。コンテント・ビジネスでは、定められた予算と期間のなかで作品を制作し、適正価格が決まっていて、その範囲内で利益をあげて再生産できることをめざす。芸術には定価や利益という概念は表だっては存在しない。ウディ・アレン(Woody Allen )がいうように、多くの人間を巻き込まざるを得ない仕事は、ビジネスであることをいくら強調してもかまわない。「もしショー・ビジネスがビジネスでないとすれば、ビジネスという言葉はやめて、『ショー・ショー』と呼ぶべきだ」

 コンテント・ビジネスの特殊性

 コンテント・ビジネスは特殊性が強調されることが多く、不信感も根強い。閉鎖的で、たとえばアメリカ人でさえ映画ビジネスに「入り込むことも理解することもできない」という。
 よくいわれることはこうだ。産業の定をなしていない。千三つ、水ものの域を出ておらず、ビジネスはほとんど賭けやくじ引きに近い。会社の離散集合が頻繁に起こり、もめごとが絶えず、トラブル・メーカーばかりでビジネスをコントロールできない。確かに改善すべきことも多いが、コンテスト・ビジネスと他のビジネスとの本質的な相違への無理解からくる誤解も含まれている。
 (「第1章 コンテントのコンテンツ」より)

 
 わが国のコンテント政策

 わが国の芸術保護政策について、藤村(島崎藤村ー引用者注)はいう。
  曾て文藝委員會なるものが文部省の中に設けられたことがあつた。その趣意は國家として繪畫や音樂を保護して來たやうに文藝をも保護することにしてはどうかといふにあつたらしい。あの時に私達の胸に浮かんで來たことは、兎にも角にも明治の文學が何等の保護もなしに民間の仕事として發達して來たといふ誇りに近い氣持であつた。痩我慢ではあつたかも知れないが、私達はなまじつか保護されることよりも、先づ眞に理解され、誠意をもつて取扱はれることの方を望んだ。

 一九五七年、フランスの映画監督と結婚することになった岸恵子は、日本の仲人にあたる保証人をフランスの日本大使に依頼にいった。大使は日本を代表する女優にこういったという。「大使館というのは、日本を代表する国家機関ですよ。その日本大使が芸能人が結婚するといっていちいち立ち会っていたらどうなります。あなたは『君の名は』(一九五三年)とかいうメロドラマで人気のある人だそうですがね。だからといって大使館を利用するようなことは売名行為。私はそんな暇もないし、義理もない」。
「文明国民の恥辱」だ。かつてイギリスでビートルズに女王から勲章を与えることになったとき、イギリス中が賛否両論にわきかえったが、勲章はビートルズに与えられた。一九九九年にナイトの称号が俳優ション・コネリー(Sean Connery)に与えられた。アイルランド独立論者のコネリーでさえ、「生涯最良の栄誉」として女王から受けている。谷崎(潤一郎ー引用者注)はいう。「芸術を尊重しないのは文明国民の恥辱だという虚栄心から分かったような顔をされるのは、却って有難迷惑」。形式的に認めているふりをしていても、作家たちを傷つけるだけだ。
 (「第12章 文化の産業化」より)

2021年04月03日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2021年4月》

 『職人』 竹田米吉著
 1991年 中公文庫

  「解説 山本夏彦」
 昔は立派な顔の職人がいた。頭(かしら)と呼ばれるほどの者の風貌には威風あたりを払うものがあった。四十になったら自分の顔に責任があるというが、それは昔のことで今のことではない。ないのは昔は一人が多くを兼ねたのに、今は分業の極になったからである。会社員はその例で、したがって会社員を三十年勤めても容貌姿勢に何ものも加えない。
 俗に古武士のような風格というが、最も早くその風格を失ったのは、武士である。文武両道といって以前は二つを兼ねなければ「一介の武弁」にすぎなかったのに、明治になって腰弁になったら文武両道どころではなくなった。禄を失った武士たちは子弟を学校へあげてひたすら失地回復をはかった。大学を出れば末は博士か大臣か、十人の、百人の頭になれると商人は思わなかったが士族は思った。いまだに思っている。
 けれども当時も今もわが国の教育の根本は「脱亜入欧」である。東洋の古典を捨てて西洋の古典を学べば西洋人になれると勘ちがいして、結局何者にもなれないで今日にいたった。
 ひとり職人と芸人は時代に遅れた。徒弟制という教育が完結していたため学校教育がはいる余地がなく明治の末まで旧のままでいた。職人は一人で設計と施工を兼ね、次いでその職が世襲であること役者に似ていた。歌舞伎役者は四つ五つのときから子役として舞台に出ている。浄瑠璃、踊り、三味線、なかの一つでも出来ないということは許されない。だから戦前まで鳶の頭、歌舞伎役者には、そこにいるだけであたりを圧するものがいたのである。

ご承知の通りこの時代(大正初期ー引用者注)は伝統の木造建築が近代建築に移る激動期で、著者は始め職人としてやがて建築家として、さらに経営者としてその実際を一心に体験した人である。この職人時代を中心とした回顧録は、そのまま現代建築側面史である。 
 側面史といえば読みにくい文献のようだが、著者はもと神田の人である。威勢はよし歯切れはよし、それに何より近ごろ珍しい東京弁である。私が惚れこんだのはこの東京弁で、読んで面白いだけではない。人は何かを得れば何かを失うという。いわゆる近代化して私たちが得たものは何か。失ったものは何かを考えさせるものがここにはある。 
 本書はむかし私が手塩にかけて出版したものである。ながく絶版にしておくには惜しい本である。私はインテリがきらいだからすこし職人のひいきをしすぎる傾きがあるが、その職人も今は死にたえた。ながく記録としてとどめたくて推して中公文庫の一冊にしてもらった。(「解説 山本夏彦」より)

2021年04月02日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2021年4月》

『職人』  竹田米吉著
1958年 工作社刊

  職人の気位 
 大工にしても左官にしても、長い年季の苦労と修業を積まねば職人にはなれない。年(ねん)が明けて職人になってからも、他人の間に混って相当に揉まれなければ一人前の職人にはなれなかった。今日の、ろくな苦労もせずに金をとる職人とは大変な相違で、それだけに自尊心をもち、気位も高かった。したがって、こうした職人と日雇人夫とでは生活の程度も同日の談ではない。このことが職人の服装や食事やその他日常生活の万般にまで現われていた。

  仕事と良心
 昔の職人とは、今日の技能者の謂である。長い修業のたまものとして、素人には及びもつかない技能と、専門的知識とを身につけている。だから、そこには専門家としての誇りがあり、責任感があった。さて、現在にくらべて当時の職人は、自己の仕事にたいする自負と責任観念が桁違いにしっかりしていた。ことに、大工は建築にあたっての中心でもあり、その責任感は別して強かった。職人としてなすべき正当な仕事と、その一定量とは必ずなしとげるべきで、彼らはこれを当然のこととしてやった。腕が未熟だとか、仕事を怠けるとかは非常な恥辱とされていた。昔は今日のごとく、工事場に、建築の専門的知識のある監督がいて指揮するようなことはなく、大工の棟梁がこれにあたり、親方が得意場をしくじるとか、職人が親方の家の出入りを差し止められるようなことは重大問題であった。それだけに相手への義理、信用ということはきわめて重大視されていたのである。
 雇うほうでも、なんの落度もないのに出入りの職人を替えることは絶対になかったといっても過言ではない。請負人とその下の大工の棟梁との関係も同様で、安いからといって、昨日まで他の請負人の下で仕事をしていた棟梁を、引き抜いて使うようなことはほとんどなかった。請負人の下ではたらく棟梁でも、ある一つの請負人の大工の棟梁となることは、適当の機会と辛抱とが要るわけで、したがって、一度出入りの棟梁になれば相互に大事にしあうのであった。だから棟梁のほうでも、自己の属する請負人の仕事に対して責任を持つのが当然だった。

  姿勢
 仕事をするときの職人の姿勢もやかましくいわれた。それは職人の身だしなみであり見栄でもあったが、けっきょくは正しい姿勢が正しい仕事をするために必要不可欠なのである。つまり仕事の量と質とを確保するには、最も能率的な姿勢をとるように訓練しておくを必要とする。スポーツをやるにしても、いかに基本的な姿勢が大切であるかはよく人の知るところである。フォームの悪い人はゴルフをやっても、テニスをやっても上達できないのと理屈は同じだ。
 職人の姿勢もけっきょくは能率と危険防止という二つの観点から永い経験のもとに生み出されたもので、それがいつのまにか美感となり、仕事の上の不文律となったものであろう。今日の職人のでたらめな勝手な身構えこそ、彼らの能率低下の一因である。

  職人倫理
 いったいに良心的な職人として、一定の量と質との仕事をすることは、職人にとって至上命令であった。現在仕事が捗らなくても、恥とも思わない気風が見受けられるが、そのよってきたるところはともかく、今にして考うべき当時の職人の姿ではある。日常の暮し、仕事の姿勢などが悪いと、ひどく馬鹿にされ、卑しめられたのは、すべてこのような職業的倫理観の現われであろう。
 仕事にかかっている途中で休むことも厳禁されていた。一旦仕事に取り掛かったなら、中途で道具の手入れをすることも許されなかった。そんなことをしたら大きな恥である。だから仕事にかかる前には、入念に道具を調べて揃えておく。道具拵えのために職人は休日をとるくらいであった。仕事のときにやる道具の手入れは、大工なら鉋、鑿を砥ぐことだけである。鉋は当たりはずれもあるが、たいてい板を八枚から十枚削ると、刃がとまるからである。
 アメリカの職工は今日でも自己の労働に責任と自負とを持っているという。労働問題でアメリカの後塵を拝するのもよいが、願わくば仕事のやり方もそれを見習うがよい。そして日本の昔の姿をこの際よくよく吟味してみる必要がある。なるほど当時の生活水準は低かっただろうが、安定した経済生活、単純な社会組織の中であるがゆえに、昔の職人にはよい香りが発したのであろう。とはいえ、封建的色彩の強かった社会だけに、階級制度が敢然と確立していて、個人的能力や野心ではどうにもならない窮屈な世の中であった。しかも、彼らは自己の職業の枠内で敢然と精進し、江戸ッ子の粋とか意気とか、床しい人間味を生かしていたのであるということを今日も重視すべきではないか。

2021年03月02日

推奨の本《GOLDONI/劇場総合研究所 2021年3月》

『文楽のこころを語る』 竹本住大夫著 
2003年 文藝春秋刊

 ーお腹とイキの関係は切っても切り離せません
 私は若いころから声が悪いので、女性や子どもは苦手でしたが、そんな私に、先代の喜左衛門師匠は「鼻使え」「眉間から声出せ」と、やかましく言われました。それには、下腹と腰に力を入れて、息をいっぱい吸って、鼻の裏に抜けさせて眉間から声を出すのです。それがなかなかできまへん。理屈でわかっていても、体で覚えんとあきまへん。舞台でばばっちい声を出して、お客さんの前で恥をかきました。
 それが、いつぞやふとできるようになったんです。喜左衛門師匠が「お前、鼻使えるようなったな」と言うてくれはったときはうれしかったですね。会得したときには文字大夫になってましたから、入門して、十四、五年たったころです。
 一つ自信がつくと、また一段上へ上がれて、「先輩方が言うはったのはこのことか」と新しい発見ができるんです。先輩方は教えてくれはりますが、声出して演るのは自分ですから、自分で勉強せなあかんのです。
 私は、うちの親父さんと越路兄さんの語りをよう参考にしてました。うちの親父さんは体も小さく腹力の弱い、声も悪い人でしたが、間のええ人で、浄瑠璃がはっきりしてました。浄瑠璃がはっきりしていることは、文章や言葉がはっきりわかるということです。私も腹力が強いほうではないので、親父さんの浄瑠璃のええとこを見たり聴いたりしていました。
 越路兄さんも、先代喜左衛門師匠に永らく指導していただいておられ、三味線も弾いてもろうておられました。失礼ながら兄さんも、そないに腹の強い人やおまへん。それやのに声の遣い方がうまいお人でした。どないしたら声を出せるかと、越路兄さんの浄瑠璃はよく聴かせていただき、永年お稽古もしてもらいました。
 私が《沼津》なんか語ると、「親父さんに似てる」とか「越路さんに似てる」とかよく言われますが、若い頃から参考にしてきた先輩二人に似てると言われるのはうれしいですよ。

 ー情を伝えるのが、大夫の商売でんねん
 大夫が声を出すためには、しっかりした呼吸法を身につけないといけません。声だけに頼ってたら声帯を痛めたり、文章がはっきりしないのです。体全体でゆっくり息を吐いて吸います。おへその下あたりに意識をおいてする、いわゆる腹式呼吸の応用です。声が前に出るということは、イキが前に出てるということですね。イキさえ出ていれば、小さい声でもお客さんによく聞こえるし、浄瑠璃もはっきりします。浄瑠璃は、声やのうてイキですね。
 詞の流れのなかで微妙に表現を変えるために、「イキを止める」、「イキを詰める」という表現をしますが、吐く息吸う息が大切で、「イキを詰める」から、ここに間をあけていると自然に情が出てくるのです。
 浄瑠璃の文章と文章の間の余韻を楽しむように、詞と詞の間、イキを詰めてる間に、お客さんに情を伝えるのです。「かわいそうやな」「哀れやな」「面白いなあ」と、心に響く情を伝えていきます。情を伝えるのが、大夫の商売ですねん。

  ー電車の車掌さんがアナウンスで「とう〜きょ〜う」と歌うように言います。あれも一種の音(おん)です。
 NHKの『文楽鑑賞入門』の録音で山川静夫さんと対談してるとき、音という言葉が出てきました。私が「声を浮かす」と言いましたら、山川さんが「電車の車掌さんが「つぎは、とう〜きょ〜うとう〜きょ〜う」という、あれも音ですか」と言われたので、「そうでんねん、音です。半音高い声で歌うてるように言いまんなあ。それを『イキを浮かしている』とも言いまんねん」と説明したら、山川はんが「なるほど」と納得したはりました。 
 音を言葉で説明するのはむつかしく、結局、耳で聞き分けてもらうしかありません。「とう〜きょ〜う」と歌うようにアナウンスする、これも一種の音、音曲の音です。 
 浄瑠璃は昔から、“フシに音あり、詞に音あり”といいます。浄瑠璃は音曲なのです。
  (「コラム❹ 浄瑠璃は声やのうて、お腹とイキと音で語るもんでっせ」より)