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劇団文学座の七十年(四)
≪『演劇統制』下の『文学座』と『岸田國士』(一)≫

 「一九三八年四月の国家総動員法の公布につづいて、その八月六日の朝日新聞には、内務省が「演劇映画等の大衆娯楽を戦時体制下に順応せしめるためばかりでなく、更に進んで演劇映画にたいする国家百年の計を樹立すべく」「演劇にたいしても単なる興行統制から一歩進んで完全なる<演劇統制>を施行すべく目下草案を練って居る」こと、ただし、「これは、急進的な手段によらず、業者との懇談協調主義の下に、現在の組織を基本にして、自然に転回させて行く考えである」ことが報道された。 
 日本の政府が、これまで治安維持や徴税の対象にしかしていなかった演劇をはじめて全面的にとりあげ、国としての演劇政策をうちたてよう、しかもその方法は、<一方的な>措置によらず、充分その道の専門家と研究を重ねたうえで最も妥当な道を取るというのである。したがって大方の演劇学者や作家や劇場人がそれに飛びついたのは無理もない。 
 さっそくその二十六日には、長谷川伸、飯塚友一郎の両氏のやっていた<七日会>の提案で十七人の劇作家、演劇評論家、学者によって、日本精神に立脚した<国民演劇聯盟>の結成準備会が麹町内幸町の大阪ビル二階の<日本文化中央連盟>の事務所で開かれ、これには新築地の文芸顧問団に属していた佐々木孝丸、三好十郎の両君もはじめから名を連ねていた。そのせいか、新築地にも招請があり、うっかり断ったら後がうるさかろうと、その何回目かの会合に、私も出かけていった。 
 もうひとつの締めつけは、裁判所のほうから来た。治安維持法違反で執行猶予になった者、出獄した者、仮出獄中の者を、保護観察審査会の決議によって、二年間(更新できる)、保護司の観察下に置くという法律ができたのはかなりまえ、一九三六年の五月のことで、はじめは治安維持法にひっかかったことのある劇団員しかその対象にはならなかった。
 ところが、比較的そういう劇団員の多かった新協が<人民戦線>派の検挙以後、保護観察所を通じて警視庁の了解を得ようとしたのがきっかけで、保護観察所とのあいだに劇団ぐるみの関係が生じてしまった。おかげで新築地もいつの間にかそれに巻きこまれ、劇団の公演毎に保護観察所の保護司を招待し、その意見をきいたり、その斡旋で内務省の警保局や警視庁、さらに軍の情報部の連中などと懇談したりせざるをえないようになっていった。
 (略)この保護観察所の斡旋で、私たちは『土』の公演が終るとすぐ、文学座、新協と組んで、内務省、警視庁、陸軍情報局、などのお役人を築地の宮川に招待して、演劇統制問題について懇談し、劇団側からは新劇の現状の報告、時局下の新劇団の方針とくに上演脚本の選び方、<演劇法>についての新劇団側の希望などを述べ、関係官庁の意見をきいた。」

 千田是也著『もうひとつの新劇史』(筑摩書房、1975年)のⅨ章「隠れ蓑をきたリアリズム(1935~1941)」にある<演劇統制>からの採取である。
 後段にある、新劇団と関係官庁との懇談は、1939(昭和14)年1月26日に開かれている。この懇談は、倉林誠一郎著『新劇年代記 戦中編』にも、『月刊新協劇団』51号を引用して取り上げられているが、新協の機関誌だけに、千田が書いているようには、保護観察所の斡旋であることも、また、劇団側の招待であるようにも記されていない。
また、三劇団側の出席者については、千田是也も言及していないが、この『月刊新協劇団』にも記載がないようだ。『文学座五十年史』にも、文学座創立直後に入団した劇団代表の戌井市郎氏の著書『芝居の道-文学座とともに六十年』(芸団協出版部、1999年)にも、この「懇談」については触れられていない。
 統制側の官吏や軍人と頻繁に会合を持っていることは、村山知義らの新協劇団にとっては千田是也等の新築地劇団同様に、組織維持を含めて、観客・支援者に対しても知られたくない事実だろう。この短信からも、不利と思える情報を極力省略して伝えようとの新協劇団の意図は明らかだが、一方の文学座及びその関係者にとっては、この「懇談」について事実を知らないか、知っていたにしても、『座史』に記載するほどの出来事とは認識しなかったのだろう。この「懇談」への文学座側の出席者については、今はまだ調べが足りずに不明だが、岩田、岸田、久保田の三幹事のうちの誰かは出席しているだろう。
 1939(昭和14)年1月26日のこの「懇談」で、内務省、警視庁、陸軍情報局、保護観察所等の官吏、軍人と、新劇団側幹部との間で語られた『演劇法』とは、「演劇統制」とは何であろうか。
 既に記したことだが、新協劇団、新築地劇団に対する弾圧、一斉検挙、両劇団の解散は、この一年半後の40(昭和15)年8月のことである。満州國政府の招聘で満州視察旅行から戻ったばかりの文学座監事(幹事)の岸田國士が大政翼賛会文化部長に就任するのは、この年の10月、文学座が新協、新築地の両劇団の本拠地だった築地小劇場に初めて進出するのは、国家権力に諂って左翼イメージの付いた「築地小劇場」という劇場名を、「国民新劇場」に変えた直後の40年12月のことである。