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2007年05月 アーカイブ

2007年05月01日

推奨の本
≪GOLDONI/2007年5月≫

江藤 淳著  『西洋の影』
 1962年  新潮社刊

 だいたい、ユシェット座に行く氣になったのが全くの偶然だった。ホテルで劇場案内をもらってひろげてみると、イオネスコの芝居をやっているところがあるのが眼についたのである。前の晩は「オペラ・コミック」に行って下手なのに呆れて歸って來た。サルトルの一幕物ばかり並べている劇場もあったが、東京の新劇で觀たことのあるものばかりで、氣が進まない。どうせここまで來たのだから、イオネスコを見物してやろうという氣持になった。切符はホテルの番頭にいうとすぐとってくれる。しかし、べら棒に高くて、テアトル・フランセの一等以上である。どんなに立派な劇場でやっているのかと思ったら、あまり小さくて汚らしいので拍子抜けがして、そのとたんに急に興味が湧いて來た。
 前衛劇が、これほど生活臭の濃厚な小劇場で演じられるということは、健康な徴候である。演出家も俳優も、イオネスコでもうけようとは思っていないであろう。しかし、それで商賣をしようとは思っている。だから切符も高いのであり、高い金を出して來る客を納得させ、樂しませて歸すだけの藝の自信もあるに違いない。少くとも、この裏街の、猫の額ほどの小屋でやっていることが、日本の新劇の多くの場合にそうであるような藝術ゴッコであるわけがない。前衛であろうが後衛であろうが、役者が芝居をするときには、喰うか喰われるかの商賣でやるのである。それが觀客に理解されがたい前衛劇であればなおさらのこと、自分のやっていることは坊ちゃん嬢ちゃんのお遊びではなくて、ちゃんと賣りものになるれっきとした商賣だという心意氣が一本通っていなければなるまい。それだけの腹がなければ、この世智辛いヨーロッパで、新しい芝居などをやっていられるはずはない。逆にいえば、そういう抵抗感に支えられているからこそ、前衛作家の芝居も破壊力を發揮できるし、同時に藝術になるのである。
 (中略)出し物は二つで、最初に「禿げた女歌手」というのを演った。ニ、三年前から「三田文學」や新劇雑誌に反戯曲(アンチ・テアトル)というものの紹介や翻譯が載りはじめているのは知っていたが、難解な解説を讀みかけても何のことかさっぱりイメージが湧いて來ないので途中でやめてしまった。だいたい、テアトルもまともに出來ていない日本の新劇で、アンチ・テアトルもへったくれもあるものかと向っ腹を立ててしまったから、イオネスコの戯曲の一つも讀んだことがなく、したがって豫備知識は皆無である。だが、豫備知識のいるような前衛劇が此の世にあるだろうか? 日本の新劇人は、前衛劇を觀て何かを感じる前に前衛劇についての豫備知識をいっぱい頭につめこんでしまう。新劇人だけではない。日本の新進小説家も同じことで、外國の新小説を讀んで何かを感じる前に外國の新小説についての新知識で頭を埋めてしまうのだとすれば、こういうふうなかたちで何でもわかってしまうことが果して幸福なことなのかどうかはわからない。
(「パリで觀たイオネスコ」より)
 

2007年05月07日

左團次の第二次自由劇場旗挙宣言(一)

 ―市川左団次、自由劇場の旗挙げきまると、この日の都新聞は次のように報じている。
「やるゾといふ気構えだけで劇壇に大きな波紋を描いた左団次の自由劇場は、昨年十二月各方面に挨拶状を送った切り鳴りを鎮め、大江主事以下、伊藤熹朔、田島淳、小出英男、本庄桂輔の諸氏が一切を委せられ、裏に廻って着々準備を進めていたが、最高諮問機関として、顧問に島崎藤村、菊池寛両氏の就任方を頼んだところ、両氏ともに快諾、出来得る限り援助するという返事を得、之に力を得て自由劇場は急速に具体化し、いよいよ新秋十月末、東劇で再建の旗挙公演を行える見通しがつくところまで漕ぎつけた。自由劇場は演劇文化のためにつくすことを建前に、左団次が私財を投出して一切の費用を負担しようとするもので、俳優は脚本を第一義とするため、演出者の希望によって、歌舞伎畑ばかりでなく、広く新派、新劇の中からも選ぼうという方針、その手始めに作品の提供を岸田国士氏の劇作一派、村山知義、三好十郎、久板栄二郎、久保栄、真船豊に当ったところ、村山、三好の両氏が承諾、六月一杯には時代物の脚本を書き上げることを約束、真船豊氏も現代物五幕を執筆中で、これは今月中に完成するので、この三つの中から選び大体時代物、現代物二本立となる予定である。―

 倉林誠一郎著の『新劇年代記』<戦中編>からの引用である。
 岸田國士、岩田豊雄、久保田万太郎の三人が文学座を創立する直前の1937(昭和12)年5月7日、二代目市川左団次は、正式に第二次の自由劇場の旗挙げを宣言した。しかし、左団次は、その二ヶ月後の7月7日に起こった中国・盧溝橋事件を発端とする日中戦争に配慮して旗挙げを取り止め、また不運にも病を得、1940(昭和15)年2月23日に病没する。この年の都新聞の「演劇回顧」には、「左団次の自由劇場は今年一番の期待されてゐた」が、「無期延期となったことは,沈滞の歌舞伎に活を入れるものと期待されてゐただけに拍子抜け」とある。短い文節で、二度も「期待」と書かざるを得なかったほど、筆者の、あるいは当時の劇壇の「期待」は大きなものだったのだろう。
 一昨年の6月20日にこのブログ『提言と諌言』で始めた「閲覧用書棚の本」では、その第一回に『左團次藝談』を取り上げている。ご笑読をお願いする。
http://goldoni.org/2005/06/post_96.html

 二代目市川左団次が第二次自由劇場の旗挙げを宣言した1937年5月7日は、70年前の今日である。左団次の幻に終った宣言に思いを寄せたい。
 私にとっては最も大切な、『七十年』である。

2007年05月14日

左團次の第二次自由劇場旗挙宣言(二)

 二代目市川左団次は「自由劇場再建の夢」果たせぬままに、1940(昭和15)年2月23日に病没する。享年五十九。最後の舞台は、同年2月の新橋演舞場での『対面』の工藤、『修禪寺物語』の夜叉王。舞台との永久の別れは中日を過ぎた14日に訪れた。「幾たび打直してもこの面に、死相のありありと見えたるは、われ拙なきにあらず、鈍きにあらず、源氏の将軍頼家卿がかく相成るべき御運とは、今といふ今、はじめて覚った。神ならでは知ろしめされぬ人の運命、まずわが作にあらわれしは、自然の感応、自然の妙、技芸神に入るとはこの事よ。伊豆の夜叉王、われながら天晴れ天下一ぢやなう」。前年3月に亡くなった岡本綺堂の『修禪寺物語』の名台詞だが、左団次の死は、まさに「われながら天晴れ天下一」の俳優のそれであった。
 4月10日の四十九日法要の折、故人の遺志として、前進座、新劇団体にそれぞれ千円が寄贈されたという。因みに、当時の新協劇団、新築地劇団の二大劇団、北村喜八らの芸術小劇場の築地小劇場での公演の入場料は、凡そ二円前後。飛行館で試演会を続けていた文学座の入場料は一円二十銭前後である。この新劇団体宛ての千円は、前年11月に改築された築地小劇場の照明機材を補充する費用に充てられたという。
 新協劇団は「日本の新劇に最初の鍬を入れた」(都新聞)故・左団次を追悼して、この年の5月10日から「自由劇場回想公演」を実施、二日の日延べもあり34日間の長期興行となった。演目は前半が有楽座での自由劇場第二回試演に上演された『出発前半時間』(作・フランク・ヴェデキント、訳・森鴎外、演出・松尾哲次)、第二次自由劇場のために真船豊が書き下した『遁走譜』(演出・千田是也)。後半は1910(明治43)年12月に自由劇場公演として小山内薫の演出、(市川左団次のペペル、市川猿之助のクレーシチ、市川寿美蔵のサチン、市川荒次郎の男爵)で初演され、その後は「新劇十八番もの」といわれた、マキシム・ゴーリキーの『どん底』(訳・小山内薫)を上演した。演出・村山知義、装置・伊藤熹朔、照明・穴沢喜美男、舞台監督・水品春樹。配役は、滝沢修のルカ、宇野重吉のペペル、千田是也のサチン、小沢栄(太郎)のコスチリョフ、細川ちか子のワシリーサなどであった。 
 千田是也著『もうひとつの新劇史』(筑摩書房刊)には、演目選定の経緯が記されている。

 ―はじめはまた『どん底』をという話だったが、記念公演というといつも『どん底』が出てくるのはいかにも曲がなさすぎるし、一九三七年の五月の自由劇場の再建声明のさい左団次が真船豊氏に委嘱した『遁走譜』をその遺志を受継ぐかたちで上演したらどうかと私が提案したのがそもそものきっかけであった。それでも当ること間違いなしの『どん底』はそのままのこすことになり、(略)そのあげく『遁走譜』の演出は、言い出しっぺの私が受け持つことになり、ついでに『どん底』のサチンの役も引きうけ、今度は演出者の村山君のきつい御注文で、新築地でやったニヒリスト・アナーキスト的なサチンでなく、大いに人道主義的なサチンを相つとめることになった。―

 この新協劇団の左団次追悼公演が好評のうちに終った翌7月、新築地劇団は『第二の人生』(里村欣三作、八田元夫演出)を上演した。両劇団のこの5月から7月に掛けての公演が、ともに両劇団にとっての、そして築地小劇場にとっての最後の本公演となった。警視庁による両劇団に対する弾圧と、それに続く劇団の解散がその由である。左団次の死の半年後の1940(昭和15)年の夏は、左団次の望んだ新劇団の活躍が潰えた時でもある。
 2月の二代目市川左団次の死に始まり、8月の二大劇団の強制的な解散、11月の築地小劇場の国民小劇場への改称という、それぞれの終焉を迎えた1940年は、「新劇」の大きな転換点を迎えた時として記憶されるべきだろう。
 この年の10月19日、文学座の監事だった岸田國士が大政翼賛会の文化部長に就任。「新劇」の砦、象徴でもあった築地小劇場が「国民小劇場」に姿を変えた直後の12月、劇団文学座はマルセル・パニョル作『ファニー』を引提げて、新協、新築地という「主を失なった」国民小劇場に初進出した。
 「存在せずして存在する處の劇場」(左団次)を志向した明治末の自由劇場、「理想的小劇場の設立」(小山内薫)を掲げて誕生した大正末の築地小劇場という日本新劇の本流は消滅し、以来、時局に適合し、或いは迎合する戦中「新劇」という支流だけが残った、と言えば言い過ぎだろうか。
 

2007年05月22日

ひと場面・ひと台詞
≪―5月の舞台から―『解ってたまるか!』≫

  そこへ明石が戸口に現れる。村木、ライフルを構へる。
明石  待つて下さい。先生、村木先生。中央の明石助三郎、後生一生のお願ひがあつて参上致しました!
村木  何だ、言へ!
明石  申上げます、その前に銃を降して下さい!
村木  助さんよ、興奮するな、俺は冷静だ、狙つてゐるのはお前さんの膝小僧だ、安心しろ、撃つた處で命に別條は無い。
明石  でも、撃たないで下さい…、へへへ、膝も身の内でして…。
村木  黙れ、俺には冗談さへ言つてゐれば機嫌が良いと思つたら大間違ひだぞ、俺は斑氣だからな…、さ、願ひの筋を言へ!
明石  では、率直に申上げます…、先刻、一般記者會見の席上では默つてをりましたが、吾が中央新聞は、御承知の様に、東大名譽教授大口叩先生が知識階級の讀むべき日本最高の新聞として全國の學生に推奬した最も進歩的な新聞でありまして、社會の進歩と改善の爲、少數の優れた頭腦に訴へる様、常々紙面の構成に絶大の注意を拂つてをり、發行部數も優に五百萬を越えるほど大衆の支持があり…。
結城  それは矛盾してゐるではありませんか、少數の知識階級の爲の新聞が多數の大衆から支持されるなどといふ、そんな馬鹿な…。
村木  口出しするな、ユダ…、今、助さんの言つた事は少しも矛盾はしてゐない、大衆には知識階級の模倣をしようといふ心理が絶えず働いてゐる…、手取り早く言へば、自分が知識階級であると思はれたいといふ欲望を内に潜めてゐるのが大衆であり、またさういふ欲望を持つた大衆を知識階級と呼ぶのだ…、ユダ、お前さんは能く矛盾、矛盾と言ふが、矛盾こそ人間存在の原理そのものなのだ、矛盾が厭なら人間を廢業するしか無い、解つたな…、で、助さん、新聞週間みたいなPRはそれ位にして、肝腎の用件を聽かせて貰はうか。
明石  は、實はさういふ他紙とは各段の差を持つた權威ある吾が中央新聞を通じて、全學連と文化人グループとの代表が私に村木先生との會見を求めて來てをりますので…。
村木  ブンカジン…、何だ、それは?
明石  文化人ですよ、進歩的な…。
村木  だから、何だと言つてゐるのだ、そのブンカジンといふのは…、日本人か?
明石  これは驚きましたな…、文化人とは…、文は文福茶釜の文、化は化物の化け、人非人の人ですよ、謂はば現代日本人の知的指導者、オピニオン・リーダーです。

『解つてたまるか! 億萬長者夫人』福田恆存著 昭和43(1968)年 新潮社刊より

劇団四季公演『解ってたまるか!』 作・福田恆存 演出・浅利慶太
詳細:劇団四季HP http://www.shiki.gr.jp/ 
平成19(2007)年5月22日~6月21日 浜松町・自由劇場 
配役:村木明男(ライフル魔)=加藤 敬二

初演 昭和43(1968)年6月 日比谷・日生劇場
    劇団四季公演               
    配役:村木明男(ライフル魔)=日下 武史


2007年05月24日

劇団文学座の七十年(四)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『岸田國士』(一)≫

 「一九三八年四月の国家総動員法の公布につづいて、その八月六日の朝日新聞には、内務省が「演劇映画等の大衆娯楽を戦時体制下に順応せしめるためばかりでなく、更に進んで演劇映画にたいする国家百年の計を樹立すべく」「演劇にたいしても単なる興行統制から一歩進んで完全なる<演劇統制>を施行すべく目下草案を練って居る」こと、ただし、「これは、急進的な手段によらず、業者との懇談協調主義の下に、現在の組織を基本にして、自然に転回させて行く考えである」ことが報道された。 
 日本の政府が、これまで治安維持や徴税の対象にしかしていなかった演劇をはじめて全面的にとりあげ、国としての演劇政策をうちたてよう、しかもその方法は、<一方的な>措置によらず、充分その道の専門家と研究を重ねたうえで最も妥当な道を取るというのである。したがって大方の演劇学者や作家や劇場人がそれに飛びついたのは無理もない。 
 さっそくその二十六日には、長谷川伸、飯塚友一郎の両氏のやっていた<七日会>の提案で十七人の劇作家、演劇評論家、学者によって、日本精神に立脚した<国民演劇聯盟>の結成準備会が麹町内幸町の大阪ビル二階の<日本文化中央連盟>の事務所で開かれ、これには新築地の文芸顧問団に属していた佐々木孝丸、三好十郎の両君もはじめから名を連ねていた。そのせいか、新築地にも招請があり、うっかり断ったら後がうるさかろうと、その何回目かの会合に、私も出かけていった。 
 もうひとつの締めつけは、裁判所のほうから来た。治安維持法違反で執行猶予になった者、出獄した者、仮出獄中の者を、保護観察審査会の決議によって、二年間(更新できる)、保護司の観察下に置くという法律ができたのはかなりまえ、一九三六年の五月のことで、はじめは治安維持法にひっかかったことのある劇団員しかその対象にはならなかった。
 ところが、比較的そういう劇団員の多かった新協が<人民戦線>派の検挙以後、保護観察所を通じて警視庁の了解を得ようとしたのがきっかけで、保護観察所とのあいだに劇団ぐるみの関係が生じてしまった。おかげで新築地もいつの間にかそれに巻きこまれ、劇団の公演毎に保護観察所の保護司を招待し、その意見をきいたり、その斡旋で内務省の警保局や警視庁、さらに軍の情報部の連中などと懇談したりせざるをえないようになっていった。
 (略)この保護観察所の斡旋で、私たちは『土』の公演が終るとすぐ、文学座、新協と組んで、内務省、警視庁、陸軍情報局、などのお役人を築地の宮川に招待して、演劇統制問題について懇談し、劇団側からは新劇の現状の報告、時局下の新劇団の方針とくに上演脚本の選び方、<演劇法>についての新劇団側の希望などを述べ、関係官庁の意見をきいた。」

 千田是也著『もうひとつの新劇史』(筑摩書房、1975年)のⅨ章「隠れ蓑をきたリアリズム(1935~1941)」にある<演劇統制>からの採取である。
 後段にある、新劇団と関係官庁との懇談は、1939(昭和14)年1月26日に開かれている。この懇談は、倉林誠一郎著『新劇年代記 戦中編』にも、『月刊新協劇団』51号を引用して取り上げられているが、新協の機関誌だけに、千田が書いているようには、保護観察所の斡旋であることも、また、劇団側の招待であるようにも記されていない。
また、三劇団側の出席者については、千田是也も言及していないが、この『月刊新協劇団』にも記載がないようだ。『文学座五十年史』にも、文学座創立直後に入団した劇団代表の戌井市郎氏の著書『芝居の道-文学座とともに六十年』(芸団協出版部、1999年)にも、この「懇談」については触れられていない。
 統制側の官吏や軍人と頻繁に会合を持っていることは、村山知義らの新協劇団にとっては千田是也等の新築地劇団同様に、組織維持を含めて、観客・支援者に対しても知られたくない事実だろう。この短信からも、不利と思える情報を極力省略して伝えようとの新協劇団の意図は明らかだが、一方の文学座及びその関係者にとっては、この「懇談」について事実を知らないか、知っていたにしても、『座史』に記載するほどの出来事とは認識しなかったのだろう。この「懇談」への文学座側の出席者については、今はまだ調べが足りずに不明だが、岩田、岸田、久保田の三幹事のうちの誰かは出席しているだろう。
 1939(昭和14)年1月26日のこの「懇談」で、内務省、警視庁、陸軍情報局、保護観察所等の官吏、軍人と、新劇団側幹部との間で語られた『演劇法』とは、「演劇統制」とは何であろうか。
 既に記したことだが、新協劇団、新築地劇団に対する弾圧、一斉検挙、両劇団の解散は、この一年半後の40(昭和15)年8月のことである。満州國政府の招聘で満州視察旅行から戻ったばかりの文学座監事(幹事)の岸田國士が大政翼賛会文化部長に就任するのは、この年の10月、文学座が新協、新築地の両劇団の本拠地だった築地小劇場に初めて進出するのは、国家権力に諂って左翼イメージの付いた「築地小劇場」という劇場名を、「国民新劇場」に変えた直後の40年12月のことである。